ペンデレツキィ(1933−2020) 


 古くはショパンを排出したポーランドだが、第二次大戦後に西側の現代前衛音楽をいち早く取り入れ、独自の理論や表現を持つ作曲家を量産した。特にこのペンデレツキィとルトスワフスキィは高名である。

 ペンデレツキィはまた特に日本では「広島の犠牲者に捧げる哀歌」(1960)という短い絃楽合奏の曲が高名だが、最初はただ単に「哀歌」で、特に原爆惨禍の哀悼曲ではなかったようだ。

 その後、次第にその作風が前衛的なものから調性へと移り、新ロマン主義、さらにはモニュメンタリズム(古典主義と新古典主義の再結びつきを不可欠な規範として持つ建築的傾向) ←個人的には意味不明 を代表する現代作家となった。個人的には、この人の調性は極端にベターすぎて、もうちょっとスパイスにかつて自分が絶頂を極めたクラスター技法などを取り入れてもいいのかなあ、とは思う。ま、取り入れてはいるのだろうが、もうちょっと……ね。

 作品は多岐に渡る。交響曲は長らく6番抜きで8番まであったが、死の3年前に長く欠番だった6番が完成した。

 自作や古典派・ロマン派の先輩の曲を指揮するのを好み、いつぞや札幌のPMFのレジデンスコンポーザーで来た時も、自作自演演奏会でメインはベートーヴェンの7番だった。「作曲もする指揮者」「指揮もする作曲家」「作曲家兼指揮者」では、まあ「指揮もする作曲家」だろな。

 ※この頁の姓表記について

 ロシア人の名前の「〜スキィ(〜スキー)」は、元はポーランド由来のもので、ポーランドでも「〜スキィ」と発音するようですが、なぜか日本語表記は「〜スキ」です。指揮者のスクロヴァチェフスキとか。同じく、「〜ツキィ」も「〜ツキ」です。これはなぜなのか、諸説あるようですが、本来は「スキィ(スキー)」、「ツキィ(ツキー)」にするほうが自然に思いますし、ポーランド系のストコフスキィが「スキィ」で、スクロヴァチェフスキが「スキ」や、ポーランド系カナダ人アイスホッケー選手のグレツキーが「ツキー」で、作曲家のグレツキが「ツキ」なのは個人的におかしいと思いますので、ロシア風に準拠して、伸ばしたいと思います。(他の頁で先に書いたものはめんどくさいので直しません)


第1交響曲(1973)

 膨大な編成を持つ、アタッカで進められる4つの部分の30分ほどの交響曲。バーンズ・エンジン工業社委嘱。

 既に前衛技法と同時に宗教的視野におけるネオロマンの作風も平行して創作していたペンデレツキィだったが、この1番あたりから徐々に作風がロマン主義に傾いて行くそうなのだが、そうは云ってもまだまだ1番では前衛の旗手の面目躍如である。

 アルケI 強烈な乾いたムチの音が連打され、緊張感が空間を支配する。ヴィブラスラップや、木質の打楽器が続々と投入され、絃のピチカートが増殖する。管楽器のドライな浸食が行われ、絃楽合奏の強力な響きが聴くものをザワザワさせる。短く、序奏といった趣。

 ディナミス I クラスターによる絃の「軋み」が凄まじい。この家屋が傾いで行くような不安感は流石。その後、圧倒的な音色音楽に突入。あらゆる雑音……のような楽器群の偶発的なサウンド……のような、よくわかんない何か。たぶんこういうの本当はシンセサイザーで作る効果音的なものなのだろうが、オーケストラでやっちまうのがこの人の偉いところ。これ電子音じゃないんですよ。すばらしい。最も長い楽章部で、面白サウンド楽章。

 ディナミス II テンポがアップし、スケルツォ楽章に相当。あくまで相当であってスケルツォではない。絃楽のありとあらゆる特殊奏法が登場する。打楽器や管楽器も執拗にからむ。後半にはティンパニ乱打と打楽器合奏も。管楽器も乱入し、カオスに。

 アルケ II は最も短く後奏といってもいい。なにやら東洋風の瞑想的雰囲気も醸しつつ、どこか映画のサントラ的な面白さも出しつつ、前衛的技法を駆使して真剣にゲンダイもやっちゃっている。最後はヴィブラスラップのソロが冒頭に回帰しておしまい。

 これは初期ペンデレツキィの集大成か。


第2交響曲(1980)

 聖歌などのクリスマスの曲を引用しているので「クリスマス」とも呼ばれる。79年のクリスマスに作曲が開始され、80年に完成。アタッカで続けられる5つの部分の35分ほどの曲。既にこの時期には、ネオロマンの響きが見られるが、初期のころから前衛手法とは並行的に試みられていたようだ。

 当初はモデラートであり、調性とはいえ、おどろおどろしく、民主化を控えたソ連崩壊直前の微妙な雰囲気を色濃く伝える。圧倒的な低音の旋律の中から、炎が上がるように激しい金管の主題が出てくる。ここらへんは無調っぽくもある。怪獣でも出てきそうだが、ク、クリスマス?

 アタッカでアレグレットに入るが、鋭いスケルツォにも聴こえるほどの、緊張感。そのまま怒濤の戦闘アレグロ。ショスタコか。

 頂点でレントに到る。1楽章の暗黒的なパッセージが再現される。立ち上がる悲哀を帯びた旋律。よく分からないがまあたぶん……そのへんが聖歌からの祈りの引用なのだろう。仄かな祈りが現れるが、次から次にうねり狂う音響に巻き込まれ、つぶされて行く。

 再び冒頭に回帰するとテンポ I である。夢想的な移(うつ)ろいが空間を支配する。すぐさまアレグレットに到る。アレグレットといいつつ、凄まじいアレグロが暴風雨となって吹き荒れる。聖歌主題も高らかに鳴り、まるでサイレンのようになる。微かに鐘も鳴って、幸福な予感を感じさせるも、すぐさま暗黒星雲が襲ってきて、元の木阿弥というか……。
 
 コーダで嵐の後のメチャメチャに破壊された風景を呆然と佇んで見つめる雰囲気となり……そのまま絶望の果てに終わる。

 このありがちなミニショスタコーヴィチみたいな第3国20世紀クラシックを、どうとらえるか。まして、あの「ヒロシマのペンデレツキィ」の。個人的には、同じ方向性としてもっと凄まじい響き(ペッテション)を知ってしまった以上、ヌルさしか感じない。また、ネタとして扱うほどの酷さでもない。技術的には良いのだ。難しい。


第3交響曲(1988-1995)

 45分に到る大曲。7年間も改訂し改訂し、作曲し続けていたようだ。5楽章制であるが、1楽章は2楽章の序奏にも近い。

 アンダンテ・コンモルトより曲は始まり、やはりデロデロした音楽による。調性だが、かなり特撮調(笑) 予兆を感じさせ2楽章へ。

 凄まじいアレグロの2楽章はまさに2番と同じく緊張の極みを形作る。打楽器や金管も激しい。やがて室内楽的(というか、打楽器アンサンブル)に到る。またトゥッティになり次は絃楽アンサンブル……そして怒濤の打楽器祭へ。構成としてはそれの繰り返しで、やはり(音響的に)大人しいショスタコーヴィチだなw かなり荒々しいのではあるが。これは演奏か悪いのかもしれないが。(ヴィト/ポーランド国立放送カトヴィツェ響)

 静まって、アダージョの3楽章に。流れは良い。宗教音楽も得意なペンデレツキィらしい、静謐な良い祈りのアダージョ。

 続くパッサカリア−アレグロ・モデラートがなかなか面白い。当曲で最もペンデ的前衛っぽい圧倒的な響き。つまりクラスタ音楽。トロンボーンのソロも秀逸。

 最終楽章はまたも緊張感のあるヴィバーチェ。絃楽の刻みに打楽器が合いの手。管楽器が叫声。途中途中に静まる部分もあるが、全体の進行はこの通り。ちょっと長い(笑)

 ペンデレツキーは、技術はあるがどうも発想が面白くない。正直、ヒロシマみたいな楽章を4つ並べて「交響曲」と言っていた方が、まだ刺激的だろうが、それは「音楽作り」という点で納得できなかったのだろう。1番がそういった感じであるが、その意味で正直な「音楽家」だ。彼の交響曲はまだまだネオロマン街道を突き進む。そうは言っても吉松隆ほどの開き直りも無いのがまたミソである。


第4交響曲(1989)

 フランス革命200周年記念作品だそうで。5つの楽章(あるいは5つの部分)からなる。30分ほどの音楽。

 重苦しいアダージョは地獄のファンファーレよりはじまる。まさに「革命前夜」のごときで、まるでソヴィエト音楽。管楽器の悲愴な旋律に打楽器も合いの手も入り、葬送行進曲は続く。

 が、人知れずテンポが上がると、そこはピゥ・アニマート。激しい闘争が描かれる。ここら辺はけっこう描写的。すかさず今作で最も規模の大きなテンポ I に到る。要するにアダージョに戻るということなのだが。副題に「アダージョ」とある記事もあるが、まあこの楽章の事を云っているのだろう。ファンファーレより派生した金管のフレーズがなかなか恐怖。楽想としても、1楽章のアダージョの拡大されたバージョン。楽章の最後の方では続くアレグロへの布石も。

 アレグロは絃楽合奏から鋭い金管の響きが刺さり込んでくるもの。ここら辺のショスタコーヴィチ臭さは、まあこの世代とお国柄から、こういう作風からするともうどうにもならないんだろうなあ、という気がする。妙チクリンな打楽器が唯一の進化か(笑) でも、ショスタコーヴィチの打楽器だってそうとう(褒め言葉として)狂った使い方をしている。

 それでテンポ II へ。またアダージョである。つまり緩・急・緩・急・緩という構成で、最後の静かな締めのアダージョ。

 フランス革命にこれがどう関連するかと云われれば、実は純粋音楽として特に関連しないのかも。


第5交響曲(1992)

 韓国で初演され、韓国民謡も取り入れられているという。そのためか「朝鮮風」と副題をしている記事もある。完全な1楽章制で40分に近づく巨大な音楽。

 絃楽の不安げな序奏が、痛々しい響きを出す。しかもかなりシリアス調で、ありがちなヌルさが無く好ましい。重々しいともいうが……。

 ティンパニのトレモロよりアレグロとなり、絃楽が善良なショスタコーヴィチ的模倣の主題を続ける。ペンデレツキィのショスタコ流儀はここで頂点を迎える。やがて管打楽器も豪快に加わって、大きく盛り上がる。近代オーケストラ好きは、こういうのはたまらないだろう。絃楽の悲壮的な主題も大きく変容する。

 続いてアダージョに到る。鐘も鳴り、曲調はやや平穏なものへ。そこからちょっと妙な展開のアレグロに。かなりシビアな響きで、ちょっとペンちゃんどうしちゃったの、といったふう。と、いっても初期のような前衛的な超ドライさではなく、その意味で懐古的なシリアスオーケストラ曲。

 その後、大きい変化は無く、それまでの楽想の展開となるように聴こえる。緩と急が順に現れては消えて行くその無常観。無調的とはいえ、主題は統一されているので、聴きやすい。

 コーダの盛り上がりは聴ける。

 ううむ、かなりシリアスな近代鳴り物系交響曲で、まずまず良いが、まとまりが無く、この内容で40分近くはあんまりだ。クドすぎる。

 ちなみにどのへんが朝鮮民謡ふうなのか、サッパリ分からない。それもまた、よし。


第7交響曲「エルサレムの7つの門」(1996)

 エルサレム建都3000年を記念し、イスラエル政府の委嘱による。合唱独唱付のオーケストラ作品で、7つの音による主要主題と7つの楽章を持ち60分になる、ペンデレツキィの交響曲の中で最大規模の曲。当初、カンタータか何かで交響曲ではなかったようなのだが、結局交響曲になって、しかも既に6番のスケッチに着手しているから、とかいう理由で、6番をすっ飛ばして7番となった

 テクストは旧約聖書による。従って純粋に言うと、確かに宗教カンタータ作品なのだが、主題の統一とか、楽章間の構築性とか、やはり交響曲と言わざるを得ない構成力がある。「7つの門」とはエルサレム旧市街地区に本当ある7つの門(新門、ダマスカス門、ヘロデ門、ライオン門、糞門、シオン門、ヤッフォ門)の事と思われる。

 ちなみに、西洋では「神の声は低い」とされており、低い音が荘厳な尊いものの象徴である。東洋は逆で、低音は悪で正義、神、尊いものは高い音となり、京劇がその顕著な例である。

 というわけで、当曲では神の登場する象徴の音として、バストランペットが重要な地位を占めている。この独特の魅力ある低音が登場するのが6楽章で、神との対話が描かれる。

 第1楽章は重々しく合唱と低音楽器による導入として最高の盛り上がりを見せる。ソロも半音進行っぽく不思議な響きを奏でる。ここら辺の雰囲気はペンデレツキィの創作の重要な部類である宗教作品の雰囲気を濃く伝える。シリアスな曲調ながら、荘厳さとどこか映画音楽のようなエンタメ性を忘れない素晴らしい楽章。

 2楽章は短く間奏曲のよう。ソプラノの滔々とした訴えかけるような祈りが良い。管絃楽もドライな感じが砂漠の祈りを思わせる。

 3楽章はアカペラによる合唱部。複雑な音程と声部が独特の音響を醸す。後半は美しい共和音が賛美歌調。

 4楽章は2楽章のテーマによる楽章で、間奏曲、2楽章の展開、あるいは再現部である。冒頭の歌詞も同じ節(詩篇137.5)を歌う。ソプラノがまたお経みたいな独唱に入り、ここいらはちょっと長いかもしれない。

 5楽章が白眉で、歌詞は短いが最長の15分に到る楽章で、スケルツォ〜悲歌〜スケルツォと続く。原始的なリズムを刻むスケルツォは、今曲唯一の速い部分である(笑) 打楽器もバリバリでオルフ調の荒々しさがある。5分ほどで悲歌に到り、ホルンやフルートのソロを経て、またじわじわと合唱が浸食してくる。そして唐突にスケルツォに戻り、激しい打楽器や絃バス群のビチカートが独特の響きを生む。

 6楽章も面白い。ナレーション仕立てで、打楽器アンサンブルの現代的な伴奏に加え、神の声の代理たるバストランペットがバリバリと鳴り渡る。そもそもトランペットは天使の吹くラッパの象徴でもあり、この手の作品には欠かせない。もっとも出番は一瞬で、楽章自体も5分くらいで終わって、怒濤の最終楽章へ突入する。

 7楽章はアレグロではあるが、頻繁にテンポが変わる。テーマが回帰し、そこらへんが交響曲たる所以か。中間部は、やっぱりちょっと長い。が、緊張感は保たれている。コーダのあからさまな讃歌も、下品ながら盛り上がりはある。

 主に詩篇からとられており、その妙なドライさがストラヴィーンスキィの詩篇交響曲の雰囲気にも似ていると思うが、やっぱり品格に欠ける。


第8交響曲「儚さの歌」(2005)

 これも歌付の多楽章制交響曲で、12楽章もある。同様のタイプとしてやはり圧倒的にマーラーの大地の歌や、ショスタコーヴィチの13番14番が存在感を示すが、こちらは規模的に35分ほどで、歌曲集的な「ささやかさ」がある。

 テキストは主にリルケ、ヘッセ、アイヒェンドルフである。全てドイツ語で歌われる。

 第1楽章「夜に」 響きとしては、まずまず冷たく怪しげなオーケストレーションがペンデレツキィらしく好感が持てるが、メゾソプラノ独唱の旋律は思い切り後期ロマン派と新ヴィーン楽派の中間くらい。

 第2楽章「秋の終わり」 1節のみで50秒という短い楽章。重々しく、苦しみを吐露する。合唱。

 第3楽章「菩提樹の傍らにて」 バリトンによる失恋を歌う悩ましげな曲。
 
 第4楽章「ライラック」 同じくバリトンによる速い楽章。失恋が、ライラックの花が咲くのを見ることで癒されるかのような構成である。

 第5楽章「春の夜」 バリトンによる。伴奏が室内楽的で冷たい叙情に溢れている。木管の使い方などいかにもマーラー的。

 第6楽章「秋の終わり」 こちらは第2節で、やはり50秒ほど。間奏曲的なもの。合唱。

 第7楽章「君たちに教えなければならないのか、愛する木々よ」 ここだけゲーテ。ソプラノと合唱だが、なんという既視感いや既聴感(笑) 途中からテンポアップする。

 第8楽章「霧の中にて」 ソプラノと合唱。前楽章と似たような雰囲気である。シュプレヒシュティンメっぽい独唱がなんとも。

 第9楽章「儚さ(無常)」 ソプラノと合唱。楽曲タイトルは、この楽章からからと思われる。最後の一葉的無常観。気のせいかオーケストラも豪華。

 第10楽章「秋の終わり」 第3節である。ちょっと長い。合唱。間奏が怖い。

 第11楽章「秋の日」 バリトンによる。リルケは、ショスタコの14番にも使われている。なんかそんな雰囲気が強く感じられる。

 第12楽章「ああ、緑なる命の木よ」 最も長く、8分もある。ソプラノ、メゾソプラノ、バリトン、合唱による。当曲の集大成。

 終始テンポはゆったりとしている。楽章は終楽章を除き数分で短く、より交響曲というより歌曲集としての性格を強めている。内容はあまりの叙情さに恐れ入るが、ツェムリンスキィのその名も叙情交響曲というのがあって、頽廃的なダルさも含めて雰囲気そっくり。これが、前衛の旗手の重大な1人だった人が2005年に書く音楽か。


第6交響曲「中国の詩」〜バリトンとオーケストラのための〜(2008/2017)

 完成順として、最後にアップする。

 ずーっとスケッチのみで欠番だった6番が、8番完成後に作曲を再開し、死の3年前に完成した。私も長らく完成を知らなかったが、録音もされたので記す。

 マーラーの大地の歌と同じ、ハンス・ベードゲ翻訳によるテキスト集「中国の詩」による、歌曲楽章が並んだ演奏時間26分程度のもの。パリトン独唱と、なんと二胡のソロが入る。モニュメンタリズム(古典主義と新古典主義の再結びつきを不可欠な規範として持つ建築的傾向) ←個人的には意味不明 としてのペンデレツキィの、集大成ということなのだろう。

 結局、ペンデレツキィの後期交響曲は、7、8、6と全てカンタータ形式あるいは歌曲楽章による組曲形式で、人によっては交響曲と認めず歌曲集として認識できるもの。だが、作者が交響曲と名付ければ、それは交響曲なのである。交響曲は形式美の藝術だが、形式美を愛でるのと形式主義は異なる。こんなものは交響曲ではないと言い張ったところで、時間の無駄だ。意味はないし、是非もない。

 第1楽章「神秘的な笛」 なんか、どこかの国の吹奏楽曲めいた冒頭からタイトル通りフルートが中華的雰囲気を養う。すぐにバリトンの独唱。バリトンの旋律は、特に中華的なものではないが、伴奏がもう、完全に中華。最後に、二胡のソロがあり、ダイレクトに中華。中国名所紀行の世界。

 第2楽章「異国にて」 金管の独特な和音動機から、バリトンの悩ましい歌。管楽器の響きが特徴的。

 第3楽章「川の上で」 前楽章と同じく、バリトンを主体に進み、伴奏は控えめ。また、中華的な要素はあまり無く、よくある(と、言ってはなんだが)オーケストラ伴奏付歌曲。

 第4楽章「野生の白鳥」 ここでまた中華。中華レストランでよくBGMにかかっているような二胡ソロから、突然の西洋的オーケストラとバリトンの妙。

 第5楽章「絶望」 初めて、厳しい表現が現れる。中盤の、チェロのソロによる伴奏も特徴的。小さい三部形式で、冒頭に戻る。

 第6楽章「月夜」 木管の旋律が不気味。タイトルからしてシェーンベルクを想起させるが、あれほど激しい音調ではもちろんなく、美しくも、当曲の中ではちょっと不思議な響き。

 第7楽章「夜の情景」 三度目の二胡ソロ。どうせなら二胡で無調的な旋律を書けば良かったのに、なんでまたこんなにダイレクトにチャイナさんなのだろう。そこから、どこかオリエンタリックな和声とオーケストレーションの伴奏で、バリトンが登場する。最後に、また二胡が中華旋律を紡ぐ。ここまで来ると、何を表現しているのか考えてしまう。何か、深い意図でもあるのではないか。無いと思うけど。

 第8楽章「秋の笛の歌」 最後は純然たる西洋音楽だが、やはりフルートなどは、少し響きというか中華的な雰囲気が残る。あえて高音を吹く低音金管に、ペンデレツキィらしさがあるかもしれない。特段の終結部があるわけでもなく、気がついたら終わっている……という無常さに、聴くものは戸惑いを隠せないだろう。

 マーラーと同じく、いかにも西洋人のイメージするチャイナさんで、面白いというか、笑ってしまうというか。逆に言うと、マーラーからぜんぜん変わってないのだが、これは 「あえて変えていない」 と判断するのが妥当だろう。ペンデレツキィにとって、変える必要が無かったのだ。古典と新古典に技術的精神的な境目はなく、何を古典的に表現するか、という観点から考えると、本当に変える必要はない。

 また、8番とほとんど表現的手法が変わっていないのも興味深い。やはり、ペンデレツキィ最晩年の音楽世界は、こういう世界だったのか。

 あとは、どういうわけで純然たる西洋音楽の世界に、いくら「中国の詩」だからといって、ここまでダイレクトに中華を入れる必要があったのか……それはもう、作曲者にしか分からない。


 規模、そして面白さからいって、ペンデレツキィの交響曲は1番と7番であろう。それに3番か5番も加えても良いかもしれないが、1・7番の2曲はシリアスとエンタメ調の両極端で、それぞれ独特の聴き応えがある。




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