鹿野草平(1980− )


 東京音大に特待生として給費入学した才人で、20歳の時に全日本吹奏楽コンクール課題曲「吹奏楽のためのスケルツォ第2番《夏》」を作曲。それ以降、主に吹奏楽シーンで活躍している。

 その鹿野が、コロナ禍に際し思うところあり、大規模な交響曲の作曲を決意したもの。通常のスポンサーの他、クラウドファンディングにて資金を集めるなど、手法も現代的だ。


第1交響曲《2020》(2020)

 コロナ禍により、音楽業界(を含む、エンターテイメント業界)は大打撃を受けた。なんてったって、収益の大黒柱である「公演」が軒並み中止になったのだから。演者や演奏家は、仕事が無くなってしまった。休業どころではない。失業に等しい。2022年の本稿執筆時点にあっても、まだまだ半分ほどしか復活していない。

 鹿野はショックと絶望により、音楽を止めてしまおう(転職しようということか?)とすら思い悩んだとのことである。

 その中で、ドイツ軍に包囲され、絶望のどん底にあったレニングラード市にあって、希望を失わずに第7交響曲「レニングラード」を書いたショスタコーヴィチを思い、その他、自らも交響曲や交響曲作家(本人の解説によると、マーラー、ショスタコ、伊福部昭水野修孝)に憧れがあり、いま交響曲を書かないでいつ書くのだという強い意思にとらわれて、作曲したのが本曲であるという。

 伝統的、古典的な外観による、全4楽章、約40分。(初演の模様は37分程度) 各楽章に副題があるが、標題音楽ではなく、単純に音楽的なタイトルにすぎないのは、言うまでもない。

 第1楽章「平和と脅威」

 9分程の楽章。SARS-Cov2からとられた音名による音列が「人類への脅威の音列」として登場、対比として「平和な日常」動機と「夜の街の活況」動機が提示される。冒頭の低音楽器によるうめき声が、当該音列だろう。木管も加わって、不気味な音の渦を形造る。2分ほどで、朗らかな旋律が現れるが、これが「平和な日常」だろう。すぐにリズミックな動機が現れ、これが「夜の街の活況」と分かる。(あるいは、「平和な日常」の小展開か。)

 展開部または「夜の街の活況」からジャジーな音調となり、サクソフォンも印象的・即興的に鳴り響く。後半はその展開で、どんどん音響的カオスが膨らんでゆき、頂点で静寂となるや、冒頭の脅威の音列が再現される。暗闇の向こうから脅威主題がクレッシェンドで襲いかかってきて、アタッカで第2楽章へ。

 第2楽章「爆発」

 1楽章からアタッカで続けられる、6分程のスケルツォ相当楽章。再び「人類への脅威の音列」が現れ、無調音楽としてカオスを導く。冒頭から脅威主題が無調で発展し、まさに感染爆発する。2分ほどで、いったん静寂が訪れる。が、緊張感は失わない。無調のドライな音調が、不気味さを助長する。再びカオス音響が復活し、三部形式と分かる。脅威主題が激しく変化し、入り乱れ人類の混乱を示す。最後は打楽器乱打から特大クレェッシェンド、そしてまた闇の中へ消えゆく。

 第3楽章「哀歌」

 これも9分程の緩徐楽章。新型コロナウイルスによる、犠牲者への祈り。特に、コロナにより貴重な機会を奪われている子ども達への嘆き。冒頭のオーボエとコーラングレの二重奏による「哀歌」が、全体を支配する。チューバ(だと思う)のソロから、高い弦が「滴り落ちる涙の音型」を奏し、中低音の弦が「嘆きの旋律」を引き継ぐ。しばし弦楽が悲歌を歌い続け、やがて大きく盛り上がって哀歌主題を全体で奏する。やがて鎮魂の鐘が鳴りはじめ、魂を救済に導く。

 第4楽章「叡智」

 12分程のフィナーレ。人類の叡智。ワクチン、そして特効薬。我々は、ウイルスに打ち勝つ。そして、共存する。冒頭から脅威の音列が再現され、それを打ち消すように雄々しい主題が現れる。解説によると哀歌主題の怒りの変形(怒りの主題)らしいが、ちょっとよく分からない。これは、人類とウイルスとの戦いの主題でもある。戦いは経過部として推移し、穏やかなコラールに至る。これは、平和な日常の変形であるという。それからまたも戦いのテーマが鳴り渡り、今度はカオス音響も加わって、異様に激しく展開。それはすぐに、再び平和のコラールに取って代わられる。しかし、二度目はまるで勝利の凱歌、讃歌だ。大きく盛り上がって、勝利の雄叫びが沸き上がる。脅威の音列が、ほうほうの体でどこかへ逃げ去ってしまうと、長大なコーダへ突入する。じわじわと長フレーズによるコラール旋律が流れて、幸福感が溢れだす。やがて旋律は点へ昇り、光り輝いて未来を照らす。


 最後に、本当にどうでもいいことなのだが、個人的な聴感として、やはり吹奏楽編制が得意な人、吹奏楽がメインの人のオーケストレーションは特徴的で面白い。これは、海外のヨハン・デメイなどもそう感じるのだが、美味しい所はほとんど管がもってゆくというか、そこは弦だろ、というフレーズもたいてい管楽器が吹いてしまうので、吹奏楽プラス弦みたいな曲になりがちなのである。ほとんど弦が伴奏しかしないというのは大袈裟だが、時々思い出したように弦が活躍するという感じだ。まして、感傷的な部分は弦、みたいな使い方もありきたりだ。

 本来は逆で、オーケストラというのは弦楽合奏プラス補助で管という形態からスタートしているので、弦がどこまでもメインのはずなのだ。近現代オーケストラ曲に到ってようやく全ての楽器が平等に扱われていると言っても、それは音調的役割に応じての話であって、そこは弦でしょ、という場面まで管でやる必要はないし、まして弦が補助になるというのは、本末転倒感がぬぐえない。






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