スヴェンセン(1840−1911)
ちょうどマーラーより20年も早く生を受け、同じ年に死んだスヴェンセン。チャイコーフスキィと同い年でもある。指揮者やヴァイオリニストとしても活躍し、いずれも堅実に仕事をしたようである。ノルウェーの出身だが、一生のだいたいをデンマークで過ごした。
作品は多岐に渡るが、オーケストラ作品が多い。交響曲が2曲ある。どちらも新古典的なブラームスふうの佇まいの中に民族的なエッセンスを有した、北欧版ドヴォルザークとでもいうべき、国民楽派的な趣のもの。
第1交響曲(1866)
かのグリーグへ、「自分は交響曲を書くのをやめよう」 と決意させた曲がこのスヴェンセンの1番である。と、いうのだが(笑) この曲の何をもってグリーグがそう思ったのか、甚だ疑問というか、面白い価値観だと思う。きっとその北欧情緒とドイツ式形式のうまい融合なのだと思うが。そもそもグリーグはそんな形式的な曲は得意ではなさげだし。ピアノ協奏曲も、形式より情緒が優先されているように感ずる。
それはそうと、そのグリーグも凹んだスヴェンセンの1番だが、35分ほどの実に堅実なブラームス的作りで、新古典派好きは問題なく聴ける。
モルト・アレグロで軽快に飛ばす1楽章。軽やかな第1主題、愁いを帯びた第2主題。リピートまでついた順当なソナタ形式。どこが北欧的かと言われれば、やっぱりその澄んだ空気感なんだろうか。技術的にどういう和声やオーケストレーションでそんなふうに聴こえるのかは分からないけども。聴く人の勝手なイメージの問題ではあるが、それが価値の1つであるのには間違いないと思う。展開部がイマイチ盛り上がらないのも、後期ロマン派とは一線を画す部分(笑) そこは音楽というより鳴り響く形式を聴くというそのもの。
そうなると、アンダンテの2楽章などは、純粋に音楽を聴くべきもの。ここでの雄大な景色や、冷たい叙情、陰鬱な情景、そしてその中にあふれる温かい人情は、まさにノルディックな「情緒」満点の出来栄え。そういうのは気分の問題であり、音楽は気分を表現しないが、聴く者の気分を操作する「効果」は、ある。
短いアレグレット・スケルツァンドの3楽章はお約束の民族的舞曲ふう。
マエストーゾ−アレグロアッサイ・コン・フォーコの激しい4楽章。火のような、という発想表記は、交響曲のラストをしめるのにふさわしい。とはいえ、火といっても南国情熱系ではなく、やはりそこは北方の凛とした透明な火だ。お堅いといえばそれまでで、音楽的発現や突破はけしてしない、味わい深い音楽的作曲技術を味わうもの。まあ、つまりシブイ。
全体的に楚々としたある種の控えめな感じが、微笑ましい曲。
第2交響曲(1877)
2番はより民族的な要素が濃くなっている。やはり4楽章制で35分ほどの、いわゆるブラームス型のスタンダード作品。より巨大で肥大して行くマーラー型の後期ロマン派交響曲とは進化の道が別れた新古典的・民族派交響曲。それはそれで、地味ながら確実に交響曲世界を開き、華を咲かせた。大輪ではないが、美しい可憐な華々を。
アレグロの1楽章、第1主題はより開放的で、民族的。芸術は、確かなる作曲技術の助けを得、民族的特徴を経て全人類的普遍へと到るという伊福部昭の論はこういう音楽で証明される。第2主題もまるで民謡だが、そこは和声の力を借りて芸術へ昇華される。西洋民謡は元々西洋音楽の1つなので、和声もつけやすいが、日本民謡に安易に西洋和声をつける事に反対する人がいるのは理解できる。
それでまた、どうしたって展開部は微妙(笑) これはもう、そういう伝統なのである。伝統的ソナタ形式は、提示部と再現部の「つなぎ」が展開部であるとしか思えない。それほどの展開のしなさ。そもそも西洋音楽の基礎は変奏にあるはずなのにな。展開部って変奏の一種だろ。ちがうの。
2楽章はまたもアンダンテ。しかし、1番よりじっくりと音楽は練り込まれる。あまり起伏は無く、緩徐楽章を聴かせてやろう、というベターなものではない。シブイ。
3楽章はオリジナル度が増えた、より民族舞曲的なアレグロ・ジュスト。ピョコピョコした動きが面白い。
4楽章はアンダンテ−アレグロ・コンフォーコである。またコン・フォーコか(笑) 火のようにったって、業火ではない。燃え盛るキャンプファイアーていど。鼻唄のような溌剌とした主題が良い。青春の雰囲気。第2主題は転調した第1主題の派生みたいな感じで、すぐに地味な展開部へ到るのだが、どちらかというと、同じような音楽が何回も登場するのでロンド形式かもしれない。この手の音楽に、カタストロフは無い。フィナーレもたいへんにお上品である。
2番は朗らかさと、天然系の明るさが売り。
前のページ
表紙へ