リヒャルト・シュトラウス(1864−1949)


 一般的には交響詩とオペラで高名なR.シュトラウスには、歌曲や協奏曲、室内楽作品もあり、交響曲に関しては若書きの秀作と言われるものが2作、それと標題交響曲で実質的には大規模な交響詩と呼べるものが2作、ある。

 そのうちの1作、家庭交響曲に関しては、何回聴いてもイマイチよく分からないのでw ここではメインにしてR.シュトラウス最大規模の管絃楽作品でもあるアルプス交響曲をとりあげたい。


アルプス交響曲(1915) 

 マーラー没後の1911年よりスケッチを始め、1914年より本格的に作曲したこの巨大な音楽は、アルプスという題材、マーラーちっくなカウベルや、シュトラウスにしては珍しいウィンドマシーン・サンダーマシーンの使用(ウィンドマシーンは交響詩「ドン・キホーテ」でも使用されるが、ハンマーにも似た衝撃のサンダーマシーンは特注である)による心理的効果、劇的な交響楽的効果、大自然賛歌の精神を鑑み、アルプス散歩を愛した友人マーラーへのオマージュではないかというほど、シュトラウスの中では異彩を放っている。演奏時間は50分で、シュトラウスの管絃楽作品では最長の部類。マーラーの交響曲に比べると「小規模」ですらあるが、その充実しきった超濃縮還元的絢爛豪華さはシュトラウスの面目躍如であり、時間的な短さをまったく感じさせない膨大なスケールをもつ。

 また、舞台裏のバンダもあり、大規模なものなので楽員が代用で出たり入ったりする場合が多い。ヘッケルフォンという(ちっとも目立たない)珍楽器も登場する。サンダーマシーンは雷の音を模す効果音楽器で、打楽器が担当する。サンダーマシーンには何種類かあって、オペラなどでは巨大な箱型シーソーの中に石を入れて動かすと石が転がってゴロゴロと音を立てるというのもあるが、ここでは巨大な薄い鉄板を吊るしたようなもので、鉄板を揺すったり叩いたりするとガラガラというか、バシバシ、ジュワシャー、バシャー〜〜、という音がする。その他、ティンパニは2人(1st6、2nd4の10台)にワーグナーチューバも登場し、楽器編成を見るだけでも実演では楽しいだろう。

 

 (↑ネットで拾ったサンダーマシーン画像。ドイツ語ではドンナーマシーン。見た目のインパクトほどには出番が無い。雷鳴ではなく、一瞬の稲光を表現していると思われる。)

 さて、曲であるが、楽章は無く切れ目無く演奏される単一楽章だが、スコア上は場面が分かれており、CDではそれでトラックを切るものが多い。やはりここでもその通りに聴き進めたい。ただし、22も分かれているので、ざっくりと。

 日の出前から登って、日の出、滝で休憩、ちょっと道に迷い、頂上で感動し、天候悪化、日没に無事下山と、そういった流れである。

 ところで、TVなどで演奏の模様を放送すると、合間にアルプスの画像なんか差し込んだりして、いかにもアルプスの情景をイメージしてしまうが、シュトラウス自身は、「ただ音だけで真実を表現し、言葉ではただ暗示するだけ」(作曲家別名曲解説ライブラリー R.シュトラウス:音楽乃友社) と好んで語っており、映像的な描写を付随するものではなくあくまで音楽のみの鑑賞が望ましい。そのための、特殊楽器だったり、大編成である。それは観念的な題材の交響詩であるツァラトゥストラや死と変容等でも分かる。この2曲から、何のイメージも想起しない。それは正しくて、そもそも音楽のみを楽しむべきものなのだ。

夜〜日の出〜登山〜森に入る〜小川にそって進む〜滝〜幻影

 とはいえ、シュトラウスの情景描写力は神クラスで、どうしてもイメージが浮かんできてしまう。ま、それはそれで、脳内で楽しんでいる分には、仕方のないところだろう。(わざわざ映像なんかで見せて助長させるのは疑問、という意味。)

 夜の主題が静かに現れ、全曲を開始する。遠くから金管で荘厳に静かに奏でられるのが山の主題。ライトモティーフ手法により、音楽全体をヴァーグナーふうに、ドラマティックに仕上げてゆく。しばらく進むと、燦然と太陽の主題が登場し、日の出となる。なんたる清々しさ。
 
 低絃が決然と現れると、登山の主題による山登り開始。さあ出発だ! 金管が短く岩壁の主題なども奏す。アルペンホルンを模した金管の響きも面白い。狩りの角笛である。ここのステージ裏バンドの響きは、特にマーラーを思わせる。

 森の中に入ると、いったん、鬱蒼とした雰囲気となる。森の主題に登山の主題がからんできて、複雑な音楽的面白さを出す。

 愛らしい絃楽による小川の主題が聴こえてきて、登山の主題とならんで、小川にそって山を登り続ける。やがて岩壁の主題が復活し、緊張感が出て、滝の主題が現れる。チェレスタやハープが水しぶきを表し、登山者はしばしその幻影に酔う。新しい第2登山主題ともいうべきホルンのテーマが聴こえる。また、山を登り始める。

お花畑〜山の牧歌〜林で道に迷う〜氷河へ〜危険な瞬間〜頂上にて〜景観

 また歩を進めて行くと、アルプスの高山植物による天然の花畑が眼前に拡がる。なんという気分爽快! マーラー流のカウベルまで登場し、牧歌的雰囲気を演出する。ホルンのアルペンホルンも聴こえてくる。

 その風景を楽しみながらさらに進むと、なんか道がおかしい。登山者は道に迷ってしまう。不安げな心理描写を、登山主題と岩壁主題のフーガで表現する。

 登山者は道を戻らず、強引に進む。決然と登山主題が鳴る。すると、目の前が開け、大きな氷河が出現する。だが、まだ危険は去っていない。岩壁の主題が連続し、道無き道を進み、滑落しそうになり、ティンパニによる遠雷も聴こえる。頂上の主題が見えてきて、オーボエの寂しげな旋律がなんともこれまでの登山の懐古的雰囲気。

 そしてついに、頂上に達する。ヤッター! 

 なんたる景観!

 この曲の頂点の1つである。壮大極まりない音楽的描写。オルガンに、ファンファーレに、オーケストラ全体の喜びの爆発。登山主題に太陽の主題、岩壁の主題が思い出され、感動的だ。

霧がわいてくる〜太陽が陰りはじめる〜悲歌〜嵐の前の静けさ〜雷雨と嵐、下山〜日没〜余韻〜夜

 さてそろそろ帰ろうかという時、にわかに雲行きが怪しくなってくる。霧が立ち込め、太陽の主題が弱々しく奏される。登山者はせっかくの気分が台無しになり、木管が悲歌を歌う。

 またも遠雷が鳴り、嵐の前の静けさに、不気味な様子が伺える。

 そしてついに大雨となって、風はビュービュー、雷はビカビカの山嵐となる。登山者はずぶ濡れとなりながら、急いで下山する。登山の主題が転回縮小され、下山の主題となる。登山の際に出てきた色々な主題が大急ぎで再現され、下山の様子を表す。メチャクチャな音響効果の中にも、様々な仕掛けが施してある。滝の主題もいかにも気ぜわしい。岩壁の主題も一瞬で過ぎ去る。

 ※ウィンドマシーンは大活躍だが、サンダーマシーンは他の打楽器に隠れて、正直、たいして聴こえない(笑) 出番も2小節しかありません……。

 なんとか、麓まで到着した。太陽の主題が聴こえる。振り返ると、雲の合間から山が見える。登山主題が聴こえる。太陽の主題が転回されて日没の主題となる。美しい、山の端に、夕日の情景が見える。こうなっては嵐も一時の想い出である。

 やがてアルプス登山の余韻となり、全体を回顧する。終結部を経て、再び夜の主題が登場し、安心して眠るような心地よさで曲は終わる。

 このように、単なるイメージ想起のBGMでは無く、音楽的な仕掛けが随所に施された、音楽による音絵巻である。主題の扱い方も、交響曲というに相応しい重厚なもの。シュトラウス一級の品であり、他の交響詩と比べてもけして劣るものではない。いやむしろ、彼の純管絃楽作品としては、最高傑作といっても良い。シュトラウスは、音楽に哲学や人生観を求めない。そういったような交響詩も書いてはいるが、実は、そんなものは無い。それをストレートに表したこういう音楽こそが、シュトラウスの真の音楽だと感じるからである。


オマケ

大管絃楽による日本帝国建国2600年に寄せる祝典曲(1940)

 我輩にとって 「R.シュトラウスといえば」 アルプス交響曲とこの皇紀2600年祝典曲であるのだがw 

 皇紀2600年奉祝曲は、Wikipedia などに詳しいので割愛するが、海外のものではブリテンの鎮魂交響曲、イベールの祝典序曲がまずまず高名で、ヴェレッシュやピツェッティはマイナーな部類だろう。

 ブリテンはけっきょく受け取り拒否という形で演奏されなかったが、鎮魂は個人的な事情であり 「こういう内容でも良いか」 という打診を受けて、企画者の承諾の下に献呈され委嘱料も払われたが、外務省から(つまり第三者から)奉祝に鎮魂とは何事かというクレームが来たこと、作曲が遅れて写植が間に合わなかったこと、難しくて練習もろくにできなかったこと、そうしているうちにイギリスと戦争が始まったこと、などが重なった結果だという。

 で、シュトラウスの祝典曲が、必然、メインとなった。

 編成はでかいが15分程度と中規模で、プログラム上、演奏しづらいことや、内容が他の交響詩等の管絃楽作品と比べるとイマイチなこと、戦争賛美につながりかねない音楽的内容等から、今日世界的には演奏は皆無、日本においても戦後数回の演奏に留まっており、CDでは長く作曲者指揮の戦前モノラル盤しか市販されてなかったが、何を思ったか(ユダヤ人の)アシュケナージがチェコフィルを指揮して1998年に録音し2007年に発売された。また2011年には日本における皇紀2600年奉祝演奏会の模様のSP録音が、4曲まとめて発売された。

 楽章は分かれていないが5部に分かれると考えられている。(スコアには表記が無い)

海の情景

 冒頭より牧歌的な和音に乗ってゴングと指定された楽器で旋律を奏でる。これは作曲者指揮の録音では電気的に合成した音を使い、日本初演では音程の合ったお寺のカネ(吊り鐘の梵鐘ではなく、お経を読みながら叩くザブトンみたいのに乗っかった磬子(きんす)のほう)を探してきて使用した。現在では楽器としての音程のあるクロマティック・ゴング等を工夫して利用しているようである。苦労の割には、そんなに目立たないが。

 絃楽が波のざわめきを表し、キラキラと陽光を反射する様はシュトラウスらしい描写力といえる。息の長いフレーズは、日本のテーマで、遠い日本への憧憬を想わせるなかなか良い音楽。やがてそれは金管の吹奏となって、祝祭気分を盛り上げる。

桜祭り

 木管と絃楽による愛らしいフレーズが始まり、祭りを楽しむ若者たちの心地よく甘い雰囲気がよく伝わってくる。薔薇の騎士風のセレナード的な音楽がなんとも甘酸っぱい。春の様子に、気分も朗らかとなる。舞い散る桜吹雪の楽しさ、高揚感。

火山の噴火

 突如として日本の自然の驚異に襲われる。低音から一転して嵐となり、ドカドカと火山が噴火する。いかにも西洋人らしい描写で、流石の管絃楽の手練。ミニアルプス交響曲ともいえる所以。

侍の突撃

 そこに絃楽のフガートが始まって、武士団の突撃が加わる。これも言うなればラストサムライ的な発想なんだろうが、音楽も妙なフガート主題による突撃ラッパが微笑ましい。雄々しく進撃し、優雅な主題がまたサムライの典雅な一面も見せる。大河ドラマのテーマ音楽とは一線を画した、正統西洋音楽による珍しいサムライのテーマである。

天皇讃歌

 それが盛り上がって、終結部は壮大なる天皇讃歌。ファンファーレを含む日本のテーマが何度も吹奏され、ティンパニも堂々と、日本の建国2600年を大々的に祝典する。分厚い管絃楽が執拗にバンザイを繰り返し、大団円で終結する。

 そりゃドン・ファンやティルと比べりゃイマイチだが、これはこれでかなり面白い音楽である。これほどのレベルに達した「実用音楽」は、そうは無いだろう。日本的な情緒は皆無の、純ドイツ的な表現が、逆に立派な作りを際立たせるし、異国情緒を抜きにした、日本を題材にした音楽という点でも珍しい。内容はワンランク落ちるかもしれないが、音楽史に残る巨匠の手による日本をお祝いする曲というだけで、日本人にとっては、やっぱり価値があるだろう。






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