大栗 裕(1918−1982)

 
 吹奏楽、及びマンドリンの世界ではメジャーな大栗は、オーケストラ作品も多数書いている。もともとホルン奏者で、作曲は独学ということで、オーケストレーションなど一風変わっているが、それが魅力だ。デビュー作はオペラ「赤い陣羽織」(バレエ、三角帽子を日本風にアレンジしたもの)で、朴訥として鄙びた作風が素晴らしい。メジャー化したのもオーケストラ作品で、オーケストラのための「大阪俗謡による幻想曲」(原典版)が朝比奈隆指揮によりベルリンフィルで演奏されてから。共に1955年の作曲となっている。

 ※原典版というのは、原譜をベルリンフィルに献呈して置いてきてしまったため、後に大栗が思い出しながら「再作曲」したものが出版されたため。後年、スコアが返還され、現在はどちらも聴ける。原典版はやはり、やや粗野な印象。

 さて、交響曲であるが、大栗には交響曲は存在しない。では、なぜこの交響曲の項に、となるが、マンドリン合奏のためにシンフォニエッタという作品を実に7曲も書いている。

 私はオケ、吹奏楽は聴くがマンドリンはまっったくの門外で、かつ、このサイトを始めた2002年ころは、かのナクソスによる大栗裕作品集の解説で、片山杜秀ですらマンドリンに関してはわずか数行しか触れていないほどで、マンドリン界の人以外、大栗=マンドリンなどとは誰も、思いも寄らないという状況であった。

 ところが、単純な作品数では、大栗はマンドリン合奏のための作品(音楽物語を含む)が最も多く、Wikipedia にあるだけでも、オーケストラ10曲、オペラ7曲、吹奏楽10曲に比べ、マンドリンが38曲というほどの多さで、オーケストラ作家でも吹奏楽作家でもオペラ作家でもなく、マンドリン作家だといってもよいほどである。

 また Wikipedia ではあまり触れていないが、かつて大栗の公式サイト(現在休止中)の作品表において確認したところ、邦楽のための作品も、かなり数が多い。

 昨今は大栗のマンドリン界の業績もだいぶんに知られてきており、楽団自作のCDでも入手でき、また YouTube で幾つか公開もされているので、あくまで曲紹介ということで、ここで大栗のシンフォニエッタのページを作ることとする。


第1シンフォニエッタ(1967)

 これらマンドリンの作品は、大栗が顧問をしていた関西学院大学および京都女子大学、あるいは名城大学、帝塚山学園中高のマンドリンオーケストラ部のために書かれたものがほとんどだ。

 作風は、共通して完全に新古典主義となっている。私は初めて聴いたとき(高校生のとき、吹奏楽のための神話でティンパニを担当した)からややしばらく、大栗=民族派と認識していたので、そのあまりに古典的な音楽(形式)に戸惑い、意味がわからず、ましてマンドリンの音色にも慣れていないので、かなり困惑した。どういう意図で、大栗はこのような曲を書いたのかわからなかった。

 ところがどっこい。

 大栗裕は、自分が好きな(規範にすべき)作曲家はなんとモーツァルトとヨハン・シュトラウスであったいうこと、また自作自演の吹奏楽曲や、盟友・朝比奈隆の指揮する大栗作品のザッハリヒでキビキビとした軽いニュアンスの演奏に接したこと、また、大栗がかつてオーケストラでホルンを吹いていたときに初演に立ち会った伊福部昭の作風に大いに影響されたらしいこと、その伊福部が自身の作風を民族派でもロマン派でも無く 「日本を背負った新古典」(伊福部談) と認識していたこと、を知るに到り、大栗裕は民族派でもロマン派でもなんでもなく、伊福部と同じ新古典派なのではないか? と考えるに到った。

 ということはつまり、大栗のシンフォニエッタなどという新古典的な作風は彼にとって特別なものではなく、実は、大栗裕は元から新古典だった! と、思うと、素直に聴けるようになった気がする。民族派という先入観から新古典的な曲を聴くのと、新古典派という先入観から新古典的民族風の作品を聴くのとでは、視点というか聴点というか、聴き方がおのずと異なるだろう。

 また、注目すべき事実に、大栗は、朝比奈隆が1955年にベルリンでオーケストラのための「大阪俗謡による幻想曲」(原典版)をやったさいの書評に、「東洋のバルトーク」 などと呼ばれた、というものがある。が、これを、大栗の民族派の根拠とするのは、実は間違いで、なぜかというとバルトークは、実は1930年代以降〜アメリカに渡ってからは 「新古典派(風)」 だからだ。つまり、大栗が新古典派という認識は、実は最初からベルリンの評論家が看破していたのではないか? と思っている。

 バルトークは、若いころはその民族的な素材をガリガリの独自書法で分解・再構成した現代音楽で評判をとったが、大栗の作風とは似ても似つかず、大栗のどこがバルトークやねん、と思ってはいた。が、なんかカッコイイので私もそのままの認識でいた。ところが、大栗の 「東洋のバルトーク」 というのは、民族的素材を現代的な古典主義つまり新古典風な手法で料理したもの、という意味だったのだとしたら。

 ベルリンの評論家、さすがと云わざるを得ない(笑)

 というわけで、このシンフォニエッタ第1番だが、3楽章制で、なんと1楽章アレグロ、2楽章アンダンテ、3楽章アレグロ・モルトという新古典っぷり。小交響曲というだけあって、全体で20分ほどの曲。

 冒頭、大阪俗謡めいた土俗的な導入部。マンドリンオーケストラは、長い持続音をぜんぶトレモロでやるので、なかなかオケ聴きや吹奏楽聴きにはそこが慣れないと思うが、慣れると面白い。打楽器を模した低音部のリズムも明快に、続いて雅楽を模す。

 ちなみに、マンドリンオーケストラは絃五部の部分を第1マンドリン、第2マンドリン、マンドラ、マンドロンチェロにギターとコントラバスを加えた絃六部でやるのもので、基本的にいわゆる 「絃楽合奏」 だが、曲によって木管や打楽器がオプションで加わるのが基本である。金管は(あまり?)入らない模様。

 アレグロ主部になり、小気味良い(大阪俗謡に似た)大栗主題が不気味な低音に乗って駆け抜ける。かなりカッコイイ。テンポが落ちて第2主題はじわじわ盛り上がる時代劇調。そこへ導入部の雅楽がちょっと混じって、第1主題の展開(もしくは再現)から、そのままコーダへ。

 第2楽章は子守歌の印象。ゆったりと、ここは土俗的な旋律を楽しめる。と、そのまま流れずにやや停滞した雰囲気を見せつつも、盛り上がりも見せて、また瞑想的な子守歌へ。あるいは、これは死者を送る述べ送りの歌か。後半には舞曲のような部分もあるが、短調で暗い。全体に、不気味なほどの仄暗さが魅力である。水木しげるの世界のような。

 うって変わって明るい3楽章。これ、オーケストラや吹奏楽でやるとまだやりやすいだろうけど、マンドリンではどうなのよという跳躍した大栗旋律が冒頭からいきなり炸裂。ノックボディも飛び出しての斬新ぶり。三絃めいた「叩き」の奏法も良い。1楽章と同じく、大阪俗謡と共通する旋律がここにも見られる。また後の仮面幻想に似た旋律もある。短いアレグロから、壮大なコーダ、ベターな終結部へ。


第2シンフォニエッタ「ロマンティック」(1974)

 1番と傀儡師がけっこう日本的土俗さを昇華したものだったからか、2番のタイトルはなんと「ロマンティック」ときた。

 その通り、内容もいくぶんか西洋色が強い。それでも大栗らしさはもちろんある。これも3楽章制で、演奏時間は20分〜30分ほど。というか、今後も全部それ。

 第1楽章はアレグロ、第2楽章はアダージョ。第3楽章はアレグロ・モルト。この新古典っぷりも、一貫して変わらない。

 リリカルな、モーツァルトやもっと古い時代のフランス古典めいた主題がいきなり現れ、これが大栗かよと戸惑う。しかしもともと、大栗はモーツァルトやヨハン・シュトラウスを規範としていたというから、こういうのが理想だったのかもしれない。が、第2主題あたりからやおら大栗色が強くなる(笑) 展開部では両方の主題をあっさり扱って、短く終結。

 アダージョも、なんとも優雅なシュトラウス的世界。いかにも西洋風だ。が、これも途中からいきなり日本風になるのが面白い。この変化の妙というか。絶妙な移り変わりが、まるで日本における西洋音楽の受容史にも通じる。そんな中間部から冒頭の西洋旋律に戻るのも意味ありげに聴こえる。

 3楽章も最初はスイスの田舎での踊りのような、ピチカート旋律も楽しい舞曲。それがおさまって中間部では、主要主題が変形された緩徐部となる。ここは調も変わってまるで葬送の音楽のよう。それから主部に戻って、ここは全て西洋的な雰囲気で終わる。


第3シンフォニエッタ「ゴルゴラの丘」(1975)

 3番は標題付。どのような意味があるのか経緯や解説が分からないのだが、各楽章の発想表記は 第1楽章アンダンテ−アレグロ、第2楽章レント、第3楽章アレグロと、これまでと同じようなものになっている。

 ちなみにゴルゴラの丘というのは、イエス・キリストが磔になった丘……はゴルゴタの丘であって、それではない。中央アジアのバーミヤンにあるという、小高い丘のこと。かつてチンギスハーンの軍勢が攻め込んだ際、当地のアフガン人が立てこもって戦ったが、皆殺しにされたという。タリバンに破壊される前のバーミヤンを旅した方の旅行記(ゴルゴラの丘の写真があります)

 つまりここでは、中央アジア的な風土を醸しだす音楽が奏でられるが、新古典的な純粋音楽的な標題と考えると、ここでは根源的標題というもので、特にゴルゴラの丘を風景的に描写したものではないだろう。

 白鳥の湖かという全音階の鄙びて素朴なアンダンテの導入部。まさに中央アジアの風か。すぐに、オリエンタルなアレグロ主部主題が登場する。第2主題もアレグロで、調が次々に変わってゆき、めくるめく砂漠の風景が流れてゆく。再現部では第1主題が扱われ、またも砂漠のテントで催される宴の様子。民族衣装のお姉ちゃんが踊ってくれるよ。でもイスラムだからお酒は無い(たぶん)w そのままコーダかと思いきや、アンダンテが戻ってくる。そこから一気呵成にコーダ。

 2楽章はレント。アンダンテが普通なので、レントは珍しいかもしれない。あえて情景を思い浮かべるのなら、間違いなく夜の月を見上げるものだ。電気も無く、ついでに水も無い。3拍子の静かな踊りが、月光に冴えるだろう。もちろんこれは描写音楽ではないから、そんな情景はどこにも無い。しかしそれが実によく似合う曲だといえる。中間部の緊迫した響きは、狼か盗賊でも現れただろうか。冒頭に戻って盛り上がって小結尾を作って、それからまた第1主題の穏やかな響きの中に終結する。

 3楽章ではやおらおどろおどろしい大栗節。音楽は狂詩曲ふうに自由に進行する。当初はアレグロの楽想だが、中間部で音楽は静まり、緊張が張りつめる。と、美しい旋律が登場する。バーミヤンの美女か。最後に1楽章の第1主題も顔を出して、循環形式のようにもなって唐突に終わる。

 今は昔、バーミヤンは貧しくとも美しい平和な場所だったが、いまや内戦に宗教戦争にテロリストにメチャクチャだ。石仏も、もう無い。もっとも、7−8世紀に当地に入ったイスラム教徒が石仏の顔を削り取っているので、やってることは変わらないのかなあ、などとも思うのだが、いかがだろう。


第4シンフォニエッタ「ラビュリントス」(1975)

 3番と同時に作曲されていたという4番は、タイトルが「ラビュリントス」とある。こちらは各楽章にもタイトルが入っている。

 これはあのミノタウロス伝説にある迷宮(ラビリンス)のことで、各楽章は第1楽章テセウス、第2楽章アリアドネ、第3楽章ミノタウロスとあるので、より標題音楽に近くなっている。いや、これはもうこうなると標題音楽と言ってしまっても良いように感じる。

 1楽章テセウスは、ミノタウロスを退治する勇者。序奏無しで、いきなり雄々しく明るいテセウスの主題が。次いでズズーン、とこれからの困難を示すような主題。テセウス主題と交互に扱われ、テセウスはいよいよ迷宮に入り込む。第2主題はいきなり優しげなものだが、それもすぐにテセウス主題とくんずほぐれつして展開してゆく。困難に立ち向かい人々を救うテセウスは、ここではあくまで明るい。このテセウス主題も実に西洋的なもので、明朗な新古典的な装いが楽しいもの。再現部で両主題を繰り返して、結尾部をへてコーダへ。

 2楽章アリアドネは、ミノタウロスの異父妹にしてミノス王の娘のくせにテセウスの味方をし、作戦成功の暁には私をこの島から連れ出してという約束をして、例の毛糸作戦で見事テセウスを迷宮より脱出させたが、逃避行の途中で愛するテセウスに捨てられ、しかもテセウスはアリアドネの妹と結婚するというなんともなお話。悲劇というべきか、喜劇というべきか。後の悲劇を予兆するかのような哀しげな導入部。そこから、ジャンプするような旋律が面白いアリアドネのテーマ。全体にロンドっぽくテーマが繰り返されるが、けして1楽章と比べると明るくないのを聴くに、やはり後の悲劇性を表現しているのだろう。途中に妖艶な雰囲気も出てくるが、最後まで、アリアドネには哀しさがつきまとう。

 3楽章はミノタウロス。牛頭魔人の人食い怪物であり、悲劇の王子でもある。マンドリンオーケストラとしてはなかなか強烈な表現手法の導入部より、暗く湿った迷宮の主題が。木管楽器の不協和音に彩られて、いよいよ恐るべきミノタウロスが登場する。緊迫する場面。テセウスとミノタウロスの戦い。素早いテセウスが剣を振り上げ、ミノタウロスは巨大な戦斧を叩きつける。ここら辺の描写力は、吹奏楽のための神話でもよく現れている、大栗の真骨頂のひとつ。やがてミノタウロス主題は弱くなって、消えてしまう。そして勝利の凱歌をあげるテセウスのテーマにより、華々しく終結する。


第5シンフォニエッタ(1977)

 これは、1番以来の無タイトル。より、純粋音楽っぽい表情となっている。

 1楽章アレグロ、2楽章アンダンテ、3楽章アレグロ・モルトと、内容としては、タイトルがあろうと無かろうと、これまでと変わらない。

 こういう、無タイトルなものほど意外に土俗的な主題が現れて興味深い。冒頭より低音が不気味な連打に、低い音域の主題が連続する。ソナタ形式というより、ひとつの主題を展開してゆく手法にも聴こえるが、分からない。早坂文雄のいうところの、一元ソナタ形式というわけでも無いだろうが。日本的というより、やはり西洋折衷的な、オリエンタル風とも言える主題が、リズムに乗ってズンズンと心地よく進んでゆく。その中に、第2主題もも混じっているかもしれないが。全体に低い位置での主題操作が面白い。

 2楽章は、神秘的な音楽造りが特徴的か。こう、トレモロでゆったり進まれると、バラライカの奏でるロシア民族音楽のような雰囲気もあるかもしれない。ゆっくりとした、アダージョに近いもの。(演奏がそうなのかもしれないが) そこへ寂しげに鳴るクラリネットも良い。後半に盛り上がって、そこから霧の湿地帯を彷徨うがごとく手さぐりで進み、終わる。

 3楽章はなんと! マンドリンオーケストラのための組曲「陰陽師」(下記参照)の3楽章と主題が同じ。しかし展開が異なる。そういや、この2曲は作曲年(完成年)が同じだ。舞曲風の主題が発展してゆく一種の変奏曲。変奏・展開の仕方が陰陽師の3楽章とは異なる。こちらのほうが統一主題を展開してゆく。静かに進むアンダンテの中間部なども異なる。そのままアンダンテから主題が再現され、クラリネットによる大阪俗謡風の主題も現れる。それから、コーダにより終結する。

 これは、陰陽師3楽章の別バージョン、といったものだろう。


第6シンフォニエッタ「土偶」(1978)

 「土偶」とはまた、不思議なタイトルだ。ここでも、下記するマンドリンオーケストラのための組曲「古代舞曲」に通じる、縄文時代の精神の音化が見られるだろう。

 1楽章アレグロ、2楽章アンダンテ、3楽章アレグロ・モルト。これまでとおんなじ。

 低音のピチカートから主題が立ちのぼってくる。これまでとは趣の異なる、新しい音調が面白い。木管のアクセントもいいし、ギターの刻みにからむマンドリンの不思議な主題。ひとつの主題が、延々と展開されてゆく。再現部というかリピートがあって、大きく繰り返して静かなコーダへ。小規模なロンド・ソナタ形式というべきものに聴こえる。

 2楽章はそんなコーダの音調を引き継いで、大きなる不安の中から、ちょっと中国っぽいような音階の旋律がこれもじわりと上がってくる。古代の祈りの風景か。大陸からの影響か。ゆったりとした平原の風の音か。三部形式のようなロンド。

 3楽章は勢い良く緊張感のある主題がいきなり現れる。呪術めいた主題で、第1楽章に通じる主題。ユーモラスの中に真剣な集中力と、舞踊の精神が感じられる。第2主題は民謡風で、すぐに消える。これもロンドで当初の主題に戻り、展開が繰り返され、コーダに。


第7シンフォニエッタ「コントラスト」(1981)

 ほぼ遺作に近いもので、吹奏楽のための仮面幻想(1981)とおなじく、死の前年の最晩年作品となっている。

 1楽章アンダンテ−アレグロ、2楽章アンダンテ、3楽章アレグロ。最後までこれ。

 これまでに無い、ちょっと不思議な感じのスタートになる。短い動機がバチンバチンと絃が叩かれるように表される。アンダンテだが、30秒もせずにいきなりアレグロへ。第1主題は勢い良く緊張感のあるものだが、第2主題はまた2番に通じる明らかな西洋風の、朗らかな南フランスあるいはイタリアの民謡風なもの。リピートで繰り返され、展開されて進んでゆくソナタ形式。次第に音調が盛り上がってゆき、終結する。

 2楽章も、主題はどこか日本的ではない。が、どこか日本的でもある。という、なんとも不思議な感触がするもの。アルプスの田舎で鳴っているような気もするし、信濃の山奥で鳴っているような気もする。そんな旋律だ。鄙びていて、物悲しい。盛り上がって、中断され、主題が戻ると、静かに消える。

 3楽章、明るいお祭の主題が現れる。これもやはり西洋ふうだ。軽やかなトレモロが、メキシコのような陽気さ、あるいは西部劇のような爽快さすら想起させる。ソナタ形式というより、やはりロンドか。シンフォニエッタは、前半はソナタ形式(のようなものを含む)が多く、後半はロンドが多いかもしれない。冒頭の不気味な和音と比較して、実に爽快な雰囲気で終わる。大栗にしては珍しいほどに爽快だ。大栗、死の前年にしてこの境地に来たのか、といったところ。

 なお、本作にはシンフォニエッタシリーズで唯一、管楽器が含まれておらず、それへ管楽器を含めた版を7+1/2番というのだそうだ。これは、本来であれば新作を予定したところ、病床のためかなわず、この7番を改作するという形で管楽器を加えた版を作ったためという。


 大栗のシンフォニエッタ7曲は、         

無題 1番 5番
発想記号的標題 2番「ロマンティック」 7番「コントラスト」
標題音楽的なもの 3番「ゴルゴラの丘」 4番「ラビュリュントス」 6番「土偶」

 となっている。音楽の内容的には、全体的に新古典主義で、形式はほぼ一緒。古典的なソナタ形式あるいはそれに近いものを第1楽章に持ってきて、第2楽章は緩徐楽章。そして第3楽章はフィナーレと、スケルツォを欠く完全なモーツァルト以前のシンフォニアを模倣している。そのため、シンフォニエッタということにしたのかもしれない。

 ほとんど同じとはいえ、細かく聴いてゆくとやはり上の分類わけに従った特徴があるのが分かる。無題のそれは日本的な土俗さをうまく技法(形式)の中に入れたもので、より無色な純粋音楽的な日本的新古典といえる。2番と4番はそれよりかは西洋ふうな素材を使っている。3、4、6番は標題音楽的(標題音楽そのものではない)で、主題も標題にそった扱われ方をする。


 実は、シンフォニエッタシリーズの合間合間に、マンドリンオーケストラのための組曲というシリーズがある。これがなんでシフフォニエッタではなかったのだろう? と思うのだが、たぶん本当に組曲としてのほどしか楽章間のつながりが無かったか、シンフォニエッタよりもっと標題音楽的な内容になっていたのだろう、と想像する。

 独唱とマンドリンオーケストラのための組曲「若きロブの女王」(1968年)
 マンドリンオーケストラのための組曲「傀儡師」(1972)
 マンドリンオーケストラのための交響的三章「巫術師」(1976)
 マンドリンオーケストラのための組曲「陰陽師」(1977)
 マンドリンオーケストラのための古代舞曲(1978)
 
 ぜんぶ3楽章制で、演奏時間もそれぞれ20〜30分ほど。内容としてはシンフォニエッタシリーズとほとんど変わらないのだが、より土俗さが増して、1曲1曲が幻想曲・狂詩曲的な趣が強いかな? といったていど。

 5曲もあるし、とりあえず置いておこうと思ったのだが、ついでなんでこちらも紹介したい。なお「若きロブの女王」は未聴なので割愛する。


マンドリンオーケストラのための組曲「傀儡師」(1972)

 年代的には、1番と2番のあいだで、第1楽章「戯」 第2楽章「哭」 第3楽章「痴」 とある。経緯や解説が分からないので、どういう設定の音楽なのか分からないのがアレなのだが、標題音楽のような、ちがうような、といったところ。作曲家の中には架空のバレエ音楽から想像した組曲という設定のものもあるので(吉松隆だが)、こういったタイトルものの曲は、聴くのに解説がやはり必要なのかな、と思う。

 「戯」と題された1楽章はアレグロ。何かサスペンス番組のサントラみたいな冒頭から、木管楽器で吹くような複雑なテーマがトレモロで容赦なく示される。第2主題は篠笛を模したもの。展開部では主に第1主題を取り扱っているように聴こえる。再現部で第1主題に戻ってコーダへ。

 「哭」である第2楽章は、悲痛な面持ちのアンダンテ。いや、アダージョか。終始重苦しく、まさに慟哭とまでに盛り上がる部分もある。クラリネットとフルートの木管合奏の部分もあって、味わい深い。後半部では悲劇的な盛り上がりを見せる。どこまでも音楽は緊張感のあるドラマを保持する。

 「痴」の第3楽章、どういうつもりで痴なのか興味深い。明るい舞曲ふう。流れる旋律が心地よいが、けっこう荒々しく変拍子が割り込んでくる。ひと通り踊りまくった後、短い間奏部をおいて一気にコーダへゆく。


マンドリンオーケストラのための交響的三章「巫術師」(1976)

 こちらも各楽章にタイトルがある。第1楽章「祷」 第2楽章「巫」 第3楽章「呪」 という、なんともおどろおどろしいもの。

 まずは第1楽章「祷」であるが、やはりその標題性からか、バーバリィな響きが顕著。がそこは神聖な祈りの音楽でもあり、土俗的な信仰の表現でもある。アレグロだが変拍子が凄く、また狂詩曲的に楽想やテンポが変化してゆく。リズミックな旋律を主体としているが、ときおり流れるような部分も出てくる。このシャンシャンシャンというリズムは、鈴の音でも表しているのだろうか?

 2楽章「巫」でも雰囲気(音調)は変わらない。深刻なる祈りと土俗性、そして恐ろしげな曲調。まるでこれは呪いだ。アンダンテで綴られる中低音の不気味な旋律。それが曲想を微妙に変化させながら延々と続く。

 3楽章はズバリ「呪」だ。大栗には既にオーケストラのための「呪」(1968)という曲もあるが、それとの関連性は分からない。アレグロで式神が増殖するかのごとき細かな動機が、ざわざわと進んでゆく。中間部ではひっそりと暗闇に呪文が流れ、すぐにアレグロへ戻る。ザムザムという不思議なリズムに支えられた独特の旋律が最後まで続いて、終結する。

 ここでいう巫術とは、おそらく奈良・平安時代あたりの民間陰陽道と関連するものだろう。


マンドリンオーケストラのための組曲「陰陽師」(1977)

 傀儡師、巫術師ときて、最後が陰陽師。なんなんだ、このシリーズは(笑)

 いまでこそ陰陽師などと小説や映画で式神をとばして妖怪退治するイメーがあるが、作曲当時は無かったような気がする。ここでいう陰陽師とは、朝廷でひたすら占いをして天文を読み、暦を作るお役人のことだろうか? それとも純粋に大阪の清明神社に由来する曲なのだろうか?

 楽章にタイトルは無く、1楽章アンダンテ−アレグロ、2楽章アンダンテ、3楽章アレグロと、いつも通りというか、相変わらずの新古典性というか。これはただ単にネタ切れなのか、組曲といえどシンフォニエッタに近い内容なのかは不明。

 冒頭のアンダンテは、下降形の深刻な動機から幕を開ける。導入動機を二度繰り返し、アレグロの現代チェンバロ曲めいた機械的な主題になる。特に日本的なものには聴こえない。そのあたりが、楽章にタイトルをつけなかった由来だろうか。しかし、大栗的な音の跳躍は認められる。第2主題はテンポを落として、サスペンス調。展開部では第2主題がどんどん暗くなりながら闇を描くようにして扱われ、日本の闇を支配してきた陰陽師を象徴しているのかな、と考えさせられる。ちょっと、これまでの大栗には珍しい主題の扱い方だ。オスティナートで短く動機を展開させつつ、アレグロとアンダンテを交互に展開し、たっぷりと緊張感を持続して冒頭の動機に戻って、静かに終結。これまでの組曲の1楽章では、最も内容が濃い音楽となっている。アレグロよりアンダンテの比重が大きい、大栗には珍しい第1楽章。

 2楽章もアンダンテ。一転して西洋っぽい(西部劇っぽい?)主題が面白い。乾いたギターの音色が、伊福部みたいな雰囲気だ。途中に現れるクラリネットの旋律もどこか不気味。オスティナートめいた伴奏に、たゆとう旋律ともとれない旋律がひたすら続く。無調ではないが、かなり無調っぽい。最後はしっとりとテーマが消え入る。

 3楽章になってようやく元気になる。しかも、ここにきてちょっと日本っぽい。ぴょんぴょん飛び跳ねる主題が面白い。土俗的ながらもどこか雅趣も感じられるのは、都で活躍した陰陽師を意識してか。ロンドめいた主題の繰り返しの中に、箏曲のような雰囲気も隠している。木管きが突如として大阪俗謡のような調子も出す。ちなみにこの主題は、同じ年に作曲されたシンフォニエッタ第5番の第3楽章と同じものを使用している。ただし展開は若干異なる。こちらのほうが複雑な展開を行っていると感じる。

 この曲のテーマは不気味。そう言えるほど、当項で扱っているマンドリン合奏の中では変わっているように思える。初期にオーケストラ曲に、大栗流に無調をあしらったものがあるが、特に1・2楽章はそれに近いかもしれない。3楽章は明快な舞曲であるが。


マンドリンオーケストラのための古代舞曲(1978)

 楽章のタイトル復活。1楽章「祭典舞曲」、2楽章「司祭の踊り」、3楽章は「祭典舞曲2」となっている。シンフォニエッタ6番「土偶」と作曲年が同じであり、共通するモティーフを感じるとすれば、ここでいう司祭とは神道発祥以前の、縄文時代の古代的な呪術を扱うもの、あるいは卑弥呼の時代の鬼道の司祭ではないかと思える。

 1楽章はいかにも土俗的な雰囲気。どうも3拍子のようで、大栗にしては不思議な感じがする。3拍子でもワルツではない。呪術めいたリズムの強調と、途中からやおら始まる2拍子で速い部分との対比。でろでろとした音調で、あくまで旋律というよりリズムを主体とした進行で、唐突に終結。アレグロではあるが、テンポはゆったりめ。

 2楽章は緩徐楽章。レントに近い。鈴めいて震えるトレモロが、呪術的な要素を表現する。やがて低音から呪いの言葉、祈りの感覚が新しい旋律として沸き上がって、アレグロとなる。も、すぐにレント(アンダンテ)へ戻る。地を這う蛇のような曲は、やがて地の底へ消えてゆく。

 3楽章は祭典舞曲の再来。アタッカで、ここにつながるように聴こえる。同じくリズム主体とはいえ、1楽章とは異なる主題であり、木管も存在を主張する。流れるような主題に変わって、まるで集団演舞のように盛り上がってゆく。そして、終結部はこれも唐突に終結音形が登場して、呆気なく終わる。


 これらの諸曲は、自分がマンドリンをまるで聴いたことが無かったからその音色に慣れなく、聴き初めはみんな同じ曲に聴こえたが、本稿執筆にあたり10年ぶりくらいに聴いたら、我ながら違いが良く分かって、かなり面白かった。

 ところで、もちろん原曲としてのマンドリンの音色も良いものだが、やはりオーケストラ聴きとしては、これらの曲をオーケストラに編曲してほしいなあ、と強く思う。吹奏楽でも悪くないと思うが、これらの曲調は絃楽器のほうが似合っていると思う。もともと撥絃楽器用に書かれているし。ただ、オーケストラといっても、マンドリン部を絃楽五部に移して、木管楽器はそのままという、最低限の編曲が良いと思う。なぜなら、いまとなっては誰か他の作曲家に頼むしかないわけで、金管や打楽器も加えた完全なオーケストレーションにするには、大栗の手でないと違和感が出るように感じるのだ。その意味でも、吹奏楽はちょっと苦しいかもしれない。






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