ブルックナー(1824−1896)


 ブルックナーはその「響き」が嫌いではないが、どうも良さが分からない作曲家の筆頭であります(笑)

 嫌いではないというのは、何だかんだとCDも60枚くらいあるし、00番から満遍なく全曲を一通り聴いている。普通、常識的にCDが60枚もあれば、

 「ブルックナーがお好きなんですねw」

 というレベルだと思うが、上記した様に嫌いではないが、好きでもない。いつかは分かるだろう、とか、テンシュテットを集めていたら意外にブルックナーが多かった、とかもあるのだが、どれをどれだけ聴いても、相変わらず自分にとって謎の多い音楽だ。

 というのも、私はどうにもこの人の旋律が聴き取れないのである。第1主題はたいていリズムが強く私なりに分かりやすいが、その後はただ綺麗な音が 「ぷわーぷわー」 と鳴り、時折ティンパニが 「どどどどど」 と轟き、金管が 「ぱぱーんぱーん」 と鳴り渡るだけで、音楽に聴こえない。展開部などは特にそうで、かなり細かい変形が長大な時間をかけて行われているので、なかなか波長が合う人でないと分かりづらいと思う。

 スケルツォはまだ分かりやすいが、野暮ったい調子がさらに気分を悪くする。

 特に膨大な緩徐楽章やフィナーレが苦手で、その両方が主役で交響曲にとって肝心な1楽章が拍子抜けの評判の8番などサッパリワカラヌ。まして、ブルックナー狂いの某高名評論家氏に到っては、ブルックナーは 「その音楽へ浸るように」 聴くのだそうだが、なんだそれ、と思う。風呂か。

 ブルックナーは一定の年齢に達するまでけっこう苦難な人生を歩んでいるが、交響曲にその余波は無いと感じる。彼の交響曲に闘争は無く、祈りと安らぎしかない。彼はそれを求めていたのだろうか? それとも、ただの天然な人だったのだろうか? 

 それがよい人には良いだろうが、私はそういう交響曲は自分にとってあまり糧にはならないので聴かない。

 私がブルックナーで「ううむ」と思うのは5番と9番である。


第5交響曲(1875-78)

 ブルックナーは改訂の仕事が大変多く、作曲中の交響曲を容赦なく中断して改訂三昧していたので、この5番も作曲年代が長くカウントされる。面白いのは改訂魔だったブルックナーが、改訂してない珍しいナンバーということ。改訂といっても、同じくらい改訂魔だったマーラーと異なり、ごっそりと中身を変えてしまう。それに比べるとマーラーは「修正」にすぎない。

 それでも、ブルックナーには初演時の改竄の問題もある。聴衆というか熱心な有難迷惑な取り巻き支持者や弟子が、よかれと思って大衆に媚びた改竄をし、気が弱いのか変人なのか何かコミュニケーション能力に障碍でもあったのか、ブルックナーはそれをどうにもできなかったようだ。

 ブルックナーの交響曲は全体的に柔らかい荘厳な響きが魅力だが、その中では5番は硬質で構築的に響く。

 霧中のトレモロではなく、祈りのピチカートから始まる第1楽章。これは導入部で、やおら荘厳な金管の響きが登場する。その響きが何回か繰り返された後、アレグロの主部に到り、絃楽でまず下降系の第1主題が。金管の動機も登場し、ピチカートによる第2主題。しばし進み、次に管楽器によって第3主題が登場する。けっこう律儀なソナタ形式で、分かりやすいといえば分かりやすいのだが、変化に乏しく、どの主題も同じようにしか聴こえないのは、私の個人的資質の問題である。(作曲者がわざとぼかしているのかもしれないが。)

 美しい展開部は、度々冒頭の金管主題に遮られる。荒々しさと耽美を兼ね備え、激しく主張する。そのへんのゴツゴツさが、5番らしい。コーダでは主題の変形が繰り返されて盛り上がり、シュパッと締める。

 2楽章はアダージョ(非常にゆっくり)だが、長すぎないのがいい。スケルツォとあまり変わらない長さである。またピチカートから始まるが、絃楽の主題はどこまでも清い。この楽章は5番で一番初めに書かれ、当時ブルックナーは経済的にもかなり困っていたとの事だ。古典的なパッセージも登場し、面白い。ブルックナーは聖俗合わさった音楽を書くが、俗なというか大衆的なパッセージはいつも脈絡も無く登場する。5部形式で2つの大きな部がロンドのように入れ代わりながら進行し、いきなりやっぱり映画音楽みたいな楽想もちらちらと登場して(笑) やがてティンパニを伴い冒頭の静かな部分に回帰して幕を閉じる。
 
 3楽章はスケルツォだが、これがアダージョに匹敵する規模。演奏によるかもしれないが、いちおうモルト・ヴィバーチェ。粗野なスケルツォとしっとりとしたトリオが意外と頻繁に交錯する。

 白眉は4楽章。レンガが積み上がった大聖堂のようなと形容される4楽章。またもピチカートから始まり、クラリネットの特徴ある導入に重なる絃楽の祈りが素晴らしい。このクラリネットはフーガ素材の一部だそうである。ベートーヴェンの第九よろしく、これまでの楽章の素材が次々に登場するが、そのたびにフーガ素材に中断される。

 じわじわとフーガ主題が現れては消え、盛り上がっては鎮静し、ダラダラと引き延ばし(笑) 終結への期待をこれでもかと高まらせる。

 そうして、ついに最後の5分間に至福の大コラールが登場し、精神が解放され、魂は天に向かって咆哮する。

 5番はこの5分のためだけにある。


第9交響曲(1887-94)

 好きな5番でも実は3楽章とか4楽章の中間部とかどうでもいいと思っているのだが、この9番だけは違う。ブルックナーの中でも、9番だけは別格であり格別だ。

 9番はもちろん、終楽章を欠く未完成作品であり、その意味で完成した8番の方を推す人もいるのだが、私は9番こそやはりブルックナーの究極の姿ではないかと考える。未完成の美というか、シューベルトにも通じる結果論としての完成がある。残るフィナーレが完成していたら、私はこの曲を聴けるようになっていただろうか。まさに(マーラーではないが)「宇宙が鳴動する」1楽章から「事象の彼方へ引き込まれる」スケルツォから、耽美中の耽美、白眉の中の白眉である純化した美の極致である3楽章まで、ブルックナーにありがちな一切の弛緩が無い。

 冒頭より既に遙か彼方の地平へと連れて行かれるが、怒濤の第1主題の幕開けは世界の扉が開き、宇宙が夜明け、海が割れ、峻厳なる岩山が崩れて宇宙船が飛び立つような迫力である。

 対比的な第2主題の甘美さも良い。しかも甘くない。ブルックナーの甘さも苦手な部分だが、これは美しさなの中にも枯れた味わいと厳しさがある。第3主題だと思われる旋律も悩ましい色っぽさ。ホルンの崇高な音色も素晴らしい。

 少しずつ展開して行き、第1主題が再び轟くあたりの盛り上がり方も感動する。その後それぞれの主題を順番に扱っている。第2主題を展開し、第3主題もとうぜん扱う。そのあたりは、ブルックナーの手法は主題の前進的展開というより並列的な緩慢なる展開とも云える。コーダに到るまで、とにかく厳しい。聴く者を拒絶するかのようなこの硬質な響きは、ブルックナー芸術の中でも最高峰のものだと思う。

 第2楽章もいい。スケルツォだが、ここでブルックナーの野暮ったさはついに芸術へ昇華した。宇宙の深淵を覗き込むような、事象の地平線へ進軍するかのようなこのスケルツォ!!

 トリオの諧謔性もマーラーやショスタコーヴィチに通じる。とにかくこのスケルツォに一切の妥協も俗揺な部分も無い。あるのは無色透明な純粋な音楽としての突進だけ。第2トリオでようやく、一息つき、歌謡的な旋律が出るも、すぐにロマン派の甘美な夢に融ける。甘美といっても、けしてベタベタではない。

 そして3楽章……すいませんこれだけでブルックナーお腹一敗ですwww 充分です。マーラーさんが豪快にパク……リスペクトしてます(笑)

 一瞬の希望の光の後に来る虚無……ブルックナーはついに70にして25歳のシューベルトの世界に到達した。シューベルトどんだけネクラwww

 その後の清冽さと清廉さの混じった、澄みきった旋律は聴いていて心が洗われる。祈りといっても、安楽を願うようなこれまでの受動的な祈りと異なり、ここには無心の境地がある。何のために祈るのか。祈りそのものを極めると、何のためとか関係なくなる。ただ、祈る。

 そしてまたもマーラーさんがパク……リスペクトした部分がwwww

 音楽はどんどん厳しく盛り上がって行き、やがて大きな頂点を迎える。休止から様々な音形が現れては消え、次第に再びクライマックスへと持って行く。その頂点では火山が噴火し、幸福のカケラも無いような怒濤の憤怒。金管が吼え、絃が狂い、和音はクラスターのようだ。

 最後にオーボエから冒頭を回帰しコーダとなる。盛り上がらそうで盛り上がらず、音楽は急速に集束へ向かう。ここでようやく幸福が訪れる。幸せの和音が鳴り、余韻を残して眠るように消える。最後まで緩さが無く、素晴らしい。





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