プロコーフィエフ(1891−1953)
好き嫌いは別にして、最近、作曲家としての腕前だけを観るならば、プロコーフィエフはショスタコーヴィチより上なのではあるまいか、と思っている。その理由は、ショスタコーヴィチよりもずっと多様な音楽を書いているということ、そしてショスタコーヴィチより当局への音楽的すり寄りが上手なこと、さらにその内面的に深い表現がショスタコーヴィチより音楽としての説得力があるということ。それらをふまえて、甲乙つけがたいとは思うし比べるものでも無いのかもしれないが、単純にそう思うのだ。
プロコーフィエフの純粋な旋律の見事さは、バレー音楽「ロメオとジュリエット」や、子どものための数々の音楽、例えば「ピーターと狼」の他、映画音楽からは「キージェ中尉」などを聴いてみてもすぐに分かる。その多様性と一種一種の質の良さはショスタコーヴィチと比べられるものではない。(数としてはショスタコーヴィチの方が上かもしれないし、ショスタコーヴィチの映画音楽や劇音楽のすばらしさもよくよく認めるところであるが。)
加えてプロコーフィエフの前衛制といえば、これもまたショスタコーヴィチより激しいものがある。確かに、同じ交響曲だけを観ても、ショスタコの2番などは前衛の極みだ。同じくプロコの2番も前衛の極みと云えようが、より挑発的挑戦的なのはおそらくプロコだろう。
室内楽においてもピアノソナタは、ショスタコの弦楽四重奏に匹敵する深さだろう。
前置きが長いが、そのようなわけで、前から有名どころはチラチラと聴いてはいたのだが、最近にわかに掘り下げてプロコーフィエフの音楽(正確には交響曲)を聴くようになった。そして気がついた。この人、ショスタコよりずっとずっと省みられていなぞ、と。
ポストマーラーだとかヘーだとかいうことで、にわかに全集なんて作られるまでに到ったショスタコーヴィチと比べて、量的には劣るかもしれないが質的になんら劣ることの無いプロコーフィエフの交響曲全集の、なんと少ないことよ。1作1作の価値でいえば、ショスタコよりもその質はむしろ高いかもしれない。
猫も杓子も1番と5番で、これはショスタコよりも厳しい状況だと云わざるをえない。CD屋でCDをじっさいに確かめてもらいたい。かなりおサムイ。
しかし無いものはしようがない。これから増えることを願いつつ、そうなるよう皆さんに少しでもプロコーフィエフの交響曲の魅力をお伝えできれば、などとおこがましくも思う次第。
第1交響曲「古典的」(1917)
亡命前に、わざとピアノなしで作曲されたという初めての番号着き交響曲。ハイドンの技法をもって現代的に作曲された音楽として、特に新古典的な名曲として名高い。ストラヴィーンスキィの新古典技法による諸曲よりも、むしろ古風といえる。
だが中にひそむ和音や転調のゲンダイさは、やはりプロコーフィエフであるとのこと。
小規模だし聴きやすいので録音も非常に多いが、仕事としては、特に目立ったものではない。しかし、実はどんなに前衛的な作品においてもその実メロディアスな部分がとても目立つプロコーフィエフの作品を俯瞰してみると、プロコーフィエフを現代(近代)のモーツァルトだという意見にはまったく賛成する。その意味において、まさにプロコーフィエフらしい典型的な音楽だともいえるのではないか。
そんなに深い意味合いは感じられない、作曲者にとってもけっこう気楽に作曲したもののように思える。
第2交響曲(1925)
日本を経由してアメリカに亡命したプロコーフィエフだったが、しかし、アメリカは当時音楽的な後進国で、非常に保守的だったとのこと。(アイヴズが自身の前衛的な作品を発表するのをあきらめ、兼業作家になった時代。)
プロコーフィエフはアメリカでの活動に失望し、パリへゆく。こんどはパリではフランス6人組が全盛で、負けじとモダニズム全開作品を発表したが、お客の反応はまるでなし。天才は生まれて初めて自信を喪失したのだった。
「鉄と鋼の交響曲」として知られるこの2番は、非常に魅力的であり、その不協和音と破天荒な構成や曲想で凄まじくゲンダイオンガク的だが、内実されるロシアのメロディアスな部分や、ベートーヴェンを模したという外見に注目すると、意外にも古典的な性格をもっていることに気付く。
この作品からこそプロコーフィエフのシンフォニーが始まったといってもいいかもしれない。
聴いたことない方のためにざっと概略を説明すると、2楽章構成で、第1楽章はアレグロのソナタ形式。第2楽章は主題と6つの変奏によるヴァリエーション。CDによっては2楽章をテーマごとにトラック分けしたりしなかったりだが、本質的には2楽章しかない音楽。
警告的で挑戦的なファンファーレが炸裂して始まる1楽章は、それだけで顔をしかめる人がいるかもしれない。厚く重ねられた不協和音がそれへ拍車をかける。しかし、時折そんな嵐の中より顔をのぞかせるロシアふうの旋律が、なんとも魅力的。攻撃的で疾風怒濤という言葉がまったくよく似合うこの楽章は、プロコーフィエフの面目躍如たるもので、スキタイ組曲より激しい。
2楽章の主要主題は、暗く瞑想的でメランコリックなロシアの曇り空を現すようなもので、これは日本で思いついた主題だという。その主題をアレグロやラルゲットで第1から第6まで変奏し、時には非常に攻撃的になる。最後にまた主題が奏でられて、静かに幕を閉じる。
純粋音楽としてまったくもっと高い評価を与えられてしかるべきなのに、マニア曲扱い。
なんともはや……。
第3交響曲(1928)
プロコーフィエフは亡命期間を長く西ヨーロッパで過ごしていたが、そのとき最も長い年月をかけて作曲されたのがオペラ「炎の天使」であるという。しかし、そのオペラは完全な形で上演される機会を得なかった。抜粋版とかは上演され、好評だったとのことだが、オペラの中の主題の幾つかがそのままソナタ形式に転用できることを発見した作家は、当初スキタイ組曲のようにオペラの中の音楽を使って組曲を書こうとしていたがそれをやめ、主題を利用して交響曲第3番を書き上げた。
しかしこれは交響曲「炎の天使」ではない。そうではなく、炎の天使の素材を利用したまったく新しい音楽であるようで、作曲者はこれは純粋にただの交響曲として鑑賞される事を望んでいる。
実は2番はその前衛制で、探せば録音がまだあるほうで、3番4番となるとまず無い。店頭にあればみっけものだ。全集の中に含まれているか、それからの分売がたいていで、個別で録音する人はちょっとみかけないなあ。(うんと探せばそりゃいるだろうけど。)
しかし3番もなかなか激しい音楽で、全4楽章と2番よりも伝統的な手法で書かれているのだが、内容に関しては2番に負けていない。それはやはり炎の天使という音楽がそうだったから、3番シンフォニーもそうなのだろうと考えるのが妥当だ。ヨーロッパ時代のモダニズムと叙情性がまったく見事に融合したプロコーフィエフ節がもっとも素晴らしく結実している音楽としてとらえられている。
鐘を伴う刺すような不協和音で奏でられる序奏の後、すぐに静かな第1主題、同じく物静かだが中低音の第2主題と続く。これらの主題が、炎の天使からとられているというわけ。主題は静かだが、激しく展開する。
2楽章においても炎の天使の1幕より主題がとられている。前楽章とうってかわって、物静かで神秘的な音楽。
3楽章がまた不思議な響きで、弦楽がニュルニュル動くのが奇々怪々たる独特のニュアンスを醸しだしている。トリオはふつうなんだけど、最後は金管の嘆くような旋律。
終楽章においてまず重々しく鳴らされる主題はオペラ第2幕より悪魔の主題。ドラの一撃より高音で弦楽が第2主題を弾きだすが、なんとも戦闘シーンを彷彿とさせる。展開部になり緊張感ある静寂が来るが、それはドラマの全段階にすぎず、物語は突如として怒濤の滝のようなクラスターから下降系の終結で呆気なく幕切れとなる。
3番は作曲者もお気に入りだったようで、確かに、5番なんかよりぜんぜん味わい深い隠れた名曲だと思う。技法的には5番のほうが優れているかもしれないけれども。
第4交響曲(改訂版)(1947)
3番と4番は同じカテゴリーに含まれるシンフォニーといえる。なぜなら、こちらはバレー「道楽息子」からの音楽を利用して構成されているからだ。またこのバレーは全曲も組曲も残っているので、聴き比べるのも一興だし、なおかつ、4番は作曲されてから後年に改訂され、大きく変貌しているので、原曲版と改訂版を聴き比べるのも一興だろう。
作曲者の弁によると、改訂版はまったく形を変え、第7交響曲に等しいともいえるという。別物なら、聴いてみなくてはなりませんねえ。なんてったって時間が倍になってるんだから、そりゃその分創作部分も増えてるわけだし。6番作曲後に改訂してるから、7番に等しい、という意味です。
しかし、いまは改訂版のほうが録音数があると思います。とりあえず、改訂版から聴きましょう。
長い序奏の後にプロコーフィエフの実は得意なマーチによる第1主題。それからフルートがメインで第2主題。これらが、スケッチされたが使われなかった「道楽息子」のための音楽によって作られているとのことである。展開部で絶妙なそれらの主題の「からみ」を聴いて、壮大なエンディングへ! と思ったら、それは展開部の終わりだった。再現部の後、なんとも微妙な不協和音を伴って、マーチのコーダ。非常に充実した楽章。
2楽章は芸の細かいアンダンテです。
3楽章も芸がすごい細かいんだけど、ちょっと分かりづらいかなあ。その芸の細かさが。
4楽章はおどけた主題がロンド形式に展開する、明るい楽章。
正直、2楽章からあとは、わたしはあまり感動がありましぇん。というより、長くてクドイ。
というのも、主題が、3番はオペラから転用されたが、こちらはバレー。リズムが、やはり踊るためのリズムであり、交響曲へするには、私は、すごく違和感があるのです。
第4交響曲(原典版)(1930)
そもそも、この4番は原典と改訂でまるで姿の異なる曲であるというのは作曲者の弁。時間数だけで改訂は原典の倍。それはもはや演奏自体の云々を超えた、創作部分の多さを物語っている。
参考
原典版 | 改訂版 | |
作品番号 | Op47 | OP112 |
年代 | 1930 | 1947 |
第1楽章 | 6:27 | 14:31 |
第2楽章 | 5:52 | 9:38 |
第3楽章 | 4:10 | 8:05 |
第4楽章 | 6:32 | 10:38 |
トータル | 23:08 | 42:52 |
原典版 ヤルヴィ/スコティッシュナショナル管弦楽団(シャンドス CHAN8401)
改訂版 小澤/ベルリンフィルハーモニー管弦楽団(グラモフォン 431 614-2)
各楽章において、素材そのものは、原典もそれを改訂したものも(あたりまえだが。)変わらないので、まるでちがう曲というほどでもない。しかし、やはり、そうは云ってもまるで姿を変えているのはたしかなところ。
この一見、矛盾するところは、核の部分が同じちがう曲、という意味で腑に落ちるだろう。原典版は不評だったということだが(だから改訂した。)個人的には、こちらのほうがスッキリしていて、好きだ。まるで1番に通じる新古典主義の交響曲そのもので、非常にアッサリしている。主題がバレーのものであり、交響曲というよりかは、たしかに、組曲のような雰囲気の音楽といえる。それが不評の原因だったとしたら、プロコ先生、やおらハリキッテ構造的欠陥を補筆し、創作し、書き直した。
しかし改訂版は、作曲者の生前には演奏されなかったとのことである。
1楽章では、改訂版ではまず序奏が大幅に改修されており、長大になっている。その後の展開も、よりシンフォニックに改造されていて、かなり濃い。この1楽章だけは、改訂版のほうがすばらしく聴きごたえがある、ということがいえよう。
その後の感動の無さは、原典も改訂もたいしてちがわない。(笑) 作曲技法的には、もちろん、改訂のほうがいろいろな楽想がプラスされていて、全体的にすばらしくヴォリュームアップされている。
どうせそう面白くもないのなら、組曲として楽しめ、時間的にも短い原典版のほうがいいのではないか。あくまで個人的な好き嫌いですけども。 慣れたならば、もしくは4番を好んでいる人は、やはり原典版は物足りないだろう。交響曲としてより完成されているのは、もちろん、改訂版だと思われる。
第5交響曲(1944)
プロコーフィエフが真に偉大な20世紀のシンフォニストとして君臨することとなった名曲がこれ。奇しくも、ショスタコーヴィチと共に、ベートーヴェン以来の5番の系譜に見事なまでにピッタンコ。折しも大祖国防衛戦争(第二次世界大戦)の真っ最中。スターリングラードにおいてドイツ軍が撤退した後、20発の祝砲のあとに仰々しく作曲者の指揮で初演がはじまった。ショスタコの7番と同じく祝典音楽として扱われたが、内容はあまりそう祝典的でもない。
しかし、確かに、それまでに無い衝撃的な響きとポピュラリティとが素晴らしい奇跡のような融合をみせており、戦後、日本の若い作家連は軒並みノックアウトされてしまった。
作曲技法もプロコーフィエフの頂点を極めているが、何回も聴いていると厭きてくるのはショスタコーヴィチの5番といっしょだなあ。これだけ録音がバカみたいにあるのもいっしょだし。
よくも悪くも、いろんな意味で折衷作なのです。
時間的にもけっこう長く、ボリューム満点。楽想がコミカルなので、あまり長大な感じはしない。その楽想が災いしてか、いろいろな高名指揮者が取り上げているが、イマイチ統一感がなく、どのように料理すれば良いか分からない音楽になっているような気がする。それもまた、よくも悪くも、とてもプロコフィエフらしい、といえるのかもしれないが。
1楽章はアンダンテの、いきなり序奏もなしに現れる主題がまず真っ先に聴衆の心をとらえる。ここだけで名曲の片鱗紛々。こういうプロコ1流の旋律の奥底には、ちゃんとロシアの民謡が流れていて、ああ、チャイコーフスキィやボロディーンからの正しい伝統なのだなあ、と思わざるをえない。しかし展開はどうか。ひっきりなしに変わる調と不思議なリズム。音形。近代的だなあ。ここにモダニズムと社会主義リアリズムのまったく正しくて神のような腕前の奇跡を見る。
2楽章はスケルツォだが、意外に長い。そしてなんとも奇妙だ。聴きなれているから別にそう思わないかもしれないが、こういう奇天烈なスケルツォはプロコーフィエフの真骨頂なのかもしれない。マーラーもスケルツォが得意だったが、彼よりもっと明るくて、ひょうきんで、しかし、奥底に流れる邪悪な闇の美しいまでの輝きは、けして負けてはいない。
アダージョも動きのあるもので、旋律は美しい。深い慟哭を湛えたような音楽は、心をうつ。ここには、さすがに戦争の影が横たわっているのかもしれない。
ラストのアレグロが、おそるべき転調の嵐で、聴くものを戸惑わせる。主題のフルートはどんな曲の呈示より新鮮に聴こえる。打楽器の効果も目まぐるしく、とてつもなく不規則な展開が非常に楽しい。
内容的にはけっこう浅いかもしれないが、まこと名曲と呼ばれることになんの不満も反対もない。
第6交響曲(1947)
名曲解説ライヴラリーにおいては、特に2楽章と3楽章の間において若干形式的に構成が弱いとされているが、私は別にそう不統一感が目立つとは思っていない。たしかに、パッと聴いて、5番より分かりづらいとは思う。なにをやりたいのかよく分からない。しかし趣ぶかさというか、奥深さというか、何度も鑑賞して飽きないのは、5番ではなく6番であろう。だから、わたしは、プロコーフィエフの交響曲の中では、6番がもっとも質的に充実していると感じている。
もっとも、そのとっつきにくさが、ジダーノフによって 「こんな小難しい作品では大衆は理解できないではないか」 ということで、まったく社会主義リアリズムではないと、やり玉に挙げられている。
そのように、ここでは前回の5番で追求されたポピュラリティはまるで影をひそめている。ラッ、パッ、パッ、パ……という下方形の不可解な問いかけから始まる第1楽章は膨大な量の情報がつまった交響的アレグロでソナタ形式。上下に動くなんともリズミックな趣の第1主題と、オーボエにより開始される美しくももの悲しい第2主題。ブルックナー流に第3主題まであり、それは低音による不気味な動機。呈示部で既にそれらは個別に発展しているのだが、展開部の終わりのほうで第1主題がホルンによって驚くべき扱いを受けるのが印象的。(緊張感ある音楽のバックでサイレンのように延々と鳴っている。)すべて晦渋的で難解であるが、それゆえに、受け取るべきものは多い。
ラルゴの2楽章においても、こんな真剣な、シリアスな音楽も、交響曲の中では珍しい。管楽合奏からはじまり、なんとも甘美な曲想で、ときに激しい表情もみせ、アイロニーにもあふれ、緩徐楽章の最高傑作に思える。
最後のプレスト楽章がまた、ショスタコーヴィチも真っ青の、超プロコーフィエフ流。ムラヴィーンスキィが鬼のような合奏力を発揮しているが、そんな無理に速くしなくとも、すごさは伝わる。流れるような旋律の数々。1番の古典的の正しい進化形がここにある。唐突という気分はない。むしろあのラルゴの次に現れるべくして現れたアレグロだろう。この陽気な気分は、しかし、なんとも微妙な弦楽の不協和音や最高にめぐるましい転調やときおり出現する攻撃的な動機、一転して憂鬱な表情、ラストの刺殺的な衝撃などで、表向きだけのものではないと分かる。これをただワーオと聴くもよし、ウームと聴くもよし。なんじゃこりゃあ、と聴くもよし。3楽章制でスケルツォを欠いているが、この出来ならば確かにいらない。
わたしは、このように6番がいちばん好きだし、いちばん評価している。
ほんとうにすばらしい交響曲です!!
第7交響曲(1952)
7番は一転して、もっとも平易で明解な音楽。社会主義リアリズム形式をついに交響曲にまるごとまるっと(ここ大事。)持ち出して、それで打ち止めとなってしまった。このことがなにを意味するのか、これによる音楽にどんな価値があるのか、分からないが、ただ聴くだけならば、なかなか面白い美作となっている。
切ない雰囲気の冒頭主題から、低弦の動き、展開はまるでカリーンニコフ! どうしても、平易なものを求めるとこんな風になってしまうのだろうか? 2楽章はまだかなりプロコーフィエフ色の強いスケルツォで、トリオが重なって時間的にも長い。ティンパニのソロがアクセント。刺激的な舞踏音楽だ。青春時代のさわやかさを、確かに彷彿とさせる。
アダージョとて、この甘さ、まろやかさはどうしたことだろ。かれ特有の毒は、いったいどこへ行ってしまったのか。バスドラの連打とか、微かな片鱗は見えなくもないが。
終楽章のヴィバーチェとて、特に何も説明もいらない、楽しいもの。交響曲版ロメジュリ・ピーター・キージェ中尉と思ってくだせえ! いや……ロメジュリやキージェ中尉のやり方で作った交響組曲に思えるよ。
ラストは静かなものと、強奏と、2バージョンあるそうですよ。
これで交響曲が締めくくられているというのは、なんともやるせない気もするし、実にプロコらしいという気もするし、まあ、あんまり深い意味はないのだろうが、このなんともいえぬ不可解な気分、後味の悪さというものは、やはりプロコなのであるなあ、と思う。
というか、やる気を無くしてしまったのだろう。やっつけというほどでも無いだろうが……。
参考 作曲家別名曲解説ライヴラリー20 プロコフィエフ
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