宍戸睦郎(1929−2007)


 芸大で池内友次郎に学んだ後、パリへ留学し、メシアンに作曲分析を、ジョリヴェに作曲を学んだという宍戸は、寡作ながら密度の濃い重量感ある作品を書いているという、日本作曲会重鎮の1人。作風は、昔からの日本的情緒と最新の西欧的技法のすばらしい融合体。作曲の為の作曲、実験作曲を否定し、音楽の根底にある歌心を重視している。

 その宍戸が、作曲の頂点ともいうべき「交響曲」において、その日本的情緒を(外見だけでも)廃しているのは、大きな指針だろう。


交響曲(1994)

 日本交響楽振興財団の委嘱で完成された交響曲は完成に3年を要し、宍戸音楽の頂点に思える。しかし、ここではいわゆる他の作品にみられる「日本的情緒」のようなもの、日本人として根ざしてきた抒情、迫力、心情は極力廃されており、人間の心情によらない純粋な音楽表現が試みられている。

 ここで宍戸がめざしたのは、敬愛するベートーヴェンの精神であるという。人間の心情ではなく人間が生きるうえでのドラマツルギーを純粋に創作された音楽でどのように成しえるか。しかも、技法は、極力、現代的なものを使う。(ただし12音ではない)

 ベートーヴェンがその交響曲でめざしたものは、人間の精神の根源であろう。しかし、現代でそれを示す音楽というものが、どのようなものか。答は簡単には出るまい。

 20世紀は12音技法音楽の世紀と呼べるかもしれないが、その裏で、じつは地味に交響曲も前世紀に負けてないほど書かれている。それらはドイツではなく、旧ソ連、北欧、そしてアメリカで主に書かれている。ただし、その中でどれだけベートーヴェンの系譜……つまり交響曲という 「音楽」 に人間の生きる力や精神の深さ、自然の営み、そして大宇宙そのもの、を書き込み、「すべてを内在するもの」 として昇華しているかといえば、たいていはクズと云わざるを得ない。
 
 宍戸の交響曲は、そういう意味で、深さへの挑戦かもしれない。

 1楽章は「強い意志をもって」 と題された楽章で、運命動機が示され、ティンパニの轟きがそれを彩る。序奏が終わると第1主題が全奏アレグロで現れる。鋭いトランペットから導かれた刺すような主題が第2主題ということで、厳しく第1主題と対峙する。なかなか、戦場的な激しい楽章だ。人生はこれみな戦いなのだろう。

 鐘の音からはじまる2楽章。「祈り」と題されている。鐘に続き、祈りを導くのは、ピアノだ。ピアノは司祭のようなものか。祈りは静謐なものではなく、トランス的なもので、原始的だ。最初はアダージョだが、次第に盛り上がって、やがて総奏となって始源的に爆発する。

 その後、また祈りは静まるが、これは遠ざかってゆくといった雰囲気がする。

 再びティンパニが炸裂すると第3楽章「トッカータ」。ここでは現代的な素材がいかに都会の混乱に埋没しつつ自己を確立できるか、といった命題が聴こえてくる。弦楽のアレグロによる素材が鍵盤パーカッション群(ピアノ含む)を経て変奏を重ね、最後は喧騒のまま、終わる。

 フォンテックにある唯一の録音で併録の合唱組曲「奥鬼怒伝承」のような民族的曲風がこの作家の持ち味であるとするならば、交響曲はずいぶんと毛並みが異なっている。わたしは、どちらも好きだ。(もっとも、合唱自体は表現的にやはりちょっと首をかしげるが。せっかく短歌を歌っているのにフレーズを合唱的に重ねて、ちっともその魅力が伝わらない。歌曲では短歌や俳句をそのまま短く歌っているものはあるが、合唱ではやはりそうはいかないということなのか。)

 


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