ベルリオーズ(1803-1869 )


 ハイドンもモーツァルトもベートーヴェンも、当時の聴衆からすればかなり前衛的な音楽を書いていた。しかし前衛度という点からいえば、このベルリオーズは度をこしている。

 彼のシンフニーはいくつかあるが、編成的にも、内容的にも、どれもこれも当時の常識を超越した破天荒な代物ばかりで、いま聴いても斬新な部分がある。と、同時に、なんとも耽美的なロマン的メロディアスな部分と、どうにも陳腐で聴いていてガックリくる部分も、ある。加えて、彼の特徴は、オーケストラ技術の確かさであろう。

 オーケストラのみによる情景描写。それは後の交響詩や幻想曲等の、重要な管弦楽音楽分野を先取りするもので、実に見事な手腕を見せている。このような表現は、彼が世界音楽史上で最も早く成功した人にも思える。

 ベルリオーズの交響曲では、交響曲といいつつも全てが標題音楽であり、マーラーのように全てを含んでおり、20世紀の音楽のようにいろいろな物が混じって響いている。ものすごく斬新なのであるが、斬新さと裏腹にものすごく雑な部分もあって、しかもそれが個人的な資質によっており、彼の打ち立てた交響曲像は、彼のあと直接的には誰もフランスで踏襲するものがなかった。

 あくまで孤高の天才としての、ベルリオーズの交響曲だといえる。


幻想交響曲(1830)

 ベートーヴェンの死よりわずか3年後に演奏されたというわりには、飛び抜けて斬新な音楽になっている。

 交響曲そのものが物語(内容)を有する標題音楽であるばかりでなく、ワーグナーに通じる、主題(旋律)と主人公が合体し、それが展開して音楽を形づくってゆく手法。そして交響曲にワルツが用いられるアイデア。もっともそれは舞踏会の場面であるから、結果論であるのだが。

 各楽章のつながりの無さと、全体で観て一体化して有機化している方法はやはりマーラーへ通じる。そして物語性のショッキングさ。こいつは、現代で例えると、なんなのだろう。とても若い監督が録ったとても未来的な映画とでもなるのだろうか。しかも、とてもウケた。

 そもそも、この交響曲というかこの人のとんでもないところは、ピアノが弾けないため、ギターで作曲し、そこからいきなりこのオーケストレーションというところだ。私はピアノも弾けなければギターも弾けなければ、まして作曲もできないので、ピアノの和声をギターでどうやって理解し会得したのか分からない。ギターではギターのコードしか弾けないと思うのだが、単音ずつ合わせて行ったのだろうか。少なくとも、アヘンをすったダウナー状態では、作曲は無理だろうということだ(笑)

 音楽そのものは、芸術性からいえば、特別そうでもないのだが、後の作家に与えた影響は、ベートーヴェンに匹敵するだろうし、なにより面白い。そしてこれは彼がほんの27歳のときの作品だということを考えると、シューベルトの未完成にも匹敵するほどの天才性を発揮していることに気付く。
 
 交響曲でありつつ、明確なプログラムがある点で、これは交響詩でもあり、標題交響曲である。標題は、当初の1845年版のスコアには観客にプログラムノートを配ること、とされていたが、1855年版のスコアには、ノートを配らずとも各楽章のタイトルのみでプログラムは省略可、となっているという。

 したがって、ここでも各楽章のプログラムを元に、紹介して行きたい。(プログラムは Wikipedia より転載)

 「病的な感受性と激しい想像力に富んだ若い音楽家が、恋の悩みによる絶望の発作からアヘンによる服毒自殺を図る。麻酔薬の量は、死に至らしめるには足りず、 彼は重苦しい眠りの中で一連の奇怪な幻想を見、その中で感覚、感情、記憶が、彼の病んだ脳の中に観念となって、そして音楽的な映像となって現われる。愛する人その人が、一つの旋律となって、そしてあたかも固定観念のように現われ、そこかしこに見出され、聞えてくる」

 第1楽章「夢と情熱」

 「彼はまず、あの魂の病、あの情熱の熱病、あの憂鬱、あの喜びをわけもなく感じ、そして、彼が愛する彼女を見る。そして彼女が突然彼に呼び起こす火山のような愛情、胸を締めつけるような熱狂、発作的な嫉妬、優しい愛の回帰、厳かな慰み」
 
 木管の導入より、絃楽でひっそりと鬱のテーマが示される。それから明るく、狂おしい情熱のテーマ。ソナタ形式。しばし第2主題である情熱のテーマが、短調でいかにも悩みえる青年の煩悶のテーマのごとく取り扱われる。やがて二発の総奏から曲想が激しくなり、アレグロへ。いやが上にも情熱度は増す。長い展開部が始まる。展開部に主幹が置かれているのも、後期ロマン派を思わせる前進性と感じる。作曲者の想い相手、女優のスミスソンを示す旋律が、ここではまだ愛らしく、華やか。特徴的な絃楽の上昇下降の楽想の後、雰囲気を変えて再現部(だと思う)に至る。後半部では否応なく盛り上がって、素晴らしく豪華な響きが演出される。ベルリオーズのオーケストレーション、どういうことだろう。ピアノが弾けなくても関係ないのか(笑) コーダは穏やかな夢見心地で。

 第2楽章「舞踏会」

 「とある舞踏会の華やかなざわめきの中で、彼は再び愛する人に巡り会う」

 舞踏会のシーンなのであたりまえだが、交響曲へ伝統的に挿入される舞踊音楽は、メヌエットからベートーヴェンがよりちから強いスケルツォを導入した。ここでベルリオーズはワルツを導入。その前衛度は、本人は自覚していなかったかもしれないが、当時としてはいかばかりか。交響曲の中のワルツがその後も一般化しなかったことを考えると、やはり異質なのだろう。

 複数台ハープの用法も当時としては斬新。まどろみの中から立ちのぼるワルツの夢。ワルツといっても言わばコンサートワルツであって、本当の踊りのためのワルツよよりもシンフォニックな構成。スミスソン旋律も現れ、主人公と踊る。三部形式というわけではなく、単純なロンド形式のような感じ。後半では盛り上がって、テンポも速くなり、突如として次の3楽章の牧歌も現れる。
 
 第3楽章「野の風景」

 「ある夏の夕べ、田園地帯で、彼は2人の羊飼いが「ランツ・デ・ヴァッシュ」(Ranz des vaches)を吹き交わしているのを聞く。牧歌の二重奏、その場の情景、風にやさしくそよぐ木々の軽やかなざわめき、少し前から彼に希望を抱かせてくれているいくつかの理由[主題]がすべて合わさり、彼の心に不慣れな平安をもたらし、彼の考えに明るくのどかな色合いを加える。しかし、彼女が再び現われ、彼の心は締めつけられ、辛い予感が彼を突き動かす。もしも、彼女に捨てられたら……1人の羊飼いがまた素朴な旋律を吹く。もう1人は、もはや答えない。日が沈む……遠くの雷鳴……孤独……静寂……」

 この楽章はちょっと楽想のわりに長く、冗長な嫌いがある。指揮者の岩城宏之も、エッセイでここを振るのが(退屈で)苦痛、というようなことを言っていた(笑)

 舞台上のコーラングレと、舞台裏のオーボエによって奏されるアルプス地方の牛追い歌(「ランツ・デ・ヴァッシュ」(Ranz des vaches))から始まる。まさに民謡クラシックの走りといえよう。やがてフルートと第1ヴァイオリンに主旋律が現れる。ゆったりとしたアダージョの中に、やがてチェロの低い旋律。それへ高音がからんでくる。牧童の葦笛であるオーボエも再び現れる。ゆったりとした後年のマーラーばりのアダージョの行き着く先は、孤独。楽器が少しずつ減って行き、テンポも落ちてゆき、野は枯れ野となる。葦笛に応えは無く、相手はどこにもいない。不気味なティンパニの雷鳴のみが、その答えだ。

 嵐がやってくる。地獄への招待の嵐が。

 第4楽章「断頭台への行進」

 「彼は夢の中で愛していた彼女を殺し、死刑を宣告され、断頭台へ引かれていく。行列は行進曲にあわせて前進し、その行進曲は時に暗く荒々しく、時に華やかに厳かになる。その中で鈍く重い足音に切れ目なく続くより騒々しい轟音。ついに、固定観念が再び一瞬現われるが、それはあたかも最後の愛の思いのように死の一撃によって遮られる」

 交響曲にワルツは斬新であったが、交響曲に行進曲も斬新だ。ただしこれは、ベートーヴェンが第九でやってのけている。ここでの行進は、英雄の行進でも、トルコ軍の行進でもなんでも無い。地獄の悪魔達が亡者を牽きたてる、悪夢の行進だ。

 行進のテーマが不気味に提示され、やおら勇ましく行進が始まる。行進は音を重ねに重ね、悪魔たちが主人公を小突き、荒々しく進行する。一瞬、葦笛が鳴って、最後に重々しくスネアドラムが鳴り、ギロチンに到着する。

 演奏時間的にも4〜5分ほどしかなく、間奏曲あるいは次の楽章の導入部としての役割が大きいと思う。

 第5楽章「魔女の夜宴の夢」(ワルプルギスの夜の夢)

 「彼はサバト(魔女の饗宴)に自分を見出す。彼の周りには亡霊、魔法使い、あらゆる種類の化け物からなるぞっとするような一団が、彼の葬儀のために集まっている。奇怪な音、うめき声、ケタケタ笑う声、遠くの叫び声に他の叫びが応えるようだ。愛する旋律が再び現われる。しかしそれはかつての気品とつつしみを失っている。もはや醜悪で、野卑で、グロテスクな舞踏の旋律に過ぎない。彼女がサバトにやってきたのだ……彼女の到着にあがる歓喜のわめき声……彼女が悪魔の大饗宴に加わる……弔鐘、滑稽な怒りの日のパロディ。サバトのロンド。サバトのロンドと怒りの日がいっしょくたに」

 いよいよ首をちょん切られて死んだ主人公は、サバトに紛れ込む。重苦しい導入部より、ぴょんこぴょんこ、という変なリズムで祭は始まる。合間合間に騒がしい哄笑。怒りの日の主題の断片も提示される。弔いの割れ鐘が鳴って、いよいよ怒りの日が低音(当時はオフィクレイド)で現れる。ここらへんの悪趣味なパロディーは、まさに後年マーラーが好んで使う手法だ。一種のフガートとなって、主題がくり返される。かつて愛した女性の主題が魔女となって変わり果て、狂乱じみた踊りを踊る。まさに醜態だ。怒りの日のテーマが最大限に鳴らされて、宴を盛り上げる。ざわざわというコルレーニョ奏法も冴える。そしてまた怒りの日が重厚に現れてよりコーダ、祝祭的な気分となって、曲を閉じる。


交響曲「イタリアのハロルド」(1834)

 私は幻想よりこっちのほうがだんぜん好きかも。

 まず無駄が無い。すっきりして、響きも管弦楽法も上達している。しかも、独奏楽器をくわえつつ、交響曲であるという斬新さも褪せていない。ハロルドを現すのは、ヴィオラ独奏なのである。渋い。

 協奏曲でなく交響曲であるという理由に、作家がそう言っているというのとは別に、造形としての確かさやストーリー性としての音楽進行をソロの出番より優先させ、あくまで交響曲の中の響きのひとつであるというスタンスを貫いていることでよく分かる。これは、20世紀の作曲家の技法ではないか。交響曲の中にオーケストラの中の1楽器としてピアノが入ってきたり、コンマスがソロを弾いたり。当時の協奏曲といえば、パガニーニやリストに代表されるように、超絶技巧奏者が狂ったように楽器を弾いてお客を酔わすというのがウケテいた時代。このような渋い音楽が、どこまで通用したか。しかも、これも標題音楽なのである。

 ベルリオーズの回顧録によれば、これはそのパガニーニがヴィオラ独奏を担当する協奏曲的な規模の大きい作品として依頼されたが、ヴィオラの扱いが期待通りの超絶技巧ではなかったため、パガニーニが落胆し、その話は無しになったが、後日、当曲を聴いたパガニーニが感動してベルリオーズに大金を送ったというが、信憑性に欠けるとのことである。

 バイロンの破天荒な物語は、後にチャイコフスキーも、マンフレッド交響曲で音楽化した。チャイコは5番交響曲でスケルツォの代わりにワルツを採用するなど、ベルリオーズの影響が大だと思う。また、長編詩「チャイルド・ハロルドの巡礼」による物語の舞台であるイタリアのアブルッツィという土地は、ベルリオーズ本人がローマ大賞を受賞した際に、訪れたところということで、ベルリオーズはハロルドを自身に置き換えている、という見方もある。

 4楽章制で、40分ほどもある。幻想と作曲年代が近いが、地味で特異な作風のため、幻想ほどのメジャーな地位を確立していない。しかし、素朴な旋律や面白いしっかりとした奇をてらってない本格的な構成、そしてそのうえでやはり斬新な部分がたくさんあるところなどで、かなり通好みの1曲といえる。

 各楽章には、タイトルめいた文章がある。1楽章で登場するヴィオラのソロが、ハロルドの主題を提示する。が、完全に独奏ヴィオラは協奏的なソロ楽器というより、交響曲の中に登場するたまたまソロという役割を与えられたパーツでしかない。そもそも4楽章でハロルドは山賊に殺されてしまうため、登場しなくなるのは理に適っている。このストーリーは、バッドエンドという点でも興味深い。なぜなら、幻想交響曲も事実上そうだったけども、交響曲は苦難から歓喜(勝利)へ到るというベートーヴェンの道筋を、この1830年代というベートーヴェンの死より数年後の時点で否定し破壊しているから。

 第1楽章「山におけるハロルド、憂愁、幸福と歓喜の場面」

 ソナタ形式。おどろおどろしい導入部が、山中のハロルドを思い起こさせる。標題音楽であるため、イメージ重視の聴き方をしても許されるだろう。やがて、ヴィオラの優しいソロが入ってくる。この鄙びた美しい旋律が、ハロルド主題にして第1主題。ハープの伴奏を得て、ハロルドはしなやかに踊る。優雅な舞踊はしばし、しっとりと第1主題の展開として続く。続いて絃楽からオーケストラで登場するのは第2主題。だと思う。その後はオーケストラとヴィオラがやりあって、かなり協奏曲っぽい展開。順当に盛り上がって、一時休止のような部分を経て激しいコーダに突入し、勢い良く終わる。

 第2楽章「夕べの祈祷を歌う巡礼の行列」

 山中の黄昏時にハロルドは、山の巡礼の人々の歌う聖歌の行列を眺めやる。美しい巡礼の歌が、しっとりと歌われる楽章。ヴィオラのソロもまだ登場するが、オーケストラに寄り添うような感じになる。ヴィオラの渋いオスティナートの音色が、まるで催眠術めいて迫ってくる。それへ、また巡礼の聖歌が重なる。緩徐楽章にしては、やや雰囲気が変わっている。巡礼の一行は次第に遠のいて行き、やがて消える。一人残るは、ハロルドのみ。

 第3楽章「アブルッチの山人が、その愛人によせるセレナード」

 セレナードながら、舞曲っぽいので、スケルツォ楽章に相当するものだろう。「毎年クリスマスの頃、アルブッチの山中からローマにやってくる牧童が吹奏する民謡を転用している」 とのことである。明るい調子の、6/8拍子の速い部分と、3拍子のゆるやかな部分とが交錯する。やがてヴィオラも優雅な踊りを披露し始める。冒頭に戻って、速い部分が繰り返される。そこへ再びヴィオラがからんでくる。ここも、消え入るように終結する。

 第4楽章「山賊の饗宴、前後の追想」

 激しく荒々しい、幻想の後半楽章めいた導入部は山賊の饗宴。その饗宴の合間合間に、1〜3楽章の主題が順に回想される。これは完全に、第九の影響だろう。まるパクリではなく、ちゃんとベルリオーズ流に昇華されているのがさすがであるが。ハロルドは山賊に掴まって、走馬灯のごとく自己を追想する。山賊の饗宴は、さすがにサバトほど派手ではないが、なかなかな乱痴気ぶりではある。ハロルドの追想が余話弱く不安げに挟まる。ついにハロルドは死を迎える。劇的ではなく、やっと登場するヴィオラのソロが、瀕死のハロルドを表す。が、それも一瞬であり、山賊達の勝利の宴が待っており、華々しく山賊の勝利で終わる。

 のだが、確かに幻想に比べたら地味すぎて盛り上がりに欠け、スッキリしないのは、理解できる(笑)


劇的交響曲「ロメオとジュリエット」〜合唱、独唱及び合唱によるレチタティーヴォのプロローグ付劇的交響曲(1839)

 ここでいう劇的とは、本当に 「劇のような」 という意味だと思われる。音楽自体は、ぜんぜんハデでない。いわゆる慣用句的な意味合いの 「ドマラティック」 ではなく、本来の、劇のような交響曲という意味だろう。

 ロメオとジュリエットに関して、クラシック音楽世界では高名な音楽が3つある。ひとつはチャイコフスキーによる幻想序曲「ロメオとジュリエット」 で、もうひとつはプロコフィエフによるバレー音楽「ロメオとジュリエット」。最後が、このベルリオーズの劇的交響曲「ロメオとジュリエット」 というわけだが、いま述べたのはおそらく高名な順番。最も早くロメジュリを手がけた者の音楽は、いま、ちょっとマイナーに甘んじている。
 
 なにせ長いのと(90分以上)内容が渋いため、やはり一般ウケはしないだろう。当時はとても成功したようで、パリに漂泊していた若きワーグナーも、これを初演で聴いて感動しているとのこと。またワーグナーの怪物たるゆえんは、聴いてもう、ベルリオーズの弱点を発見している点だ。かれはこの曲(の第3部)をこう評したという。

 「まったく素晴らしい旋律の間に、屑の山が積みあげられている」 
 
 合唱・独唱入りの長大な交響曲といえば、まっさきにマーラーが浮かんで来ようが、ベルリオーズのほうが先輩だ。しかしこの劇的交響曲において、合唱や独唱は、どちらかというと筋書きの朗読に近い。
 
 全体は7部構成で、内容が定められている。
 
 第1部「序奏」

 1部はさらに、4つの部分に別れている。CDではそのようにトラックが別れているものもあるだろう。

 ・争い、騒動、領主の仲裁

 まず、序奏としてモンターギュとキャピレット両家の争いを暗示する音楽でいきなりはじまる。バレー音楽のようなリズミカルな部分。それから金管による重々しいコラールで、公爵の仲裁がはじまる。

 ・プロローグ:コントラルトと小合唱「眠っていた古い憎しみが」

 それが静かに終わると、合唱がレチタティーヴォ。コントラルトによる呪文めいた解説も始まる。薄い編成の伴奏もあり、オペラ風の音楽が続く。

 ・ストローフ:コントラルト「忘れようがない、はじめての熱狂よ」

 ハープを伴奏にして、コントラルト独唱。美しい歌曲がしばし続く。後半には弦楽も伴奏に加わり、実に良い雰囲気。

 ・レチタティーフとスケルツェット

 ここは、テノールと小合唱「まもなくロメオは物思いに沈んで」〜テノールと小合唱「マブよ、夢のお遣い」 〜小合唱「やがて死が統べ括り」  と、3分半から4分ほどの部分だが、細かく音楽が情景を説明して進んで行く。

 第1部は解説場面が多く、交響曲的な響きとしては、あまり面白みがないかもしれない。オペラの演奏会形式を聴いているような気分になる。

 第2部「ロメオひとり〜かなしみ〜遠くにきこえる音楽会と舞踏会の音〜キャピレット家の宴会」

 いよいよここから、オーケストラの饗宴がはじまる。描写音楽というか、情景描写の達人ベルリオーズの真骨頂といえる。タイトル通り音楽が進むと思っていただければよい。それってすごいことだ。沈み込みながらも美しい、狂おしいほどの愛を求める心情の吐露。オーボエのソロによる物憂げな旋律へ、重々しく不気味に重なってくる音も面白い。舞踏会の場面は幻想にも出てくるが、ベルリオーズは上手だと思う。それはやがて、打楽器の鳴り物も華やかな宴会の音楽として結実する。13分ほどの楽章となる。

 第3部「澄みきった夜〜静かで人気のないキャピレット家の庭〜キャピレット家の若者たちが宴の間を出て、舞踏会の音楽を口ずさみながら通りすぎる〜愛の情景」

 長いタイトルだが、音楽もその通りに進行して長い。この楽章だけで20分ほどもある。まさにマーラーの3番の先取り! 解説によってはオーケストラのみともあるが、私のCD(コリン・デイビス/ロンドン響他)では、冒頭に解説代わりの合唱が少しだけ入っている。

 ここの旋律の美しさといったら、忘我の境地。完璧に後期ロマン派のアダージョ楽章だ。時系列的には、ベルリオーズはロマン派の走りのはずなのに。ほとんどが夜の情景で占められている。最後の方になると、やや音楽に動きが出る。ロメオとジュリエット、二人の逢い引きの場面なのだろうか。やがて音楽は愛の満足感、充足感に包まれて、たっぷりと音楽に浸ったまま、楽章を終える。

 第4部「マブの女王または夢の妖精」

 なんとここで、ロメオとジュリエットの物語にはなんの関係もない音楽が、7分ほどの、スケルツォ楽章の間奏曲として登場する。しかし、私よりベルリオーズにくわしい他者の解説を参考にすると、第3部が愛の場面で、5部がもう2人の死の場面。はしょるにしてもあまりにはしょっているこのふたつの場面をつなぐ、まさに 「間奏」 として、実によくできたものなのだそうな。云われてみればそうかな? というところだが。終始控えめな、木管が活躍するひっそりとしたスケルツォ。途中で異様な盛り上がりを一瞬だけ見せるも、やはりひそひそとした不思議なスケルツォのまま、ふいと終結する。

 第5部「ジュリエットの葬送」

 高名な場面。葬送行進曲は西洋音楽の重要なファクターで、ワーグナーもこの後指輪でジークフリートの葬送行進曲を書き、プロコフィエフの同場面も記憶に残る。そもそもベートーヴェンの3番のそれは、不朽の名作ときている。葬列、ということなのだが、日本ではお経なので、いかにも西洋的な響きだといえるだろう。キャピレット家の合唱「花を撒け、みまかれる処女のために!」  という合唱入り。10分ほどの音楽。

 しめやかなオーケストラから始まる。静かに、葬送の合唱が入ってくる。合唱は終始、美しいがひっそりとした音楽を奏で、伴奏もけして盛り上がらない。ここではベートーヴェンのそれとはあえて正反対にしたような、女性的なともいえる葬送行進曲が示される。いや、これは行進曲とすら言えないかもしれない。

 第6部「キャピレット家の墓のロメオ」

  祈り〜ジュリエットの目ざめ〜忘我のよろこび〜絶望〜最後の苦しみと愛しあう二人の死 

 これまたなんとも長い場面が、めくるめくオーケストラで繰り広げられる。ここは描写音楽であり、標題音楽でもある。交響詩曲とも、交響詩とも幻想序曲とも、後世のいろんな情景描写音楽の原典がここにあるだろう。今交響曲の白眉であり、8分ぐらいしかないけれども、それだけで、上記の場面を網羅している。ここは、文句無しにすばらしい。
 
 序奏から、ホルン(だと思う)の長い旋律。それが納まると、低弦とか細いクラリネットの呼びかけあい(ここがジュリエット目覚めか?)があって、激しい歓喜となる。それもあっと言う間に終わって、歓喜は絶望のドン底へ。哀しげな木管の響きが死を象徴する。

 第7部「終曲」

 ここも細かく分かれている。

 ・人々は墓地に駆けつける:モンタギュー家の人々の合唱「何だと! ロメオが戻った! ロメオが!」 

 力強いファンファーレから、力強い合唱。♪ロメオ〜ロメオ〜! ここは短い。一瞬で静まって次へ。

 ・ロレンス神父のレチタティーフとアリア:ロレンス神父と合唱「わたしが不思議をといて進ぜよう」

 何様ロレンス神父様のお説教である。レチタティーヴォによる解説再び。ロレンス神父の独唱が延々と続く。

 ・ロレンス神父と合唱「かわいそうな御子たちを悼んでわたしは泣く」

 どこが境目なのか良く分からないが、とにかくロレンス神父は歌い続けて、訴え続けるのである。

 ・キャピレット家とモンタギュー家の口論:合唱「だが私たちの血が彼らの剣を赤く染めている」

 激しいアレグロが、口論を表す。表していると思う。

 ・ロレンス神父の祈り:ロレンス神父、合唱「黙りなさい!」

 ロレンス神父、またも大説教開始。

 和解の誓い:ロレンス神父、合唱「では誓いなさい。神聖な御印にかけて」

 ここにきて和解を促すロレンス神父。主人公は実はおまえなのか? という勢いだ。オーケストラも盛り上がって、合唱も和解の歌を高らかに歌い上げて、存外あっさりと終わる。

 とにかくこの終楽章というか、最後の部分はロレンス神父が大活躍する。長々やってきた劇的交響曲も、ついに終わりを迎えるわけだが、ここだけ、本当にオラトリオ。もしくはオペラ。正直いうと、壮大なるエンディングではあるのだが、ここもまた、何を云っているのかさっぱり分からないレチタティーヴォを延々と聴いて、しかもラストも他にいろいろな壮大な曲を聴いてしまった後の耳ではいまいち盛り上がりに欠け、私としては、あんまり面白くない(笑)

 ここまで聴いて、気付く。ベルリオーズという人は、マーラーよりもまとまりがない。それは斬新さというのか、作曲が下手というのか、アタマの構造が常人の作曲家とちがっていたというのか。私には分からないが、とにかくベルリオーズというヤツは天才の才の部分が大きなウェイトを占めて作曲をしていたのではないか、と強く感じる次第だ。

 が、特にこの作品においては、意図的に音楽的な常套の構成を無視して、つまりわざと音楽的な交響曲としてのまとまりを無くして、劇のような散文的な効果を狙っているふしもあるので、侮れない。


葬送と勝利の大交響曲(1840)

 え、こりゃなんじゃ?? と思った人もいるかもしれない。私も、そう思った。ベルリオーズにこんな「シンフォニー」が?

 しかもこいつはなんと、ブラスバンド曲。※ただし原曲
 
 1840年、7月革命(1830)の10周年記念作品として、フランス共和国政府より委嘱をうけ、作られた。野外演奏会用の大編成ブラスバンド。後に、弦楽と合唱が 「オプション」 としてくわえられたが、私は原曲しか聴いたことはない。3楽章制で30分少々をかけるブラスバンドにしては長大な曲。

 第1楽章「葬送行進曲」
 第2楽章「追悼の辞」
 第3楽章「凱旋行進曲」

 全体の2/3ほどを有し、20分近くある第1楽章は、長大な葬送行進曲で、葬送の小太鼓を伴って、静かに静かに、ゆっくりと盛り上がってゆく。ここは革命のために命を捧げた英雄たちを偲び、運ぶ葬送の場面であり、勇ましく、重厚で、栄光的でなくてはならない。ベルリオーズの音楽は見事にそれへ応えている。木管楽器の沈み込む、陰鬱にして美しい旋律が第1主題として続き、金管も重厚さを和声で加えてくる。やがて明るい音調も第2主題として入ってくるが、突如として重苦しい悲劇に遮られる。木管による力強くも物悲しい旋律の展開。ベートーヴェンのそれとは明らかに異なる手法による、ベルリオーズ流の葬送行進曲。中間部でその旋律が金管と打楽器により、大きく盛り上がる。そこに木管も挟まりつつ、頂点を成す。が、その後も何度も頂点は訪れる。第2主題も続けて展開され続ける。そこへ第1主題も乗ってきて、コーダも展開しつつ、長大な葬送行進曲は最も盛り上がって幕を閉じる

 正直、楽想の割にちょっと長い。そこもベルリオーズ流。

 追悼の辞は、解説によると、自作の歌劇「宗教裁判官(序曲だけ出版)」 よりワンシーンを借用し、声楽パートをトロンボーンのソロで吹かせている。トロンボーンはレチタティーボからアリアへと続き、バンド(オーケストラ)が伴奏と合唱部分を担当しているという。この時代はまだトロンボーンは新しい楽器で、容赦なくその可能性を追求している前衛性に、私は強く感心する。墓へ霊体が降ろされる場面である。演奏時間は6分ほどの、ほとんどトロンボーン協奏曲といっても良い楽章。

 序奏から、すぐにトロンボーンが悲歌を歌い始める。もともとオペラの独唱部とはいえ、メロディーラインがしっかりしており、しかもトロンボーン。なかなか現代的な響きがする。江戸時代末期の作品とは思えない。

 ほぼアタッカで、第3楽章へ。作曲者の構想によると、最後の凱旋行進曲、または昇天は、墓穴が閉じられ、墓石の柱がたてられると、そこには翼をひろげた自由の女神が天高く舞い上がる姿が描かれているのだが、それはまるで自由を求めて死んでいった人々の魂を現しているかのようで、それへ捧げられる讃歌となっており、輝かしいファンファーレで始まる。ファンファーレは、作曲者が云うには、このように響かなくてはならないという。

 「大天使を呼ぶトランペットの音色のように、シンプルに、だが崇高に、羽根が生えたように、武装したように、響きわたり、巨大な音で、地上と天上に向かって天空の門を開くと宣言するように響かなければならない。」

 そ、そんなこと云われたって……(´Д`;)

 そんなように響くかどうかは分からないが、勝利のファンファーレの後、輝かしい凱旋の歌が始まる。原曲であるブラスバンド曲ではさすがに地味な響きだが、オーケストラに合唱がつけば、さぞや盛り上がるだろうという楽想だと思う。管楽器の使い方が実に心憎い。いきなり幻想交響曲などを書き上げてしまうベルリオーズの見事さだろう。ファンファーレ主題をかっこよく展開して行き、最後は転調して一気に盛り上げ、歓喜と栄光が大爆発して終わる。

 この膨大な祝典記念曲は、長すぎたためか、野外演奏会での初演のとき、なんと強い日差しに疲れた200人もの演奏者が、3楽章の途中で演奏を放棄、勝手に太鼓を連打して鼓手を先頭に行進して退場してしまったという(笑)

 しかも、ベルリオーズはそれを予期して(!)おり、最終リハーサルにお客さんを呼んでいて、既に喝采を受けていたというのだから、呆れるというか、驚きである。






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