アーノルド(1921−2006)


 イギリスの現代作曲、サー・マルコム・ヘンリー・アーノルド。伊福部昭と同世代で、なんと同じ年に亡くなっている。伊福部と同じように、映画音楽や純音楽で数多く作品を残した。若くしてジャズに興味を持ち、作曲家としてデビュー前(戦前から戦後にかけて)は、トランペット奏者として若くしてロンドンフィルで活躍した。

 戦後、「生活のために」映画音楽を手がけ、「戦場にかける橋」が最も高名だろう。60年代からは、指揮もよくした。

 吹奏楽に編曲された「ピータールー序曲」が、日本では高名なステージ音楽といえるか。また「六番目の幸福」という映画の音楽組曲の吹奏楽版が、よくわからないが「第六の幸福をもたらす宿」という大層な訳で出回っている。さいしょ、宗教音楽風のシリアスな曲かと思った。

 その、アーノルド、交響曲を9曲、協奏曲に到っては室内合奏協奏曲含め15曲もある。(Wikipediaより)


第1交響曲(1949)

 アーノルド28歳のときに完成した作品で、多様性主義にも似た彼の作風が当初より確立していたのを聴くことができる。3楽章制で、演奏時間はほぼ30分。この時期アーノルドは結婚して、イタリア留学にも行ったのだが、その幸福感は作風にあまり反映されていない。

 第1楽章はアレグロ。最も規模が大きい。吹奏楽で人気が出るだけあって、吹奏楽っぽい響きがする。自身が管楽器奏者だからだろうか。冒頭より管楽器とティンパニのテーマ吹奏に続き、スネアドラムの重苦しい重マーチ調に音楽は進む。絃楽器の出番は、通常のオーケストレーションから比べるとあまり無い。オーケストラというのは、絃楽合奏に補助で管楽器が加わったものが原型なので、原則として絃楽器がメインとなるのだが、絃楽と同等の価値を管楽器へ与えているのが近代オーケストレーションとなる。第2主題は冒頭主題の派生に聴こえるもの。室内楽的に、ひっそりと素朴な主題が提示される。中間部は鳥の声の囁きだが、冒頭の緊迫したファンファーレが戻ってきて、ここは形式感無く主題をちまちまと展開させつつ進み、唐突に終わる。

 2楽章はアンダンティーノ。たおやかな旋律が絃楽で提示され、木管にすぐ引き継がれる。が、すぐ背後に不安げな音調も迫ってきて、派手なドラや金管の咆哮も唐突に入りこむ。が、基本は静かな夜の音楽だ。主要主題が絃やフルートなどで繰り返されつつ、何度も警戒サイレンめいた金管で中断されるが、最後は静寂の中に消えゆく。

 3楽章はヴィバーチェ・コン・フォーコ。火のように激しい。金管の激しい動機が目まぐるしく動き、その動機の間隔が詰まって行って、無窮動的に進んでゆくが、中間部でやおらコミカルな音調となる。ぬるいショスタコーヴィチ風というか。マーラーの精神というか。そのテーマが倍のテンポで不気味に進軍を始める。派手だがどこか諧謔的な調子で幕を閉じる。

 オーケストレーションはなかなかに感じるが、ちょっと、全体に楽想が貧弱だ。形式感も薄い。


第2交響曲(1953)

 1番はあまり受けなかったようで(さもありなんだが)、初めての成功した交響曲がこの2番であるという。4楽章制で、やはり演奏時間はスタンダードに25〜30分ほど。

 1楽章アレグレット。軽やかな印象のテーマが、まさに映画音楽作曲家の面目躍如に鳴り渡る。しばらく小展開しながら推移して、バーンと爽やかな音調で頂点を築き、田園地帯の散歩は終わる。一本調子で、あまり形式感は無い。

 2楽章はヴィバーチェで、得意の行進曲調。スネアドラムもバシバシと、警告音めいた金管と、緊張感ある絃楽器が暗く入り交じる。中間部からは、木管が信号音のような音形で場を静める音調と空襲のような行進が交互に支配する。4分ほどの短い楽章。

 3楽章レント。最も規模の大きな緩徐楽章。木管を主体に、ソロピッコロや、フルートの声をナイチンゲールとして、不気味に夜の静寂が侵食してくる。中間部でドラの一打と共にマックスに盛り上がると、得意の行進調となって、ホルンの雄々しいテーマが響き、ゆったりと進みながら、鐘も鳴って、夜の静寂の中に消えてゆく。妖怪というか、イギリスなら精霊か、妖精の世界の音楽。それも、人間を惑わす危険な類の。

 4楽章は陽気なアレグロ・コン・ブリオ。だいたい、このパターンでアーノルドの交響曲は形成される。それにしたって極端だ。草競馬でも始まったかのごとき軽快さで、アレグロというよりギャロップ。クラリネットのテーマを絃へつないで、重厚な合いの手が入りつつも、軽主題がすぐに戻る。しかし、木琴が鳴り出したあたりより、じわじわと3楽章の不気味世界が顔を出す。が、それを振り払って、楽しいテーマが復活! 速度をまして、一気呵成にコーダへつっこむとティンパニのお祭太鼓を従えて、壮大な伽藍を形成し、大団円。

 4楽章が一番いいかなあ。


第3交響曲(1957)

 3番は3楽章に戻る。演奏時間は、ほぼほぼ30分で、バランスが良い。

 1楽章アレグロ〜ヴィヴァーチェ。ひっそりとした中にも明るい兆しが見える冒頭から、パカパカという景気よいリズムながら、じわじわと旋律が浮かんでくる。そのへん、どこか不安さがつきまとう。これはオーケストレーションが微妙に暗いのだろう。忽然と金管が鳴り響いて、速度が増すのでヴィヴァーチェだろう。ティンパニの乱れ打ちもあって、信号音のような旋律もシリアス。良く言えば、相変わらずの読めない展開。悪く言うと、脈絡が無い。リズムだけがギャロップめいて軽快なまま推移して、旋律はどんどん深刻さを増して展開する。そのまま激しく終結するかと思いきや、最後は闇へ消えてゆくようにして次の楽章への啓示となる。

 2楽章は緩徐楽章でレント。しかしここでも暗い。荒涼として、寒々しく、いったアーノルドはどうしてしまったのかというほどだ。イギリス北部の、枯れた立木の並ぶ湖沼を独りで歩いているような。分かりづらい、ハルサイの2部めいた旋律感の無い長い息の旋律から、短い動機が浮かび上がり、時折金管により警告句が発せられ、また、ため息のような、すすり泣きのような木管の旋律が流れる。後半は、けっこう無調っぽくなって現代的。そして、終結は第1楽章の動機も現れる。

 3楽章は、いつもの能天気なアーノルド節。アレグロ・コンブリオ〜プレスト。お祭りの雰囲気を持つ軽快な楽章で、まさに荒涼とした荒れ地の向こうの妖精の国。冒頭からあっけらかんと進むが、中間部で少し不気味な響きも。しかしすぐにまた陽気な行進へ戻る。陽気なだけではなく、ピエロ的な諧謔さも少しある。ところどころ響きや進行が薄くなって展開が途切れ、どうも最後まで一気に突っ走らない。そこが爽快感の無さにつながっている嫌いがあるが、プレストに入ってからはホルストっぽくもなってとてもカッコイイ。

 これは、ま、無難な出来というか。


第4交響曲(1960)

 4楽章、演奏時間はやや長く、40分近い。珍しく打楽器が多用され、独特の響きを持っている。

 1楽章、アレグロ〜ポコ・ピウモッソ〜テンポ・プリモとあるから、大きく三部形式をとっている。打楽器ソリめいた打楽器群を従え、木管や絃楽が静かに導入部を形作る。常にパーカッションが合いの手を入れてくるが、そこから始まる熱帯夜の儀式めいた展開はまるで南米の作曲家だ。その中で出現するのは、まるで歌謡曲のような世俗旋律。しばしその旋律が楽器を移ろいながら続く。第2主題からの展開は、いかにも吹奏楽的な管楽器の扱い方が、この作曲家が日本の吹奏楽でウケる根拠になっていると感じる。こういう吹奏楽オリジナル曲は、日本人の作曲家でもよくある。バーンスタインかっていう響きも加わって、盛り上がってゆく。テンポ・プリモは再現部に相当するのだろう。あまり厳密なソナタ形式には聴こえないが、いちおう冒頭に戻っている。そこから熱帯音楽も再現され、歌謡旋律も再現される。第2主題を瞬間的に再現して、ここでおしまい。

 なかなかこれまでのアーノルドと違った挑戦的な響きだが、ここ一発の「突破」が無いのが、逆にイギリス音楽らしいというか。

 2楽章はヴィヴァーチェ・マノントロッポとあり、短い。スケルツォというより間奏曲的なものだろう。断片的な動機が次々に現れるが、全体的にひっそりとしている。クラリネットからオーボエ、ファゴット、トランペットへと続くおどけた旋律も、どこか密やかで、夜の音楽めいている。その旋律が繰り返されて続いて、微細に展開してゆく。冒頭へ戻って、コーダへ。最後の一打までフォルテは無い。

 3楽章、アンダンティーノ。ゆったりとした、夢見心地な緩徐楽章。冒頭のまどろみ旋律が、展開されながらひたすら繰り返される。まったりとしつつ、どこか気だるい感じが良い。南米っぽいノリは、緩徐楽章でも健在だ。美旋律の中で、そぐわないマラカスがシャーシャーいうのも、蛇っぽくてよいではないか。後半は、さらにまどろみ感が強い。熱帯の午後から、そのまま熱帯夜に突入した。一瞬、大きく盛り上がるが、そのまま眠ってしまう。

 4楽章は目まぐるしく変化しながら進むフィナーレ。コン・フォーコで激しくはじまり、アラ・マルチア〜テンポ・プリモ〜マエストーソ〜アレグロ・モルトとなる。分かりやすい展開でよい。オーケストラ全体で、短いフガートから4楽章はスタートする。コン・フォーコは、火のようなという意味。ティンパニも混じって、フガートは複雑に進行する。絃楽のやや緊迫した主題に続き、ラテンパーカッションがポコチャカポコチャカやりだして、盛り上がってアラ・マルチアへ。マルチアとはマーチのことで、アーノルド大好きマーチが始まる。それが不協和音と半音進行バリバリで、ブンチャチャッチャー、ブンチャチャッチャー、まるでアイヴズ!!(笑) 惜しむらくはすぐに終わってしまって、冒頭へ戻り、またすぐにその動機が引き延ばされたマエストーソへ向かう。そしてまたすぐさま、絃楽の短いアダージョから、大きく盛り上がってコーダの激しく短いアレグロへ。

 これは、けっこう面白い。しかし今交響曲のキモであるはずの4楽章のキテレツマーチなど、とても良いのに、やっぱり物足りない。4楽章の半分をあんな感じでやっても良かったのに。


第5交響曲(1961)
 
 4番から連続して書かれている5番は、彼の交響曲のなかでも最高作という人がいるが、確かに楽想、構成共に出来がよい。また、作曲者が最も愛好していたナンバーであるとのこと。

 4楽章制で、新古典的な外観を持ち演奏時間は、ほぼ30分。

 1楽章テンペストーソ。嵐のように荒れ狂う、という意味の発想記号。冒頭より似合わない(失礼)半音階的で現代的な動機がオーボエにより提示され、金属打楽器、金管やティンパニによる警告のあと、一転してアーノルドらしい、映画音楽を彷彿とさせる調性へ。これが第2主題か。しかし、低絃がざわめき、警告主題も挿入される。冒頭の半音動機が何度もオーボエによって現れる。自由形式により、次々と動機が現れるが、縁の下では一貫して不安が支配する。中間部でその不安が噴出し、激しくまさに荒れ狂う。これは、冒頭主題の展開の頂点だろう。続いて第2主題である調性部分が展開される。突如、長いクラリネットのソロ(第1主題の展開か?)へ移行して、楽章を支配する打楽器の主要リズムも全面へ出てくる。するとそのリズムへ乗って、総奏でその主題を演奏し、第2主題がホルンで展開される。終結部では、警告句がわめき散らされ、第2主題を名残惜しそうに断片的に提示して消える。

 分かりやすいっちゃ分かりやすいが、全体に掴み所の無い構造をしている。

 2楽章はアンダンテ・コンモルト。絃楽合奏で提示される、あまく切ない旋律。マーラー5番4楽章ほどじわじわしておらず、すっきりしているが、それと比較できるほどの美旋律。その中に木管の民謡的な素朴さが混じるあたりも、英国風だ。グロッケンのキラキラした響きも、ホルスト風でもあり、ドビュッシー風でもある。オーボエのソロから、どういうわけか緊迫感が増してサスペンス風になるが、また三部形式で最初の甘美でほんのりと輝いた世界が戻ってくる。世界は夕暮れとなったように響きが黄昏て、しっとりとした幸福感に包まれる。

 3楽章コン・フォーコ。またも一転して緊迫感と切迫感のある楽章。打楽器も轟いて、舞曲風でありつつ、どこか諧謔的な雰囲気も。ウェストサイド物語(1957初演)ふうな、バーンスタインに影響されたかのような雰囲気が、やはりある。中間部の流れるような旋律に、ボンゴやティンパニが激しくなって、短く金管が突き刺さる。そして入り乱れての乱闘シーンへ。そのまま、終結。

 4楽章はリゾルートとなっている。リゾルートは、断固として、決然と、という意味。そういう音楽として書かれているので、そういう風に演奏しなくてはならない。もはや定番の、終楽章におけるアーノルドマーチ! 金管群によるシリアスな警告的動機の合間に、いきなりピッピコピョロヒョロピッピコピー! これぞアーノルド。イギリス流ショスタコ。それがどんどん加速されて狂って展開するとまさにショスタコ流だが、アーノルドはどちらかというと、皮肉が聴きすぎて英国流の冷めきった眼。ここはソ連じゃない。エゲレスである。ついには、金管動機とピッピコマーチがポリリズムっぽく同時に演奏される。それが化物のように巨大化せずに、平和な夕日の中で、明るく正しい調性の内に解決される。

 と、思いきや、終結和音だけ、なぜか1楽章の不安が戻る。なかなか味のある、アーノルド交響曲中最高作と云う人がいるだけの深みがある。


第6交響曲(1967)

 こちらは、3楽章制で25分ほどの音楽。アーノルドは、4楽章制と3楽章制で、きちんとまとめてきている。

 1楽章エネルジーコ。英語で云うと、エネルギッシュに、というほどの意味。ピョロヒョロという不思議な木管から、金管の警告動機を挟んで、ぴょろひょろ動機がしばし展開。ジャズサックス奏者のチャーリー・パーカーの思い出に、とのこと。絃楽が次の主題を引き出して、シリアスな展開が続く。中間部より後半にかけて、じわじわっとした面白い総奏のクレッシェンドがある。それをうけて絃楽主題が復活し、不協和音もけっこう轟く現代的な作風へ。その根底に、ジャズのリズムがひっそりと鳴る。そして、想い出したように冒頭の短い動機が現れて終わる。

 2楽章はレント。緩徐楽章。全音符による、長い息の緊張感のある旋律が何度も現れ、繰り返される。不気味な鼓動のバスドラムそしてティンパニも効果的だ。その鼓動がクレッシェンドで叩き出されると、トランペットが不気味な非歌。

 そこに、突如として現れるボサノヴァ(笑) なんだこれ。夜のバーめいた、しっとりとした世界に酔う。それがシリアスな動機と入り交じって盛り上がって、なんだか怪獣でも出現した重々しい雰囲気になり、おどろおどろしく冒頭動機が再現され、絃楽の長い音からタンバリンの一打で終結する。

 3楽章はコン・フォーコ。何度も出てきているが、「火のように」という発想記号。燃え上がれ、ということで、ベートーヴェンも好きな記号である。一転して明るいアーノルド節。金管によるアッケラカンなテーマが鳴り渡って、第2主題はキュルキュルという絃楽をメインとした緊張感のあるもの。第1主題を低音に移したテーマも絡んできて、なかなかの緊迫感を醸す。続いて第1主題が展開され、不安げに進行するが、再現部で冒頭のアッケラカンテーマが燦然と輝く。それがそのまま小展開し、お祭騒ぎのコーダへ。

 演奏時間といい、展開といい、アーノルドの中では軽交響曲の部類に感じるもの。 


第7交響曲(1973)

 7番と8番も3楽章制をとっているが、演奏時間は7番のほうが10分ほども長い。何が思うところがあったものか、この7番と8番は、アーノルドのこれまでの交響曲の作風と比べても格段に重く、深刻だ。

 こちらの「M.アーノルドの部屋」によると、アーノルドには3人の子供がいたが、この7番はそれらの子供たちに捧げられている。そして、3番目の子は自閉症を患っていたが、どの程度かは分からないが回復して、それがこの7番に影響を与えたとのことである。

 1楽章は規模が大きく、15分ほどもあるアレグロ・エネルジーコ。

 いきなり序奏無しで無調めいた主題が鳴り響き、そこから調性となるも、あまり甘美な進行ではなく、突き刺さるような音形と調子が続く。第2主題は絃楽で憂鬱なモノローグ。第1主題が少し戻り、第2主題が次はホルン、そして第1主題もフルート等に再現されて、次々と入れ代わりで展開する。やがてテンポが落ちて、アーノルドが得意な、渇ききった緩徐的世界へ誘われる。その中にも、断片的に第1主題が顔を出す。それがしばし続いて、やおらこれもアーノルド流のちんどん屋登場。ジャズ風というと聞こえが良いが、これは明らかにちんどん屋だ。それも、短い。一瞬の白昼夢。
 
 後半は、まず第1主題の第2展開部が現れ、警告句的な動機を経て、ちんどん屋主題が展開されてゆく。それがドラと低音の連打で小結尾を迎え、第2主題の第2展開部へ。それも終わり、フルートが細々と第1主題を再現して、第1主題とちんどん屋が混じったような結尾展開へ。すると、あのちんどん屋主題は、第1主題の派生だったのだろうか? コーダでは重々しく打楽器が鳴って終結。

 2楽章アンダンテ・コンモルトも、アーノルドにしてみれば規模が大きい方で、15分近くある。この2つの楽章で、これまでの交響曲が1曲収まってしまう。1楽章でも少し現れたが、緩徐楽章において本格的な死の世界。アーノルド流の、荒涼として荒廃した荒野。淡々と哀しみにくれる様は、不気味ですらある。涙すら無い哀しみがある。苦しみすらない死の苦痛がある。やがて、葬式の木魚みたいな打楽器(ただし膜物の音)が入ってきて、弱音器付きの金管などで無調めいた旋律が野辺の風みたいに延々と鳴り出す。これは不気味で良いぞ。そのテーマが突如として最接近に迫ってきて、なかなかホラーな展開。不協和音の突き刺さるような連打に、地獄の鐘の音。シリアス好きにはたまらない響きだ。そのまま、死んだように終わってしまう。

 3楽章はアレグロ。これも、一筋縄ではいかない。珍妙な半音進行めいた主題に、いちいちバスドラがズドズド入ってくる奇妙な音調。主部に入っても、不協和音に飾られた旋律が苦しい。また、続いて第2主題っぽいものが木管に現れるが、これも優美さは無い。そして中間部で、死の国の舞踊が突如として現れ、不気味に編曲されている。続くアイルランド民俗舞踊が、3番めの子が好きだった旋律とのこと。まるでコラージュ音楽だ。それを挟んで死の舞踊が復活し、ペトリューシュカのような不気味さ。三部形式で冒頭が再現され、嵐の主題が戻ってくる。

 死の鐘が鳴り、不協和音を引き延ばして、終結する。


第8交響曲(1978)

 8番もシリアスな曲調だ。しかし、規模は小さい。いや、これがふだんのアーノルドで、7番がやはり異質な規模であった。

 1楽章はアレグロ。まず鳴り渡る金管。重苦しい打楽器の連打。金切り叫ぶ絃楽。ホルン。落ち着くと、またも現れるケルト民族調の旋律。アイヴズっぽい。たおやかな旋律が不気味な不協和音で支えられ、しかも銃撃のような打楽器が容赦なく鳴る。それからしばし展開部で、ひっそりとした音調の中で次々と旋律が受け渡されながら変化してゆき、打楽器が鉈のように切りこむ。そしてやおらマーチ主題がトランペットで奏でられるが、伴奏がはっきりいって狂っている。それからしばしそのマーチ主題の展開が続く。冒頭の叫びが戻り、マーチ旋律も復活する。再現部だろう。荒野のテーマが少し挟まれて、最後はマーチ主題がどこかもの悲しくも、楽しく演奏され、ドラの一撃を伴って唐突に終わる。

 2楽章アンダンティーノ。小アンダンテという意味で、同じ3楽章制の7番の半分ほどの規模となっている。いつもの荒涼緩徐楽章かと思いきや、まだ旋律は感情がこもっている。静かに、甘すぎない、適度に甘美でありつつ、ときおり苦みも見せる大人の旋律が流れてゆく。中間部で、ややホルンが荒涼とした世界をかいま見せるが、コーダに近くなり打楽器がクリスマスめいた幸せそうな音形を叩きながら、不気味に死の世界からの呼び声が管楽器に聴こえてくる。最後は、地獄の太鼓が勝り、三途の川を見ながら、旅は続く。

 3楽章はヴィヴァーチェは一転して軽やかで明るい。明るいが、次々に狂詩曲めいて現れる主題は、時に愉快で時に辛辣、そして時に陰鬱。時に激しく、時に密やかとなる。木管で提示された主題が狂ったようなホルンそしてまた木管へ移ろい、一時、停滞気味な辛辣さへ変わるが、また冒頭主題がロンドのように戻る。また繰り返して主題は絃楽そして辛辣で陰鬱なものへ変化して、次に現れる冒頭主題はグロッケンシュピールやヴィブラフォンの金属打楽器がメルヘンチックに提示する。また経過部を経て、四度目の冒頭主題提示は低音木管により現れ、それが総奏でお祭騒ぎに。それからコーダで爆発して、スパッと協和音で終わる。


第9交響曲(1986)

 アーノルド最後の交響曲、アーノルドの「第九」である9番は、逸話を知るからに痛々しい。

 4楽章制で、演奏時間はおそらくアーノルド最大の約50分。病気やプライベートなトラブルで精神的に参り、作曲ができず、1985年の初演予定の催しには間に合わなかった。しかし、献身的な友人の支えのおかげで、翌年にはなんとか完成。しかしオーケストレーション的に演奏が難しく、それも直しを入れてもらって、初演は1992年であるという。私ですら大学生。まさに、現代音楽だ。

 第4楽章が約20分を数え、全体の2/5を占める長大なもの。この長いレントは、まさに作曲者の人生の総決算なのだろう。

 この後、マルコム・アーノルドは徐々に痴呆症を患い、長い闘病生活のすえ、2006年に亡くなった。

 1楽章はヴィヴァーチェだが、いくぶんかテンポはゆったりしている。また楽想も侘しく、もの悲しい。最初こそ勢いのある提示部だが、室内楽的な展開が続き、じわじわと主題が繰り返されてゆく。明るさも見えるのだが、全体にやはり暗く沈みこむ。1つの主題を徹底的に扱ってゆく。そしてどこまでもひそひそとした陰鬱感に支配される。木管と絃楽のやりとりが延々と続き、ときどき金管やティンパニも鳴るが、アクセントにすぎない。後半で、ようやくティンパニのクレッシェンドからシンバルと共に金管が鳴り響いて、主題が金管で延々と繰り返され、オスティナートでコーダまで持ってゆく。重々しく主題は引き延ばされ、けっきょく、提示主題をほとんど変奏させずに引っ張って引っ張って、最後まで引っ張って終わる特異な構成になっている。

 2楽章アレグレット。しっとりとしたファゴットの朴訥な響きから、木管全体に哀しげな主題が移ってゆく。低絃のうめき。絃楽器へ主題が引き継がれ、悲歌が続く。この楽章も、冒頭主題をひたすら引っ張ってゆく。中間あたりで、テーマがトランペットの引き裂かれるような悲しみに歌い継がれる。対旋律めいたテナー音域を吹くチューバも痛々しい。ピッコロが歌い、フルートが歌い、また絃楽器に戻る。悲しみの連鎖は、ひとつの悲しみを引きずり続ける。まるで、終わりのないトンネルだ。そのまま、最後までテーマがほとんど生の姿のまま鳴って寂しく終わる。

 3楽章はジュビローソという、イタリア語で楽しく、歓喜に満ちてという意味の発想記号がある。ここは流石にやや明るい。金管とシンバルで、騒々しく音楽が始まる。明るいが、アーノルド流のアッケラカンとしたものではない。フガートめいた動きも見せるが、だんだん暗くなってくる。1、2楽章もそうだったが、全体にオーケストラレーションが薄い。旋律部の楽器はソロやデュオでしかならず、ほとんど大規模な室内楽だ。ひっそりとテーマの変奏を演奏して、冒頭へ戻る。こことて、金管アンサンブルと絃楽合奏の掛け合いのような響きで、けして総奏ではない。そこから木管アンサンブルへ。テーマは再びフガートに扱われ、リピート記号で繰り返したかのような再現の後、短いコーダで、これも闇の中へ行ってしまうがごとく終わる。

 そして4楽章は長いレント。絃楽や低音の木管で、じっとりとテーマが現れる。これで耽美的な物があればマーラーの9番4楽章だが、そうはならない。もっと、虚無的な暗さ、絶望に支配される。ティンパニの連打が地獄への道を案内し、ホルンが暗黒の角笛を吹く。いよいよ本当に三途の川を渡る白鳥を見る思いだ。そこから、聴こえないほどの音量で低絃が蠢き、嘆きが提示される。その中から、テーマが立ち上ってくる。トランペットも鳴り、ホルンも黄昏を暗示する。4楽章に到っても、テーマが変奏されない。ひたすら繰り返される。いや、むしろ西洋音楽の基礎中の基礎、「変奏」を否定しているかのようだ。これが楽想の枯渇なのか、この時期の心境なのかは分からない。と、後半でやや変形したテーマが鳴り出す。しかし、ここでも総奏は無く、ひたすら順番にテーマが奏でてゆかれるだけ。哀しみのアダージョ。しかも、絶望のアダージョ。二度目のティンパニは、最初に比べてどこか力弱い。順次テーマが再現され、しみじみと音楽は続く。これはこれで、なんともいえない味わいだ。老成とか、詫び寂びとかにも通じる枯淡の響きがある。なんといっても動きが激しくないので、じっくりとした味わい。金管の嘆きが響きわたり、いよいよ長いレントは終幕へ向かう。黄昏を超えた、夕闇に近い明るさの中で、魂は彷徨う。どこから来て、どこへ逝くのか。この無常観!

 最後の最後のみ、愛らしい光が差す。

 







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