コリリアーノ(1936− )


 現代アメリカを代表する作曲家の一人、コリリアーノ。けっこうお年ですね。チャイコフスキーブリテンと続く正しい藝道ならぬゲイ道の作曲家。ゲイは身を助けるのか否や。交響曲は形態の異なるものが3種類ある。


第1交響曲(1991)

 作曲家の親しい人々がエイズで亡くなって、それに対する怒りや、やるせなさを描いたとされる作品。4楽章制、約40分の、古典的な作りだが、色彩感もあり、音楽としても面白く、現代音楽としては再演率も高いと思われる。エイズ問題に対する想いというテーマは現代的だが、技術的には準古典的で、佐村河内(新垣)の第1交響曲の妙なヒット現象を見ても、現代音楽の需要というのは技法ではなくテーマや精神的な(思い込みのような)ものなのではないかと考えさせられる。

 3管編成オーケストラのための交響曲である。当年のグロマイヤー賞受賞。バレンボイムとシカゴ交響楽団の委嘱で、彼らのCD発売により一躍高名となった。

 規模の大きな第1楽章「Apologue: of Rage and Remembrance(アポローグ:憤怒と回想による)」は、緊張感のある絃楽と打楽器の序奏の後、無調のアレグロとなって金管の奔流が聴かれる。その後、夢の中のピアノのように、微かに、アルベニスのタンゴが切々と奏でられる。これは亡くなった友人が得意でよく弾いていたものの思い出であり、オマージュ。その記憶の中の切ない響きを切り裂くような絃楽。それから、弔いの絃楽合奏によるコラール。再び怒りのアレグロとなり、打楽器も激しく、憤懣を爆発させる。ラストで、再び微かに死の向こうから、友人のピアノが聴こえてくる。

 2楽章「Tarantella(タランテラ)」は、また異なる友人がエイズにより脳を侵され発狂してしまった事に対するやるせなさ。大量の打楽器が動員され、狂気的な「死の舞踏」を演出する。楽しげな踊りのテーマにからみつく死の影。最後は、死に神の踊りとなる。

 3楽章「Chaconne: Giulio's Song(シャコンヌ:ジュリオの歌)」の、静謐な絃楽によるシャコンヌ楽章は、死者のための祈りの楽章であったが、やはり後半、最後のほうで怒りが爆発。暗黒ガス星雲に飲み込まれてしまう。

 4楽章「Epilogue / Epilog(エピローグ)」は文字通りエピローグであり、最も短い楽章。3楽章のシャコンヌ主題と、1楽章の友人の弾くピアノを回顧する。悲しくも、とても美しい楽章。

 従って4楽章制とは云え、大きくみれば3楽章制でもある。ショスタコの5番に匹敵する長さの割には、あまり長く感じない。構成が自由で、連続した幻想曲のような感じだからだろうか。


第2交響曲(絃楽のための)(2001)
 
 絃楽のための交響曲はけっこうあるが、5楽章制、40分近いコリリアーノの2番は規模の大きな部類だろう。数ある絃楽合奏曲全体の中でも、大規模な部類に入る。同年のピューリッツァー賞受賞。どうも、切れ目なく1楽章制のように演奏されているようだ。

 1楽章:プレリュード 微分音(?)による、茫洋とした、聴感定からぬクラスター世界。無常と、混沌が示される。

 2楽章:スケルツォ 強烈な印象が不協和音の奔流となって鳴り響く。トリオでは、1楽章に通じる静謐な伴奏の中に、悲しげな歌が紡がれる。現代音楽といえども、昨今はこういう情感のある部分がないと受け入れられないのだろうか。(嫌いではないけども。)  再びスケルツォに戻る、古典的な三部形式。

 3楽章:ノクターン 1楽章と同じテーマを扱うが規模が大きい。いや、それから派生する主題(調性っぽい)が奏でられるというべきか。

 4楽章:フーガ フーガっぽくないフーガ。しかも長い。いかにも深刻な感じだが、不快にはならない。

 5楽章:ポストリュード 全体をまとめるような、1、3楽章から通じる緩徐楽章。思想的な響きではあるが、あまり中身は無い。

 響きとしては悪くなく、激しすぎも、順当すぎでも無い、ちょうど良い聴感の聴衆ウケしそうなもの。刺激はあるようで無い。これは重要な判断基準で、ふだん順当な作曲家の順当な作品ばかりを聴いている人には、かなり刺激的だが、現代音楽マニアにはただの中途半端な日和見作品でしかない。大層な賞などとっているので、一般的にはウケたのだろう。全体として長いようで、意外とすんなり飽きもこず聴ける。その意味でも、優等生的な現代音楽だが、聴き流しているだけかもしれない。

 その、飽きもせず聴き流せるというのも、実は大切な要素ではあるのだが。


第3交響曲「キルクス・マクシムス」(2004)

 第3交響曲は大規模な吹奏楽編成のために書かれた。キルクス・マクシムスはラテン語読みで、英語読みにすると「サーカス・マキシマム」となる。どちらにせよ、古代ローマ時代のチルコ・マッシオにおける戦車競技などを現代に呼び覚ます作品であり、現代アメリカの500にもチャンネルが及ぶテレビ番組を観る聴衆と、古代の様々な競技を観戦するローマ人とを重ねてもいる。

 ステージ周囲にも楽器を配する、いわゆるコンサートピース的音響要素を持った作品で、CDではその真意と効果を得られないと判断したのだろう、長らく作曲家が録音を許可しなかったというが、1種類だけ(2013執筆当時)録音が出た。

 だが、結果から言うと、やはり音響的な真価は、出なかったようだ。それはそれとして、音楽的な面白さは少しは分かる。単一楽章で、35分ほどだが、楽章のように全体は8つに別れている。それは以下の通りである。

 1.イントロクション
 2.スクリーン/サイレン
 3.チャンネル・サーフィン
 4.ナイトミュージック I
 5.ナイトミュージック II
 6.キルクス・マクシムス
 7.プレイヤー(祈り)
 8.コーダ:真実

 元々が優れたオーケストラ書きであるがためか、ここでもいわゆる吹奏楽というより大規模な管楽アンサンブルといった音響。冒頭はスネアドラムの攻撃的な連打より、管楽器群の突き刺すフレーズが延々と続く。短い間奏部を経て、冒頭の衝撃的な音響が繰り返される。スクリーン/サイレンは緩徐楽章であり、木管による頽廃的ともとれるジャズっぽいダルな部分。

 そのまま、周囲の様々な場所に配置されたアンサンブルが色々な音楽を多様性主義で同時に鳴らして行くアイヴズ的手法の部分になる。チャンネル・サーフィンである。ここらは、三次元音響が計算されているが、CDでは鑑賞に限界がある。冒頭のカオス的音響が再現され、ナイトミュージックに入る。なんだかよく分からんが、狼の声なんか入ってきたりして、音楽としての夜曲ではなく、環境ミュージックみたいなノリ。夜曲2は、ナイトクラブの情景といったふう。こういう番組を見ているという設定か。

 サイレンが鳴り響き、なにやら面白そうな番組に行き着いたようである。キルクス・マクシムスにて戦車ショーを楽しみ熱狂する古代ローマの人々。の、番組を観ている現代人。なのかどうか。強大な轟音が響きわたり、次第に消えて行く。祈りで示されるのは、勝利の朝なのか、番組の余韻か。

 コーダでは再び冒頭の再現が行われ、強烈な一打で唐突に終結する。


 3曲の中では1番が一番イイ。




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