ジョリヴェ(1905−1974)
近代フランスでも、特異な位置にいた「音楽のジキルとハイド」ことアンドレ・ジョリヴェ。当初は師範学校に学び、教師を目指したが音楽への情熱さめやらず、ヴァレーズに師事。そこで12音技法、実験音響、そして打楽器の現代的扱いを身につける。メシアンと親交があり、新古典的志向に対抗してベルリオーズへの回帰をうたった音楽藝術サークル「若きフランス」を立ち上げる。
戦後はそういう実験的・前衛音楽に加え調整音楽から新古典的技法による協奏曲、交響曲、さらにCM曲までてがけ、あまりの変わりように前記の「音楽のジキルとハイド」などとも揶揄されるも、パリ音楽院教授も務め、日本人の弟子には宍戸睦郎、平義久がいる。
交響曲はその戦後の前衛技法+新古典的技法を駆使した3曲があり、かつてはLPで全集もあったがCDでは3番のみ聴けるようである。また、舞踊交響曲、弦楽のための交響曲がある。
なお、プーレーズとは仲が悪く、来日した際にはパチンコにどハマリし、「2台のピアノのためのパチンコ」というモノまで作曲w 譜面を見たことのある友人の言によると、特にチンチンジャラジャラというのではなく、ふつうの現代音楽であるという。
なお、ジェリヴェの打楽器協奏曲はパリ音楽院打楽器科の入試用課題曲として作曲され、5つの楽章で様々な打楽器を扱い難曲にして名曲。打楽器協奏曲の古典的作品の1つで、現在でも盛んに演奏されるばかりではなく、世界中の音大の打楽器科入試やコンクールで使用されている。
弦楽のための交響曲(1961)
どういうわけか、このマニアックな曲がCDになっている。
3楽章制で、20分弱の古典的なものだが、響きは辛辣。野性的と指示された、序奏なしの、激しい不協和音アレグロ。前衛的な響きと古典的な様式を合算させた、ジョリヴェらしい逸物である。20世紀絃楽合奏曲といえば、自分にとってはミャスコフスキーの番号なしの弦楽のためのシンフォニエッタ(シンフォニエッタ3番)や、ペッテションの弦楽のための協奏曲(1〜3番)、芥川也寸志の弦楽のための3章などが現代の素晴らしい弦楽合奏ものとして思い浮かぶが、その中にこれもぜひ含めたい。ただの一瞬とて緊張の揺るがない第1楽章。
2楽章はアダージョだが、甘美さのカケラもない。かといって、シェーンベルクの清められた夜のようなロマンもない。かといって、完全なセリー主義でもなく、叙情はある。実に良い。強いて言えば、ストラヴィンスキーのようなドライさ。旋律はあるが、甘くないだけ。
再び忙しいアレグロ。1楽章のような辛辣さ、激しさは少なく、どこかコケティッシュ。ユーモアすら感じられる。執拗なグリッサンドが特徴的で、面白い。集結部も、唐突でいかにも非形式的。それなのに、交響曲という形式の権化いう、と皮肉というか、面白さ。
これは、20世紀の大規模な弦楽合奏曲でも屈指の名曲。ミャスコ、ペッテション、芥川に続いて、この4曲を四天王にしたい。
第3交響曲(1964)
ジョリヴェの3番は伝統的フランス式3楽章制、約25分の規模。ミヨーやオネゲルに通じる様式だが、中身は完全な現代音楽。
動物の鳴き声の如き低音に、甲高い動機がからんできて、やがて一定のパターンを形作る。1楽章はそのまま音響の坩堝に発展する。打楽器が割り込んでくると、完全に不定形が流れているように感じられる。素晴らしくモダンでコンテンポラリーそのものに違いないのだが、そこは骨太で、在り来りな現代ものとは趣を異にする。松村禎三にも似た爆発が現れ、奔流が全てを押し流して行く。中間部では音響はいったん静かになるも、緊張感は失われない。特殊奏法はあまり扱われず、あくまで普通の記譜法の中で、音響的実験が行われていると感じる。後半ではテンポも上がって、さらに緊迫した音響的世界の疾走を聴ける。
ポリリズムに乗って、宇宙の神秘を読み解くようなアンダンテ楽章が次に来る。打楽器はせわしないが、弦楽はグリッサンドを多用し、長く伸びる音形を繰り返す。管楽器が鋭く差し込まれる。全体的にシリアスで冷たい情感が支配する。
3楽章はまたユニーク。盆踊りみたいなリズムの饗宴に、金管が変な動機を重ねて行く。ホイッスルまで鳴る。マーチだが、現代アート的なちんどん屋みたいである。カオス的な音響の中にも、秩序があって、それがジョリヴェ流の新古典的手法な部分かと思われる。
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