ブラームス(1833-1897 )


 ブラームスは、オーケストレーションが実に見事だと思う。

 個人的に、オーケストレーションがとても上手な作家をあえて5人挙げよ、といわれれば、ストラヴィンスキー マーラー ラヴェル ブラームス 伊福部昭 となる。

 ストラヴィンスキーはリムスキー=コルサコフに門下で最も幾何学的かつユニークかつ効果的なオーケストレーションを行なう、独特の天才の妙をとって。マーラーは、膨大な管絃楽を、リヒャルト・シュトラウスも天才的だが、あのように混乱の極みではなく意外にハッキリ際立たせ、交響曲の中においての室内学的な職人技、またマーラーしかあり得ないというオリジナルな手法をとった。ラヴェルはいうまでもなし。伊福部昭は日本人の作家でもっとも効果的な世界に通じる管絃楽法を行なう人だと思っている。名著「管絃楽法」は日本の若い作曲家のバイブルということだ。

 しかし、ブラームスって!?

 私は、身に沁みてというか、散々な眼にあって、実感としてそう確信している。

 それはアマオケで何度か演奏していて身に沁みたのだが、まず芸が細かい。このブラームスって人は自分がメロディー・メーカーで無いことに気付いており、その点でメロディー・メーカーのドヴォルザークを尊敬していたが、ブラームスのメロディーというか主題や動機は息が短く、長くても地味でパッとせず(音楽的に悪いという意味ではない)、けしてきらびやかなものではないし、素朴で目立たなく、通好み。それは大衆受けする「メロディー」としては負けている。

 しかし、ブラームスはそれを、まさに正統シンフォニックというか、なんというか、ふつうの2管編成のオーケストラで、変幻自在に駆使している。たくさんの楽器を使ってたくさんの音を出すのは、それはそれで技術やセンスを要するのだが、ふつうのオーケストラで、マニアックなまでに細かいオーケストレーション。ひとつの主題を分断したり逆さまにしたり分解して組み換えたり調を変えたりテンポを変えたり楽器を変えたりリズムを変えたり、まず細かい。

 新しい旋律が出てくるたびに、これは前の旋律のどこの部分をどのように扱っているか、どう関連があるのか、これから先のどの部分とつながってゆくのか、等々、常に考える必要がある。これはオーケストレーションというより作曲そのものでもあるのだが、管絃楽全体がそう構成されているのだから、たまらない。他の作家でも、もちろんそういった作曲技法はふんだんに使われているのだが、ブラームスは度が過ぎている。それを専門用語で「主題労作」というらしいが、その労作がもう、おかしい。偏執狂的だ。

 私が所属していたアマオケの指揮の先生はブラームスを 「主題のリサイクル作曲家」 と呼んでいた。私はただのネチネチ作曲だと思っている。

 それがまた、その楽譜を、オーケストレーションを、ちゃんと活かす様に指揮したり演奏したりするのが至難なのだが、それは置いておく。

 この人のオーケストレーションはまず無駄がなく、無意味もなく、実に計算されつくしていて、完璧の部類に属するものだとここで宣言しておきたい。しかもパズル的な要素がふんだんで、それが近代作家のように微細を尽くしているのともちがう、なんとも職人的なマイスターの世界で、なんというか、いい仕事してるんですな。

 友人だったドヴォルザークなどを比較にだしてみると、彼のメロディーは逸品だが、ことオーケストレーションにしてみれば、ドボ8だって、なんでここをトロンボーンで吹かなきゃならんの!? という部分が。(と、某プロ楽団のトロンボーンの先生が酔って云っていました:笑)

 まして、シンフォニックな構造が魅力のコンチェルトや室内楽においてさえあのすばらしさ。交響曲そのものを楽しまずして、ブラームスのなにをか聴かんや。

余祿

 また、ブラームスはオーケストラをピアノと思ってオーケストレーションしている点も見(聴き)逃せない。ピアノの達人だったブラームスは、ピアノの流れるような上昇下降の、鬼のようなパッセージを平気で弦楽群にやらせたり、揺れるような左手から右手へ移るパッセージを管楽器(ファゴットとクラリネットとか)にやらせたりして、そういう意味では、上手なのかどうか……(苦笑)

 ちなみに私はブラームスの 「ブレーキ踏みながらアクセル踏むような」 ふんぎ〜〜と歯を食いしばる音楽は血圧が上がりそうで苦手です。 


第1交響曲(1876/77)

 冒頭からいきなり燃える。

 ベートーヴェンの遺産を受け継ぐ新古典主義の大家として、この時代、ヴァーグナーやブルックナーと対抗していた、あるいは対抗馬として扱われたブラームスだが、なんの、聴いてみれば意外に斬新な響きに、ただの古典派のエピゴーネンではないのを示している。むしろ、曲の内容や響きそのものに関しては、まったく後期ロマン派のもう1つの形を表している。
 
 作品主題的にも暗→明へと、ベートーヴェンをかなり強く意識して書かれているが、そういう作品をずっと求められてきたというプレッシャーもあってか、構想から21年、具体的な作業が始められたと思われる年代からも14年を経て完成された労作中の労作。しかも、第2楽章が完成の翌年にかなり改訂されている。

 また、ブラームスは交響曲でベートーヴェン流の、3拍子によるスケルツォ楽章をついに書かなかった。舞曲っぽい楽章はあるにはあるが、明確なスケルツォやレントラーが無いのも独創的だろう。

 第1主題より後に作曲されたという、燃える冒頭序奏付ソナタ形式の第1楽章。ハ短調という調性は、ベートーヴェンの5番と同じなので、似た響になっている。リピートの有り無しも関係するだろうが、規模の割には演奏時間もちょうど良く、さすがの作曲技術だと思う。ティンパニの「運命的な」連打と主に半音進行で駆け上がる主題の「胸を掻きむしる感」は、これはたまらないものがある。上昇主題と相まみえる下降主題もいい。その主要動機(C-C♯-D)で全曲が作曲されているという労作ぶり。

 経過部を経て、再びやや盛り上がった後、木管から渋くコラールが歌われ、主部アレグロ。絃楽により、序奏の変形による第1主題。展開の後、速度を落とし常套的に木管により第2主題。ここでも第1主題がからみつつというブラームス的な藝の細かさ。リピートがあるためか、演奏時間を考慮してか、展開部のヴォリュームは少ない。まるで推移部のように主題はさりげなく扱われ、ドーンと再現部にて第1主題が戻ってきて盛り上がりを取り戻す。しっとりとしたコーダでは、再びティンパニがリズムを倍にして支える序奏主題が扱われ、平安的に終結。

 第2楽章は緩徐楽章のアンダンテ。複合三部形式。時間的には、短い。ホ長調ながらも仄かに暗く、渋い味わいはいかにもブラームスだろう。オーボエが明るくも寂しいソロを吹き、どこか風も冷たいが、日差しは暖かい。木管のソロが目立ち、中間部はドラマティックに盛り上がる。後半ではコンサートマスターによるヴァイオリンソロも聴き物だ。

 3楽章は上記のように、スケルツォではなく、アレグレット。これは交響曲としては珍しく、管絃楽のためのセレナード的な雰囲気を与えてくれる。しかも演奏時間も短く(約5分)間奏曲ふうでもある。これも複合三部形式。ハンガリー舞曲はブラームスのアタリだが、ああいう異国情緒もありつつ、素朴な民族舞曲ふうなところも魅力だ。中間部ではベートーヴェンの第九4楽章との関連が指摘されている。これはクラリネットから示される旋律が確かにそれっぽいし、伴奏もパロディー的な面白さを湛える。

 4楽章は最も規模が大きく、序奏付のソナタ形式だが、なんと展開部を欠くというマーラー張りの斬新さ。いや、こっちが先か。別に展開部を欠くのが後期ロマン派の専売特許というでも無いが、ただの古典派の続きのような作曲家には、無理な発想だろう。ただし、提示部が展開部を兼ねて、提示されながら展開してゆくというものではなく、再現部が展開部を兼ねているようだ。

 アダージョの序奏が長く、深刻な響きの中にピッチカートと交差して第1主題の断片が徐々に姿を表してゆく。それからホルンが朗々とアルペンホルンを模し、フルートがその響きを天空に谺させる。それをさらに地上で受けるホルンは、まったくマーラーもかくやの響き。

 一瞬の全休符の後、アレグロ主部。絃楽器が歌い上げるその歌謡的な第1主題はことに高名だろう。第1主題が少し扱われて盛り上がってから、アルペンホルン主題の変形の第2主題が絃楽器で登場。提示部の結尾部が現れ、いったん終結した後、再び第1主題が帰ってくる。これが再現部で、展開部をそっくり欠いているわけだが、再現部は確かに、主題が展開されて少しずつ形を変えてゆく。やおら怒濤に盛り上がって、一気に鎮静すると、アルペンホルン主題が再現される。ティンパニの連打が曲冒頭の印象を回帰させる。提示部の結尾部も再現されると、調を変えてコーダに。激しいティンパニと金管の雄叫びが勝利のファンファーレと化し、第2主題からとられた和音が心地よく叩きつけられ、華々しい終結をむかえる。

 確かに画期的というでも無いが、常套なソナタ形式ではなく、古典的な響きの中にブラームス流の斬新さを詰め込んだ、魅力的な楽曲になっている。

 1番の作曲と成功の後、ブラームスはプレッシャーや煩わしさから解放されたのか、その後はかなりの早書きでもっと自由で自分らしい交響曲を立て続けに書いた。


第2交響曲(1877)

 1番でうまい具合に行ったのがよっぽどブラームスの肩の荷を下ろしたのか、1977年の6月に避暑で訪れたオーストリア、ヴェルター湖に隣接する寒村ペルチャッハにて、一夏のあいだに一気に書き上げてしまった。

 ちなみに、同じくヴェルター湖畔の離れた場所の、さらに鄙びたマイヤーニヒでは、マーラーが交響曲を毎夏のオフシーズンに書き上げている。

 さて1番で比較的英雄的・対外的、つまりよそ行きな音楽を書き上げたブラームスはもうそんなものはこりごりとでもいわんばかりに、この2番を徹底的に自分のやり方で書き上げたと感じる。加えて、1番もそうだったのだが、なんといってもこの40分を超える交響曲の、冒頭の1小節に低音で示される3つの音(D-C♯-D) が主要動機として、ほとんど全てのフレーズをその3音の発展形で構成している。その執拗で偏執狂的な構成力こそブラームスのブラームスたる最も顕著な所以であり、逆にメロディーメーカーではないブラームスの、執念とも云える作曲技法の粋なのだが、それで生まれた音楽がいかにも牧歌的な、ブラームスの田園などと称される朗らかなものというのが、これがまた凄い。

 第1楽章から闇は潜んでいる。

 ホルンによるいかにも朗らかな第1主題の前に、聴こえるか聴こえないかという音量で、低音が不気味なたった1小節の、序奏とも云えない主要動機の提示を行う。まさに未完成のごとき闇がここにある。その闇がブラームスにとってなんなのかは知る由も無いが、とにかくブラームスという人は、性格に難があり、しかもそれを自覚していたようで、無意識にしても、意識的にしても、それは現れてくる。第1主題を木管が受け取っても、低音動機が蛇のようにからんでくる。やがてヴァイオリンが第1主題を元に経過譜を奏し、チェロとヴィオラによる哀愁に満ちた第2主題。美しくももの悲しげな調子。小結尾部(コデッタ)をむかえ、展開部へ。

 第1主題が奏され、それが延々と展開されてゆく。第2主題はあまり現れない。さすが、変奏が見事で、トロンボーンの荒々しい響きも効果的。新古典主義ともいわれるブラームスだが、時代的には後期ロマン派であり、その音楽の展開の見事さはまさにそれだと云える。同じく、片方の主題のみをもって展開しても、チャイコーフスキィとの違いはそこなのかな、と思う。

 ティンパニの一瞬のソロから再現部へ。第2主題が現れ、コデッタも再現。緩やかな 「湖畔の落日のような」 終結へとむかい、ホルンのソロも加わり、美しく楽章が終わる。今交響曲の白眉は、1楽章に感じる、とても美しい音楽であるが、森の闇をも表現されているのを聴き逃してはならない。

 2楽章アダージョもソナタ形式。一転して重々しい、第1主題がチェロによりやおら現れる。各楽器によりしばらくその主題を展開し、次にみずみずしい第2主題が木管によって演奏される。それから音楽は劇的に推移して、調子も悲劇的となる。ここは展開部のようだが、かなり短い。第1主題が再現され、それが展開しながら続くので、展開部はいったん終結するも、再現部がまたも展開部を兼ねて続いているというけっこう複雑な、または自由な形式になっている。そこらへんは、あまりこだわらずに聴くのも良いが、まあまあでも分かって聴くとなお面白いのも、鳴り響く形式たる交響曲の醍醐味だろう。そこからまたも暗い音調となるも、最後は平安の響きを予感して終わる。

 3楽章はスケルツォではなく、これも1番と同じくアレグレット・グラチオーソ。やはり演奏時間も短く(5分ほど)間奏曲的な響きもする小さなロンド形式で、B部はプレストになる。スケルツォではないことで全体に荒々しさを失わせ、典雅な趣を与えている。舞曲ふうでもあるが、オーボエの長閑な響きはこの2番交響曲の雰囲気を壊していない。

 田舎村の祭典の趣である第4楽章は、ソナタ形式。喜ばしい主題が絃楽で現れ、オーケストラ全体に広がる。クラリネットの輝かしいソロから、やや歓喜をおさえた渋く流麗な第2主題。展開部は全員がそろって踊りを踊る。華々しく賑やかで、明るい。マーラーの1番っぽい動きもあるような、ないような?w (マーラーはけっこう色々な人の楽句をぱくってる)

 第1主題が弱奏で戻ってきて再現部。第2主題もすぐに現れ、ティンパニの祭太鼓も華やかに、コーダではいよいよ盛り上がって、ファンファーレも花火となって、終結する。

 しかし、冒頭1小節3音で構成される主題が、全曲を通しての統一主題だというのだから、いや主題労作恐れ入ります。


第3交響曲(1883)

 これはむかし、N響アワーの司会を岩城宏之がやっていたころ、ずっとこの3番の3楽章がテーマ音楽で、この曲といえば岩城の顔が思い浮かんで笑ってしまったものだが、N響アワーという番組自体も終わってしまって、過日の思い出の一コマとなってしまったいま、ようやくふつうに聴けるようになった気がする。

 1番、2番に比べてさらに内向的な性格を有している。解説によると、3番では主要動機3音にモットー主題(F-A♭-F)が採用されている。この3音で、執拗なまでの構築さ。音楽は音の建築物以外のなんでもないと云わんばかりの、その煉瓦造りの確かさ。モットーは、"Frei aber froh"(自由だが喜ばしく)だとされているそうである。

 1楽章6/4拍子アレグロコンブリオソナタ形式はリピート記号アリという古典ぶり。管楽器の厚いモットー提示に絃楽により第1主題がかぶってくる。経過部を経て第2主題はクラリネットにより、これは9/4拍子。展開部は激しい調子となる。いったん静まって、ホルンによりモットー提示の展開主題が現れる。続いて第1主題がゆるやかに展開され、提示部を郷愁させる。と、すぐに再現部となる。この作曲技術の確かさ。コーダでは第1主題が波濤のような激しさで現れては激しく絡み合んい、静かに波間へ消えてゆく。

 第2楽章はアンダンテ。三部形式のようである。クラリネットとファゴットによって牧歌的な主題が現れ、オーボエや絃楽よって展開される。どこか現実的ではない夢の中の思い出のような、ふしぎな感触がある。中間部では再び木管により第2主題が。これもよい加減に鄙びており、聴くものを心地よくさせる。コーダに入り、第1主題や第2主題を回帰させつつ、展開しながら静かに終わりをむかえる。

 高名な第3楽章は、やはりブラームスの常で、スケルツォではなく、ポコ・アレグレット。印象的な主旋律がチェロで登場。今交響曲の憂愁感あふれる性格を決定づける。主題はあまり展開(変奏)せず、受け継がれてゆく。全体に5、6分の短い音楽で、中間部では木管が刎ねるリズムでゆったりと導入して、絃楽が引き継ぐ。それから、冒頭の憂愁主題をホルンが朗々と再現する。ここは伴奏の絃楽ともども聴き物。オーボエもそれを繰り返し、主題は展開されない。最後にもう一発、絃楽で奏される。よほどこの旋律を気に入っていたのか、展開させたくなかったのか。

 第4楽章は純粋なアレグロソナタ形式。もちゃもちゃとした、歯切れの悪い導入。第1主題が分かりづらく提示され、音楽は劇的な雰囲気となり、第2主題が代わって快活に提示される。第2主題を展開した後、展開部は第1主題を扱いつつも再現部を兼ねているというから、ここのソナタ形式はマーラーなど後期ロマン派にも通じる複雑さや発展を持ち、けしてブラームスが単なる古典派やロマン派のエピゴーネンではないことを示す。そこを聴き逃しては、ブラームスの真価は分からない。冒頭に休符の来る難しいリズム動機(運命からの伝統)を繰り返し、第2主題もからんでくる。転調を繰り返し、効果を上げる手腕も素晴らしい。経過部を経てゆったりとしたコーダに入るが、ここでは主題はもういつでも消えそうな感じで、明確には示されず、そのまま今交響曲をあっけなく閉じてしまう。

 派手な終結ではない、いかにもブラームスらしい渋い味わい。1番、2番よりも内向的と呼ばれるのは、ここらへんにあるのだろう。


第4交響曲(1885)

 これは形式といい、内容といい、ブラームスの交響曲の中では最も価値の高いものに感じる。全体的にも、最も地味で、印象に残らないかもしれないが、聴くたびに味わい深い。今日ではブラームスの交響曲中最高傑作の呼び声が高いが、意外にも作曲当時は、技術的に複雑すぎるとか、フリギア旋法やシャコンヌ楽章が古くさいとか、専門家の仲間うちからもどちらかというと不評で、ましてヴァーグナー派からは初演をこき下ろされた。が、逆に、聴衆からは絶大な支持で、初演の際は各楽章のたびに拍手喝采、第3楽章は(演奏の途中なのにw)その場でアンコール、演奏後は第1・第3楽章が初演を受け持ったマイニンゲン宮廷管弦楽団の持ち主であったマイニンゲン公からアンコールされたという。

 3番の完成後すぐに作曲にとりかかり、翌年には完成している。まったく1番の作曲はなんだったんだというばかり。解説によると第4楽章は第3番作曲以前にその構想があったというが。

 第1楽章は順当にアレグロのソナタ形式。形式自体は特に、当時関係者が憂慮したほど複雑には感じないが、主題とその展開が細かく、第2主題も分かりづらい。また1番、2番、3番であれほど執拗にこだわった3音からなる主要動機は、聴くだけでは良く分からなく、さらに自由な境地で作られたのだろうか。

 絃楽による休符を挟みつつ流れる第1主題が序奏無しで現れ、それが異様な寂寥感と緊迫感、焦燥感をもって展開してゆく。リズムを変えてチェロとホルンが新たな主題を提示するが、これを第2主題とするか、第1主題の派生(経過)とするか、見解が別れるようだ。次に、木管がリズム良く第2主題を提示すると、すぐに展開部へ。第1主題が素晴らしく料理され、第2主題もささやかに現れる。第1主題の展開した旋律が何度も高らかに響き、その都度、第2主題に取って変わられる。しかし展開部は弱い。再現部で第1主題がまた切々と登場し、聴くものの胸を打つ。第2主題も現れ、高揚する。コーダに入って、やたらと悲劇的に盛り上がって、ティンパニの連打と共に終結。

 聴いてみると、複雑というか、細かいくせに全体が絶妙に流れ、つかみ所がない感じは確かにするかもしれない。

 アンダンテの第2楽章。ソナタ形式だが、まるっきり展開部を欠いて、提示部−再現部という、ダブル提示部みたいな姿。しかし提示部は少し展開しながら提示している。

 いきなり、ホルンと絃楽器で、特徴ある主題提起。これがフリギア旋法で作られている。ピチカートを伴奏にその動機から派生した第1主題が朗々と演奏される。それが盛り上がって静かになり、チェロが優美な第2主題。中音部の対位法も聴きどころ。第1主題がいきなり戻ってきて、激しく経過した後、第2主題は絃楽の厳かな重奏になっている。短いコーダではホルンがフリギア動機を再現して終結する。

 ブラームスにしては珍しく、激しく速い感じのスケルツォ風楽章だが、3拍子ではなく2拍子のアレグロ・ジョコーソ。短いがソナタ形式で、ここも序奏無しでやおら第1主題が全体で奏され、トライアングルもブラームスの交響曲としては珍しい。すぐに第2主題が落ち着いたふうで登場。木管も愛らしくリズムを刻む。第1主題から展開され、ホルンが中間部のように静かな調子を形作るも、第1主題がその静謐を一瞬で破って再現部。コーダではティンパニが激しく活躍し、それに乗って各楽器が第1主題を音色旋律にも似たもので奏しつつ、華々しく終わる。

 シャコンヌ、あるいはパッサカリア形式の第4楽章は、主題とその変奏が30もあるというので各々の把握は割愛する。冒頭の8音による古めかしい主題(バッハ由来)の後、すぐに変奏が開始される。10分ほどの楽章に変奏が30は多い。聴いていると次から次に楽想が変化してゆき、複雑に推移する。全体にアレグロ・エネルジーコ・エパッショナートというので、かなり情熱的な音楽をブラームスは指示している。フルートのソロが現れ、テンポが遅くなる部分はすぐに分かると思われるが、そこで既に第12変奏だそうだ。時間もちょうど半分近い。管楽器合奏の部分は古い賛美歌を思わせる。

 それから冒頭のシャコンヌ主題が再現され(さらに厳しく激しい感じ)ると第16変奏で、後半戦。細かな変奏がめくるめくドイツ音楽の正統を激しく誇示する。ティンパニを伴った劇的な部分。主題が分断され、転回され、再び接着し、伸びて縮んで、ブラームス流ネチネチ作曲技術の最高峰。速度と緊張感を高めに高めて、一気に終結する。見事。

 この後、第5・第6交響曲も構想していたというが、第5番は諸事情によりかのヴァイオリンとチェロのためのドッペルコンチェルトへと変貌し、その初演がイマイチだったためもあってか、ブラームスは死までのほぼ10年間を室内楽と歌曲、合唱曲の作曲に専念して、交響曲は二度と書かれなかった。


ブラームスの交響曲世界における最大の功績

 そんな渋い通好みのブラームスの最大の功績は、やはり肥大するロマン派音楽の中で、マーラーとは正反対に交響曲を 「進化」 させたことだろう。2管の4楽章制、30〜40分。ドヴォルザークもそれに習って傑作を書いたものだから、交響曲はドイツ・オーストリアではマーラーの後にヴェーベルンで滅んでしまったが、第3世界で 「ブラームス型」 として連綿と生き残ってきた。一方でマーラー流の大規模なものも当然、有名所ではショスタコーヴィチあたりに引き継がれてはいるが、誰もがそのような音楽を書ける状況には無いし、大戦もはさまれて演奏できる状況もなかった。その場合、やはり小規模かつ、形式のしっかりした保守的な内容の交響曲は、その中にも近代的・民族的な素養を含みつつ、生れ続けた。それも、北欧、東欧、ロシア、アメリカ、日本で。

 それは、ひとえにブラームスが交響曲を古い形式の中にも新しい感覚を盛り込んで、なによりしっかりと傑作として世に残してくれたからである。「ああ、まだやっぱり交響曲はああいうふうに書いてもいいんだ」 と。





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