酒井健吉(1980− )


 長崎で活動している作曲家、酒井健吉は現代日本ローカル作曲文化を支える一人であろう。演奏家ならまだしも、作曲という仕事はやはりどうしても国内で活動するには東京一極集中しやすく、ローカルで活動する難しさをネット発表(あるいは演奏の報告)で埋めている。

 伊福部昭へ私淑し、作風も故郷である長崎の血液賛美による民族主義的な一面がある一方、現代技法にも通じており、作風は広い。またそれらを合わせた独自の作風も確立している。

 本サイトでとりあげるのであるから、交響曲がある。その初演の模様がYouTubeで公開されているので、合わせて紹介したい。


第1室内交響曲「血液の歓喜」(2018)

 平成30年1月25日脱稿の、2018年執筆現在最新作。初演の模様がネットで公開されているので、参照されたい。また作者より初演時のプログラムへ寄せた言葉を頂いており、いろいろと紹介したい。

 組曲風の5楽章制で、演奏時間は25分ていど。長く構想のみしていたが、発表の企画があり、ぜひ交響曲をと奮い立ったもの。奏者は11人。ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス、オーボエ(コーラングレ持ち替え)、クラリネット、ホルン、ピアノ、十三絃筝、尺八、ソプラノ。

 もはや交響曲が名前だけの「作者が交響曲と名付けた曲」という定義になっている現在、室内交響曲の定義はさらに難しい。もはや定義自体が意味のないことかもしれない。1管編成以下の室内楽の交響曲がそうなのか。それも、もはや作者がそう定義しただけと云えるだろう。交響曲はかくも自由で自在であると再認識する。

 なお絃楽は通常5部であるが、アダムスの室内交響曲に啓示を得て、4部としたそうである。

 さて、まず、本項を記するに当たって作者より送られた言葉を紹介したい。


 「第一楽章は1930年代的な感じ。第二楽章はウェーベルン的な無調の音描写と中間はヘテロフォニーをしています。第三楽章はライヒ的なミニマルもどきです。第四楽章はケージの偶然性をラジオの演奏に込めました。第五楽章は長崎の祭りの「おくんち」のイメージです。が、伊福部的な民族主義が根幹にやはりございます。」


 第1楽章:妄執的なアレグロ 快活かつ郷愁のある序奏無しのアレグロ。第1主題は確かに活動写真的な音運び。第2主題の尺八が、またなんともおかしみがある。展開部はテンポを落とし、第1主題を箏と尺八を皮切りに紡いでゆく。再現部でも第1主題を展開しつつ、箏が調子よく主題を奏でて、他の楽器が重奏でからんでくる。と、テンポを落として箏と尺八の短いカデンツァが入る。それから一気にテンポが戻って、コーダへ。

 第2楽章:追憶の悲歌 うって変わって無調。それでも中心音があり調性感が残るもの。箏も合間に半音進行が混じりつつも調性の旋律を奏でる。緩徐楽章。1楽章の主題の派生を箏と尺八が奏でる。絃楽が入ってくると重層的なトーンが微妙にずれ始めてヘテロフォニーとなり、ソプラノも無調で入る。しばし続いて、一瞬、ソプラノのみが残って、終結音。と、思いきや無調で短い音形が再び繰り返され、合間にまた第1楽章の第1主題の派生が挟まれる。それへ、不協和音で鋭い合いの手。それからようやく真の終結となる。

 第3楽章:諦念の間奏曲 作者が「ミニマルもどき」と評する楽章。執拗に同じ音形、音調が繰り返される。3拍子の短い動機がひたすら繰り返されてゆくが、その繰り返しパターンそのものが少しずつ変化してゆく。後半は展開全体が大きく膨らみ、再現部めいて冒頭が少し戻ると、終結する。

 第4楽章:二つの獨白 指揮はいったん降壇し、ラジオのスイッチを入れる。すると、箏が独り言を紡ぐ。ラジオと箏の独り言が、ただ互いに対話せず勝手に流れる。箏は特殊奏法もあり、けっこうシュール。尺八も入ってくる。ここで、独り言は箏と尺八であったと分かる。では、ラジオはなんなのか? 「人工の自然の音」なのか、意図的な騒音なのか。

 第5楽章:血液の歓喜(詩・永留加奈子) ラジオが止まり、指揮者が戻る。伊福部、あるいは今井重幸も想起させる素朴で快活、さらに力強い田舎の娘たちの元気一杯の処女性を思わせる健康美とエロスにあふれた音楽によるアレグロ。これも第1楽章の第1主題の派生かもしれない。そうなると、けっこう循環主題的な構成になっているのかもしれない。長崎の祭である長崎くんちの盛り上がりをイメージしてあるようだが、まさに南国長崎人の血液の賛美といえるだろう。2つの主題を交互に歌い、歌曲としても秀逸。


協奏的交響曲「鬨乃聲」〜十三紘筝、尺八と管弦楽の爲の(2019)

 令和元年9月29日に初演された、作者の新作。初演の模様がネットで公開されている。私は、作者より特別に音源ファイルを頂いたものである。

 また、今回も作者よりプログラムへ載せた小文を提示されているので紹介する。


 「今回のソロは重要な役割を与えられていることは明白なのですが協奏曲というより交響曲を志向しました。つまり和楽器付きの交響曲という訳です。メシアンが「トゥランガリラ交響曲」においてオンドマルトノとピアノをソロ楽器として採用したような感じでしょうか。

 内容については、私は処女作から今至るまで民族主義的な作曲に力を注いでまいりました。民族主義的作曲というのは自国やその周辺地域の土俗性や伝統性に立脚した創作態度を言います。私はアジアの中の日本、そして長崎という土地に生まれ育ったものとして、そこから来る審美感を通過した作曲でなくては意味がないと思っています。長崎の土俗性といえば多様な異文化交流の歴史が一つ大きくあると思います。そこに想いを馳せて多様主義的な作風となりました。 作品は次の五つの楽章から成ります。

 第一楽章は二つの主題によるソナタ風の楽章。第二楽章はABCの三つの部分からなる12音主義の楽章。第三楽章はスイングと全音音階による反復の健忘症的結合。第四楽章は具体音楽と絃楽による愚行を繰り返す人類への慰めの間奏曲。具体音楽とは現実音を採取し音楽的に配列した電子音楽をいいます。第五楽章はロンド風の未来派的音響によるフィナーレ。



 5楽章制で演奏時間は30分ほど。実質、邦楽器によるドッペルコンチェルトであるが、上記にある通り、作者はこれを協奏曲ではなく、協奏的交響曲とした。

 協奏風交響曲、あるいは協奏的交響曲というのはモーツァルトの時代から存在するジャンルで、多くはないが、ちょくちょく様々な作曲家のリストに登場する。協奏曲と何がちがうのかと云われると、ソロイスティックな扱いが控えめとか、独奏曲もオーケストラと共に交響的音響を構築するとか、作者がなんとなく交響曲と名付けたかったとか、いろいろあると思われる。作者の云う通りメシアンのトゥーランガリラ交響曲もそうだが、たとえばベルリオーズの交響曲「イタリアのハロルド」も、ヴィオラとオーケストラのための協奏的交響曲と云える。また伊福部昭も、ピアノとオーケストラのための協奏風交響曲を書いている。伊福部は、本格的な交響曲を書くには、まだちょっと自分は早い(未熟である)と判断し、協奏曲的にして交響曲から一歩引いた、としている。

 酒井はもともと叙情的、土俗的、ロマン的な音楽と無調などのモダンな音楽とを自由自在にミックスする手法を採っているが、ここでもそれが顕著に現れている。

 なお、独奏楽器に邦楽器の箏と尺八を選んだ理由については、初演を担った奏者2人より箏と尺八の二重奏曲を委嘱されたのが縁で良好なつきあいがはじまり、その延長かつ集大成で、2人を初演ソリストに迎えた交響曲を書いたという。

 第1楽章 厳密なソナタ形式ではないが、2つの主題とその展開というソナタ風の楽章。箏のソロが牧歌的でどこか異国情緒もある(長崎らしい)導入となり、尺八がゆったりと美しくも悲哀をもった主題を奏でる。続けて、オーケストラが第1主題をたっぷりと感情豊かに演奏する。経過部を経て、絃楽が笙の音を模す。アレグロとなって、快活で素朴な第2主題が箏に。尺八も加わり、主題はオーケストラへ。打楽器も入って盛り上がる。小休止から、レント部で第1主題の展開。たっぷりと箏のソロが聴ける。大陸的な雄大さを聴かせる経過部から、一気にアレグロで第2主題が展開。まさに祭。短く推移し、そのまま終結する。

 第2楽章 うって変わって、無調。作者によると12音技法とのことで、音列が使用されているっぽいが、調性風に聴こえるように工夫されている。1楽章とはまるで異なる、不気味な絃楽によるクラスター的音響から始まり、尺八の無調旋律。まさに風の音。箏もメロディーを奏さず環境音っぽくからみ、ゴングの連打も自然音っぽい。ファゴットも不気味に響く。中間部では、箏が無調旋律。音列かどうかは分からない。尺八が、吹きすさぶ荒々しい風を模す。ティンパニの一打より、絃楽が分厚く無調旋律を重ねてくる。オーケストラ全体でカオス的音響。その中から、箏の無調旋律がオーケストラにより怪獣めいて浮かび上がってくる。ドラから音響が崩壊。すさまじい怪獣の咆哮、足音。悲劇。打楽器の強奏、木管の警笛、チューバの地鳴り。大休止から、尺八の無常ソロ。ゴング。ピアノソロ。フルートの唸り。そして終結する。

 第3楽章 またまた変わって、なんとビッグジャズ。マーラー流にシンメトリー構造。箏と尺八が、ある種チープな場末のバー的楽しさでスウィング。ピアノがそれを補佐する。ピアノ強い。打楽器や金管が入ると、一気にバンドっぽくなる。ひとくさりセッションしてから、尺八の(ジャズではない)ソロ。箏がからんで、ここもスウィング。シングルモルト・ウィスキーをショットで飲みたくなる。トロンボーンが気だるい雰囲気。やや演歌調のトランペット。ストラヴィンスキー風味の世界観。だんだんオーケストラ全体が波を打って、カオスになるやと思わせておいて、ビッグバンド調の明るいスウィングへ。邦楽器のスウィングは音調がどうしてもチープになるので、それを活かすのは難しい。クラリネットが活躍して、戯画的な世界を終える。

 第4楽章 ここで、室内交響曲第1番と同じく、環境音を加工した音源が流れる。何の音を採取しているのか、ちょっとよく分からない。まさに電子音楽である。そこへ、チェロの祈りの旋律が入ってきて、さらにヴァイオリンへ広がる。祈りが折り重なり、ちょっと吉松隆っぽい、感傷的な響きが心地よい。間奏曲というだけあり、かなり短く、箏と尺八はお休み。

 第5楽章 A B A' C B' A'' C' A''' コーダ というふうに私には聴こえた、ロンドフィナーレ。明るい牧歌的な箏と尺八の二重奏から始まり、その主要主題がオーケストラ全体で鳴り響く。小展開しつつ、尺八が箏の伴奏で次のB部分を。低音の木管がそれを支える。A主題が小展開して戻り、打楽器も荒々しく進行。ホルンも吠え吠えである。テンポが落ちて、前楽章の祈り旋律の派生にも聴こえるC部分が重々しく鳴り渡る。コラールである。休止からソロ楽器二重奏Bが戻り、小展開。そこからA主題が形を変えて登場。不協和音も雄々しく暴れるが、テンポが落ちて無調的ピアノからCの変奏へ。ここは完全に無調で推移し、第2楽章を彷彿とさせる。そこから、調性がグッと立ち上ってくる。ピッコロと鈴から、A主題へ戻って元気よく全員が踊りだす。変拍子も土俗的に、打楽器もここぞと鳴り響く。ここでも祭だ!! 土俗的オスティナート!! そこから怒濤の短いコーダ! 一気に終結する。

 特筆すべきは、長崎のアマオケであるフィルハーモニックオーケストラ・長崎だろう。今回、作者が団長となり、団長として何が出来るかと自問。やはり作曲家として、オケの為に作曲することとなった。新生オケへの発奮も兼ねて、鬨乃聲という副題になったとのこと。

 しかし、そういう内情があるとはいえ、このご時勢、どこにローカルのアマオケで地元の作曲家の書いた現代交響曲を演奏会のメインに置くところがあるというのか。私の地元にも小さなアマオケがあるが、地元の作曲家どころか、たとえ地元出身の日本を代表する作曲家であれど日本人作曲家そのものがNGであり、西洋の作曲家とてマイナー作曲家はダメ、メジャー作曲家でもマイナーな曲はダメといった有様で、有名曲でさえお客が入らないのに、変な曲をしたならば赤字が酷いのである。とてもとても、お客さんに新しい音楽を紹介する文化的義務は、果たす余裕など無いのが実情だ。

 その中で、こういう活動が出来ているというのはうらやましい限りであり、ちゃんと聴きに来る長崎のお客さんの文化的素養も高い。素晴らしい活動である。賛辞を惜しまぬ。




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