西村 朗(1953−2023)


 50年代生まれの中堅作曲家では吉松隆と並んで将来の巨匠の2台巨頭として破竹の活躍をした西村であるが、芸大アカデミズムの申し子でありつつも破格の音楽を産み続ける西村と、野より逞しく這い上がってきたわりに可憐な一輪の花のような作品を書き続ける吉松とは驚くほど対照的であると同時に、2人は大の仲良しという点も注目できる。

 西村の作風は時代と共に微妙に変遷を遂げており、個人的には、そのすべてを聴けるというわけではない。特に中期というべきか、ヘテロフォニーとドローンに支配されたトローンとした音楽はなかなかに苦手であるし、ピアノ曲も難解で無理。打楽器合奏曲ケチャにあるようなアジア的なリズムの饗宴も垣間見れ、そういうのは面白く聴けるし、楽章ごとにそういうドローンとデッドなリズムが同時に胎動する場合もあって、一筋縄ではゆかない作曲家だと思う。伝統的な多楽章制の協奏曲があったと思うと1楽章制の巨大管弦楽曲もあり、近年の協奏曲も1楽章制だったり、ソロを含みつつ標題音楽なものもある。

 室内楽や管弦楽曲、特に協奏曲が多い西村だが、初期と室内楽に交響曲が並んでいる。


第2交響曲「3つのオード」(1979)

 芸大修士の卒業作品ということで、作曲は1979年と最初期の作品になっている。3楽章制で、伝統的な手法を踏襲している。その意味では、アカデミックな卒業作品ということになろうが、中身がなかなか一筋縄ではゆかぬ。

 まず1楽章はソナタ形式でもなんでもなく、作者によるとアンティフォニーである。なんですかそれはという感じだが、アンティフォナーレという曲を知っているが、響き合うとか、反響し合うとか、そういう意味のようで、作者の指定では「呼びかわしの音楽」ということになっている。

 作者の解説によると、主題の呈示が3回まであるが、そのまま、やや第1主題を変形してすぐコーダへゆく、とのこと。その様々なシーンの中で、楽器間の呼びかわしや、主題間の呼びかわしがあるという趣向。ソロピアノパートが重要な役割を演じる。

 第2楽章においてはヘテロフォニーの萌芽が見られる。木管が東洋的な響きを模すなか、高音域をヴァイオリン群が常にカノンを深層意識を流れるノイズのように奏でているのが印象深い。一種の変奏曲らしい。

 3楽章では、打楽器もドコドコ鳴りだし、西村のリズミックな部分も聴けるが、全体的には再現を担当する楽章のようです。じわじわと盛り上がって最後に強烈な光を発するクライマックスを築く手法は、このころから模索していると分かる。クライマックスの後、音楽は消え入るようにだが細く鋭く、眩しさに目をつむるようにして終わる。

 全体的に、構成は流石だが響きが浅い。よくある現代音楽の響きから脱してはいない。若書きだから当たり前だけれども。その中にあってしかし、際立つ個性の元が確かに聴こえる。3楽章制だが、各楽章間には特段速度や性格に変化があるわけではなく、その点がせっかく主題の回帰と発展を図ったシンフォニーなのに面白みに欠ける。

 良いか悪いかは好きか嫌いかは分かれるところだろうが、凄い、というのは誰もが感じる曲だと思う。


第1室内交響曲(2003)

 80年代よりオーケストラにおいては大管弦楽の大作を書き続けてきた西村が、2000年にいずみシンフォニエッタ大阪の音楽監督に就任したのを受けてか、室内楽における交響的な響きを追及するようになり、以下連作として3つの室内交響曲(シンフォニエッタ)が立て続けに書かれることとなった。

 第1番は2楽章制。第1楽章が大きな呈示部で、第2楽章が展開部とコーダ、という構成らしいが、アカデミックなものではなく、西村流の響きの追求が聴かれる。

 なお、いずみシンフォニエッタは25人からなる室内楽団である。

 重厚な(作者の言によると4音の和音による)モティーフが連続して現れた後、鋭く短い第1主題と、木管による旋律的で長い第2主題が現れて、和音と合わせて3つのテーマとなるとのことだが、その全体でひとつの呈示部となっている。ソロイスティックな響きが魅力な楽章。最後のほうはしかし小展開になっているような気もするし、再現部のような感じもする。

 2楽章は1楽章で現れたテーマがそれぞれ複雑に展開するのだが、リズムの点においても、アレグロなども出てきて、深刻な1楽章と対を成し、作者が云うには多少バッカナール的性格も有するディヴェルメントとしている。
 
  冒頭は和音と第1主題の展開であり、雰囲気が告示している。徐々にテンポが上がり焦燥感が増し、木管が第2主題をイジッた後、なにやらアレグロで異様に緊張感のある戦闘シーンのような音楽が(笑) 

 どこがディヴェルティメントなんだ? コレwww

 それから伊福部のような重厚なテーマが金管で吹奏され間奏となった後、ジャズっぽくもなって、それらが入り交じり、やがて静かなコラール(のようなもの)から短い2連打で終わる。

 室内楽において大管弦楽に負けぬ複雑で厚い響きを創り出し、かつ室内楽ならではの軽快な動きをも生み出している点は、さすがの力量だと思う。


第2室内交響曲「コンチェルタンテ」(2004)

 1番から続けざまに書かれたもので、ここでは副題の通り、名人ぞろいの室内楽がそれぞれ協奏曲におけるソロ的な役割を与えられ、1番の響きを追求した造りと対比していて面白みを出している。つまりここでいうコンチェルトとはバロックのそれや、バルトークの管弦楽のための協奏曲等に代表される「合奏協奏曲」ということである。

 また3楽章制であるが各楽章にも副題がついている点も1番と異なる。

 I 導入部とメディテーション
 II スケルツォ
 III ポストリュード
 
 弦バスの独白より交響曲は幕を開ける。一楽章は弦楽合奏で、各弦パートの名人芸が発揮される。西村の弦楽四重奏を聴いても分かるとおり、およそ弦楽器の極限まで表現を追求する姿勢は変わらない。瞑想部分では、ソロの出番が多くなり、特にヴァイオリンと弦バスがソロの掛け合いを行う。ちなみに弦楽パートの数はヴァイオリン8、ヴィオラ3、チェロ2、コントラバス1 だそうです。

 スケルツォはたんなる速度記号ではなく、ここでは「スケルツォのような曲」という意味として良いだろう。ただし作曲者ははなから「スケルツォ」を作曲したようだが。(明確なスケルツォ部、トリオ部という区分は無い)
 
 茫洋とした前楽章とは明確に性格を異にし、6/8表紙で、増殖するような微細主題とその中に流れる旋律が面白い。やがて打楽器やピアノも躍り込んできて、次楽章への布石となる。

 3楽章は2楽章の明確なリズムがゴシャッと崩れて、カオスとなる面白さ。管楽器が主役となり、比較的自由なアドリヴ的な響きを奏でる。やがて弦楽が1楽章のエコーとして入ってくると、雰囲気が一変。(管楽合奏と打楽器のための「巫楽」のような雰囲気にも)

 だんだん鎮まって、最後は冒頭に戻ったような、弦楽の瞑想が現れ、一瞬の盛り上がりで幕を閉じる。

 外観的には1番と同じく、楽章性格のしっかりした古典的な(室内)交響曲だと思います。2楽章を起点とした、弦の協奏−スケルツォ−管打の協奏 と言えるかもしれない。

 なお、3つの楽章はアタッカで続けられる。


第3室内交響曲「メタモルフォーシス(変容)」(2005)

 変容(メタモルフォース)と変奏(ヴァリエーション)の違いってよく分からないのだが、違うらしい。

 私が聴いたことのある高名な変容(変奏は変奏曲というのだが、変容は変容曲とは言わないようである)は、レスピーギの「変容」と、早坂文雄の「管弦楽のための変容」と、なんといってもR.シュトラウスの「23楽器のためのメタモルフォーゼン」くらいである。(ただしレスピーギは副題として管弦楽のための主題と 変奏 となっている。)

 さて、これは第3交響曲ではあるが、6つの部分に分かれる「管弦楽のための変容」に等しい。

 西村によれば、変容とは変奏のような明確な主題と終曲を含むその発展(スタートと途中と終わり)があるわけではなく、ひとつの全体的なものが常に蠢いている「容体」であるらしい。

 無調っぽく不定のリズムと偶発的な響きで始まり、水の流れるような響きの支配する部分へ。ホルンの印象的なシグナルが鳴り渡ると、クラリネットがそれを受け継ぐ。次なる部分ではリズムが細かくなり、スケルツォの役割を果たし、打楽器も活躍してカオスとなるが、どことない不安感は変わらない。そしてピアノが機械的にリズムを引き継ぎ、バスドラが地鳴りを奏でる中、弦楽や管楽の異様な幻覚の風景が。突如としてそれがおさまると、現代点描ふうの乾いて冷たい響きが場を支配する。そして最後は、点と線が少しずつ消えて行きつつ、新たな動きも(最後なのに)生まれてるのだが、やはり静寂への誘惑には勝てず、すべては冷たい暗黒の中に去って行きます。

 全体的には、3番までの中で最もシリアスかと。作者の変容の規定へ厳格に従い、どこか浮遊感の漂う、得体の知れない物体と精神の全体的な蠢きがよく表現されていると思われる。正直、難しいが、最も味わい深いだろう。

 4番5番は未聴。






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