シュレーカー(1878−1934)


 モナコ生まれのユダヤ人、シュレーカーは写真家だった父親の仕事柄か、幼少時よりヨーロッパじゅうを転々としていたが、父の死後、ウィーンに移り住む。その後、ウィーン音楽院に奨学金を得て進学して、ヴァイオリンや作曲を学ぶ。

 音楽院在学中の1900年に発表した弦楽合奏のための「間奏曲」が評判となり、これは現在でもレパートリーとなっている。卒業後は、主にオペラで活躍し、指揮にも挑戦。ツェムリンスキーの「詩篇第23番」、シェーンベルクの「グレの歌」や「地には平和を」の初演を任される。

 1912年にはオペラ「はるかなる響き」が出世作となって高名となり、ウィーン音楽院の教授職を得る。1920年にはベルリン高等音楽学校の校長となって、多くの門弟を育てる。オペラも引き続き発表し、この頃はリヒャルト・シュトラウスに匹敵するオペラ作曲家の地位を得たという。

 たが、次第にナチス政権に迫害され、オペラの演奏会をボイコット、あるいは妨害される。校長職や藝術アカデミーの作曲科教授職も次々に失い、失意の中、脳梗塞で亡くなってしまう。


室内交響曲(1916) 

 室内交響曲というのは、名前はよく聞くのだが、実はあんまり高名な曲は無い……どころか、知られている高名な曲くらいしか無い。しかも、発祥はシェーンベルクであるというので、意外と新しい。規模の小さな交響曲を意味するシンフォニエッタ(小交響曲)とは異なり、物理的に室内楽(2管編制以下の小オーケストラ)をもって交響曲に挑戦するというジャンルである。シェーンベルクの高名な室内交響曲第1番と2番の他は、このシュレーカーと、ミヨーに実験的な小曲群、ショスタコーヴィチに弦楽四重奏曲第8番を弦楽合奏に編曲したものが室内交響曲という名前で存在する。ちみなに、編曲したのは指揮者のバルシャイ。

 シェーンベルクと親交のあったシュレーカーは、当然シェーンベルクの室内交響曲第1番(1905)を知っており、まったく新しい交響曲の形式として、自分も挑戦してみようと思ったのだろう。シェーンベルクと同じく、単一楽章制で、続けて演奏される4つの部分に内容が別れている形式となっている。

 チェレスタ、ハープ、ハルモニウムが印象的に使われ、単一楽章、演奏次回は約25分。シェーンベルク流に続けて演奏される4つの部分に別れており、交響曲としての外観を保っている。

 冒頭からフワフワとした聴感、旋律というより和声進行のような進み方に、同時代のフランス音楽や、神秘主義の影響を感じ取れる。室内楽というだけあり、各楽器の絡みが繊細かつ大胆。短く儚い動機が入れ代わり立ち代わり現れる序奏に続き、アレグロ・ヴィバーチェとなる。低音が使われておらず、浮遊感と明るさがある。次々に新しい動機が出現して、めくるめく世界を展開する。

 6分ほどで、アダージョとなる。冒頭の神秘的な主題が再現され、そこから展開するようにして、官能的で穏やかな世界が流れる。旋律はあくまで動機という程度の短さで、美しい和声が流れるようにして音楽が形作られてゆく。それが頂点を迎え、激しく光が降り注ぐ。

 アダージョも5分ほどで終わり、目まぐるしく拍子の変わるスケルツォに入る。木管のおどけた響きが印象的であり、様々な楽器が交錯する様子はまさに音色旋律のようで、実にヴェーベルン的でもある。テンポも激しく変わり、トリオ部では舞踊のようにもなる。ピアノの絡みが特徴的で面白い。チェレスタもキラキラと入ってくる。そしてまたコミカルなスケルツォに戻るが、楽想は発展しており、同じではない。打楽器も入って、重層的となる。

 最後の部分はアレグロ・ヴィバーチェだが、スケルツォ部に続き、どのへんからアレグロなのかちょっとわかりづらい。速度の変化もあり、全楽器が激しく交差しながら全体が進んでゆく中、やがてテンポが満ちて神秘的な緩徐部が戻ってくる。銅鑼も鳴り、寄せては返す波のような響きは実にドビュッシー的であり、形式感は薄れるが、それを補って余りある叙情が魅力的だ。ヴァイオリンのソロが高らかに官能を歌い上げながら、コーダへ至る。ゆっくりと曲は速度を落として、やがて淡い光の奥へ消えてゆく。

 非常に複雑なテクスチュアを持ちながら、けして聴きづらくない。美しい和声と、面白い動機と進行、そして楽器の織りなす綾が素晴らしい。交響曲の名に相応しい逸品。




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