伊藤康英(1960− )


 伊藤は吹奏楽界ではいまや中堅中の中堅として活躍しているように思われる。兼田敏が死に、保科洋や櫛田テツ之助が重鎮とすれば、もうそういう世代になってきているだろう。1990年に作曲した 吹奏楽のための交響詩「ぐるりよざ」 の衝撃は、私も、これは凄いと唸った覚えがある。しかし、何回も聴けばそれなりの作品ではあり、他の作品においても、モノフォニックな面に比重を置きすぎている嫌いがある。それが、悪いというのではない。個人的に、飽きが来やすいと思っているだけです、念のため。

 しかし、さすがは芸大の作曲家卒業ではあり、別に書こうと思えば「ムツカシー」作品も書けるのだったりする。彼の狙っている西洋音楽の基本には、どうやら「歌」というものがひそんでいるようなので、彼の吹奏楽作品で旋律に重きが置かれているのは、不思議なことではないということになる。
 
 あとは、お客である我々聴き手の問題だろう。
 
 現在のところ、吹奏楽作家といえるだろうが、交響曲を重視している点も私にとっては重要だ。


交響曲(1990)

 「ぐるりよざ」と同じ1990年に書かれた、純粋音楽。伊藤は、クラシックの頂点が西欧ではオペラであるのと同時に器楽音楽の頂点に立つ「交響曲という音楽のその名前が好き」と、云っており、交響詩である「ぐるりよざ」の対極にあるような音楽ではあるまいか。全体で15分ほどの曲だが、全3楽章で、技術的にも内容的にも、12音列技法で、かなり辛辣なもの。リードの交響曲の2番に雰囲気が似ているかもしれない。言い忘れたが、もちろん、吹奏楽のための作品。

 1楽章は導入部で2分も無い。バスドラの一撃でスタートし、すぐに12音技法による動機が連続して出現。とすると呈示部か。速いテンポで、鋭く空間を刻んで行く。途中の木管の動機をいかにスムースに進むかが勝負のような気がする。
 
 2楽章はレントで、15分のうちの10分以上をかける中心部。無調、変容、音列、計画的偶発性、大音響カオスなどなど、近現代音楽の技法が満載されており、なかなか聴き応えがある。最後のエピローグの部分はフサっぽい。

 3楽章も速く短く、全体のコーダであるばかりか、1楽章の音列の逆展開を見せ、怒濤のアレグロの後に最後はまたバスドラの一打に帰結するという芸当の細かさ。なかなか、「正統的な」12音曲になっている。技術的なものも含めて、時間配分的にも、たしかにこりゃコンクールには無理だわ。
 
 しかし「ぐるりよざ」的な伊藤曲のファンには、好き嫌いの別れる音楽ではないだろうか?


ジュビリーシンフォニー(祝祭交響曲)(1994)

 有り難いことに(?)上記の「交響曲」的な、現代技法によるシリアスな曲は、いまのところ交響曲のみであるようで、これは、同じ交響曲を冠していてもいわゆる伊藤節全開のもの。出身高校の開校100周年記念式典用演奏会用だそうです。
 
 2楽章制で、1部は「ファンファーレ」というタイトルがある。とはいえ、華々しいというものではなく、静かに始まり、じわじわと増殖して、未来へ向かって行くもの。テンポも、同時に速くなる。最後は打楽器も勇ましくプレストに。
 
 2部は「追憶・別れ」とある。一転して暗いばかりか、テンポや和音も曖昧で、かなり謎めいた雰囲気をも醸しだす。微妙な微分音を意識したとあり、そういう響きになっているのかもしれない。祝祭とはいうものの、そういう機会に作曲されたというだけで、単純な祝典交響曲ではない。

 高校時代の懐古は、だれにとっても、過去への回帰と同時にやはり未来への逆行なのだろう。人は、楽しかったことはすぐに忘れ、早く忘れたいような気恥ずかしい想い出ばかりをトラウマのように引きずって行く。

 これも、もちろん吹奏楽のための交響曲。


交響三頌「ラ・ヴィータ」(1998)
  
 和名では交響曲ではないが、英タイトルに Symphony とあるし、作者が(交響曲という日本語よりもむしろ)「シンフォニー」を意識したと告白しているので含めることとしたい。
 
 1楽章は「ラ・シンフォニア」と題されたもので、イタリア語のこのシンフォニアこそシンフォニーの語源であるのは解説ですでに述べてある。現代では小交響曲とも解されており、あえて云うならば3楽章の交響曲の中の第1楽章がさらに小交響曲であるという二重の意味を持っている。ラ La というのは英語の the のことで定冠詞がつくことで、シンフォニーというもの、という意味を持たせたという。
 
 短い導入句の後に豪快なテーマが金管により示され、続いて第2主題も木管でゆるやかに登場するという王道的なもの。それがアレグロで発展して行く古典的な手法による。中間部のリズムが大栗裕っぽいかも。

 最後は打楽器の短い合奏で閉められる。

 2楽章には「ポエータ」つまり詩人という題が冠されている。自作の歌曲による自由なレント。主旋律はサクソフォンなどの木管によるが、背後を金属打楽器が飾っているので、意外に冷たい印象を受ける。中間部は高らかに盛り上がって讃歌ふうになるが、一転してまた冒頭に戻る。3部形式。
 
 3楽章では標題の「ラ・ヴィータ」が冠されており、終楽章。英語でいうところの「ザ・ライフ」に相当するようだが、もっと自由で、おおらかな、生命そのもの、楽しげな人生というものを包括しているらしい。
 
 タイトルがイタリア語なのでなにやらラテン系の音楽かと思いきや、日本の土俗ラテン。アンサンブルが難しそうな打楽器群に支えられた、激しいプレスト楽章で、民謡旋律全開モードが外山雄三のかのラプソディーを彷彿とさせるものだが、あれよりは、ハジけていない、シックな印象。その意味では、独立した狂想曲や狂詩曲などではなく、交響曲の終楽章を意識して、全体としての調和を持たせているのかもしれない。
 
 ラプソディーやカプリッチオをシンフォニーの中に取り組んでも、それはそれで面白いのだけども。
 
 民謡旋律が何かの民謡から直接とられたものなのか、作者の創作かは不明。


シンガポールシンフォニー(2005)

 シンガポールでのWASBE(第12回世界吹奏楽大会/エスプラネード・ホール)にて、伊藤康英指揮、IYWO(世界青少年吹奏楽団)により初演された、とある。そのために作曲された曲で、特にシンガポールをイメージしたようには聴こえない純粋音楽。(してるのかもしれないけど)

 3楽章制で、20分近くもある。全体的にエキゾチックな曲調ではある。ラ・ヴィータに比べると作風は幾分地味か。

 金属打楽器を伴った神秘的な主題の提示より始まる1楽章はアレグロ楽章で、主題はやや東洋風。展開は現代調で、無調ではないが、なんというか、ミニマルっぽい感じというか? オスティナートというべきか。後半は長い旋律とのからみがカッコイイ。シリアスの中にも伊藤節が聴こえる。

 2楽章はおきまりの緩徐楽章だが、独特の雰囲気は消えていない。主題も派生だと思われる。中間部ではアレグロとなる。無窮道的な妙な動きをする。すぐにレントへ戻るが、ホルン・ユーホに流れる旋律が流石に良い。日本民謡っぽい部分もある。最後はイングリッシュホルンでテーマが流れ、家路っぽい雰囲気。アタッカで3楽章へ。より東洋風に変化した主旋律がずっと流れ行く。次第に明るくなって盛り上がり、頂点で鎮まって、そのまま祭が終わるように終結する。

 全楽章を通じ、1つのテーマをとことん変奏していると思われる、古典的な作品。膜物打楽器が地味ながら後ろでかなり活躍する。

 伊藤にしてはけれん味のない、まっとうなと云うと語弊があるが、かなり流れが自然な、こなれた技術の良い音楽だと思う。






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