デメイ(1953− )


 私が大学に入ったころ、その数年前に発表になったばかりの吹奏楽曲が音楽雑誌で日本に紹介され、私はその曲の題材になった小説の元からのファンであったため、雑誌に載っていた輸入代理店に直接、大学の公衆電話(←!)から電話して通販した。それがデメイの交響曲第1番「指輪物語」である。

 そのとき買った(実は私家盤だった)クェイペルス/オランダ陸軍バンドの演奏を20年以上愛聴しているが、いまでは管弦楽版も含め、何種類もCDが出ている。

 吹奏楽(ウィンドオーケストラ)曲は幾人かの作曲家が指摘している(吉松隆保科洋、北爪道夫、大栗裕等)が、その同属の管楽器が何種類も集まった実は特異な編成により、和音が濁りやすい、響きが単調になりやすい、という弱点がある。管弦楽や、ほぼ同属のみの金管(ブラス)バンドとも異なる金管木管の厳格に固定された響きは、自由に編成を調節できる管楽合奏ともまた異なり、下手をすると交じり合った音が非常にモノクロームな響きに堕し、薄っぺらかったり濁ったりして聴こえる嫌いがある。そういう曲は、相当の演奏でなくば、 10分と聴き続けられない。飽きる。

 ※私が嫌いなだけで、そういう吹奏楽特有の響きが 「好き」 という人ももちろんいるでしょうから、それが悪いとまでは云いません。

 クェイペルスの演奏が、実に気合と熱の入った現在でも評価の高いものだったのが幸いし、私は一瞬でこの音楽の虜となった。音楽そのものに、特に目新しい表現はなかったが、大規模ながら通常編成のウィンドオケ編成から、管弦楽に勝るとも劣らぬ大変多彩な響きが紡ぎ出され、ライトモティーフを使用した豪快にして簡潔な、実に正攻法の音楽作りが合体し、すばらしい世界が構築されていた。

 デメイはハーグ王立音楽院でトロンボーンと指揮を学び、トロンボーン(ユーフォニウム)奏者、編曲家として音楽人生を出発したが、5年をかけて作曲した第1交響曲が、シカゴのショルティが審査委員長だった「サドラー吹奏楽作曲賞」の最優秀賞を受賞し、いちやく時の人となった。現在でも演奏、指揮、編曲にと大忙しであるため、作曲数そのものはあまり多くない寡作家だが、作品はどれも吹奏楽界にとって重要なレパートリーとなっている。

 その少ない作品群の中に交響曲が4曲もあり、我輩は大喜びなのである。


第1交響曲「指輪物語」(1988)
 
 当曲の最大の魅力は、なんといっても、そのウィンドオーケストラを超えた響きの妙、オーケストレーションのすばらしさだろう。冒頭のファンファーレを聴いた瞬間、私は眼からいや耳からうろこが5万枚は落ちた。1楽章はおろか、一気に全曲を聴きとおし、それ以来、その辺の吹奏楽曲では満足できない身体になってしまった(笑) なんという罪深い音楽であろうか!

 ネットで知り合ったマンドリンオーケストラをやっている人に、「申し訳ないが吹奏楽なんて……」 というのでこの指輪を紹介したら 「まさかいわゆる吹奏楽からこんな瑞々しい響きがするなんて想いもしなかった」 という意のことをおっしゃられ、感動してくださった経験がある。吹奏楽をふだん聴いたことがない人こそ、逆にその価値がストレートに伝わるのかと思った。

 1番は標題音楽であり、交響曲というより、連作交響詩あるいは大規模な組曲というほどのもので、形式的にも内容的にもソナタ形式等の古典的な交響曲ではないが、そこはそれ、ライトモティーフの回帰的手法により、循環形式ともいえ、ベルリオーズの幻想交響曲をも範とし、それでいて充分に現代交響曲の態を成している。擬似古典的な外観に、新古典的な内容が合わさった音楽といえるだろう。特殊楽器を多用しているわけでもなく、特殊奏法が頻繁に出るわけでもない。あくまで各楽器の性能をフルに引き出し、勝負。技法的にはショスタコーヴィチに通じるかもしれない。そこがスゴイ。

 私はこの曲は、吹奏楽オリジナル曲の最高峰のひとつだと思う。上記の理由で、響きが「のぺっ」というか「もわっ」というか、とにかく一本調子で濁りがちな吹奏楽(ウィンドオーケストラ)編成からここまで瑞々しい目くるめく劇的な響きを引き出す手法にも唸るが、音楽そのものもすばらしいし、奇跡のような世界が繰り広げられる。まあ、もちろん演奏にもよるでしょうが。

 この曲に出会えた事を、本当に音楽の神様に感謝したい。当サイトの吹奏楽のページと重複するが、簡単に楽章を紹介したい。

 いまでこそ、もとよりの小説のファン、また映画をご覧になった方はよくご存じ方と思うが、この曲が日本に紹介された1991年ころは、まだ指輪物語は一部のマニアックな小説でしかなかったため、日本語のタイトル等で勘違いがあった。

 第1楽章「ガンダルフ」 のガンダルフは人名。カッコして 「ウィザード」 とあって、小説や映画を知らない人にも分かる様にしてはいるが、ファンタジーに通じてない人には難しいのか、初期のころはカタカナでの訳しか見たことがなかった。

 「ウィザード」 とは、パソコン用語の方ではなく、ようするに 「魔法使い」 のこと。つまり 「魔法使いガンダルフ」 というわけ。ちなみに 「ウィザード」 の女性形が 「ウィッチ」 で 「魔女」 となる。映画公開後、ようやく 「魔法使いガンダルフ」 というCDが出てきて、今ではすっかり定着した。

 ところで、そのガンダルフ、ウィザードどころか、スーパーウィザードであり、ファンタジー世界では、アーサー王が側近・魔法使いマーリンと並ぶ超大物で、最近はそれにホグワーツ魔法魔術学校長ダンブルドアが加わったが、灰色のローブを身にまとい、銀の髭を地面につくほど垂らしている。知性と勇気の象徴にして、白馬を駆って荒野をかけめぐるという……魔法使いなら魔法で移動しろ、と思わずツッコミたくなるほどのグレートなじいさん。曲では、中間部でアレグロの部分があるが、それが白馬を駆るガンダルフ。名馬・飛蔭(とびかげ)! 冒頭の重厚なファンファーレも、曲(物語)の開始を告げると同時に、ガンダルフの偉大さも十全に表している。あのジイさんは、いったい何を食べていつもあんなに元気なのだろうか? 霞か? 

 三部形式で、アレグロに続いてガンダルフの英雄のテーマともいえる部分となり、曲は冒頭に戻り、重厚に終わる。

 第2楽章「ロスロリエン」(エルヴェンウッド) とある。かつてはよく 「エルヴェンの森」 と訳されてたが、この 「エルヴェン」 とはなんだろう?

 これは 「エルフの森」 となるのが、正解。エルフは、本来おとぎ話に出てくる妖精の一種であるが、小説では血肉を有する亜人種として書かれている。エルフ族……いや、ヒト属ヒト亜科エルフ目というわけである。森へ住み、狩りが得意で、閉鎖的。人間からは神秘の象徴。王族で何千歳というレベルの、たいへんな長命種でもある。

 ゲームにもよく登場するから、ゲームファンは分かるだろう。エルフ属ではなくヒト属としてみたのは、エルフと人間で混血が生まれるため。そのエルフ、綴りは Elf つまり最後の文字が F なわけで、複数形は Elvs となる。それで件の Elven っていうのが、どうやらエルフの所有形と思われる。同じくファンタジー世界によく登場する異種族・ドワーフも、所有形はドワーヴンである。

 ようするに小説からかんがみるに、この楽章の題は 「エルフの森」 としか、考えつかない。曲も、終始アンダンテ〜レントで、木管の神秘的な音色、金管の緊張感のある響きが月光と闇、深い緑に覆われた神の森を、よく表現している。木質打楽器もそれへ彩りを添える。中間部にガンダルフのテーマがひっそりと現れ、エルフの女王との対談を表している。

 「ロスロリエン」 とは、そのエルフの国の名前。エルフ語で 「花の夢みる国」 という意味。これもようやく映画公開後、ちゃんと 「エルフの森」 となった。

 最も長大な3楽章「ゴラム」(スメアゴル) だが、これがまた登場人物(キャラクター)の固有名詞。「ホビット」 という、人間の半分ぐらいの大きさの種族がおり、小説の主人公フロドとサム主従らも、そのホビット族。エルフやドワーフと同じ、異種族。そして、世界を統べるという指輪の呪いにより 「ゴラム」 という醜いカエルの様な灰色の怪物に変化してしまった元ホビットのスメアゴルというキャラクターが登場し、主人公らの旅の邪魔をする。

 異常な緊張感が邪悪さを象徴し、長大なソロ・ソプラノサックスと、ホルストの惑星の天王星のようなぴょこぴょこしたリズムがひょうきんで狡猾なゴラムを表す。中間部の素早い部分は、ゴラムの敏捷性を表す。ちなみに小説の邦訳では 「ゴクリ」 という名前になっている。これはよくつばを飲んで 「ゴクリ、ゴクリ」(ゴラム、ゴラム) と喉を鳴らすから、そう呼ばれるようになったとのこと。原作では半魚人みたいなイメージなのに、映画ではゴブリンみたいなやつになっていて、個人的には、どうかと思った。

 このゴクリは、物語の最後の最後に、重要な役割をつとめる。

 次がグッと雰囲気を変えて、第4楽章「闇の中の旅 a・モリアの坑道 b・カサド=デュムの橋」 だ。ホビットの主人公とその仲間たちが苦労して進む2つの難所で、小説の第1章「旅の仲間」 のクライマックス。猛吹雪により山越えを阻まれ、敵の手に落ちているというモリアの坑道を抜けてゆく。後をつけるゴクリのテーマも鳴る。オーク達に襲われ、また出口へ至る唯一の地下の橋、カサド=デュムの橋の上では、炎の鞭を使う魔神の如き大敵バルログをくいとめたガンダルフが、共に奈落の底に落ちるというシーンもあり、曲が上手にその様子を伝えている。終結部では、ガンダルフを失った一行の重苦しい行軍が描かれる。(ちなみにネタバレするとガンダルフは復活する)

 そして第5楽章「ホビットたち」 一気に飛んで物語のラスト。再びファンファーレが蘇り、陽気で祭り好きなホビッツの描写。この思わず歌いたくなる様なホビットの主題は、実に爽快。いろいろな楽器で繰り返されるホビットのテーマ。中間部の展開も良。ラストも西方世界へ旅立って行くフロドたちを見送る感動で全曲を締めくくり、しかも冒頭の主題が再現され、統一性を出している。おみごと!


オーケストラ版(2000)

 デメイの友人のデフリーヘルという、指揮者デワールトの依頼でワーグナーの楽劇による 「オーケストラファンタジー」 を編曲した人が、指輪をオケに直した。ちなみにみんな名前に「デ」 de がついているが、これはオランダ人特有の苗字につく定冠詞だそうで、とってはいけない。van や del もそう。ベートーヴェンはドイツ人になったから分からないが、ゴッホもきっと本当はヴァンゴッホである。

 吹奏楽曲のオーケストラ化というと、例は少ない。楽器の質や数の関係で響きがゴージャスになる利点があり、逆にオーケストラ曲の単純な吹奏楽化は、掃いて捨てるほどあるが、響きが単調になって悪くなるデメリットがある。そのため、私は特にオーケストラ曲の単純な吹奏楽編曲をあまり評価しない。たいていは聴いていてつまんないし、粗悪品を作る意味も分からない。※ただし、もともとほとんど管楽器だけ(絃楽はほぼ伴奏)のオーケストラ曲は、吹奏楽でも違和感がない。

 滅多にない吹奏楽曲のオーケストラ編曲では、大栗裕の 「吹奏楽のための神話」 が、指揮者の朝比奈隆の依頼で作曲者自身の手によりオーケストラ化されている。「大阪俗謡による幻想曲」 は、これはオーケストラが原曲で、神話は逆だ。また、カレル・フサの高名な吹奏楽曲、「プラハ1968年のための音楽」 も、指揮者のジョージ・セルの依頼でオーケストラ化されている。他にはアルフレッド・リードの 「エル・カミーノ・レアル」 が、何人かの編曲者の手によりオーケストラになっている。

 また、伊福部昭の 「和太鼓と吹奏楽のためのバーレスク風ロンド」 が後に作者自身の手で 「和太鼓とオーケストラのためのロンド・イン・ブーレスケ」 に、保科洋の吹奏楽曲 「風紋」 「懐想譜」 「復興」 がそれぞれ作者の手でオーケストラに、伊藤康英の 「ぐりるよざ」 「叙情的祭」 「フルートダモーレ協奏曲」 も、オーケストラ版がある。伊福部の弟子の和田薫では、1984年吹奏楽コンクール課題曲の 「吹奏楽のための土俗的舞曲」 が、加筆再作曲という形で、「オーケストラのための民舞組曲」 の第5楽章として採用されている。

 やはりオーケストラと吹奏楽の両方が盛んで、両方に通じている作曲家や指揮者の多い日本で例が多いだろうか。

 大家ではストラヴィンスキーの 「サーカスポルカ」 という小品も、元は吹奏楽曲。ちなみに、ベルリオーズの 「葬送と勝利の大交響曲」 という大規模な吹奏楽曲は、任意(オプション)で絃楽器や合唱をくわえても良いという変則編成である。

 さて、結論から言うと、吹奏楽曲をオーケストラにしても、あまり変わらない。オーケストラ曲を吹奏楽にすると、まるで違うのとは対照的だ。

 オーケストラとは、そもそも絃楽合奏に管楽器と打楽器が加わったものが原型で、メインは絃楽器なのである。リムスキー=コルサコフやラヴェル以降の近代オーケストレーションでも、絃楽器と管楽器の役割と価値はかなり等しくなっているものの、メインの旋律は絃楽器が多い。

 吹奏楽では、あたりまえだがメインの旋律は管楽器しかない。それをそのままオーケストラでも管楽器で吹いてしまうと、まるで変わらない曲になる。絃楽器はどこで何をやってるの状態だ。たいていは伴奏に徹し、雰囲気を壊さないようにしているのか、大胆に管楽器→絃楽器への移行が行われない。しかも、金管を絃にするのは無理があるので、やはり木管や低音が絃になるのだが、たいていは木管の単旋律はそのまま木管にやらせるので(笑)

 オーケストラを吹奏楽にすると間逆で、絃楽器の豊かなメロディーを主にクラリネットに請け負わすのだが、これがもう、違和感の塊で難しい。

 この曲の場合も、原曲の吹奏楽の出来が良すぎるので、オケ版が出たというとき、正直 「なんで?」 と思った。客が来そうなのでオーケストラでも演奏したいという興行的な理由以外、オケにする必要がない。

 でも世界初演のCDはロンドン響だしせっかくだから聴いてみよ、ということで聴いたのだが、ロンドン響のバリバリブラスパワーの前に曲どころではなく、非常に面白かったがけっこうビビッドな録音も手伝い、曲の真価を発揮していないような感じもあった。日本初演の名古屋フィルハーモニー交響楽団のもの(←かなりイイ)もあり、楽しめる。

 冒頭からやはりほとんど変わりない、管楽器の響きに、ひっそりと絃楽がつきそう感じ。2楽章も印象的な主旋律はすべて木管だし、サックスは採用されているし、吹奏楽の響きからあまり変わらない。3楽章も、結局ソプラノサックスが主役なのは変わらない。4楽章に到り、ようやく主旋律に絃が出る。しかし、使い方としてはこんなもんであろう。5楽章、やはり、主旋律のほとんどは当たり前ながら管楽器だw 中間部のしっとりとしたアンダンテで、数少ない絃楽の出番。それもすぐに終了する。

 この場合は、原曲の吹奏楽版の出来が良すぎて、もちろん、絃楽が入ったほうが響きに艶と迫力と厚みが増す部分もあるが吹奏楽の素朴さというか田園風景のような世界観が向いている部分もあり、どっちもどっちで、好き好きだろうか。吹奏楽は小説の古風な世界で、オケは映画のビジュアル的世界のようなイメージも私にはある。

 なお、編曲のデフリーへルは打楽器出身で、他の楽器はすべてほぼ等しく写しているが、打楽器に関しては原曲の無駄を廃し、ワンバート減らしているそうである。


第2交響曲「ビッグアップル」(ニューヨーク交響曲)(1993)

 ビッグアップルとはNYの愛称。

 NYの大都会をイメージした表題交響曲で、1番とはまたがらりと変わった雰囲気で、とてもモダンな音楽になっている。3楽章制だが、第2楽章がNYの雑踏の喧騒を録音した効果音をテープ等で流し、それへあわせてドラが地下鉄のトンネルの音のように響く中、3楽章につながる。従って2楽章制の合間に短い間奏が入るという形式であるため、ここでも第1楽章、第2楽章とその合間のカデンツァ、としたい。

 第1楽章「スカイライン」 は、もちろん地平線のことではなく、ビルの輪郭が空を凸凹に区切る輪郭景色。山上高速道路の○○スカイラインは和製英語なので注意(笑)

 正直に云うと、指輪と異なり、このNY交響曲は、私はNYに行ったこともないし、なにがどうNYなのかサッパリだ(笑) 描写音楽ではなく、大都会の印象をとどめた、どちらかというと印象音楽のようにも聴こえるが、その印象が、ラッパがひたすら高音域の信号的なテーマを吹き続けるのと、ちっともつながらない。

 と、いうわけで、その変のツッコミは別にして印象音楽というより、もう何かのPVのようなイメージ音楽とでも云うべきか。摩天楼を仰ぎ見るときの興奮、飛び交う自動車、人種の坩堝。そこにあるのは圧倒的なスピード感。全てが超スピードで過ぎ去る感覚。低速定点カメラでとらえた都市が、すさまじいスピードで1日が過ぎ行く光の洪水、時間の流れ。

 あくまでヨーロッパ人のデメイから見た、文化、経済の最先端基地たる高速都市NYの印象、そのようなものを映しとっている音楽なのかもしれない。

 単純な3部形式で、鋭いトランペットのテーマとその派生が終始圧倒的に響きわたる楽章である。開放的で鋭い金管と、きらめく木管に乗る伸びやかな主題。執拗なトランペットの信号音。中間部では、音量は下がるも、スピード感は変わらない。アンダンテとなり、夜の雰囲気となる。終結部は再び大きく盛り上がって、燦然たる情景を印象づける。

 カデンツァ「タイムズ−スクエア」 マンハッタンの中心地区で、もともとNYタイムズの本社があった交差点でその名があるそうだ。カデンツァとあるが、上記のとおり間奏曲(?)扱いで、おそらく自由にテープ等にて雑踏の喧騒を流し、それへ重々しくドラが被さってくる。その陰鬱でどこか無機質な湿った響きは、地下鉄や下水の地下トンネルへ響く自然音響のようでもある。

 第2楽章「ゴーサム」 Gotham はNY市民を表す言葉である。

 音響が続く中、金管が新たなファンファーレ・テーマを吹く。それがゴーサムのテーマとすると、そのテーマの後、まるでNY市民の1日が始まる朝の風景のような、夜明けのような朴訥とした情景が描かれる。すると再びテーマが復活し、夜明けのような雰囲気となる。さあ、NYの超高速の長い1日が始まる。

 アレグロに突入すると、サックスの長いソロがある。ウォール街の緊張感か。それからしばらく速度は落ちないが音量の抑えられた一定パターンの繰り返しとなり、展開が弱くなる。ここは緊張感を失うとダレた音楽となるから注意が必要だろう。謎のティンパニソロもコンチェルトばりに炸裂する。

 あとはNY讃歌、ニューヨーカー讃歌となって、燦然たる響きの饗宴で、テーマが回帰し、このテーマを繰り返す大きなロンド形式のようにも聴こえる。疾走する市民は、生きる力に満ちあふれている。

 やがて、摩天楼に陽が落ちる。真紅の夕焼けに、壮大な都市の物語は清々しい疲れと共に終わりを告げる。

オーケストラ版(2003)

 これもオケ版がある。話によると例の旅客機つっこみテロの影響で、親愛なるNYへの讃歌の意をこめ、オーケストラ版を作成したとか。正直、あの奇天烈行進曲みたいな曲がオケにどーやったらどーなるのか、想像もつかなかったが。

 まあその、なんだ、やっぱりその、あれだ、たいして変わらねえ(笑)

 さすがに主題のほとんどを金管が吹きまくるため、ユニゾンや、2楽章の静かな部分をしっとりと絃が歌うという具合。響きとしてはかなり瑞々しくなってはいる。それは1番と同じ理屈で、それがオケ版のほうが優れているという意味ではない。せっかくオーケストラにするのだから、せめてテナーサックスはチェロかなにかにしろと思うのだがw

 これも、オーケストラで演奏できるという他に、わざわざオーケストラにする理由が見当たらなかった。


第3交響曲「プラネットアース」(2005)

 惑星・地球という訳より、雰囲気的に、むしろカナのままで訳す必要は無いとも思う。これも表題音楽で、地球賛歌、自然賛歌ではあるが、暗喩的な表現重視というより効果音や合唱も含めた映画音楽のような雰囲気で、1番2番と趣や方向性が異なる。ちなみに女声合唱付のオーケストラ曲である。

 第1楽章「孤高の惑星」 

 カナでいいじゃんと云いつつ、あえて意訳w 大宇宙の中で、今のところ我々の知る範囲で、生命に溢れた美しい惑星は、我々の住むこの地球だけである。それを孤独というよりむしろ孤高としてみた。

 しかし個人的にはこのエフェクト音というか、実際の音を録音したテープでも無い完全な効果音は苦手。シュトラウスのアルプス交響曲のごとく、こういう音をもオーケストラで表現するのなら分かるが、いきなり ゴゴゴゴ とか ズゴシュァー とか云われても(苦笑) 宇宙は真空だから音がしないんじゃなかったのか? それともエーテルでもつまっているのか? そんなわけで、音がした瞬間、アニメかSF映画になってしまう。♪アーア〜 という女声のヴォカリーズも、宇宙戦艦モードに拍車をかける。

 「私はテレザートのテレサ……」 そう云われても、おおー、そうか、って感じで(笑) しかもカーステレオとかならふつうに聴こえるのだが、部屋の5.1chサラウンドではやたらとエフェクトがでかくて、迫力ある音でオケを聴こうとすると、ドゴー がでかすぎ、マルチサラウンドにウーハーが窓をビリビリ揺らすほどで近所迷惑である。ヴォリュームの調節に困る。デススターはどっちだ。

 1楽章は16分ほどの音楽だが、まともに楽器が入ってくるのは8分ほどから。それまでは効果音とオルガン(シンセ?)、合唱と、些少の楽器が神秘的ないわゆる安い 「宇宙サウンド」 を奏でるに留まる。

 合唱で序奏のように呈示されてきた、仮に 「地球のテーマ」 とする歌がチェロ独奏で短く現れた後、我々の知る、暗黒宇宙唯一の蒼き生命の星のテーマが輝かしく出現する。そのファンファーレ的な主題が心地よく、それが全体を支配する形式。主題はほとんど展開せず、吉松隆の交響曲のようにひとつの主題が様々な楽器で繰り返される。やがて惑星は公転軌道を行ってしまい、暗黒が再びやってくる。

 しかしデメイはファンファーレが好きな作曲家である。

 第2楽章「プラネットアース」 

 再びエフェクトが鳴り、アタッカで第2主題が高らかにテーマを吹奏する2楽章へ到る。このテーマは地球のテーマ(仮)の派生かどうかは分からないが、そのようにも聴こえる。

 ファンファーレの後、春の野原、草原、動物の親子を思わせるアンダンテのたおやかな音楽がしばし続く。木管がゆるやかな主題を奏で、絃楽が彩りを添える。生命あふれる地球の喜びだろう。
 
 絃がしっとりとテーマを回帰させ、アレグロへ進む。ティンパニの連打がきっかけとなり、グッと音量が下がって気分が変わると、マーチ調となって復活し、コーダへ突入する。

 光り輝く金管のオスティナートと低音の断固たる意志のような安定したリズムが心地よく、タメからひと息に楽章を閉じるや、またエフェクト。シンセと金属打楽器がキラキラと星屑を現す中、アタッカで3楽章へ。

 第3楽章「母なる地球(ほし)」

 宇宙と書いて 「そら」 ならば地球と書いて 「ほし」 だろう、なんてw

 第3の地球のテーマが再び燦然と鳴り渡ると、すぐに明るい木管が主役の楽しげなアレグロとなる。ここの響きは、1・2楽章よりシリアスではなく、おどけた感じがする。

 それが盛り上がると頂点でヴォカリーズ登場。静かになり、第九よろしく管弦楽によるテーマの前奏に引き続き、荘厳に歌が始まる。

 合唱が3節ぐらいだと思うが繰り返し歌うたびに音楽は盛り上がり、大頂点でコーダへ突入し、三度讃歌が鳴り渡る中、壮大な地球物語は静かに歌へ戻り、大団円で合唱が地球のテーマをヴォカリーズし、幕を閉じる。ここには何の疑いもなく、無条件に大地を愛する感情があふれている。

 全体的にほとんど管楽器の音楽で、絃楽は補佐にまわっている。つまりほぼ吹奏楽曲といえる。オーケストラにする意味があったのかといえば、無いかもしれない。そもそも、当初から管絃楽で作曲したデメイの初作品の様な気もする。合唱はなかなかうまい使われ方をしている。解説によると、ホメロスの詩歌「ガイア讃歌」 が歌われる。ガイアとは、大地の女神。すなわち、地球の神格化である

 それぞれの地球讃歌のテーマによる3つのそれぞれの楽章が独立しつつも、密接にテーマが関わり合っているという構図だと思われる。

 しかし、悪くはないが、ちょっと表層的な恍惚感に支配されすぎかもしれない。大編成に6声の合唱にサウンドエフェクト(これが、生楽器と合わせるのが至難)という交響曲ではあるが、出てきたものは完全に環境音楽だw デメイは他にもっと良い曲もあるし、第4交響曲に期待か。もっともデメイに小難しいソナタ形式やご大層な精神性とかは求めていないけども。

吹奏楽版(2006)

 あっという間に吹奏楽版がでた。予想通りというか……ほとんど変わってない! 編曲はデメイ本人とのことである。大阪市音楽団での初演を想定に編曲された。

 この内容で50分は長いと感じるか、または……。

 私は、長い割には長さを感じさせない力はあると思う。長くない、とは云わないが。

 ……。

 というか、どう聴いても絃楽器の音がするのだが……!?

 なんとー! ふつうにチェロパートが入っている!! 吹奏楽というか、吹奏楽+合唱+チェロじゃないか!

 ほとんど変わらねえはずだよ……。


第4交響曲「歌の交響曲」(2013)

 3番より8年ぶりに書かれた4番は、かのマーラーが最晩年を過ごし、近郊のアルトシュルーダーバッハにて大地、9番、10番を作曲していた北イタリアのドッビアーコ(ドイツ名トブラッハ)のグスタフ・マーラー音楽週間で初演するために特に委嘱されたもので、マーラーに影響され、マーラーを範とし、独唱(オランダ再演CDではメゾソプラノ)と児童合唱と吹奏楽のために書かれた、全6楽章30分の歌入り交響曲である。

 まず歌入りの多楽章交響曲という点でマーラーをかなり意識しており、また、マーラーの特に1番、3番、5番からの引用が分かりやすく認められる。細かい専門的なところでは、もっとあるかもしれない。

 さらに、歌詞となった詩人にもマーラーとの共通点がある。マーラーが大好きだった詩人、リュッケルトの、マーラーも歌曲とした「子供の死の歌(亡き子を偲ぶ歌)」から、

 第1楽章「いま1年がすぎた」
 第2楽章「もし戸口から」
 第3楽章「再開」

 が採用されている。

 そして第4楽章にはハイネの「若き悩み」から「2人の兄弟」 第5楽章にはホフマンスタールの「詩集」から「早春」、第6楽章には同じくホフマンスタールの「詩集」から「道化師の歌」が採用されている。

 マーラーの引用もあってか、非常に純粋クラシック調の曲で、我輩などは大好物の部類だが、吹奏楽聴きにはちょっととっつきにくいかもしれない。また、マーラーを知らない人には、面白さは半減以下だろう。しかし、標題交響曲として大傑作の1番の後、正直2番3番と迷走を続けたデメイの交響曲としては、満を辞して登場した感がある。6楽章制だが時間も30分とちょうどよく、1つの楽章が5分ほどで、これも聴きやすい。たいして展開の無いダラダラした楽章が10分以上も続く2番や3番とは大違いの段違いだ。

 ドイツ語圏での初演だったためか、副題はドイツ語で Sinfonie der Lieder シンフォニア デア リーター とあり、カッコで Symphony of Songs とある。意味は、歌の交響曲 である。

 演奏の難易度も高そうだし、歌のおかげで、アマチュアバンドが演奏するには条件が厳しいところもあるだろうし、なにより日本では、コンクールで使えないw コンクールで演奏してもらえるような編成と演奏時間と内容の曲しか書かない(書けない?)日本の作曲家に対し、いや、さすが、良くやってくれたよデメイさん、と言いたいくらいだが、日本で演奏される機会があるのかどうか。プロの吹奏楽団の度量が試される。市の援助の外れた大阪市音楽団では無理か?

 また、日本の吹奏楽聴きに、この(いわゆる吹奏聴きにはいまいち面白くなさげな)曲が受け入れられるかどうかも気になるところだ。

 第1楽章「いま1年がすぎた」

 リュッケルトをぐぐったが、残念ながら既に高名作曲家によって曲がつけられている詩の訳しか出てこなかった。特に、マーラーのリュッケルト歌曲集と詩がかぶっているのかどうかを知りたかったが、良く分からない。

 冒頭から、マーラー1番序奏主題が提示され、変奏される。さらに、3番の重い行進曲調になって、すぐに歌。ここらへんのリメイクというか、引用のうまさは、チャイコーフスキィベートーヴェンの主題引用によるリスペクト作品を作ってきたデメイの手腕だろう。さらに2番の4楽章、5楽章の歌の部分のような響きもある。これらは伴奏だが、歌の旋律も非常にマーラーらしく、また、デメイのおおらかな調子も併せ持っている。最後は、5番1楽章の運命動機が現れ、冒頭の1番序奏動機変奏にもどる。

 第2楽章「もし戸口から」

 アタッカで2楽章。これは、あからさまに2番3楽章の引用であるが、旋律自体はかなり変形されている。児童合唱がシニカルな調子で歌う。中間部では朴訥とした雰囲気がなんともデメイっぽい。一瞬、1楽章の1番序奏動機も現れる。独唱が入ってくると、3番1楽章のトランペットの動機も登場する。

 第3楽章「再開」

 続いて、ホルンのソロから、独唱へ。このオランダ初演盤ではソプラノなので、いかにも2番の4楽章感が漂う。再び、1番序奏動機〜そしてその変奏である1番4楽章動機が、まさに劇的に扱われる。

 第4楽章「2人の兄弟」

 この敵対する兄弟の詩は、ヴェルディの怒りの日の如き怒濤の冒頭から、激しく金槌が打ち込まれる嵐のような展開。落ち着いてから独唱が重々しく歌い始める。私は特にマーラーは聴こえないが、専門的には何か関連があるのかもしれない。中間部のフルートの辺りが、なんか聴いたことがあるようなないようなw しかしすぐに音楽は冒頭の再現。コーダではテンポを落とし、重厚な幕切れ。と、思いきや、レントの中間部までが再現され、消え入るように終わる。

 第5楽章「早春」

 重苦しい冒頭から、指輪物語交響曲の主題のようなある種の牧歌的な展開をみせる。歌に続いて現れるトランペットのソロ。歌と伴奏が続き、静かに終わると、輝かしい終楽章へ。

 第6楽章「道化師の歌」

 ここもそのまま3番5楽章の ♪ビム〜バム〜 がテンポアップでマーラーと同じく児童合唱により歌われ、独唱も加わり、変奏される。さらに、絶妙に1番4楽章のコラール主題も混じってきて、大いに盛り上がり、堂々と終結。マーラーといえばやたらと長い交響曲だが、美味しいとこどりで、数分で終わるのも面白い。

 全体に非常にレベルの高い、単なるブラバン曲を超えた、クラシックとしての質と規模を持った曲で。マーラーファンも楽しめ、我輩のような吹奏楽とマーラーの両方を知る者には二度美味しいという作りに、大いに感謝と賛意を贈るものである。 




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