チャイコーフスキィ(1840−1893)
 

 交響曲に限定した項なので、他の作品は割愛するが、チャイコーフスキィの管絃楽作品はいいものばかり。歌曲やオペラ、それに室内楽もファンにはたまらぬものらしいが、我輩はそこらは門外なので、言は控えたい。

 独特の管絃楽法に基づいた諸曲でも特に「ロメオとジュリエット」「スラヴ行進曲」「フランチェスカ・ダ・リミニ」「テンペスト」「ハムレット」「イタリア綺想曲」「絃楽セレナード」「1812年」それに3大バレーなどのオーケストラ曲、どれも大変良い音楽である。

 コンチェルトはあまり好きではないのだがチャイコのバイオリン協奏曲は好き。やっぱりイイ。

 そして7曲のシンフォニー。ロシアン交響曲の雛形と云ってもいいかもしれない。

 俗に「後期3大曲」という4〜6番がなんといっても超名曲。しかし1〜3番も悪くはない。個人的にはそれほど聴くものではないが、むしろそっちこそ味があるという人もいるだろう。個人的には、構成がイマイチに感じるので、特に2番3番はあまり聴かない。標題交響曲が苦手な人は、1曲だけ異質なマンフレッド交響曲をチャイコーフスキィの交響曲の中で最低だというかもしれない。それは人それぞれだが、チャイコーフスキィの交響曲世界の中で見落とされがちなマンフレッドは、かれのシェイクスピアシリーズの管絃楽曲と交響曲をつなぐ重要な音楽である。聴き逃してはいけない。


第1交響曲「冬の日の幻想」(1866/1874)

 作曲者26歳のとき、初めて本格的なオーケストラ曲をてがけた。もとより法律学校を出て法務省に勤めていたが音楽の夢断ち切れず、アントーン・ルビンシテーインの創立した音楽学校にも入学。その後法務省を辞し、アントーンの弟で、友人でもあったニカラーイ・ルビンシテーインの音楽学校に講師として参加。開校までのあいだ、ニカラーイの家に寄宿し、彼に勧められて交響曲第1番を書き上げた。

 しかし、西欧風の交響曲形式に、いかにロシアの魂を刻印するかという使命と難題に立ち向かったすえにようやく完成した初稿はアントーンなどに不評で、第2稿として直されたがこれも不評だった。そのためか、部分的な初演しか行われなかった。しかし2年後の1868年の全曲初演は成功した。その後、74年に第3稿ができて、現在はこの第3稿が演奏されている。ニカラーイ・ルビンシテーインに献呈されている。

 タイトルの 「Зимние грезы(ズィムニィーエ・グリィェーズィ)」 は直訳すれば 「冬の夢」 とか 「冬の白昼夢」 といったもので、冬の日の幻想は随分と洒落た意訳に感じる。大規模な4楽章制で、チャイコーフスキィらしいオーケストレーションや旋律美が如実には出ているものの、まだ民謡を主題にした国民楽派の域に止まっており、前にも後にもチャイコーフスキィにしか無い味わいは、それほど強くはない。それは、交響曲では4番まで待たなくてはならない。

 第1楽章にも 「冬の旅の幻想」 というタイトルがある。ソナタ形式、アレグロ・トランクィロで、絃楽のざわめきの中にすぐ木管による民謡風の愛らしくもほの暗い第1主題が登場する。この雰囲気はチャイコーフスキィ独特のもので、すでに現れている。低絃に引き渡され、金管やティンパニも加わって盛り上がりつつしばらく推移した後、クラリネットが調を変えて、これも民謡的な第2主題。アレグロから展開部。第1主題が主に展開されるが、展開としてはやや単調かもしれない。

 チャイコーフスキィは、後期交響曲になっても、純然たるソナタ形式はあまり得意ではなく、主題の並列とか、列記といった具合で、あまりドイツ式に深く組み合わされない。それがロシア的なのかどうか、チャイコーフスキィの個人的な能力なのか、能力の限界なのか判断の分かれるところだろうが、いかにもチャイコーフスキィ的な響きを生み出している構造的要因の1つであるのは間違いない。

 低絃の特徴的なフレーズから再現部に至り(ここらへんはややしつこい)静かなコーダでおしまい。かなり分かりやすい構造だが、表層的に聴こえる嫌いもある。

 第2楽章にもタイトルがあって、こちらは 「陰気な土地、霧の土地」 である。しかし、云うまでもなく1楽章も2楽章も、そしてこの交響曲自体も、標題音楽ではない。標題交響曲は、マンフレッド交響曲のみで、あれこそ云うまでもなく標題交響曲。つまり、今交響曲でいうところのタイトルは、曲の内容を表している表題的標題ではなく、マーラーの云うところの根源的標題である。それは、作曲の動機、全体の雰囲気の示唆、聴く人へのささやかな鑑賞の助け程度にしかならない。

 アダージョ カンタービレとあり、いかにも歌うような音楽だ。ロンド形式とのことだが、登場する主題は少ない。ヴァイオリンにより、切ない第1主題。この主題は楽器を変えて何度も登場する。まずはオーボエをメインに。なんともいい雰囲気。土と寒気の香り。鳥の声のフルートとの二重奏。続いてそれをチェロが引き継ぐ。ファゴット対旋律もいい。中間部は第1主題を変形した第2主題となる。それから第1主題を朗々とホルンが奏でる。対旋律はフルートで、とてもいい感じ。それが終わるとヴァイオリンが冒頭に戻って、これも静かに終わる。

 スケルツォは、中間部にワルツっぽい雰囲気もある。5番の、交響曲にワルツを好む特徴の先取りにも感じる。木管による短い導入の後、絃楽が独特の旋律をとり、木管群と交錯する。激しくない、まさに幻想のようなスケルツォ。今交響曲は全体に憂愁の雰囲気があるが、このスケルツォも全体にほの暗い。主部をリピートした後、トリオへ。ここは、学生時代に書いた自作よりの引用で、優雅なワルツ的。まるでバレー音楽のように響く。それは唐突におわり、スケルツォに戻る。コーダに至り、ラスト前に、ティンパニの特徴的なソロがあるが、簡単なようで意外にリズムをキープするのが難しい。

 4楽章はめぐるましく楽想の変わるフィナーレだが、大きな楽想が順番にドカンドカンと現れては消えるもので、構造としてはあまり複雑なものではない。これは、ずっとチャイコーフスキィについて回る良くも悪くも技術的な特徴である。ソナタ形式。

 カザン地方の民謡に基づく主題をまずアンダンテでファゴットが断片的に吹く。それをヴァイオリンが全貌を表す。ここは、まさに民謡主題。民謡クラシックだ。日本人の作曲家が日本の民謡でこういうのを書くと毛嫌いする人も、チャイコーフスキィなら平気なのが不思議だし、逆に西洋コンプレックスに思える。

 それはそうと、民謡主題がだんだん速度を増し、主題を高らかに変形させて、ファンファーレのように明るく吹き鳴らす。それが第1主題となる。それから第1主題による鬼のフーガに突入。絃楽だけではなく木管まで入ってくる。そして行進曲ふう、いやコサックダンスの第2主題。展開部では民謡主題、第1第2主題がそれぞれシンバルまで鳴って、展開されるが、第2主題は(ここでも)あまりいじられない。主題は、深く絡まずに、並んで進むだけ。

 従って、チャイコーフスキィのソナタ形式は、展開部がかなり弱い。とはいえ、そもそもソナタ形式において展開部が膨大な広がりを見せるのはチャイコーフスキィの後輩のマーラーブルックナーの世代で、彼の前のベートーヴェンやなんやの古典派〜純ロマン派では、提示部こそに重きが置かれ、展開部は提示部と再現部のつなぎみたいに扱われているものが多いし、そもそも展開部を省略した古い形のソナタ形式も使用している。同時代では、ブラームスとてそれに習って展開部を省略したより近いソナタ形式を使っているから、別に格別な弱点というでもない。チャイコーフスキィのソナタ形式は全くのチャイコーフスキィ流で、これは独立した価値観で書かれている。

 そして1番4楽章はコーダが盛り上がる。再現部から民謡主題が不気味に現れ、第1主題もテンポを落として登場。第2主題は出てこない。じわじわじわじわと氷が解けるように音楽は紅潮する。

 そして怒濤の波濤がなだれ込む。ロシア人がこよなく愛する楽器、シンバルはバッシャンバッシャンこれでもかと鳴り渡り、金管はビリビリと容赦が無い。テンポアップして、ティンパニの合いの手も勇ましい。さらにファンファーレが響いて、一気に終結する。ここの金管を旋律としてフレージングをまちがえず扱えるか、ただブーブー吹かせるかで、4楽章はきまる。


第2交響曲(1872/1880)

 2番の通称というか、愛称の「小ロシア」なるタイトルが冠される場合があるが、「小ロシア」とは帝政ロシア時代のウクライナ方面の名称のことで、通称というか、ある意味蔑称でもある。ウクライナから云わせると、劣等感も含んでいる。ここでは、ただ単に当時の小ロシア地方の民謡を主題に使ったからにすぎない。深い意味はない。また1番と異なり作曲者の命名ではなく、当時のロシアの著名な評論家から作曲者に献呈されたものである。

 これは1番と異なり、ニカラーイ・ルビンシテーインの初演は大成功で、ロシア5人組のメンバーにも褒められた。それは、タイトルの通り、ウクライナ地方の民謡を存分に主題として使用し、かつ、交響曲形式にうまくまとまっているから。

 だがチャイコーフスキィは後の自己の作風と比較して満足がいかなくなったようで、8年後に大改訂を施して、現在はそれが演奏されている。特に1楽章がいたく気に入らなくなったようで、完全に別物になっている。

 第1楽章は序奏付のソナタ形式であるが、強奏の後、序奏部にウクライナ民謡「母なるヴォルガの畔で」がホルンにより歌われる。それを各楽器でしばし扱った後、アレグロで主部に到る。第1主題、第2主題とも速度の速いもの。第1主題は絃楽器でかっこよく登場し、オスティナート気味に奏でられる。第2主題は木管による聖歌風。両方とも序奏の民謡からの変形のようである。展開部はかなり地味に推移するが、第1主題と第2主題が入れ代わり立ち代わりで、分かりやすい。その代わり、あまり展開しない。執拗に主題の断片を意地繰り回している印象がする。

 コーダ最後では、盛り上がった後に序奏主題が回帰する。
 
 2楽章はアンダンティーノなので、完全な緩徐楽章とは趣を異にする。重苦しいマーチが流れてくる。これは若書きの破棄された自作オペラ「ウンディーネ」からの引用で、元は結婚行進曲であるらしい。ここでは、暗い感じに直されているようだ。そのうち、もの悲しい歌が聴こえてくるが、これもウクライナ民謡で、「回れ私の糸車」という曲だという。こういったダイレクトな民謡の取り入れが、ずっと後に労働歌をそのまま交響曲に取り入れたショスタコーヴィチにつながるのかなあ、などと夢想してしまう。ちょっとワルツっぽい感じにもなり、次第に盛り上がって、第1主題が重厚に復活する。そのまま、冒頭の調子に戻って、曲は消え入る。

 第3楽章は短いスケルツォだが、重厚な作りになっている。ここでは特に民謡は用いられていないが、旋律の作り方は民謡風で、流石にうまい。リズミックな、スキップして踊るような主部と、同じく愛らしいぴょこぴょことしたトリオがいい。

 序奏付ロンド・ソナタ形式の4楽章でも、ウクライナ民謡「鶴」が扱われる。堂々とした序奏があり、オーケストラレーション的にも豪華な雰囲気。ティンパニのソロなど、まるでバレー音楽ではないか。それから主部で絃楽により「鶴」主題の提示。それが細かく変奏されて行く。第2主題はまた別個なものだが、「鶴」主題からの変形にも思える。ソナタ形式ではあるがロンドでもあるので、主題の入れ代わりが激しい。ピッコロが出たり、金管が活躍したり、かなり自由に変奏される。そしてシンバルはジャカジャカ鳴る。ドラまで鳴る。なんだこれ(笑)

 そのまま盛り上がって、終結伸ばしで〆。

 ちなみに、作者の死後当時から、改訂版より初演版のほうがイイという意見があり、後にタネーエフも初演版を推している。作曲家はあたりまえのように改訂版を完成版とするが、意外に聴く方は、作者がこれはイカンと思った方を好む場合もあるのが面白い。

 ※原典版はそのうちまた改稿して加えたく思います。


第3交響曲(1875)

 チャイコーフスキィの交響曲の中で、マンフレッドに匹敵する長さ(約45分)を持つ3番は、スケルツォの他にレントラー風ワルツ(ここでもワルツ!)を持つ5楽章制で、終楽章にポーランドの伝統舞踊のリズムであるポロネーズ(ポラッカ)を使用していることから「ポーランド」という通称があるが、これも作曲者の命名ではなく、しかもイギリスの出版社が勝手につけたもので、かつ作曲者も知らないことなので、ここでは外す。本来、この項を含めた交響曲のページでは、現在はもう日本のみで通じているような商業的価値しかない愛称や通称はもちろん(例:マーラー6番の悲劇的、ベートーヴェン5番の運命)作曲者が認めていないもの、作曲者も知らないもの、つまり正式なタイトルではないものなどは極力排している。
 
 さて、これはおそらく、チャイコーフスキィの交響曲ではそれこそマンフレッドに並んで演奏頻度の無いもので、単純に演奏時間が長いというのもあるが、やはり作風が民族的な魅力のある1・2番から普遍的な人間の運命を含んだ大作である4〜6番へ至る過渡期的な、折衷的な内容であることに加え、書法もどこかバラバラで、組曲風であり統一感に欠けることで、集中して聴くのがつらいためであると推察される。

 1975年の夏に、友人の別荘にて1か月半という早書きで書かれた。その後改訂もされていないので、作曲者としていちおうの満足の水準に出来上がったのだろう。

 1楽章からいきなり規模が大きく、葬送行進曲風の序奏を持つソナタ形式。絃楽のピチカートより、ゆっくり、そして長めに序奏が進む。最初、ヴァイオリンに現れた主題が木管やホルンにつながって、全体の1/3ほども序奏は続く。

 盛り上がってアレグロ主部に到ると一気に明るくなり、第1主題が華々しく登場。絃楽によりロマン派風に扱われる。第2主題はオーボエにより、メランコリックに登場する。これは、白鳥の湖にも通じる旋律。展開部は第1主題をオーケストラ全体で処理しつつ、細やかな装飾がいかにもチャイコーフスキィならでは。ここに、形式観にコンプレックスを持ちながらも、なんとかロシア流の叙情とドイツ流の形式を合致させようとした努力が見られる。展開そのものは、分かりやすいけどそれほど大層なことはしていない。そこらへんも、いかにも初期ロマン派風。再現部も、調を変えたままほぼそのままに扱われ、終結部まで一気に運んで、堂々の終結。

 2楽章がアラ・テデスカ、3拍子の舞曲風の変わった部分。本当に必要なのか、必要じゃないのかは分からないが、これが緩徐楽章でもよかったような気はする。スケルツォのトリオ部のみを抜き出した感じもする。その辺りが中途半端度を高めている。曲としては、単純ながら面白い。3部形式だが、全体におっとりとしたワルツ風。中間部はスタッカート気味な主題による。後に、劇音楽「ハムレット」 へ準用された。ここの主要主題は民謡風といえるほど鄙びている。

 アンダンテの3楽章は、当曲で唯一の真正な緩徐楽章。ソナタ形式であるそうだが、展開部のめだたない変形ソナタ形式。フルートによる牧歌的だが暗ーい提示に続き、木管やホルンが主題をつないでゆく。絃楽による調の変わった第2主題は明るい。その対比は相変わらず見事でうまい。展開部は、無いというより余り展開しない経過部のような扱い。あまり展開しないのはいつものチャイコーフスキィなので、特筆するものでも無い。再現部は雰囲気を変えてきている。
 
 4楽章にスケルツォ。珍しく2/4拍子。3部形式。時間的に短く、幻想的な音色が3大バレー音楽にも通じている。愛らしい佳品で、バレー組曲にありがちなもの。交響曲の楽章というならばメンデルスゾーンに通じるか。ここは間奏曲ぎみなので、こっちがいらないといや、いらないかもしれない。

 最後は、ロンド形式のフィナーレ。ポラッカ(ポロネーズ)のリズムによる。しかし、当たり前ながらかなりロシア風に扱われていて、そこがまた魅力でもある。序奏なしで、第1主題がリズム良く登場する。速く舞曲風に演奏するも良し、堂々と交響曲のフィナーレにとして堂々と演奏するも良し。第2主題は悠々とした賛歌。第1主題がひっそりと現れてから、第3主題も静かに取り扱われる。それからまた第1主題に戻り、第1主題によるフーガに突入。そして華々しいコーダから、賛歌が朗々と歌われ、花火が上がるような爆発的歓喜に導かれ、ティンパニも派手に盛り上げて交響曲を閉じる。

 このようにロンド形式といっても、ほとんどがポラッカの第1主題に準じて楽章は扱われる。

 さて、全体として構造的にやや難があると思われるものの、3楽章アンダンテを中心に、第2第4楽章をそれぞれレントラーとスケルツォ、それに第1楽章序奏付ソナタ形式、第5楽章フィナーレとなると、これはまるっきりマーラーお得意のシンメトリー構造交響曲であり、そう考えるとマーラーを先取りするかなり前衛的なものと言える。強固な構築性には欠けるものの、そんなものを求めてチャイコーフスキィを聴く人はいないと思われるので、これはやや長いのを我慢すれば、けして聴きづらくも中途半端な出来でも無い、1・2番に比べてもかなり書法的に充実した魅力的な作品と云える。


第4交響曲(1878)
 
 チャイコーフスキィほどの知名度を持ち、かつ同様の知名度と曲数の交響曲群をもつ作曲家で、初期作品と後期作品でこれほど出来が違う(作風が違う)のは、他にドヴォルザークシベリウスくらいしか思いつかない。シベリウスはしかし2番はまだ人気曲で、むしろ彼の神のような後期交響曲に比べてその出来の割に演奏頻度が高いが、ドヴォルザークとチャイコーフスキィは、少なくとも前期と後期では演奏頻度も人気も完成度も雲泥の差がある。

 個人的には、1〜3番ではチャイコのほうがまだメジャーだがドヴォルザークのほうが聴きやすいと感じている。それはドヴォルザークのほうが素直に旋律美を古典的形式に上手に合致させているからだが、確かに素人くさいのは否めない。チャイコーフスキィの1〜3番はまだ技術的や表現的な面で革新性があり、聴きづらくともその部分が評価できる。

 で、ドヴォルザークは5番あたりから徐々に音楽的に充実し、6、7、8番と頂点を迎え、9番では文字通り別世界へ行ってしまったが、チャイコーフスキィは3番から4番で一気に、そして劇的に進化している。そりゃもう、書法が似たような、まるで別人である。芸術的にも、表現的にも、技術的にも、比べ物にならない。

 イタリア旅行中に一気に作曲され、まず基本的に当地の風靡を反映してか明るい。そしてかのメック夫人からの資金援助が確定し、経済的に余裕ができたので精神的にも明るい。チャイコーフスキィの中でも、珍しく陽の気に支配されたもので、運命動機ですらどこかファンファーレ的である。

 1楽章の規模が大きく、やや頭でっかちな印象。序奏付のソナタ形式で、演奏時間全体の約半分近くを占める。なにより特徴的なのは、冒頭のホルンとファゴットによる運命動機。この打点と伸ばしによる運命動機は、明らかにチャイコーフスキィはベートーヴェンを意識している。しかしあれほど深刻にならない。ここではりズムにその模倣がみられる。このモティーフは全曲を通して扱われ、一種の循環形式のようになっている。

 ファンファーレが落ち着くと、絃楽により、チャイコーフスキィらしい悲壮的な第1主題。木管に続き、主題は提示されながら展開して行く。劇的なホルンの使い方といい、盛り上がりといい、ここでもうチャイコーフスキィのやる気と気合の充実が見て取れる。すぐさま、雰囲気の変わる第2主題が木管で現れる。ここでも、主題は展開されながら提示され、優雅な響きを見せる。幻想的なワルツにも聴こえる部分を経て、展開の頂点をむかえ、ファンファーレ主題が循環される。

 ここからが本当の展開部であるが、チャイコーフスキィらしく、あまり展開しないのはもはや常識。第1主題から分かりやすく扱われ、ファンファーレ主題もカッコヨクからんでくる。しかし第2主題は出てこない。演奏効果は高く、凄まじいドラマツルギーにより音楽は今楽章の白眉に導かれる。そこからやっと第2主題が扱われるが、ここはもう再現部であったりする。ファンファーレ主題が帰ってくると、コーダに突入。第1主題の変形からじわじわと盛り上がって、行進曲調に。悲劇は最高潮になって、勝利は4楽章までお預けという構図。

 第2楽章はアンダンティーノ。一時の夢のまた夢。カンツォーネの指示がある三部形式。中間部はピゥモッソ。まずオーボエが主要主題を提示。絃楽が第2主題を。この2種類の入内を扱いながら楽曲は進行する。しっとりと夢見心地なふうで進み、中間部では力強さを増す。ゆったりと旋律を処理しながら、オーボエの動機をファゴットが奏でだしたら、もう夢はおわり。

 4番では、この第3楽章がいかにもチャーミングで特徴的だ。なんとピチカート・オスティナートが主体となるアレグロ・スケルツォで、ここも三部形式。夢から醒めたらまた夢だったというような、飛び跳ねる音符が実に楽しい。中間部は木管が入ってきて、金管に。いかにもバレー音楽ふうのリズムがまた楽しい。チャイコーフスキィの交響曲は、こういう遊びがあって聴きやすく、人気があるのだろう。ピチカートが戻ってきて、あっというまに終わってしまう。

 4楽章で、1楽章から続く苦悩と夢は、いよいよ歓喜に変貌する。ロンド形式。第1主題は歓喜主題。打楽器が難しいですw すぐに第2主題が歌われる。第1主題になってそれがやや展開し、いよいよロシア民謡「白樺は野に立てり」の引用になる第3主題。それが劇的に変化し、重厚に展開する。シンバル鳴る鳴る(笑) そこから第2−第1−第3(フルートの装飾主題が魅力)−第2主題と続いて、1楽章の冒頭の運命動機ファンファーレ主題が戻ってきて、そこからコーダとなる。ティンパニの長いクレッシェンドに導かれ、第1主題の歓喜主題が燃える絃楽に支えられ、大爆発で終結。

 さて、3番から劇的に変化を遂げたチャイコーフスキィの交響曲だが、実は4楽章でまだ民謡を引用し、3番からの特徴を踏襲もしており、3番に続いて作風の過渡期の後期ともいえる。ここから、5番まで約10年のブランクがあり、その間にマンフレッド交響曲を始め、組曲等の作曲をしている。チャイコーフスキィの模索が始まる。


マンフレッド交響曲(1885)

 4番と5番の間にある、純然たる標題交響曲。4、5、6番に比べたらディスクの数も少ない。が、少ないといってもさすがチャイコーフスキィ、メジャー指揮者でけっこうある。

 バイロンの長編劇詩に基づいた音楽で、雰囲気はベルリオーズのそれに近い。自身の作品では「ロメオとジュリエット」や「フランチェスカ・ダ・リミニ」そして「テンペスト」に近い。それらはシェイクスピアやダンテに基づいているが、こちらはバイロンというわけ。演奏時間的にも55〜60分ほどもあり、特に4楽章は充実の極み。1楽章もまたすばらしい。この第1楽章や4楽章のみで一遍の幻想詩曲ともいえる。じっさい作曲者本人が 「バイロンのストーリーによる4つの音画による交響曲」 としているので、各楽章は、純粋な交響曲よりは、一遍ずつの交響詩的な性格を有しているのだろう。つまり、一種の交響組曲であるが、主題が統一されているので、かの幻想交響曲を範とし、交響曲としている。

 作曲の経緯だが、かつてロシアを訪問したベルリオーズに刺激を受けたバラーキレフにバイロンに基づく音楽の作曲を進められ、バラーキレフはその際、ベルリオーズの幻想交響曲やイタリアのハロルドのような固定観念を導入すべきだとしたのだった。バラーキレフは当初、そのベルリオーズに作曲を打診したが、病気と高齢のために断られ、14年後に若きチャイコーフスキィへ目をつけた。しかし、自分では作曲しようとしなかった。曲はバラーキレフへ献呈されている。

 バイロンの原作はけっこうハチャメチャなストーリーで、スイスの城主である主人公マンフレッド氏はオカルトに染まった罰当たり野郎。神様を罵倒しながらずっと世界を放浪している。愛人も殺した。だけど、最近そんな黒魔術な生活も疲れてきちゃった。マンフレッド悩むぜ。うーむ。……そうだ、アルプスで魔法を使って悪魔や精霊を呼び、オカルトの罪を忘却してくれるよう頼んじゃおう。よーし、きたきた。じゃ、さっそく頼むぜ。……って、ダメ? 何で? まあいいや。じゃあ、もう生きてるのも嫌になったから自殺させてくれよ。……それもダメ!? 時間? 何の時間? 地獄へ行く? じょ、冗談いうな、おい、まて、ちょっとまて、オレがいったい何をした、止めろ、おい、止めろ、やめ……ぎにゃー!!

 …………。

 ストーリーとしては三文芝居も甚だしいが、当時の幻想趣味、怪奇趣味にあふれたロマン文学的作品であり、死や人間の運命としての忘却、罪と償いをテーマとする深いもので、かのシューマンも劇音楽として作曲。今日では序曲がよく演奏される。文学作品としても後世の文豪たちに多くの影響を与えている。

 マンフレッド交響曲は、チャイコースキィ流標題音楽の最大最高傑作であり、全作品中でもその劇性において右に出る物は少ない。これも原典版と改訂版があるが、改訂版は4楽章のラストにオルガンによるコラールがついていて、演奏時間がやや長いていどで、他の箇所の変更部分はかなり細かいもののようで分からない。ヴォリュームもあって聴き応えがある。全交響曲群の中でも、最重量級の作品。オマケ交響曲ではけして無い。交響曲としてやはり構造的に弱く組曲的、連作交響詩的な部分があり、内容もセンチメンタルに過ぎる嫌いがあるためかあまり人気はないようだが、この方向性の作品としては傑作と断言できる。

 なにより、その旋律美は、全交響曲中でも随一だ。

 1楽章と4楽章が特に規模が大きく、それぞれ約20分近くもある。各楽章には交響詩的な性格を反映し、タイトルというかプログラムが用意されているが、全体的な流れは上記の通り。

 第1楽章は、長い序奏付のソナタ形式だが、チャイコーフスキィの常で、あまり厳格ではなく特に今楽章は幻想曲的性格を有している。暗く、重々しい主題が登場する。これが第1主題で全曲を通して現れる「マンフレッドの主題」だ。これはややしばらく提示され、展開される。第1楽章ではアルプスを彷徨い苦悩するマンフレッドが描かれる。速度があがり、ピウモッソとなるが、まだ序奏。再び速度を落とし、モデラートとなる。どうもここからがソナタ形式の提示部のようだが、あまり厳格ではないのは既に述べた。ここでの第1主題は冒頭のマンフレッド主題よりの派生であり、愛らしい、切ないむせるような旋律のアンダンテからが第2主題。この主題はマンフレッドがかつて殺してしまった愛人「アスタルテの主題」となる。

 この第2主題の展開たるや、現代のメロドラマも真っ青で、この悩ましさ、美しさ、情念のうずまき、後悔のドン底。さすがチャイコーフスキィという他は無い。マンフレッドはどれだけ苦悩の中に身を投じて山中を彷徨っているのか、聴くものをドラマに引きずり込む。コーダからはさらに情念が大爆発。強烈的な終結となる。

 第2楽章は気分を一新し、アルプスの滝の風景。ここは得意のバレー音楽みたい。少女の姿をした精霊も現れるが、透明で淡々とした味わい。3部形式で、スケルツォ楽章となる。チャイコーフスキィの4楽章制の交響曲で2楽章がスケルツォなのは、マンフレッドだけであり、マンフレッドのストーリーに合わせたバラーキレフの意見だという。水飛沫の中を飛び跳ねる妖精の姿が愛らしくも不気味で、トリオ部ではマンフレッド主題も変形して現れる。また冒頭に戻り、唐突に終了すると3楽章へ。

 第3楽章は緩徐楽章アンダンテ。ロンド形式のパストラール。アルプスに住む人々の情景。冒頭、オーボエが奏でる主題を変奏として扱って、ロンドとしてゆく。何度か主題が変奏されてゆくが、突如として重苦しい例の煩悶のマンフレッド主題が挟まってき、遠方より鐘も鳴る。その次は、全合奏による牧歌の主題が鳴り響くが、静かになってやがて消えてしまう。

 第4楽章アレグロ3部形式。ついにマンフレッド氏は生きたまま異界へ引きずり込まれる。最初は地下の山神が主催する妖精たちの饗宴。すなわちバッカナール! 悪魔もいる。そこにマンフレッドが落ちてくる。きっと、煮えたぎる巨鍋の中に落ちたにちがいない。

 やおら、地獄の饗宴の主題。打楽器も激しく、執拗なリズムを刻む。饗宴の主題が展開され、宴は最高潮となる。中間部ではレントとなり、かつて殺した愛人アスタルテの主題が亡霊となって登場する。マンフレッドの主題もおぞましく変形し、煩悶する。その後、再び饗宴アレグロとなって、また速度を落としてマンフレッドがもやもやと苦悩したり、何か激しく訴えたりするも、アダージョではアスタルテが再度現れてマンフレッドを誘惑する。マンフレッドがそれに答える。ここらへんは、主題が順番に出てくるのでとても分かりやすい。

 ここから一気にクライマックスへ持ってゆく手腕は、さすがチャイコーフスキィだろう。アレグロはヴィバーチェとなり、救済のオルガンが鳴り響く(改訂版)。ただし、ここでは怒りの日の主題が用いられており、単純な救済ではない。コラールが続き、このまま華々しく大団円になるかと思いきや、音楽はラルゴとなって、静かに消え入ってしまう。救われたのか、救われなかったのか。これは昇天なのか。マンフレッドはそのまま地獄の中で死んだのか。

 チャイコーフスキィがマンフレッドへ感じたものは、交響曲なのに救われないという彼の命題を自ら否定するに足る、何かだったのだろうか。


第5交響曲(1888)

 4番の作曲から、チャイコーフスキィは長くスランプに入り、結婚の失敗やイタリア旅行での慣れない暮らしで精神状態も悪化した。よい旋律が思い浮かばず、思いついても今度は重い通りに構成できない。管絃楽組曲や、標題交響曲を書いてその渇望を癒していたが、ついに、4番の完成より10年を経て、第5交響曲を完成させた。初演は成功であったが、批評家からはイマイチで、自分でも相変わらずの自虐評価で再び落ち込んだが、人気は衰えることを知らず、少しずつ自信につながって行ったのだった。

 4番よりもさらに運命主題を押し進めた、これこそナンバーも同じで、ベートーヴェンの5番交響曲を範とする悲劇から勝利への運命交響曲であったはずだが、ねらいすぎた効果をとってつけたような嫌らしさと、自分でもとらえていた。

 確かに、マンフレッドをのぞいた純音楽交響曲6曲の中では、最も「ねらっている」のは否めない。効果的すぎる嫌いがある。つまりハデで大衆的なのだが、何回も書くが、チャイコーフスキィに深遠なる精神性や頑健なる音の構築性を求める人は、おそらく現代ではいないと思われるので(笑) 別にそれでいいのだと思いますよ、ピョートル・イリイチ。本人がのぞんでいた結果じゃなくとも。

 4番は1楽章の規模が大きく他と乖離していたが、5番では1、2、4楽章がほぼ等しい規模を持ち、3楽章のワルツのみが、スケルツォの代わりとして短い演奏時間となっている。演奏時間も45分ほどもあるが、楽章間のバランスが良いので、あまり長くは感じない。

 1楽章は序奏付ソナタ形式。冒頭のクラリネット独奏による「運命動機」は一種の循環主題として全体を貫き、ところどころ展開・再現される。テンポが上がって主部。同じような暗い雰囲気で、クラリネットとファゴットが派生した第1主題を吹く。絃楽も加わり、ティンパニ、金管と激しく第1主題は盛り上がってゆく。第2主題は絃楽で優雅に流れ、踊りとなって進行してゆく。

 展開部からは主に第1主題がコッテリと展開されてゆく。ソナタ形式なのに片一方の主題しか扱われないというのは、ここまで来ると何か意図があるのではないかとすら思ってしまう。そもそもソナタ形式は性格の異なる2つの主題の和合がテーマのはずなのだが。いや、そもそも、古典派では展開部なんて「つなぎ」だしな。

 ガツンと盛り上がった後、再現部になって、第1第2主題が再現され、静かに終わりを迎える。

 ところで私事で恐縮だが、再現部の第1主題の展開の頂点で、ティンパニにやたらとリズムの難しいトレモロが出てくる。むかし演奏したとき、どうしてもできなくて、CDで聴いても良く分からず、色々5番の映像を観て勉強したが、まともにリズム通りだと思ったのはチェリビダッケ指揮ミュンヘンフィルの当時のティンパニ奏者、ザードロだけだった。

 第2楽章もまた暗く重々しい。その中に、清々しいホルンのソロが一服の清涼感を見事に与えてくれる。ホルンやオーボエや絃楽器、フルートがからんできて実に美しい。この暗く切なく儚くもがっつりと存在感のある美しさこそチャイコーフスキィを聴く醍醐味。複合三部形式ということで、第1部が既に三部に別れている。中間部では、気分を変えてクラリネットが別主題を提示する。ファゴットに受け継がれ、オーケストラ全体へ広がる。そこへ、運命動機が重々しく殴り込み、大いに盛り上げる。それから第1部が戻ってきて、主旋律を再現する。

 ところがまたも、陶酔を打ち破る運命動機。嵐は一瞬で去り、主題が戻ってきて、やはり夢見心地で終結する。

 3楽章で、ついにワルツ大好きーチャイコーフスキィはワルツを正式に採用する。優雅なワルツはしかし、純然たるヴィンナーヴァルツというより、フランス風のヴァルセの雰囲気を模している。絃楽の主題に、木管がからんで優雅な世界を作ってゆく。トリオでは、気ぜわしい絃楽にティンパニの合いの手が面白い。過程部を経て、コーダで運命動機も聴かれる。

 いよいよ運命と悲劇の解決する4楽章。序奏付ソナタ形式。序奏では1楽章の再現で、運命動機が現れる。絃楽で、調を変えて(1楽章冒頭ホ短調、4楽章冒頭ホ長調)やや明るいのが解決を示唆する。序奏はじわじわと音量を上げて、トランペットの吹奏で頂点をむかえ、速度をいったん落としつつも、ティンパニのトレモロから怒濤の主部アレグロに突入する。

 舞曲のような激しい第1主題。第2主題は木管による。展開部では珍しく両方の主題が扱われ、存分に絡み合ってゆく。この曲は珍しくシンバルが無く(笑)その代わりにティンパニが大活躍。オーケストレーションも複雑だが聴感は損なわず、とにかくカッコイイ。鎮静化してから、派生主題が高らかに鳴り響き、すぐさま再現部へ。ここでも少し音形は変形されていて面白い効果を出す。

 それが急落して運命動機。が、倒れかけた英雄は起き上がって駆けだす。ティンパニのソロから、全休符。そして、最終解決のコーダ。ここで運命動機は勝利のファンファーレとして完全に上を向いて鳴り響く。速度を増してプレストとなると、あとは一気呵成、疾風怒濤、大団円で全曲を締める。

 あとはどんな客だろうと、ブラヴォーと拍手の嵐しか無い。

 これは、ハデだろうが、とってつけたような狙いがあろうが、厭味があろうが、完全に完全なる名曲です。 


第6交響曲「悲愴」(1893)

 悲愴というのはいちおう正式なタイトルで、運命だとかなんだとかのような「通称」ではない。悲愴と悲壮は同じ発音だが、意味は正反対に近く、同じ悲しみでも悲壮は勇ましいが悲愴は痛ましい感じがつきまとう。チャイコーフスキィ本人は、フランス語でのタイトルを手紙で書いていたようで、それは、Pathetique (パテティーク)といい、意味はその通り「悲愴」とか「感傷的」というそうなのだが、ロシア語では、 Патетическая (パテティーチェスカヤ)で、意味は「情熱的な」「感動的な」という形容詞。ただし、格変化で、本来は Патетический (パテティーチェスキィ)という単語。

 従って本当は情熱なのか悲愴なのかはよく分からないのだが、チャイコーフスキィは、スコア表紙にはロシア語でタイトルを書き込み、出版社への手紙やスコア内部ではフランス語の副題を書いていたというが、曲調からもどちらともとれるがここは一般的な悲愴にしておく。神崎正英によると、両方の意味が込められているかも、ということである。
 
 これは内容からも、チャイコーフスキィの交響曲での最高傑作であることは、云うを待たない。あまりに傑作過ぎて神秘的なまでの余分さを伴っている嫌いもあるが、ここではチャイコーフスキィの死因がどうのは、触れない。

 4番と同じく、1楽章の規模が大きく、他の楽章の倍以上もある。アダージョの序奏付のソナタ形式であり、重々しくグラーヴェに近い雰囲気で、曲は始まる。深刻な第1主題は、しかし、ヴァイオリンとヴィオラ奏者の数(演奏するプルト数)が半分で弱々しい。多くの楽器に引き継がれ、展開されてゆく。落ち着いたら第2主題が提示されるが、第2主題は提示部だけで3部に別れており、構造の複雑さを見せる。優雅な、夢見心地でゆったりと主題は提示され、五音音階なので民族調でもある。ただし、明確な民謡主題ではないようだ。木管による三連符に変化するとそれは第2主題第2部で、もう一度絃楽主体に戻って、提示部を終える。だいたい、第2主題が貧弱なチャイコーフスキィにすると珍しい提示部だろう。ここで微かに鳴らされるバスクラリネットは深い。

 どーん! と、ここで一気に深刻になり、オーケストラ全体で吠えると展開部へ突入する。ここはいかにも劇的で、タイトルはここでは情熱のほうが相応しい。

 ここでも、展開は第1主題をメインに進み、それへ第2主題がかぶさってくる。アレグロは怒濤の勢いで進み、金管もバリバリ、絃楽は燃え狂う。音楽は停滞したり、再び燃え上がったり起伏が激しい。再現部でも勢いは続き、第1主題を激しく彩るティンパニ。持続するトレモロから速度が落ちてゆき、トロンボーンが悲劇の凱歌を歌い上げると楽章はクライマックスだ。第2主題が思いでのように再現されるが、第1部のみ。しかし力強い。これはやはり、勝利の歌なのか。それとも。

 コーダでも夢見心地の気分は残り、静かにクラリネットの子守歌に酔いしれ、優しいコラールの中に、1楽章は終結する。

 第2楽章アレグロ・コン・グラツィアは珍しく変拍子で、5/4拍子となっている。ここでも、ロシア民謡に特徴的なリズムを採用しているが、民謡主題ではないようだ。緩徐楽章にしては舞曲風で、それもそのはず、緩徐楽章はご存じの通り終楽章という斬新さ。マーラー流に云うところのレントラー楽章だろう。主旋律は優雅ながらどこか哀愁に満ちており、とても魅力的。3部形式がそれぞれ3部になっているという複合三部形式で、中間部では音色を変えてさらに不安げな音調を出し、4楽章への布石を見せる藝の細かさ。第1部が戻り、盛り上がりつつ、コーダは静かに終わる。

 3楽章はアレグロ・モルト・ヴィバーチェ、行進曲風の一風変わったスケルツォで、かなり勇ましく明るい。ここにきてシンバルもバッシャバッシャ!(笑) ロシアの作曲家の書くシンバルを遠慮して鳴らしていたのでは、それは作曲家に失礼というもの。絃楽によるタランテラふうスケルツォ主題の中から、少しずつ行進曲主題が浮かんでくる。12/8拍子だが8分音符3つで1拍子なので、指揮は4/4となるだろう。じわじわと行進曲主題が明確になってゆき、金管からティンパニのトレモロ、そしていよいよ盛り上がりは最高潮になり、シンバルバッシャーン! バスドラドドン! 完全に行進曲主題が前面に出るが、タランテラ主題も忘れずに登場、しかし立場は逆転。勇ましい曲調が、いやが上でもこの後の悲劇的、いや悲愴的な雰囲気との落差を演出する。
 
 ここでたいてい拍手が出る場合があるが(笑)それは、入門レベルのお客さん相手に本当は難易度の高い悲愴なんかやるからだ。しかも、日本人に限っての話ではない。ボストンのライヴ録音でアメリカの客が豪快に拍手しているライヴ盤も聴いたことがあるw

 4楽章はアダージョ・ラメントーソとなっているが、アンダンテだったという説もあり、速度指定は難しい。ソナタ形式的な複合三部形式。提示部では、第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンに1音ずつあてがわれ、両翼配置なら左右からステレオで旋律が迫って来るという仕掛けだが、今日では向かって左側でごちゃっときこえる。第2主題(第2部)は祈りの旋律で、じっくりと盛り上がり、頂点で崩れ落ちてくる。ゲネラルパウゼの後、再現部(第3部)になるが、今度は第1ヴァイオリンのみで奏され、提示部よりしっかりとした意志を聴くものへ感じさせる演出がすばらしい。第1主題もぐーんと盛り上がって、まさに内に煮えたぎらんばかりのパッションを秘め、悲愴どころか確かに熱情。だが、音楽は次第に弱々しくなって、タムタムの一打が死を連想させる。再び第1主題が展開して再現され、あとは静かに消えてしまうのみである。

 作曲家が初演から9日後にあっけなく死んでしまったので、これは遺書であるとか、自殺であるとか、いろいろ現代でもとり立たされているが、マーラーの交響曲の世界に通じるものを聴くことができる人ならば、あの大地の歌や第9番は死をテーマにしつつも、死と生をテーマにし、生へ転じる音楽を聴くことができると思う。すなわち、この6番も、死への悲愴でありつつ、やはり生への熱情も充分に含んでいるのを聴けると思う。







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