ヴァン ベートーヴェン(1770-1827)


 「不滅の9曲」といわれる「大先生」のシンフォニーはやはり、交響曲という音楽を考えるときに、どうがんばっても、はずすわけにはゆかぬ。交響曲物語のトップはやはりこの人だろう。

 曲数がハイドン・モーツァルトと比べても、ぜんぜん少ない。つまり交響曲という音楽ジャンルが、単なる大量生産(といっても、その中でも神傑作を書いているハイドン・モーツァルトはやはり凄いのだが)に終わらず、作曲作曲が真剣勝負、音楽に崇高なる精神性を込めてしまった罪深さ。交響曲というただの音楽が、とてもご大層でご立派なモノという錯覚を覚えさせることになってしまった悲劇。
 
 とにかく、ベートーヴェンはスキとかキライとかいう以前にもう、第九にしたって、1万人のコンサートとか、ドイツ統一のときにみんなで歌ったりとか、もはや人類にとって永遠の音楽。5番だって、日本人でジャジャジャジャーンを知らない人っているのか。

 例えば「交響曲史」というジャンルを考えた場合、いろいろ節目はあるのだろうが、どう考えてもベートーヴェン以前/以後でまず最初にカテゴリーを分けざるをえまい。それくらいこの人のした仕事は大きい。この人の交響曲は、まさに別格なのである。好き嫌いを超えて、畏怖すべき対象となっている。
   
 「不滅の9曲」伝説は、以後の作曲家たちの偶然の積み重ねでもある。すなわち 「交響曲作家は交響曲を9曲書いた後は死ぬしかない」 という例のやつだが。

 偶然にも(偶然です)ベト大先生の後、ベートーヴェンを心より敬愛し尊敬していたシューベルトが後を追うように死去したのだが、そのシューベルトが結果的に9曲の交響曲を残して死んだ(ここではあえて9曲)
 
 その後、巨大な交響曲を創り続けたブルックナーも9曲めが未完で死んだ。マーラーも、巷間で言われているようなものと違い、特に気にしてはいなかったとのことだが、結局番号付は9番までが完成で死んだ。

 同じころ、ドボルザークも9曲で打ち止めてその後交響曲を創らず、結果として9番で死んだ。
 
 ロシアではグラズノーフが 「わしも9曲めを書いたら死ぬのではなかろうか」 と本気で悩んで、9番を書くのがいやでいやでグズグズしている内に9番が未完で死んだ。

 イギリスではヴォーンウィリアムズやアーノルドがこれまた9曲で死んだ。

 そういうの、「作曲する動機」としては、なかなかの説得力があるわけで、「そういうの気にしません」 というのも、その時点で既に伝説にとらわれているのである。

 すごいなあ「不滅の9曲」(笑)

 ちなみに4曲や6曲伝説はないのか? というヒネクレタ人もいるのだが、伝説にするにしては逸話が少なすぎるのでw


第1交響曲(1800)

 ベートーヴェンが30歳のころ、初めて完成された記念すべき交響曲。ベートーヴェンは当初、超絶技巧派ピアニストとして食っていたため、初期の作品はピアノソナタやピアノ三重奏など、ピアノ作品が多く、交響曲という純粋なる器楽合奏の王様の作品完成は、遅くなった。

 とはいえ、この1番そして次の2番ほどまでは、若さそして才能ゆえの革新さはあるが中身は通常の古典派交響曲で、ベートーヴェンらしさはあり、名曲ではあろうがけして後世まで燦然と輝くような神曲ではない。ハイドンやモーツァルトの確立した世界を突破していない。

 従ってついついこの後のナンバーの刺身のツマみたいな扱いを受けがちだが、ツマだって食えばうまいんだぞ、という聴き手もそりゃいるわけでありまして、古典派交響曲としても、また他の交響曲作曲家と比べて1番としてもけっこう聴ける出来。そもそも交響曲で成功している作曲家で、今日1番から名曲扱いでよく演奏されるというのはメジャーどころではブラームスとマーラーであろうが、それらと比べても価値的に悪くなく、その人の後のナンバーと比べて小曲だという枷を嵌めてみても、少なくともプロコーフィエフショスタコーヴィチの第1交響曲と同等の価値はあろう。

 第1楽章は古典派らしく序奏付の超正統ソナタ形式。ほっこりとした序奏の和音。ここで和声学的には既に革新的な響きなのだそうだが、そこまでくわしくなくとも充分、雰囲気を楽しめる。アレグロになってまさに快活な第1主題。この旋律はいかにも古典的で、モーツァルトを思わせる。どちらかというとティンパニが既にベートーヴェンの好みか。オーボエとフルートの第2主題も愛らしいが力強い。コデッタの後、提示部反復。展開部は、古典派らしく変奏が緩いというか、流す感じでさらりと進む。じっさい、時間的にも、1分半ほどで終わって再現部になる。古典派のソナタ形式の神髄は、提示部であり、それはしっかりと再現されるくらい重要なのだ(笑) コーダもしっとりと「上品に」盛り上がって、ジャンジャンジャン♪

 第2楽章はアンダンテ、3/8拍子、ソナタ形式。序奏無しで第1主題が順番に登場しカノンかフーガっぽい。第2主題も同じ雰囲気。しっかりと提示部を反復し、ゆったりと三拍子のワルツっぽい流れを作ってゆく。ベートーヴェンの好きだったヴィーン近郊の森林田園散歩の情景を思い浮かばせる、ベートーヴェンの緩徐楽章の萌芽がある。展開部はしっかりとした足どりで進み、主題を再現して終わる。

 第3楽章はメヌエットとあるが、これはまぎれもなくもはやスケルツォ(笑) 激しくも荒々しい響きがいかにもベートーヴェンであり、初期の若さ溌剌、トリオですら付点音符がノリノリで進行する。スケルツォの主題は後のナンバーにも出てきそうな味わいがある。

 第4楽章も序奏付ソナタ形式。重々しい序奏はアダージョで進み、ヴァイオリンのとぎれとぎれな独特の旋律が楽しくも第1主題の暗示であり、技術的にも聴き逃せない。一気にアレグロへ突入。流麗な第1主題。第2主題もウキウキでワロタw ここではハイドンの影響が如実。提示部反復し、もう1回聴ける。儲けたw 展開部はなんだかよく分からない内にごちゃごちゃと進み、再現部! さらにもう1回旋律を聴ける儲けたww コーダでその旋律がさらに効果的に展開して盛り上がって、ズパァッと終わる。その潔さも古典派としてのいいところだ。

 さて、そもそも、ハイドンやモーツァルトなどの先輩たちもそうなのだが、ソナタ形式というものが確立された当初、メインは提示部であって、提示部を単に繰り返していたそのあいだに間奏部的な扱いで展開部が差し込まれていたにすぎない形式から、ソナタ形式は発展してきたと思われるのだが、それはシューマンメンデルスゾーンあたりのロマン派の作曲家まで続いている。ソナタ形式というのは、提示部をいかに素晴らしい旋律で飾るかに重点がおかれ、リピートされ、後に再現される。その合間に、つなぎや気分転換ていどの意味しか持たないのが主題を変奏する展開部というふうにしか聴こえない。それほど、古典派から初期ロマン派にかけての展開部は良い意味で適当に、それこそ流すように書かれている。

 ベートーヴェンも、ハイドン、モーツァルトに比べるとかなり展開部に重きを置き変化させているが、まだ単に変奏時間が長いだけという域に納まっている。革新の始まりは、確かにベートーヴェンなのだが。

 それを完全に超越して魔改造してしまったのが、マーラーとブルックナーだろう。彼らは限界まで押し進めたがソナタ形式そのものは破壊せず、展開部をこそソナタ形式の命であると確信し、革新した。彼らの展開部は膨大な情報処理を求められ、第1主題、第2主題、時には第3主題までが第1展開部、第2展開部、あるいはそれらの複雑な組み合わせとして進行し、転調に次ぐ転調、展開に次ぐ展開、必然、音楽はやたらと長くなった(笑)

 ブラームスも展開部に工夫を加え、展開部のカットや提示しながらの展開も含めた、意外に細かい処理をしている。後期ロマン派、新古典派になって、ソナタ形式は確かにさまざまな進化を遂げたが、そもそもは、ここにあるような本来の姿を把握した上での、楽しみがあるだろう。


第2交響曲(1802)

 ベートーヴェンはやはり3番からが有名で、1番2番というのはマニア好みというか、通好みというか。でも2番は非常に面白い。私は3番より肩がこらないで好き。このころベートーヴェンは難聴が悪化し、高名なハイリゲンシュタットの遺書まで書かれているものの、この第2交響曲は幸福感にあふれている。音楽は、音楽のみを語り、感情は反映しない。

 第1楽章の序奏はもう3番を予感させる重厚なもので、特に出だしなんかはけっこう衝撃的。主部のアレグロに入ってからも、高弦の軽やかさの中にもティンパニや低音部の扱い方が、ハイドンやモーツァルトとかと如実に違って面白い。

 またアマチュアながら、じっさいに2番なとベートーヴェンを自分で演奏してみて、ハイドン・モーツァルトと比べて、ベートーヴェンからティンパニがまったく異なるのに驚く。ティンパニが違うということは、実はトランペットも違う。モーツァルトまでは、やはりティンパニ・トランペットは音楽の「補強」なのだが、ベートーヴェンからにわかに主役に抜擢されてくる。そりゃ、滅多に主旋律を奏でたりはしない。しかし、この力強い自己主張はベートーヴェンの時代から勃興してきた市民階級の雄叫びのようも聴こえるのである。

 重々しいアダージョの序奏は演奏時間も長く、堂々として、1番と格差がある。ややテンポが上がって雄々しく進み、後の第九を思わせるパッセージまで登場する。転調も効果的で、中間部なども面白い。そしていよいよ主部のアレグロに到ると、活き活きとしたした第1主題が飛びでてくる。ティンパニがドコドコ鳴る。第2主題はたおやかな調子だが、合いの手のティンパニと管楽器は激しい。

 さて、展開部がまだまだ経過部みたいな扱いであるとはいえ、そこはベトベン。この2番第1楽章の展開部は、けっこう重きを置かれていて、工夫がある。展開部の第1部、第2部と思わしき部分もあって、モーツァルトを範にとりつつベートーヴェンもたっぷりと研究したマーラーが後にヒントにしたとも考えられる。けっこう盛り上がるし、けして単なる経過というものではない。再現部も、提示されながら形を変えてゆく。コーダもかなり盛り上がるうえ、明らかに変奏され、展開されている。

 第2楽章はラルゲット。ソナタ形式。序奏無しで、優雅な第1楽章が絃楽器で奏される。美しくも、骨太でしっかりとした、我の強いいかにもベートーヴェンな旋律。第2主題も絃楽器で奏され、リピート無しで展開部へ。ここでは第1主題が主に展開されるが、その変奏は充実し、オマケではない。再現部も対位法なとに工夫が加えられて飽きさせない。若くともベートーヴェンの作曲技術は既に完璧である。

 3楽章は、いよいよ「スケルツォ」の登場。ズーンという特徴的なリズムと面白い旋律が続き、祝祭的な雰囲気。緊張感もあり、トリオでは低絃の面白いパッセージも現れる。規模としては短い。

 4楽章はロンドソナタ形式という複雑さ。交響曲ではよく使われる常套の技法なのだが、簡単なロンド形式の中にソナタ形式のような進行を含んでいるというもののようである。ロンド形式はもっと主題がたくさん出てきてややこしいが、ロンドソナタ形式はソナタでもあるので主題は第1と第2ほどで、第3主題は展開部に相当する。ここでも短い導入部が主題A、続く流れるような部分が主題Bで、それらが第1主題第2主題を兼ねている。提示部のリピートは無し。展開部より再現部とコーダに重きがおかれた、ちょっと変わった、工夫の入ったもの。ベートーヴェンは常に工夫と思考を加え、けしてたんなる諸先輩のモノマネで終わらなかったところが、エライところだろう。


「英雄的交響曲〜ある偉大な人の思い出に捧げる〜」(1804)

 冒頭の巨大な和音の連続は、谷間へそびえる大きな門の柱にも思えるし、国境を護る巨大な彫像のようにも思える。あまりに壮大で重厚だ。このふたつの音だけで、この大交響曲のすべてを物語っているようにも思える。ナポレオンがどうのこうのと、逸話が残されているが、そんなことは関係ない。とにかく雄大で壮大な音楽をそのまま楽しんでしまいましょう。

 順番としては3番で、日本では交響曲第3番「英雄(エロイカ)」という表記が一般的だが、スコアには単に Sinfonia eroica, composta per festeggiare il sovvenire d'un grand'uomo とのみ書かれており、エロイカは修飾語なので、英雄のような、英雄的、英雄的な、という意味になって、けして「英雄」では無いと思われる。標題音楽のようにも思えるが、ここは、表層的なタイトルという意味での「表題」ていどの意味合いだろう。

 なんといっても、1番・2番に比べて規模が格段に大きくなっており、その本当に英雄的な内容も含めて、「交響曲」という単なる音楽のジャンル、しかも気軽に量産されるような比較的軽いジャンルを、そのエピソードも含めて、何か重大な記念碑的な作品にしてしまった。その意味で、この英雄的こそ、今後の交響曲という巨大なクラシック界音楽ジャンルの出発点であり、やはり記念碑的な作品になっている。交響曲史をベートーヴェン以前以後で分けられるだろうと記したが、ナンバー別では、完全にこの英雄的以前以後になると思う。モーツァルトの41番も記念碑的な作品ではあろうが、あちらはむしろ古典派最後の華、とでもいうべきか。 

 1楽章、ふたつの連続和音よりすぐチェロにより渋く、「英雄的な」第1主題が始まる。真にベートーヴェン的な交響曲の最初、などとも云われているが、この大きさ、雄大さ、深さ、雄々しさはまさにベートーヴェン。懐が深いというかなんというか。とにかくいい音楽だ。ティンパニとホルンがもう漢の仕事。3拍子を延々と連ねに連ねて、この楽章は続けられる。第1主題が盛り上がってから、短く、木管によりその変奏のような第2主題。さらに盛り上がって提示部をコデッタでしめる。リピートあり。もちろん省略する指揮者もいる。

 ここで、ベートーヴェンはついに展開部へ革新をもたらす。提示部より長大で目立っている! これまで提示部と再現部の「つなぎ」のようだった展開部へ、提示部主題による大変奏を行っている。展開部魔改造への第一歩といえるだろう。深刻な主題の展開に、聴く者は嫌が上にも緊張する。第2主題も存分に扱われ、一瞬静まってから、ホルンが呼びかけ、再現部へ突入。ここでも、単なる再現ではなく展開部の続きのような処理を行い、まさに後年マーラーがその手法を参考にした原典を見る想いがする。それはコーダにおいてもそうで、単なる締めくくりの部品みたいな存在であったコーダですら、主題の展開の一翼を担い、まさにソナタ形式そのもの全てが「主題とその展開」の権化と化している。

 ※個人的には再現部の最後の部分らへん、ティンパニの3拍子3拍目のダカダカ! が燃えます。どういう感覚でベートーヴェンはあんなティンパニの使い方をするのか。

 白眉は2楽章だろう。やっぱり。どう考えても。ここだけでもう名曲。葬送曲だそうだが、重厚にして荘厳。もう特に云うことはない。ただもう聴いてほしい。ただ、聴く。真にそれが許される音楽の中の音楽。

 しかし、そもそも、交響曲の緩徐楽章に、なんでいきなり葬送の音楽なのかw

 冒頭より陰気な第1葬送主題がヴァイオリンで。それがまた美しくオーボエに託される。非常にゆっくりとしたロンド形式で、しばし葬送主題Aが緊張感と痛切なる哀しみを演出して続いた後に、一転して長調となって、葬送の主題Bが現れ、気分が少し晴れやかとなる。テンパニと金管の持続音もまさに救済を示す。再び調が戻って主題Aが再登場。さらに一転して、ますます気分は地獄に向かう。主題Cが登場すると、深刻なフーガとなって、宗教感的高揚感を聴くものへ勃興させる。この効果は凄まじい。さすがはベートーヴェンだ。朗々と神の声を模すホルンも強烈な印象を残す。ティンパニの地獄太鼓は地の底より響きわたる。それが落ち着くと、弱々しく主題Aが戻ってくる。魂は、どこへ行ってしまったのか。

 思いきや、最後の咆哮が高らかに響く。沈没する戦艦の警笛のようだ。長い、儀式のようなコーダが続き、楽章はゆっくりと幕を閉じる。この長いコーダも、革新として後の作曲家へ影響を与えているだろう。

 3楽章のスケルツォは、真に本格的なものに思える。ホルンの重奏は狩りの様子なのかどうか。ブルックナーはこれを意識しているのか? 2楽章に比べて短いようにも思えるが、間奏曲的な意味合いもあるし、諧謔曲なのだから、当時はサラッと流れるという感覚で良かったのだろう。音楽としての出来も当然、良い。勢いのあるスケルツォ部は、2楽章の憂鬱な感情を吹き飛ばす。なお、当時のナチュラルホルンでのトリオ部分の演奏は、かなり難しいそうである。全体としてもベル部に手をつっこんで音を変化させるストップ奏法が多用されている。いや、ホルンは元々つっこんでいるのだが、奥へ塞ぐようにつっこんでしまう。

 1・2楽章が良すぎて、フィナーレの4楽章は私はいまいち印象に残らないのだが、それでもすばらしく明るい開放的なもので、気分がいい。アレグロ・モルトの典型的な交響曲の終楽章。自由な変奏曲で、基本、主題と10の変奏によると考えられている。元気よく主題が提示され、落ち着いた管楽器の変奏に続き、絃楽が登場して、以後は次々にその音楽を作ってゆく。木管も加わったり、フーガっぽくなってみたり。変奏の中に、突如として民族舞踊風の部分も登場、踊りに踊って気分を盛り上げる。そこからまた変奏が続き、いったんテンポが落ちてホルンの雄叫びが、2楽章の反転のようにも聴こえ、そこからさらに音楽は進んで静寂となって、いってんしてホルンがまた吠え、コーダでは大豪快の大団円となる。

 前半楽章に隠れて、尻つぼみな印象を持たれる聴き手もあるかもしれないが、ここではまだ、ベートーヴェンの交響曲は「ドラマ」ではなく単なる音楽にすぎないことを示唆しているように思う。いくら1楽章か英雄的に雄々しかろうが、2楽章が人生を語ろうが、この4楽章にあるのは、純粋な音楽の喜びのみ。


第4交響曲(1806)

 誰かさんの評論のおかげか、どうもこのベートーヴェンの4番は可憐な乙女みたいな、少女チックでリリカルなイメージが先行して、確かに3番と5番に挟まれりゃそうかもしれないが(笑)  4番自体はまるで硬質な、いかにもベートーヴェンの音楽というふうにしか聴こえない。むしろ8番の方がまだ端正なリリカルさをもっている。この4番は、豪快ではないが確実に豪傑というべき音楽になっている。

 つまり、ゴッツイ。

 深遠な、深刻なアダージョから音楽は始まる。ここでもう、可憐なとか、リリカルなどとは遠いのに、なんでこのような評になるのか。テンポのとりづらい、しんみりとした音楽。これまでの序奏とは比べ物にならないほど長く、3分ほどもある。最後にドーンと盛り上がって、主部へ。

 主部になって一転、明るくて軽やかなアレグロとなる。ここは確かに、女の子がキャッキャ遊んでいるふうでもあるが、それにしては和音やティンパニが重い。第2主題は木管が鳥の声のようで6番ぽくもあるだろう。主題を2つを使ってコデッタを作り、リピートへ。展開部は主題を伸ばして流麗に。静かになってから再現部へ突入。少し形を変えつつ主題を再現して、コーダへ。盛り上がって、技法的には2番に戻ったような順当さで締める。しかし、そこには3番を経ての革新が隠されている。

 2楽章はアダージョだが、展開部を欠くソナタ形式だそうで、つまりほぼ2部形式。ソナタ形式はこの2部形式から発展してきたというので、これは先祖返りに近い現象だろう。第1主題は重々しい、付点りズムのもの。クラリネットが哀調ただよう旋律を吹き始めるとそこは第2主題である。展開部が無いのでそのまま第1主題に戻るのだが、ベートーヴェンらしい展開部を兼ねた再現部のような、変化をつけている。ここらへんの豪快さ、劇的さはいかにもベートーヴェンで、とてもリリカルなどというものではない。ベートーヴェン的なリリカル、というものがあるとすれば、ここはそうなのだろうが。第2主題のクラリネットも、音符が伸びてさらに感情が高ぶる。それを支える低絃の付点リズムがまたいい。ティンパニのドソロも、この時代では珍しい。ピアノ協奏曲3番やヴァイオリン協奏曲など、ベートーヴェンはティンパニ独奏を好み、究極がもちろん第9の2楽章で結実する。

 3楽章はアレグロ・ヴィバーチェで、スケルツォではないのだが、実質スケルツォ。厚いオーケストレーションで主部を豪快に奏でる。3拍子2小節を大きな3拍子1小節のように聴かせるリズム(ヘミオラ)が面白い。タタタ タタタ を タ・タ ・タ・ とやるのである。中間部はやや牧歌風。冒頭に戻るが、進行としてはロンドふう。

 4楽章アレグロソナタ形式は劇速のパッセージの第1主題が、メンデルスゾーンがイタリアで後に参考にしたのではないか、と思うほど。ドカドカと鳴り響くティンパニとトランペットがいかにもベートーヴェン。第2主題の登場の裏でもこの絃楽の恐ろしい16部音符が鳴り響き続け、展開部を経て再現部になってはファゴットがそれを超絶技巧で吹きこなす。延々と絃から煙が出る勢いでヴァイオリンが弓を動かし続け、これで他の楽器と同じ給料である。ドーンといったん落ち着くも、低絃が鬼パッセージ。テンポを落としてタメを作り、あれっと思わせて、一気に終結。

 へんな逸話やインチキくさいタイトルが無いぶん、純粋に音楽として聴ける音楽として、ベートーヴェンの4番や8番というのは意外に通好みで、重要なのだと分かる。


第5交響曲(1808)

 じゃじゃじゃじゃ〜〜ん♪ を知らない日本人っておそらくいないと思うのだが、念の為。

 3番のところで、ナンバー別では3番以前以後に交響曲は別れるだろうと書いたが、この5番以前以後でもやはり別れてしまうのかな、と強く思う。3番はその規模を打ち破ったが、5番はスタイルを確立した。つまり、交響曲とは艱難辛苦から勝利と歓喜へ到る音のドラマであること、全体として強烈なモティーフを「構築」し単なる管絃楽のためのソナタではなく1曲で1つの物語とするべく書かれていること、そして編成においても型に捕らわれず自由な精神であること、などだ。

 編成というのは、特段大きな編成ではないが、ピッコロ、トロンボーン、コントラファゴットが初めて交響曲で使われている。かつてモーツァルトも、交響曲に初めてクラリネットを導入したが、ベートーヴェンもそれを範にとりつ、自らも工夫を加えた。この楽器(編成)の自由な精神を最も極端に模倣し、習ったのがマーラーだろう。またマーラーは自らの同じ5番交響曲に、このベートーヴェンの5番のモティーフそのものをパロディとしてそしてオマージュとして取り入れている。

 冒頭の印象深い、第1主題のモティーフは、実際にオーケストラで演奏したことのある人、スコアを読んだことのある人なら知っていると思うが、頭に八分休符がついて、ン・ジャジャジャジャーン♪ である。この休符に最もパワーを込めて演奏しないと、5番のこのモティーフはなんともマヌケな、いわゆるよく他の素材に利用されがちな、じゃじゃじゃじゃ〜〜ん♪ になるわけだ。最初の休符にガラス戸を拳でぶち破るような気迫と、具体には呼吸のタメが無いと、このモティーフは死ぬ。つまり5番は死ぬ。

 1楽章は全体が執拗にそんなふしぎなモティーフに支配されたソナタ形式で、序奏無くいきなり動機が始まる。ここのフェルマータの扱いも指揮者泣かせだろう。私も現役を知らない往年の大指揮者はここぞと伸ばすが、楽譜そのものもロマン派時代の「付け足し」を嫌った原典譜に忠実だというベーレンライター版などを使うようになって、やはりあまりお涙ちょうだい的な演出過多は避けられるようになってきた。

 モティーフをこれでもかと叩きつける第1主題。これだけでしつこい。ホルンのひと吹きから温厚な第2主題だが、ここでも動機は隠されずに共通したリズムをとっている。リピートの指示があるが、しつこいと思ったら省略してもよい(笑) ティンパニがドカドカとこのリズムをキープする。とにかくどのパートも後打ちのリズムがこの楽章の推進力を維持するキモ。展開部もひたすらン・ダダダダンで進行する。全てこの、ンがどれだけ力強く溜められるかできまる。そのかわり暑苦しい。中間部にテンポと音量が落ちて静かになるところなど、ベートーヴェンの展開部の常套であり、一気に再現部へ。しかしここでオーボエのしんみりとしたソロが出たりと、藝は細かい。再現が再開され、コーダでも推進力を失わず、一気に聴かせる。

 第2楽章は緩徐楽章のアンダンテ、変奏曲。2つの主題による二重変奏曲となっている。しかもその2つの主題がソナタ形式の第1主題・第2主題ともとれるというので、変奏曲とソナタ形式を結合させたもの。そう、それはマーラーが4番の3楽章で発展させている技法である。全奏による1つ目の付点音符の雄々しい主題と、絃楽・木管による優美な2つ目の主題が提示され、順に変奏されてゆくが、変奏の数自体は3回で少ない。緩徐楽章のくせに、第1主題の変奏ではティンパニがドカドカ叩きまくられ、トランペットが猛々しく吹きまくられる。第2主題の変奏はテーマ自体もフガートのようだ。

 3楽章のスケルツォが変わっていて、楽想自体もやや不気味だが、コーダからアタッカで4楽章へと続く、その盛り上がりといったら無い。革命か、勝利の雄叫びか。ゲゴゲゴと、低音の不気味なモティーフから始まり、ホルンがカラオケのおっさんばりの大音量。リズムが1楽章と通じている。トリオでは、絃楽のフガートが面白い効果を与えている。スケルツォ部は出版譜によってリピートがあったり無かったりしている。コーダでは、静かな調子から執拗にリズムと旋律が刻まれ、じわじわと盛り上がってゆく様は一種のホラー。

 そこでドーン!m9(^Д^)

 歓喜! 歓喜! 爆発の第1主題、やや落ち着いた第2主題。展開部は短いが熱烈に第2主題の展開から始まり、トロンボーンの大吹奏が気分を盛り上げる。その頂点から一転、3楽章のモティーフが登場して気分を変える。しかしそれもすぐに歓喜に押しつぶされる。再現部はさらに音楽は爆発する。そこからベートーヴェン得意の長いコーダ。このコーダでまた主題が変奏され、展開され、第2展開部ともとれる部分となる。そして異様にしつこい終結部w 終わると見せかけて終わらないw 終わらないぞ!w 

 いいだけ冒頭の深刻な動機を歓喜に変えたものを聴かされ続けた後、それでもさらに伸ばして伸ばして、最後にまたドーン! よ。

 あー、燃える。燃えるわ〜。


第6交響曲「田園」(1808)

 5番と同時に初演された、第6番は、云わずと知れた具体な標題音楽の元祖のような存在で、ここから音楽と情景の描写を合体させた形式が発展してゆく。

 しかし、ここでは完全なそういう情景描写の姿ではなく、あくまで「感情の表出」なのだそうで、ここから後世の作曲家が田園をヒントにして交響詩や明確なイデーを持った標題交響曲等を生み出して行ったにすぎない。ベートーヴェン自身はむしろ、情景描写を否定している節さえある。

 そのようなわけで、現代の我々が聴くと情景描写音楽とも純粋音楽ともとれず、なかなか全体というか本質の把握が難しい気がする。ただ、朗らかなメロディーを聴き流しているだけならば特に問題はないのだろうが、これを「交響曲」として把握するのは、難易度が高い。

 まず構成が厄介だ。ベートーヴェンは3番以降、交響曲を革命し続けてきたが、ここでも5楽章制という離れ業。それでいて、第4楽章が最も具体な嵐の描写であり、古典的な様式から逸脱した自由形式になっている。まさに自然そのものの時間の経過であって、それを感じる人間の感情の表出であり、このクラシック音楽全体の歴史の初期ともいえる段階で西洋藝術の枠を破ろうとする破格の試みで、むしろ東洋的な価値観に近い。また3−4−5楽章はアタッカで続けられ、3楽章制にも聴こえる。全体の流れとしてはソナタ形式、ソナタ形式(緩徐楽章)ときてスケルツォ−狂詩曲ともいえる自由曲(あるいは繋ぎ)−ロンドソナタの終曲となる。

 ゆえに、音楽自体はかなり掴みづらい。革新であり、弱点でもある。田園が苦手なベートーヴェン聴きも、けっこういると思う。これは伝統的な様式での音楽として成り立たない要素を多分に孕んでおり、交響曲としてまとめるのは難しい仕事になる。

 かといって、もちろん、情景音楽として演奏しようとしても、もちろんダメであって、音楽にならない。まして情景描写音楽として聴こうとするなどは、なおさらダメで、自分から田園を正体不明の駄曲にしてしまう行為だろう。

 ベートーヴェンは各楽章にもタイトルをつけている。が、これもやはり感情の表出としてのタイトルであって、具体的情景の描写ではない。ここが難しいところで、マーラーがいうところの「聴衆に誤解を与える」のだ。

 第1楽章「田舎に到着したときの愉快な感情の目覚め」

 こんなことを書かれると、まず日本人は生真面目なのか「まったくそのとおりの情景を思い浮かべながら」聴いてしまうが、そんな必要は完全にない。そもそも、「感情の目覚め」とあるのに、それがどのような描写なのか、少なくとも自分には分からないが(笑)

 序奏無しで春爛漫の第1主題。これは4小節ワンフレーズと短く、繰り返され、三連符の経過部を経て優美な第2主題が登場する。この主題のウキウキ感はまさに「愉快な感情の目覚め」だが、特に情景を描写はしていない。第2主題は次第に低い音へ絃楽で移ってゆく。提示部を繰り返して展開部へ。今楽章は、朗らかな音楽ながらも厳格なソナタ形式である。しかしここの展開部はまるでオスティナート。延々と第1主題を変形させて繰り返すのが存外ウザイ(笑) ここらへんの手法は前作の5番に通じるものだろう。意外に低音が轟々と鳴っているのも、いかにもベートーヴェンらしい。野原のホルンのシグナルも、今交響曲に目立つ用法で、3番を思い出させる。再現部からコーダへ向かい、主題を繰り返して次第に弱くなって、合奏で穏やかに〆る。

 第2楽章「小川のほとりの情景」

 ここで情景と出てきたが、しつこいようだが情景描写ではないw 小川のほとりの情景に立つ人の感情を表した音楽で、小川のせせらぎ、鳥の声の描写もその感情を高ぶらせる演出にすぎない。その感情は小川が流れる様子の不確定な絃楽の乗って現れる第1主題、そして続けて同じく第1ヴァイオリンに現れる第2主題の朗らかさにみてとれる。絃楽の合間の木管の使い方もうまい。展開部で第1主題が変奏され、気分は盛り上がる。ヴァイオリンの高音での短いトリルが、鳥の声を模しているが、具体的な描写ではなくあくまで象徴。しかしそれは、コーダで具体的にその姿を表し、その後、音楽に鳥の声を模す技法の先駆けになったと考えられる。フルートがナイチンゲール、オーボエがウズラ、クラリネットがカッコウで、スコアに書かれている。特にクラリネットとカッコウの親和性は高い。ほぼこの3楽器のソリで登場するので、ぜひ聴き逃しのなきよう。

 なちみにカッコウはマーラーが1番で模倣している。音を変えて、ベートーヴェンが朗らかな響きなに対し、やや暗い感じの、素っ頓狂な響きにしてある。

 第3楽章「田舎の人々の楽しい集い」

 スケルツォに相当するアレグロ楽章。絃楽器の主題に、木管が見事にからむ。激しい転調も実に自然。狩りのホルンたるホルンの重奏からオーボエ(剽軽なファゴットの合いの手入り)、クラリネット、またホルンへテーマが移って、実に見事だ。中間部は絃楽でフガートのよう。トランペットも高らかになる。テンポが落ち、主題変形されて戻り、木管も一部再現され、唐突に止まってアタッカで4楽章へ。繰り返しの有無にもよるが5分ほどの楽章。

 第4楽章「雷雨、嵐」

 第九の冒頭のような轟然とした嵐の描写。ここは、流石に情景をイメージしてもかまわない部分だろう。ここは自由形式で、移りゆく自然そのもの。まずは静かに緊迫した序奏があって、稲妻と雷鳴、そしてそれに遭遇した人間の驚きと恐怖。いや、やはりここでは情景描写ではなくその感情の表出がメインだろう。リヒャルト・シュトラウスのアルプス交響曲の先駆けともいえるこの音楽。音楽は弱奏と強奏を繰り返し、嵐はやがて遠くへ去ってゆく。音楽は嵐に遭遇した人の感情そのままに、朗らかな性格を取り戻し、雲間から陽光が差す。いかにも間奏曲であり、3〜4分ほどの短い楽章。

 第5楽章「牧歌 嵐の後の喜ばしい感謝の気持ち」

 高らかなホルンの主題より、気分は高揚する。ロンドソナタ形式なので、主題が繰り返されつつ展開してゆく。冒頭主題の回転系であるというヴァイオリンの第1主題(主題A)、第2主題(主題B)も繰り返され、中間主題(主題C)も木管により現れる。展開部でもそれらの主題がうまく扱われ、次第に盛り上がってゆく。ここらへんの進行は、耳障りはよいが、複雑に変形しながら繰り返されてかなり分かりづらい。ベートーヴェンの作曲技術の粋のような部分だが、下手をすると漫然と音楽が進みがちだし、漫然と聞き流しがちになると思う。コーダからテンポを落とし、ホルンの冒頭主題に第1主題が重なったり藝は細かい。そして最後までゆったりとした気分で終結する。 

 ちなみに、5番が1807年から作曲を続けて1808年初頭に完成した後、続けざまに6番の作曲に着手し、同年中に完成、1808年暮れに5番などと共に初演された。5番と6番の同時プログラムなどと現代人でもけっこうお腹一杯なのに、ピアノ協奏曲4番などとも一緒だったというから、初演が芳しくない(しかも当時の現代音楽演奏会!w)というのは、無理もなかったことだろう。


第7交響曲(1812)
 
 6番より4年ぶりに、ベートーヴェンが酔っぱらって作曲した。と、まことしやかに噂された。3番において規模の拡大を、5番において主題の構築を、そして6番において標題制の革新を行ったベートーヴェンが、ここではいったん古典的な書風に回帰したと云われているが、さにあらず。ここで革新が行われているのは、リズムによる主題労作とその構築制だ。
 
 7番はリズムの狂宴で、ひとつのリズムパターンが執拗に繰り返されることで各楽章(ぜんぶ!)が構成されているという特徴がある。つまり、1曲すべてが、全楽章において固有のリズムパターンを有していて、それを延々と繰り返すことで音楽が成り立っている。ソナタ形式もアダージョもスケルツォも、ぜんぶリズムが統一されている。

 これはベートーヴェンが何を考えて作曲したのかは分からないが、ヴァーグナーは「舞踏の聖化」と呼んで絶讃したし、ヴェーバーは「ベートーヴェンはもう精神病院行き」と嫌悪した。

 メロディーはもちろん主題として存在しているが、その前にリズムパターンが前面に出てきて、当時の常識からすると、確かにこれは「異様な響き」がしたことだろう。5番もリズムを執拗に繰り返しての労作だったが、さらに複雑化し、統一され、洗練されている。

 そのぶん、演奏は難しく、特に付点音符が異様に難しい(笑)  アマチュアが手をだす音楽ではない。たいていリズム間ちがっている。プロですら間ちがってんだから。

 1楽章 タッッタタ と ターータタ の区別をどうやってティンパニの打音でつければ良いのでしょうか('A`) 32分休符アリとナシの差ですが……。

 これはアマの人はたいていどの楽器も16分休符でやってしまって タッタタ になる。それをずっと練習してやっとの思いでみんな タッッタタ や ターータタ になっても、エキストラとかがやっぱり平然と タッタタ とやって本番でガチャガチャになることうけあい。

 つまり、6/8拍子が2/2拍子になっちゃっている、という事である。N響だろうと、大フィルだろうと、最初の数小節は頑張るのだが、あとはもう豪快に2拍子。外国オケとて例外ではなく、まさにクライバー/ウィーンフィル級でないと、タッッタタにならない。

 それは、さておき。

 第1楽章は序奏付ソナタ形式。これまでの交響曲の第1楽章となんら変わることの無い形式。主に木管による四分音符の特徴的な繰り返しに、絃楽器が上層気流のようなパッセージを延々と重ねてゆく。ここで既に、一定のリズムのパターンが執拗に繰り返されてゆくのがわかる。

 やがてテンポが上がって、フルートがいかにも楽しげなピョコピョコした第1主題をソロで奏でる。いかにも楽しそうで、ホルンを主体に合奏全体にそれが広まる。この付点音符が、ほれ、例の激ムズリズムですよ。ムズリズムって回文じゃないか。

 第2主題は絃楽器で現れる(と思う)が、リズムが統一されているので、あまり区別はつかない印象となっている。提示部繰り返し指示あり。展開部に入って、さらに執拗に付点音符が積み重ねられてゆく。ここは6番に続いて、5番の技術を発展させていると考えられる。再現部も楽器を変えて藝が細かい。ティンパニが、4楽章の地獄を予見するかのような叩きっぷり。コーダに入ると執拗なリズムの反復は低絃に移っている。

 第2楽章が、高名な「不滅のアレグレット」で、この曲はかなり当時としては頓珍漢な印象を聴衆に与えたはずなのだが、音楽の力はそれを超えて迫ったようで、初演ではこの2楽章がアンコールされた。

 緩徐楽章であるが、アレグレットという、やや早めな指示がある。和音吹奏の後、絃楽器でまたも一定のリズムパターンを繰り返し奏し、その上に切々と主題が演奏されるが、ここでの対位法はまさにベートーヴェンの面目躍如で、高絃と中絃、そしてホルンの重なりあいは流石に神の領域。小トリオでの流れるような展開の後、複合三部形式で冒頭の旋律が戻るも、変化がある。

 展開部を思わせる中間部では、リズムを変えずに主題を徹底的に労作し、じっくりと料理する。大トリオで楽器を重ねて響きを厚くし、コーダへ期待をもたせる。同じ旋律をただ繰り返しているだけなのに、なぜこうも感動的なのか。そこはベートーヴェンの手練だ。

 第3楽章スケルツォ、ここはもともとスケルツォという音楽はリズムの繰り返しの音楽なので、特に変わったことをしているわけではないのだが、この交響曲の中では、ここもか、という感じを聴く者へもたせる。トリオでも、主題のリズムパターンを何度も繰り返して、徹底している。しかもここの雄大さはまるで前楽章の続きのようだ。スケルツォが戻りコーダかと思いきや、またトリオに到る。ABABA形式だった。トランペットとティンパニのドローンに乗って奏でられる主題の見事なこと。スケルツォ部から、今後こそコーダへ。あれっ?トリオ?と思わせておいて終了。

 第4楽章、熱烈なアレグロ。第1主題はアイルランド民謡からとられたのだそうである。ここでもリズムの反復は徹底を究め、それを支えるティンパニなどは、ヴェーバーではないがベートーヴェンは狂ったとしか思えないほどの執拗さ。

 第2主題も踊るような付点音符に乗って、絃と木管が奏でる。提示部はしかも反復指示あり。展開部では第1主題を主に扱い、上下に激しくゆさぶられ、酔いはさらに回る! フルートが第1主題を吹き直しても、酔いは醒めない。ホルンは吠え、絃は狂い、ティンパニは死ぬ。コーダはベートーヴェンの十八番で第2展開部よろしく延々と主題をいじくりまわし、絃バスは轟々と地響きをたて、人々は熱狂のうちに昇天する。

 春の祭典の先取りのような、熱狂の嵐だ。愉快な交響曲です。


第8交響曲(1814)

 5、6、7と革新的な交響曲を生み出し続けて来たベートーヴェンは、ここで箸休めのような、再び古典的な交響曲に回帰した。が、様式的にはいかにも古典的だが、内容は歌と情緒にあふれたロマン的なもので、7番と次の超革命の9番とに挟まれた、これこそ愛すべきリリカルな逸品だろう。

 やはり真に古典的な1番・2番の流れを汲む4番、そしてその直系の8番といった流れが分かりやすいと思う。
 
 序奏無し、やおら華々しい第1主題で幕を開ける。まるでオペラの序曲のようでもある。すぐに木管の導入より第2主題。ここは3拍子がワルツのようでもあって、面白い。古典的ではあるも、革新も加えられている。不安調な和音も聴かれる。やはりというか、いかにリリカルとはいえティンパニが怒濤の連打(笑) まさにベトベンティンパニ。これを古典派のように叩かせるかどうかも、指揮者の好みだろう。提示部は反復される例が多いと思う。実に分かりやすいソナタ形式で展開部へ。第1主題を変形させ、変奏させ、手堅く確実に「展開」してゆく。数分の展開部ではあるがしっかりと盛り上がって、再現部へ。ただし第1主題は低絃のみで再現されるので、指揮者によってはよく聴こえず、「?」と聴衆を惑わす。第2主題は普通。リズムが特徴的なコーダで、一瞬の第1主題の片鱗で静かに終了。

 アレグレット・スケルツァンドの第2楽章は、第1主題がメトロノームの考案者メルツェルへ献呈したカノン「親愛なるメルツェル」の主題より作成されているそうである。第2主題も流れるようでとても愛らしい。展開部を欠いたソナタ形式(主題の2つある2部形式)で、短く主題をそれぞれ再現して終わる。

 第3楽章はメヌエットで、8番は緩徐楽章そのものを欠いている。1番のような、メヌエットといいつつ実質はスケルツォではなく、本当にメヌエットのリズムとテンポと主題になっている。3拍子で踊りを踊るが、宮廷舞踊というよりは野趣にあふれ、後にマーラーやブルックナーが好んだレントラーに似ているとされる。トリオのホルンとクラリネットの二重奏も美しく風雅であるも田舎風の趣もあり、実に良い雰囲気。冒頭に戻ってコーダにゆき、順当に楽章を終了する。

 ロンド形式の終楽章は細かい6連符のリズムが特徴的で、めぐるましく主題が変わってゆきつつも、その6連符が根底を支えている。ロンド形式で主題AとBが細かい変形(変奏)を伴いながら何度も入れ代わりに出現し、後半ではテンポも落ちて展開部のようになりつつも、すぐに速度を取り戻して、調を変えつつさらにテンポアップ! ティンパニも燃えて!(笑) いかにも爽やかな終結へと導かれる。

 ベートーヴェン自身はこの8番をとても気に入っていたが、5、6、7と革新的な曲が続いて古典回帰的な様相を呈したためか、聴衆の人気はイマイチで、ベートーヴェンは不満だったそうである。じっさい、しつこくてコッテコテの7番の後には、このような作品を聴くと魂が安らぐ。とても素敵な、微笑ましさの残る、9曲の中でもある意味別格な音楽。


第9交響曲(1824)

 いわゆる日本で云うところの「第九」。

 第九の4楽章の、いわゆる「歓喜の歌」と云われる高名なメロディーを知らぬ日本人は、こりゃもうモグリ。
 
 地球人類の至宝中の1つであろう。

 クラシックと広義に限定せずとも、ベートーヴェンを聴く人、もしくは交響曲を聴く人で、この第九を知らぬ、または好きではない、あるいは興味無い、などという人は、もう豆腐の角にアタマをぶつけて足をくじいていただきたい。

 しかし、この第九を第九菩薩、第九如来、第九大明神としてあがめたてまつっているのは、おそらく世界で日本人のみ。外国では9曲あるベートーヴェンの他のナンバーとあくまで同列の価値で、そうなると編成が面倒なので、あまり演奏されない。

 日本は、ご存じの年末の第九オンパレードで、この時期だけ世界で最もベートーヴェンが演奏される国だろう。昨今は逆輸入みたいな形で、この極東にある島の土俗的風習がヨーロッパでも広まりだしているとか、いないとか。純粋に商業的な理由で、そういう動きがあるのだろうが、たぶん、あまり広まらないと思う(笑)

 Wikipediaなどによると、もともとは戦後すぐにあまり仕事の無かったころ、年末の楽団員の懐事情が寂しく、やれば客の入る第九をやって正月をあたたかくむかえようという企画が、全国に普及した、のだそうであるが、そういう事情もあるのだろうが、この、年末に第九というのは、私が思うに、いかにも日本人的な心情的理由に寄っている。

 つまり、1年のカタストロフを、日本人は忠臣蔵と第九で味わい、厄払いをしている。

 長い時間を耐え忍んで、祭や何やでぶわあーっと晴らす島国民族の心情に、この西洋の伝統音楽であるはずのベートーヴェンが、なんともぴったりと合ってしまったというわけではないか。そうでなくば、とても「全国に普及」などしないと思う。

 さて、単なる器楽のためのソナタにすぎなかった交響曲の革新を行い続けてきたベートーヴェンが、実質最後に放った輝きが、交響曲史上永遠の名曲であり、革新中の革新、革命中の革命、当時の演奏家のレベルでは、正直こんなものが本当に演奏できるのか状態であった。が、本当に初演の後は演奏機会に恵まれず、ワーグナーの時代にまで到り、ワーグナーによる(ワーグナーが手入れをした楽譜で)全曲再演の後、ようやく傑作として広まった。

 とにかくこの曲は、これまでベートーヴェンが書いてきた8曲と比べても次元がちがうレベルで「変わって」いて、段違いに演奏が難しい。ベートーヴェンの頭の中は異次元までぶっ飛んでしまっていた。とはいえ、大藝術家だって食っていかねばならず、この第九も注文仕事だった。

 しかし初演すぐ後の再演に客が入らなかったり、そもそも再演されなくなったりして、苦労して書いた割りには収入にならない。再演されないのは純粋に合唱のせいだと考えて、合唱部分を器楽に編曲してしまおうかとも考えていた。

 1楽章から既に、交響曲という音楽の概念をかなりぶっ壊している。この曲が無ければ、ワーグナーもマーラーもブルックナーもいなかっただろう。

 まず、序奏が凄い。これが 「序奏」 かどうかも判断つかない。音楽を超えた、効果音のようなこの神秘的で静寂の音楽。そこから主題が分解され、断片的に湧いて出てくる。そんな手法はそれまで無かった。いや、あったかもしれないが、ここまでの効果的な表現は無かったと思う。

 それだけで、もうそれまでのどんな交響曲より、ぶっ千切りにぶっ飛んでいる。そのぶっ飛び方に、日本人は聴きすぎて慣れてしまっている。勿体ない。完全に古典を理解して、古典のみを愛好している人がいきなりこれを聴いたならば、ここで気絶してもいいくらいだ。

 しかも、明確なリピートが無い。ソナタ形式ではあるが、リピートをカットではなく、最初から表現として無い。

 すぐさま、骨太な第1主題がティンパニに支えられて登場する。それからまたそれが繰り返されるが、これはリピートではなく少し変化がついている。そして優雅で雄大な第2主題。展開部ではじっくりと主題が変奏される。冒頭の雰囲気に戻るも、これは第1主題の展開の一部となっている。第1主題を主にじっくりと取り扱って、壮大な再現部へ突入する。ブルックナーの先駆けといえるこのティンパニの鳴動は、バロックティンパニに毛の生えたようだったこの時代にあっては珍しいと思う。すぐに第2主題も再現される。

 再現部も複雑な変容を見せ、第二展開部に匹敵するいつものベートーヴェン様式。コーダでは伴奏に半音進行の不気味なオスティナートがある。そこからさらに盛り上がって、第1主題を扱って堂々と終結する。

 2楽章の長大なスケルツォもベートーヴェンの面目躍如。ソナタ形式も孕んでおり、マーラーの5番3楽章の直系先祖がまさにこの第九の2楽章。繰り返しを全て行うと、1楽章に匹敵する規模となる。

 冒頭より、絃楽とティンパニのかけあいが見事。ティンパニは主音とは異なって上のF(ファ)と下のF(ファ)のオクターブで奏される。

 スケルツォ部冒頭は提示部を兼ね、ホルンの後押しで深刻な第1主題が現れ、第2主題はスキップするような感じ。執拗に繰り返されて、展開部(複合三部形式の小トリオ)へ。ティンパニが常に主旋律を補佐するリズムを叩き続ける。この楽章のフレージングは腕の見せ所だろう。なにせ2つの音で延々と旋律を支え、↑タン・↓タタンの合いの手も大事だ。再現部をへてトリオへ。

 トリオはプレストとなり、オーボエから新しい旋律が出て、それを絃楽やホルンが受け取る。流麗な部分でティンパニも一休み。ここは個人的には6番に雰囲気が似ている。オーボエとファゴット等の二重奏なども面白い。主題を色々な楽器が受け継いでゆくのも見事だ。速度を落として、またスケルツォ。

 絃楽とティンパニのかけあいから第1主題が、そして第2主題もそのまま登場。展開部ではまたもティンパニ踊り! プレスト(トリオ)が一瞬再現され、意外とあっけなく終結する。 

 ロンド形式とも、変奏曲とも、さらには展開部を欠いたソナタ形式ともともれる第3楽章も独特かつ革新的で、マーラーやブルックナー等への影響が如実にあり、それらの原点でもある。4/4拍子の第1主題は2つの音を機軸に瞑想的に、3/4拍子の第2主題は絃楽器でやわらかく現れる。時間的にはあまり長くなく(と、いってもこれまでのベートーヴェンの交響曲の緩徐楽章と比較すると倍以上もある)1・2楽章とあまり規模は変わらない。

 第2主題にからんでくるホルンの独奏も素晴らしい。当時のホルンでは楽器の性能的に演奏至難という。ティンパニの重奏和音も、ベートーヴェンでは初めての試みである。

 再現部から第1主題が展開、続いて長く第2主題が安らかに変奏されつづけてゆく。コーダではまた4/4に戻り第1主題が展開されてゆく。

 さて、大問題はこの第4楽章。そもそも、器楽の最高峰たる交響曲に、な〜んで合唱が入るものか。カンタータやミサ曲の間違いではないのか。それまでも機会音楽としての交響曲で合唱入りはあったそうだが、真に藝術的効果をもって交響曲に合唱が入ったのはこれが初で、しかもこれからもしばらく合唱入り交響曲は「マイナー」だった。第九の後も、メジャーどころではリスト(ファウスト交響曲)、メンデルスゾーン(2番「賛歌」)、ベルリオーズ(劇的交響曲「ロメオとジュリエット」)が合唱入りの交響曲を書いているが、メジャー作家の中でもいまいちやはりマイナーなままだ。合唱入りで真にメジャーな作品は、第九の次はマーラーの2番まで待たなくてはならない。 

 この4楽章はこれまでの主題がすべて否定されて、いきなり登場する新旋律が特徴的だが、その新旋律(歓喜の歌)がまさに新時代の幕開けのように作用している点に、幸福と不幸がある。しかもなんの脈絡も伏線も無くいきなり歌。エッ、そんなのってあり!?

 3楽章まで作曲した時点で、ベートーヴェンは〆切に間に合わなくなった。大事な注文である。飯の種だ。藝術家とて食ってゆくために、作品を売っている。商売だ。納期は守らなくてはならぬ。
 
 おお! そうだ!! ずっと構想を温めていた合唱付の「歓喜の歌」を4楽章にしてしまえ!!
 
 いやだめだ! それはさすがにムリがある。つながらない。とってつけたような展開だ。馬鹿馬鹿しい。

 ……いや、まて、そうだ!! こういうのはどうだろう!!!

 これまでの主題をみな否定してしまうのだ!

 そしてまったく新しい音楽として、歓喜の歌が登場する!!

 そうだ、それだ! 我れながら素晴らしいアイデアじゃないか!?

 という次第で第九ができあがったという話を何かで読んだのだが、ホントかどうかは知らない。

 一種の自由形式であり、変奏曲形式でもあるというが、レチタティーヴォによるこれまでの第1〜第3楽章までの音楽を次々に打ち消して行き、少しずつ歓喜の旋律が現れてきて、ついにその歓喜が全貌が姿を現し、オーケストラ全体で喜びを表現して、冒頭のレチタティーヴォ旋律が戻ってきての、満を辞しての 「おお、友よ!」 の登場となるというのは、今となってはでき過ぎの三文芝居のようなベタベタなストーリーであるが、それを初めてやっちまっているのだから、まさに神様仏様ベートーヴェン様。

 歓喜の旋律に対旋律でからんでくるファゴットのなんと愛らしきことよ。

 さて、ここまででだいたい5〜6分ほどの音楽で、いよいよ独唱と合掌が登場すると、ここからがけっこう長い(笑)

 合唱と独唱と歓喜のを歌を高らかに歌い上げて、1回、大団円に盛り上がって、コデッタにより終結する。

 そして、ここからがまた変わっている。ここも革新的。つまり、交響曲に行進曲が!!! マーラーやショスタコーヴィチの原型が、ここにある。ということはつまり、交響曲にシンバルと大太鼓とトライアングルが!! これは別に戦争交響曲ではない。軍隊交響曲(流行に合わせたトルコ風)でも無い。藝術作品に、トルコとは関係なくれっきとしたマーチが登場する。

 テノールがその行進(歓喜主題の変奏)に合わせて、「神の計画」を歌う。それが盛り上がってオーケストラによるフガート。

 そして高名な合唱による「歓喜の歌」の部分。それはすぐにおわり、アダージョによりレチタティーヴォが重々しく男性合唱にそして混声で。「♪ミーリーオーーネン!」が実に印象的となる。ここのバストロンボーンは超大事で、合唱を活かすも殺すもバストロンボーン次第。ここも荘厳に盛り上がって、神秘的に落ち着いてからの、アレグロ。

 同主題がテンポを上げて、二重フーガ。ここの合唱部とオーケストラのからみは最高である。ベートーヴェン万歳! 本当に素晴らしい部分。

 しかし、突如として低い音楽となり、それからまたじわりと盛り上がる。芝居がかっている。

 テンポを上げて、アレグロ・マノンタント、独唱4人のソロから合唱に、そしてまたテンポを落として、最も荘厳な部分を経て、独唱の四重奏に。

 最後はプレスト。またもシンバル、大太鼓、トライアングルがチンドンシャン。ここを煽りに煽る指揮者もいるが、まあとにかく盛り上がる。いかに藝術作品とて、ベートーヴェンはどうやったら大衆(聴衆)が盛り上がるか、実に心憎く心得ている。ただ、当時の人々の耳にはちと早かっただけで。

 ベートーヴェンを聴いて良かったあ〜〜。としみじみ感じるのは、やっぱり何だかんだ云っても、9番なのかなあ、と感じ入る。


 作曲家や指揮者の名前に関し、この交響曲のページの中にもあちこち書いてあるので重複する部分もあるのだが、これが色々と問題がある。日本語で表記する場合、見やすさというのも加味し、外国人の名前は名前と苗字の間に・をいれる。ルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンのように。しかし本当は・なんか無い。かといって、ルードヴィヒ ヴァン ベートーヴェンというのも、たとえばテレビや書籍で写真の下にそれだけ単独で出されると悪くないが、文章中に出てくると、さ、これが見づらい。まして縦書きだと、・が必要だろう。

 あと「苗字がくっつく」というパターンがある。作曲家で高名なのはリムスキー=コルサコフだろう。これは「2つで1つの苗字」であって、苗字が2つあるわけではない。本当は−(ハイフン)でくっつくのだが、日本語だと「リムスキー−コルサコフ」となり、「ー」と「−」が紛らわしいので=でくっつけている。これも見やすさの例である。

 逆にイギリスのヴォーンウィリアムズは、= でくっつけてヴォーン=ウィリアムズなどとしていたが、これは「2つの苗字が並んでいる」パターンであって、くっついているわけではない。従ってヴォーン・ウィリアムズともなるが、レイフ・ヴォーン・ウィリアムズとなると、ヴォーンをミドルネームと間ちがえて、ただのウィリアムズさんとする人も出てくるかもしれず、ここは誤解を無くすためにもヴォーンウィリアムズとつなげてしまった方が分かりやすいだろう。指揮者のマイケル・ティルソン・トーマスも、前はティルソン=トーマスなどと書かれていた場合もあったが、これもくっついているわけではなく並んでいるだけなので、今はティルソン・トーマスとなっている。これもただのトーマスさんではない。ティルソントーマスとつなげてしまった方が日本語表記としては誤解が無いと思われる。

 で、最もややこしいのがオランダ人によくある「苗字に外してはいけない定冠詞がつく場合」で、それがオランダ系移民になると定冠詞じゃなくミドルネームのようになってしまっている場合もあってさらにややこしい。最も高名な例では、先祖がオランダ人のこのベートーヴェン(ベートホォーフェン)である。ドイツの von のようになって van が外れてしまっているが本来はVan Beethoven ヴァンベートーヴェンさんとなる。 von は元々接続詞なのでとってもかまわないそうなのだが、 van は定冠詞なので読む時に本当はとってはいけない。同様の例では画家のゴッホもそう。英語圏の人がゴッホゴッホと言い続けているうちに取れてしまったようだが、ヴァンゴッホが正解。指揮者のデワールトもワールトなどと呼ばれている。せめてデ・ワールトだがミドルネームや接続詞ではなく定冠詞なのでデワールトの方が分かりやすいと思う。

 マニアックだが吹奏楽の作曲家のヴァンデルローストは、定冠詞が2つも並んでいる。前はヴァン・デル・ローストとあったが、みな誤解してローストとかデル・ローストと表記したため、今は誤解の無いようヴァンデルローストとつなげている。本当は Van der Roost である。(van と der が定冠詞) 

 またオランダ系アメリカ人では、この定冠詞もくっつけて1つの苗字としている場合が多く見受けられ、それが正解に思う。ヴァンアンデルとかヴァンホーテンとか。ロックのヴァンヘイレンとか。

 あと、苗字ではなく名前にも、くっついて2つの名で1つの名のパターンや、名前が並んでいるパターンがあってややこしい。個別に判断するしかない。






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