水野修孝(1934− )


 水野修孝は日本人の交響楽作家としても特に重要な位置を占めていると思う。さらに交響曲に関しては、まとまった数を発表しているだけではなく、内容においても、交響曲に対する想い、信念や、独特の価値観を鑑みて、個人的な基準でいうと、諸井三郎団伊玖磨の系統に属し、後輩の池辺晋一郎吉松隆につながって行くものであるが、正直、ちょっと(どこかリベラル風な世代的なものなのか)交響曲という事象物に対して斜に構えたりしている池辺や吉松より、正面から取り組んで内容の濃いものを書いていると思う。好き好きは別にして、硬派ということなのだろう。
 
 彼は、「交響曲という形式は、多様な種類の音楽をひとつの統一された表現体として構成するのに都合のよい容器である」 と述べている。しかし、野放図に開放に向かっていた自分のこれまでの音楽の集約・収斂を行うための器としての音楽的媒体がたまたま「交響曲」であり、また自分の音楽の集約・収斂には「交響曲」しか無いという、交響曲に対するリアルでニヒルな感性があるとも云えるだろう。なんとも、わびていて面白いではありませんか。

 略歴を参照すると、はじめ千葉大学へ進んだが、東京芸大楽理科へ移り、柴田南雄に師事。アカデミックな作曲技法を充分に修めてより、アメリカへ渡りジャズやロックに傾倒しているということで、現役交響曲作家と比較すると、似ている様で吉松とはアプローチが異なる。
 
 彼の音楽には、現代の音楽やそれが表す事象の全てがあると云っても良いが、そこは人間のすることであり、おのずと限界がある。とはいえ、ポピュラーなものと云っても、けして軽くはない。アカデミックなものと云っても、けして窮屈ではない。ゲンダイオンガクと云っても、けして破天荒ではない。民族的と云っても、けして泥臭くはない。
 
 それらが、渾然一体となり、かつ、整然としているのが水野の音楽であり、水野の交響曲だと思う。


交響的変容(1978-1987)
  
 さて……水野の音楽の拡大性(拡大志向)の最たるものが、この交響的変容全4部だろう。これは名前こそ交響曲ではないが、水野の書いた言語を絶する交響楽であり、ある意味交響曲の枠すら超えてしまっているため、本来ならばこの項では取り上げないが、とにかく重要で面白い音楽であり、本人も大きな交響曲と位置づけていて、もし交響曲と名付けられていたら間ちがいなくギネスブック級の超超超超交響曲なので、ぜひとも紹介したいと思った。またこれを聴かないと、この神をも恐れぬ拡大性の収斂としての3番や4番の意義や意味が小さくなって来るので、大事なのである。
 
 初めて聴いたときの感動と興奮は、2003/12/4のCD雑記にあるので、興味のある方はそちらも眼を通していただきたい。(一部内容が重複します)
 
 交響的変容は1962年(作曲開始年)から1987年の26年にも長きに渡って水野が書き続けた交響楽の集大成として、1992年に幕張で怒濤の初演コンサートが開かれた。全3時間、正副合わせて指揮者3人、大オーケストラ、6群の混声合唱(少なくとも500人)、ついでに合唱指揮も6群にそれぞれ最大で6人(だから最高で指揮者9人が一心不乱に棒を振り上げることとなる!)、ティンパニソロ、和太鼓ソロ、打楽器合奏、ソプラノソロ。それ以来、当たり前だが、全曲の再演は行われていない。
 
 まさに一期一会の精神において催された一世一代の音楽プロジェクトだろう。

 長いので一気に聴くと疲れますが、ジャズ、ロック、現代音楽、調性旋律と、およそ20世紀でいう色々な音楽シーンがこれでもかと詰め込まれているので、飽きないです。
 
交響的変容第1部「テュッティの変容」(1978)

 4部作の記念すべき1作目は、オーケストラのもつ響の表現を模索しているのだが、冒頭より運命動機的な総奏に鐘がまじり、循環形式の動機にもなっている。それからしばし全オーケストラが鳴り響くカオス的な、リズムも和声も渾然としたオーケストラのテュッティを表現する。
 
 3部形式で、中間部では弦楽のみによる。

 鐘による侘しげな導入の後、弦楽が不協和音をメインに据えた無限旋律的な変容を形づくる。ここの情景はなんとも無機質な、砂漠というよりもっと荒廃した、破壊された都市の景観、あるいは、未知の惑星へ移住した開拓団の夢の跡と云うか、遠い世界の印象を受ける。
 
 続いて再び全合奏が戻り、カオスとなる。後半では第3部につながって行くビッグバンドもいきなり登場。アレッと思うが、これが楽しい。本物のジャズなのだ。ジャズオーケストラのための超絶技巧な楽曲も提供しているので、ジャズをクラシックへ応用とか、そういうレベルではなく、ホントのオーケストラによる「ジャズ」がなんの躊躇も惜しげも無く舞い込んでしまっている。その面白さ。トロンボーンのソロがイカス!!!
 
 黛敏郎もこういうの得意だったなあ〜。黛のほうがまだマジメで、ジャズ/クラシックという感じだが、水野は本当にジャズなのよ。しかもオーケストラのための! なんとも文章ではニュアンスが伝わりにくいですが……。(ジャズオーケストラの曲を聴いたことがある人は、なんとなく分かっていただけるのではないでしょうか)

 その後、冒頭に戻り(循環形式か?)、西村郎のようなヘテロフォニー的な鐘や弦楽の音の中に、曲は消えて行く。
 
 最後に数度、鳴らされる鈴(リン)が印象深い。

 以上のような変容を、水野はまず書き上げた。

交響的変容第2部「メロディとハーモニーの変容」(1979)

 水野が音楽をやりたかった原点は 「しなやかなメロディー、豊かな和声、活き活きとしたリズム、そして多彩多様な様式を融合し現代人の感覚でロマンティックな音楽を創り出すことだった」 と述べている。これはもう水野の音楽の全てを云っているに等しい。彼の曲は、いろいろ室内楽とか合唱とか聴いても、まず、このひと言で理解できるような気がする。
 
 2部で追求されるのは、中でも特にメロディーとハーモニーだろう。彼のオペラにも通じるもののようだが、息の長い、ワーグナー的な無限旋律が、こんどはしっかりとした調性で、切々と流れる。それを、金属打楽器が、神秘的に、かつ、荘厳に飾る。
 
 全体的に、とてもすがすがしく、美しく、ドラマティックでロマンティック。しかしそれは前半だけであり、途中より半音進行となって不安を表現し、1部へ回帰したような荒涼とした響きへ変容して行く。最後は、深遠なドラの音の中にこれも消え行く。
 
交響的変容第3部「ビートリズムの変容」(1983)

 ビートリズムとは、いわゆるクラシックの概念で云う、学校で習うような「リズム」ではなく、ロック、ジャズ、ポピュラー音楽を含む色々な大衆音楽を支える、アフリカ生まれの強烈なビートを伴う現代リズムのことらしい。
 
 その変容であるからして、主体は打楽器です。打楽器大好き我輩はもうウハウハ。

 打楽器合奏が常に導き、今度は息の短い、小刻みな旋律による、単調な繰り返しのポピュラリティに溢れた音楽。

 もちろんオーケストラの中にビッグバンドも再登場し大活躍。なにより凄いのは、リズムの原動力たるドラムスがしっかりとエンジンとして始動していること。
 
 正直、どういう音楽原理・音楽理論か分からないですが、オーケストラにドラムスを入れると、とたんに安っぽくなる。チープな、映画音楽以下の、有線で流れているような喫茶店のBGM 的なムード音楽になる。別にムード音楽を卑下しているわけであはりませんが、とにかくチープなのです。なんでだろう?? 音質、音色の問題だろうか?

 しかし水野の曲は、そうはならない。リズム主体だからか? オーケストラそのものがリズムを表現しているからだろうか? ただ単にジャズオーケストラのための音楽を既に書いている水野が、その扱いが上手いというだけだろうか? 不勉強なので、理由は分からない。
 
 さらにオーケストラと云えば、ティンパニの登場! 

 本当にオーケストラで打楽器やる醍醐味といえば、ティンパニなんですよ。

 楔のように打ち込まれる打音、地鳴りのようなトレモロ!

 オーケストラ(音楽)を破壊するも活かすもティンパニの叩きひとつなんです。
 
 そのティンパニでビートリズムってなかなか……。カッコイイです。マーラーの第7交響曲・5楽章冒頭にその萌芽があるのかもしれません。さらに和太鼓ソロとの共演というか協奏です。こりゃたまらん。ティンパニが西洋のリズム、和太鼓が日本のリズムを叩き、それらが渾然となり、リズムを増殖的に変容して行く様は、迫力と面白さにあふれている。
 
 途中、全曲を統一させている鐘の動機が現れてより、無調的な弦楽が前部までを踏襲して、やや落ち着いたころに、再び激しいビートが現れ、また無調になり、いよいよ盛り上がったところで、ジャズになって(吹奏楽出身で少しはビッグバンドを体験した身から云っても、水野のオーケストラビッグバンド、本当に超カッコイイんですよ!)、ついに、ティンパニと和太鼓の怒濤のソロが登場する。

 もう、ビート祭!(笑)
 
 ピアノを含むしなやかな各管楽によるジャズのソロに、ドラムスやパーカッションが軽やかに華を添え、アジエンスでラテンな打楽器合奏団を従えて、またまた和太鼓とティンパニ!!! その東西リズムの饗宴とダイナミクスと変容の妙ときたら、なんとも、もう、聴いて頂いて自分で体験していただくしかない。

 10分近くもの太鼓祭の後、颯爽とジャズオーケストラが帰って来て、ビートリズムにジャパンリズムも加わり、鐘からサンバから、無調から、混在し、一気に第3部を締める。

 ホント、この曲、大好き。凄い音楽です。
 
交響的変容第4部「合唱とオーケストラの変容」(1987)

 ついに第4部なのだが、この4部自体が6章に別れているから只事ではない。全3時間のうち、約2時間が4部で占められていることになる。6章のうち、我が祖国のように3章で休憩を入れても良い事になっている。

 また、各章へ仮にタイトルをつけると以下の通りとなるという。

  第1章「予感」
  第2章「核と原爆への恐れ」
  第3章「原爆の章」
  (休憩)
  第4章「キリエ(神よあわれみ給え)とカオス」
  第5章「新しい生命と喜びへの讃歌」
  第6章「無常観と祈り」

 第1章は10分ほどの楽章で、初演CDでは9分となっている。3部とうって変わり、4部の前半3章はすべからく無調様式による。1部にも通ずる響きがまたも復活。金属打楽器による神秘的で不安を示す音の中に、弦楽が狂気を表して不協和音を発する。しかし、ヨーロッパにあるようなとても聴けたものではないノイズではなく、あくまでサウンドなのが嬉しい。
 
 中間部には、ヴォカリーズによるハミングが加わるが、大オーケストラの中へ本当に神秘的に溶け込んで、ハリウッドあたりで巨大宇宙船の往く様のようだが、あれより当たり前だが響きが厚く充実している。3部形式で、無調による細かい動きの後半に到り、終結して、同時に第4変容部の開始を告げる。

 第2章は4分ほどで短いが、シリアスな人類の核兵器(あるいは原発)への依存体質を鋭く批判する。作曲当時は冷戦真只中だったが、いまでは、どうなのか。核よりテロのほうが、現実的な恐怖なのではないか。
 
 「人間は、果して原爆から身を護る事ができるか」 という歌詞は、人間は、果して同じ人間の爆発から〜と、より残酷な結果となって、ほぼ20年後の我々へ、訴えかける。原爆は人間を超越してしまっているが、自爆テロは人間のリアルさを生々しく伝えている。戦争は許容するが個別テロは断固否定する大国主義もその一面だろう。
 
 戦争の惨禍はいまでも変わりはしない。(冷たい云い方だが、未来永劫変わらないだろう)

 第3章は30分に及び、前半のクライマックスを形成する。

 原子爆弾の災禍を音楽で表すのはよくある手法だが、「ヒロシマ〜〜〜」とかいう、呪いの言葉のようなものより、ずっと音楽的で良い。

 無調が絶好調に凶悪的な響きをまき散らし、合唱が無言歌で阿鼻叫喚や恐怖や不安や怒りを表す。
 
 中間部では合唱がメインとなり、邦楽のようにヘテロフォニー的なメイン旋律と同じ旋律をちょっとズレつつ伴奏をして、音楽を進行させる。管弦楽が次第に盛り上がると、管楽器が独立したような対旋律を奏でて、やがて偶発的な打楽器も加わると、もうカオス! しかし基本旋律がしっかりしているから、聴きにくくはないと思います。原爆投下の瞬間を示唆しているとのことです。

 ついで、再び原爆の惨禍を歌うが、なんとその伴奏はビートリズム!!

 もちろん不協和音によるカオスの中に埋没してゆくが、この衝撃は凄い。

 最後は、静かに収束して、鎮魂歌と変容し、前半を終了させる。
 
 第4章からが、4部のメインというか、これまでは序章。一転して調性が主となり、それに伴い、戦後の復興と文化の交流……いや、むしろ、あまりにも氾濫した情報の交錯を、ありとあらゆる歌の同時合唱により表現される。現代都市に氾濫する交錯して倒錯した情報は、いまやインターネットという人類の手にした新しい前人未到のある意味原爆より恐ろしい「ゆっくりした殺人・緩慢なる滅亡」を呼び起こす兵器により、都市からじわじわとそして一気にはみ出して、人間を襲い続けている。
 
 手始めに、4部は管弦楽がマーラーを超えた、超アイヴズばりの多角的多様性主義音楽を奏で、合唱は、6群に分かれて聴衆の中を練り歩きながらシアターピース風に、それぞれ、キリエ、東南アジアの民謡(ネパール、タイ、ヴェトナム、スリランカ)、日本の日光和楽おどり、となって、最後に追分節のヴォカリーズに収斂されるという趣向。

 1曲聴けば1曲に驚き、1章聴けば1章に驚き、1小節聴けば1小節に驚く、水野修孝、何物ぞ、といった具合になってしまう。(偉そうで申し訳ありませんが、樋口一葉批評の引用です、念のため)
 
 残念ながらCDでは再生に限界があるが、それでも凄さは伝わる。無機的なヴォカリーズからビッグバンドとなり、奇妙なマーチやワーグナーのマイスタージンガーが重なってくる。

 それらが全て同時になる本当にアイヴズ的ゴッタ煮音響の面白さ、ここに極まれり。

 6群のコーラスはもう個別には聴きとれずに、音声が雑多に入り交じる都会的な雑踏の響きのようになって、頂点を迎え、それから、民謡がじわじわと判別できるようになる。

 シアターピースが終わり終結した合唱による追分節は、感動的。
 
 第5章と6章は、つながっているようにも思えるし、6章の序章が5章のようにも思える。合唱と管弦楽のあまりに巨大で拡大的な変容は、ついに終結を迎える。大きなる儀式のクライマックスのようでもある。
 
 前章よりアタッカで続き、ヴォカリーズから、なんと法華経!!

 7曲の合唱が続けざまに世の移り変わりを示す。

 法華経の後、長く無言歌が流れるが、テンポを変え、作者自作の詞や、アニュスデイが切々と歌われる。
 
 問題はそれへ続く、3時間におよぶ「交響的変容」の終結地点である第4部第6章。

 男声により法華経が再び現れる。同時に女声が現代詞を歌う。続き、管弦楽の調性的な伴奏によりソプラノソロが無言歌で、圧倒的な存在感と印象でマーラーの第8交響曲に示されているような、「永遠に女性的なるもの」 のイメージを歌い上げる。ここは第6章の白眉のひとつだろう。
 
 それから合唱と管弦楽による大きな変容が出現し、4章のカオスを再現しながら、第1部より3部までの変容(つまり、メロディー、ビートリズム、それらがテュッティで奏されて、しかも合唱と管弦楽の変容によるという、大胆不敵な仕掛け)が現れて、統一感を出すという手法の面白さ。
 
 さらには法華経とファウストの同時進行という、ハード的な西洋と東洋の融合が試される。なんという、恐るべき表現法と思考なのだろう。
 
 1部冒頭が再現され、曲はさらに統一される。
 
 壮大にオーケストラと合唱がビッグバン的なカオスを表現するが、それは人間世界の賛美らしい。再び法華経とファウストが当時に歌われ、静かに、ゆっくりと、響きと、鐘の音の中へ消えて行く。

 3時間に渡る超人的な変容は、ついに(そして意外と呆気なく)終わる。賛歌ではあるが、西洋のそれのように、ハッピーエンドではけしてない。時の流れは、永遠で、その中で人間の存在は、あくまで小さい。

 6章仮題の「無常観と祈り」 とは、まさに交響的変容全体のテクスチュアであるようにも感じられる。無常観は中国で生まれた東洋的概念だが、中国のそれは、マーラーの大地の歌にあるように、強い生があるゆえのある種のデカダンや厭世観が先に来るが、日本人はそれとは異なる感性を持っている。日本人のもつ無常観はあくまで無常感(つまり感覚・感性であって、観念のみではない)にも通じている。良くも悪くも日本人的な、繊細でウェットで控えめな感覚。中国人のように強靱ではない。
 
 「行く河の流れは……」 にあるように、日本人は時の移り変わりと、その中の人間世界のあまりの儚さに特に惹かれてきた。しかし短い生ながらも一瞬の華のように美しく散る事ができるのもまた人間であり、日本人はその潔さに憧れてきた。日本人にとって無常とは儚さと潔さ、そしてそれゆえの美しさなのだろう。

 それを理解しない人は、国籍が日本人でも、もはや日本人ではない。

 (話は変わるが、イラクで、さもそれが社会正義であり自分たちが正義の執行者のように好き勝手に行動し、己の力のおよばぬ事態になると無様にも助命と救出を嘆願し、しかもそれが当然の権利のごとく振る舞った正義の味方気取りを思い出す。彼らはなぜ人道上の正論を述べていたのに日本の世論を味方につけられなかったのでしょうか? 単純に、理由ではなく、日本人として精神的に美しくなかったからだと私は思っています。日本人は理屈や理論ではなく、それを許せないのだと思います。日本人は良くも悪くも、理屈ではないのです。精神の問題、心の問題なのです。彼らは潔く無く、儚くも無く、身の程を知らず、傲慢で、尊大であった。彼らは、日本人から見ると、見苦しかった。美しくなかった。日本人は、そういう日本的感性でいう醜いものを無意識に拒絶するのでしょう。欧米人は、彼らがなぜ批判されるのか理解できなかったそうです。当たり前ですね。彼らは、良くも悪くも、日本人ではなかったのです。彼らの嫌いなアメリカに助けを求めれば良かったのにね)

 水野の音楽は、不協和音も、ビートリズムも、そしてとろける様な旋律も、全てが、美しい。美しさゆえに、どんなに長くても、終わりは唐突で、儚い。
 
 儚さゆえに、響きが潔い。

 そこへ武士道に通じる、無常観があるとすれば、まさに交響的変容という膨大で忘我な音楽世界は、無常の音楽に通じるのではないだろうか。

 しかし、これはやはり交響曲をも超えてしまった、交響的変容なのだろうか? それとも、交響的変容をも内在する、あくまで宇宙的に巨大な交響曲なのだろうか?

 興味はつきず、従って、永遠に面白い。人の命は儚くも、人の心は永遠なのでしょう。


第1交響曲(1990)

 第1交響曲は、交響的変容の3年後、1990年に作曲された。

 全体の特徴としては、やはり、以降の諸交響曲と変容との中間的な作品……と云って良いだろう。2番もそのような特徴があるが、1番の方がもっともっと折衷的な特徴を見せていて、興味深い。水野的音楽が拡大的な変容から交響曲に収斂されてゆく態様の初期の様子が如実に聴きとれる。
 
 4楽章制。収斂といっても、元が元だけに、40分ほどの大曲。

 1楽章は、静寂から始まり、グリッサンドしながら進行する不思議なオーケストラサウンドの導入を経て、管楽器主体により主題が呈示される。しかし全体としては、点描風で、偶発サウンド的な世界でもある。オーケストラサウンドの追求であり変容の一種ではあるが、水野の中でも独特の響きなように聴こえる。後半は、水野節の、息の長い旋律が復活してくる。厚いカオスとなって、収束(終息)する。ラストのバスドラの一撃が、マーラーの10番(クック版)を想起させるのは私だけではないと思う。
 
 2楽章は、緩徐楽章の役を担っている。

 響きはやけに暗い。以降の諸曲のような、明るい調子のものではない。不協和音を主体とし、完全に無調様式で書かれているということは、変容4部の前半のような意味合いがあるのかもしれない。無限の闇へ螺旋を描いてゆくような妙な感覚に襲われるだろう。
 
 3楽章はビートリズムの変容の収斂であり、全交響曲の方向性を決定づける初のリズム楽章として貴重なもの。

 変容の拡大性が、一気に縮小されている。

 さて音楽は、まだ遊びがないというか、マジメな部類というか? ノリが固い。そこも以降の曲と比べて興味深い。

 コーダになると、やや激しく踊り、打楽器のソロも大活躍する。
 
 4楽章はフィナーレであるが、1楽章の再現部も兼ねているのは、水野の交響曲を貫く指標でもあるだろう。

 2楽章を彷彿とさせる茫洋とした無調旋律が続くが、この暗い響きは1番の大きな特徴に思う。

 中間部より、曲風が変わって、暗→明というセオリーも護りつつ、しかしすぐに大きなカオスを再現し、そのまま、静寂に消え入る。
 
 というわけで私見だが1番は緩緩急緩という、一風変わった構成になっている点も聴き逃せない。


第2交響曲「佐倉」(1991)

 2番は、1番と連続して作曲されている。
 
 佐倉市民音楽ホールの委嘱によるため副題が佐倉とあるが、特に標題音楽ではないとのことです。しかし、佐倉市を含む北総地方の四季折々の情景が影響していなくもない、らしいです。
 
 下記にある3番・4番のCD解説に、交響曲という形式は、多様な種類の音楽をひとつの統一された表現体として構成するのに都合のよい容器である、とある。さらに、こう続く。
 
 「ひとつのテーマと楽想を中心に、ジャンルを越えて、様々なスタイルの音楽を同居させて、音楽のフルコースとして、聴く人を楽しませることができる。」
 
 この精神は、交響曲は全てを包括し、内在させるというマーラーの信念にそのまま通じるものだと思う。
 
 2番は4楽章制であり、作者によると、1楽章が全体の呈示、4楽章が再現。その間に、緩徐楽章の2楽章、リズム楽章の3楽章があるという構図。
 
 1楽章は1番と同じく、オーケストラサウンドそのものの表現であると同時に、主題の呈示とされている。水野の交響曲には、交響的変容を究めた後は、展開は既に無く、変容のみがあるのではないかとすら思える。調性と無調とが渾然となって鳴り響く様子、混沌と秩序が同時に存在している面白さ、などが、1楽章の特徴なように聴こえた。
 
 2楽章は、メロディーの変容のモンタージュなのだろうか。長い旋律が、無限的だが、必ずしも全て半音ではなく、ふつうに進行してくれるので安心して浸れる。しかし、なぜか、甘ったるくない。甘くても甘ったるくない。上質な菓子が舌にキリリと甘いように、耳にキリリと心地よく甘い。やや、しっとりとした、ハデではないが嬉しい高度な甘さだと思う。ヴィーンのチョコレートケーキのような甘さなのだろうか?
 
 3楽章はリズム楽章(昔の概念でいうスケルツォ楽章)であるが、水野は彼の追求した結果の「ビートリズム」を置くことを好む。彼の云うリズムは、日本的な伝統的リズムとかいうものも含めた、アフリカ起源のポップなリズムも内在した、ポリリズム全体であるらしい。ゆえに、ジャズから、民謡から、現代的な複雑なリズムまでが、リズムの楽章として、内在されて響いている。エイトビートで鳴る“わらべ唄”のリズム。イカス!!
 
 4楽章は再現部とのことだが、確かに、循環形式よろしく、冒頭が回帰する。この手法は、実は既に交響的変容で幾重にも折り重なり、積み重なり、格子状に入り組んで登場しているのが分かる。1楽章の呈示を受けての、オーケストラサウンドの膨張と爆発。さらには、これまでの変容の再現。

 その後は、雲の遙か彼方の光の洪水であり、光の沈む先は、黄昏と無常であるということのようだ。

 以上の構成が、ひとつのスタイルとして、1番以降、水野の交響曲全体を(今のところ)支配している。3番と4番も、その変形、発展、そしてさらなる変容だと云えるのではないか。


第3交響曲(1997)

 交響曲がもともと急緩急、あるいは緩急緩のシンフォニアを由来とするならば、3楽章制の交響曲というのは、実は古典的な形式なのだろう。
 
 この場合、たいていはスケルツォ楽章に相当する舞曲的な章が除外される。
 
 水野の3番は、リズム楽章としてフィナーレを兼ねる3楽章、クラスターと無調技法の2楽章、総合的サウンド主題とメロディー主題による疑似ソナタ形式の1楽章という構成。
 
 静かな開始より、水野のサウンド変容の技法が登場し、第1主題(本人によると、主題群だそうです。)を形作ってより、分厚い和声に支えられた、無限旋律的なメロディーが登場して、第2主題群となる。

 どちらも鐘の音が、登場や衰退のモチーフになっている。

 また主題群はただ呈示されるのみである。
 
 2楽章は作者の指摘通り典型的なクラスター楽章だが、電子音楽のような響きが面白い。いまやナマオーケストラが、逆に電子音楽を模したりする時代なのだろうか。湯浅譲二に通じる面白さ。

 後半は、無調旋律によるフガート的な対位法が試されている。それも面白い響きがする。

 さらには、圧縮されたカオスが到来する。
 
 3楽章は待ってましたビートリズム祭。相変わらず水野のジャズオーケストラはカッコイイ!!

 信号的なリズム主題が、ビートに乗って颯爽と鳴り渡る。しかも、サンバだ、民謡風だ、カーニバルだ! しばらく疾走して、1楽章がサッと再現されて、一気に潔く終了する。


第4交響曲(2003)
 
 最新の4番は、4楽章制に戻る。急・緩・緩・急の構成である。
 
 全体として特徴的なのは、急の部分は、水野のいつもの大規模なオーケストラサウンドの追求による1楽章と、ビートリズムを刻む終楽章ですが、中間部が、協奏的な2楽章、さらに無調と調性のコントラストを放つ3楽章で、その2種類の独特の緩楽章が異彩を放っているでしょう。
 
 1楽章はいきなり迫力のあるテーマにより、全合奏が凄く厚いサウンドを響かせて面白いが、またも一瞬の鐘のモチーフにより一気に展開して、2つ種類めのサウンドに突入する。この展開パターンは、3番……いや、交響的変容の1部にまで遡って原点を省みる事ができる。全体としては最も短い音楽で、導入というか、呈示部なのだろう。
 
 2楽章は、合奏協奏曲的な音楽で、ソロ楽器群が入れ代わり短いソロやアンサンブルを奏でる中、周囲のオーケストラが、それへ絶妙に和音を重ねたりリズムを重ねたりするもの。なかなか奇抜な音楽だが、耳には優しい。

 水野の中では、こういうタイプの静かな協奏的な音楽は珍しいかもしれない。

 けっこう中間部には武満っぽい響きもあって、面白い。
 
 3楽章は前章の続きで無調による緩徐楽章で始まるが、すぐに調性による美しく、儚いが爽やかなテーマが差し挟まれて、コントラストを成す。

 さらにそれの発展した中間部は、まったく素晴らしい上質の映画音楽のようで、また彼のオペラやミュージカルにも通じるであろう、まさにオーケストラによる最高級の歌の音楽だが、その途中で、ふと思い出したようにまた無調に返ってしまう。。。

 その儚さが、もの淋しく、また、爽やかな風が胸を淡くしめつける。
 
 さて、もう既に中毒のようになってしまった水野のビートリズム!!

 4番は4楽章がリズム楽章でかつフィナーレとなっている。

 今度は、しかし、リズムの中にも、メロディアスな部分がひそんでいて、楽しませてくれる。またまた1楽章の再現部を含んでおり、激しい無調の嵐を経て、鐘のモチーフが復活。しかもその後すぐに、パアーッ…と空中に溶けてしまうかのように終わる。
 
 水野のその潔さと儚さこそが、彼の云う無常観なのだろうか。 


 水野修孝は交響的変容で膨大な規模の変容の拡大した様子を示した後、それを交響曲という枠組み、器としてまとめあげ、ひとつずつ丁寧に収斂した様式としてまとめあげている。
 
 つまり、交響的変容の完成から、今度は交響曲が1作ずつ、それのさらなる無限変容として連綿とつながっているのかもしれない。
 
 水野の交響曲は、交響的変容より生じた、交響曲的変容なのではないかと、強く思った。
 



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