尾高尚忠(1911−1951)

 
 尾高はかの「尾高賞」へ名を冠された、N響にとって最重要の指揮者の1人だが、じつは作曲者としても実力派であり、「日本組曲」という曲で早坂文雄らと共にヴァインガルトナー賞を受賞しているという。本人は指揮者になるつもりは無かったとのことで、まるで日本のマーラーである。

 しかし残念ながら今日では指揮者としての功績ばかりが取り沙汰され、作曲家としては高名なフルート協奏曲の録音があるていどだが、1982年に、N響が外山雄三の指揮で尾高賞30周年記念コンサートを催しており、その中で、尾高が作曲した交響曲第1番の録音が奇跡的に残っている。

 ちなみに尾高の長男・尾高惇忠も作曲家で、次男の尾高忠明は指揮者として活躍している。また、忠明のエッセイでは、本来はオダカなのだが、オタカのほうが云い易いしみんなそうやって呼んでるから呼び名はオタカとしている、との事。(敬称略)


第1交響曲(1948)

 形式的には、團伊玖磨の1番のように、20分にもおよぶ1楽章制の交響曲だが、N響に残された資料によると、これは巨大な交響曲構想による第1楽章であるという。とすれば、恐ろしい事だ。尾高はヴィーンへ留学し、指揮と作曲を学んでいるが、日本人でもっともオーストリア音楽上における様式をモノにしたのが尾高だったというから、この巨大さや楽想の豊かさもうなずける。しかし、尾高は多忙と過労がたたってか40歳で夭折し、結局は未完で終わったというわけだ。

 後期ロマン派様式を継いでいるといっても、ただ耽美で甘美な音楽をタレ流しているのでは芸が無い。尾高は現代の作家として、現代の技術を使い、新ロマン派として作曲した。
 
 1948年、平和の鐘建立会の作曲コンクールの入賞作として完成。
 
 冒頭の強烈な和音から下方気味に激しく鳴り響く導入が2回繰り返され、それからすぐに2つの主題が登場するソナタ形式。第1主題は低音による上方旋律でフォルテ、第2主題はバイオリンソロによるピアノの瞑想的なもの。

 すると、またすぐに展開部となり、ここからが雄渾な主題の発展となる。2つの主題をうまく登場させ,絡み合わせ、見事な展開。しかも、新ロマン派というだけあり、けして無調とかではなく、非常に分かりやすいし、日本民族主義でもなく、本当に旧オーストリア様式とでもいうべきか。
 
 くわしくは分からないけれども、マーラーのように展開部が膨大で、途中、2種類の趣を異にする部分がある。まずスケルツォ的なリズム感ある部分が真ん中ほどに登場し、展開に華を添える。(第1主題を主に展開している。)
 
 それからアンダンテで、静かな部分となり、響きも暗めで、嘆きの箇所や、瞑想の箇所となる。(第2主題を主に展開している。)

 それから音楽はやおら再現部となり、展開部1のあたりのアレグロを再現しているように聴こえる。大太鼓が鳴り響き、楽章はいよいよクライマックス。いったん静まり返って、これは第2主題の再現か。
 
 シンバルの一撃より最高に祝典的で壮大なコーダとなり、アレグロの楽想も取り入れつつ、金管のフレーズもカッコよく(リヒャルト・シュトラウスみたい。)最後は意外と呆気なく、鋭い和音で集結。

 聴いた限りで恐縮だが、導入×2 第1主題 第2主題 展開部1〜両方の主題による短い展開 展開部2〜第1主題の展開 展開部3〜第2主題の展開 展開部1への再現部(もしくは展開部4) コーダ というような、分かりやすい構成で、新浪漫派の面目躍如だろう。

 通常の2管編成ながらこの壮大なスケール感はたいしたもの。

 すばらしい。

 尾高の録音も、増えていってほしいと強く感じた。 (なんと作品目録も満足に無い状況だそうです。)

  ※遺稿の中より2楽章が発見され、若干の欠落は長男の尾高惇忠が補い、2006/9/2のN響創立80周年記念演奏会にて、尾高尚忠/交響曲 第1番(新発見の第2楽章を含めて演奏/第2楽章は世界初演) ということで外山さんの指揮で2楽章が演奏されたようです。また、2009/6/3の第10回現代日本のオーケストラ夕べにおいて尾高忠明の指揮で1・2楽章を聴きました。2楽章は10分ほどの、半音階によるロマン派風のアダージョ楽章で、中間部は牧歌的な趣のものです。




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