肥後一郎(1940− )


 作曲家でも、音大卒業組をあえてアカデミック組と想定すると、必ずそうではない非アカデミック組というか、アウトロー組というものが存在する。ようは、本人の才能と努力なわけで、音大へゆくかゆかないかは、本人の行きたいか行きたくないかにすぎない。

 思いつくままに、音大とは無縁の作家を挙げてみるに、音大が無い時代の人たちは別段として、戦後からゆくと、武満徹、湯浅譲二、吉松隆と、これだけで参りましたと云いたくなる。そしてこの肥後一郎という人も、どうやらアウトロー組のようで、早稲田大学第一政経を出ているというのだから、まあそうなのだろう。しかし、個人的に松村禎三へ師事している。つまり彼も伊福部昭の孫弟子で、吉松の同門ということになる。

 肥後の名をネットで検索すると、合唱曲でたくさんヒットする。日本人の作曲家では、大きく別れて、吹奏楽・合唱曲・そしてオーケストラ曲で、高名な場合がある。もちろん、彼らは別に合唱専門でも吹奏楽専門でも無いし、合唱専門や吹奏楽専門の人も中にはいるだろう。

 日本はまずアマチュアの活動が盛んだ。しかも、個人で楽器や歌を楽しむより、集団で楽しむ場合がまず多い。さらに、オーケストラよりも、ずっとずっと合唱と吹奏楽で盛んだ。それは、もちろん、中学高校の部活から発している。ここでいう音楽とは、教育の一環になる。

 さらに注目したいのは、アマチュアの合唱団や吹奏楽団が、現代の作曲家へ、オーケストラ愛好家の想像を絶する数の曲を委嘱しているという事実だ。マーラーを軽々と演奏する上達なアマチュアオーケストラが、都会あたりではいくつもあるだろうが、なにかの記念で、邦人作家に曲を委嘱したという話は、あまり聴かない。彼らオーケストラの愛好家の中で、ショスタコーヴィチ以降の曲はクラシック(それどころか音楽)だと思っていない人はケッコウ多い。いま生きてる日本人の曲などは、論外なのだろうか。

 ここに、日本の音楽実践愛好家の中で、合唱と吹奏楽の愛好家は、20世紀・現代音楽にまったく抵抗がないという事実に遭遇する。特に吹奏楽は、戦後になって大発展したから、吹奏楽オリジナル曲で最も古く古典とされているのが、既にクラシックでは「近代」といわれているホルストヒンデミットであるという事情も反映している。

 (同じような現象で、こちらはアマではないが、琵琶だの三味線だの箏だの尺八だのという、邦楽の演奏家たちが、クラシックの作家に曲を依頼する現象も多発している。肥後も、作品が多いようだ。邦楽の聴き手のほうがオーケストラの聴き手よりも「現代的」だという皮肉と矛盾。)

 つまりそういうわけで、肥後一郎なども、一般では合唱曲で高名なのだろうが(話が長くなったが)れっきとした「ふつうの」作曲家で、ここに交響曲などというご大層な音楽も存在するワケナノデアル。


交響曲(1983?)
 
 ここではまず音色的にサックスやシロフォンにより色彩的な響きが聴かれ、それが松村流の「増殖技法」でじわじわ音楽が「増殖」する面白さに出会う。楽章数も、師の松村に習ってか、3楽章制。1楽章は序奏にも聴こえるが、用法と技法としては、まったく本当に松村だこりゃ。似すぎw

 しかし、吉松隆の第1番交響曲「カムイチカプ交響曲」も、1楽章はまったく同じ技法なので、あまり追求するべき問題ではない。ただし肥後のほうが、音色的にも、よく似ているが。

 肥後は云う。「己のあさはかな感性に凭(もた)れ掛かって乱脈に音を書き流すことを戒め、いささか気後れしながらも既に手垢で汚れた形に近い、力学的均衡を志向する造形を試みた。」

 交響曲という、ある意味時代時代をその美のみを武器に生き延び、現代まで生き残っている生きた化石のような究極の進化を遂げた新生物のような造形美の傑作を書くときに、その宣言はまったく正しい。肥後は、まぎれもなく、ここに「交響曲」を生み出した。

 2楽章の点描ふうな音楽の後に、3楽章では座禅でも組んでいるかのような行の境地の音楽が弦楽で示される。作家にとって、この交響曲は、天地と海と星々、風などの神々や精霊との交信の結果であるという。それは(感性という意味で)図らずしも、吉松や松村に通じていて、非常に興味深いものがある。

 その後、音楽はティンパニの導きにより、トロンボーンを筆頭とする中低音の金管がコミカルな呪文を唱えて、それへ絃や木管、打楽器が合いの手をいれるという、とっても面白い展開を見せ、あくなき伊福部=松村流のオスティナート技法をもって充実してゆき、神秘的かつ土俗的に響きわたって、その頂点で一気に幕を閉じる。この第3楽章は、聴きごたえがある。イイ。


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