宮原禎次(1899-1976)
オーケストラ・ニッポニカの企画により初めて具体的に姿を現した作曲家・宮原。系統的には、山田耕筰と團伊玖磨をつなぐ存在であるという。
山田は日本人にはシンフォニーよりもむしろオペラとして、純交響曲を初期の佳作として1曲しか残さなかったが、弟子の宮原は、歌曲や動揺を何百と書きつつもオペラ、交響曲、協奏曲と、いろいろ書いた。また音楽的内容に関しても、山田の日本人的な息の短い旋律と團の大陸的な息の長い旋律の両方の特性をもっているとのことである。
というわけで、宮原はおそらく日本人ではじめて交響曲を量産した人になるであろう。今後、私の知らない人がまた出てくる可能性はあるが。番号付きで6曲、ある。
オーケストラ・ニッポニカの企画では第4番が選ばれ、演奏された。戦後に演奏されるのは、初めてであるらしい。そういう曲が、まだまだ山のようにある。機会をみつけて、どんどん再演してほしいものだ。
第4交響曲(1942)
第1楽章第1主題における重金管群とシンバルによるショッキングな響きが、とても戦前のものとはおもえない。それもそのはず、1942年に作られたこの交響曲は、大東亜戦争開戦1周年記念として作曲された。
かといって、これはショスタコーヴィチの11番や12番のような音楽なのかといえば、それもまた否。あくまで純音楽として、戦争とその影響を考える仕上がりになっている。
動員された一兵士の勇ましくも悲劇的な主題と、懐古的で女性的な主題が織りなして消えゆくさまは、やはり考えさせられよう。
2楽章のレクイレムが、この交響曲がただの戦争賛美音楽でないことを裏付けている。委嘱者が民間のJOAK(NHK東京放送局)であるのも、関係していると思われる。
3楽章は兵士の慰問会だそうで、スケルツォ楽章。やはり民謡風の音楽がとられている。スケルツォは元来舞踏曲であるため、それは正しいといえる。ブルックナーのスケルツォ楽章がよくって、日本人のがダメというのは、偏狭な劣等感にすぎない。ブルックナーのあの田舎臭さここにきわまれりのヘボスケルツォに比べたら、よほどモダンだと思う。
4楽章は第一主題が再現され、それが最後にベルの音を伴った行進曲調の明るい音楽となって、結ぶ。
このラストを聴く限り、本当に戦争に勝てると思っていたのだろうか。いや、たぶんちがう。ここにあるあからさまな明るさは、やはり、旧ソ連系の平易な交響曲と同じ、ある種の体制への迎合がみてとれる。
なお初演時には、今交響曲は「12月8日」の副題があった。つまりそれは、真珠湾の日である。
また各楽章にはそれぞれ「醜の御楯」「英霊に涙す」「陣中朗景」「東亜の黎明と一億行進」という副題があった。
↑読めない
全体としては、そんな雰囲気の音楽となっている。
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