新実徳英(1947− )
東大の工学部を出て後に芸大の院を出たという、なんか日本の最高峰を普通に極めているようなすごい人。しかし作風は私にはどうも馴染まないので、あまり聴いたことはないが、中期作品の交響曲2番はこの項のため購入した。芸大では間宮芳生、三善晃、野田暉行という早々たる面々に師事している。代表作には合唱が多く、オーケストラ曲は少ない。少ないが、重要作が多い。オペラも1曲ある。
第2交響曲〜オーケストラと混声合唱のための(1986)
作曲家生活10年の総決算として書かれたとのこと。2楽章制の、30分を超える大作である。合唱の入ったカンタータ形式で、次のふたつの音楽から成る。
I.子どもの王国
絃楽による引き延ばしの音形と、木管等による細かな動機の対を導入として、テーマが全楽器に受け渡されると、ジャズ風のテーマに変形する。その後、テーマは落ち着いて展開し、それを間奏として再びアレグロとなるが、このテーマは新古典派時代のストラヴィンスキーによく似ている。
特に子どもというタイトルとは関連性がないようにも聴こえるが、聴いただけでは分からない。1楽章は管絃楽のみの音楽。
II.宇宙の祭礼
打楽器から始まる第2楽章は、趣を一変させる。緊張感にあふれ、おののく様な男性合唱が 「おおお」 と入ってくる様はまるで賽の河原を吹き渡る風の音。ホルストを思わせる神秘的なヴォカリーズが、アレグロの管絃楽を伴って次第に盛り上がり、頂点でいったん終結する。
テンポを落とした点描ふうの間奏がやや続いたのち、ヴォカリーズのみの部分もあるが、重奏的に奥深い交響楽的な仕上がりになっているのは、流石合唱の大家といえるか。それへ地味に補佐で絡んでくるオケも面白い。
最後は冒頭の雰囲気に戻るのだが、主要テーマをひたすらオスティナートして、重厚な合唱とからむくだりは迫力がある。そのまま終結までもって行く。ただしややしつこい。しつこいだけで、高揚がない。
正直、楽章のタイトルはいらないのではないかと思う。純粋音楽としてのほうが、より聞き手に自由なイマジネーションを喚起させ得る。自分の創作ノートをもっと知らしめたいのであれば、そのような作風にした方が、ただ聴くだけの身としては有り難いのだが。
YouTubeで試聴できます。
協奏的交響曲〜エラン・ヴィタール〜(2006)
2006年度コンポーザーインレジデンス、オーケストラアンサンブル金沢委嘱作品。2007年第55回尾高賞。
タイトル通り、ピアノのソロが入る。20分ほどの音楽だが、3楽章制。エラン・ヴィタールとは「生命の奔流」という意味合いだそうである。
委嘱後より、作曲者の母が亡くなって悲しい想いの中で書かれたためか、非常にシビアな部分がある。上記の2番がほとんどネオロマン主義なのとは趣が異なる。8割方作曲を終えたところで、委嘱者のOAK音楽監督の岩城宏之が亡くなってしまい、二重の悲しみに覆われた。
3楽章というより、3つの部分と云ったほうが良いかも知れない。アタッカで進められる。
そろそろとしたピアノのソロと共に、音楽は始まる。火の鳥のロンドのような雰囲気もあるが、管絃楽は辛辣なゲンダイ調だが、ピアノは華麗であり対比する。しかしバスドラの一打より一転して低音の呻きになる。
2部ではフルートの静謐な単音にピアノと絃楽が対話する。さらにはトランペットがフルートを引き継ぎ、曲は深刻なアダージョ(もしくはレント)となる。ピアノの調べはあくまで点描的で、旋律というものを奏でる事は無いが、点の……いや水の滴のような粒の集まりが音楽となっている。それは、ピアノが低音を叩く個所でも変わらない。2部の後半ではテンポが上がり、バルトークピチカートも激しい憤りを示す。
そのまま3分へ突入し、ピアノの持続音に管絃楽が絡み続ける。速度を保ち、マリンバがピアノを模倣。木管の鋭い鳴き声と共に空間を削る。ピアノは終始上空と地面を這い続け、中間部というものを奏しない。高揚して後、バスドラがその場を厳かに鎮める。ピアノが最期の足掻きをするも、静寂が訪れる。
それからひたひたとコーダに到る。純粋な祈りのコーダ。母親と初演予定者であった岩城のための祈り……。
それが吉松バリのド調性。
はじめからそれで書きャ良かったのに(^^; それともこのギャップが大切なのかな。
タイトルはあくまでイメージとしての標題で、音楽の中身を現すものではない。と思う。
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