ロット(1858−1884)
 

 ブルックナーのオルガンの生徒で、マーラーやヴォルフの友人、ハンス・ロット。有り余る才能を持ちながら若くして死んじゃった人は数あれど、モーツァルトやシューベルトは何百曲も残っているだけましで、カリンニコフやロットに到ると、本当に残された若々しくもキラキラと光かがやいている少数の作品を聴くにつけ、惜しまれてならない。
 
 ロットは特に神経衰弱が激しく、マーラーよりも繊細で、マーラーよりもぜんぜん豪腕ではなく、けっきょくは作品批評と中傷と貧困に耐えられずに、26歳の時、精神疾患のまま結核で死んでしまう。
 
 ロットの作品はマーラーの先取りで、ブルックナー+ワーグナー+ブラームスちょこっと、というものだが、そのまとめ方がぜんぜん上手い。同じ系統ではフルトヴェングラーが実はいるのだけれど、作曲技法、何より発想が段違いだと思う。
 
 ロットはもともと音楽史の中に埋没していたが、ほかならぬマーラーの書簡などでその名がたびたび現れ、興味を持った研究家によって最近、ようやく日の目を見たらしい。草稿が図書館にまとめて保存されていたことも幸いし、復元が進んで、演奏可能な作品も何作かあるようだ。

 その中でも、特に、交響曲第1番は、CDも多く、演奏会の演目にのぼることも増えてきたということである。


第1交響曲(1880)

 残されたシンフォニーは、もうひとつ、弦楽合奏のための交響曲というのがあるようである。2番は、スケッチが少々あったそうだが、病気になったロットが書いては棄ててしまったという。
 
 ロットの交響曲は21歳の学生時代の作品であるが、この時期、友人のマーラーはまったく習作の域を出ない室内楽曲や破棄するに足る初期の交響曲の断片を書くのが精一杯だったことを鑑みると、その才能の消失が本当に惜しまれる。
 
 作風は、上記したが、この時期の学生がハマっていたワーグナー、ブルックナー、ブラームスの影響を脱していないどころか、あえてそれらのオマージュとしてまとめあげているようですらあるが、そのまとめ方が、ロットの才能の片鱗を見せていて、そのまま成熟すれば間ちがいなく、マーラー級、あるいはマーラーをも超えた偉大なシンフォニストとして音楽史に名を残していたであろう傑物だったのだが、まさに運命というのは彼のためにあるようなものと確信する。
 
 何より、マーラーの1番交響曲の10年前の作品であるが、作風としては、マーラーの1番を凌駕している部分すらある。さらには、各所に出現する、マーラー的な音階とリズムの特徴ある主題。
 
 というか、マーラーしぇんしぇえ、パクったでしょ!!!
 
 ほとんど同じじゃないッスかー!!(@Д@;)
 
 50分を超える大作であり、かつ伝統的な4楽章制。1楽章は、ヴィーン音楽院の作曲コンクールに提出して、ただ1人落選している。マーラーは同コンクールで、現存していない室内楽作品、つまりピアノ五重奏曲のスケルツォ楽章で、受賞したとのこと。つまりロットは現在にも通じる大作で賞を逃し、マーラーは無くしてしまってもかまわないような学生作品で受賞した。ロットの先を行き過ぎた才能の片鱗を充分に伺わせるエピソードだと思う。
 
 アラ ブレーベによる1楽章は、民謡的でもあるが、可愛らしいテーマによって幕を開ける。ブルックナーの生徒だからと、ブルックナー開始(あるいはそのようなもの。)を期待していた凡人の私は、そのあまりに朗らかなトランペットによる主題の開始に、戸惑った。これはまるでむしろワーグナー風であり、後にマーラーが好んで使う手法に似ている。
 
 しかし弦楽が入ってきて、ブーンと厚みあるオルガン的なトーンが現れると、ようやくブルックナーの系統でもあると認識できる。

 のっけから、和声がまず神秘的で、ワーグナーを思わせるし、ということはブルックナーも想起させる。しかし、ロットらしいのが、それらを若者らしいというか、彼らロマン派の権化である先達のように延々と伸ばすのではなく、カッコイイ部分だけ頂いちゃいましたとでも云わんばかりに颯爽と鳴らしている。
 
 それだけではなく、フーガの部分ですら、その進行がワーグナーへのオマージュのようで、またコラール風の箇所(というかコラールのパロディ?)も、ブルックナーへのオマージュであり、それらに聴きなれた耳には、思わずニヤニヤし通しの10分間となる。

 オマージュが盗作ともとられかねない時代に、これでは、「やれやれ、人のものを盗むしか能の無いやつがこの学校にいたのか」 となるのも無理はないような気がする。この時代は、いかに古典的な範疇の中で古典的な様相を表すか、が、優秀かどうかの基準だったように思える。教師の中では、ブルックナーだけが、彼を弁護した。
 
 彼の中の革新的な部分で後にマーラーもおおいに利用した手法で、魁となっているものに金管の扱いと打楽器の多用が認められる。打楽器はまだ種類的にはティンパニとトライアングルがあるだけだが、異様なほどの活躍度であり、マーラーのトライアングルの偏愛の萌芽を彼に観るようだ。また金管の主題が、ソロイスティックで、しかも、その進行がやたらと半音階で、これはワーグナーの影響ということだが、なんとも、度が過ぎていて奇妙にそして新鮮に響く。
 
 また解説によると第1楽章には楽章全体で主要主題の呈示しか役割が与えられておらず、(つまり交響曲の第1楽章なのにソナタ形式ではないということか?)その伝統を逸脱した形式も、作曲コンクールの審査員を憤慨させたのであろう。
 
 2楽章は緩徐楽章。弦楽合奏の多層的な響きも、この時代としては斬新だ。ブルックナーの手法だろうが、奏でられる主題が、瞑想的というより、歌謡的で、つまり、マーラー的な部分の魁というのは、ここにも見られる。(金管のテーマは相変わらず半音階で動いて、なんか不思議な感覚になる)

 後半は、しかし、深い祈りのテーマが管弦楽を駆使し重層的に鳴って聴き応えがある。
 
 問題は3楽章のスケルツォで、1・2楽章をむしろ超えるこの大規模さがまずなんといってもマーラーのアイデアを先取っていて感心するし、スケルツォ部の主題が………ぜったいマーラーはこの総譜を見せてもらって、心に残り、後にロットが死んでから、種々の交響曲で復活させたのだと思う。無意識にせよ。

 もっともそれは、スケルツォだけではないのだが。

 マーラーは、ロットとは感性がとても似ていると自分でも告白しているので、ああ、こういう音の作り方もあったんだ、と眼からウロコが落ちてよりは、どんどんその手法を自分なりに追求していったのでしょう。
 
 ささやかな響きながらも、出番としてはトライアングルが大活躍しますので、トライアングル好きは必聴(笑)

 そして4楽章なのだが、20分を超えるもので、交響曲全体の構成としても、まったくマーラーの1番と同じなのだが、マーラーが自ら単純に作曲したと思っている1番に比べて、その豪快さと複雑さと完成度の高さは、群を抜いている。
 
 なにより後半の燦然たるコラール手法が、ブルックナーの正統な後継者を示しているし、前半の延々としたアンダンテの部分も、ワーグナーの楽曲風の壮大さをもっている。ブルックナーはロットのことを気に入っていたようだが、自分の純粋な後継者をようやくえた想いだったに違いない。いろいろと骨を折って推薦状を書いたりしたが、ブルックナーそのものが変人奇人扱いだったためか、まるで効果が無かったということだ。
 
 中間部で大きく盛り上がって、そこで終わりと見せかけてまだ半分という演出も、すごい。

 そこより長いフーガが続き、バッハ的な展開を見せつつも、金管がどんどんからんで来るくだりなども、かなりカッコ良い。
 
 フーガからコラールへと到り、最後は、しかし、清浄へと収束して行く様も、たいへんに斬新で、ワーグナーへのオマージュを示しており、とてもファンタスティックな響きになっていると思う。




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