ストラヴィンスキー(1882−1971)
いわゆる初期3大バレー以外はイマイチ評価の低いストラヴィンスキー。しかしその作品数は小品が多いこともあり、非常に膨大で、3大バレーはその作品群の中のほんの一部にすぎない。もちろん、3大バレーが最も音楽的に優れていると云われればそうしもしれない。しかし、それはストラヴィンスキーを理解するうえで至極近視眼的な視点であり、非常に歪んだストラヴィンスキー像を聴くものに与えている。
ストラヴィンスキーの高名な格言で 「音楽は音楽以外の何も表現しない」 という意味のものがある。(ただし高名なわりにソース不明)
つまり「音楽は感情や心理的な気分を表現しない」「音楽は超個人的な超現実的なものだけを表現する」ということだそうです。
たとえベートーヴェンの田園交響曲だとて、かの楽聖は田園風景からインスピレーションを得ただけで、その音楽はけして田園を表現しているわけではない、という事だ。小川の音や雷の音を模しているだろう、と思われるかもしれない。しかしそれは小川の音や雷の音を直接表しているわけではない。ただのそれらを模した音楽なのである。マーラーの1番交響曲で聴かれるカッコーの模倣はどうなのか。それはカッコーの声を表現しているのではないか? ストラヴィンスキー流に云えば、それとてただの「カッコーの声のような音楽(音譜)」にすぎない。
また、悲しげな音楽を聴いて人が涙するのは、悲しげな音楽を聴いた人が勝手に悲しいことを想像して涙しているにすぎなく、音楽はけして悲しくない、ということになる。楽しい音楽も同じ。ラヴェルの、死んだのは王女であってパヴァーヌではない、という言葉が思い出される。
なんというドライな感性なのだろう。それがストラヴィンスキーの本質となる。
3大バレーは、興行的に(商売として)その本質を見えにくくしているだけで、その表現のための表現のような非情なまでのドライさが、根底にちゃんとある。民謡を拝借しようがリズムが重なろうが前例になかろうが関係ない。踊るための単なる音の配列にすぎなく、感情やシーンの、何も表現していない。その音楽を聴いて、バレーの情景が浮かぶのは、我々聴き手が勝手にバレーのストーリーや映像から脳内補完しているにすぎない。音楽を得てインスピレーションし、それを肉体的視覚表現へ変換するのは、あくまで踊り手の仕事であって、バレーの鑑賞者は音楽を聴きながらさらに踊りを見て視覚表現も鑑賞する。すなわち、聴き手がたまたま音楽のみを聴いて視覚表現をするのは勝手だが、音楽が視覚表現をしているわけではない。
その、ただ音によって表現された純粋な音楽が、おそらく最も前面に出ているのがいわゆる新古典主義時代の作品だろう。ここにある極端なまでの非抒情的展開、形式的美観、客観的音楽表現は、それまでの3大バレーを含む自作へのアンチテーゼにも思えてくる。
面白いかと云われれば、通俗的な面白さは皆無といっていい。じっさい、私も、これは音楽(表現)として失敗ではないか、というものもある。
それがセリー主義を導入してくると、宗教作品が多くなって、歌詞などでストーリーが付随するため、その傾向はややゆるくなる。
話は戻るが、ストラヴィンスキーは「単に踊るための音楽」であるバレー音楽が本領なのはもちろんのことだが、そういうわけで意外と純粋音楽も多い。協奏曲が、ピアノが3、バイオリン、弦楽を含めた合奏協奏曲2、クラリネットとジャズバンドのもの、それに2台のピアノのための協奏曲ということで、8曲もある。
交響曲に関しては、最初期のいわゆる古典的なものから、新古典主義時代を通じて5曲ある。
これが、ストラヴィンスキーを俯瞰するうえで、なかなか面白いうえに、いくつかの作品は非常に交響曲史的にも重要だ。3大バレーしか知らない人には知らない面白さを、味わえる。
参考 私のストラヴィンスキーのページ
交響曲 変ホ調(1907)
2年をかけて作曲し、1907年に完成したこの「交響曲」は、ちょうどリムスキー=コルサコフに師事したての作品であり、ストラヴィンスキーの全作品の中で唯一、伝統的な作風といっても過言ではない。特にグラズノフの影響下にあり、これをはじめて聴いてストラヴィンスキーだと分かる人はおそらく皆無と存ずる。規模の大きな4楽章制で、40分にも及ぶ大作。これが唯一の古典形式ということで第1交響曲となっている場合もある。
アレグロ・モデラートの第1楽章は、まさにアカデミアな習作で、ソナタ形式。しかも順当な「いかにも」ソナタ! ストラヴィンスキーが!(笑) 高らかに鳴るロシア的な第1主題が転調をへて静かになったころ、クラリネットの導きによる甘美な第2主題が登場する。主題の展開が弱く、同じような模倣の繰り返しに聴こえてやや飽きが着易い。音大の試験作品と考えれば、これはかなり技術的な出来が良いのではないか。ただ本人や師のリムスキー=コルサコフも認めているように、グラズノフ、チャイコフスキー、ワーグナー、リムスキー=コルサコフの模倣的な部分が多々あり、職人作曲家としてはどうだか知らないが、芸術家としては褒められたものではない。
しかし後年のストラヴィンスキーの作風とのあまりの違いを考えるとき、天才も最初は秀才で、努力と研鑽の結果、天才となったのだなあ、としみじみ思うには、かっこうの素材である。
第2楽章はスケルツォであるが、主要主題が民謡風(かつチャイコフスキー風)で、これが面白みを出している。またトリオ部はペトリューシュカのぽい断片が認められて興味深い。
3楽章はラルゴであり、今交響曲中では最大の楽章となっている。ただし楽想も展開も非常にオーソドックスで、保守派の有望な新人株、といった風合い。音楽そのものは、まずまずロシア産交響曲の常套を護り、聴きやすい。ホルンの茫洋とした響き、それを受け取った弦楽の大規模な楽想、ティンパニの情念的な轟きなど、悪くない。
4楽章は小気味の良い民謡風旋律が勢いよく鳴り響き、トライアングルやシンバルなどの打楽器も良いアクセントをつける。主題の展開も面白く、CDの解説によると少年時代に作成したテーマの引用も認められるらしい。順当に盛り上がって、順当に終わる。
このまま「ロシア国民楽派」となるのかと思いきや、ストラヴィンスキーの個性は、大規模な幻想的スケルツォと花火という大いなるステップ的両曲を経て、かの火の鳥に至る。
管楽器のシンフォニーズ(1920)
1920年、フランスの音楽誌「ラ・ルビュー・ミュジカール」(「音楽評論」誌)がドビュッシー追悼のため、「ドビュッシーの墓碑銘」というお題で当時の高名な作曲家10人に追悼小曲の寄稿を求めたという。
そのうちの1人が、ストラヴィンスキーだった。他には、サティ、デュカ、ルーセル、ラヴェル、ファリャ、バルトーク、マリピエロ、グーセンス、フローラン・シュミットである。
ちなみに詳細は以下の通り。
ストラヴィンスキー:ピアノ独奏「ドビュッシーの墓碑銘」〜管楽器のシンフォニーズよりの断章(コラール部分)
サティ:2つのソプラノとピアノのための「ドビュッシーの墓碑銘」
デュカ:ピアノ独奏「ドビュッシーの墓碑銘」
ルーセル:ピアノ独奏「ドビュッシーの墓碑銘〜ミューズの歓待」
ラヴェル:ヴァイオリンとチェロのためのデュオ/後にヴァイオリンとチェロのためのソナタ第1楽章
ファリャ:ギター独奏「ドビュッシーの墓碑銘」
バルトーク:ピアノ独奏「ドビュッシーの墓碑銘〜ソステヌート、ルバート」/後にハンガリー農民の歌による即興曲第7曲
マリピエロ:ピアノ独奏「ドビュッシーの墓碑銘」
グーセンス:ピアノ独奏「ドビュッシーの墓碑銘」
シュミット:ピアノ独奏「ドビュッシーの墓碑銘」/後に2つの幻影第1曲
さて、これはじっさいによく「管楽器のための交響曲」と日本語に訳されているが、正確には単なる「管楽器の交響曲」であり、さらに、複数形で「シンフォニーズ」とある。日本語の交響曲の複数形は寡聞ながら知らない。交響曲群とでもすべきかというと、そういうニュアンスでも無いため、カタカナでシンフォニーズとした。
ストラヴィンスキーは弦楽器の持つ「抒情性」を嫌い、ヴァイオリン協奏曲(1930)において「抒情的ではない弦楽器の扱い方」を開発するまで、実験的な管楽器群のための作品を書いた。八重奏曲(1923)、ピアノ協奏曲(1924)などは、管楽器アンサンブルのための作品。それらの方向性は最終的に合唱とふたつの管楽アンサンブル群によるミサ(1948)に終結する。
その管楽合奏曲の最初が、この管楽器のシンフォニーズ(シンフォニー集)となる。
ここでいうのは、いわゆる交響曲ではない。8分ほどの小品であり、もっと古いシンフォニアの形式を模している。さらに、管楽器が管楽合奏としてそれぞれ語りあい、さらに響きを模索するような手さぐり感をもち、楽器ひとつひとつが互いに響きあう様子を確認している。楽器達がそれぞれ独立して響きを構築しており、「響きあうものの集まり」という意味で複数形なのだと思う。
小品であるが、そのためか、冒頭のファンファーレ的なもの、小コラール、民謡風のもの、などの小さなフラグメントの集合体のような形式で、かつ、縦の線においても、非常に刺激的な和音を奏でる。1本の旋律が流れるということは無く、常に塊がガクガクと動く印象を受ける。管楽器のみの音色は、時にざらついて、時にキワが立ち、無機質で、けしてなめらかにならない。そのためか、耳に障り、まさに印象派というか、抽象派というか、ストラヴィンスキーの中でも独特でありつつ、ストラヴィンスキー独自の世界を作っている。
しかしリズムの点では、大胆で、激しい。コラール部分においてさえ、その動きは単純にして、豪快である。従って、あえて当てはめるとすれば春の祭典や結婚の部類に入るという評もある。
形式は小さなシンフォニアの集合体であるが、構築は精緻で、厳格に定められた順序に従って主題群が登場し、それが逆順に再現され、ハルサイをも思わせる激しい和音のぶつかり合いをへて、最後のコラールに行きつく。そこが、かのドビュッシー追悼のためのコラールであり、そのピアノ編曲(ただし、コラールそのものは当初からドビュッシー追悼のために書かれたもの)が「音楽評論」誌に寄稿された。
このような無機質で抽象的な作品であるためか、また師リムスキー=コルサコフのハデな作品と同時上演だったためか、ロンドンでの初演はたいそう不評であり、ストラヴィンスキーは機嫌を悪くしたという。1947年にアメリカで改訂出版されるまで、あまり省みられなかったようだ。
しかしこの作品は、彼の管楽器アンサンブルの扱い、また原始主義と新古典主義の橋渡しという点で、もっと注目されて良い。
詩篇交響曲(1930)
1930年、クーセヴィッキーによりボストン交響楽団創立50周年記念音楽として書かれた。
このときクーセヴッキーはアメリカを含め、他の高名な世界中の作曲家にも委嘱をおこない、創立を祝っている。
たとえば、
プロコフィエフ 第4交響曲(初版)
ルーセル 第3交響曲
オネゲル 第1交響曲
ヒンデミット 弦楽と金管のための演奏会用音楽
ハンソン 第2交響曲
もちろん全てが傑作というわけではない。(交響曲が多いです。)
ストラヴィンスキーの詩篇交響曲は、これもまた独特な音楽であり、内容も宗教色が強く好き嫌いが分かれるところだろうが、私は彼の交響曲の中では最も好きだし、ストラヴィンスキーの作品の中でも、重要な地位を与えている。
またこの曲の最大の特徴はその編成にあり、声と管弦楽を一体化させることを考えたストラヴィンスキーが、声も楽器のひとつとして、オーケストラの一員として、器楽と対等に扱う。すなわち、合唱を常に際立たせるため、人間の声と同じ声部を受け持つヴァイオリン群とヴィオラがすっぽり抜けている。ついでに、クラリネットもない。クラリネットは、音色の関係だろうと思う。管弦楽法の大家・伊福部昭が云うには、クラリネットの音色というものは、「西洋楽器」の最たるもので、この音こそ西洋の象徴に聴こえるものだという。従って、そういういかにも西洋的音色を嫌う自分の作品では、クラリネットはあまり活躍しないのだそうな。ストラヴィンスキーは無意識のうちに、この音楽のシナイ的(非ヨーロッパ的)響きを醸し出すために、クラリネットを除いたのかもしれない。
ちなみに、伊福部は自身のカンタータ作品:合唱頌歌「オホーツクの海」において、この詩編交響曲をモデルに、ヴァイオリンとヴィオラを除いたオーケストラを合唱へつけている。音楽的には、初期3大バレー以外は認めなかったそうである。しかし、最も好きなストラヴィンスキーの作品は、新古典主義の「ピアノとオーケストラのためのカプリッチオ」だったというのも興味深い。
3楽章制であるが、力強い1楽章は3分半ほど。これを前奏部と見る人もいる。神への真摯な祈りの音楽であり、詩篇第38篇第13-14節が歌われる。短い和音よりヘビでも踊るような不気味な前奏が現れ、茫洋とした雰囲気にホルンが角笛を模すように響く。特殊編成のオーケストラの独特の響きが既に遺憾なく表される。合唱が出て、その非旋律的な旋律と伴奏との不協和音がまたうらぶれていて面白い。
2楽章は詩篇第39篇第2-4節で、願いを聞き届けた神へ対する感謝の歌で、緩徐楽章となっている。合唱と、管楽器の重奏的コラールが美しい。ストラヴィンスキー得意の管楽アンサンブルに続き、風のように合唱が入ってくる。この感情をあくまで廃した冷徹なまでの賛美歌は、モダンな美を現代に示している。これが現代音楽であろう。後半は盛り上がって、やがて砂漠の夕日の向こうへ消え入る。原始キリスト教の雰囲気を色濃く喚起させる。
3楽章はメインで、詩篇第150篇すべてが歌われる。「アレルヤ、ラウダテ」の歌い出しがとても印象的。この無表情な祈りは、より人々の無垢で純真な信仰心をさらけ出すだろう。途中よりテンポは急変し、アレグロとなる。幾何学的な管弦楽の間奏の後、不思議な和音の合唱が神を讃える。ラテン語の妙な発音と単調なリズムは一瞬、エディプス王も喚起させる。この抑揚の無い、亡霊の叫びのような不思議な響き! そこへタテに突き刺さる管弦楽! この効果! 最後は、静かに、消え入るように終わる。祈りの向こうに、今日も、太陽が沈んでゆく。但し、けしてそのような情景を表現しているわけではない。私が勝手に心に思い描いて楽しんでいるのである。
Alleluia,laudate Dominum アレルヤ、主を褒め称えよ
神を讃える音楽として、マーラーの8番の対極にあるような音楽。
その特殊な編成と、20分という中途半端な時間、茫洋とした内容のためか、プログラムの途中にもメインにも置きづらいようで、あまり実演でお目にかかる機会の無いのがとても残念。
交響曲 ハ調(1940)
この曲を作曲中の数年間は、ストラヴィンスキーにとって不幸がつづいたことは特筆すべきことだろう。すなわち、娘リュドミラ、妻カテリン、そして母親アンナを次々と亡くしてしまった。人間、ここまで不幸が続いて、果してまともな仕事などできるのだろうか?
もっとも奥さんに関しては亡くなる前から後妻の人とずっとつき合っていたそうだが……。
とにかく、今作品は、ストラヴィンスキーの信念、音楽は感情を表現しない、というのを、逆におのれの不幸な境遇に照らし合わせて、あえて無表情に作ったような作風が魅力的である。
シカゴ交響楽団創立50周年記念の委嘱作で、他には
コダーイの「管弦楽のための協奏曲」
ウォルトンの喜劇序曲「スカピーノ」
ミャスコフスキーの交響曲第21番「交響的幻想」
などがある。(さすがに詩篇の時に比べると地味である)
第1楽章をパリで、第2楽章をサンセルモーズの結核療養所で、第3・第4楽章をアメリカで書いたというから、その人生最大の変遷期にもあたっている。彼は第二次世界大戦の勃発で、そのままアメリカに居を移した。
また(第1・第2楽章)作曲中は、ハイドン、ベートーヴェン、チャイコフスキーの1番の交響曲のスコアを傍らに置き、研究して、新古典主義時代を代表する当曲を書き上げた。
というわけでこれは初期の習作・変ホ調交響曲に続く伝統的な4楽章交響曲であり、ストラヴィンスキーの新古典主義作品を代表するものであるが、内容は、かなり辛辣で旋律、和声、リズムともかなり複雑。
1楽章 Moderato alla breve はソナタ形式であるが、異様に細かく、聴いただけではなかなか判断しづらい。弦楽の急激な導きにより、オーボエが機械的な第1主題を呈示する。しばしその展開が営まれ、特徴的な付点音符よりホルンの伸びやかな第2主題。強烈な和音進行より展開部は第1主題が主に扱われ、ご丁寧に再現部まであるが、定石通りに再現はされない。コーダは強烈な不協和音の連続で〆られる。
2楽章は緩徐楽章で、Larghetto concertante という魅惑的な指示がある。ピッコロ、トロンボーン、テューバ、ティンパニという目立つ音がカットされ、木管も1管となり、美しい室内楽的な佇まい。しかし、非叙情的であり、どちらかというと、淡々と進む。しかしその旋律は愛らしく、牧歌的ですらある。しかし中間部はテンポが倍になり、行進曲調ですらある。やがて静かにテンポが戻るが、順当に冒頭部が戻るのではなく、かなり形を変えてやってくる変形3部形式。
3楽章はアタッカで進む Allegretto で、激しくリズムが変遷する音楽。ここは、ただ、ハデでは無いだけでまるでハルサイのようでもあるし、管楽器のシンフォニーズのような管楽アンサンブルが、実に面白い。
4楽章 Largo−Tempo giusto, alla breve はさらに度を越して複雑だ。不気味なファゴット二重奏に金管が伴奏するの導入(ラルゴ)より、弦楽のリズム感ある主題が生き生きと示される。それがグチャグチャに変形され、1楽章の要素も飛び出し、それらがさらに変形し、分断され、入れ代わり立ち代わり、相当に、スゴイ(笑) 次第に高潮し、3楽章の交響曲の冒頭のような音形も飛び出す。最後は、引き延ばされた和音により、静かに閉じられる。
この曲は、見た目は地味で古風ながら、中身はハルサイよりはるかに複雑な音楽だと思う。
3楽章の交響曲(1945)
アメリカへ移住してから最初に作曲されたもので、中にはストラヴィンスキーの所作品の中でもいわゆる「駄作」扱いする人もいる。これは戦争の映画を見て感じた物があったストラヴィンスキーが、特に第1、第3楽章にその影響を与え「戦争交響曲」として作曲したものだが、実体験ではないためか、彼のドライな音楽感によるものか、描写的にはもちろん、音楽的にもその様子は伝えない。従って、ショスタコーヴィチやハチャトゥリアン、オネゲルなどと同じ「戦争交響曲」として聴くと、ヒドイ期待外れに苛まされるだろう。
これはまた、題名とおり3楽章制なのだが、それぞれ1楽章〜ピアノ、2楽章〜ハープ、3楽章〜両方 がソリスティックに扱われ、一種の協奏風交響曲になってもいる。そもそも、これは当初は「管弦楽のための協奏曲」として書かれる予定だったという。ニューヨークフィルハーモニックシンフォニー協会に捧げられている。
この作品はストラヴィンスキー独特の豪快さと精緻さを併せ持った逸品であることに違いは無い。しかし、その云わんとしていることがイマイチ分かりづらい嫌いはある。鑑賞するのに、やや、不必要な情報がついて回っているかもしれない。すなわち、これを同時代の「戦争交響曲」と同列に扱うことの難しさ。ショスタコーヴィチの7番や8番はもちろん純粋音楽ではあるが、確かに戦争の狂気を音で顕現しているだろう。しかしこれは、明らかに異なる。だが聴くものはこの交響曲が書かれた経緯より、これも同じ戦争の狂気を描いていると錯覚し、聴いてみるとそのような表現は皆無であって、非常に違和感を覚え、それで理解できないと思い込んでいる。
この曲が「駄作」などと云われる所以はそこから出てくるのかもしれない。
確かに「傑作」でも無いとは思うが。
1楽章冒頭は特に印象深く、弦楽とピアノのグリッサンドに近いズリ上げから豪快な進行、そしてぎこちない主題呈示。その展開が終わるや、ジャジーな伴奏でホルンが無表情な音楽。ピアノと弦のカラミ。ホルンの吹奏。あとしばらくそれらの素材が執拗に展開される。静かになると異なる部分。ピアノと弦楽合奏の趣。テンポ感は変わらないが、響きは薄い。このふたつの部分が変化を伴って再現され、終結する。ロンド形式に似ているという。ストラヴィンスキーにしてはその展開が甘いため、ダラダラ感がある。終始、ピアノが活躍する。
2楽章は緩徐楽章だが、前作・ハ調交響曲と同じく、金管、ティンパニ、大太鼓、バスクラ、ファゴット等、重い楽器は省かれ、軽やかな質感となる。ピアノの代わりにハープが登場するが、ハープ特有のアルペジオ、グリッサンドなどではなく、ポツンポツンと旋律を奏でて行くあたりが、非抒情主義のストラヴィンスキーらしい用法だと思う。しかしこれは実に愛らしい音楽で、木管の長い旋律と、ハープのポロンポロンという対話が美しい。彼のバレー音楽にも通じる良さがある。音楽はとても精緻で、一級の工芸品を愛でているよう。綾糸のような音の絡みつきがまたエロイ。
アタッカで続く3楽章はピアノとハープが両方、登場する。スケルツォ&フィナーレ楽章。1楽章にも通じる骨太のリズムに乗って、モダンな旋律が進み、しばし行進曲調に展開するが、ファゴットの長い二重奏よりプレストとなって速度を増す。ピアノがからみ、交響詩「ナイチンゲールの歌」みたいな一瞬もある。それから停滞気味に音楽がモチモチした後、一気に終結する。
全体的に、主題は良いがその進行に創意が足りず、持ち前の技術のみで作ったような感があって、私はあまり得意ではなかったのだが、これはこれで聴き慣れると妙な和音があったり、ストラヴィンスキーらしい楽想の捻りがあったりと、面白く聴ける。地味ながら、職人的な面白さがある。
5曲のうちオススメは、管楽器、詩篇、ハ調です。これらはストラヴィンスキーの3大交響曲ともいえ、重要性は高く、ストラヴィンスキーの音楽の中でも非常に出来が良い。ストラヴィンスキーという巨人の理解の助けになる大切な曲目であり、3大バレーを聴き込んだ人が次に聴いてほしい音楽です。CDとしては、詩篇、ハ調、3楽章というセットが多いです。これはたぶん、管楽器のシンフォニーズは管楽アンサンブル扱いで、交響曲ではないととらえられているから、そしてその3曲で70分をオーバーしてしまうため4曲セットにはならないため、あるいはそれら3曲の内のどれか2曲と管楽器ではちょっと物足りなく感じるから、でしょう。
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