6/30

 隣町で行われた、札響の演奏会に行ってきました。
 
 森口真司/札幌交響楽団
 シュトラウス 蝙蝠序曲
 外山雄三 ディヴェルメント
 ドボルザーク 交響曲第9番「新世界より」

 うーん、まあまあですた。市民会館がいつのまにやらこぎれいになっていて、うらやましいと思ったら、音響はそうでもなかった。会場のせい。こうもりはどちらかというと嫌いな曲なのでノーコメント。外山のディヴェルメントはまさに日本人による日本の嬉遊曲。もちろん民謡調。民謡の何が悪いィ! 西洋の民謡はよくて日本の民謡が悪いというのは理不尽だ。

 新世界もナマで聴くといちだんと良さが分かる。名曲だ。

 しかしさすがに仕事帰りに直行は、少しウトウトしてしまった。


6/27

 むかし(1995年ごろ。)デンオンから出ていた現代日本音楽の復刻CD。けっこう集めたが、その中で、当時人に貸して行方不明になっていたものを中古オークションで10年ぶりぐらいに入手し直した。当時の価格の10倍の値段を要した。

 メーカーには、こういったマニアックな状況をどうにか打破してほしいものだとつくづく感じる。

 三善晃 交響三章(1960)
 武満徹 樹の曲(1961)
 柴田南雄 シンフォニア(1960)
 小山清茂 交響組曲「能面」(1959)

 渡邉暁雄/日本フィル

 当時は気づかなかったが、指揮はアケちゃんで、希少性を増している。特に三善と小山は録音が少なく、これも貴重だ。

 各作曲年代を参照していただけると分かるが、今アルバムの構成は1959−1961年の、互いに近い時期に書かれた音楽を比較して楽しめる。
 
 交響三章は三善の若いときの代表作で、いまではどちらかというと純粋な管弦楽曲よりも合唱曲で高名な三善の、まだ聴きやすい響きが面白い。

 タケミツサウンドもまだ初期で、絃レクが1957、ノヴェンバーステップスが1967であるから、その中間の曲と思えば良い。この間の管弦楽曲は他にドーリアや環礁があるぐらいで、少ないはず。日本的な響きと西洋的な響きの模索。凝縮した煌きの妙。

 独創的な発想と技術による2曲の次は12音の大家柴田による代表作シンフォニア。12音技法によるものだが、その構成の独自性も注目だ。日本セリー主義の至玉の逸品か。

 最後を飾る能面は日本情緒主義ともいえる小山最大規模の作品であり、民謡とかではなく能の精神を分かりやすい響きと技術で我々へ呈示する。柴田との比較が特に面白い。

 大まかに分けて、独自法、アカデミズム、民族主義と、3種類のタイプの、それぞれ日本を代表するすばらしい音楽を教えてくれる素敵なアルバム。廃盤のまま、マニア市場でコレクターズアイテムとなっているだけで、本当に良いのか。新規録音に文化庁は補助金を出せ。こういう補助こそ、真に必要な補助だろう。


6/20

 バルビローリ/ベルリンフィル マーラー 2番3番6番

 録音の順番は2、6、3です。ぜんぶライヴ録音か? これは。

 演奏はすばらしいが,いかんせん音質があまりよくない。
 
 2と6はモノラル。3がステレオということだが、高音に限界があり、ひずんでいる箇所もあって、こもっている。演奏自体は超一級なだけにちょっと惜しい。
 
 2番 は1楽章がたいへんすばらしいものだったが、以降がちょっと物足りなく、先日のアバドを聴いた後だったので印象も薄かった。★4つ。
 既に持っている海賊盤と同一音源と思われる。
 
 3番 が出物! この重量感、重厚感、1楽章の迫力! 再現部前の小太鼓のソロ、じつは2台でするようマーラーの指示があるのだが、2台に聴こえる演奏は初めてかも〜〜。

 5楽章がよく練られた1楽章に通じる重い解釈で、それも良い。2、3、4は比較的通常というか、ソロイスティックナ部分が少し強調されていたかもしれない。

 そして時間配分だけを見ても、1楽章が36分、6楽章が22分。この時間配分はつい最近どこかで………。

 シャイーの3番と同じだ!! 特に6楽章の速さは。

 偶然か、シャイーがバルビローリを勉強したのか。たぶん偶然だろうけど。

 感動の演奏だが、残念ながら音質が中の下なので★4つ。モノラルながら2番のほうが良いぐらいに感じました。
 
 6番 は2番と同じく前に海賊で買った物と同一音源であり、2楽章がアンダンテ。しかしバルビローリは他にも海賊で6番があって、EMIの正規盤だけが2楽章スケルツォなのだ。海賊が両方ともライヴなのを鑑みると、正規盤は2と3を入れかえて発売したのではなかろうか、とさえ思えてくる。

 しかも海賊はとても音質が悪かったように記憶している。正規盤はどうか。

 かなりヨイ!

 1楽章の冒頭の重テンポ、すばらしい! 重いのだけど、推進力はあるのだなあ。

 堂々とした展開。自信にあふれた解釈。迷うものはない。

 カウベルの人が本当に一所懸命に鳴らしているんだけど、鳴らない(笑) 遠くから響く地上の最期の音の象徴。カウベル。ガラン…コロン……ガラン…コロン……のはずが、カラカラカラカラ(笑) むかしの楽器って、きっと本物の牛のクビについているカウベルをそのまま使っていたのだな、と思わせる一瞬。特殊楽器はねー、それが楽器として認知されるまでは、たいへんですよね。鈴もそうだけど。

 2楽章アンダンテを考えてみる。

 ブルックナーだって曲によって2楽章がアンダンテだったりスケルツォだったりだし、つながりとして、音楽的に悪いわけではない。時間配分もバルビローリはアンダンテを14分で飛ばしているし、12分のスケルツォとたいして変わらない。個人的には2楽章はスケルツォが好きだけど、聴いていて違和感はない。(あるとすれば、アンダンテ14分はやっぱり速い!)

 どっちでもいいのかなあ、結果として。ぜんぜん結論になってないですみません。

 まあ アンダンテ−スケルツォ より スケルツォ−アンダンテ のほうが、よりストーリー的な意味合いをもって聴けるのかもしれない。どちらがフィナーレへ向かうベクトル的な力関係が強いかというと、わたしは スケルツォ−アンダンテ だと思う。演奏云々ではなく、曲の構成の問題で、どちらが標題的文学的エンターテイメント的な性格を持って聴き手に訴えてくるのか、という問題。

 その、フィナーレへ向かって書かれているマーラーの交響曲。6番は特にフィナーレが充実しており、3番、大地、9番と匹敵する。

 バルビローリのフィナーレは、濃いなあ〜。

 そして芸が細かい。金管のフレーズひとつにとっても、なんか細かいことをやっている。録音で聴くだけでは気づかないことも、たくさんやっているにちがいない。

 さて問題はハンマー〜〜。

 カキン!!

 金属音(笑)

 うーん、なんでだろ??? ダン! も聴こえるから、木のハンマーといっしょに使っているのかな? その意味するところは??

 謎だらけ。

 ちなみに、金属のハンマーは、ノイマン/チェコフィルの旧録もやってます。

 マーラーの指示を無視してまでのカキン。なにかしらの意味があると考えたい。

 分からないけど(笑)

 最期の衝撃、聞き慣れたものであっても、やはり心臓に悪い。

 ルイジとは芸に格段の差があります。方向性がちがうから、いちがいには比較できないけど。★は5つ。

 次はギーレンの全集(大地除く)でも聴こうかな〜。(平行して交響曲ページの「ヴォーン=ウィリアムス」を執筆してますので、進行は遅くなります。RVWの交響曲もとてもイイモノです〜。)


6/13

 アバド/ベルリンフィル マーラー2番
 ルイジ/MDR交響楽団 マーラー6番

 アバドは海賊盤。
 
 しかしアバドの2番はある意味
完璧な演奏だと思った。

 例えば栄養成分表でタンパク質とか資質とかビタミンとか食物繊維とかの6角形グラフとかがよくあるが、テンシュテットやバーンスタイン、クレンペラー等のものは、どこかがドーンと突出しているかわりにどこかがズーンとひっこんでいるようなものだが、アバドのものは完璧に正6角形に近いといえる。

 まず表現はよく抑制されているのだが無表情というわけでは無い。なんとも(優しいというのは語弊がある。)独特の中和的なもの。
 
 演奏技術は天下無敵のBPO、ライヴだが文句は無い。ついでに録音も非常に良いことを付け加える。
 
 感情的なものとしては爆発も表出も無いのだが、そこは、スコアの読み通りの、マーラーの意図通りの、音楽としての感情表現は強くある。したがって、純粋に、普遍的なひとつの音楽としての古典的なマーラー像というものを確立しているのではあるまいか。
 
 それが2番であるから、アバドの新録の内より言うならば、7番や3番、ましてや9番ほどの内容も無いわけで、表層的な効果に拠りがちであり、ただ単に奇をてらったような演奏に堕していないのが価値だと思う。なにせベルリンフィルなものだから、ちょっとやそっとの平々凡な指揮でもオケが勝手にすばらしく演奏してしまう。

 アバドは病気になってより死と人間の生きる意味を悟ったのか、急に禅の高僧のような境地に達してきた。そのような人間が、人間の生と死を人間のあるがままにみつめたマーラーの交響曲を、すばらしく振らぬわけがない。

 まあ★はそりゃ5つが妥当か。うーん、正規盤の3・7・9もたまには聴き直さないといけないなあ。

 新進気鋭なファビオ・ルイジのマーラー6番。
 MDR響は旧ライプツィヒ放送交響楽団で、Das Sinfonieorchester des Mitteldeutschen Rundfunks つまり中部ドイツ放送交響楽団のことです。
 
 ライプツィヒといやあ、シェルヘンとの驚天動地なマーラーの6番があります。聴いたことありますか? 無理に聴かなくていいです。メチャクチャに狂乱している表現です。

 それはさておき、HMVの聴衆評で、このルイジの6番はのきなみ高得点で満天の10点オンパレード、中には「同曲のCDを20枚持っている私が云うのだから間ちがいない、これはすごい演奏だ」というものまであって、なんか凄そうだと単純に思った。

 マーラーに関しては一家言ある、いつもお世話になっているIANISさんが云うにはこれはずいぶんと(当然、指揮者はそのように意識してはいないと思うが。)エンターテイメント的な表現が見られるという。

 とりわけてハデなものではないのだが、ふつうの演奏よりテンポ的な緩急の差がたしかに認められる。また、全体的に明るく健康的に響いている。これがいわゆるアメリカンエンターテイナー的ディズニー的(?)な演奏たる所以なのだろうか。

 しかし別に具体的に移調しているわけでもないのに、演奏表現だけで、暗い曲を明るくできるものなのだろうか?

 これは明るいというよりむしろ若々しいというべきか。思い切りの良さがストレートで、ホイサッサと音楽が進む。しかしそれだけで、特別に演出されたエンタメ度というのは、たいしたものではないと感じた。これなら、ザンデルリンク(息子)/サンクトペテルブルクフィルのほうが、まったく豪快豪放なエンタメ演奏。
 
 1楽章よりむしろ2楽章が、表情が濃い。だが一般にマーラー「らしいとか」云われる粘着質・分裂的なものではない。そう、この人はテンポ的に速い部分と遅い部分の落差が激しいが、けして乖離していない。それは表面的なテンポだけのはなしであって、中身は同じ色だから。それが良いか悪いか、マーラー的なのかどうか、マーラーの曲をマーラー的にする必要があるのか無いのかは、聴く人が個人で判断する。

 3楽章もじっくりと鳴らしており、時間的にも遅いほうの18分代。テンシュテットと同じくらい。だがあれほどの没入度は無い。表層的な美しさをなぞっている雰囲気。
 
 そんなルイジも4楽章だけはさすがにシリアスなやり方をしている。第1主題と第2主題のテンポの差が、それなりの効果に。なんで2回目のハンマーのほうが大きく聞こえるのかは知らないけども。関係ないけど、あれって、シンバルやバスドラやドラの響きがハンマーをかき消さないようにと注釈があるのだが、その通りやるのはなかなか難しいですよね。3回目はとりあえずとても弱くしている。

 全体的にとても楽譜の表面上をきれいにさらっている印象。ちっとも集中力が続かない。自分が疲れているのとは関係なさげ。オケ(特に金管。)が上手だから★は4つ。それってバーミンガム時代のラトルに似てるかなあ。 

 マーラーの6番を20枚持ってる人にとってはすごい演奏だが、50枚持ってるわたしの心は特別そう動かすものではなかったということか。好みの問題だから別になんでもいいんですけどね。
 
 でもこの人は今年のPMFで同曲を振るんだよなあ。このレベルなら、実演で聴くのが楽しみになってきた。エッシェンバッハのやつはただうるさいだけだったから。

 時間がなくてなかなか進まないけど、次はバルビローリの2・3・6が控えている。ぜんぶベルリンフィル。うう、ブルブル。


6/5

 マーラー
 ベルティーニ/都響 大地の歌
 ベルティーニ/ベルリンドイツ響 4番

 前回発売の7番は、きっと何かの間ちがいだったのだろう。そう思ってしまうほど、この大地はすばらしい。個人的に、ひとつの理想の大地の歌がここにある。やはりベルティーニ、只者ではない。オーケストラもまずまずうまい。

 そもそもこの音楽は歌曲的交響曲なのか交響曲的歌曲なのか。答はもちろん前者なのだが、それを実証する演奏は、とても難しいと思う。なぜなら、演奏する側がそのように望まなければ、その通りの音響にはならないような音楽だからだ。これは交響曲であるという信念をオーケストラにも歌手にも要求しなくてはならない。マーラーの書いた設計図の通りに建物が建っているような印象、とはCDの解説者が書いているが、ベルティーニはまさに大地の歌を交響曲としてちゃんと設計図通りに建てている。センスある演奏だ。さすがだ。

 声楽はあまり興味が無いので、歌手の声質や歌い方にまで気は回らないが、ここではやはりやや控えめな感じが嬉しい。管弦楽と独唱が渾然一体となる境地。オペラのように声を張り上げるのではなく、歌曲のように歌手が主役でございと前へ出張るのでも無い。あくまで交響曲として響き交わる。それこそが交響曲「大地の歌」の神髄であり、楽しみなような気がします。

 1楽章の迫力は、いきなり最初から飛ばす演奏もあるが、まあまあ、とりあえず呑め、といった風情。この倦怠感と厭世観。2楽章の白痴的耽美。デカダン交響曲の実力発揮か。この美しいまでのけだるさよ。
 
 3楽章冒頭のトライアングルの響きに耳を傾けてください。なぜマーラーはトライアングルがこうも好きなのか? 中国風の音楽で、わたしはストラヴィンスキーのナイチンゲールの歌と、この大地の3楽章は、トップ2だと思います。絶妙な管弦楽のサポート。ときに前に出、時に横に広がる。このテノールの人、ヨルマ・シルバスティ、いい雰囲気だ。上手だ。

 逆にメゾ・ソプラノのスーザン・プラッツは個人的にイマイチ。都響のけっこうドライな感じが、ベルティーニの情感たっぷりの指揮によってなかなか面白い響きを作っている。

 4楽章の唯一打楽器が総動員される部分、カラヤン流の京劇ドンチャンも、それも中国の雰囲気だから愉しいけど、ここは、やはり、ベルティーニ流の幻想のような雰囲気が良い。
 
 6楽章における情感は、ベルティーニ流の実力が遺憾なく発揮された、すごいもの。個人的にプラッツの歌がもう少し浮世離れした悠久観があると良かったが、贅沢ばかり云っていてもしょうがない。
 
 いくら良いといってもオケにやはり不満が多少も残り、★4つ。 でも、日本の楽団の演奏では、トップクラスでしょう。
 
 さて、海賊盤で、ベルティーニ/ドイツベルリン響の4番も買った。買うつもりは無かったのだけれど、知らない間にネットで注文していたらしく、他の商品に混じって届いた。
 
 しかしこれがまた、買って正解!
 
 録音は正規盤に劣らず、演奏も上手、さらにはベルティーニ老境の至芸。老境といってもただテンポが遅くなって響きが大きくなって、とかいうものとはレベルがちがう。この若々しさ! それでいて自在な演出! 1楽章から、この軽やかさとその裏に隠された毒気の見事さはどうだろう。

 1・2楽章の毒を離れた、3楽章の清らかさといったら。

 ゆっくりと歌い、一体化させ、あくまで自然に流れ、変奏を変奏のように聴かせない手法。しかし、変に情緒的ではなく、むしろヒヤリとした美しさ。これもベルティーニ流。

 第2主題とその変奏の切なさ!!

 痛切というものが、言葉よりもむしろ音楽でこそ、如実に分かってしまう。
 
 それがしみじみと去ってしまうと、クラリネットが天国へいざなうのだ。

 ソプラノ Nylund のソロは、なかなか童心的で、清浄的で、大人の女していなくて、純真で良い。と思う。

 優れたマーラー聴きであり、いつもお世話になっている藤井さんやIANISさんが云う、クレンペラー盤のシュワルツコップの「よろしくなさ」というのは、そういう部分なのだろうか。シュワルツコップの歌い方は、4番では下品ということなのだろうか? 

 確かにこういう、清純な部分があってこそ、今曲の裏の毒も効いてくるというもの。

 それは、例えば私が武満の「系図」のナレーターを(作曲者の指定では10代の女性なのに。)大人の女のベテラン女優にやらせる演奏(録音)が多くて辟易しているのと、同じ意味合いなのだろうか。

 これぞ★5つ! しばらくマーラーを聴きまくります。ギーレンの全集もきてます。マーラー三昧、いきましょう。


5/19

 ロジェストヴェンスキーは好きな指揮者だが、一昔前に比べ、いまあまりCDが出回っていないような気がする。したがって、購入は中古が中心となる。ショスタコーヴィチの交響曲が好きでいろいろ集めているけど、全曲を網羅しているのは、旧ソ連系の指揮者がやはり多い。コンドラシンをだいたい集めたので、次はロジェストヴェンスキーを探しているというわけだ。

 むかーしの、ビクターの国内盤で1と9が入ったやつを買ってみた。気のせいか、メロディア盤の他の曲に比べて(4、7、8)音がとてもいい。日本の技術のせいなのかは不明。
 
 両方ともいわゆる「ディヴェルメント的」と呼ばれる傾向にあるのは、周知の通り。

 たいていの指揮者は、やはりそうしている。もっとも、9番に限っては、わざとそうしていない指揮者も多いが、少なくとも、全集以外では録音の少ない1番では、そうしている人が多い。1番はそういう音楽だとわたしも思う。

 しかるに、ロジェストヴェンスキーの面白くてヒネクレテいるのは、1番をなんとも重厚に(4楽章のティンパニのソロは、まるで7番か8番という衝撃。やりすぎだ。)やり、それでは9番もさぞやと思わせておいて、意外とそうでもないところだった。

 私のほうで考え過ぎなのかもしれないけど。

 どちらにせよ、ムラヴィンスキー、コンドラシン、ロジェストヴェンスキー、それぞれに特徴があってすばらしい! 思い切りがある。スコアの読みと演奏に。いまの中堅指揮者も良いけれど、これほどの味があるかというと、無い。最近のシャレタデザインの町並みも良いけれど、昭和の古き良き味わいもいまの価値観で見てみると 「いいもんだねえ〜ッ」 となるのに似ているか。昭和の町並みも昭和の当時は、なんともない日常の風景だったが、失われてはじめて価値に気づくのが人間ってやつか。町並みに関していえば、明治時代には江戸の、大正時代には明治の、昭和には大正の、戦後には戦前の、戦後も10年刻みで、失われてから懐古すると相場が決まっている。音楽も、そういうことなのだろうか。


5/18

 田部京子のピアノで、アルバム 「ピアニッシモ」 を買ってきましたよ。

 ピアノによるピアノのための音楽集。吉松隆構成・編曲。(一部田部と共編)

 シューベルトなど、4種類のアヴェマリア。

 シューベルト、ラヴェル、吉松隆にチャイコフスキーなど、8種類の子守歌。
 
 ドビュッシーとフォーレの、4種類の夢の曲。

 ぜんぶピアノとピアニッシモにより、フォルテのフの字も無い。

 ピアノ音楽なんて滅多に聴かないし、ましてピアノなど、不眠症によく効く薬。

 でも、たまにはこういう音楽もいいよね。

 きれいなものがすきなひと、おすすめです。。。


5/16

 久しぶりにマーラーを聴きました。

 コンドラシン/NDR交響楽団 マーラー1番(1981ライヴ)
 コンドラシン/アムステルダムコンセルトヘボウ管弦楽団 マーラー7番(1979ライヴ)

 コンドラシンが心臓発作で急逝する前日の演奏会。かのテンシュテットの代役で登場したNDR響とのマーラー1番。以前、LPで出て、その海賊CDを買ったとたんに、EMIから正規レーベルで登場(笑) もちろんそっちも買いました。

 海賊(つまりLP)のほうには拍手も入っていたが、正規ではカットされていた。

 演奏は、やはりすばらしい物だった。

 コンドラシンの面白いところは、いまふうの、ブーレーズやギーレンに始まる、楽譜の裏の裏まで分析したようなクリアな解釈を、アナログでやっていること。それをデジタルでやってしまうと、完全に今風になるのだが、そうではない。そこはテンシュテットにも匹敵する熱いアナログな感情の激白が伴っているから、独特の面白さを醸しだしている。

 特に4楽章が、これまで誰も強調しなかった部分があって、ハッとさせられた。コラールの裏のホルンとかなんですけど。輝かしいトランペットとティンパニーの裏で、ホルンが吹き鳴らす3連符、あれ、ふつうは裏だよな(笑) 

 早めの演奏で、出るとこは出、押さえるところはおさえ、この構成が単純で飽きやすい1番を一気に昂奮的に聴かせる手腕、まったく惜しい人を亡くしたと思わざるをえない。
 
 続いて7番。

 さすがに、7番の特性を完全に把握している。リズムと対旋律の饗宴と、管弦楽法の妙。

 それへ加えて、ここでも特徴的に響いているのが、いまの指揮者から失われてしまった、音楽への肉感的な共感。知と肉と、両方あると、よりよい味となる。

 流れる部分も飛び跳ねる部分も、リズムの活き活きとした再現なくして、7番は死んでしまう。 

 上手な指揮者っていいなあ。

 オーケストラもまたうまいのよ!

 絶妙な音量のニュアンスとか、いざというときの迫力、指まわし、日本のオケとは根本からちがう。残念ながら。

 セレナードの、隠された東洋的な旋法が浮き彫りにされ、わたしは、この7番はとても東洋と西洋の融合した先駆的な作品なのではないかという想いがした。マーラーはそもそも東欧的な旋律を好んでいるので、大地の歌を待たずしてそういう指摘が成されているが、7番からそれが聴こえてこようとは!

 いや、ちょっとこの7番はすごいかもしれない。(5楽章の一部で、ラッパがヘタっていますがご愛嬌。) マーラーベスト、変わってます。


5/6

 ペッターションの初期室内楽作品集をみつけた。

 ペッテションは、知る限り最も暗い音楽を書いたひと。暗いというより、痛い。同じ暗さでもマーラーやショスタコやチャイコなどとは質がちがう。シューベルトに近いかもしれない。つまり、虚無的に暗い。
 
 しかし、40歳くらいまでの、まだ地獄の様な交響曲を書く前の、室内楽の時代は、けっこう聴きやすくて、旋律も美しく北欧的な情景が見られる。

 2バイオリンのための7つのソナタは、それでも弦楽協奏曲などで 「製材所」 と言われた響きがそろそろ出てきているが、ピアノとバイオリンのための小曲はたいへんに叙情的で、暗めの吉松といったところで、非常に美しい。
 
 まだ病気も進行していないし、こういう音楽がかけたのだろう。
 
 この後、死ぬほど苦しい病におそわれて、あのような拷問のような苦痛の交響曲群が生まれるとなると、胸がしめつけられる。参考 ペッテション


5/4

 ショスタコーヴィチを買いためていた物のうちより数種、聴いてみる。

 デンオンの復刻シリーズより、インバル/ウィーン交響楽団のショスタコーヴィチ7番8番そして10番。
 
 ウィーン響とデンオン録音のデッドコンビによるこのシリーズ、その通りちょーデッドなショスタコを聴ける。それはそれでとても良いのだが、ちょっとわたしには物足りない。しかし10番はなかなかの集中力で、音楽の構造を解きあかしてインバルらしい。ただし曲が………3楽章の途中で飽きた。

 8番はそれへ積極的な表現が加わってけっこう良いが、どうも、伸びがなかった。

 7番はどうにも鳴りが足りない。鳴り物交響曲でそれはちょっとなあ。もっとも、元より鳴り物として扱っていないという意味だと思うが。

 1枚1000円という価格は、すばらしく評価できる。ぜんぶ★4つというところで。

 どうでもいいがデンオンは、武満もいいけど邦人録音をもっと復刻してほしい。前に出た邦人シリーズ、いまオークションで1枚5千円〜1万円で出ていますですよ。新録でもいいですよ〜。

 ハルモニアムンディによるPRAGAレーベルで、コンドラーシン/モスクワフィルによるショスタコーヴィチ第8交響曲。

 これは1969年のプラハにおいてのライヴ録音であるらしい。客席らしきゲホゲホも聴こえてるし。私の知る、コンドラシンの3種類目のショスタコ8番。

 インバルと比べても表現の方向性がちがうのでなんとも比較できないが、個人的にはやっぱこっちだよなあ〜。

 深い彫り込み。苦悩を表現せずして、何が8番かね。

 しかしさすがに、録音が悪い。1楽章はレンジが勝手に上がったり下がったり。これよりちょっと古い(1967年)のにAltusレーベルの日本の録音技術は優秀だなあーなどと思った。3楽章からは録音も持ち直し、さすがの出来ばえ。★は4つです。
 
 あと、ロシアとキルギス民謡による序曲という珍しい曲が併録。はじめて聴いたが、ショスタコの交響詩らしく、それなりの分かりやすい音楽だった。


5/2

 下野竜也/札幌交響楽団 の演奏会に行ってきました。

 題して、札響シンフォニック・ブラス・コンサート

 前プロが、札響メンバーによるいわゆるウィンドオーケストラ編成で、吹奏楽のオリジナル曲をやり、後半は管弦楽で、よく編曲ものとして吹奏楽で親しまれる音楽を原典版で聴く、という、吹奏楽と管弦楽を合体させた画期的なプログラム。うむ、なんというすばらしい企画だ。日本のオケもこれからはこういう意欲的なプロで勝負しなくては!

第1部 札響スペシャルブラス
 中原達彦 「ファンファーレ」〜札響シンフォニックブラスのための祝典序曲(委嘱作品:初演)
 ディヴィス ウェールズのうた
 福田洋介 吹奏楽のための「風の舞」(2004年度コンクール課題曲1)
 藤井 修 鳥たちの神話(2004年度コンクール課題曲4)
 デッロ=ジョイオ 「ルーヴル」からの情景

第2部 札幌交響楽団
 バーバー 弦楽のためのアダージョ
 大栗 裕 大阪俗謡による幻想曲
 レスピーギ 交響詩「ローマの松」

 これは良かったですよ〜。下野氏のマイクによる司会もあって曲紹介。下野もブラバン少年だったのです。札響の管打セクションのみなさんも、ほとんど全員がブラス出身で、気合が入ってましたよ!

 作曲者臨席により、現代作品の初演を聴くというのは、こんな北の大地ではめったにないのですが、いいものですね! 曲も良かったです。

 課題曲も、プロのナマで聴くなんて、ないですよ。東京佼成や大阪市音ならまだしも、プロオケのメンバーでねえ。貴重な体験でした。

 編成がいわゆるA編成に近いですが、プロ用のクラリネットがバスクラ入れて6本ぐらいのもの。木管フル編成といっても、サックスだって3本。プロが吹くと、あれぐらいの数でも金管と対はれるんだ。すげッ。ユーホも1人。部活だからしょうがないかもしれないけど、音楽的にはあれで充分なんだな。クラリネットが10何人って、実は異常な編成なのね。

 だから、ふだん聴く課題曲のブラスブラスしたガーガーキャーキャー音とちがって、オーケストラを何年もやってらっしゃるから、音がまろやかというか、オーケストラの音なのよ。いやあ、いいものだった! 久々に吹奏楽の演奏で燃えた!
 
 2部がまたねえ。席がもう満席で、自由席だから、AかB席ぐらいの場所しかなくて、バーバーなども響きがイマイチだったですが。

 メインはやっぱり大栗ですよねえ! ナマで大阪俗謡のオケ版なんて、滅多に聴けねー!!

 しかし、下野〜!(笑)

 タテの線が合ってるのか合ってないのか、中間部とか、けっこうバラバラだったような。そして、重いんだよ〜おまえの大栗はよ〜!(笑)

 朝比奈の芸を受け継いでくれないのかよ〜。朝比奈のCD聴き直して勉強してくれ。(ヒント:朝比奈の神話13分 下野の神話:16分。遅いだけならまだしも、重くて、もたついてかなわない。モーツァルトとヨハンシュトラウスII世が大好きだったという大栗の音楽は、そういうものではないと思われる。やってくれるだけましだけど。)

 なんにせよ、下野で神話とか能面とかプラハの春とかネリベルとかを札響で録音だ! ぜったい買うぞ。ローマの松は、地元高校生選抜ブラス隊(コンクール上位高ばかし!)も加わって、うるさいこと(笑)
 
 しかし、キタラが見たことも無いくらい満席だったのは良かったのですが、客の9割が中高生。しかも、ほとんど女の子! いまのブラバンって、そんなに男子に人気が無いのかね。


4/25

 シャイー/ロイヤルコンセルトヘボウのマーラー全集で、大曲3番が出ました。

 いや、出るたびにレベルが上がって行くこの全集。曲によっては、シャイーのやり方がイマイチだというものは個人的にあったが(1、4、5あたり。)この3番は、とても良かった。相変わらずのスコアの読みッぷりとオーケストラの堂々たる鳴らしっぷりが、合っているのだな、このコンビに。そういう気がしました。既出の2、6、8番なども、その意味で、とても堂々としていつつも、細部においてクリアな部分が嬉しい。

 全体を俯瞰してみてゆこう。
 
 ときどき、シャイーは1楽章のテンポを遅めに設定するが、この3番もそうだ。それが、ただ遅いだけではなく、リズムはうまいし、停滞しない。ゆっくりと、マーラーの音楽の細部を分解して行く様なやり方は、クレンペラーに通じるのかもしれない。(出てくる表現はちがうのだが。)

 2楽章以降も、幾分か、ゆっくりと進んで、まったく、3番の風景画的な部分がよく見えて、とても楽しいし、美しい。

 特に、3番でわたしが苦手な3楽章(けっこう楽想がチンプよ。)であるが、ウキウキするような素朴さ、そしてトランペット(ほんとうはポストホルンなんですが、難しくて吹けないため、トランペットで代用。難しいというのは、バルブやシリンダーの無いナチュラル楽器で、あの音階はとても無理ッす! ということらしい。)の遠く響く箇所は、なんか懐かしい夕日の風景。とても情景的な演奏で、こんなに胸に染みた3楽章は初めてです。

 もう、1小節ごとに、ニヤッとするような、嬉しい箇所がいちいちあるのだからたまらない。ハイテンションで、ただ躁的に騒ぐようなふざけた演奏がたまにあるが、もっともっと情景的でやさしく切ない音楽なのだと、気づきました。シャイーのバランス感覚と詩的感覚のすばらしさよ。(おセンチ?)

 4楽章と5楽章は、ある意味「つなぎ」の部分なのだけれど、ここでもシャイーの感性は光り輝いていて、2番や8番を経てきているだけはある。ことばと音楽との完全なる一体。言音一致とでもいうべきか。マーラーの目指したものは、崇高だ。 

 さて、最大の白眉である終楽章。

 CDを裏っ返して見てみて、まず、アレッと思ったのが、ふつう26分とか、長い人で30分をかける6楽章が、約23分。そうとうキビキビと演奏しなくてはこうはならぬ。

 しかしここで追求されているのは、ただ単に美音のタレ流しではなく、マーラーの、涙し、怒鳴り散らし、眉間にしわ寄せ、笑う姿、喜びと哀しみ、怒りと楽しさ、天と地、人と神、聖と俗、それらが入り交じった人間模様、感情の表出を吐露している姿を、最大限に再創造しようという試みなのではないか。

 ごたくはどうでもいい。しかしまた、どうしてこんなに切ないのだろう。

 勝手にいろいろな事を考えて、自分の短い人生においての様々な切なさとシンクロして、泣いてしまった。

 特に速いとは感じませんでした。むしろ、これでふつうなのでは?(クレンペラーの4番の3楽章のように。)

 大大大満足の3番でした。
 
 ★はあたりまえだが5つ。いや、もはや
だ。マーラーベスト、順位、変わってます。3番は録音も名演も少ないけど、それでも、これだけ聴けたら、幸福だ。3番は長いから聴くのに勇気がいるのだけど(つまんなかったらどうしよう!)、こういう演奏は、とても幸せな気分になれて、さあ明日も仕事頑張ろうということになる。マーラー先生、ありがとう。あなたの音楽、大好きです。ほんとうに大好きです。マエストロシャイー、ありがとう。

 併録がマニアックなマーラー編曲のバッハの管弦楽組曲。わたしは2つめの音源だが、やっぱりこっちのほうがいいや。

 マーラーの編曲ものの楽しさは、やはりオーケストラレーションの超大家による管弦楽の妙です。

 オルガンまで入っている。

 だけど、今アルバムの特徴は、どうにもセンチメンタルで情感的な響きがすることだろうか。それとも私の耳がそういうふうにしか聴けないのだろうか。

 ドイツ音楽というよりは、やはりオーストリア音楽に聴こえました。

 エアーなんてこれも涙ものよ。

 最後に、どうでもいいが、こんどの9番で全集完結っぽい書き方がなされている。大地の歌は? 出てたっけ? 画竜点睛を欠く様なことはしてほしくないのだが。まして、シャイーの全集は非常にレベルが高かっただけに。 それとも、大地は交響曲じゃないってか!? ほんとうに出ないなら、心底納得ゆかないし、私の中でのシャイーの全集は永遠に未完成ということになる。残念だ。(オケはちがえども、嘆きの歌まで出しておいて、それは無いと思うのだが………。) 


4/4

 クライバー/シュトゥットガルト放送響 でボロディンの交響曲第2番を珍しいから買いました。正確にはけっこう前に買ってたのだけれど、ようやく聴いたというべきか。

 カルロス・クライバーは凄くいい指揮をするのに、あんまり商業主義的にやる気のない人。その意味で世界最高のアマなのだろうか。こんなアマがいたら、プロの9割9分9厘はいますぐ廃業だ。そうしたらさびしいので、腕はあるがやる気のないプロぐらいにしておこう。
 
 ボロディンの2番交響曲はとても民族的かつモダンでついでに時間的にもお手頃な、チャイコフスキーあたりの初期交響曲なんかよりはるかにすばらしい音楽だが、あまり録音がない。田舎臭いとでも思われているのだろうか。

 チェクナヴォリアンあたりの盤だとモロ民族エネルギー炸裂で鼻血がでそうだが、このクライバーはそれ+ドイツ精神(構築性。)バリバリで、鼻血どころか脳震盪もの。天下一品と勝手に断言してしまおう。

 1楽章の最後の盛り上がり、こいつはすごい。2楽章の小じゃれた感じもいいし、なにより3楽章の格調高さは、クライバーらしいまとめ方だと思った。4楽章のスピード感、爽快感、超オーケストラドライヴ術、クライバー面目躍如、さすがだ。

 選曲も演奏も、クライバーのセンスが光りまくっているものです。

 オーマンディのショスタコーヴィチ後期交響曲は、14と15が良かったがそれは曲の良さをふつうに出しているという意味でだった。どれも西側初演直後の録音であり、非常に生々しい音がしていた。作曲者が生きているという、まさに現代の音楽という意味で。初発売当時の、1972年とかのショスタコーヴィチがまだ生きている当時の解説もまた、とても貴重な「証言」だった。
 
 ※ ショスタコーヴィチ交響曲ベスト8作成開始しましたので、こちらや交響曲の更新、遅れます。


3/31

 去年の新譜だが、有橋淑名によるチェンバロ作品集を買った。

 チェンバロというと、特別に古楽器やバロックのファン以外には、意外と聴いたことは無い楽器のはずで、むしろくるみ割りのチェレスタや、ハーリ・ヤーノシュのツィンバロンのほうがオーケストラ聴きにはメジャーなのではあるまいか。

 しかしこのアルバムは、ラヴェル、シュトラウス、ディーリアス、ロドリーゴ、プゾーニ、ショスタコヴィチ等の近代作家がメインとなっていて、異彩を放っている。しかもすべて編曲ものではなくオリジナル作品。中でも、チェレプニンと伊福部昭、それに信時潔などは、珍しい。

 さて、ロマンティックなピアノフォルテの調べばかり聴いていると、チェンバロの音はずいぶんとメカニックなのに驚く。機構的に、もともとそういう楽器なのだが、バロック音楽自体も、そういえばカクカクとメカニカルな音楽だとあらためて気付く。それをさらに意識して、近代の作家陣はチェンバロの新しい魅力を引き出している。
 
 そして音自体も、いまにして思えば、ずいぶんとシンセサイザーっぽい、妙な音なのだ。それを意識したバロック・ホーダウン(チェンバロ本物版)など、びっくりするほど現代的だし、現代といえばチェレプニンのチェンバロのための組曲はまるっきり電子音楽。ひとむかし前のSF映画だ。ううむ、恐ろしい。

 その中で、リヒャルト・シュトラウスのオペラ「カプリッチョ」からの組曲は、非常にバッハを意識した新古典的なものだ。信時の東北民謡集からの2曲は、まったくお琴の音がしてこれもびっくり。原理はいっしょだからねえ。

 ショスタコと伊福部は映画音楽からの抜粋だが、伊福部は2曲とも時代劇だから、斬新さが目立つ。伊福部は座頭市にギターをつかったりしているので、眠狂四郎にチェンバロがつかわれていてもおかしくはないが、狂四郎の父が外法のバテレンで、当時のヨーロッパではチェンバロ全盛という背景に合わせて作曲されているときけば、ううむ納得。

 最後になったが、有橋のチェンバロは、上手です。(笑)
 
 チェンバロ独奏なんか初めて聴いたから、よく分からないですよ。しかし、クラシックも、ついにここまでビジュアル面で商業主義になってきたかと。同じ腕前ならば、美男美女のほうが、そりゃアルバムも売れますわなあ。(若いときの諏訪内晶子は、たいして美人でも無かったけど。)


3/30

 芥川也寸志の映画サントラ。鬼畜。

 このように書いていると、私はずいぶん映画ファンだと思う方もいるかもしれないが、正確には映画音楽ファンで、しかも、誰でも彼でも良いわけではなく、私がいま現在好きな作家の映画音楽の大ファンということになる。ただし、武満徹は数が多すぎてぜんぜん把握しきれてない。

 映画音楽だけを聴いて、何が楽しいのか、と思う人もいるだろうが、私にしてみれば、サントラで聴く映画音楽はちゃんとした「音楽」だが、映画の中の映画音楽は、ただの「BGM」でしかなく、セリフや効果音でせっかくの音楽がよく聴こえない時すらあり、ガマンならない。したがって、私がその映画を見るというのは、純粋に映画を観るのではなく、どんな場面にこの音楽がついているのか………といった「確認」にすぎない例が多い。私は純粋な映画ファンからすれば、邪道きわまりない人間である。
 
 芥川はもちろん好きな作家で、ほんとうは八甲田山を探していたのだが、ぐうぜん、安く鬼畜を入手できた。しかし、タイトルと音楽の乖離が激しい映画で、そのシュールさが何ともいえぬ魅力になっている。映画自体も、名作であるとのことで、気が向いたらぜひ鑑賞したい。 
 
 なんといってもストリートオルガン、そしてオルゴールによる、愛らしくも不気味なテーマ。その派生。人間と鬼畜の狭間の音楽などは、戦慄の極み。しかし芥川はけして、ヒューマニズムを忘れない。愛憎入り交じったリアルな人間模様は、龍之介の文学と、也寸志の音楽に、共通するものとして非常に注目している。

 ちなみに、純粋に観たい映画を観に行って、その音楽がサントラを買うほどすばらしいというのは、昨今、滅多にない。


3/21

 チェコスプラフォンの(日本では。)珍しいCDを輸入業者から買った。曲目は、アンチェル/ チェコフィル及びそのアンサンブルによる、ストラヴィンスキーの作品集。私がわざわざ買うぐらいだから、いまさら火の鳥だのハルサイだのではない。ストラヴィンスキーのもう一つの魅力である新古典主義、室内アンサンブル、そして合唱。それらが存分に味わえるアルバムを発見して、小躍りし、注文し、入荷するまで数か月かかった。
 
 来てみて買ってみて、聴いてみて、その良さにあらためてゾクゾクしている次第。
 
 結婚 
 ミサ
 カンタータ
 
 の3曲で、いずれもメジャーな録音はまずない。このアンチェルとチェコフィルというコンビによる録音に出会ったことは、人生の中でも、そうはない出会いだと思った。
 
 結婚は、私は4種類目のディスクで、室内アンサンブル(打楽器群と、ピアノ4台。)と歌手陣による。演奏云々よりも、それぞれの個々の特徴と、それらをいかにまとめるか、という指揮とが、大管弦楽よりもやはり透徹されて、伝わってきて、面白い。音楽自体もとても面白い。

 田舎臭いといえばそれまでだが、朴訥とした、どこか訛ったような響き。そして、アンチェルのドライなまとめ方。ストラヴィンスキーと、なんという相性の良さか。ストラヴィンスキーの音楽こそ、ネジと歯車の音楽だと思っている。ハルサイよりも、それは、こういう作品でこそ、真価が見える。
 
 ミサ曲は、2群の管楽アンサンブルと合唱・独唱による。ストラヴィンスキー新古典主義時代の最後期にあたり、12音主義ギリギリの音楽が、ドライというかもはや乾ききって響く。管弦楽法は究極に切り詰められ、さらには古典的な旋律。その組み合わせの妙の美しさ!! それでいて、余計なものを削られた米よりできる特上大吟醸のようなふくよかな香りも、ある。曲も良いが、演奏もおそらく最高峰。この音源しか、もってませんけど。1948年の作曲。
 
 そしてカンタータ。これも録音がない。ミサはむかしバーンスタインの演奏を見かけたことがあったが(買わなかった。)カンタータは初めて見た。

 これは完成が1952年でミサ曲と近く、「道楽者の成り行き」をはさんでいる。

 曲名がただの「カンタータ」で、カンタータ「なんとか」とは別の音楽である。

 しかし、ミサと決定的に異なるのは、カンタータはストラヴィンスキーがついに音列技法を採用した最初の曲だということだ。この後、7重奏曲を経て、カンティクル・サクルムやアゴンでも音列技法を採用し、ついにトレニで完全にセリー主義者へと変貌した。ちなみに仇敵だったシェーンベルクが死んだのが、1951年。

 ミサと比べると、ここでは旋律的な情緒の概念がかなり否定され、さらに和声の美しさが浮き彫りにされ、現代の宗教音楽に相応しいドライさと揺るぎなさをもっている。

 アンチェルの音楽造りは、やはり、そのある意味無機的な要素を表面化しつつも、例えばブーレーズのようにそれを金属的に硬質化するのではなく、そこは前時代のなんともいえぬ芳香が香り立ち、美しさに磨きをかけている。シックな高級木目の調度品のようだ。

 ぜんぶ★は5つ。演奏も曲もすばらしい。 結婚のランキングに加わっています。


3/18
 
 ショスタコヴィチ連続鑑賞その2として、コンドラシンの来日時によるモスクワフィルとの第8を聴いてみる。
 
 ゲルギエフといい、ムラヴィンスキーといい、ロジェストヴェンスキーといい、お国物というわけかどうかは知らないが、どうしてこんなに、かれらの指揮するショスタコヴィチは、音圧や表現が凄まじいのだろうか。生きた音楽だからだろうか。同時代の音楽だからだろうか。あまりの鋭さに、斬れば血がほとばしるような、まるでいまそこで暴れている猛獣そのもののような迫力がある。鋭利で、暴力的で、原始的だ。この迫力は、耐えがたいほどの魅力をもって、私を呪縛する。
 
 それにしても、そういう表現の、なんとこの8番に合うことだろう。全体の半分を占める第1楽章の、なんと短く感じられることだろう。ここにあるドラマ、ソ連の指揮者でしか、リアルに音楽として伝えられないのだろうか。いや、これは本当に音楽なのか? だれかの叫び声そのもののようだ。
 
 2楽章が、なぜにこのように狂気的に響くのか。これはコンドラシンだけの凄さだ。ムラヴィンスキーでも、ここまでではない。(とういか、ムラヴィンスキーはムラヴィンスキーでちがった狂気がある。) 最後のティンパニのディフォルメなども、ゲルギエフなど、まるで子ども。

 件の3楽章。私はキエフの大平原を行く赤軍の大行進と逃げまどうナチスの姿が、どうしてもダブル音楽。攻撃の悲劇。勇ましいファンファーレは、すぐに滑稽になる。戦争ってアホ。ショスタコのスネアドラムはいつでも銃撃の音だ!! そしてティンパニの大乱舞!!! 死ね死ねみんな死ね!! これを戦争の狂気と云わずして、なにが狂気なのだろうか!?

 そはしかし、勝っても負けても、次に来るのは、諸行無常の死者の沼地のようなラルゴ。
 
 フィナーレへと到る。

 おどけたファゴット、すでに泣いているではないか。

 とび跳ねるフルート、泣いているではないか。

 弦楽の調べ。みな泣いているではないか。

 祭典のような雰囲気で、戦争は終わった。しかし、もう、ナチスよりも恐ろしい大敵が、後ろに迫っているではないか。粛清という。

 涙の落ちる音で、この大曲は閉められる。
 
 この交響曲は、怒り、苦しみ、そして哀しい音楽だということが、かれらのような指揮で、はじめて理解できる。そうなると、もう手放すことは出来ない。
 ショスタコヴィチの第8番は、私は本当に、本当に素晴らしい交響曲だと思う。少なくとも、ショスタコの中でも、1・2を争う、最高の最高に素晴らしい音楽だと思う。

 しかし、コンドラシン。ヤバい。オカシイ。ぜったい、オカシイこの人。こんな恐ろしい8番が許されるのだろうか。モスクワフィルの、弓ではなく剣を振り回して演奏しているような弦楽群は、まったくその通り戦士団のようだ。これは、こんなにすごい演奏が1967年の日本で行われて、当時の日本人は、ついて行けたのだろうか? 東西冷戦のさなかよりもむしろ、このような大戦真っ只中の音楽は、21世紀初頭のいまのような、平気で爆弾が街中で爆発し、音速で空爆が行われる時代にこそ相応しい。
 
 戦争もテロもアホ。
 
 音質は、最新のものよりとうぜん劣るが、もうぜったい☆。気絶する。心臓に悪い。指揮者ご本人の命をも、縮めたにちがいない。


3/17

 サーコリンデイヴィス/ バイエルン放送響で、マーラーの第8番のライヴ録音が出たので、買いました。来日記念盤だそうで、2枚組で2500円となかなかお買い得です。
 
 コリンデイヴィスはまあまあ好きなほうの指揮者で、ディスクを集めるほどではありませんが、もっている中では、火の鳥とか、飽きのこない堅実的な指揮でよいものです。そういうイメージがあったので、マーラーの8番もじっくりと音を聴かせてくれるかなあと思ったのですが、それがドンピシャリ!

 ライヴ特有のホール音響の録音は、クリアー派には辟易するでしょうが(ライヴ録音はどうしてもこうなる。実際にライヴで聴くと、同じような音響でもこうはならないから不思議だ。)それはしょうがないとして、悠揚たるテンポで、しかし停滞せずに確実に前へ前へ進みゆく音楽造りが、たいへんな魅力として伝わってくる、なかなか良い8番でした。
 
 第1部では音楽的にもそれへ熱気が伝わり、ソロの幅の広い歌唱から管弦楽の隙の無い鳴り、ラストの大音響まで、一貫して指揮者の意志が透徹されていると感じました。この1部はとても良かった。
 
 第2部においても、時間的に遅いというよりは、テンポ設定に幅があるというか、拍のとり方が大きいというか、そういうのはスケールが大きいという形容になるのかどうかは分からないが、マーラーの大きな音楽を大きくそのままつかむといった、安心感がある。特に管弦楽のみの部分や、少年合唱が始まってよりの部分が顕著にそう聴こえた。

 独唱陣の見事な歌も聴きごたえがあるし、合唱の神秘さ、荘厳さ、見事だ。

 大いなるエンディングの讃歌における、シンバルとドラの響きわたる様は豪快。★5つ。 


3/7

 なんだかいろいろと買ったり溜まったりしているCDのうち、ショスタコーヴィチをまとめて聴いてしまおうと自分で企画してみました。
 
 ヤルヴィ/NDR交響楽団 第4番
 ゲルギエフ/キーロフ歌劇場管 第5番&9番
 コンドラシン/モスクワフィルハーモニー管弦楽団 第8番
 オーマンディ/フィラデルフィア管弦楽団 第13番
 同 14番
 同 15番

 6枚だー。

 ぜんぶ聴けるまで待ってたら、GWぐらいになりそうなので、少しずつ聴いて少しずつ書いてゆくことにしました。
 
 4番はとても好きな曲であるが、演奏が難しいだけではなく、解釈も難しく、なかなか満足できるCDが無い。個人的な好みで恐縮だが、4番は、1番や9番などの透明感のある魅力と、7番や8番の重力感のある魅力の両方が必要で、両方とも満足できる演奏は、少なくとも私は聴いたことがない。どちらかというと、4番は、ショスタコーヴィチらしい重量的なものが、面白い。全体的に軽い(ラトル/チョン/ハイティンク)演奏もあって、それはそれでスコアの妙や響きの軽妙さが楽しめるが、ショスタコーヴィチの交響曲を聴いた後の、どっしりとしたロシア流の満足感は無い。どっしり派では、初演者のコンドラシン、ロジェストヴェンスキーが最高にすばらしい。ムラヴィンスキーとスヴェトラーノフ、2柱の神様は、録音が無い。(ようだ。)

 ヤルヴィはとうぜんのようにどっしり派。ただ重いだけではなく、N響(笑)の強靱な合奏力が、曲になんともいえぬ凄味と存在感を与えていた。ただし、ショスタコーヴィチのもう1つの魅力、毒々しい内面のブラックな部分は、そうでもなかった。すでに録音済みであるらしいゲルギエフの早期の発売を待つ。

 いまのところ、4番はロジェストヴェンスキーがもっとも面白い。(3種類聴いています。) ★4つ。

 そのゲルギエフの最新録音が、5番と9番のカップリングという黄金コンビ。

 5番もやはり期待に違わぬ名演奏であったが、むしろ9番がすごいと感じた。 

 ショスタコの5番は名曲には変りないが、どんなに考え、練って演奏しようと、限界がある音楽だ。それにくらべて9番は、4番や8番や14番と同じく、ショスタコーヴィチの交響曲の本当の面白みや、凄さをまざまざと見せつける、真の名曲だと思う。

 もちろん、そういう曲にかぎって、録音は少ない。

 9番のようなディベルメント的な性格をもった曲をそのように演奏してももちろん楽しいのだが、やはり、第九の当てこすり音楽でもあるし、そのようなブラックなユーモア(13番なんかよりずっとブラック!!)を分からせさてくれて、思わずにやっとするような洒落た演奏だと、金を出した甲斐があるというもの。

 こういう曲こそ、ゲルギエフ節炸裂といったふうで、とっても性に合っているというか、分かっているというか、さすがというか。ゲルギエフ、実は性格が悪い!? 随所にみられる、妙なディフォルメも、そのせいか。楽しくて大歓迎だが。正統であって正統でない。やはりイジワルな指揮者なのか。夏のPMFの11番がいまからとても楽しみだ。 

 5番★4つ。9番★5つ。
 
 オマケ
 山田/新星日本交響楽団
 祝典序曲 
 
 伊福部の曲が聴きたくて中古で購入したCDに、入っていたもの。

 祝典序曲はパーッとやってパーッと終わる、5分ぐらいのヤカマシイ曲だと思っていたか、なんともオペラの序曲のような重厚な冒頭から、主部に入っての怒濤の進撃。祝典というより、こりゃ一幕の交響詩だ。凄く新鮮で面白い演奏でした。★5つ。


3/4

 マーラーとかショスタコとかも買っているのだけれど、忙しくて、ぜんぜん聴く暇がねえ。途中で寝るのなら聴かない。
 
 岩城/オーケストラアンサンブル金沢 によるシリーズのうちで、三善晃と武満徹の作品の入ったものを買った。1000円。2人とも同じく谷川俊太郎の詩に作曲しているというプログラム。
 
 三善の 3つのイメージ は、三善らしい凝縮されたリズムの良いヴェーベルンふうの形式も整えたすばらしいものだが、どうも、日本語の合唱って苦手〜。(響紋 はすごい曲だったけど。) しらけちゃうのよ。
 
 武満は 系図(ファミリートゥリー) なのだが、岩城の編曲による室内楽版。この編曲行為の意義そのものを問うても意味がないと思い、聴くだけにしておく。とはいえ………微妙。本当にビミョ〜じゃ。大管弦楽を室内楽にする意図というのは、演奏のされやすさや、音楽の核のみを味わうというものがあるが、どうでしょう。この指揮者よる編曲は。

 ぼくは、しょうじき、なんとも、ものたりない。。。

 しかも12歳から15歳までの少女の一人称を少女自信が語るというコンセプトなのに、なんでベテラン女優?(吉行和子)

 そこんとこをさらにつっこんでも、ロリコンだということがバレて………いやいや、ロリコンだと図星を突かれて………いやいや、とにかく、上手すぎてはなしにならん。完成されすぎている。そういうの、武満の意図したことなのかどうか、分からない。

 ためしに、小澤/サイトウキネン/遠野による録音を聴き直してみた。って、10代の女の子が読んでいるのって、この日本舞台初演コンビしか録音が無いのだけど。(小澤の娘の朗読の英語版も、なんかイヤ。)

 うーん、やはりなんとすばらしい響きのニュアンスなことか。後期武満の醍醐味が、ここにぞんぶんにある。遠野の(当時15歳。)なんとも純朴な「感じ」が、武満の音楽の純粋性や透明性を助長して、とっても好き。

 好みの問題だけれども、オーケストラ好きとしては、単純に、純粋に、原曲のほうがいいや。(ナレーターの問題も、すごくある。) もっといろいろな録音で聴いてみたい曲ではある。70年代までの武満の曲が好きな人には、あまり人気が無いようなのだけれど。おセンチだから?


2/26

 芥川也寸志の、映画サントラ。八つ墓村。

 こんなのばかり聴いていたら、こういうのが好きかと云われた。まあ好きですね。正確には邦人作家が好きなだけ。それはそうと、わたしはずっと、八つ墓村と犬神家の一族がごっちゃになっているんですよ。特に映画ファンでも、横溝ファンでも無いし。
 
 芥川は、(おやじの小説も。)とても好きな作家なのだけれど、アレグロは伊福部に似て、モデラートは早坂に似ているというのは、たぶん、ぐうぜんではない。しかしこのあくまで感傷的な響きは、忘れられない印象を与えるし、なんとも映画に合っている。映画サントラの質という意味でも、果たした功績は大きい。 


2/23

 時間をつくりつくり、なんとか音楽のみがいま唯一の心の平安です。

 現代の日本音楽という国立劇場の委嘱シリーズで、参考演奏CD付の楽譜が春秋社から出版されているが(書籍です。)、その最新作で吉松隆の雅楽「鳥夢舞」(とりゆめのまい)が出たというので、さっそく買ってきました。出版譜だから税込み6300円也。
 
 でも、楽譜だから高いというイメージは無い。
 せっかくだから、譜面を見ながら聴いてみたが、吉松は音楽は平易だが記譜法はさすがに現代作家のものだった。これだけで、すばらしいカリカチュアといえる。

 しかし雅楽も西洋オーケストラも、吉松にとってかかれば、まるで表現媒体としての価値は同じというのが、さすがというか、なんというか。前々から、吉松の邦楽曲は、とても邦楽にしては音階がよくできていて、邦楽器が無理なく西洋音階に溶けこんで、それが逆に夢幻的な響きがして、とっても夢見心地になれるものだったが、それが雅楽(合奏)だから、グレードアップこのうえない。
 
 譜面冒頭には、次のような作曲者のノートがあるので紹介する。
 
 鳥は夢みるごとく歌い
  樹は走るごとく萌え
 星は息吹くごとく光り
  夢は舞うごとく巡る

 なんとも、感傷的で幻想的な、吉松ごのみの、賢治チックなことばの響きだ。

 音楽も、また、そんな響きをもっている。
 
 1.序/ 音取 

 音取(おんとり)っていうのはまあ、オーケストラのチューニングみたいなもので、雅楽ではさいしょに必ず行なわれる。かの越天楽においても、プーとたいてい篳篥(ひちりき)でやるみたいですよ。くわしくは知らないけど。鳥夢舞では、チューニングというよりかは、むしろそのまんま序奏で、CD(テープ)による鳥の歌が、ピヨピヨ、ホーホケキョと章を通じて流される。これは春の声だ。その中に、そっと、笙が入ってきて、横笛や篳篥も、主要動機の断片を奏で、全曲の準備をする。虚空への呼びかけ。

 2.鳥の章

 いよいよ本格的に笛たちが、自由なフレーズを自由な感覚で奏で、鳥の歌声を模倣する。ここで造られるイメージは、まったく古い屏風の中で鳴く極彩色の鳥たちだ。篳篥という楽器は二枚リードで、どちらかというとオーボエの系統なのだが、吉松の手にかかるとまるでソプラノサックスで、東儀秀樹を思わせるポップなもの。その中で、笙だけは、どうにも、雅で神秘な音を捨て去ることはできない。そういや、源博雅が云っていた。笙とは、鳳凰が羽を休める姿であり、その指の動きは羽の動きであり、その音は鳳凰の声であると。

 後半分より、20弦箏がこぼれるようなオスティナートを刻み、今雅楽の主要動機が篳篥がゆったりと奏でる。微妙にうわずったりするのが、邦楽器の特製だが、上手にそれを活かした動機だと思った。
 
 3.樹の章

 箏と鳴り物(太鼓)が主導するアレグロ楽章。そう。つまり今雅楽は、吉松のれっきとした交響曲なのだった!!! ゆるやかな序奏から、緊張感ある和音に導かれ、いよいよ鳥たちが颯爽と飛び立つ。ここの鳥は、隼や、燕などの、速いものだろう。やがて主要動機がやや変形されて登場し、リズムオスティナートと共に自在に躍動する。樹の萌える様は、同時に鳥の飛び交う空間でもある。

 
4.星の章
 星辰(せいしん)の音というに相応しい、アダージョ楽章。主要動機の変形がまた篳篥で奏されたのち、ゆっくりと倍の長さで、それが繰り返される。星の輝きを現す金属打楽器が、またなんとも儚く、美しい。
 
 5.夢の章

 ここはフィナーレとなる。夢というより、わたしには夢幻にも聴こえる20弦箏のオスティナートが復活し、主要動機が、こんどはややアグレッシヴに動きを含めて、篳篥で奏される。バックには、変わらず鳳凰の声。

 松村流の増殖技法により、次第に楽器が殖えてゆき、鳴り物も入って、だんだんとオスティナートが興奮してくる。奏者は21人しかおらず、オーケストラでいうと、室内オケに匹敵するほどの小編成なので、大音量というわけにはゆかないが、この高揚とした春のさくら吹雪の晴々とした浮き立つ心持ち、天にも昇るとはこのことを云うのだろう。
 静かなコーダでは、動機が切れ切れに奏されて、やがて、一声鳴いて、あとは、消えゆく………。

 ちなみにこれは、正確には鳥夢舞一具ということになるだろうか。かの武満の秋庭歌も、後に一具になっている。一具とは、つまり全曲というような意味。


2/17

 伊福部昭の怪獣映画音楽

 ずっとさいきん中古で集めている伊福部昭の各CD。今回は、映画 ゴジラVSデストロイア のサントラを。映画は5流、音楽は1流。

 特にデストロイアの主題は、事実上の、伊福部の正統怪獣テーマの最後のものだけに、感慨もひとしお、心に染みいる。

 単調で重い和音進行にいきなり鋭く4連符が割って入ってきて、それが同じ音形でもどこかユーモラスで愛嬌のある新メカゴジラの主題とも異なり、なんともふてぶてしく凶悪なイメージを与える。たった1分か2分の文字通りメタファー=動機=主題で、ここまで怪獣の特徴をつかみきる音楽など、これから先、二度と聴けないかもしれない。新しい21世紀ゴジラシリーズの音楽の、なんとカッコいいがうすっぺらく単純なことよ。伊福部と同じ時代に重なって生きていることの感動。ここまで入魂できる作曲家のいることにまた感動。

 たかが怪獣。されど怪獣。

 伊福部の音楽は、どこまでも深い。


2/1

 テンシュテットの秘蔵録音から、またひとつ伝説が………!!!
 
 1993年5月15日。演目は、マーラーの第7番交響曲。ロンドンフィルハーモニー管弦楽団。東芝EMIから出ている、あの生命を削り燃焼のエネルギーにしているような鬼気せまるライヴと同時期のもので、あれよりさらに表情や演出が大きく、まさにテンシュテット芸術の極限を知ることが出来る、テンシュテットを愛するものならば、感涙ほとばしり、昂奮さめやらず、身も心も奮い起つという、スーパーCDだ。
 
 海賊盤であり、録音は少々ホールの特有の「こもり」があるが、スースーもジージーもほとんど無く、レンジ・レベルも安定し、ほとんど問題はない。と思う。

 マーラーの7番において、テンシュテットのような演奏のタイプは、いまとなれば、正直、古い、と云ってしまおう。誤解を恐れずに。実は4番もそうなのだが、マーラーの7番は特に、なかなか構造が把握できず、長らく聴衆の無理解に曝されてきたのであるが、このマーラーの7番という奇怪な音楽構造をちゃんと指揮で分解して「スッキリと」示す人が現れたのは、わたしはインバルあたりが最初なのではないかと思っている。その後、ブーレーズや、シャイーや、ギーレンなどのような優れた指揮者が出現し、一気にマーラーの7番をメジャー化さし得たが、アバドやテンシュテットのようなどちらかというと細部の構造よりも全体の表現や演出に重点を置く「従来の」方式で我々の前に差し出された7番というものも、やり方によっては、まったく悪くないばかりか、7番交響曲の神髄のひとつをちゃんと呈示してくれている。

 マーラーの7番の古い演奏のうち、最も構造と特徴をつかんでいるのは、バーンスタインでもホーレンシュタインでもなく、それはクレンペラーの「あの」魔方陣的な巨大で膨大な演奏に他ならない。
 
 しかしアレは時代の先端を行き過ぎて、トンデモ演奏に祭り上げられた。たしかに、あの演奏は神様しか成し得ない。
 
 7番の演奏法で重要な事柄に、リズムがある。というのは持論。対旋律的な和声構造、重なり合い、ズレあって魅力を醸し出すメロディーライン。それらのすべてが、タンタタという7番を一貫して支えるリズムの変形パターンで構成されている。それを示さずに7番をいくら一所懸命に演奏したって、モタモタして、生気がなく、楽章間のつながりは皆無で、つまらないことこのうえない。だから、7番は長く謎の交響曲であり、マーラーの中でもつまらない度ナンバーワンだったのだと確信している。(正直いって、バーンスタインの罪は重いのではないか。)

 そのリズム処理の方法で、実は、古いタイプも新しいタイプも関係ない。マーラーの7番は、解釈の仕方がどうであろうと、リズムこそいのち! リズムこそ始まりにして終わり! リズムこそ神髄! と云ってもいい。ベートーヴェンの7番とおんなじだ!

 テンシュテットの独特のリズム法があってはじめて、奇天烈な演出も、爆発する感情や邁進する表現も活きてくる。

 今回出てきた演奏は、テンシュテットのもつ独特のマーラー観というものを最も良く現している稀有の記録であるばかりでなく、マーラーの7番交響曲のもつどちらかというとウェットな魅力を最大限に引き出してあるタイプの演奏の中でも究極に成功している例で、心の底からブラボーを叫びたい。

 あたりまえだが
クラス。気絶しても知らないぞ。

 さて。

 ブリリアントクラシックレーベルより超廉価のショスタコーヴィチ交響曲全集を出したバルシャイなんですが、ここでまた、少なくとも私の度肝を抜くCDを同レーベルより出しました。
 
 ドイツ青年フィルハーモニー管弦楽団(でいいのかな?)とのマーラーの5番と10番なのだが、なんとも、10番は
バルシャイ版。そんなことをバルシャイがセコセコ作業を行なっていたとは、露とも知りませんでした。
 
 きっと満を持してのご登場なのだろうなあ。

 まあ、順番に5番から聴いてみましょうか。
 
 調べても詳しく分からなかったのですが、ユンゲドイツフィルハーモニーとは、名前から察するに若い人たちの集まりだとは思うのだが、たしかに響きに勢いがあって若々しい。とはいえ、ずいぶんとこなれた厚みのある表現をする。それが指揮者の手腕だとしたら、ずいぶんとまたバルシャイはいきなりベルティーニ級のマーラー振りになってしまったものだ。

 1楽章から語りかけがものすごいし、音楽の伸びや引きが、面白い。理にあっている。2楽章の第2主題の憂鬱さ、悲しさ、憤りは、往年の巨匠指揮者に匹敵するか、もしくは超えている。(もしくはただ単に私の好みに合っている。) 主旋律の裏で奏でられるマーラー特有の「裏主題」(対旋律?)も、インバルやギーレン並の訴え方。しかるに、表主題の表現の仕方というのがまさに、テンシュテットやバーンスタイン並の過剰演出とさえいえる動かし方。しかもそれが感情的とか本能的ではなく、理詰めで動いている。すばらしい考察と表現の結果。低音の扱いが特にすごい。最後の打楽器の戦慄。

 おおーい、バルシャイ先生、どうしてしまったの??? あんたホントにバルシャイ? 写真はブーレーズに見えるけどブーレーズの間ちがいじゃないの?(バルシャイって書いてあるなあ。)

 この人、こんなにマーラーの事が好きだったのだなあ。こんな表現は、マーラーが個人的に特別に好きな人(つまりマーラーの音楽ではなく、マーラーその人を理解している人。)じゃないと、できないですよ。ただマーラーの交響曲を、他にたくさんある名曲のひとつと同列に扱っているだけでは、とうていできないはずなんです。マーラーだけに特別に共感する「理由」や「何か」を持っていないと。わざわざマーラーをやる動機。マーラーじゃないとダメな心理。
 
 それが証拠に、くそつまらない3楽章の、なんと機微としたリズム! そうか、そういやここはリズムの楽章だった。忘れてた。スケルツォにしてワルツの交錯した饗宴だった。ひとつひとつのフレーズが、すべて輝いている。細やかに動いている。いい演出だ!

 ショスタコーヴィチ全集でのあの気合から察すれば、たしかに、想像できなくはないレベルの演奏であろうとは思っていたが、完全に私のチンケな想像を超えていた。
                                  
 ただし、どういう演出なのか、他に原因があるのか分からないが、5楽章が比較的遅めのテンポで、それまでと差がありすぎるように感じた。つまり平坦というか。いきなり色がちがうというか。それでも、平均点は軽く超えていると思います。再生装置にもよるのかもしれないが、どの場面も、雷鳴のようなバスドラムがとても印象的だった。
 ラストは昂奮の坩堝。

 1999年ベルリンにてのライヴ録音。わあー、なんとも素敵な5番を堪能してしまいました。★は5つ。文句ナシ。マーラーベスト変わってます。(また、それへともない、それまでの★の数が変わっている盤もあります。)

 そして大注目の10番バルシャイ全曲復元版。時間割を見るに、5楽章がちょっとクック版より短いかな、といったところ。しかしそれは演奏の問題かもしれない。ちょっと、ワクワクする。

 さっそく聴く。

 1楽章は、全集版でもあるからして、そう変わらない。(最初は。)

 演奏は気合が入っていて非常に素晴らしい。緊張感みなぎり、9番に続くものというより、ここから新たにはじまるといった決意が見られる。

 しかし、演奏云々よりも、例の、終わり近くの「嘆き」の箇所のすぐあと(←ここ大事。)に、スゴイ不協和音。金切り声のよう。これは、バルシャイ版だからだと思う。あくまで、思う、ですけど。ここだけゲンダイオンガク(笑)

 バルトークでもこんなことはしません。その後の、安らぎを求めるような、美しい和音が、とても引き立つ効果がありました。
 
 クック版の経緯を参照するに、2と4楽章が、まったくスケッチ状態で、3や5のように3段の簡易オーケストレーションも成されてなく、そのままでは演奏不可能、補筆も辞さず、といった具合だったそうで、他版でも、2・4楽章がもっとも差異がある。さてバルシャイ版。2楽章。やっぱりちがうな。

 旋律部はさすがに同じだが、編曲の問題だ。オーケストレーションだ。

 前半は打楽器がおさえられて、マンドリンかギターのようなものも聴こえるし(そうじゃないかもしれない。聴くだけではなんとも。)9番に通じたオーケストレーションのように聴こえる。金管部に、補筆多数あり。後半へ入って、打楽器始動。絢爛豪華なマーラーを聴く事ができます。
 
 10番の特徴は、9番の昇天したような境地を引きずりつつも、2楽章や3楽章や、煉獄だの、タイトルはアレにして、けっこう元気な音楽を聴けること。

 この両端楽章と中間楽章の乖離が、全曲版の魅力かもしれない。
 
 ここでバルシャイは、煉獄楽章に、なんとも大地の歌の3楽章みたいな雰囲気をもってきた。(木管部。)

 いや、もちろん、オーケストレーションは、うらぶれた不気味さや慟哭するような狂気さはあるが、雰囲気として、活き活きしてる。躁だということなのかもしれないが。

 4楽章は、不思議なもので、今曲でもっとも印象に残らない箇所かもしれない。

 打楽器で、シロフォンやラチェットや、小太鼓に、非常に差がある。

 バルシャイ版の冒頭は、なんとシンバルだ。妥当なところじゃないかなあ。ラチェットは、飛躍しすぎかもしれない。飛躍しているのがマーラーなのだが。

 たぶん、いちばん書かれて無かった場所なのだろう。いちばん、補筆の必要がある場所なのだろう。音楽自体が、ぜんぜんレベルが下だもの。

 9番の3楽章みたいなものかなあ。アレ以下だろうな。

 後半部の激しい憤りや、感情の昂りや、すぐに醒める部分との落差は、バルシャイはやりすぎかもしれない。テリー伊藤なみの落差だ。慣れたらしかし、クック版は物足りない。
 
 「ああ、わたしの竪琴よ!」
 
 バスドラ、ロール(トレモロ)付で、強烈だなあ!(2台あるのか?)チューバは音が大きすぎないか!(割れてないか!?)
 
 フルートのいたたまれないソロは、いつ聴いても泪がでる。ここだけは、どの版も、バックを些少変えるだけで、だれも手を加えられない。加えられてたまるものか。

 全体的に、ずいぶんと、金管が補強された、勢いのあるフィナーレだ。これの意味するところは、バルシャイ、おそらく、10番を9番の延長として観ていない。ぜったいだ。9番の4楽章と通じるものが何もない。まるで6番じゃないか。

 中間部の激しいアレグロのような部分を通して、最期はまた悲歌へ戻るのだが、そこもずいぶんと派手だ。

 それからスタートする長大なるアダージョは、今曲最大の聴きどころといってもいいが、やはり、ここも、けっこう生気あふれる、前向きな感じ。希望がある。そう、このバルシャイ版には、とても希望があるのだ!!!

 そして………最期の………最期の、あの………我々マーラー聴きの胸をガシッとつかんで放さない、あの………。

 放心してしまいます。

 2001年ベルリンにてのライヴ録音。

 ★5つ。もうとうぜん。
でもいいけど、いちおう、しばらくこれしか録音は無いでしょうから、比較できないので。いやでもダメだ! フィナーレの最期のあの(例の)ため息のような、悲鳴のような、フレーズで、わたしは完全に魂を奪われました。です。 気絶します。人間が書いた音楽じゃねえ。

 結論。

 とっても興味深く、味わい深い編曲になっている!!

 こりゃ驚いたわ。

 クック版に飽きた人、お薦め。とても刺激的で野心的です。過剰演出と怒る人がいるかもしれない。クック版は実用演奏版だから、最小限の手しか加わってないですので。

 個人的には、フィーラー版よりぜんぜんイイ!!

 バルシャイ先生、あんたはエライ!!!

 今回のマーラーはレベルが非常に高かった。CD番号やレーベルは、ディスコグラフィーをご参照。ちゃんとどこかにありますので。


1/26

 ちらほらとストラヴィンスキーなぞを新しく聴いております。
  
 まず、アンセルメの音源で、ナショナル管弦楽団によるデッカには録音の無い珍しい「エディプス王」から。アンセルメとストラヴィンスキーは切っても切れない仲にあったのはご承知のとおり。しかし、ストラヴィンスキーが12音に走ると、仲違いしてしまいましたが。アンセルメの核心のみをさらけ出す音楽作りで、まったく相性が合っていたのは、ストラヴィンスキーの中でも新古典主義時代だとわたしは思っている。
 
 音は上質のモノラルで、1951年の録音を考えると致し方ないというべきか。聴けないほどではない。
 
 セリフを言う人の、マイクのゴッと言う音が入っていたり、臨場感もある。
 
 かんじんの音楽では、かなりビビッドな音づくりがまた、ビビッドな音楽に合いすぎるほど合っている。素敵なストラヴィンスキーだ。3大バレーでは見ることのできない部分、魅力、姿、ここにある。
 
 しかし、モノラルの悲しさか、音色が単一で、そこが飽きる原因になりかねない。
 
 なお、併録にはさらに珍しい、フランセの室内楽のためのバレー音楽「びっこの悪魔」が入っていて、得した気分だった。しかし「びっこ」って………。いいのかな。フランスではこの「びっこ」を現す boiteux  が差別用語じゃないというのだから、しょうがないのかな。イラストを見ると、片足だけヤギの脚の悪魔が登場していた。歌唱入りの、兵士の物語に通じる、まあまあの音楽だった。
 
 そして春の祭典を、タイトル見るだけで久々に燃え燃えのDISCをホワイトスネイクばりにゲット。

 スヴェトラノフ/ソビエト国立響
 ラトル/ベルリンフィル
 ギーレン/ベルリン交響楽団
 
 みっついっぺんに聴いてしまうよ。
 
 スヴェトラノフは、新世界よりと、モソロフの鉄工場とのカップリング。ハルサイは、以前中古市でLPを見かけた事があって、再生装置が無いので諦めた。それから、中古ネットオークションで、メロディア盤が1万円ほどで取引されていたのが2回目の目撃。今回は、各種の音源を所持するレーベルからの提出で、カップリングされて正規盤として、満を持してのご登場だ。

 まあ〜使い回されたことばではあろうが、「爆演」とはいいえて妙だなあ〜。

 ハデで激しくて、しかし、乱暴ではない。これはやはり演出だろう。ゲルギエフや、マルケヴィチに近い感覚。しかしそこはスヴェトラノフの流儀が最高に発揮されていて、重み厚みとも充分、リズム処理は抜群、音のキッカケがきっかりと立ち、活き活きとして、各楽器の凹凸が非常にうまい。迫力と昂奮に富んでいる。すばらしい!! ☆だ。まさに絶好調のスヴェトラノフ先生がいらっしゃるわけよ。テナーチューバの咆哮は、マルケヴィチを超えた!!(うそだろ………。)
                                  
 新世界よりは、わたしは2と4楽章に独特の味を覚えたが、それ以外はそうでもなかったなあ。それでも、ロシア音楽としての野太いドヴォルザークを聴く事ができます。そして唖然・圧巻のフォルテのラスト………! デクレッシェンドしてません。。。鉄工場は、工場が壊れそう。

 ラトルとBPOというのが、また、海賊盤でイイのがどんどん出ているのよ。EMIは何をやっているのかしら?
 ハルサイはバーミンガムとのやつで既にあったが、あの時代のラトルをわたしは必ずしも評価していない。聴いてもいないや。
 
 むむむ、最初のファゴットの「間合い」からして、ラトルのこだわりが感じられる。名演の予感です、予感です。ムムム。

 各種楽器の絡み合いの見事なこと。バランスの良さ、そしてBPOのうまさ。

 迫力もあるし、スピード感もある。一部雑音もあるが全体的に録音もきれいだ。弦楽の必死さもすごい。天下のBPOメンバーを「必死」にさせる指揮者というのは、テンシュテットとカラヤンの次に、いったいいるのか!?!?

 ラトル、次第に音楽の鬼と化してきているのではないだろうか。1部の中間部はやや控えめだが、それから続く敵の都〜賢人〜大地への口づけはけっこう圧巻。すごいスピードそして大胆なリズム。2部も独特の節回しで、しかし、変では無いし、とにかく、この演奏では弦楽器がすごいと思った。正規盤で出ないかな。★5つ。

 カップリングはヘンツェの交響曲10番。

 ドイツ出身でいまはイタリアに在住しているらしい、ハンス ヴェルナー ヘンツェ(1926− )は、室内楽やオペラの録音は多いようであるが、交響曲は少ないように感じる。私は初めて聴いた。へンツェ自体は、「トリスタン」というブラームスやワーグナーやリストをパロッた作品のCDは持っていたが、交響曲は初めて。しかも、10番は2000年の最新作。

 何せ曲が初めてだから、ラトルの演奏がどうのこうのはぜんぜん分からないので、まあ聴いてみた。
 
 現代によくある、名前だけ交響曲の典型です。伝統的な4楽章制だが、うーん、うーん、正直に云って、2楽章は武満に響きが似ているし、全体的にも、とくに傑出した個性は感じられないなあ………。他の交響曲の録音はないのだろうか。9番が、やはりベートーヴェンを意識した合唱入りの大作らしいのだが。

 ヘンツェは幼いころヒトラー青年隊に入隊していたのがトラウマで、それへ反発して一時期左翼的な作品も書いていたそうだが、12音主義を独自に扱った作品は定評がある。しかし、この10番を聴いたかぎりでは、ハルトマンと同じくドイツ人の「交響曲」は、もはや限界を超えてかなり痛々しいことになっている。

 ちなみにどちらも2003年1月のライヴ録音です。
 
 もうひとつ海賊盤で、ギーレンのハルサイ。手兵ではなく、ベルリン交響楽団ですね。
 
 ギーレンというと、ゲンダイオンガクのエキスパートみたいなイメージがつきまとっていたが、新しいマーラー集などを聴いても、いつのまにやら、物事を深く観察しつつも泰然とした音楽運びがウリの玄人にも素人にも好まれる指揮者になってしまっている。

 この春の祭典は海賊盤ながら、正統的なリズム運び、ボリューム、演出、音楽感と、特に奇をてらったものではないのがまず驚く。これならば、ラトルのほうがぜんぜん過激かもしれない。
 
 とはいえ、ヒステリックな木管、非情緒的ではあるがある種の狂気的な言葉づかい、じわじわと増殖してゆく楽器法、なんともいえぬ味がある。

 それが乙女の踊りあたりからだんだんヒートアップしてきて、ライヴだからか、どんどん盛り上がってゆく。ハルサイを聴きまくっている私の好みで許してもらえるならば、これぞハルサイ! この巨大なエネルギーの塊が蠢く様というのを表現せずして、何がハルサイか!! テナーチューバが吼え! ドラが炸裂し! 管楽器が狂う!
 
 リズムも見事なのだが、なにより、各楽器がごった煮になっていないで、けっこう微細な部分も適格にフォローされているのが、凄いと思った。いや、もちろん、1部のラストとかは、メチャクチャに突き進んでいるのですが。
              
 2部の冒頭の静かな部分は、ここが好きという人と、つまらないという人と、別れると思う。ここは後の新古典主義時代を先取りする、なんとも不気味でうらぶれて、ささくれだった、白骨の荒野みたいな部分なのだが、ここを聴かせるハルサイこそ名演だ。

 ギーレン、バックの和音や伴奏を強調して、なんとも厚みのある、不思議な感覚に仕上げている。こういう解釈は初めて聴いたかもしれない。すごく新鮮だ。こういう眼のつけどころがちがう演奏は、凄い。これはギーレンがマーラーでよくやる分解的にして陰影をくっきりとさせる独特の手法だが、それをハルサイでやってくれたことがとっても嬉しい。
 
 ここだけでギーレンの春の祭典、聴く価値あり!! 以降の狂乱は、ちょっとやりすぎです(笑) ☆だ!! これらハルサイ3点は、どれもこれも買いだった! ハルサイベスト5順位変わってます。
  
 ギーレンは、2枚組で、ミヨーの世界の創造と、ファリャのスペインの庭の夜がカップリングでした。
 
 世界の創造って、聴くのは2回目ですが、こんなアホな音楽だったっけ? だったんだなあ。前に聴いたのはバーンスタインだったけど、ぜんぜん印象に残らなかった。人の耳ってあてにならないなあ。 
 
 スペインの庭の夜は、まったく初めて聴きました。うん、まあスペインって感じですね(笑) 行ったことないけど。スペイン。 2001年12月のライヴ録音です。


1/24

 BISの日本人作曲家作品集を買った。
 広上淳一郎/マルメ交響楽団

 演目は
 伊福部昭(1914−)  交響譚詩(1943)
 田中カレン(1961−) オーケストラのためのプリズム(1984)
 外山雄三(1931−)  交響詩「まつら」(1882)
 尾高惇忠(1944−)  オーケストラのためのイマージュ(1981)
 和田薫(1962−)   オーケストラのための民舞組曲(1987)

 これは前から高名な盤だったようで、ネット上ではけっこうレビューが見れる。録音が良く、邦人作家ファンならず、オーディオファンにもウケているというのだ。家の再生装置ではエコーが効きすぎて、まあホールで聴いてる雰囲気は味わえた。各楽器のまじり方は、なるほど、デッドでもなく、モヤモヤでもなく、良い。
 
 広上は伊福部作品集の指揮を任されているぐらいだから、もう、交響譚詩はお手の物というか、まったく安心して、伊福部の音楽に身を任せられる。日本の古典のひとつですよね。もう。すばらしい。伊福部振りとして、これからも指揮をお願いします。
 
 田中カレンは名前だけ知っていたが、曲ははじめて聴いた。パリ在住で、60年代生の気鋭の作家。女の人です。作曲をベリオに師事しているそうで。伊福部の次にくるにはまずまずの、斬新で繊細な響き。緊張感あって、グッドです。音楽の展開としては、けっこうありがちでつまらない。いまはもう音楽でも女流作家とかいわないのかな。

 外山のまつらは、佐賀県唐津市松浦のことで、市の記念かなにかで作曲されたらしい。市民1人あたり1000円の寄付をつのり、作曲代にあてたという文化的に心温まるエピソードがついている。音楽や文化を分かっている市民が多いってうらやましいあ。いわゆる外山らしい民謡からエキルギーをもらった音楽だが、ラプソディーよりは控えめ。演出が。まあ交響詩っつうだけあるかな。

 尾高はその名が示すとおり、かの尾高賞の尾高忠尚の息子で、指揮者の尾高忠明のお兄さん。聴いたことないと思ってたけど、地味に札響のCDで「オルガンとオーケストラのためのファンタジー」という作品を持っていた。指揮はもちろん尾高忠明。ドラマティックな展開と音楽で、なかなか面白い。ただ単に好みの問題なのだけれど。
 
 実は和田の音楽が聴きたくてCDを買った。クラシックオーケストラ作品でメジャーへの録音はこれだけのはず。和田は、伊福部の弟子の中でもっとも伊福部の流儀を継承している。その流儀が21世紀にどこまで通用するのか、注目だ。

 音楽は「囃子」「馬子歌」「踊り」「追分」「土俗的舞曲」の5楽章からなる。そういやあ、伊福部に名曲「日本組曲」があったなあ。似たようなモノですね。個人的には、伊福部のほうが、やはりまだ格が上だなあ。(しかも伊福部の日本組曲は、作曲自体は19歳のときだからなあ。)

 音楽はまあタイトルの示すとおりで、覇気があって良い。リズム、ノリ、管弦楽法、すべて楽しい。現代曲で、こういうの嫌いな人にはたまらないだろうな。

 5楽章の土俗的舞曲というのが、1984年度の吹奏楽コンクール課題曲のオーケストラ編曲版なのです。とはいえ、私はそのときはまだ小学生で、ブラバンは高校からだったからぜんぜん知らない。3つぐらい上の先輩が、なつかしいなあー、と云ってましたよ。

 というわけで、はじめて聴きましたが、うわー、ハデな曲だ(笑)

 こんなの課題曲に選んだ人にブラボー。交響譚詩やタプカーラ交響曲の一部がどんどん聴こえてくるけどイイノカ!?

 和田は伊福部作品の吹奏楽版編曲もいろいろ行なってます。ゴジラのテーマやマーチ。そしてマリンバ協奏曲。個人的には、大島ミチルなんかより、早くゴジラの映画音楽をやってほしい。

 指揮の広上と和田は、むかしからの親しい友人だそうです。だから指揮も熱気満々でよろしいかと思います。しかしなんで自由曲で伊福部の「和太鼓と吹奏楽のためのロンドインブーレスケ」をやるところが無いのか。あ、できないのか。難しすぎて。


1/10

 順番にオーマンディのディスクを聞いています。
 第2弾として3種類。作曲家は5人!
 
 プロコフィエフ/ カンタータ「アレクサンドルネフスキー」

 この曲は別に好きな曲というわけではないのだけれど、カップリングとかのせいで、数種類所持している。そのわりに、イマイチ印象に残らない曲だった。しかし、これは、さすがこういうドキュメント系の音楽作りがうまい指揮者というか、物語系がうまいというか、訴えかけてくるような音づくりがすばらしい! 純粋な映画音楽として演奏しているかといえば必ずしもそうではないが、どうせ書き直されたカンタータなのだし、一編の交響組曲としては、素晴らしい訴えかけだ。この演奏はすごくいいと感じました。全曲NHKの映像ドキュばりの効果で、プロコフィエフの音楽からそこまでそれを引き出しているのは、オーマンディらしいというか。ゲルギエフよりすごい。まあ、アメリカンというべきか?

 ラフマニノフ/ 合唱交響曲「鐘」

 この音楽は初めて聴きました。ずっと気にはなっていたけれど。ラフマニノフ4番目の交響曲。たしかにこりゃ合唱が主体の音楽だ。エドガーアランポーが本来は詩人だということは知りませんでした。ラフマニノフの中でも、かなり起伏に富んだ聴きごたえのある作品だと思う。ロシア人にとって鐘はとても重要なモティーフなようだ。しかし、ラフマニノフという人は、表立った技巧派ではなく、じっくりと音楽をする人なのだなあ。

チャイコフスキー/ マンフレッド交響曲

 チャイコのシンフォニーで、マンフレッドがいちばん好きという人は、マニアというか通というか。しかし、この交響曲には、他の番号付には無い魅力がふんだんで、チャイコでもロメジュリとか1812年とかフランチェスカとかテンペストが好きという人は、この音楽が好きでないはずがない。

 オーマンディは、格別派手というわけではないが、さすがに、この人は標題音楽が何か特別なオーラがあるのですよ。すばらしいマンフレッドです。マンフレッド自体がそう録音が多くも無い音楽なので、こういう芯を衝いた表現演奏は、ファンとしてはうれしいものです。

 ペンデレツキ/ オラトリオ「ウトレンニャ〜キリストの埋葬」

 ベンデレツキはナクソスの作品集をたくさん集めたり交響曲7番のCDを買ったりして管弦楽を中心に勉強していたが、当初のクラスターの若大御所から、80年代あたりより急激に調性音楽になって、正直個人的につまらなくなってしまった。去年、札幌のPMFに実はレジデンスコンポーザーとしてやってきていたのだが、ベートーヴェンの指揮をしたりで、自作はあまり演奏せず、いかなかった。(こういうのをやっていれば絶対行ったのに!)

 このオラトリオは、1970年の作であり、前衛手法時代の大作で、傑作。彼の宗教作品には他にルカ受難曲という大作があって、合唱がそれほど好きでも無いため聞いていないが、こちらは私の好きないわゆるベンデレツキらしさが全開の音楽だ。

 ここで奏される音楽はたぶんにギリシャ正教的で、ペンデレツキもそれを勉強したという。私は別にキリスト教徒ではないが、その感動は伝わる。祈りの精神とは、異なる宗教を貫いて等しいものであるからだ。

 しかしオーマンディの指揮でこのような現代作が聞けるとは思っていなかった。アメリカ初演直後の録音で、作品はオーマンディへ献呈されている。

 それにしても、途中にあるずいぶんと涅槃交響曲(1958)的な響きは、どうにかならんか。

 パーケシッティ/ シンフォニア:ヤーニクルムの丘(交響曲第9番)

 パーケシッティは吹奏楽経験者・愛好者にはけっこうメジャーな名前であるはずだ。彼の交響曲第6番はさいしょからウィンドオーケストラのために書かれており、私もCDをもっている。大きなCD屋の吹奏楽コーナーへ行けば、パーケシッティの吹奏楽作品集があると思う。9番で交響曲は打ち止めとなっている。

 いわゆるアメリカの現代作家であるのだが、12音とかの前衛的手法が前面に出ている物ではない。たしかに、大規模な打楽器軍団が動員されていたりと、20世紀音楽であることには変わりない。解説によると音楽はヤーニクルムの丘にちなんだギシリャ神話の戸口の神ヤーヌスを現したもので、単一楽章だが4部に別れ、副題で(重要)交響曲となっている。彼の交響曲では副題で番号がつく場合が多い。例:弦楽のための交響曲(交響曲第5番)バンドのための交響曲(交響曲第6番)

 パーケシッティは吹奏楽にも詳しいことより分かるとおり、管打楽器の扱いがうまい。ここでも、大活躍している。しかし吹奏楽出身者には、ずいぶんとバンド的な響きがしていると感じるだろう。特別………感動する物ではない。


1/1

 ゲフォゲフォッ………。。。

 みなさま明けましておめでとうございます。今年もCD雑記をよろしくお願いします。

 完全に風邪ひいたです。正確にはぶり返したですが。
 
 恒例の正月マーラー。今年は、オーデマンディ/ フィラデルフィア管のマーラー第2交響曲です。
 
 けっこう熱っぽいんで、正確に聴けてるか分かりませんが、自分にとって正月のマーラーは縁起物なので聴きます。
 
 オーマンディのいわゆる「フィラデルフィアサウンド」というものは、バランスの良さのことで、機能的なオーケストラドライブが、各セクションの持ち味をまったく完全に引き出していることなのかもしれない。

 オーマンディというと惑星とか、動物の謝肉祭とか、バレー音楽とか、交響曲とか協奏曲ではない、標題制の高い機会音楽のようなものが得意とされている。私は別にそれほどオーマンディは聴いていないので、どうでもいいのだが、このマーラーに到っても、2番という正直「鳴り物交響曲」の鳴りっぷりを楽しめるという視点では、やはりいい演奏だと思った。オーマンディの細部に到るまでの鳴らせ方の妙というものは、いかに純粋音楽とはいえ、意味合い的にたいして惑星と変わらない復活交響曲においては、管弦打の絶妙な合わせ業が神髄のひとつであるマーラーの魅力を最高に引き出して、職人業を発揮できている。
 
 特に5楽章などはこの鳴り方が無いと、復活交響曲を聴く甲斐が無い。存外、浅い音楽なので、それだけあれば充分なのかもしれない。

 このオーマンディの限定シリーズ(第3回)はチャイコとかショスタコ、ペンデレツキなど、いろいろ買ってみたので、順に聴いて行くことになるだろう。
 
 残念ながら一部録音が悪いため、★4つ。


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