12/30

 交響曲の項でドヴォルザークをあげるために、交響曲全集を含めて集中的にドヴォルザーク漬になっている。じつは、かの高名なチェロ協奏曲は、わたしは聞いたことが無かった! フルニエ/ セル/ クリーブランド管でチェロ協奏曲を恥ずかしながら初めて聴いた。けっこう長い。しかし、なんという分かりやすさ! 名旋律の塊! 40分が瞬く間でした。併録のブロッホ(ヘブライ狂詩曲)なんて、半分の20分なのになんという長さか。3楽章は伊福部昭に似ていると思った。独走チェロのおかげで、「新世界より」よりいくぶんか俗っぽさが薄いように感じる。こんどちがう人の演奏を聴いてみよう。デュ=プレ/ チェリなんてどうじゃ?

 ついでに、ピアノ協奏曲も聴いた。これは、ナクソスの廉価盤に続き2枚目。なんとも、伝説のリヒテル/ クライバー/ バイエルン国立管です。廉価盤とはちがうなあ。彫の深いピアノ、叙情的かつ激動のオーケストラ。音楽は、作品番号が交響曲3番の前の若いときのものなので(Pコンが33番、第3交響曲が34番。)まだ後期様式の旋律と旋律のガップリ四ツの組み合わせの妙は甘いが、それはそれで、流れるような軽妙な雰囲気が楽しめる。

 さて交響曲全集。これは蒐集に紆余曲折があって、すごいことになっているのだ。ほんとうは、廉価盤で集めようと思っていたが、同じ廉価盤でも、昔のいい演奏が安くなっているものがある。スウィトナー/ シュターツカペレベルリンが徳間のドイツシャルプラッテンから1枚1000円でなんと出ており、限定盤でもうないのだが、これ幸いとケチケチして順番に買っていたら、途中で誰かに買われて店頭から消えていた。だから中途半端。1・2番だけ未蒐集。
 
 くそッと思いつつ、1枚1700円のスプラフォンのノイマン/ チェコフィル(2回目の録音)がとなりにあって、しょうがないから少し高いがこっちを買おうと、これは地元のCD屋で注文したならばすでに生産中止。6・7・9番だけやってきた。あわてて札幌で探したが時すでに遅く、こちらも2番だけ入手。したがってこれも中途半端。
 
 そしてよく見たら、全集がボックスで出ていて、バラで買うよりずっと安い。ノイマンの1回目の全集を4000円で買ってきました。
 いままでのはなんだったの???

 1番から順番に聴いてます。ドヴォルザークの交響曲は、ハッキリいって初期のものはチャイコフスキーよりイイ!!

 とだけ云っておき、あとは交響曲のページにそのうち………。


12/24

 湯浅譲二の音楽が聴きたくて、輸入品なのに3400円もする「和解のレクイレム」のCDを買ってしまった。

 しかしこれはムチャな企画で、1995年、大戦終了50年を記念して、世界中の作曲家へレクイレムの各楽章を委嘱した。大戦に関与した国々の作曲家だ。

 メンバーは15人(正確には13人と2人組。)で、以下の通り。

ベリオ(イタリア)/ ツェルハ(オーストリア)/ ディートリッヒ(ドイツ)/ コペレント(チェコ)/ ハービソン(アメリカ)/ ノールヘイム(ノルウェー)/ ランズ(アメリカ)/ ダルバヴィ(フランス)/ ウィアー(イギリス)/ ペンデレツキ(ポーランド)/ リーム(ドイツ)/ シュニトケ+ロジェストベンスキー(ロシア:旧ソ連)/ 湯浅譲二(日本)/ クルターク(ルーマニア)

 企画が向こうだから、被害国を含む大戦当事国の作曲家といったって、アジアから日本だけしか参加していないのはどうか。
    
 それにしても、いったい何人ご存じだろうか? 私は7人。まあまあでしょうか。
 
 こんなにもたくさんの音楽家たちが集まって各楽章を担当し、打ち合わせも何もなく勝手気ままに作曲し、時間も内容もバラバラなのだが、意外や聴いてみるとあんまり違和感が無い。というのは、この程度のバラバラさは、現代の交響曲だのなんだのでは、当り前だから。
 
 さて、湯浅の担当した音楽、最終楽章のレスポンソリウムを聴いてみよう。(クルタークはエピローグ)
 
 とうぜん合唱が入っている。湯浅の合唱曲のCDは少なく(作品全体から見てもまったく何にかぎらず少ないのだが。)初期のシリアスなものなので、この1995年のものは貴重な録音だ。武満と同じにように、晩年の境地に到れば到るほど、音楽はやさしく、包み込むようなものになっている。しかし、時折現れる激しいティンパニの打音や、独特の階層的な弦の和音は、湯浅独自のもので、中身の濃い楽章に仕上がっている。これはなかなか傑作だ。
 
 ちなみに他の作家のものとしては、ベリオとリーム、それにクルタークが印象に残っているていどかなあ。

 ペンデレツキは、調性音楽になってから、まるで魅力を欠いている。


12/21

 芸術劇場で、NHK音楽祭の模様をハイライトでやるというので、チラチラ観ていたが、最後にゲルギエフ登場。しかし、ハイライトとはいえ、90分ちょっとくらい、ぜんぶ放送しろ。11時半からやったって、1時には終わるだろうにブツブツ………。
 
 正規盤ではたしかまだマーラーというのは出していないゲルギー。海賊で、2番と5番を聴いているのだが、2番は録音も悪くイマイチだったが5番は鳥肌ものだった。いわゆる、感情的とか、情念的とか云われて、最近は禁忌されがちな演奏形態ではあると思うが、この人の指揮はそれだけではなく、かの春の祭典でも分かるとおり、その激情は真に激情でありつつけっこう演出でもある。そこらへんのカユイところに手が届くバランスが、この人の良さだ。繊細なところは繊細に、そしてロシア流に鳴らすところは容赦なく鳴らすのもうれしい。

 1楽章、主題が順番に4つも呈示されるが、それぞれの性格分けの見事さよ。ソロのひとつひとつが実に伸びやかに鳴らされる。マーラーの音楽へひそむ滅びの美学、その儚さを、日本人は日本人的な美学としてすでに内在し、共感している。日本人のチャイコフスキー好き、マーラー好きというのは、他国の人とはけっこうニュアンスが異なっていると感じている。
 
 3番はあまりにあからさまに(しかもたくさん。)羅列された明暗と人工的なまでに拡大された規模の大きさが、私はあまり得意ではないのだが、だからといって別に嫌いというほどでもない。特に両端楽章の見事さというものは、直接6番や9番までぶッ飛んでいる。マーラーの真に交響楽の深遠なる世界というものは、まさにここからはじまるのだ!

 それにしても膨大な編成の膨大な音楽だ。マーラーにとってこの膨大さというのは、アルプスの原風景そのままだったのか。それとも、未来への挑戦だったのか。6楽章はいつ聴いても、素晴らしい音楽だ。これを人間讃歌、愛讃歌と云わずして、なんというのか。(だから3番はまだ多分に人間くさい。しかも青くさい。)

 放送分では2楽章と3楽章を欠いていたが、けっこう申し分無い、いい演奏だったと思います。なにより奏者一丸となって気合が入っているのがいい。その気合がから回りしていないのもいい。繊細かつ大胆。情感たっぷりかつ冷静。深いマーラーだ。

 ゲルギエフのマーラー、全集とまではゆかずとも、正規盤で出ねえのかなあ。シャイーより期待する。


12/12

 まださらりとしか聴いていないが、何種類かマーラーを聴き比べていろいろ想うことあり。
 
 ベルティーニ/ 都響 7番
 ギーレン/ SWR交響楽団 4番と7番
 ラインスドルフ/ クリーブランド管 1番

 ラインスドルフのみ海賊盤なのだが、相変わらず何か強大で危険なエネルギーの凝縮した線の太い演奏で、それへクリーブランド管のこれまた密度の濃い演奏が加わって、なかなか聴かせる。しかし、そもそもマーラーの1番は構造上、構成上、かなり薄い音楽であるため、そこはかとない違和感というのがつきまとう。マーラーの1番を聴くときに、私はこういう頑張り型の演奏を好むのだが、あんまり頑張りすぎると、逆にしらけてしまう。そこは、構造的な問題にそって、かつ、燃えるという、神様みたいな芸当が必要となるわけじゃな。
 ちなみに、ただでさえ薄い音楽をいくら構造的に把握しようとこれもまたおのずと限界があると私は思っている。

 ベルティーニは、なんともリズムのスットボケタ演奏で、いったいぜんたいどうしちまったの? 

 あのケルン放送響やベルリンフィルの楽しくも不気味な、美しくも滑稽な、震えるような演奏はどこいっちゃったの? 

 しかしこれはオーケストラの問題かも知れない。日本のオーケストラで、かのN響すらも、マーラーの7番をまともにできる楽団は無いのではないか。この、ベートーヴェンの7番にも匹敵する、リズムの饗宴たるマーラーの7番において、機軸となるリズム タンタタ の変幻自在な扱いを、ひとつひとつ把握しないと、せっかくの旋律線もへろーんとのびきって、なんとも締まりがない。そんな演奏で70分を耐えろというのは酷だ。

 かえってギーレンはなんとも活き活きとしたリズム処理がうれしく、そうすると旋律も際立って、対旋律的な構造も把握でき、70分がアッという間ですねー。これは点数高いぞ。4番も同じ系統で、情緒的にやる場合は弛緩しがちな部分(3楽章なんですけど。)も、ピシッとひきしまって、飽きることが無い。こちらも点数は高い。ギーレンはいまのところ2番と6番でイマイチだったのを除けば、あとはとても素晴らしく聴こえる。

 3番と9番も既にでているので、入手しておきたい。このシリーズではないが、ソニークラシカルからでている8番(ライヴ)もよいものだ。意外と5番を期待する。大地の歌は、逆に交響曲ではなく歌曲集として処理しそうな気がするので、期待はしない。


12/5
 
 「伊福部昭の芸術」シリーズに続きが出た。コンスタンスに新録(スタジオ)がでるのは有り難い。

 今回の目玉は60年ぶりに復活した幻の曲「フィリピンに贈る祝典序曲」と新たに編曲されたシンフォニックスイート「わんぱく王子の大蛇退治」だろう。さらに、ライヴ録音しかなかった日本の太鼓とゴジラVSキングギドラが加わったし、20弦箏コンチェルトもライヴしかないはず。

 日本の太鼓は岩手県の伝統芸能に触発されたもので、ここはかつて大和朝廷時代には蝦夷の国であり、いわゆる因幡・出雲、現北海道の蝦夷と同じく中央からみれば異境に他ならない。そこに残る縄文からの風土ともいえる独特の旋律とリズムは、いわゆる「日本的」な「わび・さび」路線とは一線を画する。

 まあいまとなってはどちらも日本なわけですな!

 ところで作曲者が云うには、日本の伝統旋律というと5音階だと云われているが、こういう本当に古い伝統の残る地方には、5音ではとらえられない独特の7音ぐらいの音階があって、ここでも創作旋律ではその7音階を使っているという。それで、日本の太鼓というわりには5音階じゃないじゃないか、という指摘もうけたそうな。
 
 くだらなくてつまらない教養の迷路に迷い込むのは、我々も気をつけなくてはなりません。

 交響的エグログも、スタジオ録音が嬉しい。まずとうぜんながら録音が良く、細部にまで伊福部流のオーケストレーションがよく聴こえる。ライヴ録音では、塊としてしかとらえられない場合がある。もちろん、その会場にじっさいに聴くのとは話が異なる。
 
 1楽章制のコンチェルトは伊福部は特に気に入っていて、この時期よく書いてある。しかしコンチェルトが多い理由が 「管弦楽法という本をずっと書いていて、古今東西の総譜を調べているうちに、すっかり管弦楽に食傷してしまった。そこで独奏楽器が入るなら、幾分か音色も変わって書く意欲も沸いてくるのではないか」 と思ったから、というから、なんというかムニャムニャ………。(そのていどかい。そんなもんなんだね。) 

 さて邦楽器とオーケストラは音階も何もかもちがうので、じつは合わせるのは非常に難しい。コンチェルトなんて、もっての他。伊福部も当初は断ったようだが、いつものように根負けし、書くこととなった。

 そこで 「他国の伝統楽器のコンチェルトを思うとき、日本の箏に対して何か責務のようなものを感じた」 とコメントしているのだが、なんと、70歳に近いその自分のコメントを(他に箏の協奏曲なんかいくらでも書く人がいるのに、責務とは何を大げさな、という意味で。)
若気の至りと90歳近い今の伊福部が云っている。

 ううむ………。人生とは。。。
 
 さて………。

 数十年ぶりに楽譜がみつかり、録音の運びとなった秘曲。

 原題は フィリピン国民に贈る管弦楽序曲 であるが、まあいろいろあって(ブックレート読んでください。)タイトルが改められた。

 そもそもフィリピンを解放した大日本帝国が、1943年、ビルマと共に占領統治より独立を認め、その祝典のために書かれた。と書けば聞こえがいいが、その独立はもちろん傀儡政権、大東亜共栄圏とは日本帝国の仮の姿だったのは云うまでもない。日本が負けた後、アメリカがまたフィリピンを占領したが、そのうち独立した。(このとき、日本がいったん解放したから真に独立できたと考えるか、日本なんかこなくてもいずれ独立できたと考えるかで、戦争の意義がまったく変わってくる。)

 それはさておき、音楽は3管編成に2台のピアノという、大がかりな物で、祝典というよりは変則ピアノ協奏曲といったところで、ABA構成、ときに日本狂詩曲、協奏風交響曲、そして後のタプカーラ交響曲の楽片がポロポロとこぼれ落ちる。
 
 伊福部の音楽に、そういう自作からの引用、あるいは転用、あるいは使い回し、あるいはさらなる進化というのは、非常に多い。またこの部分か、という人もいるだろうし、私のようにここはあの曲のあの部分、ここはこの部分、と由来やつながりを考えて楽しむ人もいよう。

 もしかしたら、まったく楽壇から変人扱いだった自分の曲が、これから先どれだけ録音されるのか、演奏会で演奏されるのか、まったく自信がもてなかった作者が、自分の旋律をなるべく多くの機会に聴衆へ届けるべく、転用したのかもしれない。

 もしかしたら、前にどの曲に使ったのか、すぐ忘れる人なのかもしれない。

 もしかしたら、めんどうくさいしどうせオレの曲なんかみんなすぐ忘れてるだろう、と思ってコンチクショウとわざと使い回していたのかもしれない。

 作曲に関するエピソードで、日本の旧内務省情報局のヘッポコぶりが分かって面白い。(フィリピンはアメリカ統治だったから、そうとううまい管弦楽団がありますよ、と云われて大規模な作曲をしたが、その実、人数すらそろわなかったらしい。)

 交響ファンタジー「ゴジラVSキングギドラ」の編曲を、作者はすっかり忘れていたそうな。もうお年だし、1回だけの演奏会のための臨時編曲だから、さもありなん。じっさい、そうたいして面白い曲でもないし………。
 
 かえって、わんぱく王子のほうは、とても楽しいものになっている。楽しいだけではなく、音楽的にもすばらしい。系統としてはプロコフィエフのものに似ている。キージェ中尉や、アレクサンドル=ネフスキー。映画音楽の組曲をオペラや劇付随音楽の組曲より下に見る人がいるとすれば、それは間ちがっている。
 
 フルートの前奏曲に続く景気のいい音楽は、オープニングタイトルの音楽で、映画音楽集とかでよく出てくるもの。なんとも奇妙な音階の旋律と、伴奏の豪快なオスティナートがもう伊福部! 

 2章冒頭の音楽は、ブーレスク風ロンドの冒頭の部分に転用されてる。また怪魚もしくは火の神の音楽は、後の怪獣映画によく出るモノだ。

 3章のいわゆるアメノウズメのミコトの音楽は、まったく後のサロメの「7つのヴェールの踊り」につながっているから、聴き比べるのも面白い。どちらもじつはストリップなのよね。むかしの人は、洋の東西を問わずよくそういう踊りを踊ったのかなあ。キリスト教も仏教も儒教も何もかも無かった時代だからね。

 4章でのヤマタノオロチは、どう聴いてもキングギドラか、何か他の怪獣の類にしか聴こえない。それはまったく正しい。
 
 吹奏楽に編曲する人がそのうち現れるぞ。


12/4
 
 水野修孝(1934−)の怒濤の超大作「交響的変容」全4部作の全曲初演CDを入手。これはものドすごい音楽で、とうていCDでは表現しきれないものなのだが、一端はかいま見ることができる。
 
 そもそも音楽之友社刊「名盤大全 交響曲編」によると、ブライアンの第1交響曲「ゴシック」が、ギネスブックに最も演奏時間の長い交響曲、最も長大な総譜、ということで載っているらしい。それは全2部、2時間にもおよぶ壮大なもので、2群のオーケストラ、児童合唱、ブラス別動隊、4人の声楽ソリスト、7つの合唱団が奏でる、折衷様式のいろいろな音楽の集合体らしい。聴いたことないけど。

 みなさんは、そのブライアンの交響曲を規模においても演奏時間においても(おそらく内容においても)遥かに超える管弦楽曲が現代日本にあるとしたら、信じられるだろうか!?!?

 この水野の交響的変容は、聴いて驚くなかれ、全4部、演奏時間3時間、大オーケストラ、ビッグバンド、6群の混声合唱(少なくとも500人)、電子楽器、ソプラノソロ、和太鼓合奏、ティンパニソロ、合唱指揮にオケの正副指揮者3人という、前代未聞、驚天動地、疾風怒濤、天下無敵、ワーグナーのオペラばりの怪物交響楽だ。作曲者はこれを大きな交響曲と呼んでいるが、じっさいに○番交響曲として作曲されれば、ブライアンを超えてギネスに載ること間ちがいなし!!
 
 概要をまず説明すると、交響的変容は26年をかけて第1部から4部まで作曲された。内容はほぼ20世紀の諸音楽を網羅しており、時に俯瞰的に、時に近接して表現される。作曲年代は1962〜1987となっている。1部から3部まではとぎれのない1楽章形式の管弦楽曲で、それぞれ副題とテーマがある。4部は合唱が入り、4部だけで6楽章に別れている。しかも6群の合唱がマーラー(ファウスト)だの法華経だのハミングだの東南アジアの民謡だのを同時に歌いだすのだ!!

 この神をも恐れぬ音楽は、マーラーの第8交響曲を超える、超記念碑的な交響曲として記録され記憶され続けるだろう。でも全曲演奏の再演は難しそうだなあ。
 
 くわしく聴き進めてゆこう。長いんだけど、テーマごとに各部が別れているし、ジャズ好きの水野が大胆にビッグバンドも取り入れているので、これが飽きない。面白い。さすがに3時間一気は、休みの日とかでないと無理だろうけど、非常に聴きやすいです。

交響的変容 第1部「テュッティの変容」(24分)

 作曲者の言葉を借りると 「中間部に弦楽をはさんだ、オーケストラの全合奏と大規模なサウンドの変容」 を表現している。変容とは変奏よりもっと自由で規模の大きいものと解されている。とにかく総奏により、めくるめく巨大で厚い響きの蠢く様子が、執拗に描かれている。

 シュトラウスのツァラトゥストラは〜を彷彿とさせる壮大なるオープニングから、まさに哲学の大路を往くがごときサウンドが乾いた雰囲気で響きわたる。そこからはしばしカオスが表現され、また瞑想的な部分となる。弦楽の中間部は荒涼とした情景を思わせる。

 カオスが再現され、3部のビートリズムへの導入を思わせるビッグバンドも登場し、景気をつける。静かに風景は遠くなり、名残の鈴(リン)と鐘(カネ)によって、第1変容を終わる。

交響的変容 第2部「メロディーとハーモニーの変容」(20分)

 ここでは一転して明確な調性となり、線の長い、無限旋律がいつまでも甘美に流れる。バイオリンのソロを中心に弦楽群がこれでもかと奏でる響きは、ワーグナーかマーラーが現代へ蘇ったかのようだ。それにしてもこの旋律は愛らしく、センチメンタルたっぷりで、とても微笑ましい。半音進行する部分もあり、やがて来る不安を現しているようだ。後半はそのまま1部を彷彿とさせる緊張感が心地よい。
 
交響的変容 第3部「ビートリズムの変容」(27分)

 アフリカで生まれ、ジャズやロック、ポップスの元になった独特のリズムを作者はあえてビートリズムと呼び、単なる拍の概念と厳格に区別している。ジャズの和声に惹かれたという水野は、ここでジャズのリズムにも傾倒してることを惜しげもなく露呈している。ジャズオーケストラのための作品も書いている水野らしく、リズムの原動力たるドラムスを含んだビッグバンドがダイナミックに活躍し、ティンパニと和太鼓のソロが縦横無尽にリズムの饗宴を主宰する。

交響的変容 第4部「合唱とオーケストラによる変容」(116分)

 (各章へ仮にタイトルをつけると以下の通りだそうです。)

  第1章「予感」(9分)
  第2章「核と原爆への恐れ」(4分)
  第3章「原爆の章」(31分)

 (ここで休憩が入ってもよい。)

  第4章「キリエ(神よあわれみ給え)とカオス」(15分)
  第5章「新しい生命と喜びへの讃歌」(20分)
  第6章「無常観と祈り」(37分)

 どうですこの怒濤のラインナップ!
 
 前半の1〜3章は無調様式による。1章はどこか西村朗のような、茫洋たる暗黒の中に金属打楽器がプリズム的に鳴り渡るという響きではじまり、それが巨大化して、やがて恐ろしいハミングも加わり、ホルストの海王星のようにも感じられ、そうするとまるで白色彗星の登場みたいだ。

 2章はクラスター技法により、原爆関連の詩がシリアスに歌われる。カオスと12音のここは、まさしくゲンダイオンガクで、20世紀の重要なワンシーンを事象からも音楽からも鋭く斬りとっている。
  
 3章は前半のクライマックスで、長大な緊張空間が表現されている。原爆体験が描かれ、ヴォーカリーズによる阿鼻叫喚が、混沌とした管弦楽の中で亡霊のようにさまよう。音というのは聴覚の不自由な方をのぞき、どのような場合においても事象における重要なファクターのひとつなのだということを再認識する。無調様式の実力発揮というところか。もの凄まじい迫力だ。激しいビートリズムの再現の後、終盤からは鎮魂歌へと変容し、永遠の魂の安らぎと怒りを深く湛える。

 後半部は一転して無調の嵐より調性音楽へ回帰をみせる。原爆により傷ついた現代人は、救いと気付けを求めているのだ。(癒しなんかまやかしだ!?)
 
 4章はひと言でいうとまるで超アイヴズ!!

 最大6群の合唱と3群のオーケストラ(指揮者は9人ですって。奏者の中から臨時の指揮が出るのかな?)が現代都市の反乱する音の洪水さながら、ワーグナーから12音からキリエから、東南アジアの民謡、原爆の詩、めちゃくちゃ。凄まじい。おそるべし。それが次第に集約され、最後は、「日本の追分ふうなボーカリーズに収斂しユニゾンで歌いながら合唱は席に戻る。」(水野)
 シアターピースにもなっているんですね。さすが柴田南雄の弟子?

 5賞と6章はいよいよ巨大な交響的変容の終着点となる。合唱と管弦楽により滔々と大河の流れる様のように音楽は流れる。
 
 5章は7つの部分から成り立ち、合唱が続けざまに歌い継いでゆく。その様相がまさに変容ということになろう。

 幽玄の奥よりかすかに響いてくるのは、まず、法華経。その後、やや音量を強くした無言のハミングが間奏の代わりとなる。作曲者の作らしき詩。アニュスデイ。ヴォーカリーズ、ヴォーカリーズ、フーガと続く。後半では第1部の響きも聴こえてき、カオスも登場する。

 5章は、大きな、本当に大きな6章の前奏とも云えよう。40分に近い膨大な規模の第6章こそ、3時間にもおよぶ全変容の帰結するところである。

 終曲は8つの部分からなる合唱と管弦楽の変容。再び法華経が聴かれるが、2群の合唱によって男声が法華経、女声が作者作の現代詩と歌われる。その部分はオーケストラの伴奏も相まってとても美しい。それからなんとマーラー第8交響曲からの引用があり、ソプラノソロが登場する。ここでソプラノは、「グレートヒェンが歌いながら天から舞い降りてくるイメージ」 を高らかに歌う。ここの部分は(前にも似たような雰囲気があったが。)とても松本零次のアニメみたい。つまり宮川奏か。

 ソロは無言歌で、その無言歌を合唱が受けて、オーケストラと共に「テゥッティの変容」(1部から3部までが同時に変容されている。)を形作る。ここいらはまた多分にアイヴズ的なカオスであり、情報が、発した本人の人間たちまで混乱し狂乱するほど氾濫している20世紀から21世紀の社会にあって、よく表現していると思う。それから法華経とファウストの同時進行という、おそるべきまでに大胆不敵な部分へ突入する。分厚い響きが合唱といっしょにじわじわと積み重なり、やがて頂点に達すると、変容第1部冒頭が再現される。あの輝かしい人類の夜明け〜〜ッ! という、壮大な音響に、今回は合唱までついているから、いうことはない。

 いよいよ8つめの部分において、大コーダが開始される。壮大な絵巻も、ついに終わりを迎える。この音楽を聴いて、「無限に広がる大宇宙」を思い浮かべない人はいないような気がする。もしくは、人間普遍の、大きな精神文化か。
 
 大きく賛美が終わると、またも法華経とミサが同時に鳴って、やがて終わりを告げる。

 このように巨大で膨大な音楽ではあるが、非常に構成的で、かつ、旋律・展開共にとても分かりやすいため、意外に苦なく聴ける。また何度でも聴いてみたいと思わせる楽しい部分、美しい部分、苦しい部分、まさに人生模様が随所にあり、人間くさいナマの音楽、マーラーに通じる人間讃歌と云っていい。

 しかしとんでもない音楽だ。こういう音楽を聴けるだけで、なんかワタシはとても心が充足した、満ち足りた気分になってしまう。音楽的な価値とか、意義とか、そういうものよりも、とにかく、楽しいし、面白いし、きれいだし、わくわくして、なんかとっても、素敵だと思った。

 水野の交響詩の解説において、水野は日本のマーラーだ、という一文が「名曲大全 管弦楽曲編」にあったが、既に持っていた2番交響曲と交響詩「夏」だけでは、そのようなイメージはわかなかったが、交響曲の前にこんなまさに21世紀のマーラーというべき作品があったのでは、その説にはおおいに賛同する次第だ。それは規模だけではなく、周囲の音楽を大胆に取り入れる手法、大規模な管弦楽と構成力、メロディアスな懐古さと現代的なサウンドの融合、世紀を跨ぐにあたりよく過去と未来をつないでいる様といい、それぞれどの部分をとっても、そう思える。ちがうのは、マーラーのように暗くないだけだ。ここにあるのは、全体的にとてつもない陽の気、つまり太陽に他ならない。

※ このCDは非売品のプライベート盤ですが、水野先生のホームページで直接購入できます。興味のある方は検索してみてください。


11/24

 松村禎三の新しい作品集がでたので買いました。声楽作品を中心に編まれています。

阿知女(アチメ)〜ソプラノ、打楽器と11人の奏者のための(1957)

 こりゃびっくりしたですねえ。28歳のときの作品だそうですが、わしゃ伊福部昭の弟子でござる! と大声で叫んでいるような、古代日本パワー炸裂作品。当時流行りかけていた12音へ敏感に反応し、伊福部流の反骨精神で、とにかく生命パワーあふれる音楽を創りたかったとのことで、それは見事に結実している。神楽の作法にインスパイアされなたものなので、ときどき大栗裕の神話のような響きがする。こっちが先だけど。

ギリシャによせる2つの子守歌(1969)

 これはピアノの小曲だが、古代ギリシャの旋律というのは、こんなにリリカルなものだったのだろうか。1曲目冒頭のそれがそうだというのだが、新鮮であり驚愕だ。旋律から発展して1曲目があり、それに触発されたモティーフ(作曲者オリジナル。)をもって2曲目としている。子どものための音楽ということだそうだが、素敵すぎて大人も魅了されてしまった。夢見るようなメロディーの中に、ときおり苦い味が混じっていて、これを理解する子どもはずいぶんと耳と心がいい。
 
軽太子(かるのみこ)のうたえる2つの歌(1973)

 軽太子は19代允恭天皇の皇子だが実の妹とデキちゃって、伊予の国(松山)に配流の身となった人らしい。昔のえらい人には、そういうことはけっこうあったみたい。流罪にあってもなんの反省も無く、妹とまたヤリたいなあ、という歌が悩ましい。
 近親愛は実はすごい普遍的で現代的なテーマであるが、作曲者がなんでこんな素敵な曲をつけたのかは謎。でもやっぱりときどき苦味がある。

歌曲集「貧しき信徒」(1986)

 夭逝したキリスト教徒の詩人八木重吉の短詩から選んだテキストに作曲している歌曲集だが、ここで歌われるキリスト教は、まるで江戸時代の切支丹たちが隠れて拝んでいたような背徳のにおいがする。
 
巡礼−ピアノのための−I,II(1999)

 点描チックな現代作品だが、瞑想的かつ動的な雰囲気がなんともいえずすばらしい。


11/15

 来年のPMFにおける指揮者が決まったのですよ。

 なんとゲルギエフ登場!! チャイコのバイオリン協奏曲とショスタコの11番!!

 ぜったい行こう。

 客演にはMDR交響楽団首席のファビオ・ルイージがマーラーの6番を!!

 行かねばならぬ。ウェイピンで中国の不思議な役人も行ってみようかな。
 
 なんかさんきんいろいろと下らぬ用事が多々ありまして(会社の仕事とか。)せっかく買ったCDもあんまり聴いてませんが、少しずつ聴いてます。

 岩城/ 都響 黛 涅槃交響曲  
 奈良法相宗薬師寺声明「薬師悔過」
 
 黛は有名なわりにそれほど録音があるとも思えない。しかし代表作の涅槃交響曲だけは、幾種類かあるようだ。

 都響との共同制作のこれは邦人作品集にありがちのライヴ録音ではなく、作曲者監修のスタジオ録音である。ライヴ独特の熱き想いというのもあるいは鑑賞の楽しみではあるが、たまに間ちがったりもするし、ましてや現代音楽において、確実な再現になるとも限らない。そういう意味で、模範的演奏ということで、スタジオ録音があるのは、非常に貴重なことだ。
 
 涅槃交響曲は一種のシアターピース調に、客席の中にもアンサンブルが配置されている(知らなかった。)ので、正確な音響というのはまさにライヴ会場でしか味わえない。ステレオとは云え、さいきんようやく出てきたドルビーサラウンド5.1チャンネルでも無ければ(しかも録音がそれに対応していなければ。)涅槃の本当の響きは再現できるものではないから、そこは割り切らなければならない。
 
 それでも、いつ聴いても重厚な意義のある、すばらしい作品だと素直に感じる。初めて聴いたときは、バスのソロが大声でお経を唱えだしたときはどうしようかと思ったが。(笑)
  
 知らない方のために簡略に説明すると、これは黛がお寺の鐘の音を音響学的に解析し、それをオーケストラで鳴らすという前代未聞の作曲手法がとられている。

 正直、わたしはあんまり梵鐘には聞こえないのだけれど、アイデアや意義としてはすごいものだ。お寺の鐘そのものではなく、あの独特の「オーン」という余韻がオーケストラ全体でゴゴゴゴと鳴る迫力は凄まじい。(会場だったらそれが周囲から聴こえる。)
 
 そもそもキリスト教会においての合唱が西洋音楽の基礎だとすると、仏教におけるそれをクラシックで行なうということは、真に東西合体の妙だと思う。そういう純粋な興味深さや面白さが、最高に最良の形で表現されている作品だ。

 演奏に関しては、まだ入手が2種類目なのでなんとも云えないが、「不思議な作品」とか「まったく新しい作品」とかいう、まだこれがゲンダイオンガクだった時代の録音よりも、90年代に入って日本音楽の古典に位置し始めてきた(作曲者が死んでしまったいま、本当に古典になってしまったが。)ころの、落ち着いた、楽譜をじっくりと鳴らした、音楽そのものを楽しめる演奏に感じた。
 
 しかし、大澤のピアノ協奏曲(1938)よりもずっと新しい音楽(涅槃はちょうど20年後の1958)なのに、初めて録音が出た大澤のほうが真新しく感じるというのは、まったく日本音楽の逆転現象で、いかに日本人の作品鑑賞形態が捻じれているかの現れだ。
 
 同録の薬師寺声明は黛が企画に際し、自ら選んだもの。とても音楽的な内容になっている。これは本当のお寺のお経。


11/3

 水木しげる先生が旭日小綬章を受章されましたようで。おめでとうゴザイマス。小綬章は勲4等です。それに先立ち、28日には伊福部先生が文化功労者に認定されまして、おめでとうゴザイマス。
 
 お二人とも伊福部先生が80年、水木先生が91年に紫綬褒章を受賞されています。紫綬褒章とは 「学術、芸術上の発明、改良、創作に関して顕著な功績をあげた人を対象に授与される国家褒章」 でありまして、さいきんは漫画家や芸能人なんかもそれへ含まれるということで、素晴らしいことです。

 勲章と褒章はちがうもので、まあどっちがえらいとかいうのはあまり意味がありません。(何等とかいうのをやめる話も出てきています。)

 あとは文化勲章だな。(くわしくは内閣府のホームページをご参照ください。)

 そんなわけで、さいきんますます伊福部づいている私ですが、前に店頭にあったときはカネがなくて買えなかった舞台音楽全集を入手。
 
 舞台音楽といっても、ふつうの劇ではなく、劇と歌舞伎の中間ぐらいの新歌舞伎というもののための音楽らしい。くわしくは知らないが、スーパーカブキともちがうようだ。
 
 新録音ではなく、舞台でそのまま使われた音楽の再現という制作意図であるため、マスターテープよりの復刻となり、すべてモノラル。しかし鑑賞に耐えうる音質ではある。

 CD4枚に8種類の劇音楽が納められているが、劇の題目が重厚なもののためか音楽もみな重厚で、似たものを選べばバレー音楽「人間釈迦」から編まれたシンフォニックオード「釈迦」だろうか。
 
 元はカブキの演目や時代劇映画なので、邦楽が入ったり、ヨオーッ とかいう掛け声も入っている。しかし中には座頭市など映画からも転用されているためギターが入っていたりと、芸が細かい。怪獣映画と異なり主旋律は主にすべて弦楽で、なんとも哀愁をおびたその旋律線が胸を打つ。基本的にみんな人情ものなのね。人間ドラマだなあ。
 
 舞台の演目は次の通り
 1集 織田信長 織田信長・本能寺の変
 2集 反逆児(徳川信康の物語) 任侠・木曽街道 中乗り新三
 3集 新雪 南部坂(忠臣蔵より) 最後の将軍−徳川慶喜−
 4集 座頭市物語 柳(三十三間堂棟の由来より) 

 あとどうでもいいが、ミスプリで、二集と三集が、舞台音楽「全長」になっている。全長ってなんの全長だよ。


11/1

 むかし、ムラヴィンスキーがプラハを訪れコンサートをやった。そのときのライヴ録音が幾つか残っていて、セットで販売されていたのを、中古で買っちゃった。このうち、ショスタコーヴィチの11番だけバラ売り分で前から持っていたが、4種類もあったとは知らなかった。

 4枚セットは以下の通り。

その1
 ショスタコーヴィチ5番 バルトーク弦楽器と打楽器とチェレスタのための音楽
その2
 ショスタコーヴィチ6番 12番
その3
 ショスタコーヴィチ11番
その4
 ショスタコーヴィチバイオリン協奏曲1番(これだけチェコフィル。ソロはオイストラフ)
 プロコフィエフ6番

 その1を聴いてみましょう。

 ムラヴィンスキーのショスタコ5番といえば、まあ18番ということで数々の録音が残っています。いろいろ聴いてますが、本質的な演奏の質はあんまり変わらないので(若いときは響きが凝縮してテンポも早め、晩年はさすがにアンサンブルが乱れてきているが、そんなことは小さいことだ。)問題は録音状態になる。

 プラハでの録音はスーというノイズが入っているのが少々残念であるが、演奏そのものは、安心してムラヴィンスキーの芸術を味わえる。ともすれば陳腐な祝典劇に終わってしまいがちなこの5番を、ムラヴィンスキーは心底深く掘り下げる。チョンミュンフンが音楽の音符をスコップで掘り下げるんだ〜となんかの番組で息巻いていたが、偉大な先輩はあのしかめっ面で独りそれを追求していたのじゃ。

 タイトルが長いのでいわゆる弦チェレといわれるこの「音楽」は、ちなみにピアノは打楽器として扱われている。ムラヴィンスキーアンサンブルの特徴は弦楽器に異様な圧力がかかることで、それがアレグロで一糸乱れずギシギシいうところだ。それは他の曲でもそうなのだけれども、ベートーヴェンやワーグナーではなかなか味わえない凄味というべきか、バルトークやショスタコーヴィチからよく聴こえてくるものすごいエネルギーが存分に確かめられる。うーん、会場で聴いていた人がうらやましい。

 その2はどうだろう。

 ムラヴィンスキーはショスタコーヴィチとのつきあいは5番以降だとして、4番までを省みなかった。4番はとても素晴らしい作品で、あの弦楽アンサンブルはムラヴィンスキーにこそ録音してほしかったがしょうがない。

 その代わり6番がある。ショスタコーヴィチの6番は5番と7番の巨峰の間に挟まれた地味な名曲で、特に1楽章の深さは5番や7番の比ではない。5番も7番も一種のイベント音楽の嫌いがあるが6番には無い。純粋に音楽の深さを堪能しましょう。

 残念ながらムラヴィンスキー以外の録音でムラヴィンスキーの深さに迫るものは聴いた事が無い。それ以前に録音自体が無いわけだが。。。
 
 12番「1917年」はこれは本当にイベント音楽で、開き直って演奏する方が正しいのかもしれない。それがムラヴィンスキーはかなり深刻に演奏するのだ。だってあの嵐のような革命を、そうそう簡単にヘラヘラ演奏してたまるものか、といったほどだ。ギュンギュンうなる弦楽、ドカドガと炸裂する金管と打楽器、剣のような木管。うーん、凄い。すごすぎる。

 その3は同じく11番「1905年」が納められている。2つとも革命記念の音楽だが、祝典音楽というわけではないところにミソがある。この暗いムードは何を意味するのか。この激しい闘争はなんなのか。あの革命はいったいなんだったのか。ショスタコーヴィチは10番を作曲した後、改めてソ連という怪物を問い正す為に、革命讃歌の装いを持った2曲を作曲したようにも感じる。ムラヴィンスキーこそがその真意をとらえている。

 なおこの11番だけチェコでのスタジオ録音であるらしい。
 
 その4はバイオリン協奏曲とプロコの6番だが、両方、ムラヴィンスキーが初演している。ムラヴィンスキーは自分が初演して捧げられた音楽を本当に大切にして、重要なレパートリーにしている。とうぜん、表現は深く、しかも厳しい。それへ耐えうる作品のみをまた、作家も献呈しているようにすら思える。

 ショスタコーヴィチ/バイオリン協奏曲1番は、いわくがついていて、作曲から7年もたってようやく演奏された。それは、第二次大戦中に作曲していたが、例の9番の初演の後当局にかなり叩かれて、似たような形式(内容ではない。)の協奏曲の発表を控えたという事だそうです。

 協奏曲はあまり聴かないので、くわしい評価はできないのだが、オイストラフがいうには、コンチェルトの枠組みをはみ出たシンフォニーに匹敵する音楽だそうで、ブラームスにも似た構成で(4楽章制でブラームスのピアノ協奏曲2番を意識している?)ガッチリとした確かな響きです。

 さて、このセットの白眉にして本命はこのプロコフィエフの6番かもしれない。私は最近にわかに、好き嫌いは別にして、作曲家としての腕前だけを見るならば、ショスタコーヴィチよりプロコフィエフの方がずっと上だと思うようになってきた。

 詳細はそのうちプロコフィエフの交響曲のページを建てるとして、7曲の交響曲も、ショスタコーヴィチの15曲に匹敵するかそれ以上の価値を持っているのだが、省みられていない度はある意味ショスタコーヴィチ以上だ。

 特に最も深い意義ある音楽が6番だと思っている。形式的に不統一だと感じる向きもあるようだが、私はそう思わない。またそれは小さいこだわりだ。

 1楽章のムラヴィンスキーの表現の凄まじさ、2楽章の深淵さ、そして3楽章の眼が回るほどの猛烈なテンポで大管弦楽が追い立てられ、悲鳴を上げる様は、旧ソ連の弾圧風景を思い起こさせるのだ。プロコフィエフ、あなどれぬ。1番と5番だけを売れるからってチャラチャラ録音している場合ではない。2番とか3番とか、6番とか7番とか、涙が出るくらい無いですよね。録音が。そうい意味でも、ムラヴィンスキーはやはり慧眼だと思う。


10/29

 中古CDで、1986年にでた伊福部昭のサントラを入手した。これは本田猪四郎監督のインタビューなどもおりまぜた、円谷英二が撮影した未使用フィルムを編集したビデオ作品のために、サウンドトラックとして新たにオリジナルスコアから演奏し直したもので、しかも作曲者慣習というまさにお宝。
 
 むかしの映画のサントラなんてたいてい当時のモノラル音源のままCD化して、それもまたある意味価値はあるのだが、音楽鑑賞としては耐えられるものではない。
 
 我々新しいファンは、いまSF交響ファンタジーなどで当時の燃える楽曲の数々を重厚なオーケストラで聴くのだが、ほぼ原曲からの再編集を上質のステレオで鑑賞できるというのはとても価値があることだ。

 特に、SF交響ファンタジーに採用されなかった曲は貴重だ。ドゴラ対自衛隊 とか 地球防衛会議 とか。

 いい買い物をした。(満足。)

 詳しい内容は伊福部昭のページでどうぞ。


10/16

 フランスEMIからマルケヴィチのストラヴィンスキー・プロコフィエフ作品集がでていたのを見つけたので、買ってみました。

 マルケヴィチ/フィルハーモニーア管・フランス国立放送交響楽団
                   
 ストラヴィンスキー/春の祭典 ペトリューシュカ組曲 ディヴェルメント プルチネッラ
 プロコフィエフ/3つのオレンジへの恋組曲 スキタイ組曲 鋼の踊り組曲

 春の祭典は何種類か録音があるが、まったく相変わらずモダンでハードで情緒のかけらもない、大型重機のようなハルサイだ。ハルサイの一つの究極の形を成していて、わたしはいつ聴いても最高に満足する。

 珍しいのがペトリューシュカ組曲で、作曲者以外の演奏はCDでは初めて聴く。

 選曲がまた、作曲者の録音とは異なっている。自作自演の録音では、第3場がまるごとカットされているが、マルケヴィチは、1場からロシアの踊り、2場(ペトリューシュカの部屋)、3場カット、4場(謝肉祭)というもので、こういうのは指揮者が自由に選んで良いのかもしれない。

 演奏はやはりバレーの幻想的な情緒とかを徹底的に廃した、本当にマリオネットの動いている様が表現されている。しかし、その人形は布ではなく、やはり鉄だ。エンディングは、演奏会用の珍しいもの。指揮者のこだわり。

 ディヴェルメントはバレー妖精の口づけからセレクトされた組曲で、新古典主義時代のもの。同じ新古典技法でも、プルチネッラのほうがおもしろいし、いい曲だ。エッジの効いた、鋭い演奏だと思う。

 プロコフィエフは、モノラルも手伝って、さらに古めかしい。ゲルギエフなんかと比べると、まったく白黒のニュース映像を観ている感じで、それはそれでまたリアルか。


10/12

 かつて10月10日なんて体育の日だったのが、いつのまにやら10月1日は国際音楽の日というらしい。そもそも音楽振興法なんて法律、できてたんだなあ。
 
 そんなわけで、地元出身の3人の音楽家を招き、国際音楽の日記念音楽フェスティバルが開かれたので、チケットノルマを果たしつつ、行ってきたのであります。

 指揮 十束尚宏 管弦楽 札幌交響楽団

 音楽家 上野真(ピアノ) 土田英介(作曲) 立野至実(ソプラノ)
 
 曲目 ブラームス 第2ピアノ協奏曲
    土田英介  光陰(とき)の空間から
    ロッシーニ 「トスカ」愛に生き恋に生き
    ヴェルディ 「アイーダ」勝ちて帰れ
    ヴェルディ 「運命の力」序曲
    ヴェルディ 「運命の力」神よ平和を与え給え

 いやあ、音楽は素晴らしかったのですが、いかんせん、地元の田舎ホールが、恥ずかしいぐらいにヘッポコで、申し訳なくて泣きそうになりました。日本フィルとか来るたびに、ほんと心のそこから恥ずかしいです。
 
 オーケストラには色々な楽器があるわけですが、芥川也寸志がいうまでもなく、ホールは最後の楽器なわけであります。そんなの、この項を読んでらっしゃるみなさんには常識の識なんですが、ふだん音楽聴かない人、または、あのヘッポコホールでしか合唱とか吹奏楽とかを聴いたことのない人にとっては、それが分からないというのだから、仕方がないというか、恐れ入るというか。
 
 特にホールの予算を握っている市の人間が、分からないなら分かっている人の云う事を聴けばいいのに、財政難を理由に、外壁やトイレや展示室は直しても、かんじん要のホールを直さないんだから泣けてくる。温泉なんか掘ってる場合じゃないだろボゲ。
 
 何がすごいってみなさん、聴いて驚いてください。
反響板が小さくて、目一杯ステージを使えません。無理にステージ上へ場所を確保すると横側の反響板に隙間があきます。1メートル半ほども開いてました。仕方がないのでその隙間をカーテンで埋めます。さらに今日みたいな現代曲をすると、打楽器いっぱいで、管楽器に雛壇も組めません。もう、どれだけ音響が殺されているか、暴れたくなるぐらいです。なにが文化都市だ。ばかばかしい。恥を知れ。
 
 ついでに緞帳が降りてきますので、その緞帳の下の部分が、天井付近でブラブラしてます。それにも大分、音が殺されてます。ホール内では、音響設計のなされていないむかしの壁がむき出しで、ぜんぜん音が跳ね返りません。
 
 あーうー。うおおおー!!!!
 
 そんな環境だったにもかかわらず、熱演してくださいました音楽家の皆様方には、感謝の気持ちでいっぱいです。
 
 ブラームスは、上野さんのピアノと格闘するほどの熱演が拍手いっぱいでしたが、それぐらいしないと音が飛んでかないと打ち上げで笑っていた。管楽器が平面に並んでいるので、ぜんぜん聞こえて来ない。札響のみなさん申し訳ない。ホール側の責任です。
 
 立野さんのドラマティック伊太利発声による大熱唱も、キタラだったら20倍は朗々と響いていたでしょう。もったいない。
 
 ここで土田英介の紹介。
 
 芸大作曲科の院を修了後、卒業作品を改作した管弦楽のためのエッセイで日音コンクール作曲部門1位。1988年、民音委嘱作の交響的譚詩が初演。室蘭市白鳥大橋開通記念委嘱作バイオリン協奏曲が1998年初演。2001年、光陰の空間よりを愛知学泉大学より委嘱される。他に室内楽多数。ピアニストとしても活躍。作曲を松村禎三、黛敏郎、川井学、木村雅信に師事。
 
 管弦楽作品のCDは交響的譚詩が民音現代音楽コンサート88でカメラータトウキョウからでている。
 作風はまあ〜メシアン、ストラヴィンスキー、松村、黛、三善、そんなあたりが出ては消え、出ては消え、のものだが、音響エネルギー的な音の構造物という点では非常によく出来ていて、また、シリアスながらもメロディアスな部分があってとても聴きやすい。前衛的手法と調性的旋律美がよく融合された佳品。個展CDがフォンテックかカメラータから出てもいいような気がするが。
 
 そんな「光陰の空間から」も、超ヘッポコホールでは音響設計の50%しか効果が現れていなかった。ブラームスですら音が飛んでこないんだから、こんな現代音楽、
壁を通して聴いているみたいだった。作品の真価をまったく伝えておらず、演奏も作品もなんとも評価のしようがない。
 
 せっかくの打楽器の特殊奏法(ビブラフォンを弦弓でこする)も、ぜんぜん。ボヤーン。
 
 たいてい、我々がコンサートで聴くのはもう死んじゃった作曲家の音楽で、作曲家といっしょに聴く、すなわち現代、いま、我々といっしょに生まれて生きている音楽を生みの親といっしょに聴くと云う体験は、東京やそこらの大都市ならいざ知らず、こんな田舎ではなかなか体験できない非常に貴重なものだ。
 
 その貴重さをあまり理解しているひとは、札幌でもあまりいない。(PMFにおける、レジデント・コンポーザーの作品発表会に来るのは、PMFの学生のみ)
 
 そんな貴重な機会をぶち壊してくれた文化センター大ホール万歳。
  
 せっかく高級食材をプロのシェフが料理しても、家庭用のガスコンロじゃ、それなりの家庭用チャーハンしかできないというのと似ている。


10/6

 ヤンソンス/ロンドン交響楽団
 マーラー第6交響曲
      
 なんだか雑誌の評とかをみても(パイパーズ)けっこう評価が高いこの演奏。金管がすばらしいとか、なんだとか。私とは再生装置の性能がちがっているとしか思えない評だった。(たぶん私のがガッサイのだろう。)
 
 スケールの小さいタイプの演奏の、わるい点がいっぱい出ているような気がする。こういう響きに対する好みの問題はなかなか難しい問題なので、おれがよくてもひとはダメな場合、逆の場合、いちがいに断定できないものなので、ダメ出しをするつもりはないが、せっかくの大曲を、しかもイヤでも効果映えするマーラーを振ってて、なんともつまらない演奏しているなあ、というのは強く感じた。
 
 マーラーの演奏で苦手なもののひとつに、こういうスケール感の小さいものがある。響きが凝縮していても、それはそれで勢いがあったり、濃密だったりすると楽しいのだが、特に6番や9番なんかでわるい意味でスマートにやられると、音楽そのものはぜんぜんスマートではないので、広大な音楽世界をむりやり切り取って額にはめたような、非常に窮屈な印象が与えられるのだが、他の人はどうなんだろう。
 
 あくまで第一印象だけなので、そのうち聴き直すと、ひょっこり評価が変わる場合は多い。オケがうまいから★4つ。
 
 トーマス・ザンデルリンク/サンクトペテルブルクフィルハーモニー管弦楽団
 マーラー第6交響曲

 トーマスってのは、機関車じゃなくって、クルト・ザンデルリンクの息子。ザンデルリンク(親父)のマーラーなんて、なかなか重厚でいいものですよ。
 
 この6番は前にCD屋で 「スゴクいい!!」 とポップ表示があって、「騙されたと思って買ってみて!」 とか、そういう感じであったのだが、本当に騙されたらイヤだったので買ってなかった。高かったしね。今回、廉価版が出たらしいので(輸入には変わりない。)買ってみたのですよ。
 
 眼からウロコがオチまくりました。 
 
 これはホントにイイ!! 騙されたと思って買ってみてください(笑)

 いいというのは、ノリがいいという意味です。ヤンソンスのほうが、上手な指揮かもしれない。しかし、スヴェトラーノフの6番なんかもっとゴーゴーゴーだし、それよりゃ近代的な指揮ぶりです。とはいえ、ロシア流の、ぶっといマーラーです!
  
 昨今、こんな原色のマーラー、滅多にないです! お上品な、スコアをお上手に鳴らしたものとは、ちょっと路線がちがう。St.ペテルブルクフィルも、よくこんな豪快な演奏したなあ! テルミンじゃなくってテミルカーノフの下で、なんともピンボケしたくそつまらない演奏ばかりやっていたはずなのに、金管のこの鳴り!
 
 しかも、ただデカイ音を出しているのでもないんです。そんなことしたら6番はたちまち混沌のゲンダイオンガクと化してしまい、ここもまたバランスコントロール、そして音響効果の問題。ザンデルリンクは、よくスコア読んでますよ。そのうえで、とても上手な演出をしています。ゲルギエフといい、こういう演奏がロシアで流行っているのか!? それともザンデルリンクが6番フリークなのか!?

 オケも、いつの間にかうまくなってるんだなあ! 旧レニフィルは指揮者ともども別格として、よく鳴っている。こういう、目一杯鳴るというのは、マーラをやるうえでとても大事。鳴らしっぱなしもダメだが、いざというときに鳴らないマーラーはまさに欲求不満の元以外の何モノでもない。
 
 1楽章はどちらかというとイン・テンポで、ことさら速くしたりアゴーギグが激しかったりするものではないのに、この面白さ。重厚な音楽の重厚さを良く強調しているといえばよいのか。金管と打楽器がすばらしい効果。
 
 2楽章も、テンポはどっしり型。エキセントリックでヒステリックな響きが、マーラーしている。なのに、ゆったりと落ち着きはらった音楽でもある。そういう矛盾、諧謔、滑稽、自虐。すべてマーラー。打楽器鳴ってます。打楽器好きは必聴です。(笑)
 
 3楽章。いきなり3番の世界が目の前へ現れる。あの雄大な原風景がひろがる6番のアンダンテは、初めて聴いた。おそるべし。
 
 4楽章は深遠な世界が奈落の底の地獄絵巻を地上に顕現させるかのように広がっている。呈示部に到ってよりの荒ぶる魂、ここにマーラーあり!

 そして、けしてメチャクチャになってないのがミソ。(しかし、人によってはさすがに金管と打がうるさいと思う人がいるかもしれない。前に出すぎというか。しかし、私なんかはうるさいぐらいがちょうどいいがねえ。というか、これは例のロシア吹きなのです!)

 テンポも遅めで、じっくりと音楽が「展開」する。

 しかしシンバルもロシア流だなあ。うひょ、このカウベルのリアルな音。まるでアルプスの少女ハイジの、本当にアルプスに行って録音してきたヤギベルの音のようだ。(?)
 静かな部分も、繊細で丁寧な表現というよりは息をひそめている感じ。

 そしてハンマー!! は、まあふつう。(笑)

 2度目のハンマーの後の、展開部の最後の部分が最も盛り上がっている時点で、この人は6番を分かっているなあ、と感心する。3度目のハンマー部は、力つきた様子が見て取れる。(指揮ではなく、音楽が、ですよ。)その演出をするためにも、直前の部分が最高に盛り上がって、徹底して運命に抗わなくては6番の4楽章の意味がない。
すなわちそここそが6番交響曲の白眉なのです!
       
 こいつはすばらしい! 本当にすごいです。参りました。脱帽。音もいいです。(なんたってレーベル名がリアル・サウンド) もちろん★5つ。


9/29

 またいろいろ、面白そうなマーラーを買ってきたので、順番に聴いてみる。
 
 ギーレン/SWR交響楽団 1番
 井上/新日本フィルハーモニー交響楽団 6番
 ゲルギエフ/ロッテルダムフィル 5番(2001 L)

 手始めに3曲だ。ゲルギエフは海賊。井上はエクストン。ギーレンは一連のシリーズの最新作。
 
 ギーレンのシリーズは、あまりにもライトな響きがして、わたしはあまり得意ではなく、6番をためしに買って以来手を出していなかったが、この1番は純粋「面白い」1番に感じた。いわゆる深刻でもなく、芝居がかっているといってもクドクもなく、なんともサラッとした流れの中で一気に通してしまうような演奏だが、それが1番に合ってるんだなあ。だからといって、妙な部分に妙な強調とかあり、それが面白い。1番の中では、かなり聴けるほうだと思います。1番はマーラー初心者にはいいけど、聴き込んでくるとなんとも単純で、聴きづらい作品ですので。★5つ。
 
 井上は2度めの6番。いわゆる再録。前の、ロイヤルフィルの6番は買わずに友人から貸してもらって、買わなくていーや、と思って買ってなかったが、今回は前よりイイというので買った。指揮者本人は前とたいして変わってない(はず)と云うのだが、前よりイイぞよ。日本のオケは、マーラーなんかでも常に全力を出す部分があるような、6番や9番あたりを演奏するととたんに自力の無さを露呈する団体が多いのだが、新日フィルは安定しているほうだと思う。★4つ。

 ゲルギエフは2番で海賊があったが、なんかイマイチな気がした。しかしこの5番は良い。良いというかクドイというか(笑) ゲルギエフのこういうコテコテ解釈がよく計算されたものだということは周知だから、ただ感情にまかせて演奏しているという批判は的外れだ。私にしてみれば、なんとも懐かしいというか、かつてのバーンスタインやテンシュテット流に近い、動きが激しく感情的・有機的なつながりのあるものだが、(28日の教育のインタビューで云っていたが。)常にオケを最高のレベルまで引き上げる努力をしている証なのだろう。正規盤で出れば、かなりの高得点だぞ。これも★5つ。

 次はヤンソンスとザンデルリンク(息子)の6番2種
 


9/23

 芥川也寸志メモリアル、オーケストラ・ニッポニカの様子は私も雑誌かなにかで見ていたのだが、4月にさっそくCDになり、9月になって遅ればせながら買ってみた。

 主眼は知られざる日本人作曲家と、作品の紹介。カッコ内は作曲年代。

 橋本國彦 感傷的諧謔(1928)
 宮原禎次 交響曲第4番(1942)
 大澤壽人 ピアノ協奏曲第3番(1938)

 早坂文雄 管弦樂曲「讃頌祝典之樂」(1942)
 信時 潔 交声曲「海道東征」(1940)
  アンコール 芥川也寸志 赤穂浪士のテーマ(1963)

 これらが2回のコンサートの別れて演奏され、その模様が2枚のCDになったのだ。

 メインは大澤とコンチェルトと、信時のカンタータ。

 それらの間にひっそりと咲いているような、重要な宮原のシンフォニー。

 橋本と早坂の小曲も、あなどりがたい。
 
 宮原は交響曲の項にアップしたので、ここでは割愛する。
 
 信時のカンタータ「海道東征」は件の皇紀2600年記念作品で、いわゆる記紀神話に基づく愛国ものの最たるもの。詩は北原白秋。内容があまりに愛国的なため、敗戦によりそういった愛国・軍国アレルギーとなった昭和後半期においては、わざと封印してきた作品。

 曲の内容としては旧ソ連におけるスターリン讃歌の諸作品みたいなものだが、別にショスタコの森の歌ではないが、信時が体制に迎合して云々といったエピソードはないようで、そこは明治20年生まれの、フツーの戦前の知識人的愛国者の手によるもので、特に戦争賛美者の側面をもっていたとか、ウヨクだったとか、そういうものではない。この作品を(聴きもせずに)見るだけで、ウワー、テンノウのために死ねとか、テンノウは神だとか、どうせそういうやつなんだろう、という人はたぶん多いと思われるが、牛糞に足を滑らせて転んだところを臼につぶされてしまいなさい。
 
 とはいえ、まあ、もともと機会音楽でもあるし、分かりやすくて親しみやすくはあるが、そうそうコンサートのレパートリーになるとも思えない。歌詞はもちろん日本語だが北原という超一流文人の手による明治の文語体であり、なに云ってるんだか現代人にはわからないだろう。特に4楽章は祝詞で、かなり難しい。音楽は平明だが。対訳がついている。4楽章は記紀神話を下地にし、海洋民族日本人としてのおおらかさを描いたと白秋は云っているとのこと。

 日本人として、よくも悪くも、知識として知っていてほしい作品だ。抹殺というのは、感心しない。それこそ、全体主義のすることだから。(森の歌がふつうに聴かれているのだから、これだってふつうに聴かれてかまわないと思うがね。天皇はダメでスターリンはいいのかね。)

 大澤壽人という名前は初めて聞いた。早くからアメリカやヨーロッパを歴訪し、フランスではブーランジェやデュカスに師事し、シュミットだのイベールだのと交遊を結んだという。初期のプロコフィエフばりのモダンさでパリではウケていたのだが、日本では当然のごとく聴衆のチンプンカンプン攻撃にあった。
 
 第3ピアノ協奏曲は、純国産部品による初めての国産航空機「神風号」の飛行新記録1周年記念にあわせて作ったとのこと。だから神風協奏曲なる、後年においてはなんとも物騒な副題がついているが、特攻とは関係ない。神風ならなんでも特攻と思うなかれ。不勉強を露呈するので注意。

 というわけで、飛行機コンチェルトなわけで、大澤モダニズム全開の、唸るエンジン、風を切る翼のすごいピアノパート。オネゲルのパシフィック231の系統とあるが、伊福部の協奏風交響曲よりかなり前の作品であるが、もっともっと本格的な、前衛作品だ。ただし12音ではない。

 休むことなくひたすら超絶技巧で回り続ける(飛行機のペラのように。)ピアノが難しすぎて、65年ぶりの再演。プロコフィエフやバルトークのピアノ協奏曲が好きな人は、聞いてみるとよい。


9/9

 中古で、マーラーの6番をかいました。ヤルヴィ/ロイヤルスコティッシュナショナル管弦楽団。シャンドス盤ね。

 1枚ものなのですが、案の定、速い速い! 1楽章冒頭など、シェルヘン級でした!(え、どれぐらいか分からない?)  20分で、繰り返し 「アリ」 なんですから。うわっ、わ、わ、わ、早え! ですよ。でも、第2主題は突然、ガクッと速度が落ちて、その落差を楽しむように、演奏しているのでしょう。4楽章も、そうだったし。3楽章も13分。でもセカセカしているとか、小粒だというわけではなく、スケールそのものは、とても大きく感じました。ヤルヴィの、うまいところなんですなあ。そしてトランペットの適当なミスなんかもまったく気にしないのは、ヤルヴィだからなのかシャンドスだからなのか。。。
 
 いい演奏です。気に入りました。★4つ。

 そしてですね、併録になんと 珍しい、 交響的前奏曲 が入ってるのです。(録音はたぶんこの盤のみ。)

 この曲は、1978年、マーラーが18才のときの作品でして、公式には散逸、破棄、もしくは記録のみ、となっているものです。1楽章だけ本当に残っている四重奏曲(1876)ともちがい、まるで残っていないみたいです。つまり、これは偽作、ニセモノであるという説が一般的みたいです。
 
 私も、正直、「こりゃ確かにマーラーじゃないわ!」 と強く感じました。じっさいは、分かりませんけどね。本当にマーラーの学生時代の作品かもしれないし。でも、どうも違和感あります。マーラーが本当に残したスケッチをかき集めて、誰かが作曲したみたい。← これって9番を聴いたシェーンベルクと同じような感想だなあ。
 
 6分46秒の、ロマン派ふうの珍品。やかましい曲ではありますが、どうにも曲想が陳腐。北欧系の響きがします。同じく学生時代の作で、破棄されたものに北欧交響曲とかあっかっけなあ、そういえば。おなじ旋律を同じ楽器で繰り返して、芸の無いこと。オーケストレーションも下手です。とても2年後に嘆きの歌を作るとは思えない。しかし、四重奏曲は、本当に技術的には良いのだが曲そのものは勉強作品の域をでない。そして、それから4年後には嘆きの歌を作っている。めざましいほどの進歩ぶりで、その過渡期と云われれば、そのようにも聴こえる。また、へたくそといえば、1番の幻の2楽章、いわゆる花の章がある。あれも下手だ。花の章は学生時代につくって棄てた歌劇の一部だということで、だとしたらこの下手さかげんも納得いこうというもの。うーんでも、どうだろうなあ。。。

 と、そんなことを考えると、楽しいなあという曲。


9/5

 音楽好きの大金持ちが、カネにものを云わせて楽団を雇ったりして自分で指揮したりするのは、どうだろう。悪趣味だろうか。確かに悪趣味だ。しかし、そんな大金持ちの中で 「本当に指揮者になれるぐらいの音楽的才能がある人」 が、かつていた。イギリス貴族のトマス・ビーチャム卿であるのだが、アメリカ人の大金持ちでギルバート・キャプランという人もまた、それなりのウデがある人なのだ。

 しかしキャプランは、本職の指揮者というには才能が足りない。また、かれはただ1曲を溺愛し、その1曲へ人生と大金を捧げた。

 それはマーラーの第2交響曲「復活」である。

 世界一の復活フリークとして名高いキャプランはストコフスキーの演奏に接して大感動し、いつかこの曲を指揮してみたいと夢見て、指揮を勉強し、たぶんカネにものをいわせて楽団を雇い、2番だけをひたすら演奏し、ついには2番だけそれなりの腕前になり、本格的な1流オケを含めた、世界50もの楽団でひたすら2番を指揮しているとのこと。

 これを只者ではないといわずして、なにを只者ではないというのか。

 中にはCDになっているものもあるのだが、今回はなんと、天下のドイツ・グラモフォンレーベルおいて、しかもヴィーンフィルハーモニカーでCDをだしてシマイマツタ。

 おそるべし。

 金持ちぶりを発揮しているのはそれだけではない。財団を設立し、マーラー直筆譜や校訂譜つまり「原典」を世界中の図書館やらを探して回り、研究し、ついに、マーラーが死ぬ1年前の1910年に校訂した総譜を発見。その表紙にはマーラーの直筆朱書きで、こう書かれているのだ。

 「訂正済み。これが正当なものであるとみなされるべきである。」

 その正当な楽譜を学者と共に研究して現行譜を校訂し、国際マーラー協会の公式総譜として新しく出版されたらしい。カネってのはまったく、そういう風に使うのだという見本。
 
 アメリカ人らしい金の使い方としては、キャプラン・コレクションでマーラーが使っていた指揮棒なんかも手に入れていたり。オークションで競ったのか、持ち主にドル札をばらまいたのか。それも正しいカネの使い方。

 校訂箇所は何百カ所にも及ぶようだが、楽譜を比較しないと素人には分からない細かなものばかり。
 
 さて、ウィーンフィルというのは、じつは趣味の集団で、連中の本職は 「ウィーン国立歌劇場管弦楽団」 つまりオペラの伴奏。ウィーンフィルは形式上は実務外。だから、指揮者を選ぶときは自分たちの感性とか趣味とかで、露骨に気に入った人を選ぶらしい。

 岩城の若いときのエッセイに、こうある。

 クナッパーツブッシュという、フルトヴェングラーに匹敵するカミサマ指揮者がいたのだが、その人がウィーンフィルに来ると、練習から団員総起立で迎え、15分間も拍手を続けたそうだが、フリッチャイという指揮者の場合(このフリッチャイもいい指揮をするのだが、なにが気に入らなかったのか。)だれも指示を聞かず、オケの後ろのほうではサンドイッチくいながら練習しているやつがいる始末。ほんとかいな、といいたくなるが、岩城がじっさいみているというのだから、本当なのだろう。
 
 そんなウィーンフィルをどうしてトーシロ指揮者が振ることになったのか!? カネか!? もうそうだったら、最悪的な演奏になるにちがいない。と、思っていた私だったが、それは杞憂だった!
 
 キャプランの指揮は2番にかぎってすでにプロ級だ。超1流ではないが、1流から1流半くらいにはなっている。さらに、今回は2番の校訂出版に感動したウィーンフィル側から録音の申し出があったのことで、ウィーンフィルにも真摯な協力体制が整っている。
 
 演奏は超正統的なもので(つまりドラマティック!!)じつはこれぐらいやって、初めて 
「マーラーの指示通りに」 演奏していることになるのだろうと感じる。特に1楽章は、聴きなれた解釈より、ずいぶん動きが激しい。これは、指揮者の勝手な解釈ではなく、これが本当のマーラーの演奏指示だと思います。(譜面みてないんであくまで想像ですが、かなり指示が細かく変わっているようだし、それを校訂した本人なのだから、その通りに指揮するでしょう、ふつう。むかしの譜面でアレだけ動かしていたバーンスタインやテンシュテットというのは、解釈的にはやはり正しかったのだろうか。)
 
 復活ばかり紙に穴が空くほど見つめ続けてきた男の情熱と執念と信念というものは、これほどかと感動した。またウィーンフィルがなあ、うまいなあ。うまいよやっぱり。そしてなあ、3楽章の冒頭のティンパニのソロなんか、独特のヴィンナーパウケンだものなあ。叩いてるのはやっぱりアルトマン教授だろうか。(2楽章以降は1楽章から想像していたほど激しい動きはない。やっぱり1楽章は独立して出版する予定もあったとのことだから、特別なのだろうか。)
 
 1楽章に続き、最も好きな部分は5楽章マエストーソからの 「死者の行進」 だが、ここはテンポはゆっくりめで、堂々と貴族も乞食も死者も生者も行進している。録音もマイクが近くて生々しい。

 まあ、完璧な演奏などというものは存在しないので、少しは妥協せざるをえないのだが、これはですね、かなりレベル高いと思います。私は、すごい気に入りました。マーラーベストで2番の順位が変わるぐらいです。(前は4位はデワールトでした。)
 
 なにより、夢を喰うバクみたいな男の人生の総決算的な素敵なCDではありませんか。 


8/31
 
 テンシュテット秘蔵ライヴ録音をみつけたので、インターネットで購入した。 
 オケはNDR交響楽団。
 プロはヤナーチェクのシンフォニエッタと、マルティヌーのバイオリン協奏曲。(ソロはヨゼフ・スーク)
 1977・80年。海賊。

 テンシュテットは、ファンの人には高名だが、一般にはまだやはりあまり知られていない指揮者だと思う。マーラー全集がでているので、マーラーの専門家、あとはブルックナー、ベートーヴェン、シューベルトやワーグナーなどの、ドイツ・オーストリア音楽の大家と思われているかもしれない。
 
 しかしたいていの指揮者がそうであるように、意外とレパートリーが広い。モーツァルトやハイドンなどは同じドイツ音楽であるが、それ以外にも、実に深い音楽を作る。例をいうと正規盤にあるキージェ中尉(プロコフィエフ)やハーリ・ヤーノシュ(コダーイ)、以後は海賊だが火の鳥(ストラヴィンスキー)などはとても深みと凄味のある独特の音楽だし、ショスタコーヴィチもまあまあ。
 
 そしてこのシンフォニエッタは、実にすばらしい! 

 金管の伸び、木管の鋭さ、弦の緊張感、レベルがちがう。刺さるようなこの時期特有の音楽造りが、また曲の別面の魅力を花開かせている。この曲は間延びしてやるととたんに二流の作品となってしまうが、緊張感をもってキビキビやるととてもよく鳴るし、音楽としての真価も出る。そんなにCDをもっている曲でもないが、これまではアンチェル/ チェコフィルのものを特に気に入っていたが、それへ匹敵するか、超えた理想的演奏。
 
 マルティヌーはいま交響曲を少しずつ聴いているが、なんとも私好みの音楽なのだ。

 別に新古典主義的な音楽が特に好きというわけでもないので、どのように好みかはまだ分析中。そのうち「交響曲」の項ででも発表するが、バイオリン協奏曲は初めて聴くもの。

 新古典主義といってもいろいろで、プロコフィエフの1番交響曲はそうでもないが、ストラヴィンスキーの新古典主義音楽は非常に評価している。ヒンデミットも、好きな曲とそうでない曲とが別れている。だから、マルティヌーの音楽は、彼の音楽語法に技法としての新古典主義がよくにあっている、という意味で聴きやすいのかもしれない。
 
 とはいえ、このバイオリン協奏曲はけっこうゲンダイ的だなあ。
 
 テンシュテットに戻るが、かれは協奏曲の伴奏も上手で、個人的に聴くかぎり、それもピアノよりバイオリンに適性がある。チョン・キョンファとのベートーヴェンのバイオリン協奏曲は驚天動地の出来ばえだ。

 そのへんは好みの問題なので、深くつっこまないが、マルティヌーの協奏曲を演奏する自体、テンシュテットのセンスの良さを現している。
 独奏者にもよるのだろうが。
 
 演奏はソロを引き立てつつ、管弦楽はどっしりと鳴る。しかしけして邪魔することはなく、むしろ引き立たせる。協奏曲のひとつの理想形。


8/26

 中古オークションで、伊福部昭の妙なCDを入手した。伊福部コレクターの私も、初めて知るもの。知ってるのに持っていなかったものとはちがい、まるではじめてみる珍品。
 
 いちおうJASRACの紋章は入っているが、これは市販品なのかプライベート盤なのかまったく不明。1988年、イタリアの地方都市で、伊福部作品コンサートが開かれて、演奏も企画もすべて市民団体で行なわれ、入場料も無料のコンサート。伊福部作品といっても怪獣映画音楽であるが、面白いのは、東宝から楽譜を借りるお金がないため、企画者のザモーリという人が耳コピして、様々なアレンジをしている。それはコーラスバージョンとか、妙にテクノチックなシンセサイザーバージョンとか、ジャズバージョンまである。
 
 オーケストラはセミアマぐらいの地元オケで、エ・チィティオーケストラとかいうもの。それがなかなか上手で、イフクベマーチはトランペットの高音で旋律が長々と奏され、バンド版では数人で交替して旋律を吹いても良いと指示がでているくらいで、日本のプロ(大阪某シンフォニカーとか札幌の某交響楽団とか)でも力つきて へふァ〜 とかいうぶん殴りたくなる音を出すのだが、見事に吹ききっていた。

 他にも地元の有志で、ピアノとフールトとか、合唱のおばちゃんたちとか、イタリアの田舎(プラトー)の教会で行なわれたほのぼのコンサートであるが、それを伊福部先生が楽譜のアレンジを許可して、イタリア語でメッセージまで送り、実に意義深い音楽の記録となっている。

 しかし謎のCDだ。日本での企画は和田康宏という人である。メーカーはイタリアの地元企画レーベルなのではあるまいか。でもメイド・イン・ジャパンだ。(つまり謎。) (内容の詳細は伊福部ページのディスコグラフィーをご参照ください。)


8/22

 イギリスの地味な実力派作家アールノド・バックスの交響曲を、手始めに3曲買ってきて、聴いてみました。ナクソス盤。このシリーズは、なかなかいいかも。

 7曲ありますが、ナクソス盤では6番まで。そのうち、単発で求めるのなら2、3、6あたりから、というとある本の勧めで、その3曲を購入。

 ものすごい大傑作大名曲シンフォニー、とは言わないけれど、愛すべき佳作であったことは素直に嬉しかった。さいきんこういう、1人でニヤニヤしながら聴くような嬉し恥ずかし作品を集めるようになった。

 こういうふうになると、もはや後戻りはできぬ。行くところまで行くのみである。

 イギリスの音楽………特に交響曲の分野で、エルガーをイギリス的・イングランド的とすると、バックスやバントックはスコットランド的・ケルト的と云ってもいいのかもしれない。しかしそれは、日本でいう伊福部を北海道的といちがいに断定してしまうのと同じ危険をはらんでいるようにも思う。

 とはいえ、その響きには明らかにもっと北のあたりの雰囲気があって、フィンランドやらデンマークやら、影響は如実。
 
 その中でも、堅実な構築性や、切ない単旋律は、ああ、イギリスの作品だなあ、などとも感じ、いろいろ複合的な楽しさがあった。

 2番は連合王国北部の冷たい空気や荒波を感じさせる剛健な響き。3番は霧むせぶ湿原の音楽。6番は民族の歌。
 
 残りもはやく入手しようと思った。


8/17 

 メシアンに並ぶが知名度はまるで劣るというフランスの巨匠、デュティユーのオーケストラ作品集を、買ってみました。レーベルは、「安かろう悪くもなかろう」のナクソスに比べ、「安かろうまあまあ良かろう」のアルテ・ノヴァ。
 
 ハンス・グラーフ指揮
 オーケストラ………読めん。
 Orchestre National Bordeaux Aquitaine

 交響曲1番・2番
 メタボール
 チェロ協奏曲「はるかなる遠い国」
 響き、空間、運動
 時の陰

 この6曲。

 不協和音にいろどられているはずのゲンダイオンガクにおいて、メシアンの音楽が例外的といってもいいほどに市民権を得ているのは、その美しい旋律と彩りにあると思う。いくらゲンダイ的といっても、聴きやすさに優れば、人は聴いてくれるものなのか。(プロコフィエフの1番ですらゲロ吐きそうな和音といっているほどの古典派の知人が、メシアンのトゥーランガリラだけは聴くことができる、と云っていた。)
 
 個人的には、あのバカうるさくてしつこいメシアンのシンフォニーは、あんまり得意ではない。 (ブーレーズが、トゥーランガリラを嫌っているというのは意外だった。)
 
 さて、アンリ・デュティユーでありますが、複雑で豊かな音響はさすがにドビュッシー・ラヴェルから続くフランス流の面目躍如。それがメシアンみたいに(言い方が悪いかもしれないが。)下品に響かないのがいいかも。
 
 交響曲は2曲あるが、さすがに古典的な構成をもったシンフォニーというよりは、交響的作品といったふう。1番も良かったが、2番がより面白かった。

 2番「ドゥ・ルーブル」は大小2群のオーケストラが実に興味深い響きを醸しだしている。奇妙な空間に紛れ込んだような。交響的な協奏というわけではなく、なんというか、なんともいいようのない初めての音経験だったなあ。すごい面白かったのがツィンバロン。

 ツィンバロンが登場する管弦楽は、私は、3作目で、ストラヴィンスキーの狐、コダーイのハーリ・ヤーノシュに続いて。両者が劇音楽である種の性格付がなされているのに対し、シンフォニーでどんな役割がな付随されているのか。厚い管と弦の中にあって、打楽器といってもいい絶妙なアクセントが非常に小気味よい。
 
 時の陰に見られるアーチ状の構造や、他の曲もそうだが打楽器の独特な響き、ソロ楽器の協奏というにはあまりに内部に沈み込んでいる扱い、なんか武満に通じる。武満の音楽は、やはりフランス的なのだろうか? かれの日本的な部分というのは、たぶんにフランス好みなのだろうか? ドビュッシーが大好きだったという武満の感性は、フランス人に似ていたのだろうか?

 もっと知られていい作家に思ったが、あまり作品が多くないのと、規模が大きくて日本で再演にはトゥーランガリラほど客が入らないだろうこと、メジャーの指揮者にあまり気に入ってもらってないこと、曲想がデーハーじゃないこと、などが重なって、マイナー作家に甘んじている。


8/9
 
 スヴェトラーノフのラフマニノフ全集が廉価でバラ売りとなり、はじめてラフマニノフのシンフォニーを聴いてみました。(2番も聴いたことなかった。)
 
 まあ、いきなりスヴェトラーノフっちゅうのも、どうかとは思ったんですが、どうせならゴツンといっとこうかなあ、と。

 全体的な感想では、すっげえロシアな作曲家だなあ、と。(笑)

 スヴェトラ節とラフマニノフ節がいっしょになったらそりゃあ、無敵ですがな。

 デュトワやプレヴィンあたりの演奏じゃ、こうはいかないのだろうなあ。とも思いました。2番は、しかし、1907年の作品だそうですが、マーラーもびっくりのロマンぶり。3楽章なんか恥ずかしくって聴いてられません。映画のサントラに使われたのは、ここかい?(妙に長いしなあ。) けっこう苦手。
  
 1番はまだ習作っぽいのだが、4楽章の迫力なんか、スヴェトラーノフをいちど聴いてしまうと、他の指揮者はあんまり聴きたくない。第一印象ってすごいですね。ラフマニノフの写真なんか見ると、すごい洗練された紳士然としているので、どちらかというと、もっとスマートな演奏が実は本質的なものなのかもしれませんが、スヴェトラーノフにかかると、そういうものは分かってるんだ、しかしその中に秘められたロシアの血と魂を、わしは表へ出しとるのじゃよ。わかっとるのかね、きみぃ。

 とでもなるのか。

 冒頭からだって、エイコーラのロシア流ですよ。

 3番は1936年作曲の、なかなかの現代的な作品。とはいえ、プロコフィエフあたりを想像してはいけない。プロコは逆にどんどん社会主義リアリズム化していったが、ラフマニノフは正しいシンフォニストの進化の仕方をしていったようだ。3楽章制というのも意外だし、作風もそれなりに難解。

 アメリカへ亡命してよりは、どんな1流の作家とて生活苦にあえぐのは正しい資本主義の姿。バルトークは貧困のうちに死んだし、ストラヴィンスキーだって楽譜の著作権料のために奔走したしピアノだって弾いた。そこは、演奏家や指揮者とはちがい、手に職をもってないインテリ家業のつらいところ。

 ラフマニノフも、ピアニストとしても1流だったので、ピアノ奏者として生活をはじめた。作曲家としてはピアノ協奏曲のほうが高名なように感じる。

 しかし、交響曲の価値も、忘れてはならない。2番よりもむしろこういう人生のキビをわきまえた3番のほうが、味わい深いし示唆も大きい。
 
 あと、海賊なんで大きな声ではいえないですが、テンシュテット/NYフィルのマーラーの6番(1985ライヴ)を買ってみました。(RARE MOTH)

 録音が悪いんだーこれが。スースーいうのはしょうがないとして、録音レンジが勝手に上がったり下がったりはかなりキモチワルイ。音もゆがんでるし………。いくら海賊ったって、最悪に近い。これならちゃんとしたモノラルのほうがぜんぜんマシ。これで4700円か〜。

 演奏はやはり涙ものに素晴らしい! 昨今、このようなとてつもなく大きい、動く音楽というものはハッキリいって無い。こういう指揮は、いま流行ってないので。

 僕はやっぱりこういう6番が好きだなあ〜。生演奏で聴きたいなあ〜。演奏は凄いが録音があまりにメタメタなので★は4つ。 


8/3

 ちょっと鬱っぽい時にあえてマーラーの大地の歌や第九を聴いてみると、なんか異様に共感して聴き終わるとこれ以上もうどん底はない、あとは上へ行くだけだ、と、妙に開き直って明るくなるときがある。

 大地の歌は好きな曲だが、歌曲集的交響曲ということで、旋律が目立ち、構成的につかみ所がなく、表面上だけを流した演奏が多いように感じる。悪くいえば惰性だろうか。まったくの歌曲集やカンタータだったらそれでもいいのだろうが、シンフォニーとなると、なかなか聴いていてつらい。そこは指揮者の考え方で、巨大なリート集ととらえているのか、シンフォニーととらえているのか。

 今回、著名な指揮者による2種類の大地の歌へ、挑戦した。(奇しくも同じオーケストラである。)

 オイゲン・ヨーフム/コンセルトヘボウ管弦楽団(1963)
 ナン・メリーマン(Ms)
 エルンスト・ヘフリガー(T)

 ゲオルグ・ショルティ/ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団(1992ライヴ)
 マルヤーナ・リポフシェク(A)
 トーマス・モーザー(T)
 
 2人とも昔の指揮者で、まず全体を大きくとらえつつ、作品を外からアプローチするように感じる。昨今の内部構造分解系のものとは一線を画している。
 
 そうなると、けっこう流しがちの演奏に終わってしまい、難しい。
 しかし、内部の構成をあまりにあからさまに浮きだすと、今度はせっかくの旋律が隠れてしまってこれまた魅力が半減。非常にバランス感覚の難しい曲だと思う。
 
 ヨッフムのは、マーラーブームがじわじわ起き出してきたころのものだが、ブルックナーで高名なだけにマーラーがあるのは珍しい。しかも、カルミナ・ブラーナの名演があるように声の作品だ。8番よりゃ録音しやすかったろう。
 
 ヘフリガーはワルターでも大地を残している。ペッペペッペしたドイッチュの発音は本場で頼もしいが、演奏自体が、まだまだ「とりあえず音にしている」感が強い。さすがに上手だけど。
 
 ふだんマーラーをやらない人が、ポツンと1種類か2種類だけ録音があるというのは、次のパターンのどれかに相当する。
 
 1.めずらしくて売れるだろうから、もしくは意外と合うかもしれないよ、という理由で会社にそそのかされて録音する。
 2.マーラーは嫌いだがその曲だけ例外的に好きだ。
 
 2はけっこういい音楽するのだが、1は最悪。ヨッフムも1くさい。ちなみにマーラーが苦手な巨匠指揮者。

 フルトヴェングラー(若人の歌。8番。)
 クナッペルツブッシュ(4番)
 ムラヴィンスキー(4番)
 ヴァント
 チェリビダッケ(亡き子をしのぶ歌)

 まだいたかしら。いかにも苦手そうですね。()内は、例外的にある海賊含む録音、あるいは演奏記録だそうです。ヴァントも演奏会ぐらいはしているかもしれません。してるんなら、たぶん4番だと思います。
 
 かえってショルティはさすがにマーラーへ入れ込んだ指揮者だけに、自分なりの演奏の仕方を会得していて、安心して聴けるもの。しかも、晩年のライヴ録音で、シカゴ響よりぜんぜん艶やかな、慎み深い、特に6楽章のニュアンスといい、歌わせ方といい、伴奏といい、繊細な管弦楽の取り扱いといい、めちゃめちゃ良い。6楽章だけ文句なしで★5つ。他の楽章がちょっと魅力にかけるので全体では4つ。
 
 大地の歌は本当に難しい音楽ですね。しかも、ナマで聴く機会がぜんぜんない。いま、演奏会では人が入らない曲目なのかなあ。。。


7/26

 ベルティーニ/都響のシリーズで、6番に続き4番がでた。ベルティーニが都響と行なうチクルスにおいて「またマーラーか」という声があったというのだが、ベルティーニのようなマーラーをナマで聴ける幸せをまったく理解していないボンクラ人の云うことであり、後ろから蹴飛ばしてやりたい。
 
 都響もかなりレベルアップしているし、ベルティーニの指揮は80代へむけて、ケルン放送響(当時)とのものより、また異なるニュアンスを帯びてきている。そこは、両方聴き比べて、さらに他のマーラーもたくさん聴いていないと、分からないかもしれない。また、分かっているつもりなのかもしれない。基本はいっしょなのだけれども、やはり角がよりとれて丸みが目立ってきている。
 
 年とったというだけではないだろう。たぶん。(いわゆる円熟?)
 
 この4番はやはり昨今なかなか聴けない、レベルの高いものです。こういうのを日本で聴ける幸福を、日本で指揮してくれる幸運を、どれだけの人が理解しているのかは不明だ。

 併録の、キンダートーテンリーターが、なんともいえぬ艶やかな響きで、マーラーの悲しさや孤高、自虐的な自己悲劇の精神へ、構造的な部分からではなく、こうも「歌」というものの面から入る演奏はない。妙な指揮だと、とても晦渋なこの歌曲を、このように聴かせるのは、さすが。

 ミュージック&アーツより以前に単発で出ていたクレンペラー/ウィーンフィルのマーラーの2番というものは、ほんとにクレンペラーか!? というほどに遠くうすっぺらい響きで、会場録りみたいなゲホゲホもあるし、私はずーっとマユツバだと思っていた。

 今回、同レーベルから同じ録音の2番と(なんと)9番のステレオその他がでたのだが、手始めに2番を聴いてタマゲタ。

 ぜーんぜんちッッがーーーーーう!!!!!

 これだからリマスタリングは恐ろしい。これ、まったく同じ音源ですか!?

 この生々しい音、どちらかというと前はホールの「こもり」があったのだがこんどは逆にノーアコースティック。いわゆる良い状態のモノラル。むしろガリガリ云っているが、そちらのほうがモノラルでは指揮者の表現が分かりやすい。この激しさはまさにライヴのクレンペラー!! VOXへのスタジオ録音がウィーンフィルになってライヴになった感じ。1楽章冒頭の激しさ! 第2主題のこの甘美さ! 疾風怒濤の響き! そしてオケが上手!!
 
 たぶんこっちが原盤で、前の単発が変なリマスタリングだったのだと思う。また、ゲホゲホはむしろ後ろに遠いし、紙をめくる音が入っているので、単発のとはマイクの位置がちがうのかもしれない。(よう分からん。)

 2楽章の美しさやもの悲しさは、いまの機能美的な管弦楽の美しさとはまたひと味もふた味もちがう、むかしのニュアンス重視の今にしてみれば懐古的なもの。気持ちメインだから、感情的な表現になるのは仕方がないとはいえ、そこはクレンペラー! 絶妙なバランスでオケをドライヴする。まして思い出のつまった2番。マーラーといえば、彼にとってまずは2番。

 3楽章の冒頭、歴史を感じる山羊皮のヴィンナーパウケンに聴き入る。
 ずっと、かなり乾いた響きだが、4楽章では雑音が少々気になる。声がとても近い。やっぱりマイクの位置がちがうんじゃないのか??
 
 ラストの5楽章も、堂々の勝利。こういう、音響効果重視の音楽は、バランスを整えつつも、壮大に歌い、荘厳に鳴らさなくては、成功しないと思う。
           
 バイエルン放送響(当時)との4番は、海賊盤で何種類かあるのだが、やはりこれがもっとも状態がいい。50年代とはいえ、当時はまだ「ゲンダイオンガク」に近かったマーラー。12音はすでに登場していたから、このメロディアスな音楽をただ「長い」とか「交響曲に歌が入っている」というだけで「ゲンダイオンガク」にしてしまってきた当時の人々の耳というものは、やはり時代を感じさせる。(終楽章に歌問題は、ベートーヴェンだけは例外でOKらしい。)
 クレンペラーの誠意ある、そして堂々とした、なんのてらいも妙な使命感もない、あくまでも自然とした、マーラーのパイオニアたる自信にあふれた指揮は、やはり良いものだ。
 
 問題の9番。以前、海賊盤で入手し、涙が出るほど感動したクレンペラー/ウィーンフィルによるマーラー第九。泰然自若たるEMIのスタジオも良いのだが、同様の響きをしつつも、あふれんばかりの人間ドラマを聴かせるライヴは、さらに価値が高い。
 
 音質自体は、海賊盤とそう変わらないように思える。むしろややドライか。ノイズがひどく、ステレオというより8割ステレオ。客席の音はやちろん、すぐ近くで椅子の軋む音(クレンペラー?)や、楽譜をめくる音、なんだか分からないブーンという機械音のようなものも遠くに確認できる。だから、(オケで演奏した経験のある人は分かるだろうが)奏者になった気分がした。

 音楽はクレンペラー流の重い重厚なもので、マーラーの書法を細かに再現する現代的なものとは一線を画す。当時は、これでふつうだっただろう。もしかしたらマーラーの頭の中になっていたものも、こうだったのかもしれないし、頭の中で鳴っていたものを完全に再現する指揮法がまだ確立していなかったのかもしれない。(鳴っていなかったら楽譜には書かないだろうとも思えるし、書いてあってもその通り鳴っていたとはかぎらない。)

 クレンペラーの膨大な音の情報というものは、とにかく本当に膨大だ。ただ指揮が上手なだけの人だと、どうにも薄っぺらい響きのこの曲が、彼によるととんでもなく膨れ上がる。1楽章の音の圧力というか、濃度、密度、ただ単に音がデカイというだけではない、何か、がそこにある。各楽器の繊細なソロも力強く鳴って、独特だ。
 
 2楽章、3楽章も、すばらしく意味のある訴えに聴こえて、飽きないどころか、聴きいる。完成品といっても、8割方であろうから、残りを補ってやらねば、マーラーの本質は見えてこない。その補いの部分で、指揮者の個性が現れる。クレンペラーのこの力強い演奏は、マーラー晩年の生への執着が垣間見えて、10番にもつながる様で興味深い。とてもではないが、2・3楽章をオマケのように扱う指揮ではとても見えてこない深い苦悩や叫びや混乱が、クレンペラーではあからさまに露呈される。全曲でたった1小節だけ現れる小太鼓のトレモロ。

 4楽章は地上でもっとも美しい音楽のひとつで、このような美的感覚による響きは以後ちょっと現れないだろう。5番の4楽章もそうだが、スコアにしてみると、めちゃめちゃ薄い。少ない。室内楽的に書かれているからだが、弦楽合奏だけでこの馥郁たる響きはさすがマーラー先生。バイオリンやフルートのソロは、ウィーンフィルの人は本当に独特だと思う。代々続くニュアンスってやつなのかなあ。終盤に爆発する管弦楽の響きは絶倒。ラストの、宇宙の彼方を見るような冷たくも終わらないでほしいと願わざるを得ないこの音楽。
 
 客観的な視点で指揮するクレンペラーだが、ライヴはけっこう感情的。客観的な視点というものが、彼にとって感情の現れなのかもしれない。クレンペラーのマーラーは自己の透徹な眼で厳選された楽曲をとことん鳴らすもので、ものすごく深いものだ。古いものばかり観て現代を省みないのも問題だが、常に最新のものが良いものだという錯覚も、このクレンペラーを演奏を聴いて厳に戒めたい。古かろうが新しかろうが、良いものは良いのだ。

 オマケがクレンペラーの珍しいキンダートーテンリーター。もう1人、知らない人が指揮の同じくキンダートーテンリーター。古い録音で貴重ということか、他に何か意味があるのかは不勉強で不明。
 
 すばらしいアルバムセットだが(4枚組で3枚組の値段。私は4500円で買いました。)、9番の4楽章の終わったのちの余韻が!! あの忘我の余韻が!!

 ブチッと切れていきなり歌!(次曲)
 
 静寂と拍手ぐらい入れてくれ〜〜〜〜。

 次は大地の歌を2種類、聴きます。


7/22

 黒船以来 という吹奏楽の歴史150年を網羅した珍しくも意義のあるCDを買ってしまいまった。40曲ぐらい入っているが、なかでも、現代日本のクラシック音楽に重要な足跡を残している方々の作品をメインに拾い聴き。

 山田耕筰/初春の前奏と行進曲〜日本のコドモの為に

 山田耕筰は日本西洋音楽界のまさにパイオニアであるが、作曲の腕前は、歌曲とかは別にして、私はそうでもないと思う。交響詩「神風」なんて腹抱えて笑っちまう。

 この曲も、戦前まで正月に必ずラジオで流れていた、とはいかにもだが、「♪も〜い〜くつね〜る〜と〜」や「♪き〜み〜が〜〜よ〜〜は〜」が合体しただけ。

 しかし、マーチしかなかった(しかも軍隊系)時代にウィンド・アンサンブルでこのような曲を書いたという事実こそが、山田の功績にして価値なのだな。

 橋本國彦/行進曲「若人よ!」

 ナクソスから交響曲が出たおかげで、やおら注目を集めている(と思う)橋本。この音楽は正統愛国マーチです。当時の録音でSP復刻。原曲は合唱入り。

 こんな曲のおかげで戦後、不当に抹殺されてきたのだろうか。

 伊福部昭/古典風軍楽「吉志舞」

 伊福部の秘曲が登場! 戦前のもので、のちに映画音楽とかで高らかに鳴らされるすべての旋律の大本。

 作家の記憶によると、マッカーサーを歓迎する為、厚木で演奏されたのだそうな。まさかマッカーサーものちの自衛隊マーチに出迎えられるとは思わなかったにちがいない。

 ちなみに題名は「きしまい」と読む。

 団伊玖磨/祝典行進曲

 現天皇ご成婚記念の為に書かれた、名曲中の名曲。なんの説明もいるまい。輝かしい第1主題と伸びやかな第2主題。それらの入り交じる興奮。

 三善晃/札幌オリンピック・ファンファーレ

 札幌オリンピックでは他に山本直純や矢代秋雄が音楽を書いている。アイーダ・トランペットを想定しており、なんとも輝かしい。まさに白銀の響き。

 矢代秋雄/第30回みえ国体式典曲集bPより 式典序曲

 矢代は札幌オリンピックでも「白銀の祭典」という長い吹奏楽序曲を書いている。交響曲の4楽章が吹奏楽に編曲されて愛好されているが、なかなか管楽器の特質を理解した腕前だ。ちなみにこれが、心不全で40代半ばにして死んだ矢代の、公式の最後の作品だそうです。

 間宮芳生/行進曲「岩木」

 間宮は合唱のCDがあったなあ。管弦楽作品は少ない様な気がする。映画音楽ではなんといっても「火垂るの墓」! 曲を聴くだけで泣ける。

 吹奏楽作品ではマーチ「カタロニアの栄光」がすばらしい! 日本はおろか世界でも、聴く為のマーチすなわちシンフォニックマーチのなかでも最高の作品だ。

 このあすなろ国体用の行進曲「岩木」は、実用マーチながらトリオには津軽民謡が使われていたりと、なかなか聴かせます。

 小山清茂/吹奏楽のための「琴瑟」

 「きんしつ」と読む。日中国交正常化記念作品。

 琴と瑟=大形の琴 は中国ではきってもきれないものとされ、日本と中国の友好を音楽で例えた作品。なかなかの名曲だ。小山は寡作だが質はたいへん良いものを書く。他の作品も、チラホラとCDは入手できるのだが、作品集として個展CDがなんでないのか不思議な作曲家の1人。ナクソスに期待するしかないのか。

 湯浅譲二/冬の光のファンファーレ〜長野オリンピックの為の

 湯浅はCDを5枚くらい持ってるが、なかなかしぶい。武満の親友で、似た様な響きだ。そんな彼のファンファーレ、武満のシグナルズ・ヘヴンのようなものかと思ったら、さすがOlympic用、すばらしい天空へ舞い上がる様なブラスだ。バブル崩壊を象徴してか、まともなアコースティック音楽はこれのみというさびしいオリンピックだった。日本勢もジャンプをのぞき、さんざんだった記憶がある。長野新幹線とオリンピックの借金で、いま長野では、康夫と当時豪勇を誇った県議会議員との熱きバトルがくりひろげられている。なんのためのオリンピックだったのか。

 湯浅はそういや大河ドラマ徳川慶喜のサントラも担当していたなあ。慶喜は大好きで、今までの大河でも1、2を争うほど好きな作品。あのテーマもかっこよかった〜!

 こんどサントラCDを買おう。


7/20

 いきつけのCD屋さんの知り合いの方が、先日、教育で放送されたブーレーズ/ユーゲント管のマーラーの6番(演奏4/12放送5/18)をわざわざ東京まで行って聴いてこられたとのことで、感想を聴きましたが、ハンマーがものすごい迫力で、放送ではぜんぜんとらえられていなかった由。やっぱり生演奏と録音では、ちがう要素が必ずあるのだなあ、と実感。ハイティンクの演奏も,CDより少なくとも私はまったく良かった。

 しかしたぶん教育かどっかでやるはずのそのPMF演奏会の模様は、またちがったニュアンスになってくるのだろう。

 さて………。

 グラズノフ 交響曲第5番・6番

 5番 ムラヴィンスキー/レニングラードフィル(日本公演)
 6番 アニシモフ/モスクワ交響楽団
                
 グラズノフは気にはなっていたが、長く手を出さなかった作家だ。バレー音楽はためしに四季やライモンダの組曲とか買ってみたことはあるのだが、地味でイマイチ記憶に残らなかった。

 シンフォニーは8曲と未完で1曲(第九)があり、他人の評を勉強で読むに6番が最高傑作といちおうされているらしい。

 ではなぜムラヴィンスキーがわざわざ日本公演で、未完成だチャイ5だワーグナーだブラームスだの超有名曲にまじって、当時(いまでも)マイナーなグラズノフを5番で演奏したのか、という疑問も残る。ムラヴィンスキーはソビエトでは自国の現代作家をやたらと演奏・初演・録音しているが、海外ではショスタコをのぞき、他に類が無かった様に思う。チャイコフスキーは別格として、その後輩格にあたるグラズノフをぜひ日本の聴衆へ紹介したいと云ったとき、かれは6番ではなく5番を選んだ。

 このたび、私は初めてグラズノフのシンフォニーを聴いて、しかもその5・6番を比較して、こう考えた。
 
 なんのことはない、5番はなんともムラヴィンスキー好みの音楽なのだ。

 6番の最高傑作たる所以はその分かりやすさと、楽しさにあるのだろう。1楽章のペシミズム、2楽章の見事な変奏、3楽章の軽やかさ、快活さ。4楽章の祝典と、まあこのような聴かせどころを集めた交響曲は、やはり傑作といえよう。
                    
 だが、やたらと鳴り物チックなこの音楽は、各楽章ごとの統一性が薄い。強い構築性を好むムラヴィンスキーにしてみれば、地味でそれほど鳴りもしない5番のほうへ愛着が沸いたとしても無理はない様な気がする。

 その5番、やはり6番に比べると、凄まじく地味だ。罪深きベートーヴェン以降、第5番交響曲というのはどうしたっていやでも意識してしまうもの。そのせいか、傑作多し! チャイコフスキー、マーラー、ブルックナー、ショスタコーヴィチ、プロコフィエフ。近代ではオネゲルか。現代ではヨシマツか。

 グラズノフの第5はそれらに比してハデではないがなかなか渋いくて良い。1楽章から大きく広がる旋律はロシア流だし、彼はまたそのようなロシア流の旋律がチャイコフスキー以上に西洋(ドイツ流)風に扱っているのではないか。師匠はリムスキー=コルサコフだが、ドイツ音楽の影響は如実だ。
 
 愛らしいがやはり真面目なスケルツォといい、小規模で古典的なアンダンテといい、とてつもなく基本へ忠実なフィナーレといい、ドイツ音楽こそ神髄のようなムラヴィンスキーにしてみれば、派手めの6番よりはこういうじっくりと聴かせるもののほうが扱いやすかったかもしれない。(プロコフィエフも、ムラヴィンスキーはハデな5番より彼へ献呈された素晴らしく深い6番を執拗に愛していた。)                          

 次は久しぶりにマーラーをごっそり聴いてみます。クレンペラーのウィーンフィルの9番のライヴ(ステレオ!!)や、私のもっている海賊盤では鼻で笑うほど音質の悪い同オケの2番(こっちはモノ)それにバイエルンとの4番。ベルティーニ/都響の4番。それにショルティとヨーフムの大地の歌。


7/18

 リーパー/旧チェコスロヴァキア国立コシツェフィルハーモニー管弦楽団
 バントック/ヘブリディーズ交響曲
         
 イギリス北部のヘブリディーズ諸島を描いた表題交響曲。この諸島は霧に囲まれ、奇岩絶景に囲まれた地であるらしく、メンデルスゾーンがインスピレーションを得て作曲したフィンガルの洞窟もここにある。

 いわゆる神秘的雰囲気のもので、バントックは初めて聴いたがなんとも地味だ。スコットランドの霧むせぶ様子や、明らかにイングランドと異なるソロ・バイオリンによる歌回し、岩へ打ちつけるティンパニの波濤、ハープのさざ波、派手さはないがじっくり聴くとなかなかいい曲だなあ。

 バントックはイギリス人の近代作家だが、今までホルストやヴォーン=ウィリアムス、ウォルトンの陰に隠れていて、最近近代ファンの中でにわかに(?)脚光をあびている1人。ブリテンより面白いと思う。
 
 イギリス人作家は苦手なのだけれど、こういうのは大丈夫。
 
 初めて聴いたので、これ以上はなんともコメントのしようがないが、他の交響曲も集めてみようと決心した。(ケルト交響曲、異教の交響曲、等)

 また、次にはイギリスの誇るシンフォニー作家の(またも)隠れた名手、バックスが控えている。
 
 でも、その前にグラズノフの5番と6番を聴きます。


7/12

 本日もPMFに行って参りました。
 エド・デ・ワールト/PMFオーケストラ

 ハイドン/協奏交響曲
  ヴェルナー・ヒンク(バイオリン)
  フリッツ・ドレシャル(チェロ)
  クレメンス・ホーラック(オーボエ)
  ハラルド・ミューラー(ファゴット)

 ワーグナー/ニーベルングの指輪〜オーケストラ・アドベンチャー〜(ヘンク・ド・フリーガー編曲)

 「ラインの黄金」から
   1.前奏曲
   2.ラインの黄金
   3.ニーベルハイム
   4.ワルハラ
 「ワルキューレ」から
   5.ワルキューレの騎行
   6.魔の炎の音楽
 「ジークフリート」から
   7.森のささやき
   8.ジークフリートの角笛
   9.ブリュンヒルデの目覚め
 「神々の黄昏」から
  10.ジークフリートとブリュンヒルデ
  11.英雄ジークフリートのラインへの旅
  12.ジークフリートの葬送行進曲
  13.ブリュンヒルデの自己犠牲

 ハイドンのソロを担当するのはウィーンフィルの教授陣。なんとも艶やかな味わいが良かったです。協奏曲なのか交響曲なのかよう分からんこの協奏交響曲。当時は異様に流行ったようで、300曲ぐらいも創られたようですが、現在聴き継がれているのはハイドンとモーツァルトの数曲のみだそうです。

 演奏はソロを引き立てた、慎み深いもので、デ・ワールトの指揮もそれへ徹していました。教授陣の中では、やはり弦のお2人がなんとも云えぬ音でした。艶やかっていうのは、本当にああいうのいうのでしょうか? デ・ワールトはまったく目立ちませんでした。 
 
 しかしそれがワーグナーでは一変!!
  
 良かった!! このひと言につきます。
 
 デ・ワールトは滅多に日本には来ないし、ナマで見るのはもちろん、そのナマ演奏を聴くのも貴重。CDも少ないしね。私がふだん見るマーラー全集のあたりの10年前の写真と比べますと、かなり太ってまして、しかもアタマがかなり進んでます。まさにホルスト・シュタインか先週のハイティンクと見紛うばかり!!

 デフリーガーの編曲はいつもCDでお馴染みのワーグナー指輪選曲集ともちょっと異なり、けっこうマニアックな選曲となっている。(吹奏楽の名曲ヨハン・デ・メイの交響曲第1番「指輪物語」のオーケストラ編曲も、この方。名人です。)
 
 ふだんは歌が入っている部分もオーケストラ用として編曲されている。CDはBMGからでており、会場ではトリスタンとバルジファルの同じくオーケストラ編曲と共に3枚組で売られていたが、金がなかったので買ってこなかった。(3980円ナリ。ただしジャケットはイッちゃってます。)
 
 演奏はすばらしくドラマティック! かつ、雄弁! 情景描写が本当に上手で、全曲15時間などとても聴き倒せないオペラ苦手の私でも、この70分間はぜんぜんアッという間にすぎてしまいました。

 しかも70分ノン・ストップなのです。これはかなり上手でないと、聴かせられません。その意味でもデ・ワールトは文句ナシ。組曲集かと思いきや、まさに1楽章制のシンフォニー。
 
 ただの選曲集ならば、1曲1曲の間に適当に(それこそ)「間」があるのだが、オーケストラ・アドベンチャーはぜんぶアタッカ。ニーベルハイムのトンテンカンや、角笛のホルンの妙技など、オペラ全曲でないと味わえない分部も、これで完璧。そしてなんといってもデ・ワールトの神技! モチーフの扱い方もキャラクターの別を描きわけることそのキャラに憑依したごとし! すばらしい!!

 正直、神々の黄昏の部分は70分中2〜30分あったと思い、ちょっと長かったですが、ジークフリートの角笛まではめぐるめく指輪ストーリーに翻弄されっぱなしで、夢心地でした。本当に、ぜんぜん時間を感じさせませんでした。魔術のようでしたよ。

 いやー、デ・ワールト、只者ではありません。この価値の分からぬ北海道の客によって満席とはいきませんでしたが、8割方は埋まってました。(先週のハイティンクは満席。)

 欲を言えば「ブリュンヒルデの自己犠牲」が終わったあと、余韻の静寂を楽しみたかったのにどっかのおやじが早速「ブラボー!」 しょうがなくデ・ワールトも振り返ってお辞儀しちゃったもんだから拍手も鳴って終わってしまった。
 
 しかし拍手が鳴りやむことはなく、デ・ワールトは4回でてきて、拍手の中、オケのみなさんも退場。
 
 ハイティンクの時もそうでしたが、オケの技量的にはもう一歩ツメが甘かったでしたがそれは学生オケのこと。なによりハイティンクやデ・ワールトのナマなぞこの北の大地でそうそう聴けるものではない。
 
 すばらしい体験の2週間でした。昨年のデュトワのハルサイと共に、これは本当に忘れられません。
 
 今年のPMFは本当に「買い」だったぞ!
 
学生のこと。
 
 先週のマーラーもそうでしたが、ホンジュラスからたった1人で参加のお兄ちゃんのホルンが劇ウマ。ジークフリートの角笛でのソロはまずまず良かった。デ・ワールトも演奏後に肩を叩いて激賞していました。
 
 (トライアングルのお姉ちゃんはフランス人の超ラテン系でしたが、一カ所ハズして笑ってました。笑うな。)
 
 あと、ビオラトップのオランダ人のお姉ちゃんがとびきり美人でした。(笑)

 オペラグラスはこういう事のためにある。いや、打楽器の奏法の勉強もしてきましたよ。
 
 さて来年は何をするのかな?


7/9

 松平頼則(ナクソス)
 外山雄三(フォンテック)
 池辺晋一郎(カメラータトウキョウ)
 作品集

 いろいろ買ってきた中で手始めに邦人。
 
 松平は明治37年(1904)生まれの、日本最長老作曲家だったが、2001年に亡くなった。古い時代の人であるが、作風は12音技法バリバリの、すばらしくモダンな人だった。面白いのが、水戸徳川家分家・常陸府中石岡松平、明治後は松平子爵家(すなわち5万石以下の大名)の正統な跡継ぎでありながら、時代を先取る非情緒性、非叙情性を好み、かつ、伝統の権化でありながら例えば民謡の対極に位置する儀式音楽・雅楽に傾斜した。

 雅楽とクラシックを結びつける作曲家は、日本人なら必ず1人や2人はいるが、かれは12音技法と合体させた功績が大きい。雅楽の必然性と非必然性が、12音技法と相性が良いということを「発見」したという意味で。
 
 とはいっても、「カラヤンが指揮した唯一の日本曲」という触れ込みも大々的な代表作「ピアノと管弦楽のための主題と変奏」は、とても聴きやすい。愉しくてきれいな音楽だ。主題は越天楽で、12音でもあるが新古典主義的な趣。戦後すぐの作曲で、ストラヴィンスキーに似た精神をとても感じる。第3変奏はアイヴズみたいだ。

 近衛直麿・秀麿兄弟の管弦楽版・越天楽ともちがい、変奏が見事。ちなみに近衛は平調(ひょうじょう)・越天楽。松平は盤渉調(ばんしきちょう)。解説によるとこれらはただ単に調が異なるだけではなく、ちがう曲といっていいほどだそうだが、私は両方の調の雅楽のCDをもってるが、たいしてちがわないようにも感じる。ついでに云うと、越天楽にはもう1ヶ黄鐘調(おうしきちょう)がある。

 松平の絶好調はやはり12音技法だろう。まさに日本のヴェーベルンと言ってもいいその凝縮のかぎりをつくした美しくも鋭い音。ダンス・サクレの、3分ほどの小前奏曲など13の部分に別れ、自由な順に演奏していいそうだが、どんな順番に演奏してもたいして変わらんわい。
 
 ゲンダイオンガクが苦手な人は、主題と変奏だけで止めておいたほうが無難だが、その後の魔術的な、深淵と幾何学と神秘の同居した平安時代の陰陽道のごとき不思議な世界こそ松平頼則の真価だというのを、忘れないで聴き継ぎたい。(正直いうと、さすがの私もちょっと苦手なのですが。)
 
 外山雄三は岩城宏之の畏友としてN響の指揮に立っているが、作曲もよいものをつくる。代表はオーケストラ版「民謡メドレー」こと「管弦楽のためのラプソディー」だろう。もともと海外演奏旅行のアンコール用小品だし、素直に民謡パワーのすばらしさを味わおう、ということ。(吹奏楽編曲もあります)
 
 しかし、クラシックに民謡なんて、まったく日本の作曲家は止めてほしい、恥ずかしい。と言っていた人がいたが、愕然とした。
 
 わたしの想像だが、その人は、日本の民謡のメロディーが日本人として気恥ずかしい、という意味でそう言ったのだと思う。
 
 それを差し引いても、私は情けなくて何も言う気に(説明もする気に)なれなかった。
 
 ボロディンやチャイコフスキーはどうするんですか。ドボルザークやスメタナはどうしたらいいんですか。バルトークやコダーイは何をモチーフに作曲しましたか。ストラヴィンスキーがよく用いた旋律はなんだったですか。
 
 みんな民謡じゃ。                                

 「クラシックに民謡なんて」という概念が、すでにくだらない。ナンセンス。

 クラシックなんか聴くんじゃない。といいたい。

 少なくとも、そういう人は、純然たるドイツ音楽やイタリアオペラばかり聴くのだろうか? それにしたってベートーヴェンだってスケルツォ楽章に民謡ではないが地方の俗用を取り入れているということだし、それが表立ってないだけで、やっぱりナンセンスだ。(表立たなければいいのか?)

 
 日本人の作家で、ロシアや東欧の先輩に習い、民謡旋律に音楽の根源的なパワーを求める人は多い。それへ、たまたま西洋音楽の技法を加えただけなのだ。
 
 外山は民謡のメロディーをそのまま使用する。それは、メロディーを素材として発展させるのではなく、旋律パワーをナマで開放しているためだ。解説にもあるが、外山の使用する旋律には、分断したり発展させたりしたらたちまちパワーを失う長い線的構造がある。
 
 ふたつの交響曲も、チェロ協奏曲も、旋律をメインに押し出して、いろいろ実験的なことも行なわれ、けっこうモダンな響きもする。
 
 交響曲「帰国」は矢代秋雄にも似た響きで力作だ。
  
 池辺の音楽は正直いってそう得意ではない。駄洒落がいかん、なんといっても。音楽まで笑えない冗談に聴こえるときがある。(本当)

 それはそうと、この人はいろいろな分野で作曲をして、すでに作品数は単純に数えただけで1000曲にも及ぶという。(未来少年コナンもこの人だそうで。)

 さらにテレビによく登場しているので作曲に関する言葉も聞くことができる。その曲数の多さに、彼自身も呆れながら「作曲じゃなくって製造だ」と言っていたが、さもありなん。
 
 今回は交響曲の4番と7番それに「悲しみの森」という小品だったが、真の意味で交響曲として作曲したのは1番だけで、以後は作曲の目安というか、布石として交響曲をつくっているらしい。確かに、交響曲というには自由すぎる。7番はシベリウスを意識しているな?

 作風としては、無調様式に聴こえるが、くわしいことは分からない。けっこうシリアスなゲンダイオンガク的な響きがするのだ。だが、構成がしっかりしているため、非常に聴きやすい。聴衆を会得しているのはそのせいかもしれない。
 
 この人は最低でも15番まで交響曲を書くぞきっと。


7/6
 
 ハイティンク/PMFオーケストラ
 マーラー/交響曲第9番

 PMFに行ってきました。

 結論から言うと、すっげえ良かったです。

 ハイティンク上手すぎる!!
 
 ハイティンクのCDで、マーラーでもなんでも、聴いて感動したのなんかひとつも無かったはずなのだが、あれはわたしの耳がどうかしていたのか。それともハイティンクの演奏は巷でいう「録音にはとらえられない」ものなのかどうか。聴き直す必要があるかもしれぬ。

 1楽章のとっぱなは、緊張のせいかガタガタしてましたが、第2バイオリンが第1主題を奏でだしてから、グンと集中して、各楽器のノリも良く、指揮者の指示にも敏感に反応して、しかしそこはハイティンクらしく、感情に流されず、全体的には非常に抑制されている。例の「ここで、もう死ぬしかない」箇所も、流れるように落ちて終わる。

 2楽章と3楽章はマーラーが推敲しないで死んじゃったので「いつもの」演奏指示表記が少なく、そこをどう指揮するのがね、その、興味深いところなのですがね。やはりテンポI II III の各速度表示をうまく処理すると、面白いです。3楽章が特に激しい表現で、反抗的にと指示された通りの音楽でした。低弦の勢いが特に良かった。
 
 4楽章は弦楽合奏がメインで、この頃にはもうだいぶん「こなれて」いて、すばらしい感情表現でした。ハイティンクの棒はだけどテンシュテットやバーンスタインになれた耳には、ずいぶんとそっけなく響きますが、それだけ美にこだわっているともいえる。
 
 ラストのまさに「死にゆくような」息も絶え絶えの美の極致は、良かった。とても良かった。マーラーの9番を聴いていて良かった。

 オーケストラはもっと精度が良ければなお良かったが、まあ学生オケだからぜいたくは言うまい。それでも国内オケの上級ランクには位置します。なんてったってトップがみんなだいたいウィーンフィルの首席奏者ばっかりなのじゃよ。
 
 弦楽の各ソロの上手いことといったら涙もの。クラリネットのシュミードル教授のソロが良かったなあ〜。フルートのシュルツ先生も良かった〜。
 
 トロンボーンのイアン・バウスフィールドもいました〜。

 打楽器の首席の先生(ローラント・アルトマン)は今日にかぎらず他のPMFの演奏でも、いつも自分はトライアングルとか小さく叩いて、常に腕を組んで鋭い眼を学生たちに向けているのが印象的でした。(すっげー、睨む睨む)

 面白かったのが、ふつう2番ティンパニ奏者は1楽章が終わると出番がないのでひっこんでしまうのですが、このときはやおらグロッケンとスネアドラムの箇所へ。2・3楽章に出番がありました。そして、アルトマン教授かいきなり2番ティンパニの席へ………。何をするんだ? と思っていたら、2・3楽章で豪快にぶっ叩いてました(笑)

 ここは1番の人が1人で2音をデンデンと叩くところなんですが、まあ2人にやらせても問題はない。
 
 しかしキタラはいつ行っても音がいいなあ〜。

 柴田南雄が著書でいうには、マーラーはたとえアマでも、生演奏を聴くにかぎるというのは、その豊富で細かく繊細にして大胆な管弦楽は、CDではやはり100%体現できるわけではありませんということです。

 機会をみつけて、また行きたいです。

 新企画のためCDをいろいろ仕入れてきました。このコーナー、忙しくなります。
 


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