リスト(1811−1886)


 交響詩の提唱者、ピアノの超絶技巧持ち主、ロマン派の巨匠中の巨匠として特に名高いフランツ・リストは、交響詩で培った概念や技法を、それより古典的な(いわゆる古くさい)はずの交響曲の中に取り入れることでその完成を試みたことは、興味深い。それはのちにリヒャルト・シュトラウスも同じ路をたどっていることからも分かるし、シュトラウスと同期に活躍したマーラーに到っても、交響詩と交響曲は多分に不可分の性質の代物であった。哲学、文学、特にゲーテ、そしてオペラに通じる作曲家は、どうしてもその傾向が強いのだろうか。彼らより少々上の世代のブルックナーでは、交響詩という概念すら存在していないように見受けられる。
 
 さて、標題付交響曲と交響詩のちがいというのはなんであろう。
 
 標題交響曲の先祖はベートーヴェンの第6番田園交響曲であるのは周知の通りであるが(ちなみに私はこの田園がとても苦手だ。構成的にまるでなってなく、これは半分交響詩・半分交響曲といったとても奇妙な音楽だ。旋律自体は、とても素晴らしいけども。)まったく明確で文学的な標題制をもった交響曲を史上初めて生み出したのは、やはりベルリオーズをおいて他にない。ベルリオーズとリストは若いときより親交があり、ベルリオーズはリストへゲーテを薦めた。
 
 標題付交響曲は、巨大な交響詩でもあるだろう。標題付交響曲の楽章それぞれが、すでにひとつの交響詩であるといっても過言ではなく、それはマーラーの交響曲を聴けば、その進化の最終形を観る(聴く)ことができる。また、シュトラウスのアルプス交響曲でも、もう一つの進化の最終形を観る(聴く)ことができる。この2人はだから、正しいリストの継承者でもある。
 
 リストの交響詩の完成形は、2曲ある。この2曲は作品番号108・109と連続している。本来ならばファウストや神曲の原作を読んでから聴くとより理解が深まるのだろうが、音楽だけでも、独立して充分に楽しめると思う。 


ファウスト交響曲−ゲーテによる3つの性格像(1857)

 3つの楽章がそれぞれ ファウスト グレートヒェン メフィストフェレス と標題がついており、メフィストの最後にいわゆる「終末合唱」がくっついている。ひとつの古典的な交響曲が、全体としても楽章それぞれとしても交響詩を内在しており、たいへんに画期的で興味深い音楽となっている。特に音楽そのもののインスピレーションで、マーラーの第8交響曲の第2部に通じてくる。

 リストは1830年にベルリオーズよりゲーテを紹介されてより、いつの日かゲーテに基づく音楽を書こうとして、完成したのはずっと後になってだった。1857年のことである。

 各楽章それぞれかひとつの交響詩となっているといっても過言でないのは、何度も述べている。
 
 第1楽章ファウストでは、もろもろの知性、この世の事象、人間世界の悩み、葛藤する博士の心理が描かれているとされる。およそ30分を数え、マーラー第3番の1楽章にも匹敵するその音楽は、しかし、膨大なものではなく、一編の交響詩としての性格が強いためか、特に長く感じられない。ストーリー性よりも、象徴的な意味合いでのファウストなのだろう。管弦楽の書法も素晴らしく、リストの交響詩の頂点にあるような音楽。また専門家の話によれば、ここでリストは和声を解体するような調性をとり、その先進性をあらわにしている。
 
 2楽章はグレートヒェン。女性への憧れや賛美というのは、やはりマーラーが第8番で吐露しているが、その原型はここにあるのだろうか。しかしこちらはフルートのささやきより始まり、終始一貫しての典型的なアダージョ楽章だが、あくまで性格付の音楽なので、動きは少なく、神秘的で敬虔、貞淑、救済の姿といった、オトコから観た理想の女性像が、ひしひしと描かれる。女性はどのような心持ちでこの音楽を聴くのだろうか。この「性格」は終末合唱につながってゆく。
 
 3楽章メフィストフェレスは悪魔の音楽であり、リストの悪魔好みとバッチリ合って、最高の響きを醸し出している。当時、優れた音楽家は悪魔から掲示を受けているという考え方があったようで、パガニーニだとか、超絶技巧の持ち主が狂ったように楽器を奏でる姿そのものが、悪魔的に見えたのだろう。こちらは管弦楽のための超絶技巧音楽といったところか。前章とは対象的に、起伏の激しい音楽。交響詩的な要素が非常に強いが、1・2楽章の素材を(悪魔的に)発展(展開)させているという点で、これはまぎれもなく交響曲の伝統に則っている。
 
 最後の終末合唱は3楽章の一部なのだが、ここでグレートヒェンの霊により堕落したファウスト博士は救済され、メフィストは地団駄を踏むという仕掛け。ただし合唱は、女声ではなく男声。この後、博士が日本で悪魔君にオカリナを渡したかどうかは、残念ながら今交響曲では語られていない。

 全体では、70分ともなる大曲で、なんの、マーラーやブルックナーなどに(内容的にも)匹敵する音楽が、それより何十年も前に書かれていることは重大な指標だ。この曲はCDがまったく少ないが、管弦楽曲好き、交響曲好きとしてはリストの最高作品とするのに問題はないし、マーラーのようにもっともっと聴かれてもいいと思うし、マーラーやR.シュトラウスが無理なく聴ける聴き手ならば、これも問題なく聴ける。
 
 少なくともベルリオーズのロメジュリよりは、はるかに素晴らしい出来ばえだと思う。


ダンテ交響曲(1856)

 こちらはダンテの神曲にインスパイアされた音楽。1楽章「地獄」2楽章「煉獄」という、なんともオソロシゲなタイトルが冠されており、2楽章制という斬新さ。しかし、これは当初3楽章に「天国」が来るはずだったが、音楽や人間の声で天国の喜ばしさなんかとうてい表現しきれないからヤメレという盟友ヴァーグナーの助言があって、なるほどその通りだと止めてしまったという。ここでいう天国とは、天国への憧れではなく、天国そのものの喜びという意味で、ヴァーグナーはそのように云い、リストも納得したのだろう。その後マーラーが、あっさりと天国の様子を音楽化してしまったが、それは、大胆不敵な行為であると共に、やはり(あてこすりという意味も含めて)時代の流れというものだろうか。

 作品番号はこちらが後(S109)だが、完成はファウストの前年の1856年となっている。

 1楽章「地獄」

 やおらの、映画音楽並の迫力、描写力にまず驚嘆する。ファウストでは性格像という概念で作曲されているのためか精神的な深さはあるがドラマティックさではこちらが上かもしれない。音楽は急緩急で構成されて、よりシンフォニックだ。20世紀になってまさに地獄絵図ともいえる諸々の出来事が現実のものとなると、音楽家たちは表現の限界を感じ、音楽ではないオンガクをもって、12音技法により、地獄を表現する事となった。しかしそれは地獄ではなく「地獄のような」現実であって、我々現代人は、前々世紀の人間の描いた地獄絵図というものを、ふつうの音楽で聴くとき、思うところは否応なく深くなるだろう。

 2楽章「煉獄」

 地獄は仏教にもその観念があるため、理解しやすいが、煉獄というのは、キリスト教独特の世界だ。そもそもキリスト教でも、イエスの教えを信じない者は真っ先にサタンの治める地獄へ落ちるとされていた。しかし中世ヨーロッパで、北方のゲルマン・ケルト・スラヴ・北欧諸民族を教化するさい、彼らはこう云った。
 
 「そったらありがてえ神さんなら拝んでみてもいいけんどもよ、オラたちは神さん拝むから天国さ行けるんだろうけど、オラたちのジイさま方ァ、拝んでねえままおッ死んじまってよ、地獄さ行くってんだら、拝むわけにニャアいかねえッ!」

 困った宣教師は教皇庁へ問い合わせ、以下のように答えるよう指示がでた。

 「えーと、そのー、えー、大丈夫ですよ。新たに神を信じた者の父祖たちは、地獄へ行く前に、煉獄というところにゆきます。それで、貴方たち子孫が一生懸命神を信じたならば、いずれ、煉獄から救われて、天国へゆくでしょう!!」

 「あー、そんなら、拝んでもいいべかな、なあみんな!」

 「んだ、んだ!」
 
 我ながらナイスなアイデアだと教皇庁も思ったことだろう。(注:うろ覚え知識に基づいていますのであまり信用しないでください。)
 
 リストにより音楽化された煉獄は、まず苦悩を示すような静かな部分より、暗めの調性で幕を開ける。その陶酔的な響きは延々と続き、楽章を支配する。ここは、まさしく地獄と天国の間にあって悩み、悔い改める場面のようだ。

 そのまま、場面は救いを現す女声合唱のマニフィカートへ移り、美しくも壮大にして、天国への憧憬として、曲を閉じる。まことロマン派音楽の極致ともいうべき、だれかと異なり実に健康的なロマンの世界にあふれている。




前のページ

表紙へ