シューベルト(1797−1828)
ベートーヴェンの後を追うように死んでしまったシューベルト。この人は地味にモーツァルトより若く死んだ。
享年31歳10か月。
薄幸の美青年ならまだしも、チビ・デブ・メガネ・ヲタクの4拍子そろっていた。
ズバリかなり痛い。
なんといってもリート(歌曲)の作曲が630曲にものぼるというのであるからたまげる。歌曲王とまで云われる。
かれは終生、歌の人だった。合唱もすばらしいらしい。
そんなかれの交響曲もまた、かなり歌曲ふうのすばらしい旋律が味わえる。その意味でかれは直系のマーラーの先祖といえる。
しかし全集を作る熱心な指揮者をのぞき、たいていのレパートリーでは、8番(7番)の未完成と、9番(8番)のグレートで、好きな人が5番あたりをするぐらいだろう。私もその3曲しか知りません。とはいえ、5番は佳作の域を脱していないと感じる。9番はすばらしいのだけれども、たしかに長い長すぎる。メンデルスゾーンだったか、初演したのだが、「天国的な長さ」 と云ってもうあきらめている。
しかし9番(第九ですぞ)は長いといっても、実質の長さは50分くらいで、マーラーやブルックナーのほうがぜんぜん長い。ではなぜグレートは長く感じるのか。
それは同じ音形が4楽章ともに延々と続くからであって、ベートーヴェンの7番よりも徹底している。旋律はすばらしいのに、それが発展する力としてはかなり弱い音楽といえる。故・岩城宏之もグレートを聴きに出かけて、本当にグレートな演奏には滅多にお目にかかる事は無く、たいていは長くて眠ってしまうとエッセイにあった。私もグレートのCDで最後まで飽きないのは少ない。実演なんか恐ろしくて行く気にもなれぬ。
というわけでシューベルトの最もシューベルト的で最高にグレートなのは実は未完成な未完成交響曲ということになるだろう。
未完成(1822)
8番なのか7番なのか、我々には本当にどうだっていいこと(とかいいつつ、ハ長調交響曲は9番でなくてはならぬというこのエゴ。このエゴにこそ、第九の魔力がひそんでいる)であって、とにかく音楽を聴いてごらんなさい。まあわたしのサイトのこんな場所を熱心に読んで下さる人で未完成を知らぬという人はあまりいないと思いますが、こんな音楽がこの世にあるのか、というほどにすばらしい音楽です。
大好きなのだなあ。
未完成なのに完成しているこの矛盾。このふたつの楽章の次に、どんなスケルツォがくれば良いのか。天才・シューベルトもついにあきらめた。(このころ、病気が発覚したため、苦悩と苦痛により作曲できなくなった、という説もあるらしい)
1・2楽章ともワルツ拍子の3拍子で、踊りの音楽(しかもヴィンナーヴァルツ)という事にこだわる指揮者や聴者もいる。それも悪くはないだろう。だけどやはり、例えば1楽章においては、気絶するほど優雅な第1第2主題がゲネラル・パウゼで中断されてより苦悩の場面に一変するところや、そもそも冒頭の低弦のうめきは地獄の底よりの亡者のうめき以外になんと云うのか。
私は、1楽章で最も好きなところがあって、それは未完成で最も好きなところで、すべての交響曲のなかでも最も好きなところのひとつなのだが、譜面にもよるが展開部の練習番号のDから。弦楽器が怒濤のうねりをかもし出し、まさにシューベルトの運命動機。ティンパニやホルンが付点音符でタッタタッタタッタ……と強く奏す場所のすぐ前なので、分かる人は分かるかと。
そこだけもう永遠に聴いていたいです。
こんな胸をかきむしられるような想いをするのは、未完成と、マーラー6番の4楽章の展開部最後・テンポプリモのみ。次点でベートーヴェンの3番と7番の2楽章か。そういう音楽がそもそも好きなのですな、我輩は。
2楽章は、夢想の境地で、こんな、これこそ本当に天国のような音楽の後にですよ、いったいどんな3楽章がくれば良いというのか。3楽章はスケルツォで3拍子なので、そうなると4楽章はどうなるのか。全曲ずっと3拍子ばっかりというのも、作曲者が悩んだ理由らしいです。
こんな孤高の音楽を25歳で書かなくてはならなかったシューベルト。いま、25歳の若さでこんな交響曲を書く人など、世界のどこにいるというのだろう?
否定されたソナタ形式。ベートーヴェンから受け継いだはずのソナタ形式は、しかし、信じることのできなかったハッピーエンド。死の舞踏(トーテン・タンツ)。忍び寄る暗黒。不安。虚無。
そして2楽章は、まるで、
「……パトラッシュ、ぼくはもう、疲れたよ……」
そのような雰囲気になる。死こそ安息か。
25歳の若造が書いた交響曲を、後世の偉大な指揮者たちがこぞって演奏している。こんなことってあるのか。
シューベルトがめざしてついに到達できなかったハッピーエンド。その未完成を聴いて、我々はハッピーエンドをめざそう。めざす過程にこそ人生の価値がある。
そうなるとすべからく人生は「未完成」が真理なのだろうか。
ひとむかし前の大指揮者たちが未完成へ入れ込んだ理由は、そんなところにあるのかもしれない。
形式の点では未完成でも、内容においては、未完成は、まぎれもなく、完成している。
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