邦楽器(和楽器)とオーケストラの曲について(小文)


 日本人の作曲家として、日本の伝統楽器(邦楽器、和楽器)との関わり合いは、逃れられない宿命だろう。あまり興味が無くて、邦楽器作品を作っていない人もたくさんいるだろうが、1つの作曲の機会として、邦楽界の人達との関わりは創作意欲の根源になると推察されるし、作品を委嘱される機会もあるだろう。

 邦楽器のソロ曲やアンサンブル曲も現代作品として多く書かれており、12音技法によるものから、伝統的な音調で書かれているものまで多数ある。

 邦楽器とオーケストラの協奏的作品もまた多い。協奏曲ではないが、オーケストラの中にソロとして出てくる邦楽器の含まれた作品を含めて、自分の所持音源の中だけでも20曲以上あったので我ながら驚いた。

 私の所持していないもの、音源になっていないもの、あるいは未CD化音源も含めると、当然もっともっとあるが、まずは簡単に列挙してみた。なお、作曲家はアイウエオ順。


石井真木

遭遇 II 番(1971)

 2番というからには、1番がある。1番は、ピアノと尺八による作品。しかし、新作というのとは少し感覚が異なり「尺八のための音楽」と「ピアノ曲'70」という、まったく別な2種類の曲を「同時に演奏してみた」バージョンである。2番は雅楽とオーケストラの曲。ソロ楽器ではないので、協奏曲ではなく、邦楽集団とオーケストラの饗宴とでもいうべきか。ここでも「雅楽のための音楽」と、「オーケストラのための雙」という、ぜんぜん関係ない2種類の曲を「同時に演奏」している。従って、指揮者によって2曲の開始のタイミングなどが異なり、演奏の都度、異なる響きを聴かせてくれるという趣向。
 
 なんといってもちがう曲の同時演奏なのだから、アイヴズの世界に通じる。どっちも現代音楽なので、同時に鳴っても現代音楽である。重ねるとそういうようになる2曲を選んでいるのだろうが、前半はオーケストラが、中間部で雅楽がメインとなり、後半は両者が重なってカオス。

日本太鼓とオーケストラのための「モノプリズム」(1976)

 私の所持している音源の中で、和太鼓協奏曲として最も古いのがこれ。1楽章制で25分ほどの、規模の大きい作品。和太鼓はソロではなく、7人の奏者が締太鼓を叩きまくる。初期の石井らしい偶発性の厳しい響きと、ひたすら連打される土俗的な太鼓の響きが交錯する。太鼓はヘテロフォニーを起こし、揺らぎが地響きめいてオーケストラと対峙。前半は小さな太鼓、後半は大きく勇壮な太鼓が活躍する。他の西洋打楽器も凄い。静寂を経て、最後は太鼓群の狂乱へ。「和太鼓ブーム」の先駆けらしい。

 石井には、他に横笛(龍笛、篠笛、能管持ち替え)とオーケストラのための「解脱」(1985)がある。


伊藤康英

吹奏楽のための交響詩「ぐるりよざ」(1989)

 吹奏楽では高名な曲。3楽章制で20分ほど。聴きやすい作品であり、派手で効果的、かつ演奏もしやすいためアマチュアにも人気がある。協奏的ではないが、2楽章に龍笛が使われ、独奏として効果的な響きを聴かせている。日本の伝統楽器の横笛は種類がたくさんあって、龍笛、篠笛、能管などがあるが、それぞれ龍笛=雅楽、篠笛=祭囃子や独奏、能管=能や歌舞伎等、と用途によって違う。考えてみれば、吹奏楽と邦楽器の作品ってあまり聴いたことが無い。


一柳慧

箏と室内オーケストラのための「始原」(1989)

 1楽章で15分ほどのコンチェルティーノ。アレグロ・コンフォーコ、レント・トランクィロ、ミステリオーソの3つの部分に分かれている。一柳といえば、山田耕筰以来、クラシック作曲家で数十年ぶりに文化勲章を受けたほどの人。現代音楽の重鎮である。そんな人の、日本人としての感性を意識した箏とオーケストラの作品。無調ながら、箏の音色で調性っぽく聴こえる。箏は打楽器的に扱われ、リズムが強調される。中間部は無音に響く打楽器も効果的。音調の変化に富み、楽しめる。


伊福部昭

和太鼓とオーケストラのための「ロンド・イン・ブーレスケ」(1972/83)

 協奏作品ではないが、和太鼓が効果的に使われている。10分ほどの序曲的なもの。元は吹奏楽作品で、オーケストラに改編された。元の元の曲には、和太鼓は含まれていない。なにより、怪獣大戦争及び怪獣総進撃の主題が引用されていてファンには高名。ロンド形式で、わんぱく王子のおろち退治、怪獣大戦争、ゴジラ、フランケンシュタイン対バラゴンの主旋律が入れ代わり立ち代わりに奏される。後半部分に和太鼓パートが入る。

二十絃箏とオーケストラのための「交響的エグログ」(1982)

 伊福部の協奏曲の中で唯一の、邦楽器との作品。1楽章制で演奏時間は約30分。短い叙情的な序奏から、すぐに箏のソロが始まる。ゆったりとしたレントから、アレグロへ。再びレントとなり、冷え冷えとして雄大な伊福部らしい緩徐部で、凍りついたような音の点描を奏でる。ここはまさに、ハープの用法となる。その後、しっとりとしたカデンツァを経て、レントとアレグロが細かく交錯する。これは後期の伊福部のコンチェルトの常套。終盤の2回目のカデンツァの後、アレグロとなり、小経過部の後に唐突に終結する。

管絃司伴「鞆の音」(1990)

 こちらは委嘱の機会音楽。CDは関係者のみの配布なので、かなりのレア曲である。管絃司伴とは、オーケストラによる伴奏、というほどの意味。山田流萩岡派箏曲の100年祭記念委嘱。初代萩岡松韻が作った古典邦楽「鞆の音」に、伊福部がオーケストラ伴奏をつけたもの。箏曲であるが、正確には長唄4、箏4、三絃3、竜笛1、小鼓7、大鼓2、それに三管編成のオーケストラ。下記の山田耕筰による長唄交響曲とコンセプトや手法は同じだが、西洋的和声ではなく長唄の音をそのままユニゾンでつけているので、かなりクドイ。オーケストラのみの部分も多く、よく映画音楽に登場するいつもの旋律が重々しく、長唄箏曲とコラボする。

 なお、初演タイトルは管弦司伴「鞆の音」だが、伊福部の最晩年の弟子堀井友徳さんに確認してもらったところ、手書きスコアの表紙には管絃楽司伴「鞆の音」とある。ここでは初演タイトルに従いつつ、弦は伊福部の通例に倣って絃とした。


今井重幸

二十絃箏とオーケストラのための協奏的変容「シギリヤ・ヒターナ」(2003)

 1楽章制で、10分ほどの小曲。カスタネットの小気味良い響きから、スペイン風の音楽がはじまる。元は、ギターとオーケストラのための協奏作品で、スペインのリズムと音色に支配されている。そこに、日本の伝統楽器が混じる妙を狙ったもの。長い序奏の後、ギター的な音形で箏のソロ。箏はあくまで日本的な音色で、ギターの音形を爪弾くのでどこかチグハグな印象もあるが、それが面白さでもある。狂詩曲形式で、自由に展開してゆき、フラメンコ・カスタネットも大活躍。


入野義朗

ヴァンドルゲン「轉」〜2本の尺八とオーケストラのための(1973)

 12音技法の大家による、日本伝統楽器とオーケストラのための曲。ここでは、西洋の楽器とは異なる理論によって運動する日本の伝統楽器が、既に無調や不確定性を内在し、12音技法と問題なく近接できる要素を既に孕んでいることが明示される。2本の尺八の対話は、オーケストラとの対話でもある。オーケストラによる音列の序奏から、尺八が現れるが、響きとしては伝統的なものに聴こえる。オーケストラはあくまで鋭く厳しい響きに徹し、むしろ幽玄的な尺八がメロディアスな不思議さ。後半は、オーケストラの響きも音の長い尺八的なものとなる。


小川寛興

交響曲「日本の城」(1968)

 明治100年を記念して製作された機会音楽。調性、全5楽章、40分の大作。各楽章が特徴ある邦楽器の協奏的作品となっている。第1楽章は箏、第2楽章は尺八、第3楽章は竜笛、第4楽章は琵琶と胡弓を独奏楽器としている一種の協奏風交響曲。その他、邦楽打楽器多数、ほら貝まで活躍する。冒頭からいきなり、コテコテの日本調子で竜笛ソロ。オケの序奏から箏三面の小気味よいアレグロのソリへ。第2楽章は渋い調子の緩徐楽章。当然尺八も渋いが、現代調ではない。第3楽章は戦闘の様子。ちょっと面白い。竜笛群が吹き鳴らす風の吹きすさびが良い。第4楽章は再び緩徐楽章。琵琶、そして珍しく胡弓が活躍する。胡弓が使われているのは、この項でも当曲のみ。ついでにスキャットで混成合唱も入る。第5楽章はそれら全てが一体となる。


三枝成彰

三絃協奏曲「1993-12-01-SANGEN」(1993)

 三絃とは三味線のことだが、三味線にも存外種類があり、主なところでも細棹、太棹、津軽三味線、三味線ではないが、三絃の一種で沖縄のサンシンなどがある。ここでは、恐らく普通の細棹だろうか。3楽章制で20分ほど。三枝は若いときはバリバリの現代調だったが、色々思うところがあってか、あるときよりバリバリの調性作家となった。三絃を打楽器的に扱い、冒頭からいきなり激しい展開。オーケストラは、無調と調性のあいだを絶妙に漂う感じ。三絃はひたすらベンベン。2楽章は撥を使わず、指で絃をメロディアスに弾く。3楽章はアレグロとレントが交錯する。

太鼓協奏曲「太鼓について」(2000)

 1楽章制、30分の大曲。和太鼓だけではなく、謡曲風の語り(テキストは打楽器の成り立ちを謡った、この曲のためのオリジナル)と大鼓、篳篥も入る。作者によると、語りと太鼓とオーケストラの三つ巴の戦い。ボレロ形式で、同じような曲調がだんだん盛り上がって行く。最初は鼓と朗読から始まり、太鼓は5分くらい過ぎてからようやく現れ、しかも協奏というよりボレロなので延々同じ音形を叩いて盛り上がって行く。いちおう、ラスト近くに太鼓のカデンツァがある。正直、楽想の割に長い。語りって、本当に必要なのかな……。


高橋裕

笙と管弦楽のための「風籟」(1992)

 「ふうらい」と読む。風の通る音、風がものに当たって鳴る音だという。風の音を模した邦楽器というと尺八だが、ここでは笙が使われる。1楽章制で15分ほどのコンチェルティーノ。5分ほど笙がひたすら静かに静かに鳴り響く中に、オーケストラがそろそろと合流してくる。それは笙へ寄り添うように、音を横方向で重ねてゆく。重ねに厚みが出てきて、打楽器が縦に突き刺さってくる。そこへ笙のソロが戻ってきて、次第に遠ざかってゆく。


武満徹

ノヴェンバー・ステップス〜尺八、琵琶とオーケストラのための(1967)

 言わずと知れたノヴェンバー。邦楽器とオーケストラ作品で恐らく最も高名であり、録音も恐らく最も多いが、編制的に実演に接した人はあまり多くないと思う。かなりの難曲だし、尺八と薩摩琵琶の名手が必要である。1楽章制で、20分ほど。これを大昔N響アワーかなんかで見てから、自分の邦人作品道が開けた。意外にも、伊福部と出会う前であった。

 2群オーケストラというより、オーケストラを2つに分け、合間に尺八と薩摩琵琶。武満はこの前年に尺八と琵琶のための「触(エクリプス)」を作曲。それを聴いたバーンスタインと小澤征爾が、武満に同曲を委嘱した。まずオーケストラで点描的かつ煽情的な音の分散があり、全体を通して変奏される動機を提示する。対比するようにびょうびょうとした尺八、それに楔を打つ琵琶が登場する。時折、オーケストラも鋭く対立する。タイトル通り、11の段階によって進められる武満流の絵巻物形式。第10段のカデンツァは圧巻。

秋〜琵琶、尺八、オーケストラのための(1973)

 ノヴェンバー・ステップスの陰に隠れ、殆ど演奏されていないという、1楽章制15分ほどのドッペルコンチェルティーノ。ノヴェンバーと比べると、より調的に展開される、複雑な変奏曲。冒頭、オーケストラで和音の蠢く動機が提示され、すかさずオーケストラにより変奏される。まず尺八が登場し、オーケストラと短い対話。それから、薩摩琵琶がおもむろに登場。その後オーケストラと共に動機を変奏し、再び尺八が再現。琵琶も絡んできて、カデンツァ。続いて尺八と琵琶の二重奏と聴きどころは多い。二つの邦楽器は、静かに虚空の彼方へ消える。

セレモニアル〜オーケストラと笙のための(1992)

 サイトウキネンオーケストラのために書かれた、序曲にして典礼曲。協奏的作品ではなく、前奏と後奏に笙が使われている、10分もしない小品である。遠くから聴こえる風鳴りのような笙が、現れては消える。オーケストラが笙と入り代わり、ため息のような、遠くの風鳴りのような音を寄せては返して奏でる。音調は後期の武満らしく、メチャクチャ切なく美しい。そしてまた笙が不思議な音を届けてくれる。笙の出番は少ないが、非常に印象に残るあたりが流石にうまい。


團伊玖磨

交響曲第6番「HIROSHIMA」(1985)

 これも協奏的作品ではないが、能管と篠笛が効果的に使われる。また、ソプラノも入る。3楽章制で50分になる大曲。特に第1・第3楽章がそれぞれ約20分と規模が大きい。第1楽章序奏に能管、第2楽章に篠笛、第3楽章にまた篠笛とソプラノのソロが入る。第1楽章は、それだけで一編の交響詩が如く充実している。能管は序奏の鋭い幕開けと、第2主題の提示に登場。また展開部、コーダなど、随所に活躍する。2楽章はアレグロ。團らしい歌謡的民謡的旋律と交響的もり上がりが見事。中間部で、小山清茂を彷彿とさせる民謡風の篠笛ソロ。コーダは、まるで終楽章のように分厚い讃歌と鐘の音で盛り上がる。第3楽章、短い序奏から篠笛の囁くようなソロ。そして穏やかな展開の後、ソプラノソロでブランデンの詩が歌われる。コーダでは再び篠笛がオーケストラと協奏的にテーマを交錯し、堂々と完結する。


西村朗

「天空の蛇」〜笛とオーケストラのための(1994/2004)

 打楽器、ピアノ、ハープ、弦楽合奏による伴奏と、4種類の笛の独奏による。独奏者は長い篠笛、中ぐらいの篠笛、能管、龍笛の順で持ち変える。珍しい、笛による協奏曲。管楽器は独奏者のみ、というのも特徴的だ。1楽章制で、約16分ほど。日本の笛で、フルートのような細かい音形を福こなすのは構造上至難だが、息の長い旋律は逆に得意。短く、重々しい序奏に続き、吹きすさぶ乾いた風のごとき幽玄的な笛が聴こえてくる。打楽器が特異なリズムを刻む中、笛と弦楽が軋んだ音を立てて交錯する。ピアノとハープのサブソロ楽器も印象的。持ち替えにより笛の音がどんどん高くなって、霊妙なる音は神に近づいて行く。最後は長い龍笛のソロの後、虚空の中に消える。

「樹海」〜二十絃箏とオーケストラのための協奏曲(2002)

 1楽章制で、約20分の協奏曲。弦楽によるキリキリという鋭い緊張感のある書法から、同じく緊張感をもって箏が斬りこんで来る。箏の短いソロから、キリキリ弦楽との掛け合い、絡み。音がどんどん研ぎ澄まされて、鋭さを増して行く。管打は楔として縦に打ち込まれ、横の弦楽と対比。その縦と横の世界の中を、箏が自由に往き来する。中間部で叙情が優先され、箏のカデンツァでは伝統的な響きに近づいた音調も現れる。その中でも、西村らしい凡アジア的な、中近東やインドの民族楽器を模した響きもある。そして再び現代的な響きへと回帰し、オーケストラが現れて後半になる。オーケトスラは細かい差異の集合体でありつつ、全体で大きな世界を形作る。箏はその世界の中をあちこちへ移ろい、一人になり、最後にポツン、と存在を消す。

 なお作者のイメージによると、オーケストラが「樹海」であり、箏は「内的な五感の反映」だという。


廣瀬量平

尺八と管弦楽のための協奏曲(1976)

 1楽章制で20分ほどの曲。廣瀬も厳しい現代的な響きを作風としているが、ここでは、12音技法ではなくむしろ伝統的な手法で尺八の根源を明らかにしている。室内楽的な導入に、尺八のソロが現れ、自在に技術を駆使して進む中を、オーケストラが特殊奏法で包括し、追随する。尺八の幽玄なカデンツァを経て後半はテンポ良く、オーケストラも動きが鋭くなって、偶発的なカオスを駆使し、音響効果も凄い。再び尺八のカデンツァとなり、オーケストラが静かに寄り添って虚空の彼方へ消える。


細川俊夫

うつろひ・なぎ 笙、弦楽オーケストラ、ハープ、チェレスタ、打楽器のための(1995)

 ポスト武満の最右翼、細川。私としては、タケミツチックすぎくてちょっと。弦楽は大きく2群に分かれている。タイトルは、宮崎愛子の彫刻作品「うつろひ」と「なぎ」は彫刻の飾られている美術館のある奈義町と、凪から。1楽章制で17分。古代ハーモニカと云ってもよい笙の長い、寄せては返す風の持続音に弦楽がよりそい、打楽器とハープが点描で装飾をする。幽霊でも出そうな曲だが、響きの緊張感とドライな音調は素晴らしい。後半は動きが出て、笙も前に出る。最後は、異次元の穴に吸いこまれて行く。


三木稔

序の曲−Prelude for Shakuhachi, Koto, Shamisen and Strings (1969)

 尺八、箏、三味線と弦楽オーケストラのための合奏協奏曲。以下の破、急と合わせて鳳凰三連を形成している。箏は二十絃で、この曲が開発して初お披露目であったという。それまでは、箏は十三絃がノーマルで、明治時代にかの宮城道雄が十七絃を開発。そして、三木稔と野坂恵子(当時)が二十絃を開発。野坂は後に二十五絃を開発している。

 1楽章制で15分ほどの、協奏的作品というよりまさに序曲。弦の緊張感ある音列主題に、邦楽が割りこみ、突き刺さってくる。邦楽も、奏でるのは主音列より派生した主題となる。無調作品だが、調性感があり聴きやすい。中間部には、尺八を主に箏と三味線が伴奏する邦楽器のソロ部分がある。後半は調性っぽくなるが、オーケストラはあくまでベルク的な響きを崩さない。

破の曲−Concerto for koto and orchestra (1974)

 破の曲は二十絃箏とオーケストラのための協奏曲である。1楽章制で、演奏時間は30分に及ぶ。無調作品。ミュート付の金管による静かな主音列動機の提示から始まり、箏も音列による派生主題をポツラポツラと弾き続ける。オーケストラも断片的に音列を奏で、静寂の空間に時がしばし流れる。20分近くになると、総奏で音響がうねり狂い、それか納まると能管を模したピッコロやトランペットの動機に乗って箏がカデンツァ。そのまま、静寂の中に沈んでゆく。音楽というより、自由な音の羅列。ちょっと長い。

急の曲−Symphony for two world (1981)

 こちらは邦楽集団とオーケストラによる共演の交響曲。序奏と4つの楽章により、35分ほどの曲。かなり調性感が強く、前編無調の破の曲と対比を成す。冒頭から邦楽器が鋭いオーケストラの和音と共に登場し、邦楽器大活躍の面白いアレグロとなる。そのままアタッカで第1楽章へ。第1楽章もアレグロ楽章で、第2楽章は長いアダージョ。ここは音列っぽい主題が提示され、響きも無調となる。箏や尺八が独奏的に扱われる。後半にはヴァイオリン独奏も。アタッカでスケルツァンドの第3楽章へ。三木らしい、オーケストラと邦楽器の陽気な踊り。第4楽章は堂々たるオーケストラと邦楽器集団の饗宴。

 三木はこのほかにも箏協奏曲や(中国)琵琶協奏曲があるが、オーケストラ伴奏ではなく邦楽器合奏の場合もある。


水野修孝

交響的変容 第3部 ビートリズムの変容(1983)

 水野の交響的変容は第4部まであり、全部演奏すると180分にもなる超大作で、その中でこの第3部は中間部が和太鼓とティンパニのドッペルコンチェルトとなっている。ついでにドラムスを含めた打楽器アンサンブルも大活躍する。1楽章制で、演奏時間は約30分。ジャズオーケストラによる強烈なスイングに支配され、かつロックビートを体現する。冒頭から、打楽器アンサンブルとドラムスに乗ってジャジーな展開。無窮道に絶え間なく音響が進み、10分ほどより和太鼓とティンパニが登場。再び打楽器アンサンブルも加わり、オーケストラに引き継がれる。それを2回繰り返して、15分過ぎからの和太鼓とティンパニの猛烈な二重奏は圧巻。リズム遊びの点で、随一の作品。


諸井誠

協奏交響曲第1番「偶対」(1972)

 こちらも、邦楽合奏とオーケストラの協奏的作品。2群オーケストラ、尺八2、鼓2、笙の5人の邦楽器、弦楽四重奏による。2部5楽章制で、30分ほどの曲。12音技法の大家、諸井による幽玄の世界がひろがっている。対の尺八と鼓が上手と下手から順に演奏しながら登場するなど、シアターピース的な要素もあり、音のみでの鑑賞には限界がある。尺八や鼓が2人合わせで偶然の対話を演じ、笙が両方をつなぐ。オーケストラによる、偶発性やクラスター的なカオスもある。邦楽器とオーケストラのための作品でも、屈指の抽象性と精神性を持つ傑作。


山田耕筰

交響曲「明治頌歌」(1921)

 交響曲とあるが、実質は交響詩。しかも、最後の方に篳篥が少しだけ登場するもの。ただ、当曲はオーケストラに日本の伝統楽器が入った初めての曲であるという。明治時代になり、西洋と東洋の合致がどのように行なわれるか、日本社会の全ての分野で模索された。それを音楽で考えた、初の曲という点で重要であろう。1楽章制で20分ほど。笙のようなオーケストレーションの弦楽ではじまる東洋の主題と、金管のファンファーレから西洋の主題がソナタ形式めいて提示されるが、その後の展開はモヤモヤしている。最後に篳篥が登場し、明るいコーダで終わる。

長唄交響曲「鶴亀」(1934)

 こちらは、長唄とオーケストラの融合。これが単にくっつけただけではなく、まさに「融合」しているのが山耕の凄いところ。長唄とは、元は歌舞伎の伴奏の音曲だが、独立して音楽として鑑賞するもの。それに西洋的な和声をつけて、オーケストラ伴奏してしまった。鶴亀は第3番で、第1番越後獅子、第2番吾妻八景とあるが、1番2番は楽譜が行方不明なのだという。とにかく、こんな斬新な音楽が戦前からあったとは驚き桃の木山椒の木というほかはない。

 1楽章制で20分ほど。短いオーケストラによる序奏から、いきなり長唄開始。鶴亀は、中国の皇帝の即位に相を得ためでたいもので、日本的な音階に内容は蓬莱山がどうたらとか中国風というもの。長唄の演奏は伝統的なもので、それにオーケストラがぴったりと寄り添う。それがまたうまい。「イヨオー!」ポン 「ヨオー」チントンシャン に、西洋和声のオーケストラが何の違和感も無く融合している。凄い。


山本直純

和楽器と管弦楽のためのカプリチオ(1963)

 ポピュラー世界で活躍した山本直純の、珍しい純粋コンサート音楽。解説によると、初めてにして唯一の、コンサート用オーケストラ作品であるという。しかし、中身はかなりポピュラー調。全5楽章、30分ほどの大規模な狂詩曲。7人の邦楽奏者にギター、ドラムス、人声まで加わる。日本の四季を描き、第1楽章は春、第2楽章は夏、第3・4楽章は秋で祭囃子もある。第5楽章は冬。打楽器と邦楽のアンサンブルから始まり、合奏協奏曲として進んで行く。途中までそれなりに現代調だったが、いきなり山本節のCMソングになるのがご愛嬌。お花見か。祭では長いドラムソロや、オケの打楽器奏者による「エーンヤコーラ!」の掛け声も。


湯浅譲二

箏とオーケストラのためのプロジェクション「花鳥風月」(1967)

 独自の手法で無調を極める湯浅。1楽章制で14分ほど。武満のノヴェンバー・ステップスと同じ年に生まれたこの曲は、湯浅の初の本格的コンサートオーケストラ作品らしい。箏は十三絃二面と、十七絃二面の計四面。オーケストラによるギュワーンという独特の湯浅クラスターから、箏のソリ。木管の点描風描写から、箏もピョンピョンという不思議なピチカート(?)で答える。金管も、特殊奏法でみゅわみゅわと鳴る不思議空間。箏とオーケストラが繰り広げる夢幻にして無限の世界は、単なる無調音楽を超えて迫ってくる。箏の長いソリは、やや伝統音楽っぽく響くが、バックのオーケストラは完全に事象を超越している。ちなみに、何がどう花鳥風月なのかは謎だが、蒔絵の世界のようなイメージもある。


和田薫

津軽三味線とオーケストラのための「絃魂」(2003)

 「いとだま」と読む。1楽章制で13分ほどのコンチェルティーノ様式。3つの部分に分かれており、ホルンの序奏から三味線による動機の提示があって、アレグロ・バルバロになり、アンダンテから短いカデンツァを経て、再びアレグロ・バルバロで曲を締める。津軽三味線用のための小協奏曲で、特徴的なじょんがら弾きが良く現れてる佳品。

和太鼓とオーケストラのための協奏的断章「鬼神」(2009)

 和田の和太鼓協奏曲。6つの部分からなる自由な狂想曲形式で、15分ほど。時間的に見ると、やはりコンチェルティーノといった規模だが、音調は派手で重々しく壮大で、聴き応えと満足感がある。なお、太鼓はソリストを中心に、脇に2人の補助奏者がついて、計3人で11個の大小の和太鼓を乱れ打つ。和田らしいカッコイイ音形と勇壮な和太鼓が相まって、迫力満点。


 こうして見ると、ソロ楽器としては箏、尺八、琵琶、笙、三味線くらいか。横笛類や篳篥はやっぱり、音域が狭いのと、それに細かいパッセージがやり辛そうだし、協奏曲のソロ楽器としては難しいのかもしれない。

 高名なところでは、他にCD音源としてあるものに松下功の和太鼓協奏曲「飛天遊」などがある。未音源化で気になっているのは、吉松隆の「Fugaku ……霊峰富士によせる7つの響景」(尺八、二十絃箏、オーケストラ)である。日本人以外では、グバイドゥーリナに「in the shadow of the tree 一人の奏者の三面の箏とオーケストラのための」「樹影にて 〜アジアの箏とオーケストラのための〜」がある。





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