マルトゥッチ(1856−1909)


 イタリアの作曲家ジュゼッペ・マルトゥッチ。ボローニャの音楽院で、若いころのレスピーギへ作曲を教えた。このころのイタリアの作曲家にしてはオペラを好まず、作品は全て器楽曲である。指揮者やピアニストとしても活躍した。古典的外観を持つ交響曲が2曲ある。


第1交響曲(1895)

 実に古典的な4楽章制で、40分ほどの曲。

 1楽章アレグロもアポロ的な古典的明るさを持つ。しかしその中にも、情念のような楽想があってロマン派の流れも示す。いや、この第2主題は確かに「歌」がある。正統なソナタ形式。生没年の近いマーラーは、最晩年の1911年に、ニューヨークのサヨナラコンサートでマルトゥッチのピアノ協奏曲を指揮した。ワーグナーのイタリア初演に尽力したマルトゥッチの好みは、確かにドイツ的な世界だったと思われる。展開部も流れるような見事な技術でまとめられ、第1第2主題を漏れなく展開し分かりやすい。

 緩徐楽章はアンダンテ。8分ほどであり、ロマン派とはいえ、マーラー的世界の後期ロマン派ではなく、やはりもっと古典的である。チェロのソロがシブイ。

 6分ほどのアレグレットの3楽章は、スケルツォには無い優しさがうれしい。主題も実に「ドイツ的」こう言っていいと思う。それはやはり、ドイツ的な構成がしっかりしているからだと思う。

 最も規模の大きな4楽章はモッソ−アレグロ・リゾルートである。なんか、いかにもメンデルスゾーン的な雰囲気も漂わせつつ、いきなりブラームスっぽ盛り上がりも見せる。楽想もそうなのだけど、オーケストレーションがいかにも2菅を駆使して古典的。に聴こえる(笑)

 これを古典的と言わずして何と言おうか。もっとイタリアチックな(どのような楽想がイタリア的かと言われれば、答えに窮するのではあるが)曲だったら、イタリア国民楽派とでもなるのだろうけど。単独楽曲ではタランテラとかノットゥルノとか書いているので、それを交響曲に入れたほうが面白かったろう。

 ロマン派の残念なところは主題は素敵だけど展開がなんだかなーというものだが(展開部はあくまで「つなぎ」なので)、これもその通りなのがなんとも(^^;

 しかし、楽想自体は素晴らしく、盛り上がってコーダも終結も明るく良い。とはいえ、やっぱり、ブラームス的だな。

 どうしたもんだか、ノヴェレッタやタランテラなどの、単発のオーケストラ曲の方が断然面白いw


第2交響曲(1904)

 39歳に1番を書いたマルトゥッチだが、48歳に作曲した2番はもう晩年の作である。

 より規模が大きくなり、楽想も雄大で、後期ロマン派一歩手前という感じ。こちらも40分ほどの大曲。大きな精神の序奏から、次第にアレグロとなる1楽章。1番より技法的に進展が見られて、複雑な音響になっている。しかし、壮大な主題の魅力がある代わりに、どうもすっきりしない展開を見せる。どちらかというと幻想曲的な雰囲気。ようやく、自分がドイツ式の形式観と相性が悪いのに気づいたのだろうか。

 2楽章はスケルツォ(アレグロ・ヴィバーチェ)。トリオがあるような無いような。リズミックなコミカルさもある。

 3楽章はアダージョで、そこはロマン派的に規模はそれほど大きくなく、だいたいこの程度の規模のものが多い第3国クラシックの常套である。やや頽廃的な雰囲気も残しつつ、木管や絃の移り変わる旋律は美しく、かつやはりドイツ的。これはイタリアから見て、アルプスを超えた先で発展した音楽への敬意なのだろうか。

 4楽章のまたお堅いこと!!w まさに、作者名を伏せて聴かせれば誰もがドイツロマン派のマイナー交響曲と思うに間違いない。そしてまたもやこの、なんともすっきりしないモヤモヤした古典的な展開部(笑) 盛り上がり方はうまく、コーダも堂々としたもの。

 とはいえ、なんでマーラーが6番とか7番とか書いていた時代に、こういう音楽を書かねばならなかったのか。単なる才能の差か。それとも信念か。

 この人は正直、形式好きだが、形式に向いてない。単発の自由形式のオーケストラ曲のほうが素晴らしい。自由形式の曲が良いだけに、それが不幸なのかどうか。





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