演奏会報告3
実演での伊福部22
アイヌ音楽と伊福部昭 2024.6.3 札幌市民交流プラザ SCARTSコート
ピアノ:江原千咲子
アイヌ音楽:スズサップ良子 他
伊福部昭:ピアノ組曲 シンフォニア・タプカーラ(ピアノ独奏版:初演/編曲:田中修一) 第1楽章
早坂文雄:君子の庵、エヴォカシオン II
他、伝統アイヌ歌唱、アイヌ舞踊、ムックリ演奏
SNSで交流があり、同人誌「伊福部ファン」第5号寄稿記事「リズムを動かす人たち」でインタビューをお願いした江原千咲子さんが札幌で演奏を行うというので、駆けつけた次第。
演奏は、伊福部と早坂の初期ピアノ独奏曲と、田中修一編によるシンフォニア・タプカーラピアノ独奏版より第1楽章(初演)である。
ピアノ組曲は、全曲を実演で聴くのは初めて。まず盆踊り。江原の演奏は、思うところあって自身がドライに攻めたというもので(下記リンク先の映像内の解説参照)、わりと早めのテンポと、硬質なタッチが魅力。楽想が変わる際に、一瞬のGPが入るのも面白い。これは、GPというより奏者のブレスなのだろうが。
同じ夏祭りでも、札幌の(本州に比べて)冷え冷えとした夏を感じたという江原の演奏は、続く七夕ではよりクールなタッチとなる。旋律のルーツが「ローソクだーせーだーせーよー」の七夕の唄にあるのでは……という解釈には、へへえ、と思った。言われてみれば、そうかも? 演奏は一転して遅めのテンポで、じっくりと音を愛しむ。
演伶では、津軽じょんがら節にまでルーツを求めた斬新な解釈が、冒頭とラストの遅めのテンポと、中間部の自身でも驚いたという高速テンポのコントラストを彩っている。だいたい、現代では飲み屋街でギターや、まして三味線を抱えた「流し」など絶滅しており、我々はその情景を見ることができない。いくら伊福部が情景の作曲家だとしても、完全に過去の世界の情景であるため、現代のピアニストがどう解釈してどう演奏するかというのは、難しい。江原は急激なテンポ変化と、旋律の元ネタを想像して、情景の奥にあるどろっとした闇を引き出した。
青森には高名なもので青森の「ねぶた(NEBUTA)」と弘前の「ねぷた(NEPUTA)」があり、微妙に違う。佞武多は、「ねぷた」で、なんにせよ七夕の祭りである。江原の解釈は、ここでも斬新だ。なんと、この佞武多に後年の伊福部マーチの原点を見て、重厚だがどこか哀愁のある響きに徹している。ラストの突進力は、特に迫力がある。
続けて早坂の初期の秘曲。伊福部ページだが、せっかくなので早坂も。
君子の庵もエヴォカシオンIIも、2024年6月執筆現在で未収録作品ということで、初鑑賞だった。君子の庵は伊福部のピアノ組曲に匹敵する最初期の曲で、小節線がなく、かなり現代的なタッチで描かれているのだが、好きだったドビュッシーの影響が濃いものの、けっこう面白い響きをしている。江原の解釈では、君子の庵には北海道のウグイスやタンチョウのイメージが織りこまれており、その意味でメシアンっぽい響きもあるのだが、日本でメシアンが本格的に紹介されたのは戦後であるとのことで、それは偶然だろう。
ここでも、江原の硬質なタッチが光り、早坂の一部のオーケストラ曲に決定的に欠けている構築性をこの最初期のピアノ曲から引き出しているのがうれしい。どうも、この手の非形式的で印象主義的な曲は、勘違いしたソフトタッチでただ官能的に弾けばいいという嫌いがある。そうではない。カッチリと全体の構造を際立たせて演奏しないと、茫洋とした音の塊みたいになって、曲(音楽)じゃなくなってしまう。江原は硬いタッチで、早坂の隠された形式感や構築性を素晴らしくあぶりだす。
アンコールの七人の侍も秀逸。侍のテーマは、早坂のボツ旋律を黒澤が気に入って採用したという俗説があるが、早坂はこの秀逸なテーマの何が気に入らなかったのか、ちょっと不思議な俗説だ。
そして大本命が、伊福部門下である田中修一編曲によるシンフォニア・タプカーラピアノ独奏版。時間の関係で第1楽章のみの披露となったが、これが素晴らしい! 超絶大熱演。熱演過ぎてコーダのほうが崩れかけたが、そんなのはもう問題ではないほどの熱演。
と、リンク先の動画では、まず先んじて行われたスズサップ良子によるアイヌの伝統歌唱も公開されているので、せっかくなので小文を。
この方たちは、アーティストでありつつ、いわゆる伝統文化保存会の方々で、日本文化でいう御神楽保存会とか、ナントカ踊り保存会とか、ナントカ節保存団体とか、そういうのと同列であり、幼少期の伊福部がじっさいに見聴きしていた昔のアイヌの人たちのリアルな生活の中で即興で歌われ、踊られていたものとは少し異なる。その意味で、日本の伝統民謡がもう我々の実生活で使われていないのと同様に、現在のアイヌ(系日本人)の人たちも、普段から実生活の中で即興で歌ったり踊ったりしているわけではない。
伊福部は、民謡を海藻に例え、海藻は海の中では生き生きとして波に揺れているが、陸に上げてしまうとクタッとして干からびて死んでしまうのと同様に、民謡は実生活の中で即興的に生きて歌われているのが本当で、陸(ステージのこと)に上げると死んでしまう……という趣旨のことを言っていたそうである。すなわち、保存会で保存されている民謡は、まさに標本として保存されているにすぎないのだ。
とはいえ、保存しないと消失してしまうものだし、実際に聴いてみて、雰囲気は良く伝わるだろう。実に素朴な音遣いと不思議なリズムが残っており、江原の解説の通り、伊福部や早坂の不思議な音の運び方と通じるものがある。
さて、当日のメイン、シンフォニア・タプカーラピアノ独奏版の第1楽章。
まず、田中の編曲がうまい。変に自己を出すのではなく、素直にオーケストラを意識して音を紡いだそうだが、伊福部ファンとしてはそれがうれしい。まさに、それでいいんだよそれで! といったかんじだ。
冒頭から魂のこもった憑依型の演奏で、音楽と一体化している迫力がある。主部アレグロも、ふだんより伊福部マーチを演奏しまくっている江原の自家薬籠中。伊福部ファンでもある江原は、強調しなくてはいけない旋律や和声やリズムを完全に我がものとしており、心より安心して聴ける。これが、ただ仕事で弾きました〜〜みたいな指揮や演奏だと、とたんに伊福部音楽はトンチンカンなことになってしまうし、本当にそうなってしまっているCDもある。
中間の緩徐部(展開部)は、第2楽章を彷彿とさせる広がりを見せ、雄大で広大無辺な大地や湿原を思わせる響きを出すのに成功している。再現部からコーダにかけての迫力は、当日の白眉であった。もう運指が崩れかけるギリギリを攻めていたが、聴いていてハラハラしたのも事実で、それを計算し冷静かつ完璧なタッチでやれると、もっと凄味が出るだろう。これは、正確さの凄味というやつで、おとなしく繊細にやれとか、安全運転しろとか、そういう意味ではない。巨大な戦艦が正確無比の運動をするかの如く、この速度や迫力でさらにタッチを極めたら、江原は伝説の伊福部弾きになる。かもしれない。
これはもう当然、ピアノ独奏版で全楽章を聴いてみたいが、このノリで全てを弾いたら、終わったとたんに江原はその場で気絶してしまうのではないか。力の配分を考えて弾くのか、江原がトライアスロンを完走できるほどの体力をつければ良いのか、手をサイボーグ並に鍛えるのか、どうすればよいのかわからないが、とにかく第3楽章の途中でガス欠……という事態だけが心配で、それだけが懸念として残った。が、それは、全楽章を弾く機会ができたときに考えていただくとして、とにかく、そんなよけいなお世話の心配が出るほどの超絶的大大大大熱演であった。ブラボー。
なお、江原は自身のYouTubeチャンネルを持っており、常より伊福部や早坂の演奏、または練習風景を公開している。今回の演奏ツアーも一連の動画がUPされているので、ぜひご鑑賞いただきたい。
『いざ札幌!「アイヌ音楽と伊福部昭」演奏会舞台裏編』
《ピアノ》演奏会『アイヌ音楽と伊福部昭』「ピアノ組曲」編
《ピアノ》演奏会『アイヌ音楽と伊福部昭』「早坂文雄」編
《ピアノ》演奏会『アイヌ音楽と伊福部昭』「シンフォニア・タプカーラ」編
資料21
実演での伊福部21
札幌交響楽団第642回定期演奏会 2022.1.30 札幌コンサートホールキタラ
指揮:ユベール・スダーン
演奏:札幌交響楽団
ヴァイオリン:山根一仁
札響定期で、ヴァイオリンと管絃楽のための協奏風狂詩曲。札響定期では初演だという。伊福部は2014年の生誕100年特集以来、実に8年ぶりである。本来は主席指揮者のマティアス・バーメルトの指揮であったが、コロナ禍により来日がかなわず、既に来日中だったスダーンに変更となった。バーメルトの伊福部を非常に期待していたが、結果としてスダーンの代役も素晴らしい演奏となった。
まず思ったのが、やっぱり外国人の演奏する伊福部は面白い、変わっているということである。楽譜の見方というか、聴き方、感じ方が異なるようだ。
また、スダーンにとっても当然初めて聴く曲、初めて観るスコアであり、まず堅実に、確実に拍子をとり、音を鳴らすという指揮だった。その中でも、スダーン流の完成の仕方を仕上げてきたのが印象的だった。
逆に、当曲に慣れている山根の自由なヴァイオリン遣い、音遣いが、これもまた印象的。実に延び延びと旋律を放ち、北海道の広大な風土を表現しているかのようだった。
オケも札響らしい透明感の中にも土俗さを失わず、急な指揮者交代の余波か、ところどころ齟齬もあったが全体として好印象。
スコア通りの編成で、1曲目(ベルリオーズ『劇的交響曲「ロメオとジュリエット」から「愛の場面」』)が終わると同時に何人かの絃が退場。2管ながら、室内楽に近い形態となる。音響の良いホールだから、各楽器が際立ち、音が放たれると同時に溶け合って混然となる。
面白いのは、日本人指揮者ではあまり鳴らさないパートを、スダーンがわざわざ指示してまでクッキリと鳴らす場面が多々あったこと。スダーンの耳には、そこが主旋律もしくは、主役に聴こえるのだろう。これは、ナクソスレーベルの伊福部にも聴こえた現象だ。
目立ったのが(たしか)1楽章途中のホルン。スダーンが顔を向け、左手で出を指示してまで強調される部分があったし、なにより驚いたのが2楽章冒頭のティンパニソロである。既存のCDなどでは、ピアノで(スコア指示もピアノか?)トントントントン、トトトト、トン……と遠慮がちに鳴らされるのが常だが、最初こそピアノなものの、次第に音量が上がり、ついにはフォルテとなって会場にデンドンデンドン、デドデドと轟き、タムタム連打と共に、一気に曲が始まった。
これは、打楽器(ティンパニ)をソロを伴奏ではなく主旋律として判断した証左だと思う。じっさい当該ティンパニのソロは、協奏風交響曲第3楽章のバーバリィなピアノソロと共通の旋律であり、フレージングが存在する。
あと、ハープが良く鳴っていたのも印象的だった。伊福部はハープが好きで、録音の調整時にはハープだけ音量を上げるようにエンジニアへ指示していたほどだったというから、もし伊福部がこの演奏を聴いていたら、喜んだのではないか。スダーンがそんな伊福部のエピソードを知るはずもなく、やはり、ちゃんとハープが聴こえるべき、と判断した結果だろうし、そういうふうに書かれた曲だと考えられる。
当曲は意外に実演で聴く機会のない曲であり、わざわざ東京から遠征組が来ていたほどであり、私に負けず劣らずのディープな伊福部ファン連が軒並み褒めていたので、とにかく素晴らしい演奏だったのは間違いない。
資料20
実演での伊福部20
伊福部昭の世界2019 2019年2月10日 札幌中島公園内 豊平館
ヴァイオリン:大平まゆみ
ピアノ:佐藤勝重
編曲:田中修一
トークゲスト:伊福部玲
バッハ:無伴奏ヴァイオリン パルティータ第3番より 1.プレリュード 3.ガヴォットとロンド 7.ジーグ
大平まゆみ×伊福部玲 スペシャル対談
伊福部昭:土俗的三連画(Vn独奏版:編曲 田中修一)
ラヴェル:ヴァイオリン・ソナタ第2番
伊福部昭:ヴァイオリン・ソナタ
豊平館は大正時代からある建物で、現在は中島公園内に移築されているが、本来は大通公園テレビ塔の近くにあり、かつては早坂文雄や伊福部兄弟が現代音楽演奏会を開き、伊福部先生が結婚披露宴をあげた場所でもある。今回、その縁もあり会場に選ばれた。
しかし、最初に注記しておくと、赤絨毯と分厚いカーテンのダンスホールであり、音響という点ではむしろ「往時をしのぶ」という意味合いのほうが強く、とてもコンサートホールには及ばない。また備え付けのピアノも、ピアニストの腕に比すればオモチャであった。
それをふまえたうえで、久しぶりの伊福部を堪能した。しかも、ヴァイオリンは札幌交響楽団首席コンサートマスターである。そのような方が伊福部の魅力に開眼してくれたというのは、うれしいかぎりだ。
まず前座がわりにバッハだが、抜粋とはいえ、大平が長年をかけて取り組んでいるだけあり、堂々たる風格。正直、自分はふだんバッハをほとんど聴かないが、そんな自分でも流石に「うまいな」と感じた。なんとも上手に云えないが、音がばらけず、余計な表情も無く、淡々としていつつ滋味がある、よい古典派ってこうなんだろうな、と考えさせられる演奏だった。
トークでは大平の伊福部愛が語られ、ちょっと驚いた。いつこんなに伊福部にはまったのだろう……。今後に期待である。
そして伊福部の晩年の弟子である田中による編曲の、土俗的三連画のVn独奏版初演。田中は土俗の編曲に実績があり、Vnとピアノ、ピアノ独奏、二十絃筝合奏版を既に手掛けている。今回、道内各地を演奏して歩くのに、ピアノが無いところでも演奏したいという大平の希望により「あえて」Vn独奏版を移植したのだという。
「あえて」というのは、14人の室内楽とはいえ原曲を聴いたことのある方はお分かりだろうが、とてもVn一挺でやれる曲ではない。そこをあえてというので、田中も苦労しただろう。第1楽章、第2楽所は主旋律をつないでゆき、ときおりむき出しとなる伴奏部分もひろってゆくというふうでまずます普通に進行したが、問題は第3楽章だ。入れ代わり立ち代わりで主題や動機が移ろい、また繰り返されるだけではなく、音色旋律のように各楽器が次から次へと役目を変えてゆく面白さ。それを、ピアノですら2台は必要だろうというところにVn一挺だ。これは、無理をするなというほうが無理だろう。重音で主旋律と和音を使い分けながらの左手でピチカート旋律とか、パガニーニかよ! とつっこみたくなるほどである。
大平もそうとう練習したそうだが、やはりまだ弾きづらそうだった。これから、こなれてくるだろう。
また田中によると、原曲を知っている人が足りない部分を脳内補完して鑑賞するものではなく、曲を知らない人が聴いても独立した作品として鑑賞できるように配慮し、そのために第2楽章は移調した、とのことである。
休憩の後にピアニストが登場し、ラヴェルのヴァイオリン・ソナタ。私は初めて聴く曲だが、ラヴェル最晩年に4年の歳月をかけて作曲され、ドイツ古典派のソナタとは一線を画した、第2楽章にはジャズ・ブルースの要素も取り入れた自由なもので、かつ、最晩年のラヴェルらしく音を切り詰めたストイックさも併せ持つ。
フランス帰りのピアニストの洒脱を極めた演奏と相まって、大平の迫力ある演奏は初めて聴く耳にも愉しさを伝えてくれた。
ところで、伊福部は終生ラヴェル愛を隠さなかったが、このヴァイオリン・ソナタにも伊福部が参考にしたと思われる部分、雰囲気、作曲精神のようなものが感じられたのは興味深い。技術的にどうこうというほど専門ではないので、なんとなく……ではあるが、楽章の作り方など、伊福部のヴァイオリン・ソナタも古典派に敬意を表しつつ、相当自由に作りこんでおり、音色、音調という点では如実にフランス的なものを持っているからである。
トリはその伊福部のヴァイオリン・ソナタ。初演者である小林武史の骨太で豪快な録音が高名だが、大平と佐藤の演奏は技術的にも確かなものながら繊細さや流麗さも持ったものだった。特に第2楽章のひんやりとした大平の鳴らし方は実に札響らしいもので、これぞ北方の伊福部ソナタと云えるもので印象に残っている。オーケストラでも札響の伊福部は在京オケなどと異なり独特で、やはり武満やシベリウスを得意とするオケならではの単なる熱狂やお祭りとはちがう「冷たさ」を持っている。それが良い方向へ出ると、冷たい熱狂というか凍結した情熱というか、一種独特の雰囲気が出る。それが聴こえた気がして、うなった次第である。
資料19
実演での伊福部19
札幌交響楽団 第569回定期演奏会
2014年5月31日 札幌コンサートホールキタラ
指揮:高関 健 演奏:札幌交響楽団 ヴァイオリン:加藤知子 コンサートマスター:大平まゆみ
日本狂詩曲(1935)
ヴァイオリン協奏曲第2番(1978)
土俗的三連画(1937)
シンフォニア・タプカーラ(1954/1979)
2014年は伊福部昭生誕100年記念ということで、一気にブームを通り越して伊福部の存在が一般化してきた感がある。亡くなる数年前の米寿、卒寿あたりから、亡くなって数年、2009年くらいまではかなり盛り上がったが、流石にその後鎮静化して、伊福部昭のお弟子さんで友人の堀井さんとも、ちかごろ寂しいね、などと2012年あたりは言っていたものだが、まさか生誕100年でここまで盛り上がるとは私も思わなかった。日本全国での演奏会に各種の企画CDに記念番組(これから製作されるそうである)に、うれしい悲鳴で、一部の伊福部ファンのあいだでは「伊福部破産」なる言葉も飛びでている。
この札響の定期演奏会の当日も、伊福部昭の誕生日ということで、東京(川崎)と釧路でトリプル演奏会であった。札響は定期なので前日の30日も演奏があり、お金と時間に余裕のある人は川崎の東京交響楽団とハシゴしていた。
そもそも、まず、定期演奏会でオール伊福部プログラムを組んだ札響に敬意を払うと共に、よくやってくれたと喝采し、誇りに思いたい。そして、お客の入りは2日目で8割ほども入っていて、いつぞやのオール武満プログラムが5〜6割ほどでスカスカだったのと比べてそれも感動してしまった。
日本狂詩曲は9人もの打楽器奏者を必要とし、しかもその楽器がマニアックで、今回の演奏会でも、プロフェッショナル打楽器レンタル店に拍板(ぱいばん)を注文したが無かったようで、沖縄の民族楽器三板(さんば)が届いたそうである。
2楽章の「祭」では、この拍板に16分音符が現れるが、あまりテンポが速いと演奏不可能になる。つまり、伊福部の想定するテンポは、けっこう遅いことの証左といえる。伊福部は面白いことにテンポ設定をメトロノームではなくストップウォッチで行っていたと弟子の方から聴いたが、ご自身の頭の中の音楽は、そうとうゆっくりであったらしい。それは盆踊りやタプカーラの冒頭などでもそうである。
高関はそういう事情をじっくりと研究してか、これまでのCD演奏で知られているテンポよりかなりゆっくり、かつ打楽器をはじめとする各種楽器の絶妙なリズムのズレなども完璧に再現していた。それは、前日の朝にBSプレミアムで放送されたクラシック倶楽部の伊福部特集(高関健/東京フィルハーモニー交響楽団:日本狂詩曲:タプカーラ交響曲)でも感じていたが、それを札響でも当然のように行っていた。
いや、第1楽章「夜曲」はもともとゆっくり(といってもアレグロだが)なので、問題は第2楽章「祭」だろう。ここは音楽的にも、どうしてもアッチェレランドして行く演奏が多く、特に後半になると複雑なスコアがグチャグチャになりやすい。といっても、ここも指定はちゃんとペザンテとなっているのだが。
高関の指揮はかなりスコアに忠実に、あまりいじらないで、しかし、ここぞという表現の凸凹は思い切って強調した、実に玄人好きな演奏に感じた。何回もこの曲を聴いている人こそ、あっと驚く仕掛けが随所にあった。まず全ての楽器の出入り、バランス、テクスチュアが完璧に明確で、よく伊福部の演奏にありがちなパワー重視・熱気上等の押し押しのものとは一線を画していた。ヴィオラやヴァイオリンのソロも素晴らしかったし、打楽器が全体に控えめに響いていたのもお洒落だった。打楽器は、遠くから聴こえる木霊のような雑踏の響きがした。
クラシック倶楽部で、高関はインタビューで当曲ついて 「どの楽器がどういうふうに鳴るかちゃんと分かって書いてある。こちらは安心して振るだけ。21歳でこういう曲を独学で書くのは、本当に驚くべきこと」 という意味を答えていた。この演奏は、日本狂詩曲の完成形と思った。このテンポこそが、この曲の真の姿を浮かび上がらせる。そう確信した。速くて盛り上がれば良いというわけではない。常世の伊福部昭も、この演奏を聴いたらさぞ喜んだであろう。
フルートとピッコロに札幌祭の笛のフレーズが現れる第2楽章。祭では、歩きながら吹くので、実はものすごく遅い。コンサート音楽だからと、競歩みたいなテンポで吹くのは、実は滑稽な表現であった。悠揚なテンポこそ、この音楽にふさわしい。21歳の若者が書いたこの曲は、既に大人(たいじん)の風格を有している。札幌祭を模した21歳の若者が書いた79年前の音楽を、札幌で聴いている。作曲者は、100年前に生まれ、8年前に逝った。音楽という時空の妙に立ち会う幸福。そんなことを考えていたら、涙が出てきた。
続いて伊福部のオーケストラ曲の中でも極渋の部類になるであろうヴァイオリン協奏曲第2番。日本狂詩曲から実に43年後に完成した。このころに伊福部が凝っていた1楽章制の協奏曲形式で、同じ形式にはピアノ協奏曲のリトミカ・オスティナータ(1961)、マリンバ協奏曲のラウダ・コンチェルタータ(1976)、二十絃箏協奏曲の交響的エグログ(1982)があり、晦渋的な響きの中にほのかに立ちのぼる中間部のリリカルな部分などは、エグログにつながってゆくものだと認識できる。
形式はソロとオーケストラが複雑に入り交じり、単純な協奏曲形式ではもちろん把握できない。緩と急で表すと緩急緩(長い)急緩急緩急〜〜コーダとなって良く分からない。片山杜秀がいうには、もっと大きく序破急の構成で、コーダへ向かって流れこんで行くといったふうだが、そちらのほうが確かに分かりやすい。序破急とはテンポだけの概念ではなく、始まり〜発展〜完成といった意味合いもあるので、冒頭のソロとオーケストラの繰り返されるカラミが序、長いリリカルな中間部が破、再びソロとオーケストラがやりあいながらテンポを上げて行きコーダに到る部分が急となるだろう。
またこれが滅多に実演がなされない秘曲であり、理由は他の伊福部曲に比して恐ろしく地味だから、となるのだろうが、中身は濃い。アジア風の味わいを持つソロヴァイオリンを最大限に引き立てる薄いオーケストレーションと、ソロとオーケストラが順繰りに丁々発止しやる構成の妙。これを実演で聴けただけで満足という人もいただろう。改めて札響の選曲の慧眼に感心した次第だった。
加藤知子の無常観あるソロは実に渋く、その中にも歌がたっぷりとあった。オーケストラは淡々とそれを協奏していたが、伊福部流にいうと実にうまく司伴していた。シルクロードのあたりの、乾いた大地に似合う音楽の流れを感じた。
休憩の後、土俗的三連画ときた。これも渋い曲で、かつ、フランス流のエスプリの効いた、実に小洒落た、素晴らしい伊福部を代表する室内楽であり、よくこれをやってくれたと思った。しかも、ちゃんと14人編成のオリジナル版。オーケストラのプログラムでやると、絃を増やしたバージョンの演奏もあるというが。
日本狂詩曲に続いて、こんな完成された作品を25歳で書いてしまった伊福部には、驚嘆の他に何があるだろう。
11分ほどの組曲で、とにかく完璧な音楽。一切の無駄が無い。土俗とエスプリが完全に融合されてい、ローカルを経てグローバルへ、という伊福部の流儀がさらに追求されている。各楽器には非常な名人藝が求められ、プロの演奏でこそ聴きたい曲だった。ティンパニのせわしいマレットの持ち手の変換や、ケトル(胴)を叩くところ、手で叩くところとの対比。トランペットの給料査定みたいな高音。ホルンの美しいソロ。チェロや絃バスのボディノックと、観ていても飽きない。
ライヴのミスはどうしてもあるが、札響メンバーの完成度は高かった。14人がほとんどソロばかりなので、聴かせ所も充分。特に3楽章の終結がティンパニでボンボンと素っ気なく終わるところなどは実にイイ。
そして本命のタプカーラ。伊福部の代表曲であり、やはりコンサート音楽の神髄は交響曲であろう。交響曲こそが、オペラ形式に匹敵する、西洋音楽の最高峰の片翼なのだから。
フランス流の3楽章形式で、スケルツォを欠く。しかし、フランク伝統のフランス交響曲は、実は第2楽章が緩徐楽章とスケルツォを合体させたもので、ドイツ伝統の4楽章を内包している。その意味で、ここでも片山杜秀がいうところの、序破急の構成があるのかもしれない。
冒頭からブーンという低音に、心に染み入るレント主題がたっぷりとうたわれ、やはりテンポは遅めに設定。かといってけして重くない。伊福部だから重厚重圧という固定観念はここにはない。むしろ札響の伊福部は軽いという印象だったが、こういうアプローチだと、それが逆に活きてくる。アレグロに入り、第1主題が登場しても軽快さと豪快さは変わらない。第2主題も颯爽と進み、テンポを落として展開部へ。ここはまた高関の棒によりじっくりと料理される。再現部からコーダに到り、流石にここでは一気に盛り上がってテンポも上がった。そして怒濤の終結部。
ここで、たいていの演奏では思わず拍手が出てしまうのだが(笑) なんと当夜の客は全員当たり前のように無反応。さすが定期の客というかなんというか、交響曲の第1楽章だというのをちゃんと分かっていて、みなほっと息をついて第2楽章を待った。定期演奏会の意味はここにもあった。特別企画の演奏会も良いのだが、チケット売りさばきに逼迫するあまり、(もちろん誰も来ないよりマシなのだが)義理客・招待客の大量導入だと、やはりふだん馴染みのない人達なので、第1楽章等の終わりに思わず拍手は付き物なのだが、それが無いのが実に良かった。
プロオーケストラの定期演奏会で演奏される超メジャー交響曲と同じ土俵に、伊福部昭のタプカーラが立った瞬間だった。そんなところでも感動して涙が出た。
全体が急緩急の構成だが、第1楽章も急緩急、そして第3楽章も急緩急の3部(序破急)形式。第2楽章は全体にイン・テンポに近い。ここでは、東京から遠く北海道を想う望郷の念が聴こえてくるが、北海道で聴くと実に生々しい光景。あまり粘らず、淡々と進むのがまた凍てついていて良い。お涙頂戴にすると伊福部は湿りすぎて泥臭くなる。それが良いという人もいるだろうが、一般に西洋音楽に通じた聴き手には日本的情緒過多で嫌われる。その中で、純粋に音楽的な美をまず表現し、その中に日本的な精神(情緒では無い)を醸し出すほどでないと、受け入れられないと感じた。
そして高関はそれを実践していたと感じた。望郷の念、北の情景、それらを超えた、純粋な音楽の美しさ。2楽章のラストは、オーボエのオスティナートが唐突にティンパニのボーンというある種の不気味とすらいえる無表情な弱音の一打で終結するが、この日は手(指先)でヘッドを叩いていたので、またなんとも不気味さを増した音色で、ドキリとする瞬間が演出されていた。
第3楽章も、初めから中間部にかけてはむしろこれまで通り、フレーズをあまり粘らせない印象だったが、アレグロに戻ってからは流石に高潮。ここに到ってテンポアップの指示が楽譜にあり、どんどん速くなってコーダに到っては転がるように音楽は畳みかける。初演当時(改訂当時?)は、こんなの速すぎてどのオーケストラも演奏不可能と云われた、と伊福部昭の身内の方より伺ったが、現代のオーケストラの技術だったら、できるだろう。それにしてもピッコロは鬼だったし、打楽器も絃楽器もとにかくパッセージが凄まじい。
一寸の狂いも無く、高関と札響はやってのけてくれた。放心して拍手もできないかと思ったが、手が勝手に高速拍手、その後に放心して虚空を見つめてしまった。
休憩のときには、いかにもクラシック好きなふうの男性が「ハープが琴の音色がしてたねえ!」とうれしそうに語り、終演のさいは、定期会員らしき高齢の女性のお友達連れが、「良かった〜〜」「楽しかったね〜〜」と、にこやかにしておられたのが印象的だった。ああ、伊福部もそこまで来たか、と、三度涙が出てきた。
今ライヴはCD化されるそうなので乞うご期待だが、あのラストの凄まじさがどこまで録音できているか。
資料18
実演での伊福部18
北海道大学合唱団創立100周年記念 北大合唱団OB会 第10回演奏会
2014年5月11日 札幌コンサートホールキタラ
指揮 石川健次 ピアノ 高垣美加 北大合唱団OB会
シレトコ半島の漁夫の歌 合唱・ピアノ伴奏版(編曲:堀井友徳)
バリトン独唱用の歌曲、シレトコ半島の漁夫の歌(1960)を、北大合唱団の委嘱(1966)により男声合唱・オーケストラ伴奏にしたものが存在するのは、一部の関係者のあいだでは知られていた。
北大には古くより男声合唱団がサークルとして存在し、これは混声合唱団とは完全に異なる組織で、男声が混声合唱団とかぶってすらいないのだという。
しかも1915年創立で、伊福部昭が生まれたころより北の大地にあり、伊福部が北大交響楽団でヴァイオリンを弾いていたころも、当然その歌声を披露していたという、まことに由緒ある合唱団である。
その合唱団がちょうどほぼ50年前に、今回当曲を指揮された石川さんを中心に東京まで夜行列車で出かけてゆき、伊福部に直接新作を委嘱したが、伊福部のほうで良い詩がみつからなかったため、北大側の了承の元、シレトコを合唱版に編曲した。学生(しかも後輩)だからと、委嘱料は 「鮭の燻製 2本」 であったと関係者より証言を得た。
それは、当時初演の札幌(伴奏:北大交響楽団)と再演の東京(伴奏:青山学院管弦楽団)で2回演奏されたのみで、2014年まで一度も演奏されていなかった。伊福部は東京の演奏会に立ち会っている。最前列で聴いていた、と関係者に伺った。
楽譜は、伊福部家と、北大合唱団、それに作詞の更科源蔵の記念館(?)に保存されているといい、知る人ぞ知る曲であった。
それを、北大合唱団で、今回のプレ100年記念と、4年に1回行われているOB会演奏会の第10回(40年!!)記念に、オーケストラはムリだからピアノ譜に再編曲して、演奏したいという企画であった。初演は一足早く現役の北大合唱団で今1月に行われてい、これは再編曲の再演となる。
再編曲は、このHPでもおなじみの、伊福部の事実上の最後の弟子、堀井友徳である。
シレトコはそもそも9分ほどの独唱曲で、「合唱曲というより歌曲」と北大OBの方もおっしゃっていたが、当日のほかの「合唱曲」プログラムの中では異彩を放ちまくっていた。まず長い。そして暗いw
前奏が繰り返され、些少の改訂というか新しい部分もあって約2倍の長さに。これはオーケストラであるのを配慮し、間をもたせたものか。そして、中間部の朗らかなアイヌ語の漁師歌の部分、ここも繰り返され、倍の長さに。全体で、13、4分の曲になっていたと感じた。
今回はピアノ伴奏だからか、専門的なことは分からないが、そこ以外はあまり独唱版と変わりなかったように聴こえたが、オーケストラ譜によると和声等もけっこう変わっており、「まったくの別物、別の曲」 とは堀井の談であった。オケ譜をそのままピアノにすると逆にユニゾンばかりで変化のない部分もあったので、そこは独唱版のピアノ譜も参考にし、両者のよいところをうまく組み合わせて再編曲した。再編曲の所以はそこにある、ということであった。
当日は250人もの男声合唱が厳かに、そして生々しく、重厚に、大迫力で、自分たちの音楽として誇りを持って歌っておられ、まことに感動的な演奏だった。
実演での伊福部17
現代日本音楽の夕べシリーズ第16回
伊福部昭生誕100年記念プレコンサート 〜東京交響楽団による初演曲を選んで@〜
2013年6月1日 ミューザ川崎シンフォニーホール
広上淳一/東京交響楽団
舞踊音楽「プロメテの火」
舞踊音楽「日本の太鼓」鹿(シシ)踊り:原典版
ファンのあいだで長く「まぼろし」とされてきた「プロメテの火」のオーケストラ楽譜が2009年に、舞踊家であり委嘱者江口隆哉さんの奥さんの遺品より発見されてより、紆余曲折を経て、今回、披露となった。とにもかくにも、駆けつけなければならぬと考え、行って参りました。
やはり、オーケストラは良い!! 既に2台のピアノ版で聴き慣れたあの旋律、このシーンがオーケストラではこうなるのか、自分の思っていた通り、意表をつかれた部分、聴いていてとても楽しかった。まずは、幻の曲を演奏当時のオーケストラで聴けたこと自体を喜び、言祝ぎ、感動したい。
さて、その地方公演用であるという2台のピアノ版の演奏を聴き込んでの参戦となったわけだが、やはり、ディープな伊福部ファンであるほど、既にある「サロメ」や「日本の太鼓」や「釈迦」の演奏会版を想像して、壮大なオーケストレーションを期待してしまったわけだが、
残念ながら伊福部昭の手による演奏会用の大編成編曲版ではなく、オケピットの中に入っていたであろうバレー伴奏用の2管編成のまま
(フルート2:ピッコロ1持ち替え、オーボエ1、コーラングレ1、クラリネット2、ファゴット2、ホルン2、トランペット2、トロンボーン2、ピアノ、ティンパニ、大太鼓、小太鼓、サスペンダーシンバル、絃5部)
という、まるでブラームスかドヴォルザークかという編成なものだから、正直、オーケストレーションがかなり薄く、冒頭から最後まで、かなり地味な印象はぬぐえない。
打楽器も、ティンパニ、大太鼓、小太鼓、サスペンダーシンバルの4種類しかなく、ほとんど活躍しない。全曲にわたり絃楽が主体で、主旋律も木管メイン。テューバも無く、低音も絃バスのみで意外に薄い。というか軽い。
私もそうだったが、壮大な音絵巻を想像していた人は、冒頭から 「あれっ…?」 と思ったことだろう。しかも、全曲だから50分と長い。私はこの曲がとても好きで、ピアノ版を聴き込んで慣れているし、長く感じなかったが、他の人で、しかも特に伊福部というではなく、東京交響楽団の会員でコンサートを普通に聴きに来た人は、流石に辟易したようだ。ストラヴィンスキーの火の鳥の全曲版(40分)だって、知らない人には長い。
さらに、想像だが、これでもコンサート形式で、絃楽器の数が多かったと思う。本当は、ピットの中ではもっと絃は少なかったのではないかと。そうでないと、フルートやオーボエが1本で一所懸命旋律を吹いて、伴奏の絃楽があんなに轟々と鳴っていたのでは、よく聴こえないんだなあ(笑) フルートやオーボエが。(後記するが特に火の歓喜は凄かった。)
もっとも、聴こえないといっても、完全に埋もれてしまって無音という意味ではなく、ピアノ版と比べて、主旋律として 「あれほどハッキリとは聴こえない」 という意味だが……。
だからその意味で、オーボエなんか顔を真赤にして、延々と吹いても吹いても、絃に負けちゃってよく聴こえず、あれはちょっとかわいそうだった。
映画音楽等では、伊福部は音量の問題で木管に絃楽器を重ねて音を補強する場合もあったというが、当日の記憶では、旋律は木管1本でヴァイオリンも伴奏をジャカジャカ弾いていたので、ちょっとバランスが悪いように感じた。(CDが出たら再確認できます。あくまで記憶を頼りに書いています。)
全体的に、特にオーケストレーションで覚えている限りの特徴を述べると、少しずつピアノ版(ピアノ版が地方公演用として後に編曲されたものと考えられる)と音楽が違うようなところもあったように記憶しており、冒頭から、ピアノ版では、ダダダダン! と明確にプレリュードが始まるが、オケ版ではなんかはっきりせずにティンパニもいきなりトレモロでゾロゾロゾローっと、ネズミ男がソバでも食うように、しかも音量はメゾフォルテくらいで始まった。その部分は譜面を見てみたく思った。どういう効果を狙っていたのだろうか。少なくともティンパニは、ややアクセントをつけてドーンと入っていれば、まだ効果は異なっただろう。
2台のピアノ版でクッキリと改訂されていると思われるので、そのもやもやー〜っとした部分は、失敗というでも無いが、改訂に足るのだと判断されたのだから。←※これに関しましては、下記に追記がございますので合わせてお読みください。
そこからは、メインの旋律はほぼ絃楽。金管は和音の補助に終始し、細かい部分の旋律はオーボエ、フルート、それにファゴットが1本ずつ受け持つ。打楽器も、ティンパニはやや活躍するも、小太鼓が1曲か2曲、大太鼓が1曲、最後のトゥッティにサスペンダーシンバルがクレッシェンドで盛り上げ、とそれしかない。流石にそれは意表をつかれた。オーケストレーション的には、交響譚詩に近い。近いが、内容はあれほどシンフォニックではなく、むしろホモフォニックなので、よけいにあっさりしている。
メインにして最大の見せ場である「火の歓喜」も、壮大な曲を期待していたが、期待しすぎた。まず、前半はオーボエ、次に主部となってフルートが延々とテーマを吹いて、絃楽がジャンジャンジャンジャンとそれを伴奏するも、オーボエやフルート1本に対して絃楽5部(笑) これがまた、聴こえない。いや、聴こえるけど……聴こえない。なんと云えば良いのか。期待するほど聴こえないというか。人によっては、あれでも充分に聴こえたという人が……あまりいないと思うが(笑)
そもそも、これは脳内オーケストレーションで、トランペットが吹くのだと思い込んでいて、戸惑った。後半に、高音でトランペットが重なって、やっぱり、と安心した。それにしても、舞踊の群舞の足音とか入ったら、これは主旋律がまったく聴こえないと思う。伊福部はそんなミスはしないので、オーボエやフルートの時は、静かに踊っているのかもしれない。
繰り返すが、当日はコンサートということで、これでも絃楽器が多かったのかもしれない。バレーの本番では、ピットの中でもっと絃楽器が少なかったのかも。
当日は、いわゆる14型というもので、第1ヴァイオリンが7プルトの14人、以下それに準じて第2が12人、ヴィオラが10人(8人?)、チェロが8人(6人?)、コントラバスが6人だったようだが、戦後すぐのピットオケでは、10型(第1ヴァイオリンが5プルトの10人、以下2人ずつ減る)くらいか、もしくはそれ以下でやっていたのかもしれない。
そうだとすると、あのオーボエやフルートでも、普通に聴こえたのかもしれない。
あと、ピアノ版のグリッサンドは、絶対ハープだと思っていたが、ピアノだった(笑)
というわけで、正直な印象は、地味、薄い、期待しすぎて肩すかし、です。
それでも、なにせ幻の曲なのだから感無量で感動したし、とにかく、そういう 「実用音楽がコンサート舞台にそのまま乗ってしまった実例」 としても興味深く聴けた。また、伊福部昭の演奏会用大編成ではない、実用音楽としての中編成バレー音楽そのものを聴けたのは大きい。勉強になった。打楽器は、やはりピットの狭さもあるし、特殊楽器をあまり使うと用意するのも大変なので、どうしても簡潔になる。
我々は良かったが、休憩時間に 「長かったなあ、参った」 という、おそらく東京交響楽団の会員と思われるおじさんや、始まって10分で寝息をたてていた隣の席のおばさんとか、責められなかった。
それは、日本の太鼓も同じだった。
演奏会用に編曲されたのは3管編成で、打楽器もドッカドッカ入るのだが、こちらもオケピットの中にあった2管編成。(フルート2、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン2、トランペット2、トロンボーン2、ピアノ、ティンパニ、大太鼓、小太鼓、シンバル、絃楽5部)
お気づきだろうか。
編成に日本の「太鼓」が無い(笑)
本当は無いのか!
で、ある。舞台の上の、踊り手が太鼓を持って、叩きながら踊るので、演奏会版はそれを表現して、数人の打楽器奏者が太鼓を叩いていたのだった。
この日は、コンサート形式なので、3人の奏者が踊り手の太鼓の部分を演奏していたが。本当は無いのだなあ。
また、構成も違う。ところどころ、ちょっと短い。参考までに、踊りの映像をプロジェクターで流しながら演奏していたが、合うはずも無く(苦笑) 逆にズレが気持ち悪くなった。参考にはなったが。
最後もアッサリで、バシャーンバシャーンと素っ気なく叩かれたシンバルなんてのも、演奏会版には無いし、伊福部の純音楽では珍しい。終結部が全く異なり、特撮映画みたいな終わり方だった。
プロメテの火は、伊福部昭の手で、ちゃんと演奏会用に3管編成に直されていたら、さぞや、というものだったが、それは、お弟子さんの話によると、伊福部は何かしら思うところがあって、躊躇していたという。サロメは、ちゃんと演奏会用に編曲したのに、プロメテは打診はあった(らしい)のにしなかった。楽譜の所在がよく分からなくなっていたのもあるかもしれないが、音楽的にも、何か 「これはちょっと……」 と、思うところがあったようだ。それが何かは分からない。構成なのか、音楽そのものなのか。
確かに、サロメの複雑で深い音響や進行に比べたら、プロメテはちょっと単純明朗な部分がある。それを音楽が浅い、イマイチととるか。どうか。
今回の演奏は、映画音楽でいうと、ちゃんと編曲されたSF交響ファンタジーではなく、映画スコアそのままのサントラをコンサート形式で聴いたようなものだ。
原典版の、バレー音楽の妙味を味わえたが、コンサート単独ではやや苦しい部分もあった。
そうなると、映像でもいいから、バレーを鑑賞したいと思ったファンも多かったことだろう。
資料17
2013/06/13追記
プロメテの火の冒頭部分の演奏において、2台ピアノ版と当日のオーケストラ版の私の記憶との、演奏方法のちがいにつきまして、楽譜の校訂を行いました東京音楽大学時代の伊福部昭の門下であります、今井聡さんから直接ご連絡をいただきまして、楽譜とその他について興味深い内容をご教授いただきましたので、箇条書きにして追記いたします。
1.今回、パート譜作成のため使用した楽譜は、オーケストラ版、2台ピアノ版とも、当時の上演と保存のため、必要部数を複数のアシスタントの手書きによる複写が繰り返されたものと推察され、伊福部昭の直筆と思われる箇所はわずかしかなく、おのおの不統一、不明瞭な部分が散見された。
2.冒頭のティンパニは、16分音符3個の「装飾音符」で、オーケストラ版も2台ピアノ版も同じ音符である。
3.ただ表現のちがいで2台のピアノ版のCDはそれを強調して演奏されている。(CD録音の際、オーケストラスコアの所在は不明であり、ピアニストはこの楽譜は見ていない)
4.今回のオーケストラの実用譜制作にあたり、明らかな転写、移調等の誤り、書き落としと推測される部分以外には一切の変更は行っていない。不明な点はピアノ版と照合して補完し、ピアノ版との差異についてはオーケストラスコアを優先した。
とのことです。当日のオーケストラ版は、いまは記憶のみで書いているが、後でCDが出て聴き直したらまた感想が変わるかもしれない。
で、楽譜を見ないで音のみでの判断していたわけだが、2台ピアノ版とオケ版の冒頭は、あれほど異なる印象だが、楽譜上は同じだということで、二度ビックリであった。
もっとも、私たちは関係者ではなく、楽譜を見たり校訂の経緯を把握したりする立場にないので、結果として出てきた音だけで色々と比べるのは当たり前なのであるが、やはり音楽は楽譜を確かめないと分からない部分が多いと再確認した次第であります。今井聡さん、ありがとうございました。
2013/08/16 追記
NHK-FM放送、ベストオブクラシックにおいて、同年8/16にこの演奏会の模様が放送されました。プロメテの火と、日本の太鼓のそれぞれ原典版の、当日の貴重な演奏です。両方とも、放送用にかなり録音を修正してあるなとは思いましたが、それでも日本の太鼓は印象と記憶がほとんど変わらなかったので、置いておきまして、プロメテの火です。
聴き直してみると私がこだわっていた冒頭の部分、意外にティンパニはちゃんと硬質な音で、タタタタン!と入っていた。問題は、バックの絃が大きくて、会場では反響もあって聴きとれなかったのかな、と感じた。
全体に、会場で聴いた記憶のイメージとは、かなり違って響きが豊かだった。これなら、録音物として鑑賞に耐えうる。2管といえども、貧相とか軽いとか薄いとかいう響きではなく、しっかりした曲だった。これならそこれで、素晴らしい音楽になっている。
3点目、フルートとオーボエのソロだが、これがまたしっかり聴こえる(笑) 席にもよったのか、それとも放送用に録音レベルを直したのか。
とにかく、今回の放送も大満足。情報によると練習に合わせてセッション録音され、それがCD化になるようです。上記しているが、自分はこの曲が本当に性に合っているようで、ぜんぜん長く感じない。むしろサロメや釈迦の方が長く感じる。時間的にはそちらの方が短いのに。