ミヨー(1892−1974)


 まずミヨーという人は多作家で、そういう人は小品が多いのだがミヨーは小品のみならず大作もあるので侮れない。プーランクオネゲルと共に反ドビュッシストの筆頭だったが、いわゆる「フランス風」の小洒落た和声や楽器法というのは、確かにドビュッシーやラヴェルよりもミヨーやプーランクに代表されるモノだと感じる。

 ミヨーは南仏の作曲家であり生粋なパリジャンのプーランクとも異なりセヴラックと共に単に明るいというより開放的な印象を与える。(セヴラックはそれに禁欲的な素朴さが加わるが。)

 個人的には好んで聴く部類では無いが、なにせ有名どころで交響曲が番号付で12曲、室内交響曲が6曲あるので、無視はできない。

 室内交響曲は多楽章制で数分という物で、小管弦楽、弦楽合奏、管楽合奏とヴァリエーションがある。が、交響曲は管弦楽による本格的なもので、かつ内容もシリアス。合唱付もある。

 まずは室内交響曲から行こう。

 何といっても、1曲数分だから、6曲いっぺんに聴いても30分前後で終わる。


第1室内交響曲「春」(1917)

 室内交響曲シリーズは全て小さな3楽章制というか3つの部分に別れている。

 ちょっと私のもっているCDがフランス語表記なので、分かったり分からなかったりなのだが、続けて演奏されるし全て数分以内の音楽なので割愛したい。

 木管の愛らしいテーマがいきなり現れ、ピロピロしたハープの伴奏がなんとも心地よい。ここはちょっと(さすがにw)ドビュッシー風。

 一転し、コーラングレのちょっとけだるいテーマが吹奏される。

 最後はおどけたアレグロ。

 全体にストラヴィンスキーっぽい響き。(小オーケストラのための組曲) プイッて終わるあたりも。

 ま、標題どおり春っちゃ春。3分半ほど。


第2室内交響曲「パストラール」(1918)

 激しい雷雨の音楽から始まる。続いてやはりコーラングレの憂鬱な旋律に、不協和音の弦楽がからむ。

 最後はまたおどけたアレグロ。ヴァイオリンがなかなか狂っている。またもプイッて終わる。

 こちらもストラヴィンスキーの影響がある。4分半ほど。牧歌的というより、影がかった印象主義。


第3室内交響曲「セレナード」(1921)

 クラリネットとフルート、ファゴット、ヴァイオリンの重奏から始まり、チェロも加わってフーガを形成する。

 2楽章ではやはり鬱とした雰囲気のけだるい音楽が流れ、続いて陽気で軽い調子のアレグロで締められる。3分半ほど。

 やはりストラヴィンスキーの影響が強い。というか、小組曲の編曲ではストラヴィンスキーのほうが後だが。


第4室内交響曲 〜10の弦楽器のための(1921)

 ヴァイオリン4、ヴィオラ2が2、チェロ、絃バス。

 不協和音バリバリながら、その中に歌があるのがミヨー風。弦楽器の流れるような旋律に、ギコギコした伴奏が面白い。

 コラールの2楽章は弦楽が見事に絡みを見せる。

 エチュードの3楽章はおどけた調子のメロディーで低弦からフーガが始まる。鋭い不協和音だが、音楽的であり不快ではない。6分ほど。


第5室内交響曲 〜管楽合奏のための(1922)

 ピッコロ、フルート、オーボエ、イングリッシュホルン、クラリネット、バスクラリネット、ファゴット2、ホルン2によるアンサンブル。殆ど木管アンサンブルといってよい。

 やはり斜に構えた鋭い攻撃的だがどこかおどけた調子のアレグロかよ始まり、レントに移って無味乾燥としつつもやはりとぼけた妙味あるなんとも憂いた部分が続く。

 3楽章では跳躍するクラリネットに様々な音色が絡み合い、面白い。木管のみのアンサンブルからこういう色彩的な響きを出すのはさすがミヨーである。6分ほど。


第6室内交響曲 〜ソプラノ、コントラルト、テノール、バス、オーボエとチェロのための(1923)

 声楽は完全にヴォカリーズで楽器として扱われている。

 2楽章はピチカートのチェロと対位法のオーボエに乗って、声楽が重奏する。

 ラストはオスティナートなオーボエの上で、4重唱。なかなか斬新。7分ほど。


第1交響曲(1939)

 ミヨーの番号付交響曲は全て30分以内の、内容においても現在では軽交響曲と呼ばれる部類である。

 1番の時点で40代半ばと作曲年代は必ずしも早くなく、作品番号も210で、中間期の作風となっている。シカゴ響の委嘱。

 1楽章はパストラルは明るく楽しげな主題がいきなり登場してその名の通り牧歌風の展開。新古典主義的ではあるが、どちらかというと形式より情感を重視しているような気が。2楽章は一転して異国情緒。アラブ風のエキゾチック趣味。あくまで趣味の点で終わらせているが。

 3楽章は管楽器主体による非常にゆっくりとしたパッサカリア。独特の和声が明るい調子の中でも深刻な雰囲気を醸す。終楽章でファランドールによる主題により明るい雰囲気が戻り、溌剌として洒脱、華麗にして快楽的なミヨー節を味わえる。時折現れる強烈だがけして深刻ではない不協和音がまたミヨーらしい。ラストはティンパニもリズムを刻み、豪快に終結する。


第2交響曲(1944)

 クーセヴィッキーの亡くなった奥さんの追悼記念として委嘱されたもの。5楽章制で、全体に鎮魂と追悼の意が込められたミヨーにも珍しい部類だと思う。

 1楽章(穏やかに)はピッコロとそれを引き継いだフルートによる穏やかな主題を扱い、前奏曲的雰囲気を出す。

 2楽章(神秘的に)ではヴァイオリンの高音から管楽器による主題が絞り出されるが、短い主題を複雑に展開して行き、交錯した精神を思わせるが、淡々としてやはり開放的な印象なのがミヨーらしい。

 3楽章(悲痛に)では鎮魂と悲しみにくれる様子が象徴として描かれる。メインはイングリッシュホルンとコントラファゴット。最も長い楽章だが、ここでも音楽はドライである。しかし新古典主義というよりこれはやはりミヨー形式というべきだろう。後半では嘆きの歌も聞かれる。ラストは悲劇的な音調がマックスとなる。

 4楽章(泰然と)では、演奏指示とは裏腹に愛らしく明るいフルートの主題で始まる。楽章は終始穏やかな調子で進む。5楽章の前奏にも思える。

 5楽章(アレルヤ)は激しい序奏のついたフーガ。管楽器も巻き込んで堂々かつ複雑に進行し、人間誰もが訪れるであろう死後の世界の讃歌を歌い上げる。


第3交響曲「テ・デウム」(1946)

 珍しく合唱付。合唱が入るのは2・4楽章のみ。1・3楽章はそれぞれの半分以下の演奏時間からも前奏っぽい扱い。

 不協和音も激しく1楽章が始まる。曲調が入り交じり、なんともつかみ所の無い良くも悪くもミヨーらしい音楽。

 2楽章は緩徐楽章でオルガントーンも荘厳に、神秘的なヴォカリーズがなんともいい味。全体的に清浄な音調が熱心な宗教的快楽を思わせる。この素朴さはむしろ古代の修道士会か。

 3楽章は短いアレグロ。なのに演奏指示はパストラール(笑) やっぱり、ミヨーってちょっとこう変なのかなあ。田舎のお祭みたいで、牧歌的といや、確かに牧歌的なんですが。

 4楽章でいよいよ歌詞登場。アンブロシア讃歌の後、テ・デウム。しかし、蜜よりも甘く香り良い不老不死と万能の妙薬となる神々の食べ物、アンブロシアかw (関係なかったらすいません。)

 ミヨーにしては(?)大仰だが、そのわりに短くスパッと終わるのが好感が持てる。


第4交響曲(1947) 

 フランス教育省委嘱の、フランス革命100周年記念の音楽だそうで、冒頭から吹奏楽っぽい軍楽調と珍しい。革命歌に関係あるらしい第1主題もトランペットで、終始管楽器が活躍し、フランス組曲(吹奏楽曲)の作家だなあと思う。1楽章全体が軍楽調で終始しており、楽しい。打楽器大活躍!

 2楽章は一転、レントによる鎮魂歌。だと思う。ミヨーには珍しい、陰鬱とした、しかし湿ってはいない音楽。淡々と犠牲者を偲ぶ様子がある。中間部の盛り上がりもまさに悲劇的。そして美しい祈り。当曲中最も長く、他楽章が5分代なのに倍以上の時間をかける。当曲の白眉といっていい。葬送行進曲のティンパニと、死の象徴であるドラの一打で終わる。

 3楽章はよく分からないw 実にミヨーらしいリズムとハーモニーのごちゃ混ぜ行進曲。

 4楽章はまた軍楽調に戻って華々しい革命讃歌。ラストは打楽器アンサンブル!


第5交響曲(1953)

 いきなり明るく辛辣な響き。ユーモアの中に潜む毒。跳躍する旋律とせめぎ合う和音。穏やかな旋律と、トゲトゲした展開。

 ただ、相変わらず展開が良くも悪くも画一的なミヨー的不協和な世界に終始しており、その当たりのモヤモヤ感はぬぐえない。これはミヨーの特徴なのか弱点なのか。これなら、いいだけ尖っている初期の作品の方が面白いかもしれない。

 2楽章はレントで楚々とした情感がとても良い音楽。全体のバランスからゆくとやや長いが、途中に重い部分もあり、変化に富む。どこまでも乾いた気質が味となっている。

 全体にスケルツォ楽章に相当する(スケルツォじゃないので)部分が短く、古典的な様式を継承しているが、やっぱり新古典でも無く擬古典様式に思える。そのへんは日本人ではミヨーの弟子の別宮よりむしろ、吉松がその様式に近いものを採用している。たいして魅力的では無いと思われる主題をコネコネいぢくる作曲法は、好き嫌いが別れるかもしれないが。

 4楽章は面白い音楽が多いが、5番もその通り、打楽器や木管も活躍しハデな印象を与える。ミヨーの交響曲は緩徐楽章とフィナーレを聴くべき音楽なのだろうか。管楽器・弦楽器の複雑なカラミに打楽器のリズム処理が加わって、面白さを倍増させる。


第6交響曲(1955)

 6番は珍しくゆったりとしたチャント的な音楽から始まる。緩徐楽章と云ってもいい。ちょっと色が変わっていて興味深く面白い。穏やかで美しい音楽は、静かに膜を閉じる。

 2楽章では、軽妙なアレグロに不気味な合いの手と1楽章からの派生のような歌が差し挟まれる。相変わらずのカオス系。

 そこでまた3楽章がレントなわけだ。これがまたほのぼのとして牧歌的。ミヨーはこういう田舎風の雰囲気を出す音楽だけを書いていたらまた違った評価を与えられてただろう。田舎臭いというわけでも無く、そこは音楽として洗練されているのだが、独特の鄙びた調子が味があって良い。

 終楽章はまたも明るいふうだが、ちょっと印象が異なる。技法的には複雑だが精神がストレートな祝祭というこれまでの音楽と違い、カクカクしながら進んで行くような、斜に構えた進行をする。管楽器も活躍し、ラストは大団円。

 ※こういう吹奏楽作品、現代日本の作曲家でもたくさん書いてるぞ。みんなミヨーの世界から脱していないのだろうか。

 6番は、ミヨーの交響曲の中で構成的に風変わりな作品だと思う。その微妙な差異まで楽しめるかどうか。


第7交響曲(1955)

 珍しく3楽章制で、これも珍しくワルツより始まる。いや、ワルツというよりただの3拍子か……。カクカクした調子のミヨーらしい激しくもおどけた調子の音楽で、無窮動的な進行のまま、唐突に終結する。6番と同年に作曲されている。

 2楽章も変わっている。グラーヴェだが、軽やかなヴァイオリン主題に、主に打楽器や金管による重々しい衝撃的な一打が延々と加わる。対位法的に主題はからみ続け、独自の斬新なハーモニーが相変わらず微妙な雰囲気をつくる。大きく盛り上がり、和音がどんどん先鋭化して行く。

 3楽章ヴィーヴォはその尖鋭を受けて不思議な感覚で推移する。フルートやトランペットのなんとも形容しがたい主題が延々と鳴り、補強する和音はミヨー的複調。それでも音楽は盛り上がってゆくが、迷走ともいえる段階に差しかかっている。

 ミヨーの音楽は、実は初期の方が面白いかも。3楽章だからかやや短く、20分ほど。


第8交響曲「ローヌ川」(1957)

 副題付の標題交響曲のようで、各楽章にも情景を現すと思われるタイトルがついているが、資料不足により残念ながら意味がわからない。4楽章制。

 ローヌ川というタイトルで、いきなりゲンダイ調バリバリで始まるのが、なんのこっちゃか意味がわからない。これは、ミヨーの中でもけっこう辛辣な調子である。その中にもオーボエやヴァイオリンなどで旋律が現れる。複調というより無調に近いと思う。

 アタッカのようにひっそりと音楽が続けられ、2楽章に到る。やや調性に近くなる。ゆっくりと旋律が流れる。

 3楽章はお得意のミヨーアレグロ。せわしなく展開というより変容しつつ動く旋律に激しく合いの手が入り、鮮烈な和音が容赦なく降り注ぐ。中期以降のミヨーはひたすらこの様式を保持し続ける。厚い管弦楽が意外やプロコフィエフのような印象も与えるが、どこか緩さが残る。相変わらずミヨーのスケルツォ相当楽章は難しい……(笑)

 4楽章はしっかりと祝祭音楽。ちょっと民族調な雰囲気も出て、ようやくイメージ的にはなんというかムラ祭的な面白さが出てきた。陽気なメロディーに複雑な和声。このギャップこそがミヨーか。終結もしっかりと歓喜による。

 これは、何かの機会音楽なのだろうか。


弦楽のための小交響曲(1957)

 3楽章制で10分程の小曲。初期の室内交響曲に通じるものがある。弦楽合奏。管弦楽より、むしろミヨーらしさが出ている。ギャーギャー云いながら、艶っぽい小洒落た音楽が流れてゆくのは面白い。2楽章はピチカートが多用され古典的な外観を有するが、主題はキテレツ。3楽章は、これは普通のミヨー〜。


第9交響曲(1959)

 こちらもまた3楽章でやや短い。

 モデラートの1楽章はライトな作風をいきなり現す。9番だからと気負う姿はどこにもない。これで皮肉バリバリならショスタコ風味だが、まあそういうわけでもなく。アレグロに到ると狭い音域を動き回る旋律と、無関係を装った異なる調・拍による伴奏といういつものミヨー節になる。それらが基本的にライトで開放的なところがミヨーのミヨーたる所以なのだが、ちょっと飽きが来やすいのも確かか。1回、成功した技法には神経質なまでに固執しないという作曲家とは、方向性が異なる。

 2楽章はレントなのだが、珍しく深刻で重い内容。凄まじく半音進行の旋律と、重々しい打ち込みが連続する。旋律はとりとめが無いようで連鎖している。

 3楽章は短いアレグロ。フィナーレ。いつも通り書法は複雑ながら、進行が単調。

 純粋音楽に戻り、擬古典形式でキリッとまとめてあり聴きやすい。しつこくないように思う。いや、2楽章がちょっとしつこいか。


第10交響曲(1960)

 以降の3曲は2年以内に作曲されている。ミヨーの創作意欲は強まったか弱まったか。

 11、12番が標題付なので、これは最後の純粋交響曲という事になりましょうか。4楽章制で、25分ほどの、最後までミヨーの交響曲はサイズ的にはブレが無い。

 冒頭よりすんげえ不協和音。しかし、進行も旋律もふつうのアレグロ。つまりあくまでもミヨー。滑稽なリズムと祭典的な打楽器も変わらない。

 2楽章はパストラール的なフルートの旋律に陰鬱なドラがからむ。どのナンバーもそうだがミヨーは交響曲の中では緩徐楽章が最も力が入っており長い。長いといっても10分前後なのだが、どれもけっこうシリアス調なのも特徴的だろう。淡々と、切々と、木管を主体とした素朴な旋律が暗いハーモニーで鳴り響く。乾いた、暗澹とした中にも微かな明るさが仄かに見える妙味。

 幻想曲(となっていると思う)3楽章は激しい変拍子の、流れるような旋律とたたき込まれる打楽器の怒濤のリズムは、やはり変わらない。当楽章に関しては、滑稽風味がかなり増しており皮肉だ。

 4楽章はこれまでの祝典的なフィナーレとはやや変わり、明るいには違いないが、これも幻想曲に近い自由な形式。やはり古典的な外観を有するが、常にリズムをリードするティンパニが印象的。


第11交響曲「ロマンティック」(1960)

 こちは3楽章制。序曲風の1楽章は、ちっともロマンティックではない。またも変わらずというより、さらに激しくなっている不協和音。そして意味不明な短い動機のつなぎ合わせである旋律群。けっこうハチャメチャなリズム。かなり難解な現代音楽のはずであるが、基本的に太陽燦々な明るい雰囲気が、ただ聴きづらいものにしているかもしれない。この時代になるともう、12音や無調バリバリなので、ミヨーの作風は時代後れととらえられていたようである。

 と、思ったら2楽章が超ロマン主義であった。弦楽器主体で、これも1・3楽章の倍の規模を持つしっとりとした緩徐楽章。ただ、ミヨー的山椒がぴりりときいているのは云うまでもない。

 10番の終楽章にも似た、打楽器先導による激しい変拍子アレグロがフィナーレに来る。激しいと言っても、極端な律動の祭典ではなく、あくまで旋律が主体。


第12交響曲「田舎風」(1961)

 12番は4楽章制だが、長い緩徐楽章を持っておらず、15分ほどしかない。1曲1曲を見ると、初期の室内交響曲を思わせる簡素な作り。1楽章牧歌風は印象主義をも思わせる。

 2楽章はムラの祭で太鼓も鳴り渡り、笛が響く。3楽章は緩徐楽章に近いが、これまでと変わり時間が半分以下。ここで、ようやくミヨーも「効果」というものに気付いたかwww

 そして4楽章……ついにミヨーにもセリー主義が訪れたかと思ってしまった。3拍子だとは思うが、ここにきてかなり抽象的な舞踊。旋律とも呼べない短いオスティナート動機が続く中、打楽器と金管がリズムを補強し、盛り上がって最後は堂々と終結する。


 作品集によるとこのほか、協奏的交響曲Op376(1959)、クローデル的宇宙のための交響曲(交響組曲?)Op427(1968)が認められる。

 ミヨーはお軽いとかおふざけとかあると思うが、深刻なだけが交響曲ではないし、そもそも交響曲はライトな曲種であって、ベートーヴェン大先生が変革しちゃっただけ、と考えると、実は正しい姿であろう。さすがに似たような曲調が多いが、それもまた形式重視の交響曲らしい姿だ。洒脱、軽妙、皮肉、それらの楽しさをマジメに追求した結果である。それらは、ブラームスブルックナー的な芸術とは元から表現の次元が異なり、それらと比較して批判される筋合いのものではない。

 しかし、中期以降はかなり聴くのに労力を要した。





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