フルトヴェングラー(1886−1954)
云わずと知れた20世紀を代表する大指揮者、伝説の人、超人、神、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー。当時のドイツ系指揮者は交響曲の1つも書けないとまともに指揮はできないと思っていたのか、はたまた本気で「自分の本分は指揮者じゃなく作曲家」と思っていたのか。クレンペラー、ワルターもそうである。書いてない人は、まともな人だったのだろうw
中でもフルトヴェングラーは自身を最後の超ロマン派とでもみなしていたものか、膨大な規模の交響曲を3曲、残している。まさにマーラー+ブルックナー+ワーグナー+R.シュトラウス÷4というほどに。(じっさいに強いのはブルックナーとワーグナー)
その点、作曲を正式にプフィッツナーに習ったクレンペラーなどは、作曲は新古典的で斬新だ。
ただし、そうは言ってもフルトヴェングラーだって、なかなか辛辣な響きをしている部分もある。
第1交響曲(1943)
4楽章制で、いきなり75〜80分以上の規模。特に第1楽章が充実し、30分ほどにもなる。まるでマーラーの3番に匹敵する。その代わり、第2楽章のスケルツォが9分と小規模。いや、9分なら立派な部類だが、全体からすると、まるで間奏曲。その構成は、ブルックナーに酷似する。
ブルックナーやマーラーとの最大の違いは、そのフレーズの息の長さ。そして、地味に構成もしっかりしているようで自由形式に近く、とにかく本当の意味での天国的な長さの音楽がゆったりと進行する。従って、聴く人によっては相当ダラダラしているように感じると思う。
じっさい、自分がそうなのだが。
フルトヴェングラーは作曲に関してはかなり慎重派で、この1番はベルリンフィルで自作自演をしようと試みたが、1回のリハーサルで引っ込めてしまい、結局生きているあいだは一度も演奏しなかった。若かりしころ、1楽章のラルゴを披露した事のある若書きの習作交響曲は、その後何度も何度も書き直され、やがてこの1番として結実した。その間、ほぼ40年間ひたすら書いては改訂し書いては改訂し、書き続けてきたのだが、やはりいざ発表するとなると躊躇したのだろう。しかも、第2交響曲を書き上げた後も、再びすっかり書き直したという。そこまでして、死んでも公開しなかった。
巨人指揮者の繊細な一面である。
1楽章は、例えばマーラーの3番の1楽章も同じく、古典派交響曲1曲分に相当する30分を要するが、マーラーのそれは主題が4つもあってそれらが順次ソナタ形式で展開し再現されるから必然的に長くなるのだが、フルトヴェングラーの場合、主題は2つしかなく、長いというのは純粋に、本当に長い。
そもそも、第1楽章はテンポ的にもラルゴであり、いわゆる緩徐楽章に相当する。
とはいえ、冒頭は劇的だ。絃楽の印象的な序奏により、金管のコラールが現れて、鎮まると絃楽により穏やかな第1主題。メランコリックな合いの手も入る。主題はすぐさま展開され、緊張感を帯びる。主題はいかにも苦悩を味わい、激しく噴火する。不協和音も躊躇なく入れてくるあたり、ただの懐古的ロマン主義ではない。
第2主題は突如として出現する。物憂げな、やはりメランコリックなもの。木管に引き継がれ、第2主題も展開する。展開しながらの提示部(マーラー、ブルックナーの流儀)はしばらく続き、金管も加わり、壮大に盛り上がる。
楽想が落ち着き、ゆったりとした各種の楽器が主題を入れ代わりに少しずつ展開してゆくという本格的かつ膨大な展開部に到る。しかも再現部すらも展開部の続きという、これもいかにもマーラー・ブルックナーの技法を正確に使用している。コーダも迫力があり、解放感に満ちており、かつドラマを失わない。
主題を執拗に変奏し続けてゆく、ドイツ音楽の正統にして最後の大輪の華。それが大指揮者の生み出した音楽なのかもしれない。
2楽章はスケルツォ。9分ほどだが、伝統的ではなく、変わった雰囲気をもつ。第1スケルツォはピチカートの中に異国情緒で幻想的なフルートやオーボエの主題が現れ、流れてゆく。第2スケルツォはリズムを刻む木管のコミカルで面白い音楽。それがどっと盛り上がって、讃歌に到り、冒頭の雰囲気に戻るも、展開部のようになって主題が変奏されてゆく。そう、つまりここもマーラー流の展開するスケルツォである。
3楽章はアダージョで、こちらが本当にゆっくりとした緩徐楽章だが、時間的には15分ほど。実に幸福感に溢れた豊かな旋律が現れ、木管などの楽器に引き継がれて展開する。途中、何度か盛り上がって頂点を築くがあまり感情の起伏はなく、上品で繊細な曲。まさに、それがフルトヴェングラーの創作の特徴だろう。てっきり常套的な進行かなと思いつつも、妙なところで強烈な不協和音が出てくるのも面白い。ラストにはなかな幽玄なチェロのソロも聴かれる。そして和平へ。
4楽章フィナーレは25分を数える長大なもの。かなり自由な、展開部と再現部が曖昧とした、ソナタ形式。マーラーやブルックナーの流では、提示部から既に展開し、展開部ではとうぜんさらに展開し、再現譜でも展開する。つまり、ソナタ形式とは、彼らにとっては、展開部こそが全てなのだ。
警告音のような木管の上下運動に、なんとも劇的な金管の動機。ここら辺の発想も面白い。第2主題はゆったりとしたもので、ここでもフルトヴェングラー式に息の長い旋律。遅いというわけではないのだけど、かなりフレーズとして表現が難しい部類。その意味では、確実にブルックナーの影響があるが、フルト流のオリジナルで、かなり聴き易い。
アレグロになり、雄々しく展開部が始まる。いったん収まって、再び最下層から音楽の上昇が始まる。何度打ち倒されても立ち上がる英雄。どこかで聴いたテーマであるが、フルトはそこまで芝居がかっていない。何度も上下行を繰り返して、ひたすら展開部は続くが、さすがにやや長い。
そして、残り5分というところで、いよいよ展開部最終部からドーン! と、コーダに突入する。主題が展開して、トランペットとホルンで素晴らしい頂点を築き上げる。ティンパニのトレモロも堂々と終結する。
フレーズや展開が長い(つまり曲が長い)のに慣れて、いかにもマーラーやブルックナー的な響きがするのを我慢すれば、実に親しみの持てる音楽であり、かなりカッコイイですぞ。
第2交響曲(1945)
こちらも正統な4楽章制。時間も1番と同等の75〜80分以上。
しかし自己反省に満ち満ちた1番と異なり、2番は自作自演の録音も多数(Wikipediaによると6種類)あり、他の指揮者による録音も多い。日本人では朝比奈隆による日本初演の模様が録音され販売された。
アッサイ・モデラートの第1楽章。ファゴットから始まる木管が現代的な乾いた動機を短く示す中、穏やかで、感傷的な第1主題が訥々と奏される。主題が長い息でじわりと盛りあがり、かっこよく頂点に到ると、木管で第2主題。これも穏やかな平安な気分のもの。絃楽器がそれらを複雑に展開し始めるも、音楽自体は後期ロマン派そのもの。ショスタコーヴィチやハチャトゥリアン、それにプロコーフィエフのそれと比すると、とても戦争中に作成された音楽とは思えない。いや、これは逆の意味での戦争音楽か。そう、シュトラウスのメタモルフォーゼンのように。戦争の果てにみる平和への夢のように。
夢想と言えばそれまでだが、響きの中に哀しみも見え隠れする。
金管が加わって劇的に頂点を形成し、休止から再び不安げな響きに戻る。自由なソナタ形式ではあると思うが、ゆったりとした中間部は、いかにも大指揮者の好みそうな幻想の世界。古き良きドイツ的なものを、最後の最後に残していたのは、指揮の世界で名を挙げたロマンの権化であった。フルトヴェングラー自体は、ストラヴィンスキーやヒンデミットの新古典主義的作品の指揮も好んだが、自らの生み出す音楽は、やはりどうしても、膨大な和声と夢みる旋律の海だった。
しかし、機能和声原理主義者でも無く、ときおり、辛辣な不協和音が炸裂するのも興味深いし、面白いところ。短くコラールも差し込まれ、音楽は展開してゆく。後半分はティンパニも導入され、劇的さはいや増す。コーダでは解放されたかのように響きが戻り、畳み込んで一楽章を閉じる。
2楽章は緩徐楽章ではあるが、アンダンテで、時間は10分ほどと短い。リズム良く、心地よい気分で、適度な速度で音楽は進んでゆく。ところが、5分もすると突如として緊迫感を帯びる。しかしすぐに幸福感あるテーマがやってきて、ティンパニと金管も堂々と鳴り出し、盛り上がる。コーダでは静謐で室内楽的な音楽が現れる。
3楽章は変わっていて、アレグロ〜モデラート〜アレグロの3分形式。時間も15分ほどと長い。緩徐楽章より長いスケルツォ楽章というのはたまにあるが、リピートがくっつくと時間的に長くなるというのが理由としてある。ベートーヴェンの第九も、ベーレンライター版をやる指揮者では、2楽章のスケルツォのリピートを全部やって、3楽章をサクサク演奏すると、2楽章のほうが長くなる人もいる。
ひたひたと、どこか中東風の旋律が提示され、それがトランペットも鳴り渡って大いに盛り上がる。ここでリピートがあるようだ。第1アレグロが2回演奏されると、フルートから穏やかな部分へ。モデラート。しかし、けっこうすぐに第2アレグロへ到る。雰囲気が変わって、より東洋風となるアレグロだが、再現部となって冒頭に戻る。また、モデラートも再現される。
1楽章とほぼ同じ規模の4楽章は複雑に推移する。まず深遠にして膨大な遠景を望み、ラングサムでブルックナー的な金管のコラール動機。モデラート・アンダンテとなり、たおやかに展開する。次第に速度を増し、アレグロに突入する。大規模な管絃楽を使い、ヒステリックではなく、細かく職人的。明るい調子で祝典的な気分すらある。休止を挟みつつ、音楽は分かり易く推移する。モデラートに戻り、アダージョのようなゆったりとした雰囲気。木管からオルガン的響きが再び現れ、コラールも響く。
薄いオーケストレーションにより、短い動機が細かく変奏されてレンガ作りの建物のように連なってゆく。これはまるっきりブルックナー手法を駆使している。ティンパニとドラまで鳴って、劇的な幕引きを迎えるも、再びテーマが戻ってくる。そしてプレストに到達し、金管が激しくテーマを掻き鳴らす中、堂々たる終結和音で結ぶ。
フルトヴェングラーらしい先進性があった1番よりむしろスタンダードな、オーソドックスな作りをしているように感じられる。つまり、1番は死ぬまで発表せずに、2番は自作自演しまくっていたのは、彼なりに先進的な1番はウケが悪いのではないかと心配したのではないだろうか。
問題は、当時既に、フルトヴェングラーの作風より遙かに未来的な音楽が完成していた事だろう。
第3交響曲(1954)
死の前年に一応完成した演奏時間60数分の「小曲」で、内容も深遠で哲学的瞑想感に支配される。一応完成、というのは、作曲者であるフルトヴェングラーが4楽章を気に入らずすっかり改訂しようと考えていた、とされるからで、4楽章を未完成と考えるか否かで、3番が完成品か未完成品かで、演奏する指揮者によって見解が別れているようだ。
演奏自体が珍しいこの曲にあって、どっちでもいいような気もするが(笑)
また、各楽章には作曲者の日記にそのようなタイトルをつけたという記述があるだけで、スコアに記されているかどうかは分からない。
第1楽章 ラルゴ(メスト、ペザンテ)は15分ほどの音楽で、「宿命」という標題がある。仮の標題とも云えるが……。トランペットの主導による重苦しい主題が提示され、それが展開してゆく。ソナタ形式というよりもっと自由な展開を持っている。祈りの音楽が切々と続き、アンニュイな雰囲気もいかにも後期ロマン派健在。ゆっくりと盛り上がって、頂点でティンパニが鳴り、マーラーの9番のように急落。静けさの中から絃楽と木管がそろそろと起き上がってくる。ここら辺が第2主題なのか。それも同じく時間をかけて展開し盛り上がって、ドラが激しく鳴らされ、第1主題が再現される。その後は、ドーンと落ちて、静けさの中に消えゆくのみ。
第2楽章はアレグロ楽章、17分ほどもある大規模なもの。タイトルは「生の脅迫」で、いかにも哲学的。ここまで来ると、もう単純なスケルツォとは呼べなくなる。ファゴットのモソモソした序奏から、ややおどけたタッチの不思議な主題が現れ、それが長く展開する。やがて木管も加わり、クラリネットを導きとしてコケティッシュな主題を奏しだす。トリオではテンポが落ちて、アダージョっぽくなる。ピチカートに木管の感傷的な主題が乗る。主題はホルンに受け継がれ、木管と美しく推移する。アレグロに戻り、新しい主題も搭乗する。緊迫感が増して、ドラマティックな展開になるも、またもドラが鳴り響いて、1楽章の第1主題が現れて一気に終結する。
第3楽章は緩徐楽章、アダージョ。時間はしかし、15分と、この中では短いもの。タイトルはなんと「彼岸」である。いかにもブルックナー的な息の長い、しかし動きはしっかりとある独特の主題が絃楽に現れる。木管と綺麗な絡みを見せ、雄大な世界を作り上げてゆく。だがその中にも微かな黄昏があって、とても美しい。その黄昏は、一体、何の黄昏なのだろう。やはり、滅びゆく古き酔き古典派、ロマン派のドイツ音楽への回顧と憧憬なのだろうか。やがて冒頭に戻って、絃楽と木管群の穏やかな終結を迎える。
件の第4楽章。フルトヴェングラーがどこをどう不満に思っていたのか、今となっては知る術はない。アレグロ・アッサイで、タイトルは「闘いは続く」。その名の通り、珍しくショスタコーヴィチをも想起させるアレグロが心地よい。ショスタコほど過激ではないが……そんな雰囲気。推進力に欠けるも、彼の音楽としては怒濤のアレグロと云っても良いのではないか。トランペットが悲劇的なファンファーレを奏で、低音金管が受け取る。ホルンとトランペットによる独特の主題も搭乗し、闘争の音楽となる。いや、なりかける。なぜなら、やおらホルンからコラール楽想が出てきて、アダージョになるから。ところがそれも、すぐにアレグロに戻る。それから第1楽章の第2主題が登場し、楽章も半分すぎたころから、さらに激しいアレグロへ突入。アレグロとコラールを交互に演奏しつつ、少しずつコーダへ向かう。やおら開放的な音の洪水があふれだし、細かく激しい主題を織りまぜつつ、一緒くたになって盛り上がって、銅鑼が鳴り、終結する。
4楽章は毛並みが変わっていて面白いっちゃ面白いけど、確かに構成としてはイマイチ惰性的かつとりとめがないのは否めない。
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