ショスタコーヴィチ(1906−1975)


 ドミートリィ・ドミートリエヴィチ・ショスタコーヴィチ。

 20世紀の交響曲作家で、最大の巨人と云って、ぜったいに間ちがいない。

 ポストマーラーかどうかは知らない。いやおそらく、マーラーに影響を受けつつも(その打楽器と、なにより金管の偏愛多用、合唱独唱の大胆な導入、形式においては多楽章性、内容においては諧謔性、歌謡性)その音楽とは根本から異なるため、ポストマーラーというカテゴリよりかは、マーラーの生み出した偉大すぎる交響曲の大樹に匹敵する交響曲の樹をうち立てた偉人、とでもいうべきか。

 それは、どうしても、どうしたって系統なのだ。交響曲とは、ほんらい、気軽に量産されるべき曲種であり(古典派の時代)、ロマン派以降は、1曲や2〜3曲で大作を得ている人もいて、それはそれで良いのだが、交響曲とは、形式の美であり、心情の発露であり、全てが同時存在した究極の表現形態であると同時に、体系の知的遊戯であるはずなのである。

 もちろん、1曲2曲で大曲を得ている例もあるし、数だけあれば良いというものでも無い。100曲あろうが200曲あろうが、いやむしろ現代でそれだけあられても困るのだが……たったの4曲に、5曲に、9曲に永遠に負けてしまうものもある。それは才能の限界であり、交響曲へのスタンスの違いでもあるだろう。曲群に質が伴わなくてはいけない。

 それだけ内容や表現形態そのもの差異のある曲種というのも、考えれば珍しいのではないか。

 つきつめれば、交響曲という音楽形式の無限大さを再確認するのだが。

 話がずれてしまった。ショスタコーヴィチへ戻る。

 ショスタコーヴィチの15曲は、20世紀という時間の中で、あるいは20世紀という時間の中ならでは、このようなものが、メジャーの15曲だというのが、また皮肉ではないか。過去のどんな交響曲よりもさらに辛辣でさらに皮肉だった音楽が、大衆迎合の強制という強権の中でどのように生き残ったか。

 その軌跡の遊戯に、つきあおう。

 参考 私のショスタコーヴィチの部屋


第1交響曲(1925)

 モスクワ音楽院時代の作品で、完成当時、ショスタコーヴィチは19歳だった。作曲に2年をかけているとのことだから、17ほどよりコツコツと作曲していた。この曲を聴くにつれ、若書きだから凄いというのではないが、シューベルトが25歳でかの未完成を書いたのに匹敵する何かこう、形容し難い凄まじさが存在している。ショスタコーヴィチがモーツァルト型だという証左はここにあるだろう。

 またショスタコーヴィチのスゴイところは、プロコーフィエフのようにけして迷走しなかったことであり、ミャスコーフスキィのようにけして堅実ではないことでもある。別に迷走したり堅実だったりするのが悪いというわけではない。しかしそこに、凄味はない。部分的な凄味や、不安定や安定はあるが、凄味の連続性がない。

 トランペットとファゴット、クラリネットらのその独特のソロが織りなす冒頭の綾で、既にその才気は疑うべくもない。ここには既にショスタコーヴィチの全てがかいま見られる。伸びやかな主題、入れ代わり立ち代わりのオーケストレーション。内容としては30分の軽交響曲(!)だが、この透明感、その中へひそむ鋭さ、刺々しさ、それでいて斜に構えた妙にユーモラスな部分、まさにショスタコーヴィチではないか!!

 1楽章はなんとソナタ形式で、第1第2両主題も魅力的だが、展開部が面白い。展開部に重きを置く(ついでに金管と打楽器の多用)のはマーラーの影響である。およそロマン派の交響曲で、展開部が異様に発展しているのはマーラーとブルックナーだと思う(ソナタ形式で重きをおかれるのは、通常、提示部である)が、それを正式に20世紀に引き継いでいるのがショスタコーヴィチであろう。

 2楽章は表記されていないがスケルツォとのこと。忙しない絃の動き、目まぐるしい木管の動き、唐突に出現する「オーケストラの一楽器としての」ピアノ。この曲では特にピアノソロが多いが、変な焦燥感。落差の激しい動機群。これもまたショスタコーヴィチ!! トリオでは不安定な響きがより焦燥感を増し、そこからブルレスケのような主題に移るあたりが実に心憎い。

 3楽章はレントで、もの悲しい独特の荒涼とした雰囲気も、既にショスタコーヴィチ!! 天才は、はじめから天才ゆえに天才と呼ばれる。最後まで天才かどうかは、疑わしいが……。少なくともショスタコーヴィチは天才だったと信じる。チェロのうねうねした響きがソロイスティックに活躍する重々しい楽章で、1番の中では最も重厚な響きを醸し出している。独特のリズムが後半に執拗に繰り返されるのが印象的。

 4楽章はレントからアレグロへ移る。ここでショスタコの爆発アレグロが炸裂!(笑) やっぱり既にショスタコーヴィチ!!(笑)

 第2主題とその展開でちょっとだけ懐古的な風情になるが、それでもどこか亡霊を見るようなうすら寒さが残る。それが盛り上がったところで、なんとティンパニのヘンテコりんなソロ。これは3楽章のリズムの反転形……だそうですが、なに、これ(笑)
 
 その音楽を容赦なくぶった切る手腕。うなります。そして畳みかける怒濤のコーダ。いかな天才とはいえ、高校生あたりが作曲する音楽ではない。
 
 鬼才だ、鬼才がここにいるぞー!!


第2交響曲「10月革命に捧げる」(1927)

 ショスタコの基地外もとい鬼才っぷりは、2番でも顕著である。

 1927年、すなわち、ベートーヴェン没後100年に、このような「交響曲」がうまれようとは、マエストロも草葉の陰で喜んでいるだろう。

 しかしこれは、純粋に標題音楽というか、記念音楽であって、革命記念の為の委嘱であったようだ。従って、当初は「交響的ポエム」より次に「交響的捧げ物」ということになった。しかし、最後には、第2交響曲となった。

 ロシア革命は1905年の第1次革命と1917年の第2次革命とあり、さらに1917年には帝政を打倒した2月の革命と、臨時政府を打倒した10月の革命があった。ちなみにこの2月と10月はロシア歴で、西暦では3月と11月。

 さらにレーニンによりソヴィエト政権が誕生する1922年まで、ロシアは同じ共産主義者同士で激しい内戦が続いた。

 その10月革命記念の音楽であるが、変な共通性だが、プロコフィエフの2番に匹敵するほど辛辣な内容なのが興味深い。この辛辣さは、ショスタコーヴィチの全交響曲中、私は随一だと思う。4番よりも、荒々しい分、凄いと思う。(ただし合唱部まで)

 単一楽章で、革命を賛美しているが、描写音楽かというと、必ずしもそうではなく、なんとも面白い音楽で、現代的で先鋭な部分がありつつも、どこかすっとぼけた部分もある。

 冒頭より暗澹たる地獄の素粒子が立ち込めるような凄まじい響きが続くが、これが例えば革命前の暗黒のロシア帝国を表現しているのかというと、そうでもない。純粋な音楽表現といえる。バスドラの微かな地鳴りの中より、低弦が唸り、やがて高弦へと到る。その様子はまさに無調音楽に近い。それから金管が順に不可思議な音形を奏で、やがてアレグロとなる。

 このアレグロがオカシイ。何がって……(笑) 気が(爆)

 支離滅裂、言語道断、発狂寸前、そんなイメージしか沸かないが、いちおう、革命讃歌です(笑)

 この交響曲は(この時点では)旋律性より構築性に重きがおかれ、非常に複雑な対位法が見られる。いわゆるウルトラ・ポリフォニーというものだが、延々と無関係なフーガが綴られてゆく様は不気味としか云いようが無い。このようなヘンテコフーガは、これからショスタコの常套となる。あまりに複雑すぎて、速度も速く、訳が分からない。つまり、整然と、訳がわからないように書かれている。その効果は絶大で、ただのドンガラガッシャー〜ん!! という音塊の羅列であるような無調作品よりもずっとタチがわるい。

 それが終わると、やっと讃歌調の部分が轟くが、これもちょっと調子が変だ。その後、少し瞑想的な部分がすぎて、今交響曲の最大の白眉の部分、F♯による唸りのサイレンが一瞬、轟き、打楽器の一撃より、革命歌が出現する。

 ちょっとドッキリする部分だ。

 合唱はまさにショスタコ節で、森の歌や他の合唱作品に通じる特徴が既に聴かれる。野太く、骨太で単純な旋律群、それを支える複雑な管弦楽のリズムと音色、その対比の妙はとても素晴らしい。

 間奏部を経て、再び合唱。ここでは前半部の難解な構造からの展開とは思えぬほどに純真な讃歌で、非常に見事。グロッケンとトロンボーンのテーマが愛らしく、一気に終結部へもってゆくが、終わらない。もう一回讃歌が繰り返され、スネアのザーからシュプレッヒシュティンメのような部分もあって(「旗印、10月、われらが新時代、コミューン、工エェェエ工!!」)、金管からティンパニに続いて堂々の大団円。

 10月革命記念の音楽コンクールで、1位。


第3交響曲「メーデー」(1929)

 2番より2年後の1929年、ショスタコーヴィチは大学院の〆として、休暇先で一気にこの第3交響曲を仕上げている。同じく合唱入り、単一楽章、標題つき、その標題が革命に関すること、ということで、2番と3番は同一視されることが多い。

 しかし、3番は2番に比べるとはるかに平易で、後年のいわゆる社会主義的リアリズムを思わせる。メーデーは正確にはメイ・デイ(May Day)で、意外にもアメリカ発祥の労働者のストライキの記念日である。日本ではゴールデンウィークにあたるため、特別には祝日にはなっていないが、世界各国で(特に旧共産圏やラテンアメリカで)祝日に定められている。

 この平易さは、革命歌をそのまま使用している後年の11番、12番にダイレクトにつながってゆく面白さがある。なんといっても、これは標題音楽でありつつも、特にメーデーの音楽ではない。メーデーのような雰囲気が楽しいな、的な意味合いしかない。

 しかし2番に比べて3番はやや長い嫌いがある。約10分近く長い。

 朴訥なクラリネットのソロからスタートし、不思議な寂しいデュオを経て、トランペットが歌いはじめると、次第に音楽が生き生きと目覚めゆく。その様子は流石にうまい。ここからのアレグロは、いかにも後年のショスタコアレグロを想起させる。これまでの室内学的な雰囲気から脱却し、オーケストラによるアレグロだ。思えば、この技法がそのまま4番につながってゆく。シンフォニーが体系の知的遊技というのは、こういう他の作曲家からの影響も然ることながら、初めて現れた技法や特徴でも必ず前の交響曲からつながっていて、如実に次の交響曲につながってゆく面白さを発見した時にもっとも感じる。
 
 管楽器が目まぐるしく旋律をつむぎ、そのぶん、弦楽はジャカジャカやるだけで、あまり面白くない。

 このアレグロの展開はショスタコが自ら課したという 「テーマが繰り返されない」 展開であり、ひとつとして同じテーマが現れない、狂詩曲ふうの展開となる。つまり、西洋音楽の基本であるテーマと変奏を否定した前衛手法であるが、コケティシュでデモーニッシュな雰囲気がそれを覆い隠している。突き刺さるような(ヒドイ)和音は、妙な金管のテーマを誤魔化し、誤魔化される。

 しかし一転して小太鼓によって導かれるマーチは、マーラーに通じる滑稽さがある。(ピオニールの主題) それらは同じマーチのようでちがう音楽が同時に進行する。

 静かな部分に到るが、アイヴズのごとく、ピオニールの主題が遠くから聴こえたり交錯したりする様子は、まさに近代技法だ。ここはしかし、緩徐楽章の部分に相当するだろう。

 やがて激しいアレグロが戻ってくる。この展開もヘンテコリンで、よく云えば変幻自在、悪く云えばメチャクチャ。その中で、メーデーの集会は絶好調に達し、人々のシュプレヒコールが英雄的なテーマになって現れる。それが打楽器ソロにより(雰囲気が)まとめられると、次の部分に到る。

 すなわち、合唱である。

 ただし、2番ではサイレンの一瞬の導入だったのに対し、大規模な間奏が延々と続く。ドラが鳴り、金管が群衆に呼びかける。低弦がグリッサンドで気分を盛り上げ(?)る。先ほどまでの興奮が完全に抑えされてしまうので、無駄とも云えるし、深い導入表現とも云える。

 満を持して、メーデーの讃歌が歌われる。ここでも、合唱部の旋律はむしろ単純で、それを複雑なオーケストラ伴奏が支えるという構図が目立つ。合唱はしばし続くが、終結部が面白い。ここでも2番との対比は確実で、延々とひっぱった2番に対し、唐突にパッパカパーと金管が鳴ってジャジャーンと、なんというか、かなりやっつけて終わる(笑)

 しかしロシア語の合唱は色々な意味で豪快だ。


第4交響曲(1938)

 ショスタコの15曲のシンフォニーの中で、やはり最高なのは4番、8番、14番だろうと強く確信している。この中では、どれがベストかというと、ちょっと気分によって色々と入れ代わったりするのだが、順位としては、8番、14番、4番、かな……? と。

 4番は、その書法が若いのと荒々しいのとで、次点となってしまうが、ショスタコーヴィチの天才性がもっとも発揮された1曲であることに間ちがいは無いだろう。つまり、初期の大大大傑作なのである。そればかりではなく、20世紀産交響曲の中でも、屈指の名曲と云える。

 1936-38年にかけて作曲されたが、初演の練習中に総譜がひっこまれ、その後26年間も「まぼろし」だったというエピソードは、記憶するに値するだろう。

 しかし、29歳の書く作品ではない。恐るべき、そして畏るべき音楽だ。真に畏怖されるショスタコーヴィチは、この第4番から始まる。

 また、1番が習作(あれでも!)、2、3番は交響曲としては異色というか特殊ととらえると、この4番こそが、ショスタコの真の真なる最初の交響曲、という人もいる。じっさいショスタコーヴィチは、ロジェーストヴェーンスキィが交響曲全集を作ると云う時に4番からにできないか、と云ったともいう。マーラーの影響をことさら強く受けたように感じるが、それは主に拡大された金管群の際立った活躍に集約されるだろう。書法はまったく異なるが、4番は構成がマーラーらしい。つまり、短い間奏曲的な中間楽章を挟んだ長大な両楽章による構成で、ショスタコーヴィチは3楽章制だが、マーラーならばおそらく5楽章制になろう。

 3楽章制と書いたが、各楽章は密接してはいるが、かなり乖離もしている。従って、3部制ととっても良いと思う。そういう意味で、真にマーラーの影響下にある交響曲と思う。

 また、この大編成の中にあっても、繊細な管楽器などの長いソロの扱いは健在で、1番よりの系譜を観る事ができるし、まさに体系の知的遊戯としての交響曲群を楽しめる。

 これは完全な純粋音楽であり、タイトルも無く、描写するものもない。まさに音楽のための音楽であり、形式のための音楽で、交響曲以外のなんとも云うことのできない、完全な交響曲である。そういう意味では、むしろ8番9番のような、純粋音楽ではあるが戦争の影響をぬぐう事のできない曲や、14番のような歌詞とテーマ付の音楽とは一線を画し、むしろ10番に純粋性では近いかもしれない。

 しかし個人的には10番も悪くはないが4番に比すると狭窄と迷いと不明に過ぎる。精神的に疲れているとしか思えない。まあいろいろな状況があったのだろうが……。

 とはいえ、4番にも変な部分は多々ある。まず、構成が難しい。大きく見ると3部形式と云えると思うが、各楽章は、楽想がかなりバラバラであり、唐突で、統一感に欠ける。楽章間のつながりも難しい。全体的に組曲的な7番のようでもなく、純粋な大規模純交響曲のようだが、交響曲としての伝統的な構成からは大きく逸脱している。

 従ってか、録音が多いわりに、面白い演奏が少ない。つまり、全体像をとらえきれておらず、かといって、細かくつきつめているわけでも無い。ショスタコーヴィチ独特のハデな部分を際立たせようとして繊細な部分を殺していたり、ドラマ性を探そうとしたりして徒労に終わっている。この曲にドラマなど無い。
 
 冒頭から交響曲としては風変わりな、しかしショスタコ得意の打楽器総動員体制な緊張感のある先鋭にして衝撃的な響きが我々を襲う。現代の衝撃にはスピード感が大切だと思うが、こういう音楽こそ、その証だ。無拍子の現代ものからは、この焦燥感はとうていうまれない。当たり前だが、それらとは方向性や表現するものの根本が異なる。

 その後、ガタガタした導入部を経て、もっとガタガタした第1主題が登場する。この音楽の第1楽章は、かなりガタガタしている。素直にガタガタと演奏してほしいところだ。ホルンの狂い加減がまた楽しからずや。

 第2主題ではそれらがいったん落ち着いて、弦楽によるモノローグふうな場面となる。しかしこのモノクロームさは、戦前とはいえ、コンクリートの殺風景な情景に通じ、ショスタコーヴィチのモダンさを象徴づけるではないか。そんな中にも小太鼓がアクセントをつけるのがまた彼らしい。

 それらが不協和音バリバリで盛り上がり、否応なく緊張感を増すわけだが。リズムも交錯して凄まじい「わけの分からなさ」である。2番のところでも書いたが、こういう理路整然としたわけの分からなさというのは天才か基地外にしか書けない。天才や基地外を気取ったふつうの人には、絶対に書けないのだ。

 金管やシンバルやティンパニの叫びっぷりは天晴れとしか云いようが無い。

 GPよりファゴットの長いソロがくる。このソロもショスタコーヴィチの面白い部分で、他の楽曲にも必ず現れる。1楽章の中間部といった部分に突入し、木管のおどけた調子が面白い。ここはちょっと長い部分で、演奏によっては非常にダレる。

 そこからがまた凄い。

 2番を彷彿とさせる弦楽器の基地外フーガに、シンバルのアクセント。この発想がまた、ショスタコーヴィチにしかできないもので、そういう彼一流のインスピレーションというかパフォーマンスというか、そういうものに我々はシビレるわけだ。

 狂騒がアッという間に終わってしまうと、再現部のようなところ。やがてティンパニの不安げなソロとなり、金管とシンバルが加わり、それに導かれて、堂々と第1主題が再現される。カタチはかなり変わっており、さらに悲哀な表現となっている。再現部は短く、すぐさま集結部へ入る。

 イングリッシュホルンなどのソロ、クラリネットの(マーラーふうの)カッコウ動機。それを引き継ぐヴァイオリンソロ。ここは室内楽的ショスタコーヴィチをたっぷりと堪能するところ。ファゴットが最後に第1主題を追慕するように吹いて、この30分近くも続いた壮大にして長大な狂った嵐の音楽は、消え入るように終わる。いうまでもなく、それらの全てがマーラーふうなのである。

 2楽章は一転してまともな音楽。に聴こえる。レントラーで、短い間奏曲。紛れもない間奏曲の役割。弦楽の、演奏する側からすればヤメテケレというようなズラシがあるが、聴く側からすれば同じにしか聴こえない風味=つまりブラームス流なのだが、面白い主題が、木管などに受け継がれ、発展してゆく。この技法は見事としか云いようが無い。突如として現れる道化ふうの調味料も抜群の効果。

 8分ほどの音楽だが、中身は濃い。また最後の打楽器アンサンブルが15番にも通じる手法なのが興味深い。

 さて、再び音楽は30分を数える長大なフィナーレへと我々を導く。

 この3楽章がまた構造が分かりづらい。

 プロコーフィエフの(ピーターと狼のじいさん主題)ようにも聴こえるマーラーふうの葬送行進曲がファゴットで奏でられる。それらが木管などに受け継がれて静かに発展してゆく。このような数分間の長い導入部を経て、ついにアレグロへと突入する。アレグロの主題は導入部から導き出される。

 しかし騒がしいがどこか楽しいのは私だけだろうか??(笑) なんか異様にハイになる音楽。演奏にもよりますかね。この妙な中毒性は、他の作曲家にはなかなか無い。真剣な中毒性はあるのだろうが。

 そこからがまた楽しい。ペトリューシュカでも出てくるような、出ては消えのヴァーチャルメリーゴーランド。どこが歪んでいるのがミソであるが。ワルツあり、おとぎ話あり。まったく狂詩曲、あるいは喜遊曲ふうの自由な楽想で、こういうところをまじめに演奏されてはかなわない。まじめにやらなければならない部分、まじめにやってはいけない部分、描き分けがほしい。

 そしてファゴット再び。トロンボーンのソロも面白い。ワルツも続く。こういう部分は、楽想の通りの変幻自在さがやはり楽しいのではないか。

 しかしその幻想も終わりに近づく。ティンパニ2台の豪快でヘンテコリンな連打より、集結部が始まる。

 金管が吠える和音の妙。燃えるホルン。怒濤の打楽器。これもまた唐突である。詳しい根っこの部分ではつながっているのとのことだが、たんなる聴き手には分からない。ここからまた音楽が変わると思ったほうが良いと思う。そういうコロコロガタガタ常に変形してゆく自在変形トランスフォーム型交響曲だと思う。

 ポツンポツンと可憐に鳴るチェレスタの、なんとショスタコーヴィチ的な寂寥感か。

 そして、1楽章(また2楽章とも)と同じく、静寂の中にこの狂騒的交響曲は、消えてゆく。まるでまったく夢のような交響曲。


第5交響曲(1937)

 この音楽は凄い。どちらかと云うと(通俗)名曲っぽい扱いを受けいると思うのだが、地味に40分もある大曲だ。これほどの大シンフォニーで、飽きさせず聴かせると云うことの難しさ。まずその点へ敬意を評しつつ、やっぱり中身的にはいろいろと首を傾げる部分も多いわけで(笑)

 しかしそれも仕方のないことで、この時期、ショスタコーヴィチは政治的に失脚していた。ソヴィエトで失脚するということはすなわち死を意味する。意味不明な理由で法廷にひったてられ、問答無用で「有罪」を宣告された無数の人々。シベリアへ流されるか、行方不明になるか。

 ショスタコーヴィチはそれまでの主な作品へ「非社会主義的」というレッテルを貼られ、それらの作品よりさらに過激だと本人が判断した第4交響曲はそういった状況の中でひっこまれた。

 生命と芸術の絶望的危機のなかで、彼は第5交響曲を発表した。終楽章のフィナーレを、歓喜的なものへ強制されたとか、そんな低いレベルの話ではない。生きるか死ぬかの話である。生きるためにはなんだってする。しかし断じて迎合はせぬ。精神がどうかなってしまうような状況で、これだけのものを書き上げ、しかもそれが大逆転で地位を復活させた。その片腕を担った指揮者ムラヴィーンスキィとの終生の友情があったのも、当たり前だ。ショスタコーヴィチファンなら誰でも知っているエピソード〜「証言」で、ショスタコーヴィチがあるときムラヴィーンスキィに対し自分の音楽を理解していないと激怒した、とあるが、ロシア貴族の生まれで、忌まわしき革命で何もかも失い、貴族出身というだけでレニングラード音楽院入試を1回落とされたムラヴィーンスキィが共産政府を信用しているはずがなく、心の中のまさに芸術家「同志」であった2人には、もはやそのような表面的な友情とかなんだとかいう次元では語れぬ強固な信頼関係があったのは云うまでもない。

 もっとも、互いに偏屈な芸術家「同志」、譲れぬ部分があってそれが周囲に反目し合ったと映ったのも仕方がないのだろう。

 ※例えば、ドキュメンタリーや書籍で私が個人的に思うに、2人には極度の不安症、芸術的潔癖症、完全主義があって、ショスタコーヴィチはムラヴィーンスキィに自分の交響曲の演奏を断られるのを異常に恐れており、ついに4番の初演をムラヴィーンスキィに云い出せず、しかもムラヴィーンスキィに遠慮して、他の指揮者にも云い出せなかった。コンドラーシンから「初演して良いですか」と申し出があるまで、26年間もそれは続いた。またムラヴィーンスキィは13番の初演を、妻の病気で音楽どころではなく断った。ムラヴィーンスキィほどならば、たとえ妻の病気であっても、適当に振ることが出来たにもかかわらず、である。案の定ショスタコーヴィチは「断られた!」と苦しみ、周囲に不仲と映るほど、一時期交流が途絶えたらしい。これは、2人の間を取り持つ人の連絡不行き届きであって2人に罪はない。また、ムラヴィーンスキィは神のために(共産主義国家で!)演奏すると公言していたほど芸術主義で、お客がその神へ捧げる演奏の一端を味わいたいのなら勝手に聴けば良いというほどだった。とあるブルックナーの演奏会リハーサルでは、リハーサルがあまりにうまく行き過ぎたため、「これ以上の演奏は本番では不可能」として演奏会自体をキャンセルした

 そのようなわけで、この5番に関しては、ムラヴィーンスキィ以外の演奏は全て演奏主義であり、逆に音楽として純粋である。ムラヴィーンスキィの演奏だけが、この曲の真実を伝える。ただしそれは、あまりに付随する意味がありすぎて、純粋な音楽の姿を歪める。

 録音は多数あり、ムラヴィーンスキィのものもいまでは入手困難なロシアの海賊盤等も含めて、10種類を超えるようだ。

 だが、冒頭に戻るが、内容が内容だけに、かなりの難曲である。技術的にはアマチュアオーケストラでも演奏できるほどだが、つまり、パッとしため、とても聴き易く分かり易いため、通俗云々的なエンターテイメント指揮に陥り易い。そういう指揮は、飽きる。この音楽の本質を貶め、ますます5番を通俗云々にし、ひいてはショスタコーヴィチの全体像を低下させる。5番だけを聴いて「これがショスタコか」と思われる。それはもはや罪だ。そういう意味では「新世界より」に通じるものがある。

 これはベートーヴェン以降の正しい5番の伝統を継いでおり、しかしそこには現代的なアイロニーやブラックユーモアがある。その意味では、ショスタコーヴィチの5番の位置はこうであろう。

 5番交響曲の正しい(?)流れ

 ベートーヴェン → チャイコーフスキィ → マーラー → ショスタコーヴィチ (→オマケで吉松隆

 正しくない(?)流れ

 マーラー → オネゲル → ペッテション

 これは完全に、一種の知的遊戯体系であって、交響曲を楽しむ醍醐味である。交響曲とはこのように、同じ作曲家による体系の他に、同じナンバーによる体系の楽しみ方もある。1937年の作曲である。

 さて……。
 
 かなり重くもあるが、どこか映画音楽調(つまり、演出的な空気)の低絃から1楽章が幕開けする。すぐさまヴァイオリンもからんできて、しばし弦楽合奏の深刻な独白を聴く(聴かされる)こととなる。やがて管楽器もまじって、冒頭のテーマを執拗に変奏する。ピアノが打楽器のように無機質な足音をたてはじめると、展開が広がる。打楽器が加わるとさらにエスカレートし、テーマはショスタコ得意の金管に受け継がれる。ここの迫力は、うまいオケだとゾクゾクする。やがてテーマがいいだけ拡大されると、再現部をへて終結部へと向かう。終結部では、静かな木管による冒頭のテーマが、平和が来たことを印象づける。しかしうわずってゆくチェレスタが、なんともいえぬ不安感も醸し出す。

 2楽章は順当にスケルツォが現れる。重々しい低弦、勇壮なホルンはマーラーを思わせるが、おどけた木管が、ああ、ショスタコだったと、気づかせてくれる。しかし重々しい……。これを颯爽と演奏するか、その通り重々しく演奏するかで、5番の印象もちがってくると思う。時間も短く、間奏曲的な扱いだ。
 
 3楽章のラルゴがまた、良い。良いのだが、これも演奏によっては、ひどく間延びした感じになると思う。これは7番の3楽章にも通じると思うのだが、ショスタコーヴィチは、緩徐楽章があまり得意ではなかったと思う。ゆっくりなのにいきなりアレグロになったり、やっぱりゆっくりな音楽を書きたいのに、どーしてもアレグロになってしまうショスタコの、武満とは間逆のアレグロしか書けない症候群が好きなのだが、こういった、なんかジレンマに悶えているような緩徐楽章も、ま、たまにはいいか。

 その反動が、あの4楽章なわけで(笑)

 演出だ、すべからく演出なのだ。5番全体に漂うある種の白々しさは、そこに由来する。もちろん、だからダメというわけではなく、逆にショスタコの凄さを物語っていると思う。

 しかしこの4楽章は……(^^;A

 凄い、凄いです。あの4番の後に、よくこんなの書けるよなあ……。逆の意味で、それが凄い。

 生きるためなら、人間、なんでもできるもんだ。


第6交響曲(1939)

 15曲の中で、もっとも渋いのは私は6番だと思う。地味といっても良い。それはたぶん、たぶんというか絶対、5番のトラウマだろう。

 1939年、かの5番より2年後にこの第6番は書かれた。しかも、面白い特徴がいくつかある。

 これは、5番に匹敵する3管編成であるにも関わらず、3楽章制で、時間は30分ほど。厚みも少なくむしろ室内楽的、しかも、ソナタ形式であるところの第1楽章を欠き、いきなり緩徐楽章であるラルゴより始まる。その緩徐楽章がもっとも規模が大きく、全体的にはさらに、もっとも純粋音楽的であり、また、非交響曲的ながらも、例えば次の7番や13番、14番などに比べても、とても交響曲的(に、聴こえるもの)だと思う。つまり、これは、ラルゴ、アレグロ、プレストと、極端に速度が変わり、だんだん早くなるという奇妙な形式を持っており、しかも、それらの間には、特に関連性もなく、それぞれが幻想曲的なのだという。その形式というか書法は、次の7番にも引き継がれる。従って、7番はそのタイトル性も相まって、交響曲というより巨大な組曲とも云えるのだが、6番は純粋音楽的であるためか、まとまって交響曲に聴こえるのが面白い。

 また地味な曲想ながら打楽器や金管は、ショスタコーヴィチらしい活躍を見せているのも面白い。

 冒頭より、チェロ、ヴィオラ等による物憂げな旋律が呈示され、それへヴァイリオンが重なり、フルートや金管も連なる。ティンパニの怒濤のトレモロが悲劇性を助長する。ラルゴながら、テンポ的にはアンダンテほどだろうか。自由な形式で、哀しげな主題が現れては消えてゆく。まさに幻想曲的な雰囲気。なんといっても、重々しいティンパニが、印象的だろう。

 中間部と思わしきところより、フルートが即興的な旋律を美しく独白するが、弦楽がずっと後ろで押し殺すようなトレモロを奏でているのが不気味だ。お寺の鐘みたいなドラがまた……。ああ、諸行無常。

 再び、幻想的な弦楽器や、木管などによる音楽が奏でられ、テンポがけっこう動くが、全体としては、ラルゴに相応しい。ショスタコーヴィチは初めて、本格的な緩徐楽章を書くことに成功したのではないか。そして、それを第1楽章に持ってきたことが、純粋にその自信の現れではないか。

 なお、1楽章は全体の半分を占め、まさに6番の白眉と云える、非常に深い音楽になっている。5番の3楽章に比べても、その芸術的な完成度の高さは、疑いようが無い。最後は、白昼夢でも見ていたかのように、消え入るように終わる。

 2楽章は一転して、明るいアレグロ。ただし、スケルツォではない。ショスタコ流の、「アレグロ」楽章である。しかし弦が登場してより、音楽は厚みを増す。いままで眠っていた金管、打楽器たちも、ようやくエンジンがかかる。これぞショスタコというような素晴らしいアレグロ。ティンパニのソロまであるよ(笑)

 5、6分ほどで、これも夢でも見ていたかのように上昇形の中に終わってしまう。

 そして最後はプレステ。じゃないプレスト。さらに速いよ。ここにきてショスタコの諧謔性も発揮される。ぴょこぴょこ飛び跳ねるような主題は実に面白い。誰ですか、芥川也寸志みたいだって云ってる人わww

 ティンパニといっしょにタンバリンも鳴りまくるよ!!(笑) というかこれは笑っちゃ行けない音楽なのか?

 中間部で、勢いは1回おさまるが、速度は変わらない。木管や弦楽が室内楽的に絶妙なカラミを聴かせる。素晴らしい。後半部はまたまた盛り上がって、珍妙な主題がこれでもかと登場してくる。ラストはけっこうおふざけ。

 6番は、14番に通じる室内楽的、7番に通じる組曲的、9番に通じる諧謔的という、ショスタコ流交響曲の新しい手法を確立した重要な曲だろう。

 いままで6番は苦手だったけど、こうして改めて聴いてみると、ぜんぜん良い曲です。


第7交響曲(1941)

 6番がもっとも地味ならば、7番はもっともハデな、ショスタコの完全な陽の部分が集中された作品ではないか。

 とはいっても、それはたぶんに国策によるものでもあり、また、紛れもなくショスタコーヴィチの中のある種の純粋な愛国心に基づくものでもあるだろう。当局と芸術上のことでモメたとはいえ、ショスタコーヴィチは生涯、共産党員であった。一方、ムラヴィーンスキィは、ただの一度も共産党員になることはなかった。

 もっとも、そもそも、作曲動機というより、その発表のしかたのほうが、おおいに国策が絡んでいただろうが。

 1941年、ナチスドイツによる、かのレニングラード包囲戦の開始直後、じっさいに防空作業員として従軍していたショスタコが、その臨場感ある体験より、筆がとられ、じっさいに3楽章までのスケッチはレニングラード市で出来上がったという。もっとも、1楽章はそれ以前からできていたとも云われ、全てが憶測となっている。

 じっさい、戦争交響曲としては、次の8番のほうが遙かに深く、生々しく、そして深刻であって、この7番は、外面的でどこか空騒ぎ的な、空疎ともいえるある種のむなしさがつきまとっている。

 このハデな音楽のどこが空疎なのかとお思いになられる方もおられよう。しかし、逆に考えると、あの第1楽章の戦闘主題の、どこが「戦いの主題」なのだろうか? その主題の変容が最終的に巨大な怪物の吼える様に変化するとはいえ、あまりに諧謔が過ぎるのではないか。レハールの引用によるナチスの象徴という説もあるのだが、そんな単純なものではないと思う。なんでわざわざナチスの象徴がチチンプイプイなのか。ナチスの歌でもなんでも引用すれば良いのではないのか? バルトークは、アメリカでラジオで流されたこの曲を聴いて、その書法のあまりの馬鹿馬鹿しさに敬意を表し(?)自作、管弦楽のための協奏曲で、強烈に揶揄している。バルトーク曰く「国家の奴隷にまでなって作曲するのは、馬鹿」 

 また、まったく独立している、各楽章のバランスの悪さ、そのうえの長さ、クドさ。最後のアホみたいにブカスカ鳴らされる、強圧的なまでの勝利のファンファーレ。それもトウキョクの強制への反抗? 

 聴いたあとに残るのは、少なくとも私は、疲労感と、こんな長い時間、何を聴いていたのだろうという心の穴である。空しい。あまりに空しい。それが空疎といわずになんというのだろうか。

 楽章には、初演のときにショスタコが云ったという、妙なタイトルがあるが、これは参考だろう。作曲者が云うには、これは「ほとんど標題音楽」だそうです。

 第1楽章「戦争」

 冒頭より、重厚なのだが、どこか明るい、むしろ希望のテーマのような響き。ここからして、何かがおかしい。これは戦争前の平和なテーマなのだろうか。リズミカルに進行して、いろいろな楽器がからんで来る。フルートの愛らしいソロから弦楽のセレナーデとなって、全てを想い出の中に包んでゆく。

 そこへひたひたと侵略してくるのが、例のチチンプイプイである。

 (いちおう解説しよう。我々以上の世代はご存知だろうが、大昔、シュワルツェネッガーと宮沢りえが、この戦争のテーマに合わせて♪チーチーンプイプイッ、♪チーチーンプイプイッ、と歌うカップ麺のCMがあったのです。)

 それもおかしいではないか。なんで戦争のテーマがこのような明るいものなのだろうか。全てが、虚構の世界だ。ここには、ストラヴィーンスキィ流にも通じる、バーチャルな音空間が演出されている。12回も繰り返されるというそのテーマが、最後には凶暴で猛悪な獣となって、人々を襲う様は、恐ろしくもあり、その音響の迫力にゾクゾクする。そこで初めて、タカタカ鳴っていたスネアドラムが、軍靴の音(笑)もとい銃撃の音だと気づく。

 それが頂点に達すると、悲劇のテーマともいえるものまでに発展した音楽が、人々の嘆きを半ば義勇的に讃えあげる。その後、やっぱり騒いでいたのが空しくなったようで、なんか寂しいテーマが登場して、ショボーン(´・ω・`)な感じの賢者タイムになるのがかわいい。すぐに、それを慰める音楽が始まるのも面白い。問題は、ちょっとしつこい事。

 1楽章は、私も好きです。

 第2楽章「回想」

 1楽章から続き、ひっそりと鳴りはじめる2楽章。オーボエの物憂げな主題は何とも云えぬ情緒がある。スケルツォだが、アレグレットに移行するモデラートである。その中で、突如としてクラリネットが狂ったようなソロを吹きはじめて驚く。そこからは戦争の再現のような激しいアレグレット。それが冒頭に戻る、大きな3部形式だが、最後は変形され、ひっそりと終わる。

 昔の楽しい想い出を回想しているとの事だが、かなり歪んでいる。想い出というのは、常に、美化され、その逆に、いやな想い出ばかりが記憶に残る。記憶を包むものは、人間の勝手な思い入れだ。

 第3楽章「祖国の広野」

 このアダージョは、ショスタコの書いた最大規模のものなのではないか。7番そのものが最大規模だが、それにしても、大きい。5番の3楽章、6番の1楽章から続く正統なるアダージョで、訴えるものはロシアの広大で静かな大地なのだろうか。

 木管の序奏に続き、おおらかだが冷たく寂しげな弦楽。肥沃な大地はしかし、1年の半分を雪におおわれるのだ。この聖歌の様な清らかさは、変な明るさをこの悲哀の歌に与えている。

 フルートのソロも、もの悲しい。しかし本当にこの明るさはショスタコーヴィチにしては異例だろう。その音楽が、やおら、速度を増して。往年の映画のBGMのような懐古趣味に徹したものとなる。それは大きく盛り上がって、再び1楽章を思わせる勇壮なものとなる。

 それから再びアダージョとなる。が、やはり調子は光が差してくるもので、不思議な感じがする。アタッカで、4楽章へ。

 第4楽章「勝利」

 私は当曲の最大の弱点はこの4楽章にあると思う。この4楽章は何を云いたいのかよく分からない。純粋音楽だとしても、長く飽きがき易い。演奏によるのかもしれない。構造の把握を徹していない指揮のこの4楽章は、正直、聴くのが辛い。

 うって変わった、不気味な雰囲気。戦争の恐怖となにより死に対する不安さが、ここに登場する。すぐに音楽はアレグロで激しく暴れまわり、戦闘の再開を表現する。それがまた速度が落ちて、モデラートへ移行する。ここからがやや長い。

 もやもやした中で、クラリネットが発狂すると、いよいよ音楽はクライマックスへと向かってゆく。じわじわと、執拗に音圧が上がってゆく様は、正直、英雄的などころか、恐怖だ。この勝利のファンファーレは、ティンパニの連打は、爆撃そのものなのではないか。

 しかし長い。4楽章自体も長いが、全体としても長い。

 この長さは、何を表しているのだろうか。ショスタコーヴィチは何を云いたかったのだろうか。とても疲れる音楽であります。

 この疲れはどこから来るのだろうか? 云うまでもない。最後まで聴いて、外側だけでブカブカ響いていた事に気づく。ここには、4番のような執拗な音楽的動機も無く、5番のような綿密なストーリー性も無く、6番のような純粋な音楽美もない。強いて云えば、1番から3番まで順番に聴いたような、大きな楽章の羅列を聴いてきただけだ。空しい。なんとなくしっくりこない違和感と、空しさだけが残る。実演だとさらに顕著だと思う。これを聴いて興奮のまま会場を去る人は、幸せだろう。

 テーマは、戦争。ショスタコーヴィチはあえて、この異様な長さを持って、戦争の何かを伝えたかったにちがいない。もちろん、勝利の交響曲、自軍を鼓舞する協奏曲、反ファシズムの象徴となる交響曲として祭り上げられる運命を担わされていたのも、あるだろう。

 つまり、この大曲の伝えるむなしさというのは、何物でもない、そういう味方の喧伝も含めた、戦争のむなしさであろうということは、容易に想像がつくわけだ。そうなると、この7番という音楽は、壮大な皮肉ということになる。長い事自体が皮肉。ハデな事自体が皮肉。

 もちろん、そんなの関係なく、ただのエンタメ交響曲として聴いても、ぜんぜん問題ないと思う。問題ないと思うが、音楽の本質に目を背けているし、それならもっと楽しい音楽が山ほどある。ショスタコーヴィチの音楽が一人歩きするには、あと何十年か……いや、先の大戦がどーのこーのと、さも見てきたように語られている以上、永遠に訪れまい。この曲がベートーヴェンの「ウェリントンの勝利」のように扱われるのには、まだ記憶が生々しすぎるし、そもそも「戦争」の質が違う。WW2に比べたら、ウェエリントンの戦いなど、戦争ゴッコである。


第8交響曲(1943)

 これは、エンタメ交響曲として聴くわけには断じてゆかぬ。これは、紛れもなく精神の闘争そのもので、単に戦争の描写を超えた、純粋音楽的でありつつ、超戦争交響曲だと思う。戦争交響曲を戦争と切り離して聴く事に、何の価値があるというのだろうか。何の意味があるというのだろうか。しかもそれが、人類が永劫に記憶してゆかなければならない大戦争のものだとしたら。ナポレオンが敗退したとか、ウェリントンで負けたとか、レベルがちがう。なんのレベルかというと、それはもちろん死んだ人間の数

 独ソ戦で、ソ連軍が攻勢に転じたあたりの1943年に作曲された。しかし、内容に当局が不満を呈したという。つまり、当局の期待するところは、華々しい、7番をも凌ぐ、大々反撃交響曲であった事は、頷ける。だが、戦争そのものの悲劇を伝えたいと願ったであろうショスタコーヴィチの芸術信念は、それを許さなかった。

 すなわち、この8番も「ほとんど標題音楽」に近い。しかし、ここにあるのは、戦争の内面を深く掘り下げた、魂の音楽である。従って、ほとんど標題音楽でありつつ、あまりに結晶的なまでに純粋な、純粋音楽でもあるだろう。

 私が、8番こそがショスタコーヴィチの交響曲の中でも最高峰と考える所以はそこにある。音楽とは、交響曲とは、音による形式の美であるという方向性の他に、音楽による文学、音楽によるドラマ、音楽による真実、音楽による人間の精神の発露、でもあるというかベトベン先生以降、あってしまう。

 戦争というのは恐ろしいもので、人が人を殺すのだが、殺しても罪にならない。ただし、負けると罪になる。何が恐ろしいって、私はそれが恐ろしい。戦争で死ぬのも理不尽だろうが、そんな理不尽な事が、この世の中に、他にあるというのだろうか? 勝てば官軍、負ければ賊軍。同じ1万人を殺しても、勝てば勲章、負ければ戦争犯罪人。

 この交響曲は、その理不尽を、後世の我々へ伝えているものの1つだと思う。

 第1楽章。5番の冒頭にも似た低音からの、地獄の底の底からの呼びかけに、答えるものは、もはや悲鳴、いや、呻き声のみ。ここからして、既に、ここにあるものはエンターテイメントでも、なんでもないことが証明される。魂のあまりに純真な叫びに、恐怖に、歴史はどうやって応えるのか。

 悲鳴の後は、哀しげで寂しげながら濃いアダージョが、切々と奏でられる。長大で、全曲のほぼ半分を占める1楽章は、本来ならばその構成的なバランスの悪さで、著しく精彩を欠くところだが、中身が異様に濃いのと、3・4・5楽章がアタッカで進められるため、大きな3部作の様になっており、バランスを崩していないのが、8番の冴えているところだ。ここにも、6番で得た経験が活かされている様に感じる。1楽章自体も大きな3部作で、アダージョ−アレグロ−アダージョとなっている。アレグロは短く、ほとんどアダージョ楽章と云える。冒頭から緩徐楽章が続くのも、6番からの直接的な構成であって興味深い。

 前半のアダージョ部は、もう無調とまではゆかずとも、音楽というより心の苦悩の様子そのものに聴こえる。ここにある感情は苦しさ、ただそれのみなのか。あるいは、死という救いを求める、戦場の兵士たちか。

 人々の叫びが寄り集まり、やがて群衆の絶叫となる。凄まじい不協和音。ショスタコーヴィチの前衛精神が、活きる。管楽器の高音が異常なまでに強調される。正直、オケ(奏者)によっては出ていない。この脳天をかき回す様な高音波は、なんなのだろうか。

 その頂点から一気にアレグロとなる。ここでのホルンの絶叫は、狂った様にやってほしい。だって狂ってるから。いや、狂っているのは戦争か。そこから導かれる不気味な大行進は3楽章への布石。ドーン! と音楽が一転し、5楽章でも再現される、恐怖のテーマ(と、勝手に私が呼ぶもの)が登場する。この恐怖は、どこから敵が襲ってくるのか、いつ襲ってくるのか、暗闇の中でのとんでもない不安、そういったもののテーマに聴こえる。

 そして、再びアダージョとなる。ファゴットの霧中の歌声。これはもちろん、4楽章への布石。なにこの異様なほどの侘しさは。無常観。ここにあるのはそう、無常観である。戦争の空しさ。それを皮肉で7番は表したといえるが、8番は真摯に、無常観という直接的な、もっと深い表現で表した。

 2楽章では、激しいアレグレットで、スケルツォの代わりもする。行進曲調で、舞曲風。これは、戦争から離れた一種の純粋な音楽的表現に思える。分からないけど。ただし、独特の暗さは残っている。だいたい、この曲は全体的に暗い。ショスタコーヴィチ自体が暗いが、中には開放的な音楽もある。この8番には、あまりない。ピッコロとファゴット、クラリネットのソロ群だって、おどけている様にして、音階の跳躍が彼にしては少なく、まじめに聴こえるのが不思議だ。

 最後のほうになって、ようやく打楽器が発動すると、速度も上がって、必死に走り込む様な妙な緊張感と焦燥感が生まれてくる。これがあって、ショスタコーヴィチのアレグロは、真にショスタコーヴィチのアレグロとなる。だが、この2楽章の面白いところは、そのまま、音楽が解体され、これもショスタコ流なのだが、断片となって虚空に消えてしまう。なぜなら、3楽章に続くから。

 ショスタコアレグロの真価は、当曲においてはこの3楽章だ。ギコギコした弦楽の序奏により、管楽器が高音、いや超音波を発する。低弦は唸り、何事が起きたのだろうか。何事が起きているのだろうか。そうだ、ここは戦場だ。ここは戦場だった。いまから突撃する。赤軍は突撃し、ゲールマンスキィどもをルーシの大地からおい落とすのだ!!

 その割に、ぜんぜん景気が良くない。戦場にあるのは、ただ、暴風と鉄火と阿鼻叫喚のみなのを、ショスタコーヴィチは知っている。

 しかし、突如として突撃ラッパが鳴る。ここにきてショスタコ節は全開で、古風なファンファーレにスネアドラムが景気をつける。トランペットはハチャトゥリアーン並に重奏で奏でられるが、やがて調が変わって、どこかへ行ってしまう。冒頭へ戻り、またもや戦場を走る。そうだ、ここは戦場だった。しかも戦車と人間がいっしょになって走る地獄の戦場だった。ナチスを追え!! 前へ行け! 地雷など恐れるな! 立ち止まるやつはこの機関銃で渇だ!

 ティンパニが登場して、戦場の興奮は絶頂に徹する。そして……恐怖のテーマ再来。

 敵は後ろにいた!

 戦場は霧に覆われる。平原は霧に覆われて、死体も鉄も勝利も敗北も見えなくなる。鎮魂の音楽の割に、背後で流れる弦楽は不気味。それへ乗って奏でられる旋律も、妖怪村か何かのよう。魂が鬼火となって、霧の中に夢幻の明りを灯す。このパッサカリア、このラルゴは、冒頭での恐怖のテーマの変奏形式だという。切々としなしみをも通り越した無常観が語られる。この音楽は深く、もしかしたら1楽章を抑えて、8番中で白眉に挙げる人もいるかもしれない。短いラルゴだが、緩徐楽章というにはあまりに無常観が漂っている名曲だと思います。

 それが、パーッと光が差して霧が晴れると、5楽章である。戦争が終わったかの様な解放感。解放と喜びのテーマが、順に呈示される。相変わらず、管楽器の変なソロが長々と続き、なんだか何を云いたいのか分からなくなる。なんと、勝利の音楽はいつのまにか錯綜してる。
 
 それが、いったん、再び勝利のテーマで盛り上がるのが面白い。が、それもまた、すぐに不協和音で打ち消される。この自由な形式の最終楽章は、どうも終楽章の性格を有していない。そう、7番や5番の集結部のちゃんとした普通の終楽章とは、明らかに異質である。この異質さはなんなのだろう?

 そうこうしているうちに、恐怖のテーマ登場!!

 ああ……戦争は終わっても、戦いはまだ終わっていなかった……。

 それへ気づいた時の絶望感たるや。

 我々には、もう想像すらできぬ。

 涙が流れる。晴々と空は青い。

 人々は喜びを強制される。

 もう、消えるしかない。

 音楽も消える。溶けるように。消える。


第9交響曲(1945)

 この「第九」はいい。

 まじめな渋さという点では6番に劣るのだろうが、そのひょうげた何とも云えぬ味わいは絶品。純粋音楽にして、音楽のための強烈なユーモアであり、ひょうげ殺法で聴くものを惑わす。しかしその実態は、1945年の大祖国防衛戦争戦勝記念を期待して書かれた「第九」なのだ。

 これはショスタコーヴィチの「戦争3部作」の最後を飾る偉大な音楽であり、戦勝を記念する壮大な音楽であり、作曲家の運命の交響曲ナンバー「第九」であり、それらを全て空中に放り投げてワビの境地で笑い飛ばす極渋の交響曲だと思っている。1番から流れるショスタコーヴィチの軽妙、洒脱。6番で得た純粋な交響楽での表現の楽しみ。

 だが、マーラーの4番ではないが、このひょうげた味わいの奥に、おそるべき毒と切れ味を隠している。それを思い切り出してしまった演奏は、私はスヴェトラーノフとテンシュテットしか知らない。(両方とも非正規盤だが、特にスヴェトラーノフは、まさかこの曲で鼻血ブー! の脳天直撃体験ができるとは思わなかったですよ。)

 5楽章制だが、3・4・5楽章がアタッカで進められる(8番と同じ)ため、大きな3楽章とも云える。全体では、20分〜25分くらいの音楽で、たいへん軽いものだが、中身の充実度はむしろ濃い。

 序奏無しで、いきなりテーマが登場するが、それが小気味良い。時間の関係もあるというか、その逆とも云えるか、音楽がどんどん進行する。トロンボーンのバブー! でずっこけた人々もいただろう。まるでコミックオペラの序曲のようである。ピコピコチンチンという、トライアングルとピッコロの第2テーマが、聴くものを戸惑わせる。しかも簡潔な古典的ソナタ形式で、そっくりそのままリピートされる。この楽章は本当に良くできており、展開部の緊張感は、この古典派を模した音楽が、ただ者ではないことを匂わせる。再現部でもおどけた調子と緊張感の狭間がたいへん心地よい。怒濤の展開は、このような軽い曲調だろうと、7番のような重い曲調だろうと変わらない。一気に集結部へむかう。見事という他はない。

 2楽章は、一転してモデラートの緩徐楽章。暗い。とても陰気な音楽。勝利の交響曲にこれは無い(笑) 低弦のピチカートへ陰鬱なクラリネットが絡むあたりは、ショスタコ的不気味さ満点。乾いていて、どこかおどけており、涙も枯れはてたような味わいは、他の作曲家からは聴こえてこない。弦楽と木管のカラミが美しい。とてもソロの扱いが繊細で、室内楽的な結果を生み、1番の技法に通じている。弦楽のアダージョに移ってから、ピッコロがそれを引き取り、眠るように幕を閉じる。

 3楽章からは一気にアタッカで進み、プレスト−ラルゴ−アレグレット。4楽章はスコアでいうとたった2ページということで、5楽章の序奏的な意味を持つ。快活なプレスト楽章は、一時の楽しげな気分を想起させるが、金管が入ってくると、やおら緊張感が増す。ティンパニの連打から、金管の下降。弦楽のざわめきに乗ってトランペットの舞曲風旋律。スネアとタンバリンも参戦。まさにここにあるのは、戦争でわないか! そう、闘争のプレスト。

 速度が落ちると、トロンボーンとチューバの導入で、悲しみのラルゴが始まる。突き刺すような和音から、長いファゴットのソロ。またも重低音。シンバルによる刺突の衝撃。それから、またソロが続き、やおら、深刻な調子から一転しておどけたものに変化する。5楽章の開始。そのテーマが弦楽に移って、次第に速度と昂奮が増してゆく。

 トライアングルから、またテーマが再現される。どんどん転調して、気分を換える。主題的にはあまり発展せず、ボレロのように同じような音楽が、何回も続く。さらにテンポが上がり、ほとんど狂騒的にまでなると、音圧も高まる。そして最後には熱狂的な乱痴気騒ぎとなる。まるで戦勝気分のお偉いさんがたを揶揄しているかのように。

 お祭りは続き、まるでクスリでもキメているかのようなハイテンション。

 コーダではさらにテンポが上がる。こうなりゃもうどうにでもなれ、という感じだ。しかしそれは、予測に反して、異様なほど呆気なく、投げ出すように終わってしまう。

 この9番は、けして手抜き音楽ではない。内容的には、7番にも8番にも匹敵する、まさに戦争交響曲と云える。ただし、その表現方法が、恐るべき手腕でギリギリまで凝縮されているだけである。それは褒められはしても、けして、貶められるものではないと信ずる。


第10交響曲(1953)

 ショスタコーヴィチ大先生は、9番の発表でまたまたシベリア送りの危機を迎えるわけだが、それをわざとやってるあたりがカッコいい。さすがに、「森の歌」なんぞを作って当局を(真剣に)ケムに巻き、スターリン賞なんかもらっちゃって大逆転の本領安堵。

 しかし、やる気はなくなったようで、その後9年もシンフォニーを書かなかった。もしくは、書けなかった。あのブラックユーモアと毒と隠し刀のような鋭さをもった交響曲のあと、どんな方式にすれば良いのか、聴くほうも期待と不安で待ち望んでいたようだったが、奇しくも史上最大の独裁者スターリンの死後、構想・発表されたのもあって、中身が異様に深読みされて賛否両論であったという。

 1953年、出来上がったのは、7番以降の4楽章制の、純粋音楽。しかも、作曲にかけた時間はたったの数ヶ月。これは、良くも悪くも基地外の仕事といえる。そして、人によっては、これをショスタコーヴィチの最高傑作としている。
 
 さいしょに云うが、私は、10番の批判派である。この音楽はとても気持ち悪い。

 もちろん、ショスタコーヴィチらしい面白さにあふれている。が、最高傑作だとは、とうてい思えぬ。まずこのバランスの悪さ。他のナンバーに比べて妙に凡庸な1楽章、あまりに短い2楽章、変な3楽章、さらには何をやりたいのかサッパリわからない4楽章、とある動機に固執したために発生する歪み、など、全体として構成力に欠けている。聴き終わった後、首をかしげる。その空疎さが7番に似ているかもしれないが、聴いたぞ! という満足感(あるいは疲れ)すらない。これならむしろ、4楽章制にする必要はなかったのではないか。思えばショスタコーヴィチは1番の佳作をのぞき、ずっと純音楽で4楽章制を書けないでいる。まあ無理に書く必要もなかったのだろうが、5番、そして7番も「ほとんど標題音楽」であるし、11番、12番などは「本当に標題音楽」だ。けっきょく、15番でそれが成功したように思えると、もうシンフォニーを打ち止めにした。

 さらには、スターリンとの関係。そして、作曲者がこの曲にこめたと云われる暗号の数々

 そう……この曲は、謎解き大好きな、深読み派にとてもウケているような気もする。特にシャーロキアンな吉松隆は、この10番への愛を隠さない(笑) それは私の吉松隆への敬愛の中で、まったく共感できない部分である。

 まあそれはそれとして、確かに、10番に秘められているショスタコーヴィチ自身を表しているという DEsCH (Esはミ♭のことでドイツ語では エス と読む。従って、DSCH=ロシア語でショスタコのイニシャルである Д・Ш デー・シャー のドイツ語表記 DとSCH =つまりドミートリィ・ショスタコーヴィチのこと。)の動機と、マーラーの大地の歌にも通じているという EAEDA の裏動機。それは鑑賞の対象となるだろう。純粋音楽ではあるが、これは(これも)「ほとんど標題音楽」 なのではないか。何の標題かは、まあいろいろあるだろうが。

  ※EAEDA の3楽章ホルンによる裏動機。吉松はそれをさらに、エリミーラ(=EAEDA の 真ん中3つをイタリア語表記とすると、E La Mi Re A となる……かららしい)という彼の音楽院の生徒の女性や、10番全体をリストのファウスト交響曲と関連づけている。(吉松隆HP:月刊クラシック音楽探偵事務所「ショスタコーヴィチ/交響曲第10番に仕掛けられた暗号」 2006/04/10 より) この裏動機は、実音で12回もそのまんま登場する。

 1楽章は、今交響曲では、長いうえにあまり盛り上がらない。指示テンポもモデラートで、淡々と進む印象がある。

 冒頭から、陰鬱たる暗黒。これは、これまでの暗黒とは趣を異にする。陰々滅々たる雰囲気が、内に内に向いている。とても内向的な陰鬱さであり、ただでさえ暗いショスタコの、さらなる暗黒をかいま見る想いだ。

 しかもそれが、1楽章をほとんど丸々支配する。こんなことは、初めてではないのか。だいたい、途中にガマンしきれなくなったような豪快なアレグロが挟まるのだが。

 そろそろと現れる、クラリネットによる主題の、なんという悲しげで、寂しげなことだろう。ヴァイオリンがそれを受け取り、ガンと盛り上がって、さ、いよいよ走り出すかと思いきや、またずるずると沈んでゆく。まるで、アレグロしかかけないのにアレグロをかけないでいる苦悩のよう。やがて不思議なワルツのようなリズム動機が登場する。3楽章への布石か。中間部ではじわじわと水が迫ってくるような緊張感が現れる。ここは良い。

 それからまた、静かになる。冒頭が回帰し、再現部。これはソナタ形式であった。

 しかし、1楽章は20分(以上)をかけるが、これほどの規模の1楽章で、ずっと同じ調子というのは、本当に珍しいと思う。美しいのだが、暗いだけで、長く、とりたてて燃えるものはない。ドキドキはするかもしれないが、ショスタコーヴィチで、燃えぬ(緩徐楽章ではない)1楽章。ううむ……なかなか意味深ではないか。意味深だが……10番の中では、いちばんつまらない楽章だろう。

 2楽章は、たいへん惜しい音楽だ。このショスタコ最高のスケルツォのような音楽は、しかし、構成の点で、間奏曲と化している。あるいは3楽章の前奏か。これで短いトリオを入れて、短く再現して、せめて6〜7分もあれば問題なかったのだと思うが、これでは、未完成のスケッチ作品のようだ。作曲者も、全体の構成上、もう少し長くても良かったかな、と云っているというから、やはりこれは短いと感じて正解なのだろう。

 いや、もちろん間奏曲でもかまわない。しかしそれでは、せめて3・4楽章をひとつにして、3楽章制にしてしまえば、4番に通じる作品として通用しただろうが、逆にそれは、通用しては進歩が無かったのだろう。というか、これが2楽章だったら1楽章は長すぎると思う。

 強烈な2音から、クラリネットの印象的なシンコペ旋律。機関銃スネア。これは燃えるw 
 
 やがて金管がそれを受け取り、ビリビリと脳天をかき回す。すぐに第2主題となり、弦楽が絃から煙が出るような音楽をし、ピッコロは狂っている。やがて頂点が形成され、そしてトランペットが地獄のラッパみたいなテーマを吹き鳴らす。合いの手のティンパニも燃える。

 やがて短く冒頭が再現され……スパッと終わってしまう。

 この中途半端さはある種の効果を生んではいるが、その効果は結果論としての効果であって、狙ったものではないように感じる。そしてその中途半端さは、結局4楽章もそうで、10番全体の印象を、中途半端な、モヤモヤとした不安定なものにしている。

 3楽章は、10番の白眉だと思う。2楽章よりもむしろ、こっちのほうが狂っている。

 特徴のある、不安定な絃による旋律がしばし続く。

 それから、突然、ピョピョピョー! と、ふざけたようなワルツ。ご丁寧にトライアングルまで鳴っとる。4番に通じるような諧謔性だが、より不気味かもしれない。弦による旋律と、ワルツがもう1回、繰り返される。ワルツは、弦とファゴットのソロによる短い変形。

 と、いきなりホルンが EAEDA の、10番の裏テーマともいえる音形を吹く。なんの脈絡もない。いきなりだ。

 この「エリミーラ」の主題(仮)は、ホルンでのみ呈示され、しかもほとんど変形しない。音量はフォルテとピアノで、反復1回をワンセットとして、合計で、12回登場する。パターン的には、以下の通り。音量を大、小で表す。7回、5回のセットである。

 木管によるDSCH主題の断片 - ワルツ − 大・小 − 小・大 − 小・小(1音多い変形) − 小 − ワルツ − DSCH主題登場 − 特大・大(DSCH主題とのカラミ) − 小・小 − 極小

 裏テーマの間には、いろいろな印象が挟まるが、それも意味深である。

 特に、ショスタコ主題が登場してからは、まるでエリミーラを執拗につけ回していたショスタコがやおらその眼前へ立ちはだかった趣で、ストーカーがついにその姿を表し、相手をどやしつけている感じだ。これはコワイ、コワイヨwww やがて事が終わったのか、ショスタコはいずこかへと去り、エリミーラも、息も絶え絶えに、暗闇に隠れてゆく。

 4楽章がヤバイ。4楽章がというか、4楽章も、だが(笑) これはヤヴァイぞ。

 ショスタコ主題の変形による暗黒の導入部。木管はエリミーラ主題を模す。アダージョが半分ほどで、そこから怒濤のアレグロとなる。アレグロは一転して明るい。なんだ、どういう心境の変化だ?(笑)

 アレグロは順調に進むが、進行としては、あまり面白くないもの。地味なアレグロと云えるかもしれない。だが、音楽はじわじわと、例の自分主題に向かってゆく。やがて、オレオレ主題がドラやシンバルを伴って(爆)あからさまに現れるわけだが……。

 そもそも、このオレオレ主題が、えらい半音進行で、ちょー気持ち悪いwww レミ♭ドシ てwww

 それが ♪ショースーターコー ショースーターコー ショスタコ ショスタコ バカかwww
 
 後半はさらに、オレオレオレオレオーレーオーレー

 どうしたの、ショスタコ先生!!

 ナニがあったの!!

 アレグロ主題が再現され、そこからコーダへゆくのだが、もう、ホルンの倍テンポ・オレオレオレオレは基地外だ。全ての金管がオレオレ主題を吹き鳴らす。そこから一気にティンパニの連打を伴ってハイテンションに盛り上がって、上昇して……もうしわけていどの終結和音で、ジャン!

 うーむ……。何と云ったらよいのか。何をしたいのかサッパリ分からん。絶対におかしい。いろいろな意味でオカシイ。

 このように、10番はショスタコの中でも、ダントツに狂っていると感じる。あるいはゆがんでいる。14番を超えている。つまりとても個人的な、プライヴェートな狂気がここには内在している。15曲中最狂。超問題作。

 そういう意味では、最高傑作……なのか……どうか……。

 嫌いではないんですけどね(笑)


第11交響曲「1905年」(1957)

 7番を純粋にエンタメ交響曲として聴ける人は、もちろんこの11番もエンタメ交響曲として聴けるはずである。7番が良くて、11番が通俗的かつ凡庸でダメとかいう人は、云うことが矛盾している。

 むしろ、こちらのほうがいよいよ清々しい。ズバリ「1905年」ですよ(笑) その歴史的事件を、音楽で描写している。これほど分かり易いものはない。しかも、交響詩でもカンタータでもオペラでもなく、交響曲。たまらんわ。

 もっとも、書いた題材の歴史的同時代性が異なるので、単純には、7番と比較はできないが。

 これは1905年の第1次ロシア革命を記念的に音で描いた描写音楽で、これの日本初演の時点で既に、ショスタコーヴィチもヤキが回ったか的な、いまさら感があったという。1956/57年の作曲であり、同年初演、日本でもいち早く58年には紹介されていた。革命というより、血の日曜日事件を描いている。

 革命は、2番で既に取り上げたテーマであるが、ここで円熟に達したショスタコーヴィチは、若いときには表現しきれなかった、純粋な革命的気持ちで、交響曲に取り組んだのである。ここでも、ショスタコーヴィチは、何だかんだ云っても、共産革命そのものには、尊敬を隠していない。

 さて、血の日曜日事件そのものの概要は、ググればいくらでも資料が出てくるのでそれを参照して頂き、私が奇妙に思っている事をここで軽く考察したい。

 血の日曜日事件は、労働者たちの皇帝への誓願デモへ近衛兵が発砲したことに端を発する。というかそれが全てなのだが、デモは自然発生的におきたものではない。では誰が率いたかというと、これがゲオールギィ・ガポーンという革命神父である。

 ガポーンはロシア正教の神父でありつつ、革命家であって、以前より労働者たちをとりまとめ、秘密社会サークルのようなものを造っていた。それはガポーン組合と云われ、最大規模で帝都サンクトペテルブルクじゅうに12の支部、8,000人の会員を有したという。そのガポーンが、皇帝嘆願のデモを煽動したのだが、それは、依然、頑迷な皇帝主義の民衆へ、皇帝への絶対的信頼を棄てさせる意味で、弾圧されるのを分かって、革命的精神でデモを起こしたと観るべきだろう。

 ところが、ここからが不思議なのだが、ガポーンは、ほぼ間ちがいなく、当局(内務省警察局)のスパイだった。秘密警察のスパイが、革命の重大な事件を指導した。どういうことであろうか。

 この時代、ガポーンに限らず、スパイ、二重スパイが横行し、非常に情勢が複雑で、理解に苦しむ。ガポーンは秘密警察の予算で革命活動をしていた。見返りは、革命派の情報であり、その意味で立派な二重スパイで、後に他派の革命家により暗殺されてしまう。

 近衛兵の無差別発砲、コサック騎兵のサーベルによる無差別掃討により、一般市民、労働者が、少なくとも数百人単位、多く見積もって3,000人も死んだという。

 それにより、皇帝の信頼は地に落ちた。ロシア正教の庇護者である皇帝は、頑迷な正教信者である民衆の「最後の希望」であった。ゆえに、この事件で、皇帝は民衆の心の中より完全に離れ、後の第2次革命へつながってゆく萌芽となった。

 では、改めてその音楽的過程を振り返ろう。なお、これら4つの楽章は全てアタッカで切れ目なく進められ、60分の長大な叙事詩となっている。

 第1楽章「宮殿前広場」

 この曲ではダイレクトに「革命歌」が引用されており、それが、純粋芸術としての価値を一段下げる誤解を生んでいる。別に革命歌が引用されていたからとて、芸術としての価値が下がるわけでもなんでもないのだが、なんかそう聴こえる人もいたようだ。

 1楽章は、アダージョで、この曲は死者を弔うためか、やたらとアダージョがある。アダージョの合間にアレグロがあると云っても良い。

 惨劇の前の陰鬱とした宮殿前広場である。陰々滅々たる、吸血鬼の結界のような、人民の血をむさぼる皇帝を吸血鬼へなぞらえたような、凄まじい霧中のプレッシャーの音楽から、11番はスタートする。劇画チックでもあり、8番のような衝撃は無いが、ちがう意味で衝撃的だ。

 と、ティンパニが不気味な音階を連打する中、後の惨劇を予告するような信号ラッパが鳴り渡る。霧の中より、悪夢の象徴であるティンパニの連打が、聴こえてくる。霧はより深くたちこめ、ティンパニの連打は、ひたすら遠くより雷鳴のように鳴り響く。

 それと対照的に、瑞々しく現れるのは、革命歌(囚人歌)「聴いてくれ!」で、フルートで奏される。とても勇気づけられる歌で、悪の象徴、ティンパニも隠れてしまうようだ。だが、広場のテーマが再度現れ、人々を苦しめる。これは、抑圧のテーマでもある。ティンパニはテンポを増す。「聴いてくれ!」が金管に受け継がれ、発展する。ティンパニよりスネアに移ったリズム動機は、悪夢のテーマが前面に出てきたことを意味する。

 次に、同じく革命歌(囚人歌)「夜は暗い」が、弦楽で清らかに歌われる。ここでの芸術的表現は、たいへんに素晴らしい。これは7番に匹敵する、いやそれどころか、純粋に7番を凌駕する「エンタメ」交響曲である。

 ティンパニがさらに低音を伴って憎々しげに革命歌をつぶしてゆく。

 音楽は、また陰鬱とした雰囲気に回帰してゆき、2楽章へと続く。

 第2楽章「1月9日」

 長いアレグロ。ついに人々は宮殿前白場に到達する。既に近衛兵が整列している。ちなみに、皇帝は夏宮という別荘宮におり、この事件のとき、午後3時ころ、優雅にお茶を飲んでいた。人々は現れるはずも無い皇帝へ向かって、命をかけて誓願する。

 2時間がたち、号令ラッパが3度鳴り渡り、その群衆へ、ついに銃火が向けられる!!

 音楽はまず、速いテンポで民衆の「おお、皇帝われらが父」を奏で、人々の哀れな願いを表す。しかし緊張感はいや増すばかりだ。あまつさえ、1楽章の信号ラッパが鳴る! 激しく行進曲調となる。金管によって「帽子をぬごう」のテーマが登場する。
 
 そこから、いったん静かになり、まだ「おお、皇帝われらが父」が弱々しく鳴る。まだ民衆は、弱き民衆は皇帝への希望を棄ててはいない。対位法的に「帽子をぬごう」も登場する。金管が入り、打楽器も盛り上がり、緊張感を増す。これは怒りの表現でもある。

 と、パッと音楽がかき消える。宮殿前のテーマが陰鬱に登場し、人々は静まり返る。ティンパニが鳴る。ラッパが鳴る。

 突如、スネアが1楽章のティンパニのリズムで鳴り響く。突撃だ。近衛兵たちが無抵抗の市民たちへ、女性へも子どもへも、老人へも、無差別に銃を撃ち、コサック騎兵はシャーシュカ(コサックのサーベル刀)を振り下ろす。阿鼻叫喚。人々は逃げまどい、帝都はパニックとなる。
 
 ここをショスタコーヴィチは鬼のようなフガートで表現する。金管が叫び声を挙げ、打楽器は容赦なく人々を撃ち殺してゆく。冬の凍てついた地面へ血が凍りつく。

 ふと気がつく、そこに人はおらず、静寂の中、死体が折り重なっているだけ。しかし最後まで悪のテーマ・ティンパニ鳴るか。

 第3楽章「永遠の記憶」

 またアダージョだが、ここはもっと祈りの感情の強い、レクィレム。ここでは革命歌「君は英雄的に倒れた」が主テーマとして使われている。冒頭より、ヴィオラによって弱々しくその歌がダイレクトに登場する。それを支えるのは、低弦のピチカートのみ。1回、まるごと現れた後は、弦楽合奏でもう一度歌われ、自由に展開されてゆく。

 それから、金管が和音を奏した後、弦楽で「こんにちは、自由を」が登場する。ここでの感動的な盛り上がりは、最高である。なぜか打楽器が惨劇を回想するのだが(笑) 「帽子をぬごう」も再現される。

 そのまま、ティンパニとトランペットが警告音を発し続け、ゆっくりと「君は英雄的に倒れた」の展開された主題に回帰してゆく。

 そして、4楽章へと到る。

 第4楽章「警鐘」

 ここは「圧政者らよ、激怒せよ」のテーマから激しく始まり、「帽子をぬごう」のテーマがまだ使われる。このテーマは全体を貫く循環テーマのように扱われている。それらのテーマが自由に扱われて、打楽器も加えて、盛り上がる。
 
 それから弦楽で「ワルシャワ労働歌」がリズミックに歌われる。これも展開はショスタコによって自由に取り扱われている。そして冒頭のテーマが重々しく鳴り響き、様々なテーマが錯綜する。1楽章のテーマも出てきて、けっこうめちゃくちゃ。絶叫で「恥辱、汚辱、圧政者らに死を!」 でドラ。

 音楽は1楽章の冒頭に戻り、またも宮殿前広場のテーマが切々と鳴り出す。

 と、まだ闘いは終わっていない。このコーダは、闘争の始まりのための音楽の終わりである。ゴーン、ゴーン、と、警鐘が鳴り響く。ホルンが「帽子をぬごう」を雄々しく吹き鳴らす。木管は狂ったように叫びまくり、革命へのたゆまぬ歩きを、闘志を、人々へ楔として打ちこむ。ここに終止形は無い。革命、今だ成らず。

 内容は濃いのだが、音楽的には、とても単純で分かり易いのが特徴で、そのためか、複雑を極めるこれまでの作品に比べて、一本調子に聴こえることは否めない。しかし、そのために劣るような扱いをされているかもしれないが、そんなことはぜんぜん無い。大衆に革命を分かり易く呈示するという名目にも合致している。これは、傑作だ。

 個人的にはちょっと長い。


第12交響曲「1917年」(1961)

 前作で1905年を描き、次に1917年が来るのは、これは自然な革命的欲求というべきものだろう。特にショスタコーヴィチは、うんと前より(1939年、6番作曲のあたり)2番のような漠然としたものではなく、もっと具体的に革命とレーニンについてを賛美した交響曲を書きたかったらしいのだが、戦争とか、いろいろあって、結局書いたのは20年後の1961年で、第22回共産党大会を記念して、であった。

 11番は血の日曜日を題材にした暗いものだが、12番は逆にレーニンの偉業をからめたレーニン交響曲とも云えるもので、基本的に勇壮で明るい。また、11番は60分の具体的描写の多い大曲だが、12番はもっと抽象的なイメージに基づき、規模が小さく40分ほど。もっとも、両方ともアタッカで進み、単一楽章の大きな音楽のようになっているという特徴がある。12番はさらにテーマが繰り返し使用され、全体を統一している。

 上の2番のところでも書いたが、 ロシア革命は1905年の第1次革命と、1917年の第2次革命とあり、さらに1917年には帝政を打倒した2月の革命と、臨時政府を打倒した10月の革命があった。(この2月と10月はロシア歴で、西暦では3月と11月。)

 ショスタコの作品には、他に交響詩「十月革命」なんてのもあります。

 1917年、既に1905年の血の日曜日事件と、それへ続く第1次世界大戦で、皇帝より人心は離れていた。そこへ、1916年の大寒波による食料不足をきっかけに、首都で大規模なデモが発生。第一次大戦のため前線へ出ていた皇帝はその鎮圧を命令。しかし、軍隊が各所で反乱を起こし、逆にデモへ参加するという事態となった。それへ恐れをなした政府首脳がついに皇帝へ退位を勧告。皇帝はそれをのみ、300年続いたロマノフ王朝は、終わりを告げた。(2月革命)

 その後、国会(ドゥーマ)を中心に臨時政府が立ち上がったが、それぞれの社会主義者たちは革命を目指して、活動を開始。臨時政府は対ドイツ戦の継続を訴えたが、亡命先より帰還したレーニンが戦争の停止を訴える。いよいよ、10月10日にはレーニンが武装蜂起。25日には巡洋艦アヴローラが臨時政府の本拠地だった冬宮に砲撃(空砲)を開始。それを合図に本格的に革命が開始され、早くも26日には冬宮を占拠し、27日、新しい政府としてレーニンを議長とする「人民委員会議」を設立した。(10月革命)

 また、翌1918年には、レーニンの命令で皇帝一家は全員、無条件で銃殺される。

 12番は、10月革命について詳しく描写する。11番に比べすっきりとして、実に分かり易い。また基本的に明るい(軽い)ため、聴き易い。そのため、個人的には12番のほうが好きなのだが、11番のほうが深みはあると云える。また、11番で示されなかった真のフィナーレは、12番のフィナーレで、示される。

 第1楽章「革命のペトログラード」

 ペトログラードとはサンクトペテルブルクからの改称で、後にレニングラードとなる。

 ユニゾンで悠然と、低音が序奏を鳴らす。革命を決意を表すようだ。最後のファンファーレ動機が終了すると、ドラが鳴り、アレグロへ突入する。ファゴットからへクラリネット、そしてオーケストラ全体へそれは広がり、頂点ではシンバルが激しく鳴って、金管が勇壮に鳴り渡る。ショスタコーヴィチのアレグロの中でも、これこそが最上の部類に入るものだろう。

 それが静かになると、次の主題がまた弦楽で静かに響き渡るが、これは「レーニンのテーマ」とも云える、賛歌ふうな、英雄的なものだという。確かに、徐々に低音から高音へ移って行き、最後は堂々とした光り輝くファンファーレを形作る。

 それがまた突如して、緊張感あるアレグロに引き戻される。展開部。テーマがさまざまに変形されて登場する。打楽器の活躍も目覚しい。革命歌「同志よ、勇敢に歩調をすろえよう!」のモティーフも登場し、音楽はどんどん盛り上がる。その頂点で、崩れ落ちるように静まるのもショスタコらしい。

 レーニンのテーマが静かに演奏され、それを受けてコーダになると、第1テーマ(ラスト)が吹奏される。緊張感の残るまま、1楽章は終わるが、すでにフィナーレを暗示しているという。

 第2楽章「ラズリーフ」

 ラズリーフとは、スイスよりフィンランド経由でペテルブルクへ入ったレーニンが、「4月テーゼ」発表の後、一時的に身をひそめた、ペテルブルク郊外の湖の名前。緩徐楽章。アダージョ。

 アタッカで進められる。低弦が静かに、革命を沈思するレーニンをあらわす。副主題が1楽章のレーニンのテーマから取られていることは明白。分かり易いフルートのテーマが、この12番を特徴づけている。それは弦楽に引き継がれ、別のテーマが木管に現れるがは、それは3楽章のアヴローラのテーマを暗示している。レーニンのテーマが幾度と無く登場し、この12番が大きな交響詩的なもの、あるいは循環形式のようなものを容易に知らしめる。

 またも歌うような旋律がフルートに登場し、ファゴットが受け継ぐ。クラリネットの独白も出てきて、ショスタコ得意の木管順番ソロ。最後はおののきの絃をバックにトロンボーンが(やや演歌調で)歌い上げる。

 そのまま続く。

 第3楽章「アヴローラ」

 アヴローラとは、オーロラのことであり、これは巡洋艦「オーロラ」を意味する。オーロラはかの日露戦争の日本海海戦で生き残った数少ないロシア側の軍艦で、いまでもサンクトペテルブルクで記念艦としてネヴァ川に浮かんでいる。まあ、横須賀の三笠といっしょであろう。

 短いスケルツォだが、内容は深い。ピチカートにすでに打楽器が闘争を準備する。ピチカートは次第に主テーマを形作ってゆく。ティンパニの旋律は、砲撃のテーマを暗示している。(というか、そのままだが。)
 
 巡洋艦が静かに出撃した。川面を割って、冬宮へ向かう。気取られてはならない。やがて、金管がレーニンテーマを鳴らし始める。アヴローラがついに、燦然とわれわれの前へ堂々と姿を現す。

 革命だ!!

 誰かが叫ぶ。砲撃が開始された!! 兵士たちが突撃する。

 冬宮を占拠せよ!!

 なだれ込む革命戦士たち。たちまちのうちに、臨時政府は打倒される。ちなみにじっさいに撃たれたのは空砲で、革命の合図として使われた。

 第4楽章「人類の夜明け」

 しかし、ここで云うにことかいて、「人類の夜明け」とキタw

 これが、12番の性格をもっとも端的に表している。つまり、ここでは、純粋に革命讃歌が描かれており、その点で「警鐘」で終わる11番とは一線を画す。

 輝かしく、ホルンの吹く自信に溢れた勝利のテーマ。木管と絃に引き継がれた後、トランペットがファンファーレとして登場する。

 それから勝利のアレグロとなる。レーニンテーマがまだ(そのまま)登場する。まさに循環形式だ。

 中間部的な様子を経て、再びアレグロとなって、これまでのテーマが入れ替わり立ち代りで、さすがにショスタコーヴィチの手腕と唸る。扱っているテーマこそ分かり易いものなので、なんとも聴き逃しがちだが、これは4番にも通じる、主題のめちゃくちゃごったまぜ基地外展開である。すばらしい。

 それがフォルテシシモで最高の頂点を迎えると、いよいよこのレーニン賛歌交響曲も終わりに近づく。ティンパニの連打より、コーダで、主テーマ最終部のファンファーレ主題がいよいよ真のファンファーレとなって、祝砲あり、賛歌ありの大団円となる。ここで革命は成り、11番のラストで鳴らされた警鐘は、ここに真の完結を見る。

 ちなみに、レーニンが政権を奪取した1917年よりソヴィエト連邦共和国誕生の1922年まで、ロシアは5年間の激しい内戦に突入する。社会主義者といっても一枚岩ではなく、様々な派閥が権力闘争、そして戦闘を繰り返して淘汰された。特に1924年にレーニンが死去した後、その跡を継いだスターリンは、共にソヴィエトを作り上げた仲間でさえ、反対派を徹底的に粛清し、恐るべき空前絶後規模の超独裁を確立した。


第13交響曲(1962)

 11、12番で革命的精神を歌ったショスタコーヴィチが、次に突如として、ソ連と革命の暗部を描いたので、またまた大問題となった。この、カンタータ形式の交響曲は、使用された歌詞の問題で、フルシチョーフによって歌詞の一部を変更されたという。12番完成の直後、1961/62にかけて作曲された。

 このとき、ショスタコーヴィチはいつもの通り、ムラヴィーンスキィへ初演を打診したが、ムラヴィーンスキィは妻の病気を理由に音楽に集中できないと、それを断った。(NHK衛星放送のムラヴィンスキーのドキュメントによる) 極度の 「ムラヴィーンスキィに初演を断られたらどうしよう症」 だったショスタコーヴィチは、激しく動揺し、怒って、その後数年間、2人の交流は途絶えた。ように見えたという。

 なにより、その歌詞を恐れた歌手たちが、次々に初演を断ったというから只事ではない。

 若き詩人、当時28歳のエフトゥシェンコの書いた詩に、55歳のショスタコが、まず「バービィ・ヤール」を純粋なカンタータに仕上げ、それから、それを第1楽章として、交響曲として構想した。初演はちなみにコンドラーシン。

 しかし、ショスタコの交響曲で初めて、「独唱」が登場したのは、興味深い。合唱は2番、3番で使われているが……それにしても、ここでの合唱は男声のみで、しかも独唱と同じバスの合唱ということで、まるで不気味社である。そう、この交響曲は元祖不気味社なのだ!! しかも、実に分かり易い。ほとんどユニゾン。バスが浪々と、「なんとか!♪」 と歌うと、合唱が「なんとか〜〜♪」 と相槌を打つという形式(2楽章と5楽章に顕著に現れる)は、ショスタコマニアの吉松隆に云うと、アジ演説のシュプレヒコールそのものとか。(吉松隆HP:月刊クラシック音楽探偵事務所「ショスタコーヴィチ考〈バビ・ヤールをめぐって〉2006/10/10 より) ここでは、それすら、パロディーとユーモアの対象なのであろう。

 ところで、13番というのは、やはりショスタコファンのあいだでは、評価の高いナンバーであるのだが、私は逆だ。1楽章は良いが、以降はまったく魅力を欠く。なんといっても、エフトゥシェンコの詩が陳腐でかなわない。もう、青くて臭くて、若さ全開で、チョーシこいててとんでもない。というか、少しは推敲しろよ、って感じで、なぐり書きそのままの印象。内容も、けっこうメチャクチャ。私は詩を読む習慣がないので、あまりえらそうなことは云えないのだが、それでも、そういう印象を強く感じる。そのような歌詞につけられる音楽も、正直、かなり無理をしているように聴こえる。

 ショスタコはその若さと青さの遙か向こうにある物を確実に観てとったようなのだが、私には何も見えない。私も当時のショスタコと同じ55歳になったら、少しは分かるのだろうか。エフトゥシェンコは一躍時の詩人となり、ブイブイ云いだしたが、ショスタコーヴィチは彼を生暖かい眼で見ていた。しかし、チョーシにのったついでに当局の云うことにへいこらしだしたので、ついに激怒し、それからの関係をいっさい、絶ったという。

 まあー、詩と云っても、ロシア語なんて分からない。原詩はやはり、ロシア語特有の掛詞もあり、そもそも日本語訳では解釈に無理があるようだし、そのまま音楽を聴いておれば良いのだが、この野太く熱い、豪快なバス軍団を聴いていて、あんな陳腐な詩を歌っているのかと思ったら、なかなか、素直には聴けぬわ。

 第1楽章「バービィ・ヤール」

 いきなり今交響曲の白眉が来る。これだけで交響詩、あるいはカンタータ「バービィ・ヤール」としたほうが、はるかに名曲だったろうな、などと、ひねくれた私は思ってしまう。それほど、この1楽章とこれ以降の落差が激しい。ずっとバスの声が続くので、音色的に飽きが来るのもあると思う。また、今交響曲の弦バスには5弦が指定され、低音が酷使されている。その低音主義のため、色彩というのはどうしても犠牲になる。

 バービィ・ヤールとはキエフ近郊の地名で、ウクライナへ侵入したナチスがそこへ強制収容所を設け、主にユダヤ人、そして後にはスラヴ人、または他の少数民族を虐殺してこのバービィ・ヤール渓谷の地に大量に埋めた。しかし、反ユダヤ主義はソ連でも幅をきかせ、反ナチスでソ連の正当を訴えるのに最高なはずのこのバービィ・ヤールは、完全にスルーされていた。エフトゥシェンコはそれを告発し、ショスタコーヴィチはその精神に共鳴した。その歌詞の変更を命じたフルシチョーフは、以前に、そのバービィ・ヤールの虐殺を記念する碑の設立を握りつぶした経緯がある。

 しかし歌詞は……(笑)

 散々ユダヤの蒙った惨劇を歌っておいて、自分は実はユダヤ人ではないとか、アンネ・フランクがどうとか、かなり支離滅裂であるので、もうあえて歌詞には触れないこととする。その精神のみを取り上げたい。

 陰鬱な死の鐘と激しい不協和音より告発は始まる。短い序奏の後、第1主題をもって合唱がまずバービィ・ヤールの詩を紡ぐ。

 続いて独唱がお経みたいにして延々とユダヤの悲劇を歌う。ねじ切られるような和音を放つ伴奏部も秀逸である。

 リズムが乗って、合唱により第2主題が登場する。しかし不気味なのに変わりはない。これはファシストの動機として、悲しげな第1主題と対を成す。ユダ公を殺すことがロシアを救うことだと、反ユダヤ主義者たちは叫ぶのである。激しい金管の饗宴がやむと、展開部。長い独唱が続く。

 ファシスト動機がやおら割って入ってくるくだりは、ぞくぞくする。チェレスタの清純な音はアンネ・フランクの清純の象徴か。

 音楽は激しい頂点を迎える。バービィ・ヤールへ眠る亡霊たちが眼を覚ましたのだ。合唱が静かに歌いだす。切々とファシストへの怒りが歌い上げられるが、そのファシスト動機は消えることは無い。けして、ファシストというのは、ナチスだけではないことを示している。

 地獄の釜が開きっぱなしで、激しいアダージョの1楽章は終わる。

 第2楽章「ユーモア」

 ここでいうユーモアとは、ロシア独特のアネクドート(小話)のことをさしているのではないかと思われる。日常のどうでもいい小話をロシア人は愛するという。主に政治風刺で、時には下ネタにも発展して、人々は酒を飲みながらひたすら小話を披露しあう。アネクドートのページより少し拾ってみよう。

 ばあさんが市場で、トマトを売っていた。店の前には大きな字で張り紙がしてあった。
 「チェルノブィリ産のトマトだよ!」
 客がやってきて尋ねた。
 「おばちゃん、こんな張り紙したら、誰も買わないんじゃないの?」
 「お若いの、人生修行が足らんね。皆、たくさん買っていくよ。ある者は義理の父用に、ある人は姑用にってね….」

 ……。日本語にしてしまうとあまり笑えないような気もするのだが(笑) とにかく、ロシア人特有のジョークというのは存在する。

 アレグレットの第2楽章は、このユーモアというのはどんなに当局が厳しく人々を監視し、弾圧しようと、けして無くならぬ物だと告発する。つまり、ドイツで言うところのティル・オイレンシュピーゲルのようなものだろう。

 これも鋭い不協和音の連打より、一気にアレグロのスケルツォとなる。意気揚々と歌い上げられるその皮肉。風刺。毒。

 独唱にあわせて基地外じみたクラリネットのキャラ吹きも聴き応えがある。ここでは1楽章とは対照的に、とにかく明るい。ように努めているが、辛辣さが先に出るため、気分は良くならない(笑)

 ここでは9番に非常に近い手法で、不気味な明るさというものがよく表現されている。この楽章も、良い音楽である。間奏部は特に素晴らしい。激しいマーチ調となって、ユーモア様は不滅の行進をし続けるのだ!

 私が13番で聴けるのはここまで。

 第3楽章「商店で」

 再びアダージョ。

 ここでは、ものが無い商店へくそ寒い中、主婦たちが延々と並ぶさまを風刺している。革命で彼女たちは救われたはずなのに。革命で皇帝専制は打倒され、平等と豊かな暮らしが約束されたはずなのに。変わらず奴隷だ。ロシア人というのは、とにかく抑圧とそれへ耐えることが大好きなのであると、よく皮肉られることである。
 
 陰鬱とした灰色の響き。寒風の中、女たちはひたすら並んでいる。商店のほうではつり銭をごまかし、量り売りの目方をごまかす。それは当局がそうさせているのであろう。それを風刺している。

 カツカツと骨のように鳴るカスタネットがとにかく乾いて不気味な響きを象徴する。これは14番でも採用されている。

 その乾いた響きが執拗に鳴る中、独唱と合唱がひしひしと女たちの耐え忍ぶ姿を歌う。激しい怒りが、耐える女たちの変わりに絶叫する。詩人はこっそり自分だけ買ったペリメニ(シベリア風餃子)をポケットに突っ込んで、そんな女たちを「きまり悪そうに」見つめる。

 アタッカで4楽章へ続く。
 
 第4楽章「恐怖」

 交響曲にする際、エフトゥシェンコが新作をいくつか書いて提供し、その中よりショスタコーヴィチはこの「恐怖」という詩を採用した。ラルゴ。

 ここは交響曲全体の展開部ということで、これまでのさまざまな主題が登場しては変形されている。つまり、4楽章こそ13番の白眉で中心とならねばならないはずなのだが、その恐怖という歌詞は、ロシア全土を覆う大いなる恐怖を全ロシア人的な視点で描いている崇高な雰囲気と思いきや、女房との会話が恐怖だったり、自分(エフトゥシェンコ)が無意識に手を抜いて詩を書くのが恐怖だとか(アホか)、視点がはっきりせずに、技術的に陳腐なのが残念だ。

 冒頭のような、暗黒の響きにドラとバスドラムが地獄の太鼓を表すと、チューバが獄卒のうめき声を発する。そろそろと合唱がロシア全土を覆う巨大な恐怖の存在を歌う。2節めの独唱では、そんなラルゴの中に管楽器のファンファーレ的な動機が入ってくるのが面白い。これはよく聴けば1楽章のファシスト動機であることが分かる。ついにはそれがすべてを押しつぶす。独唱は続く。

 合唱となると、ユーモアの動機が現れる。別にそこの歌詞はユーモアではないのだが。独唱に引き継がれ大きく盛り上がって鐘が鳴り、再現部。
 
 アタッカで5楽章へ続く。この最終3楽章がアタッカで続くというのは、多数楽章でショスタコがよく使う手法であるのは、既に明白である。

 第5楽章「立身出世」

 これはロンド・フィナーレだそうで、おやおや、マーラーの5番ですか?(滝口順平風)

 最後は2楽章ユーモアにも似た、皮肉たっぷりのアレグレット。正しいのに迫害され続けたガリレオを例にして、けっきょく真の立身出世とは立身出世しないことだと世を皮肉る。叙情的な主題と諧謔的な主題のロンド形式。ショスタコの得意な手法。4楽章より続く陰鬱な和音の上に、やおらピヨピヨとフルートが面白いテーマを吹く。

 共産政権で出世するということは、バカバカしいことで、こんな世で出世するくらいなら、出世しないほうがマシ、ということ。ここでも、9番の精神が生きている。やはり、特に秀逸なのは間奏部なのが、逆に皮肉。

 ラストにはバスクラリネットが1楽章のファシスト動機を吹き鳴らし、弦楽器の安らかな動機がそれを否定する。最後はチェレスタと鐘が締める。

 13番はシリアスとブラックユーモアの交互体で、特にこのフィナーレは13番というナンバーを良く表している。これがフィナーレでは、13番は瓦解していることになる。こんなフィナーレはありえない。マーラーの4番にも似た、毒が13番にはある。だから私は嫌いではない。嫌いではないが、繰り返すが、その確信に迫るはずのエフトゥシェンコの詩が、音楽に比べてあまりに陳腐だということだし、マーラーの4番のように詩そのものが実はユーモア、というふうでもない。それを基にした音楽も、構成的に支離滅裂なのである。


第14交響曲(1969)

 前作より7年後、1969年、エフトゥシェンコで懲りたのか(?)こんどは、マトモな詩人に曲をつけた。と、いっても、数人の、さらには外国の詩である。ロシア人もいる。全11楽章で、スペインのロルカ、フランスのアポリネール、ロシアのキュヘルベケル、ドイツのリルケの、それぞれ死をテーマにした詩に音楽が付けられている。

 ソプラノとバスの独唱。それを伴奏ずる編成も独特だ。多数の拡大された打楽器群と、弦楽合奏から出来ており、管楽器をまったく欠いている。しかも、それらは極めて室内楽的に扱われて、楽章ごとに編成が異なるうえ、短い。例えば13番は5つの楽章で60分だが、14番は11楽章で50分に満たない。
 
 したがって、これはマーラーの大地の歌のように、交響曲ではなく歌曲だという批判もある。だが、これが歌曲なら、2番3番は交響詩かカンタータだし、7番や13番は組曲だろう。表層的な響きだけで、14番を歌曲だと断ずることは出来ない。響きの内実を見極めたい。

 響きの内実とは、つまり、この曲、この音楽は、たいへんにシンフォニックであるといえる。ショスタコーヴィチの腕はここに来て冴えまくって日本刀のようにひんやりと光っている。室内楽的なのに、シンフォニックなのだから。そら、あなた、大変な仕事ですよ(^^;) 弦楽合奏と打楽器と、人声だけなのだが、これほどまで多彩で壮大な響きがあるのだろうか。これは天才にしか書けない筆だと思う。

 それでいて、彼らしい諧謔性も忘れない。

 特徴ある打楽器の中では、特に目だってシロフォンが活躍している。シロフォンとは木琴の一種で、マリンバより乾いた音がして、マーラーの第6交響曲でも異彩を放っている。ソロとして、旋律楽器としてひょうきんに機能しつつも、その独特の、西洋では往々にして骸骨の音と称される不気味さを忘れていない。(サン=サーンスの交響詩「死の舞踏」、動物の謝肉祭の「化石」もあわせて聴くと良い。)

 次は、カスタネットだろう。13番で既に登場するが、ここでのカスタネットは、もちろん、フラメンコカスタネットであって、あの赤青のウン・タン・ウン・タンではない(笑) あれは日本独自の教育楽器。世界では、カスタネットといえば、両手でカタカタ演奏するフラメンコカスタネットを意味する。しかしあれはもともと舞踊楽器で、ダンサーが習うものとして、特に装飾音符は専門技術が必要となる。コンサート楽器としては、誰でも演奏できるように柄がついていたりする。カスタネットはここでも、明らかに骸骨の音として、死の象徴として機能している。カスタネットはこれまでもクラシックに登場してはいたが、チャイコーフスキィの白鳥の湖に出てくるスペインの踊り、あるいはサン=サーンスのサムソンとデリラに出てくるバッカナールなど、あくまでダンシング楽器としてのカスタネットだった。ショスタコーヴィチは、リズム楽器としてのカスタネットではなく、もっと抽象的な純楽器、「死の楽器」としてのカスタネットを見事に表現している。シロフォンとカスタネットは早くは4番から登場するが、ここまで顕著にソロ楽器の扱いを受けるのは、とうぜん、14番が印象深い。

 さらに、ムチ、鐘、トムトム(3個)、ウッドブロック(レーニョ)、ヴィブラフォンを駆使する。

 お気づきだろうか。

 ショスタコーヴィチのこれまでの交響曲で散々に鳴ってきたスネア、バスドラ、シンバル、ティンパニがどこにも無いことを。それらの戦闘的、そして英雄的な音色を、14番は拒否、否定している。またそのほぼ木質に特化した響きが、異常なほどの乾燥感を聴く者へ与えている。それらは続く15番でも継承されている。

 さらには、弦楽合奏のキメ細やかな複雑さと、大胆な簡易さ。それでいて、能弁な独唱陣。それらの織り成す、響きの妙。まさに、これこそが、交響曲であり、これを交響曲と云わずしてなんというのか。ショスタコーヴィチがこれまでの交響曲で生み出してきた数々の響きの中でも、ここまで極端に切りつめられたものは、存在しない。また、ショスタコ流に現代技法が駆使され、調性はほとんど放棄されているといってよい。14番はショスタコーヴィチの交響曲の中でも、その先進性と芸術的結晶度では、ダントツに抽んでている。

 楽章構成は以下のとおり 緩急緩 緩急緩 緩急緩 緩緩 というグループに分けられる。

 1楽章 アダージョ
 2楽章 アレグレット(アタッカ)
 3楽章 アレグロ・モルト(アタッカ)

 4楽章 アダージョ
 5楽章 アレグレット(アタッカ)
 6楽章 アダージョ(アタッカ)

 7楽章 アダージョ
 8楽章 アレグロ(アタッカ)
 9楽章 アンダンテ

 10楽章 ラルゴ(アタッカ)
 11楽章 モデラート


 第1楽章「深いところから」(ロルカ)

 この音楽は各楽章で編成が絶妙に異なるので、はじめに記することとする。

 ロルカの詩による第1楽章は序奏にもなっている。虚無のようなアダージョ楽章で、バス独唱、チェロを除く弦楽合奏(ヴァイオリンとコントラバスが2パート分割)による。

 この陰鬱さは、13番の系譜を直接、引き継いでいる。ただし、あのような生々しくはなく、異様なほどの乾いた白骨街道のような、賽の河原のような冷え冷えとした無常観がすばらしい。

 バスが淡々と、100人の恋に狂った者たちの死を歌う。乾ききった死の砂漠に、いっさいの同情も感傷も無い。あるのは、亡霊の呻きのような凝縮された響きのみ。捻り切られた死体が寒風に乾燥してミイラ化している、異様な雰囲気で14番は幕を開ける。

 第2楽章「マラゲーニャ」(ロルカ)

 一転して、軽妙なアレグレット。カスタネット、ソプラノ、弦5部、ソロヴァイオリン。

 なんといっても秀逸なのはカスタネットの用法だろう。もちろんスペインの詩人ロルカということで、マラゲーニャという内容に合わせてあるのも聴き逃せない。

 激しい弦楽合奏。狂おしいほどのソプラノ。ここは死の酒場。人々は全て白骨。跳躍しつつ、休まぬ弦楽の響きが、焦燥感を与える。その頂点で鳴り響くカスタネット。

 アタッカで次へ。

 第3楽章「ローレライ」(アポリネール)

 まったく同じ内容とタイトルの詩が、既にブレンターノによって書かれているため、混同される場合があるが、正解はアポリネールだそうです。(パクリではなく、同じ民話というか伝説を元に詩が書かれたため。)

 ウッド・ブロック(レーニョ)、ムチ、鐘、ヴィブラフォン、シロフォン、チェレスタ、二重唱、弦5部。なかなか大きな編成となる。アレグロ・モルトだが、途中からのソプラノがテンポを引き伸ばし、遅く聴こえる。

 激しいムチの音から、3楽章である。ローレライをソプラノ、司教や騎士たちをバスが歌う。間奏部がやはりすばらしい。独唱と独立したような伴奏の動き。それをカツカツと支えるシロフォン。あくまでその独自性は、これまでのどのショスタコーヴィチの交響曲も、追随を許されぬ。カスタネットも鳴り、弦楽の軋みの次に、司教の判決。ローレライは3人の騎士に連れられて、人里は鳴れた修道院へ向かう途中、自らライン川に身を投げる。

 死の宣告の鐘と共に、ローレライは死を決意し、しずしずと崖っぷちへ歩いてゆくと、ふいに消えてしまう。バスがその様子を切々と歌う。チェレスタとヴィブラフォンの不思議な、水のゆらゆらする音色も創意である。7楽章と並んで、最長の部類に入る楽章。

 アタッカで次へ。

 第4楽章「自殺」(アポリネール)

 鐘、シロフォン、チェレスタ、ソプラノ、弦5部およびソロチェロ。なんとも不気味なアダージョ。ここでもその冷えきった死体のようなうすら寒さは健在であり、気持ち悪いほどの美しさだ。

 3本の百合……

 3本の百合……

 と、チェロのソロを従えて始まるのこの章は、自分の十字架の無い墓の上に咲くその百合を見つめる自殺者の歌。

 3本の百合……

 3本の百合……
 
 この歌唱も気味が悪いが、チェロもなんとも云えぬ物悲しい音楽で、後期ショスタコーヴィチの真髄だろう。

 激しくなると、打楽器が加わり、緊張感が増す。最後はホラー映画である。ここでも鐘は死の鐘。墓場の鐘。鐘が遠くなって、また3本の百合が歌われて、静かに墓の下の歌声は消えてゆく。十字架の無い墓の下へ。

 第5楽章「心して」(アポリネール)

 アレグレットでテンポが勢い良く戻る。ウッド・ブロック、トムトム、ムチ、シロフォン、ソプラノ、弦5部。なんといっても、冒頭のシロフォンのテーマが印象的。

 この軽妙で滑稽なマーチはなんと、12音技法である。つまりギエー、ボエー、ギニャーとしか聴こえない、例のあのゲンダイオンガクの基礎技法だ。が、ここでショスタコは、12音を上手に組み合わせて、まるで調性のように、音列を配している。それがまず面白い。そういう例では、伊福部昭がかのゴジラで、ゴジラ出現のテーマとして、12音を平等に配しつつ調性のように響かせているものがある。

 そして唯一の皮膜楽器、3つのトムトム(太鼓)が滑稽さを演出する。ここは完全にマーラーの世界で、出征して死んでしまった弟を思う姉の歌。

 姉は弟への想いのあまり、近親相姦と死の中で私は美しくなりたいとさえ歌う。その異常な愛を、伴奏がうまく表現する。兵士の太鼓が遠くから聴こえてきて、ムチで締められる。

 アタッカで次へ。

 第6楽章「心して II」(アポリネール)

 「マダム、御覧なさい!」という題で記されている場合も。アダージョだが、ソプラノが入るとテンポが上がる。ここは聴き所のひとつ。

 シロフォン、二重唱、弦5部。

 短い楽章。マダムと男の対話。愛を失ったマダムの、自嘲の歌。シロフォンとマダムの笑いの部分は、狂気以外の何ものでもない。無表情な弦楽も不気味である。シロフォンの単純明快で無味乾燥な響きが、むしろ恐ろしい。こういう、無駄な肉をそぎ落とし、むしろ骨だけになったような、単純を通り越した究極の芯のみの響きを持つ音楽こそ、至難の音楽と云えるだろう。音の少なさの中に、無限の空間と思想が詰め込まれている。

 アタッカで次へ。

 第7楽章「ラ・サンテの監獄にて」(アポリネール)

 引き続きアダージョ。ウッド・ブロック、バス、弦5部。

 詩人が監獄にぶち込まれた経験を詩に書いたと云われている。一節歌われた後の、間奏がまたまた最高。無意味なようなピチカートとウッドブロックのカツカツのみで、死の音楽が作れるとは!! 本当にすばらしい部分。

 それへ轟々と低音がかぶさって、バスが暗黒の心を収監者へもたらす監獄の中の様子を、悲鳴のような尋常の無さで歌い続ける。

 第8楽章「コンスタンティノープルのサルタンへのザポロージュ・コザックの返事」(アポリネール)

 バスと弦5部による、アレグロ。聴感では、14番で唯一のアレグロといえる。

 栄光の1000年帝国、ヴィザンチン帝国はオスマン・トルコによって滅ぼされ、正教の聖地コンスタンティノープルは汚された。ウクライナ南部ザポロージュのコザックたちは呪いに満ち満ちた言葉をマホメッド4世へ送る。そのような内容の詩である。

 激しい罵りのようなバスが面白い。弦楽のみの伴奏も、ここでも見事にオーケストレーションされている。どだい、この曲は、弦楽合奏の究極だ。

 最後では、ヴァイオリンが10パートにも別れて、いわゆるトーンクラスターと似たような効果を得る。ショスタコの現代技法の消化の例だが、激しくギコギコやるのがやはりショスタコ流。

 アタッカで次へ。

 ちなみに、14番は上記したように 緩急緩 緩急緩 緩急緩 緩緩 というグループに分けられ、これは最後の急の楽章。

 第9楽章「おお、デールヴィク、デールヴィク」(キュヘルベケル)

 アンダンテで、唯一のロシアの詩人、キュヘルベケルが歌われる。バスと弦5部。

 パッ……と、クラスターふうから協和音に到るこの効果! バスが三連ちゃんで続く。詩人のキュッヘルベケルとデールヴィクはプーキシンの親友だそうで、貴族階級ながら、反専制の思想を持ち、シベリアに流刑されて死んだという。

 そのデールヴィクを歌う、友の歌。後半部の渋い間奏が、またまたまたまた素晴らしい(笑) 歌も良いが、間奏がたいへん素晴らしいのが、14番の特徴のひとつになっている。そう、あたかも大地の歌のように。

 第10楽章「詩人の死」(リルケ)

 ラルゴ。いよいよ14番もラストのグループになる。ヴィブラフォン、ソプラノ、弦5部。冒頭の高弦による暗黒のモットーが回帰する。こういうところがシンフォニックさを演出する。

 ついに詩人まで死んでしまったらしい(笑)
 
 ここに到るともう、歌というよりお経だ。

 音楽の合間に間があるのではなく、間の合間に音楽がある。

 アタッカで、11楽章とあたかもひとつの楽章のように、最後は閉じられる。

 第11楽章「むすび」(リルケ)

 モデラート楽章で、14番は終わる。ウッド・ブロック、カスタネット、トムトム、二重唱、弦5部。

 死のカタカタが響いている。

 弦楽は慄いている。

 死は全能である。

 終わりは無く、焦燥の中で、14番は虚空に「消える。」


第15交響曲(1971)

 枯淡。

 ショスタコーヴィチ最後の交響曲、第15番はこれに尽きるだろう。

 既に心臓を悪くして、13番、14番共、病床で作曲されたという。それらでもう充分に死を意識されてはいたが、それは直接的なものだった。15番は、14番から2年を経た1971年、2ヶ月という恐るべき速筆で書かれた。これは何より、自らの死期を悟った作曲者の、最後の生への執着と、この世への別れの惜別の歌として、急いで残そうとしたに違いない。ただし、作者はその後、4年を生きることができた。しかしもう、交響曲は書かれなかった。15番は、テーマとして死を選んでいるのではなく、15番そのものが、作曲者の死を意識した心情なのだろう。

 純粋音楽で、完全な4楽章制。その交響曲の伝統的ないかにも「交響曲」という鳴り響く形式。それはショスタコーヴィチの15曲の中では、意外に少ない。1番、5番、7番、10番、そしてこの15番。やはり注目すべきは、最初の交響曲、19歳に発表された1番との相似性だろうか。

 規模としては、15番は1番の倍。だが、どちらも室内楽的な書法が容易に認識できる。また、5番も10番も無題とはいえ、その曲想が標題的なのも、聴けば分かる。だが1番と15番は、その様相が少ない。つまり、より純粋な響きのための響きを聴き取れるだろう。

 第15交響曲に限らず、この死の直前の数年間のショスタコーヴィチの作品は、どれもこれも、まさにベートーヴェンのそれのように、渋味の極みに達している。弦楽四重奏は13〜15番。マリナ・ツヴェターエワの詩による6つのロマンス。ミケランジェロの詩による組曲。そして遺作、ヴィオラ・ソナタ。等。それらが該当する。

 その中で、15番にはまだ、彼独特の諧謔が生きている。

 また、枯淡を演出しているのは、何もその精神だけではない。14番で培った、そしてそれまでの交響曲で培った、彼流の打楽器術の極みも有している。室内楽的な書法の他に、聴く者へ明快に明確に、その多彩な打楽器の響きを認識させる。それは、管楽器や弦楽器のそれよりも、もっと直接的に、聴衆へショスタコーヴィチの主張を届ける。

 編成はピッコロ以外は通常編成の2管で、40分の交響曲をしかし既に書いたとおりかなり室内楽的に彩る。トゥッティはその40分間で、ほとんど無いといっていいだろう。打楽器の数は、チェレスタを除くと14種類になる。14種類とは、尋常ではない。現代的な打楽器アンサンブルも演奏可能なほどの数で、それが交響曲で鳴りまくるのは、異様な姿を提示する。ただし、それらはいわゆる現代モノのように、偶然性や爆発性をもって傍若無人に打ち鳴らされるのではない。精緻の極みをもって、織り込まれ、極渋の妙を響かせている。ここにあるのは音楽であって、騒音や効果音などでは断じてない。

 14番では、ショスタコーヴィチの交響曲に不可欠だった打楽器類、スネア、バスドラ、シンバル、ティンパニ等をあえて封印し、木質楽器を中心にして乾いた音質を出すことに成功した。15番で、それらを融合したと云える。すなわち、ティンパニ、スネアドラム、バスドラム、タンブーラ・ミリターレ、シンバル、トライアングル、トム・トム(小1個)、カスタネット、ムチ、ウッド・ブロック(レーニョ)、シロフォン、ドラ、グロッケンシュピール、ヴィブラフォン。

 (解説によっては、スネアドラムが無い。不勉強ながらスコアを有していないのでなんともいえないが、スコアをお持ちの方、あるいは演奏されたことのある方は、確認していただきたい。CDでは、明らかに2種類の小太鼓が使われているものがある。)

 これらの打楽器は、明確に幾つかのグループに分けられる。

 木質グループ(カスタネット、ウッド・ブロック、ムチ、シロフォン)
 金属グループ(シンバル、トライアングル、グロッケンシュピール、ヴィブラフォン、ドラ)
 皮膜グループ(ティンパニ、スネアドラム、バスドラム、タンブーラ・ミリターレ、トム・トム)

 またそれらとは別に、次のグループにも分けることができる。

 打音グループ(カスタネット、ウッド・ブロック、ムチ、シンバル、トライアングル、ドラ、スネアドラム、バスドラム、タンブーラ・ミリターレ、トム・トム)
 音階グループ(シロフォン、グロッケンシュピール、ヴィブラフォン)
 その両方のティンパニ(と、チェレスタ)

 ちなみにタンブーラ・ミリターレとは、日本語でいうと軍楽太鼓とでもなるもので、英語だとミリタリー・ドラムとなる。その名のとおり、軍楽用の小太鼓(中太鼓)である。たいていは寸胴で、胴の深いスネアドラム(通常のコンサート用小太鼓)でも代用できると思われるが、本当はタンブーラ・ミリターレという別個の楽器である。音は低いスネアそのもので、もっとくぐもっている。ナポレオン時代の軍隊が、進軍や行軍のときに先頭で並んで叩きながら歩いていた。1楽章で、容易に聴き分けることが出来る。はず。

 トム・トムとは云うまでも無く、ドラムセットにくっついている小さな太鼓を思い出していただきたい。

 さて、それらの打楽器が、1楽章の冒頭から、ショスタコーヴィチ、そして15番独特の世界を作り上げている。

 ぴーん、というグロッケンの澄んだ音と共に、ピッコロがソロでひょうきんな主題を奏でる。最後の、そして最期の、辞世の交響曲のはずなのに、このひょうげた調子はなんなのだろうか。これは明らかに1番というより、9番の延長であるだろう。そして何より、ショスタコーヴィチの辞世の心は、このように純粋に澄んでいたと云わざるを得ない。正確には、このような主題が出てくるような心境にあった、ということである。このような主題が出てくるような心境というのが、果たして我々で云うところの、例えば死を前にして全てが明鏡止水のような境地に到ったような泰然としたもの、あるいはその中で子どものころに戻って懐古的な心情になったもの、かどうかは分からない。死にたくねえ死にたくねえとブチブチ云いながら、悶々ともだえ苦しんでこのようなピコピコした主題を思い浮かべていたのかもしれない。それは分からない。

 然しこれだけは云える。主題は人を食っているかもしれない。だがこの虚空に響き渡る涅槃の音色はどうだ。ここには完全に結晶と化したあまりに純真な心がある。この純真さこそ、第1楽章そして第15交響曲の全てではないのか。死を意識した人間の、というより、死を受け入れた許容の精神が、この純真さを生んだ。

 またそれだけでは終わらないのも、偉大なところだろう。その最終的な交響曲的創意は、究極に研ぎ澄まされた形で、どんどんその姿を顕にする。

 さまざまな自作を含む作品からの引用も、なぞめいていて面白い。もっとも直接的なのは、誰でも知っているであろう、ウィリアム・テル。

 1楽章はソナタ形式のようで、まったく自由な形式のもの。伸びやかなフルートの主題〜ファゴットの発展を受けて、それまでピチカートに勤しんできた弦楽も、やおら、そのテーマを模写する。グロッケンの効果的な合いの手。そしてウィリアム・テル。ひっそりと鳴らされるそれには、英雄的な色合いは無く、弦楽の軋みの中で不気味に浮かび上がる。

 打楽器とトランペットから、雰囲気が変わり、シロフォンも鳴る。ただし、ここでのシロフォンに死の影はもはや無い。長いソロが特徴だったショスタコは、ここに来てそのソロをメインとして交響曲を書いてしまった印象である。ウィリアム・テルがまたも登場し、おもちゃの兵隊の行進は、マーラーのパロディにも思える。無窮的なテーマは、常に蠢いて姿を変える。その不気味さと、清浄なグロッケンとピッコロのテーマは乖離しているようで、していない。童子の姿をした古い神が、神社の裏でこっちを見ているような不思議な感覚を与える。うかつにそれへ気づくと、魅入られてしまい、もう戻ってはこれないのだ。

 ふと、我へ帰ると、ヴァイオリンソロから音楽はコーダへ向かっており、5度目のウィリアム・テルは木管で示され、冒頭のテーマの変形で、一気に終結する。斬新なまでのコメディ風の楽章の中に、非常に懐古的な気分と、達観した厭世的なまでの気分、それに不気味さが合わさった、たいへん良い音楽である。

 2楽章はアダージョで、もっとも長い楽章。もしかしたら、15番の白眉かもしれない。ただし、3楽章の短いアレグレットとはアタッカで結ばれる。序奏より、陰鬱なチェロの独奏。しかしこれは、12音によっており、かなり調性が破壊された印象を聞くものへ与えるが、無調というほどでもない。このさびしく、わびしげで、15番の影の部分を象徴するモノローグと、金管合奏との(3度の)対話は、聴き応えのひとつだろう。精神的な内面、死への恐怖と、憧れ。この独特の暗さも、マーラーに通じるものがある。今曲の特徴である雄弁な打楽器も、ここではその口を自重する。
 
 やがて、そのチェロのテーマはフルートの哀切な断章を経て、ラルゴとなってトロンボーンに受け継がれるが、ここでのテーマも12音とのこと。ここの歌いっぷりも、ぜひ、聴かなくてはならない。トロンボーンハトランペット(ミュート)やフルート、チューバとの対話を繰り返しながら、切々と盛り上がってゆく。その後、数少ないトゥッティが表れ、感情が爆発する。この交響曲で、このような感情の昂ぶりは本当に珍しい。怒りに満ちたような恐ろしい響きは、最後までショスタコーヴィチの精神の奥深くへ染み付いてけして拭えぬある種の恐怖を表しているようだ。

 眠りつくようにそれが収まると、ついに死の打楽器が現れる。コラール主題が重々しく登場して、2楽章の真の姿がようやく出てきた想いだ。もうソロは無く、モノローグも無い。ただ、ビブラフォンの地獄の通路のような音が、背筋を震わせる。ヴィオラのつぶやき。ティンパニの葬送連打。ファゴットの導入部。

 3楽章は一転して、彼流の諧謔楽章。木管のテーマより、複雑な展開を見せる。断片をつなぎあわせたような主題が次から次へと登場し、ヴァイオリンがソロでテーマを先導するので協奏曲的でもある。打楽器が否応無く発動して、次々に後打ち先打ちで音色を変えて絶妙な面白さを演出する。ここの印象はとにかく、めぐるめく音の断片に埋もれている内に、終わってしまうふう。激しいアレグロでもなく、やはり、9番に通じる滑稽さがある。

 突如として断ち切れてから、4楽章だが、ここではヴァーグナーの引用から始まる。すなわち、運命動機と、ジークフリートの葬送行進曲のリズム。ショスタコの雰囲気とは明らかに異なるため、特にヴァーグナーも聴き込んでいる人は、おっ、と思うだろう。だがすぐに、冷たいアレグレットとなって、ショスタコらしい弦楽の流れが現れる。この弦楽合奏は美しい。低音のピチカート主題が執拗に繰り返され、その上でメロディーが流れるというパッサカリア形式。4楽章も不思議な音楽で、室内楽的に延々と不定形式で音楽が淡々と進行する。そこにはもう感情というものは無く、ただ音楽のみがある。ショスタコーヴィチは初めて、音楽による音楽を書いたのではないか。ヴァーグナーが再度、一瞬、登場すると不気味さが増す。

 低音のオスティナートは続いており、上部の変奏も緊張感を加えてゆき、クライマックスを迎える。ここで、またも数少ない総奏が登場する。金管が怒涛のテーマを吹き、シロフォンの行進が異様な雰囲気を持つ。怨念が渦巻いて、不協和音が炸裂する。

 もう、死の行進しか聴こえぬ。

 だが、コーダで、また雰囲気が変わる。これまでの動機の断片が次々に現れて、最後は、長い長い打楽器と主和音の不思議というか、困惑とすら云えるオスティナート動機が40小節も続く。ここの奇妙な、捻じれた響きは、ショスタコーヴィチの最期を飾るに相応しい。偉大なる20世紀最大の交響曲作家の最期は、ピーンという虚空の結晶の音で幕を開け、そして閉じられる。

 ショスタコーヴィチ最後の交響曲として、良くも悪くもこの曲にはある種の期待や諦観がつきまとうだろう。ショスタコーヴィチのラストシンフォニーとして、そして何より14番の次としては、明らかに弛緩して、厳しさ、締りが無い。しかし、その死を目前にしたある種の寂寥感や、しみじみとした味わい、何より渋みに関しては、云うことの無い、まさにラストシンフォニーに相応しい出来と云える。とある絢爛な文化が成熟し、やがて簡素で渋味のあるものに変わってゆく。ショスタコーヴィチの交響曲は、まさにその文化そのものだろう。


総括

 ショスタコーヴィチの交響曲を以下のとおりカテゴリー分けできた。ランキングではない。便宜上番号順、カテゴリー内においても順不同。

 第1カテゴリー 4番 8番 14番(芸術的価値が甚だしく高く、大衆的なウケは良くないと思われるもの。)

 第2カテゴリー 6番 9番 15番(芸術的価値が高く、また聴いていて愉しい面もあるもの。)

 第3カテゴリー 10番 11番 12番(色々な面で賛否両論があり、通好みの作品であるもの。)

 第4カテゴリー 5番 7番 13番(大言壮語的な標題が付随し、やもすれば大衆的なウケ方をするもの。)

 第5カテゴリー 1番 2番 3番(初期の習作ということを認識すればけして悪くないもの。)

 ショスタコーヴィチも多作家だったが、中でも弦楽四重奏と交響曲は、彼の人生の俯瞰という意味でとても重要である。しかも弦楽四重奏は彼の芸術の中期から(第5交響曲以降)書かれているのに対し、交響曲は19歳から死の数年前まで、満遍なく書かれている。この点をもってしても、いかにショスタコ芸術の中で交響曲が重きをおいているか分かるだろう。

 もちろん、交響曲以外にも名曲はたくさんある。しかし、一般の聴き手にとって、鑑賞の中心となるのは、やはり交響曲だろう。

 ショスタコーヴィチの交響曲は、1曲1曲としてだけではなく、交響曲群としても、ひとつの価値を見出している。連続性と体系を有している。ただ数だけ書いたのと、交響曲群として連なっているのとでは、違う。さらに面白いのは、それらが15曲もありながら、それぞれにオリジナルな部分と、ちょっと聴いただけでショスタコだと分かる部分と、激しく同居しているところである。これは、乖離性とマンネリズムが同居しているという、まさに矛盾が鳴り響いてるような不思議な感じを与えてくれる。

 しかしそれは、矛盾は矛盾として矛盾であると、素直に受け取ることができるわれわれ日本人にとって、なんら問題ではない。ショスタコーヴィチは世界中で受け入れられてはいるが、マニアックなこだわり方、楽しみ方ができるという点では、そういう何にしてもこだわる事が好きな日本人向けな音楽なのかもしれない。つまり、ただ聴いてハマるというだけではなく、そこに知的な体系的遊戯性を見出すことができるのが重要で、ショスタコを聴いていると感じる独特の楽しさ。それは、少なくとも私は、モーツァルトやベートーヴェンやなんやかやを聴いていて感じるものではない。同時代の人の交響曲でも、プロコフィーエフなどでは感じられないのである。(もっとも、他に同時代でこれほどまでの体系的交響曲群を書いた人はいないのだが。)

 藝術で遊べるというのは、幸せなことだと思う。ありがとう、ドミートリィ・ドミートリエヴィチ。


 参考 音楽之友社 作曲家別名曲解説ライヴラリー15 ショスタコーヴィチ 他各CDのライナー等






前のページ

表紙へ