ペッテション(1911−1980)
全国の北欧マニアというよりむしろ、交響曲マニア、暗黒音楽マニアの間でじわじわとその魅力を浸透させているスウェーデンの作曲家、アラン・グスタフ・ペッテション。ペッテション=ベリエルという作曲家もいるが、ちがう人である。政治家やスポーツ選手にもいるので、ペッテションというのはスウェーデンではよくある苗字のようだ。
(発音の関係で、ペッタション、ペテルソン、ペッテルソン、ペッターション、などとも表記される)
特に、後期ロマン派から、近代ソ連交響曲を聴いてきた人が、次に開眼するパターンが多いようで、むしろ根っからの北欧マニアや現代音楽マニアからは異色作家の扱いを受けているのではないだろうか。また、現代モノはふだんは縁がないという人も、ペッテションは聴ける、という場合もあるようだ。ペッテションはその書法が強烈な前衛ではあるが、音調的には調性の部分も多く、完全なセリー主義・無調無拍・数理偶発性ものより聴きやすいのだという。
さて……。
人によっては、ペッテションはマーラー、ブルックナー、ショスタコーヴィチという近現代交響曲作家御三家のような偉大なる神級・S級のシンフォニストを超えた、ウルトラS級だという。
それは何をもってそう云われるのだろうか。
もちろん「演奏効果」という点で聴くのならば、それは御三家にかなうまでもない。ペッテションなど、盛り上がりと形式感に欠け、現代音楽という割には中途半端な調性的響きの時間の虚ろな経過にすぎない。
しかし、ペッテションをウルトラS級と認定する者たちは、けして演奏効果のみからは得られぬ何かを、少なからず聴き取っている。そこに感動と美を見いだしている。外面的な効果だけの問題ではない。
それはまず語法であり、書法であり、精神であり、なにより音楽そのものである。
それらが、完全にペッテション独自のもので、揺るがず、光を放ち闇に渦巻いている。
各交響曲を聴いていただくと分かるが、凄まじいダークマターと怨念と呪怨の奔流の響の果てなる果てに、必ず光がさす。それは浄化だ。音の光による浄化。その美しさと清らかさ、安堵感は既にそれだけで神レベルといえる。そこで音楽が終わるのならば、ペッテションも救いを求める人の子だったのである。超Sはおろか、とてもSクラスとまではいえず、せいぜい2A級の交響曲作家であったろう。救いで音楽が終わるので、あれば……。
ああ、なぜ、なぜ貴方は地獄へ戻って行くのですか。
なぜ貴方は救済を提示しておきながら否定するのですか。
ペッテションの交響曲は、これまでのどんな交響曲より聴く者を拒絶する。それはペッテションよりもっとゲンダイオンガクで難解な他の交響曲より、むしろ痛烈に、そして明確に拒絶する。その拒絶の仕方は逆に分かり易過ぎるほどだ。
ペッテションの音楽はその内向さで、美しさで、厳しさで、重さで、暗さで、精神的ダメージで、これまでのどんな交響曲も超えている。そしておそらく、これからも超えられることはないだろう。ゲンダイオンガクは前衛という精神的苦闘の果てに音楽を崩壊させて、むしろ魂は解放され精神は楽になった。ここには崩壊する寸前のギリギリの、疲弊の中で美に苛み光を求めてもがき苦しむ真の苦行的闘争がある。魂の闘争である。それが藝術でなくて、なんというのだろうか。
したがって、どんなにマニアの間で高名になろうとも、絶対にマーラーのように、ショスタコーヴィチのように「メジャー」にはならないだろうし、なってはいけない。これを愛好することのできる者が、そうそう巷にあふれていては、世の中おしまいだ。それくらいの音楽である。もしそこそこ(例えば日本でもプロオケの定期演奏会でちょくちょく取り上げられるようになって)演奏されるようになるとしても、最低でもあと2、30年はかかるのではないだろうか。というかそんな日は来ないでほしい。
マニアとか通とかという言葉で括りたくはないが、ペッテションは、その音楽を愛好する人を選び、聴く人を選び、その選び方が極端なので、どうしても、マニアの中のマニア、通の中の通しか、聴くことは……いや、聴き続けることはできないと思われる。
しかし、美しい……。
この美しさが無ければ、誰がこのような狂気を聴くというのか……。真の真なる藝術がここにある。
注!ペッテションを表層的かつ感情的に聴くと、人によってはたいへんな鬱状態に陥りますので、純粋に音楽としてお聴き下さい。当たり前ですが純粋音楽です。ここにいかなる感情もありません。
参考 私のペッテションのページ(ディスコグラフィー)
第2交響曲(1953)
1950年にはパリに留学し、ミヨー、オネゲル、メシアン、レイホヴィッツらに作曲を学んだペッテションは、結局ほとんど交響曲ばかりを書いて、他に初期の室内楽曲、歌曲や歌曲集、そして協奏曲では絃楽合奏のための協奏曲(3曲)と室内楽のヴァイオリン協奏曲1番、そして大作のヴァイオリン協奏曲2番、ヴィオラ協奏曲が残っているが、メインは交響曲で、しかも15曲もある。1番は破棄されたといい、17番は未完成ということで2〜16番までの15曲となっている。
ただし、明確なペッテション節が現れるのは、5番からで、2番から4番までは、特徴的ではあるが、内容としてはけっこう普通のゲンダイオンガクだったりする。
激しい無調の音楽だが、無拍というわけではなく、厳しくリズムを刻む場面が多い。しかし、原則的には、これは完全な所謂ゲンダイもの。
だが、ペッテションらしい特徴は既にある。
まず既に40代を迎えての作曲で、既に1番を破棄し、他に初期の作品を多数書いているため、遅書きであるということ、基礎の書法が完成しており、また無調だが調性のように聴こえる部分も多いということである。(というか人によっては調性に分類するかもしれない。専門的な分析は、素人には難しい。)
なにより、20世紀ゲンダイ調音楽で、45分はなかなかない。ふつうはヴェーベルンの影響か、小曲が多いのだが……。これは肥大した後期ロマン派へのアンチテーゼであって、また逆に多様性主義ではいろんな音楽がゴタマゼになっていて、必然、長くなるのだが、この筋金入りのゲンダイもので45分は酷い(笑)
しかもご丁寧に1楽章制。
これは……聴く前から参りましたと云いたくなる。
ちなみに、ブックレートに譜例が載っているのだが、バリバリのゲンダイオンガクではあるが、譜面は特殊奏法とかも(とりあえず)なく、かなりスッキリしている。白玉(全音符)が多いのも特徴だ。それが、耳障りといっても雑音ではなく音楽的な響を作り出し、独特の美しさにつながっているのだろう。
音楽はいくつかの部分に分かれ、だいたいはアレグロで推移する。
調絃っぽい序奏があり、それだけ聴くとなにやら調性音楽のよう。しかしそれを彩る和音は既に不安が支配されている。執拗に1つの短い動機が繰り返される。序奏が消え入ると、突如としてアレグロ。無限旋律の部分もあるのだが、とにかくめくるめく音楽の進行は、先が見えない。展開という生易しいものではなく、かといって完全に支離滅裂でも無い。何かが鳴って、何かが進行して、何かの秩序が保たれてはいるのだが、その何かが分からない。真っ暗闇の中を手さぐりで歩いて行くというか、一歩踏み出すごとにそこだけ明るくなるというか。
テンポの変化はけっこう激しく、とりとめもなく曲調も変わるのだが、流れが途切れない。途切れないが、流れが見えない。予測不能。ペッテションの交響曲はその書法が一貫している。
ここにあるのはまだペッテションの技法のみといった感じで、魂がまだ出てこない。書法的にはかなり軽く、明るい。
しかし……いくらなんでも取り留めなさすぎるだろ……。
まさにカオス。
ちなみに延々と暗黒が渦巻いてきながら、突如として一瞬の平安・救済が訪れるのも、2番から既に確立している。解説によるとモーツァルトが一瞬だけ掻き鳴らされるのだという。そして平安はまた嵐の向こうに去って行く。夢だったのである。
最後まで耐え続けた自分を褒めてあげたくなのるは必定の曲だが、これはまだ音響のあらしというほどのものにすぎない。聴き終わって、疲れない。いや、肉体的には疲れるのだが、精神的にはまだ耐えられる。
また続く3・4番もこの延長上である。本当にペッテションの恐ろしさが現れるのは5番から。5番からは、音響のあらしの中より、闇がひたひたと聴くものの心を浸食する。おお、恐ろしい。
第3交響曲(1955)
3番は2番よりやや後の作品。もちろん1楽章制。時間は約40分。
ペッテションの交響曲で、番号ごとの書法や作風を問うても意味がない。なぜなら、みんな同じだから。
云うなれば、その深さが異なるのと、広さが異なる。あるいは、向きが異なる。
3番は2番から4番までの初期グループを作っていると考えられる。同じように何番を聴こうがたいして変わらない作曲家はいるのだが、精神や表現方法は変わらずとも書法の熟達という点で明らかにペッテションは番号を進むごとにレベルが上がって行くので、交響曲作家として成功している。
3番はそれでも4つの部分に分かれていると考えられるので(アタッカだが)まだ交響曲っぽいかもしれない。イントロダクションを経てアンダンテ、ラルゴ、そして短いアレグロ・コモド、アレグロ・コンモート。
ゴゴゴゴゴゴゴ
まさに地獄門が開く。ひそひそと低絃がざわめく。そんな的確なイメージで3番は開始される。旋律はしっかりと形作られ、ペッテションには珍しい開始である。相変わらず激しい無調的な進行だが、暗いかというとそうでもない。これくらいは、いわゆる現代モノでは特筆するでも無い、ふつうの暗さ、だろう。暗さというか、深刻というか……。その中に浮びあがる青く済んだ小魚。漆黒の海に青く光る小魚達が、再び暗黒の水に呑まれて行く。
第2セクションでは、ラルゴにて、珍しく静謐な音楽が聴かれる。ここはなかなか、カッコイイ。
第3セクションは短く、激しいアレグロに戻るが comodo の指示があり、まああまり急がずに演奏される。それにしても……ぜんぜん展開が音響の奔流そのものというか、予測は完全に不可能。まして音楽語法に則った和声だ展開だという意味での予知などと。
第4セクションでいよいよ、音楽は深刻の度合いを増す。だが、云うほど暗くはない……真摯さは変わらずだが。
3番では平安部分があまり感じられぬまま、消えて行くように終焉を迎える。最後の方は、調性っぽいが、ペッテションは調性でもこんな音楽が書けるのだという新鮮な驚きと衝撃を、ふだんクラシックをよく聴くものにこそ、与えてくれるだろう。
などと、まだ3番では、こんなことを云う余裕もあるわけだ。むしろ2番の方が、ゲンダイっぽい。
第4交響曲(1959)
やっぱり1楽章制。やっぱり40分。ペッテションは内容はカオスなのだが、形式は厳格に護っている特徴がある。3番との間に絃楽のための協奏曲第2番、3番を挟んでいる。その協奏曲もたいへんな難曲・長時間で、いわゆる通常の絃楽合奏などという尋常の概念ではとても推し量れぬような凄まじい音がするので、交響曲以外でも推奨する。どうしてあの絃楽合奏というジャンルの音楽から、こんな響が生まれるのだろうかというほどの凶悪な響だ。
それへ、管打楽器が加わるのだから、交響曲の超音響おして量るべき。
とはいえ、やはり4番までは、まだ音響のみの表面上の凄さでしかない。しかし、ここまでで恐れ入ってる人は……もしかしたら、5番6番を聴くと、打ちのめされてしまうかもしれない。立ち上がれないかもしれない。真っ白になってしまうかもしれない。だが安心されたい。7番と8番で、逆に少し(本当に少しだけ)、救いがある。本当に少しである。一瞬である。が、5番や6番よりは、ましだろう……。
だから、6番をうかつにも先に聴いてしまって、「もうオレはペッテションにはついてゆけん」と思った方は、騙されたと思って、どうか7番や8番を聴いてほしい。本当に騙されたと思っても責任はとれないが。
さて4番だが……。
木管の微かな叫びから始まる。ぴょー ぴょー と、乾いた風のようだ。そこへ絃楽や打楽器がカクカクと入ってくる。既に緊張感は異様なほど。民謡のような、少しの哀歌が流れ……もちろんバリバリの調性である……音楽は平安を表現するが、それはたわいもない一時のくだらない夢である。
ここからしばし、静かな部分が続く。ちょっと冗長で、ペッテションらしいカオスは息をひそめる。同じようなフレーズが執拗に繰り返され、オスティナート効果を生む。
やがて激しい膜物打楽器が登場すると、じわじわと音楽は戦場へ向かって進んで行くが、この世へ未練たっぷりの振り返るような調性部分との対比がむしろ悲しい。この極北のオーロラのような神々しい間での調性は、まさに音楽は調性こそが神なのだということを聴くものへ示唆する。それは、交響曲の番数が進むごとに、純化し、結晶化して行く。それでこそ、感動する。
それが20分ほど続くと、いきなり聖歌か牧歌のような素朴で清々しい、あまりに清々しい「歌」が……。そう、ペッテションは基本、歌の人なのだ。
だから、そこで終わってると、ペッテションはもっと聴かれると思う。
終わらない。終わってたまるものか。
でもまだインパクトは弱い。これでも。ペッテションは、こんなものではない……。
第5交響曲(1962)
さあ、みなさん。
心の準備はよろしいか。
おっとCDを止めるんじゃない!
まだ早い。まだ早い。
しかし暗い……根暗とかそういうのではない……虚無……まさに暗黒……何があったのだろうか。これまでの交響曲は、練習だったのではないかという気すらする。
アル中で暴力をふるう父……宗教に狂う母……虐待……苛め……感化院……音楽に救いを見いだす……音楽……神……調和……完全なる調和の世界……だが神は微かな救いを求める哀れな求動者よりその救いすら奪おうというのか……強度の関節炎……ヴィオラ奏者だった彼は、楽器を捨て……そして作曲のペンを持った……作曲家として晩成なのはそのためである……しかし……ああ、神よ、神! 神! おおおなぜだなぜなのだ、彼より作曲のペンすら奪おうというのか!!
5番は……代筆してもらった初の交響曲とのことである。
なんという屈辱……なんという恥辱……自らの自らだけの世界を他人にまかせざるを得ぬこの想い……。
5番が全てを物語っている。ここには狙ったような演出もなければ演奏効果もない。純粋なる絶望だけが、音楽に昇華している。
運命の数字。第5。ベートーヴェンの魂を、チャイコフスキーが受けて、マーラーとブルックナーが峻厳に受け渡しし、ショスタコーヴィチとプロコフィエフが現代に蘇らせ、そしてオネゲルが静かに閉じようとしていた運命の扉を、彼はこじ開けてしまった。
あああああ、それは罪なのだろうか。なぜ、神は彼に罪を負わせたのだろうか。なぜ5番なのかどうして第5なのか。
聴いてみよう。もう、戻れない覚悟を持って。
5番から、音楽の真剣味のレベルがいきなり上がる。壁を超えるようとしている。何かを突破しようとしている。それは「世の成り行き」なのかどうか。彼にとっての世の成り行きとはなんなのだろうか。祈りと警告が、警鐘にとって変わられる危険。危惧。
その危惧は的中し、音響が渦を巻きだす。蟻地獄が蟻を捕えるように、ペッテションの交響曲は聴くものを捕えて引きずり込む。牙が見える。暗黒の牙が見える。あの牙の向こうに安息はあるのだろうか。衝撃的な響はあくまで、単に音が大きいという衝撃だけではなく、心にせまる何かを内在させている。和声学的には、不思議な効果でもあるのかもしれないが、むしろ現代技法の中ではオーソドックスなもののはずである。珍しく鳴らぬ金属打楽器、そして珍しく活躍するティンパニ。連打されるティンパニだって、吼えるホルンだって、よくある普通の奏法だ。なのに、その書法は、聴くものを苦しくさせる。
圧倒的な負のエネルギーが聴くものを押しつぶす。押しつぶし続ける。何回も殴られるのではなく、じわじわじわじわと水が迫ってくる。暗黒の水が迫ってくる。死の河が迫ってくる。これは立ち直れん。これはマズイ。これはヤバイ。もう、笑うしかない(笑) なんじゃこりゃwww
救いは無いのだろうか。否定されるために提示される救いすら無いのだろうか。
無い。
びっくりする。40分。1楽章。暗黒まっしぐら。
第6交響曲(1966)
5番でそうとう打ちのめされた人は、6番を聴く勇気があるだろうか。6番は5番と方向性は異なるが、落ち込み度は同じほどである。
5番では、ある種の怒り、荒々しさのようなものが確実に聴こえた。しかし、6番ではもう達観と諦観、そして悲しみが美の中に昇華している。7番以降はある意味、そういう、その世界で生きようという覚悟としての「演奏効果」や「演出」があるのだが、6番ではまだなんとかなるのではないかという、まだ帰って来られるのではないかという、本当の意味での希望や願望が見え隠れする。そのシベリウスのそれと同じ叙情が、逆に痛ましい。
低音が歌う歌は、何の聖歌なのだろう。絃楽の紡ぐ祈りは、何の祈りなのだろう。彼は本当に神を信じていたか?
ティンパニの導入により、祈りが狂気の叫びとなる。彼の音楽は、作曲法の目新しさは無いが、展開とか進行とか書法がメチャクチャで、何の脈絡も無く無限増殖で進み続ける。彼のアタマの中がそのまま楽譜になっているような、けっこう感情・感性型の作曲だとは思うのだが、その感情・感性がコレではなあ(笑)
(形式的には無限旋律循環形式……というものがあるとしたらそれ……だとは思うが……)
6番は比較的絃楽が主体で、激しい調子も少なく、淡々と切々と進んで行くので、「響き」としては聴きやすく、じっくりと聴けるだろう。わかり易い旋律も多い。
それが逆に切なくて苦しいのだが。
高音が多い感じがし、それがその独特の切なさを生んでいるのか。
しかしまあ……その、なんだ……キツイ……これはキツイ……。
何の救いも無い。否定される為に提示される救いすら無い。ひたすら地獄の釜の底で煮え立ち猛り躍り狂っている。
24分ほどより聴かれるトランペットの低い悲痛な雄叫び。そこから引き起こされる暗澹たるうねり。ドラマ。
それが納まるとやや冒頭の雰囲気へ戻るのだが、正直、聴くのはもう限界だ。
しかしここでまだ半分という恐ろしさ。
作曲家は既に諦めている。頭を垂れ、延々と鳴り続ける絃楽の悲歌を聴き続ける。なぜか打楽器が重々しくそれをひたすら伴奏するのだが……。
だからってそれが30分間続くことはないだろう……常識で考えて……。
最後に少しだけ……少しだけ夢を見させてくれないか……。
醒めない夢は無いのだけれども。
60分。1楽章制。ついにペッテションは完全に何かの壁を超えた。5番で超えようとしていた壁を、何かの世の成り行きを、完全に突破した。
第7交響曲(1967)
残念ながら6番で挫折してしまった人は、順番に聴いた運が悪い。なぜなら、7番8番はむしろ5番6番に比べてかなり聴きやすいのである。突破した後がコレだというのも、何かしらの示唆に富む。どういう境地に至り、このような普遍的な作風を得るに到ったのか。
6番より引き続きに書かれている。時間は40〜45分。1楽章制。バランスが良く、書法的にたいへん上達しており、ただ単に感情を本能のままに書きつけられているものではなく、構成がしっかりしており、その分、演出が良くできている。泣きあり、嘆きあり、救いありのドラマが展開される。荒々しさ、刺々しさは影をひそめ、かなり丸い。
襲い来る虚数の塊のような冒頭旋律ですら、既に何かの映画音楽のように安んじて聴こえる。それほど、7番は「ちゃんと作られ」ていると感じる。ひたひたと迫る暗黒の河は、ちゃんと予定調和の響きに聴こえる。低音の一定のモティーフが延々とオスティナートする中、音楽はカオス度を増して行くが、「作曲家がそのように構築して」いるのがちゃんと分かる。これは5番や6番を聴けば、どちらがより書法として上達しているかは歴然で、7番は突破した後に何かしらの安定を得ている。
こっちは、狂っていないのだ。
悲壮な旋律が繰り広げられるが、展開はメチャクチャではない。しっかりと歩みがある。確信がある。つまりペッテションは、行くべき道を見つけたというべきか。
そして16分ころ……。
武満にも似た、この解放感。清廉感。透明度。魂の旋律。極北のオーロラの雲間より降り注ぐ情景。これまでの猛吹雪は、この前哨であったのか。
それが5分ほどもすると……また戻る……吹雪に戻る。まさに雪の女王登場。ここは泣き節全開で、きゅーっとくる。不安と前へ向かわんとする意志とのせめぎ合い。希望が少しずつではあるが、見えてくる。弦楽の伴奏による、スネアドラムのソロ……。(←どんな現代奏法でもふつうは逆である。)
そしてまたも静謐で、純粋なる祈りが聴こえてくる。このまま安息の中に消えて行くのなら、彼は1流半のちょい叙情系ブラック作曲家として、一般マニア受けしていただろう。
帰ってくる。
暗黒が返って来る。
お帰りなさい死の河。
彼は行くべき道を見いだしたと書いたが、そんな道は本当にあるのだろうか?
彼は我々には見えない世界の、黒色の遥かな道へ行こうとしているのではないのか?
危ない! 彼に着いて逝ってはいかん!!
ああ……彼岸の向こうへ彼は1人で逝ってしまった。あれっ、この情景、どこかで見たことがあるような……?
7番は名作だと思う。これはメジャーになっても良い。いや、なれると思う。大地の歌とかと同じ次元で聴けると思われる。なってほしくはないけれども。
第8交響曲(1969)
8番は7番をより構築的に堅い印象にしたというところで、独特の雰囲気を持っている。一瞬の休止でほぼアタッカで進められる第1部と第2部に別れている。それは20分・30分で、全体で約50分。7番より断続的に書かれており、5、6番が何年もかけて作曲されているのと比較して、彼の創作意欲の高まりと作曲の充実を示している。
妙に鄙び、黄昏て、草臥れた、地の果ての断崖で茫洋とした荒れ狂う鉛色の北海を見つめる主題で、8番は始まる。主題は次第に薄い光を雲間に見えさせる。翼が見える。光の翼が。翼はしかし、暗黒の雲となる。……降りてきたのは天使ではなく悪魔であった。
演出だ……全て演出である。そう信じたい。現実は見たくない。
第1部はその黄昏の主題(仮)が延々と繰り広げられ、聴くものを鬱屈とさせる。雲は空を暗黒で覆い尽くし、波は咆哮として地獄から呼び寄せる。シンバルは破壊と衝撃の象徴である。
いよいよ盛り上がってテンポが上がると、珍しくシロフォンがカクカクと奇妙な音を発し、ティンパニとスネアが谺する中、金管が荒々しいモティーフを吹いて、絃楽がそれを切なく受け取る。ここらへんの進行は、効果的にもうまい。風はどこまでも鳴り渡り、草原を押しつぶす。
2部は、いつのまにか気絶して、気づいたら風が収まっていた……という印象である。
1部のような開放的な響きではなく、いよいよ不安は現実となって襲いかかってくる。ここに到り、種種のモティーフはまったく調性となっている。ここになんのいわゆるゲンダイテキな手法は登場しない。だがこの迫力はなんだ。この取り止めの無さという、真のカオスが、聴くものを不安にさせるのだろう。ここには何の数学的な計算も無く、偶発性も無い。真に人間による真の精神的カオスがあって、それが純粋に恐怖を煽る。有機的で、悪魔的で、猟奇的だ。救われているのはそれが藝術として昇華できている点のみである。
※そこ、病んでるだけって云わない。
ちなみに、2部後半では7番と同じテーマが登場し、関連性を窺わせる。その後、今曲は最大の盛り上がりを見せた後、再び7番と同様の不安のモティーフが支配する。あと、嵐は次第に納まって行き……清らかな光が淡く薄く、細々と差し込む。ただし、それは自分には届かぬ。
そして光は遠ざかって行く。自分には届かぬまま……荒海の向こうへと。光は消え、自分は荒涼とした曇天に取り残される。
最後まで尋常ならざる緊張感を持続させる技術は素晴らしい。そのために、聴後の清浄感というか、絶望感というか、何とも云えぬ気分を残してくれる。
絶望した! 誰もが絶望した!
8番もなかなか面白い。これは傑作だ。上手に展開ができていて、ある種のストーリーすら喚起させる。8番もまた、この21世紀に、一般の人々に聴かれてもおかしくはないと思う。しかし、(これでも)ペッテション聴きには、もう7番・8番は通俗的すぎ、かつヌルいものだろうけど。
第9交響曲(1970)
5番・6番ではあまりに内向的に向きすぎてか、7番・8番では反面、通俗的すぎた。それらよりまさに弁証法的に誕生した9番は、中盤の最高傑作であり、かつ、9番という運命的な数字を冠されてもどこにも逃げず、先人へ立ち向かうことを放棄せず、敢然と雄々しく現代へ挑戦している。それを偉大と云わずしてなんというか。
マーラー、ブルックナーの9番はあまりに宇宙的で、人間の作り出す音楽の究極の姿のひとつを提示している。逆に、ショスタコーヴィチの9番は人間のユーモアの極みである。交響曲書きで、9番の壁へ挑戦しなかった人々も当然たくさんいる。数字なんて何の意味もないと。9番も通常のナンバーのひとつだと。交響曲そのものを捨てたものもいる。交響曲は崩壊したと。もはや交響曲に新音楽的価値はないと。
それはそれでけっこうなことだ。
しかしここでは、そんな逃亡者や落伍者に用はない。
交響曲へ普遍的価値を見いだし、見いだしたからには先人のナンバーへ挑戦する義務が生じる。その義務を放棄せぬ者にだけ、果敢に挑戦し、勝ち得た栄光を享受する権利が生じる。
某書によると、この難曲は単一楽章で90分もかかる超絶交響曲だったが、近年の研究により、スコアを忠実に再現すると60分で済んだのだという。cpoのCDでは69分である。ペッテションの譜面には譜例を見る限り、小節線が無く、フレーズをどのように処理するかによって、時間の経過が異なる。それなりにゲンダイ書法を使っている。アカデミアでフルスコアが売っているので、興味のある方はどうぞ。高くて私は不明ながらまだ手が出てません。
木管の不気味な上昇形より音楽は始まる。上に下に、魂魄は揺れる。やがてせわしい無窮動がオーケストラ全体で群体を形成する。長い息の感傷的な旋律はひそまり、激しいがやけにドライなアレグロがしばらく続く。ここでは物語性を彷彿とさせるものは無く、ほとんど調性ながら、あまりに殺伐として先の見えない現代社会を暗示する。この展開のカオスさは、これまで以上に鋭い。
やがて、やや速度を落とし、響きも薄まる。だがアレグロは変わらない。複雑に各個の楽器が絡み合い、音の密林を醸しだす。やはりペッテション独特の管弦楽法の中でも、打楽器の妙な使い方が非常に面白い。このなんとも無遠慮でどこにでも顔を出すスネアドラムとサスペンダーシンバルは、なんなのだろうか。スネアはまだしも、シンバルは通常、合わせシンバルが常套なのだが、ペッテションはもはや吊りシンバル魔である。
リズムはいよいよ交錯しだして、血まみれの緊張感が真綿で首を絞めるようにさらに高まって行く。これはもうホラーだ。絃楽の悲鳴は狂気的に執拗で、金管の雄叫びは猟奇的に叫び続ける。ただしこれはよくある音響ホラー作品ではない。仰々しいクラスターも、わざとらしい爆発的なサウンドも無い。あくまで、音楽としての語法が、恐怖と悲劇と絶望と慟哭を繰り広げる。しかも切々と淡々と繰り返す。
狂騒が静まると、初めて絃楽に歌っぽい旋律が流れるが、真剣みというか、これまでのような、いかにも悲劇の主人公ですというような湿ったものではなく、朗読されているようなリズム感に支えられて、強く訴えかけてくる。
そのうちその語りかけも周囲からの雑音にかき消されて、いよいよ狂気が前面に出てくる。5番や6番も本当に死ぬほど重かったが、こっちは精神的にではなく、いや、精神的にもだが、加えて質量的に重い。
中盤でやっとそれっぽいお涙頂戴の旋律が現れる。速度が速いので、あんまり情緒的ではないかもしれないが。その旋律が今度はややエキゾチックに派生して、茫洋とした原野を思い起こさせる。地平線に夕日が沈む。純音楽がいきなり標題音楽になった瞬間を聴いた!
と、思ったらそれは幻覚だった。
しかしカオスな展開である。何の脈絡も無い。精神に異常をきたしかねない。ふつう、いかにバクハツだぁ! というゲンダイオンガクとて、バクハツにはバクハツの根拠があるはずなのだが。というかその根拠が偶発性だの、数学的だの、リトグラフだのと売りになると思うのだが、ペッテションはどういう原理でこのカオスを支配しているのだろうか。
調性と不調性(非調性ではない)を行き交う、この独特の原理。まさに正気と狂気を行き来する天才の成せる業か。現代モノにあるただのシュールではなく、超シュールの世界が展開する。
そしてついに、音楽はクライマックスを迎える。闘争のアレグロは急激に速度を落す。しかし勝利ではない。敗北した。
負けたのか!!
こ、こ、交響曲で、闘争から勝利の方程式のはずの、しかも第九交響曲で、
……負……け……た……!!
愕然とする他は無い。
これをこんなにも明確に示すというのは、どういった精神、どういったクソ度胸なのだろうか。これこそが、これこそがペッテションが超神級の証なのである。
茶化すわけでも無く、勝利するわけでも無く、逃げるわけでも無く、無視するわけでも無い。
正面から戦いを挑み、そして潔く堂々と悲惨と悲嘆と悲痛を極め負ける!!
敗北の美学。戦いの美学。逃走の美学。滅びの美学。
もう奴隷となった。囚われ、足枷をつけられ、アレグロは敗北の味を噛みしめる。なんという苦さか。頭を垂れ、吊りシンバルの衝撃が心へ容赦無く突き刺さる。聴く方も、精神の敗北を喫する。
負けた……呆然としつつ、もう曲が終わってくれるのを待つしかない。この敗北感といったら無い。まさに終戦の詔勅を聴いた夏の日の心持ちと云えよう。
虚脱した精神に染み入る絃楽とフルートの無常の歌よ。どこまで引き連れられて行くのだろうか。この無限地獄の中を。早く楽になりたい。いっそ楽になりたい。
誰か殺してくれ。
もう許してくれ。
そこでこの弦楽の哀歌。卑怯だ。こんな展開は卑怯極まりない。これは泣ける。ただの嘆きの歌ではない。悲痛な力強さがある。(まだ吊りシンバルが鳴っている……)
最後の最期に、フルートが吐息を漏らす。一瞬の吐息。それは……絶息の吐息か。それとも、希望の生命の息か。それとも絶息か。
これはペッテションの中でも、また古今東西の交響曲の中でも、名曲中の名曲の1つと断言できる。
第10交響曲(1972)
10番と11番は変わっている。これは双子の交響曲ともいうべきもので、また、それぞれが第1楽章、第2楽章と云っても良いと思う。
時間配分も似ており、cpo盤では10番27分・11番25分半。後に腎臓ガンに進行する腎臓病で入院中に、2曲続けて書かれたという。10番ではその病気の苦悩を外面的に、11番では内面的に書かれているというが。
2年もかけて作曲してあり、演奏時間の割には手こずっているので、病気が大変だったのだろう。
低音から勢い良く立ち上がって、金管がぎこちない不規則なテーマを誘導し、全体でそれへ続く。高音に偏った進行は聴き苦しさを演出する。驟雨が止むように収まると、次の展開となる。テーマの展開部とも呼べる部分で、ひっきりなしに短く執拗に変奏される。荒々しく、苦痛と苦悩を喚き散らす。晩年の正岡子規がごとくである。
展開舞の最後と思わしき場所では、いったん鎮静化した後、その苦痛が頂点を迎える。絶叫に継ぐ承絶叫。ストレートに阿鼻叫喚を呼び起こし、感情的なまでに音楽は進む。このストレートさは、9番のような深遠さとは無縁となる。
そしてコーダではいつもの、調性による悲歌が歌われる。力強く悲壮的な音調はややクサイ。病に倒れ、自己悲劇に酔う己が滑稽な姿よ。
じわじわとその歌が崩壊して溶けてゆき、一転して悲劇に酔っていた自分の顔を鏡で見て現実に戻る。再現部として機能する部分は、一通り苦悩を発した後、雄叫びで幕を閉じる。
第11交響曲(1973)
10番より連続して書かれた11番。心身の苦悩の内面を描いているというが、音調としては激しい放射的な10番に比較して確かに沈鬱で停滞した澱みのようなものがある。
序奏では静かな祈りとも悲しみともとれる悲歌が流れる。絃楽と木管主体で、リズムは引き延ばされ、夢幻感と浮遊感の上に歌は乗っている。この点で、激しい音調からスタートする10番と対比している。
打楽器(スネアとシンバルがメイン)とホルンを主体とするホルンが乱入してき、動きが緩慢から能動となると、ペッテションの交響曲らしくなるのだが、やや盛り上がりに欠けるあたりは、7番8番あたりの温さを思い出させる。
リズムセクションが生き残る中、いつも通りに、怒濤の音響の坩堝になってゆくのだが、やはり、少し元気がない。渋みを増しているともとれるが、それにしては書法が荒々しく、ちょっと聴き苦しい。
最後は、複雑な絃楽合奏から、スパッと珍しく終結和音を伴って、消え入るように終わる。
第12交響曲「広場にて死す」(1977)
スウェーデンのウプサラ大学は、1477年創設の北欧最古の大学である。学名のラテン語2名表記を確立したということで高名な「分類学の祖」カール・フォン・リンネの在籍した大学で、明仁今上陛下が2007年にリンネ生誕300年記念式典にスウェーデン国王に招かれて、名誉学員のメダルを授与されている。
そのウプサラ大学創立500周年記念式典(1977年)のため、1973年、ペッテションに新作が委嘱された。その委嘱に際し、「深遠な感覚の中で現代の社会性を持った」 作品を求めた。折しも、1971年のノーベル文学賞を受けたチリの詩人パブロ・ネルーダが1946年におきた労働者レジスタンスの虐殺事件を題材にした左翼的な詩、「広場にて死す」より9編を選んで、作曲した。
祝典音楽にそのような詩を選び、またこのような音楽を書くペッテションも凄まじいが、なにより、祝典よりも記念というものを重視し、かつ、伝統と歴史に胡座をかかず、常に最新の問題提起を試みる大学の意気を示さんとする姿勢も評価されよう。
かくして、ペッテションの交響曲中唯一のカンタータ的作品が1974年に完成した。9楽章制といえるが例によりアタッカで進められるので、巨大な1楽章制と思って差し支えないだろう。12番は1977年に大学創立記念行事の一貫で初演された。
以下の詩が、混声合唱のみで歌われる。独唱は登場しない。この合唱は和声や進行が複雑を究め、合唱団にとってもやり甲斐があるだろう。
1.広場にて死す 約10分
2.虐殺 約8分
3.硝石の男 約5分
4.死 約5分
5.どのように旗が生まれるのか 約1分半
6.私は彼らを呼ぶ 約6分
7.敵たち 約7分
8.ここに彼らがいる 約3分
9.いつも 約8分
強力に鋭い序奏により、問題が提起される。絃楽が既に悲歌を歌う。珍しく幻想趣味な部分も聴かれる。男性合唱がおもむろに登場するが、その旋律はシベリウスのクッレルヴォ交響曲を想起させるのも面白い。スネアの衝撃的な打音にトライアングルが緊張感を添える。無言歌と別パートで女性合唱が入ってきて、多重唱を作る。美しい合唱部と、亀裂のような管絃楽。もう、冒頭よりこの交響曲がただ者ではないことを示してくれる。心なしかオーケストラは大人しい。ちゃんと伴奏している。
とはいえ、絃楽は等々と悲歌を続け、打楽器は悲劇を象徴する。管楽器がやや少ないかもしれない。金管が。やはりコーラスの邪魔をしないようになっているのだろうか。ホルンが象徴的なパッセージを吹き、ヴァイオリンが厳しく鳴り続き、打楽器が緊張感を増幅する独特の終結部を経て、2楽章に到る。
淡々とシュプレッヒシュティンメ調で、混成合唱が歌詞を紡ぐ。背後のスネアドラムがペッテションぽさを示す。粛々と、殺伐と盛り上がって、絃楽や金管が旋律を補強する。ドラも鳴り、不気味な空気が血腥く迫ってくる。やがて頂点でどらの一撃があり、収束する。
リズムが特徴的な3楽章。激しさが増して、無調的なうねりも聴かれる。やや短い。金管が激しく鳴りだし4楽章へ。4楽章も5分ほど。合唱は無調っぽい。狂的な苦しさと嘆きが容赦なく響く。合唱は途中からうめき声や叫び声となるが、音楽的に表現される。聴こえづらいがシロフォンが妙に協奏的。霧が立ち込め、亡霊のような合唱が死を暗示する様は、マーラーの嘆きの歌に似ている。というか、死そのものの歌である。
全曲中、最も短い5楽章は、4楽章の延長のように一瞬で過ぎ去る。
冒頭のシロフォンのソロが独特で、ティンパニも珍しくドラマを盛り上げる6楽章は動きが激しい。合唱もカンタータのように興奮する。後半はサッと音楽がトーンダウンし、静謐な調子となるも、それを打楽器が破壊するのもまたこの作家らしい。また今回のナンバーでは、特にシロフォンが特に目立つ。
7楽章ではまたシロフォンが緊張感あるパッセージを連打し、合唱は激しくアレグロとなる。絃楽がきりきりと空気を締め上げ、サスペンダーシンバルとスネアが空間を銃撃する。管楽器は地味だが、ここぞという主張はする。合唱はひたすら何かを訴え続ける。その迫力。印象的な合唱部を経て、短いオーケストラの感想をはさみ、女性合唱がなんとも云えぬ和声のコーラスでパッセージをリフレイン、シンバルバシャバシャの後奏から8楽章へ行く。
スネアが銃撃を刻む中、人々は集まり始める。声高に歌いあげられた後、オーケストラが間奏を奏す。緊張感はまったく晴れない。全てが緊張と絶望のなかで進行する。いよいよ最終楽章である。
9楽章ではやや安らぎの響がするも、これまでのナンバーのような、明らかな罠みたいな安息は出てこない。重打楽器が地響きを、足音を模し、合唱はひたひたと興奮して行く。オーケストラが火山の噴火のごとくじわじわと天へ向かって光の柱を立て、合唱も気合が入ってゆき、珍しく強力な協和音で終結する。
そう……これは讃歌だ。死の讃歌だ。
無表情な殉教者(いや、狂信者)が死の喜びを持って火の中へ飛び込むような不気味さが漂うが、その純潔さはどこまでも尊い。
ペッテションらしい、突如として現れるいつもの救済部分も無く、それの否定も無く、6番に構成が似ているかもしれないが、書法は断然上である。ドロドロしていないし、むしろさっぱりしている。やはり合唱部の清らかさがものを云っている。かなり分かり易い響きであり、言葉があるためオーケストラ作品より晦渋でも無い。これは9番だの、6番だのが苦手な人にもお奨めできる。
もっとも合唱聴きが聴いて、どこまで不気味だったり気持ち悪かったりするのかは興味があるところだが……。(私は歌はちょっと門外なもので。)
マニアックな詩なためか、日本語訳が見つからない。歌詞を知りたい。
第13交響曲(1976)
13番はペッテション音楽の頂点のひとつである。
9番と方向性が同じだが、より純粋音楽的で、音響そのものを味わうことができる。音響の巨大な塊という評は的を得ている。約70分1楽章ぶっ通しの大曲である。その方向性では9番と双璧を成すが、先に触れた通りある種文学的な9番より非叙情的で哲学的とでも云うべきか、豪快な音響のブラックホールの存在を垣間見ることとなる。これまでの交響曲には1楽章とは云っても、明らかに「部」としての大きなブロック構造があったが、13番はどちらかというと1個の巨大なブロックでしかない。
音響の塊の放射する純粋な音の力というものは、その密度において、重力的な圧倒を聴く者へ感じさせる。物理的な音の圧力があるのはもちろんのこと、精神的な疲労を聴く者へ重圧として与え続ける。つまりとても疲れる音楽で、音楽に快楽や癒しや気分の高揚を求める人、あるいは求める時に、とてもではないが聴いてはいけない。そういう表層的な効果と間逆な物を、13番は放射することを義務付けられている。
絃楽の複雑な導入部から管楽器がわりと静かに割り込む。その感情を抑えたひたひたと浸食してくる音楽は不気味さと同時にどこか心地よさがある。すぐに緊張感が襲いかかって来るが、叙情性は少なく、いわば「クールで」あろう。荒々しさは息を潜めて、時間が無限に流れてゆくウネリが音として響いてくる。取りとめもなくなんの法則性もかいま見られないような複雑さと、良く聴けば芯の通った室内楽的な旋律と静謐さが同居している。9番より明らかに進化している部分である。
アドルノのマーラー論の言葉を借りるならば、ペッテョションというのは、突破しそうでしないもどかしさと一時止揚しているようでしていないもどかしさの集合体だろう。マーラーはそこが明確に区別されていた。そのもどかしさの連続性が、美となって収斂されている。その頂点が13番と考えられる。荒れ狂う大海をそのまま楽譜にしたような純粋なる響は形而上なものとして純粋に音楽となって結論づけられている。
また、すなわちそれは、ペッテションというのは、けして充足しない音楽ということもできる。これはペッテションの本質だと思う。
絃楽器が無慈悲に流れる時間の渦を表して、怒濤の金管や打楽器がそれへ巨砲を打ち込むように響き、鋭い刃物の木管楽器が斬りこんでくるが、これまでの交響曲ように一定の結論まで到達せずに常に流動流転しているのが面白く興味深い。
これは超巨大な変容なのかもしれない。いくつかの主題のようなものが絡み合い溶け合いして、徐々に徐々に蠢いて姿を変えてゆく。絃楽の無情なコラールも、木管の鄙びた歌も、金管の叫びも、ここではもはやその通りのものではなく記憶の断片にすぎない。西欧の伝統的な音楽要素である変奏を立体的に超えたものに変容があると考えると、それすらも立体的に超えたものはなんと云えば良いのだろうか。浅学なため便宜的に超変容とでも云っておくが、ペッテションの音楽は巨大なる一つの超変容そのものである。完全に崩壊してしまえば楽なものが、崩壊しそうで崩壊せずに延々と形を変えつつ無間に存在して行く形容しがたい迫力は、言語を絶する。
いつもは雄弁に衝撃を示す打楽器群が、もっと地味な役目に徹している。20世紀に打楽器はそれまでの役目である効果音を脱して、打音そのものが音楽として鳴り始めた。打楽器だけが音楽から取り残されたかっこうだったが、20世紀からは打楽器も如実に一人前に音楽を語りだす。オーケストラの中にあってもその役目は明らかで、特に現代作家は打楽器を愛する。ペッテションのその例に漏れず、独特の打楽器法が魅力だが、13番では独立しないで管楽器や絃楽器と同質・同列の響きに徹している。ここでは三位一体のように絃・管・打が役割を演じている。
中間部でそれまでの流れが急停止し、まさに一時止揚するも、その流れがいつの間にか異なる次元の渦を巻き始める。それはきっと突破しているのではなく、巨大なる変容の一部なのだろうと考えられる。トロンボーンの急降下からドラの一打で、明らかにそこで世界が終わり別のシーンが始まるはずなのだがペッテションの独自の価値観はそれを許さない。寸分の停止も無く「新しいような」ウネリがウネリを呼び、「再現されたような」一時止揚が一時止揚を呼ぶ。クラッシュシンバルの乾いた響きがこのナンバーを象徴している。この非叙情性、非ストーリー性、非感情的表現性は、ペッテションの新たな境地への出発台でありこれまでの境地の終着点でもある。
崩れ去り奔流の彼方へ流れてしまったリズムも、グツグツと沸き立つ溶岩みたいに常に新しく生み出される。和声は複雑ながらもしっかりとその存在を空間的に示して、あからさまな絶対崩壊性音楽的存在と価値観を別にする。狂乱のようで狂乱ではなく、破壊のようで破壊ではない。かといって歓喜の創造でも無い。ペッテションの求めるものは、いわゆる現代音楽の求めるものすら超越している。ここにあるのは超越した音響「を、求める挑戦」そのものである。その語法に我々は感動する。全てを分解し破壊しゼロから残骸を拾い集めて組み直すのは、楽ではないかもしれないが、サッパリしている。分かりやすい。思考を放棄し、方法論から思考し直す。その中間でウネウネコネコネと無限に苦しんでいる姿がここにある。
この怒濤の「音響の流れ」は、その混沌がグチャグチャに凝り固まった存在であるはずなのだが、なぜか無性に美しいから困る。流れは止まる所を知らないようでいて、実は常に死に生まれている。45分あたりでようやくペッテションらしい歌が流れるが、生々しい現世の処女の歌声ではなく、それすらも崇高なまでの願いそのものに昇華している。同じものが常にぐるぐると回っているようでいて、実は新生し続けている。大きな生命体が、世界樹が、無限に小さな微小生物が惑星ひとつほどに大きな生物を構成している。群体は不気味ながら、統率のとれた機能美がある。
歌は歌い継がれ、後世へ残ってゆく。
その清らかな時間は暗黒の生命体の鼓動の中に埋もれる。木管が場を取りなして、次なる展開の準備をする。流れはまったく止まらない。世俗と世俗が単純につながっただけの巨大な世界とは次元が異なる。精神的な響きが狂おしいほどに感情を抑制して研ぎ澄まされてゆく。ここでは一時止揚ですら突破なのだろう。
完全に世界が流転した果てに見えるのは、一輪の花である。人間の願いは形而上的な観念のみでは満足し得ない。調性という物質的な安定の中に帰結する確かな喜びと、安息。しかしながら安息の向こうから安息の世界ならではの次なる不安が常に生まれて出て来るのもまたペッテション。それはまったくこの世の不条理そのものではないか。これまでの暗黒的なまでの混乱から生まれた蓮の花。もがきもがいて、蜘蛛の糸すら見えぬ無間地獄から極楽浄土へ来たと思ったら、なんのことはない娑婆に出ただけだ。無情という心へ染み渡る麻薬が、聴くものを中毒状態にしてゆくのである。
長く切ない悲歌がどこまでも紡がれてゆく。見えるのは夕日である。海の向こうか、砂漠の向こうか、凍った森林の向こうか、摩天楼の向こうか。無数の人間模様がその赤い光に溶け込んでゆくだろう。
何度も何度も繰り返すが、ここでこの無常観に心地よく浸りながら感傷的に満足して終わるのなら、ペッテションは1流半のA級+ていどの交響曲作曲家であったろう。
魔神を呼ぶ魔方陣がいつのまにか足元にある。次元の扉が開く。地獄門が口を開ける。奔流が音響の渦を巻き始める。喉元の奥から光が見える。閃光は美しく断末魔の咆哮として重力を曲げ時間すら歪めて光を「どこかへと」呑み込んでゆく。
とんでもない。
※アドルノのマーラー論における、アドルノが説明するところのマーラー音楽における基本的概念(の、九鬼的勝手解釈)
「世の成り行き」……それまでのロマン派のような伝統的交響曲世界
「突破」……それを破壊する瞬間とその方法、マーラーは世の成り行きを正確になぞっているように思えて、突破への準備を周到にする
「一時止揚」……突破した瞬間あるいは突破の後に現れるゆったりとした新しい世界
「充足」……突破や一時止揚によってまさに充足される部分
これらは全て、マーラー的世界を継承するショスタコーヴィチやペッテションにも通用すると考えられる。
第14交響曲(1978)
13番でまたもや何かを超えてしまったペッテションは、14番からまたやや方向性が変わる。書法は変わらないが。体力的な衰えもあったのだろうが、身体の変化は我々が思っている以上に精神へ影響を与える。約50分の作品で規模的には7・8番に近い。
この14番が作曲された1978年には、驚くべきことに次の第15番も同時に作曲されている。すなわち、14、15番は連作どころか、一緒に生れた双子と云えるだろう。これは外観が似ており「双子交響曲のような」10・11番に比べて、完全に双子と云っても差し支えない状況と考えられる。
だがこの枯れきった極渋の面持ちはどうしたことだろう。まさに最晩年のブラームスもかくやという枯れっぷりである。が、そこはペッテション。枯れきってまさに荒野。賽の河原のごとき荒涼たる無機質な世界で、音だけが存在している風景。春の祭典の2部冒頭を想起させる。
恐怖が怒濤に渦巻くが、その様子は超現実的で、無機的。13番と14番の間にはこれまた大作、ヴァイオリン協奏曲第2番がある。珍しくヴィブラフォンと思われる優雅な響きもあり、13番とおなじ方向性であるが書法はまた少し叙情的になる。ただし、筋肉質ではなく、どちらかというとたおやかだ。ここでは彼らしい感傷が復活する。構成はやや影をひそめ、感情的な旋律の流れがある。
奔流は強風となって枯れ木を鳴らすが、その合間合間に一時止揚的なものが挟み込まれる。ティンパニがひどく独白をし、シンバルが消えているのも彼にとっては特徴的だろう。渇ききったこの風は、7、8番あたりの甘い旋律を拒否する。トロンボーンによる象徴的な死そのものの呼び声が来る。規則的に連続する放流と止揚は、それらが場当たり的に登場していた13番以前の作品と明確に区別される。
金管の息の長い豪快なモティーフがよく登場するが、それも珍しいかもしれない。死の呼び声ととるのが一般的だろうが、生への執着の雄叫びかもしれない。そういう根源的標題というものは、純粋音楽の中に往々にして潜んでいる。英雄の2楽章に死の太鼓を聴かぬ人は逆に偏屈だろう。音楽はもちろん音楽以外の何物ではなく、音楽は音楽以外を表現しないのだが、音楽の中にイメージが潜む場合はまぎれもなくある。ただそれは音楽はそのイメージそのものを表していないだけである。
狂おしいほどにもがき苦しむ響きは、だが、どこか抑制的で、感情を直接的に表にしない。どこか気恥ずかしいこれまでの交響曲とは異なり、さらに純化されたペッテションの深化の過程を聴き続けることのできる面白さ。ここまで連続して聴いてきた人だけの鑑賞の仕方だろう。これこそが、この連続性こそが交響曲群を連続して楽しむ醍醐味であり、あのナンバーは理解できないとかあのナンバーは大好きとかという表面的鑑賞を超えた世界への(ある種の危ない戻ってこれぬ世界への)入り口である。もちろん、その前に作曲家そのものへの入れ込み度合いが前提にあるのだが……。
一時止揚のような瞬間にすかさず現れるペッテョションらしい歌。まさに「世の成り行き」的世界だろうが、それすら世俗を超越している。響きは薄くなり、ソロが増えてくる。室内楽的な書法が、最晩年の心象を表現しているかのようで興味深いが、それは外見的なことなので、分からない。証拠に、すぐにオーケストラはトゥッティとなって大乱響とでもいうべき暴風を吹き鳴らすのである。と、思いきや、それはまたパェとかき消えて……。
一筋縄では行かないペッテション節、ここに到って健在というべきか。シンバルが復活し、ティンパニが轟く。クライマックスは近い。しかしそこには、(相変わらず)なんの充足感も無く、台風一過も何も無い。まるでゴジラが荒れ狂った後のように、破壊と憔悴のみが残る。
13番の部分でも触れたが、ここではその先へ行く。
充足しない交響曲など、あり得るのだろうか。
充足もへったくれもない、そもそも音楽語法そのものを破壊した曲ならばそれは問題提起にすらならない。ここで問題なのは、しっかりと交響曲の語法の中で、充足も無ければ、勝利も無いということである。
そんな交響曲、あっていいのか……。
13、14、15と連続しているとは思うが、13を頂点の一つと考えると、14、15から新しい世界へ飛躍する16番へと橋渡しが成されているのだろう。
第15交響曲(1978)
14番と同年の1978年に完成された15番。時間的には、14番よりもやや短く40分ほど。
激しい打音と上昇下降を繰り返しながら現れる抑圧的な響きが、音楽の時化を作り出す。長大な導入部が淡々と進行される。この金切音は相変わらず人間の悲鳴なのか、何かの象徴なのかそれとも純粋なる「ただの音」なのか。
マーラーもそうだがペッテションもその音自体に何らかの意味かあると錯覚させる。それは聴く者にとってとても誘惑的な、蠱惑的とすら云える催眠をかけてくる危険な音楽である。
第2部分で音楽が変わり、歌が現れるがその歌はもう重いリズムに足を捕まえられ、ここでは世の成り行きと突破と一時止揚の全てが同時に現れ、混濁した世界の中でいつまでもいつまでも攪拌されて行く。その攪拌している、常に蠢いている世界そのものが、彼の音楽そのものであり、彼の交響曲そのものだろう。常に蠢き続けているため、充足することが無いのは既に述べてある。
いや、これでは充足のしようがない。充足できない交響曲。
あるいは、彼にとっての充足とは我々の考えているものとは全く異なる何かなのかもしれない。それを認識できていないだけなのかもしれない。
かつてハンスリックが「鳴り響く形式」として讃えた交響曲は、ペッテションにおいて「鳴り響き続ける形式」として昇華した。そこでは一定の形式に沿って音楽が進行するのではなく、鳴り響き続けている事そのものが形式なのだと考えられる。
それはペッテション形式としか云うことのできない独特のもので、最初期からこの最晩年まで、執拗に一貫している事が、ここまできて初めて気づかされる。
室内楽的なヴァイオリンや管楽器の長いソロや、打楽器の彼にしては非常に控えめな、使っていないとすら云える用法(もっとも演奏のせいかもしれないが)、ここにきて非抽象的なドラマ、乾いてはいるが雄弁な展開は、9番以前のウェットなナンバーを想起させうる。
鋭い響きを経て、再び登場する甘い旋律……。これは原点への回帰なのだろうか。それとも気まぐれな思い出なのだろうか。
だがその割には、否定が弱い。ペッテションも歳をとったのだろうか。いや、これは明らかに惜別だ。
テンポは引き延ばされ、これまでとは異なる、不思議な印象を与える。打楽器は古典的(といってもマーラー的)な扱いをされ、要所を締める。執拗なリフレインで用意されたエンディングでは、ヴァイオリンの首を絞めるような苦しみと喜びで、唐突に終結する。やはりここには充足も何も無い。
15番はしかし、13、14から緩やかに下降してきた、着地点なのだとは思う。
第16交響曲(1979)
遺作のヴィオラ協奏曲を書きながら、惜別(決別ではない)したはずの交響曲では、なんとも珍なる形式を取り入れたペッテション。ぜんぜん歳じゃねえ(笑) どこまで彼は挑戦を続ける気だったのだろうか。
つまり、この独走サックスを伴う第16交響曲は、実質はサックス協奏曲である。もちろん、ここで協奏曲として取り上げるつもりは無い。作曲者が交響曲として作曲したのなら、それは交響曲なのだから。
それにしても、この超絶技巧のサキソフォンは、協奏という概念すら超えており、ピアノとピアニストを酷使する快感に苛まれているようなクセナキスのピアノ協奏曲(みたいな作品)を思い起こさせる。
そもそも、サキソフォン協奏曲という曲目自体、独奏楽器がメジャーな割にやはり少ない。管楽器の協奏曲自体も少ないということもさりながら、それでも木管の協奏曲は古典派より高名なものもあり、とすると金管扱いなのだろうか。サキソフォンが新しい楽器だということ、さらにはオーケストラとあまりなじまないハデで特殊な用法を限定される音質・音色だということを加味しても、メジャー作曲家では、協奏曲としてよりも独奏入狂詩曲としてドビュッシー、小協奏曲としてイベール、そしてグラズノーフの弦楽合奏との協奏曲がそうだが、意外にというかやっぱりというか古風な普通の木管楽器扱いで(私は)面白くない。やはりサックスといえばジャジーな音色が似合うためか、またそういう作風の響きに慣れているからか、それ以前の普通の木管楽器としての模索期の曲はイマイチだ。
それで現代作家のものとなるが、日本人の吹奏楽作家やオーケストラ作家がサックス協奏曲を量産しているのも面白い。そこにはやはりジャジーな音色というものはとうぜん出てくるし、また、成功している。サックス奏者の増大に伴う需要もあるというわけだ。
さてペッテションだが、ペッテションにジャジーな響きを求めてもしょうがない。現代調ということになるが、やっぱりペッテション形式である。
とにかくサックスはひたすら吹きまくっている。休みという概念が無い。休符くらいはあるのだろうが。もはや延々と鳴り続ける事自体に意義があるとしか思えない。ジャズでよくあるアドリヴでボキャボキャキー!! と吹きまくるというでもない。淡々と、切々と、そして狂乱的に、かつ節度を持って地獄変を朗読するように、最高音から最低音まで駆使するように、限界を試すように、鳴り続ける。
普通のサックスで聴かれる演奏の概念を超えたものがある。超絶体力のほうが必要なのではないか。
時間は約20〜25分。最も規模が小さい。規模的には10・11番に匹敵する。
ペッテションは絃楽合奏のための協奏曲を除く通常形式での協奏曲は遺作を含めて3曲残しており、ヴァイオリン協奏曲1番は絃楽四重奏とソロヴァイオリンの為の協奏曲でちょっと特殊である。時間は30分。初期の重要作で、「製材所」と批評されひどく傷ついたという。ヴァイオリン協奏曲第2番は13番と14・15番の合間に書かれたもので、50分を超える1楽章制の大曲。内容も13番の後を継ぐ異様に濃いもの。最後のヴィオラ協奏曲はこの16番と同時作曲で、同じように30分以内の彼にとっては小規模というもの。独奏に切々とした訴えがあり、オーケストレーションや音楽自体も淡白な印象。その分、じっくりとした味わいがある。
4番目の協奏曲兼15番めの交響曲とも云える第16番。やはりここには、マーラーの10番にも匹敵する、新しい挑戦、新しい世界への第1番という意気込みが伺える。
スネアドラムの衝撃から金管が導入をし、すかさずアルトサックスが割り込んでくる。その世界はかなり荒々しく、ヴィオラ協奏曲と対極を成す。発想記号はフレネティーコ(Frenetico)すなわち熱狂的な、狂乱的な、という意味である。激しいアレグロが熱情的に踊り狂うサックスと、その背景を彩る。サックスは上に下に大暴れだが、形式的美観を損ねていないのがまた交響曲たる所以か。
7分ほど経ち、ふと、テンポが変わる。続くカンタービレ・エスプレッシーヴォ(Cantabile
Espressivo)〜表現的に歌う〜ではゆったりとして、サックスの歌は調性となる。ペッテションの歌は健在だった。サックスらしいちょっとくぐもった響きが、熱帯の空気を表しているが、その伴奏は刺々しく冷たく乾いており痛い。
テンポが再び変わり、激しいペッテョション形式の嵐が現れる。時に伴奏は荒れ狂って独奏者を押しつぶす。打楽器も容赦ない。(ここから2個所の変化部には発想記号が無いらしい。)
サックスは吹く。吹き続ける。吹きすさび続ける。
絃楽器ならまだしも管楽器ではそれは労苦を伴う。荒れに荒れる大海原の中のただ一艘の船か。嵐に祈る修道士か。
神の掲示を受けることは無い。無いが、光はやはり降り注ぐ。一瞬の静寂の中に、光は現れる。月光よろしく、それは冷めきって淡く儚い。
月光の中をサックスは飛び続ける。まさにここは吉松隆のいうサイバーバードとしてのサックスが既にある。
最後は、もしかして未完成だったのか? というほどに、船は暗闇の向こうへそのまま消えて行ってしまい、鳥は見えない。微かな和音が曲の終わりを示しているだけで、明確な終結も無ければ、充足も無い。ただ、在って、ただ無い。どんどん究極に侘びた形式になってゆくのだが、ペッテションの音楽はここで終わる。終わってみるとペッテションは表現主義だったのかなあ。
時間的には短いが、形式としてはかなり完成されている。ここには無駄というものがいっさい無い。時間的には似た10番・11番あたりとは、安定度が雲泥の差である。これはまさに新しいペッテョション形式の第1歩であると確信する。
翌年、旺盛な創作意欲で17番を作曲中に、ペッテションは死す。その17番はどのようなものだったのか? 興味はつきない。
総括
ペッテションの交響曲は以下の通りの、グループで考えることができる。
第1グループ | 初期グループ | 2番 3番 4番 |
第2グループ | 中期の傑作暗黒時代 | 5番 6番 |
第3グループ | メジャー路線 | 7番 8番 |
第4グループ | 特殊グループ | 10番 11番 |
第5グループ | 特別重要交響曲 | 9番 12番 13番 |
第6グループ | 枯淡から新たな地平への挑戦 | 14番 15番 16番 |
峻厳さと厳格さと光明が、いっそ崩壊して楽になり解放されたものではなく、音楽として成り立っているギリギリの境界に立ってみたいのならば、迷うことなくペッテションを聴くべきである。
彼は真の作曲家であり、真の交響曲作家である。メシアンは作曲法の教授としては偉大だろうが、作曲家としては能天気の塊で、ペッテションの厳しさとは対極にある。彼は信仰に因っているから、ラクなのである。ブルックナーと同じで、彼の芸術には闘争が無い。安楽しかない。陶酔と官能しかないのだ。それらを聞きたい人はメシアンやブルックナーを聞いて存分に酔ってほしい。
彼は音楽を書く。どんなに現代的でも、前衛的でも、ペッテションの交響曲は紛れもなく音楽だ。その点で、クセナキスなどの超現実主義・超音楽主義的な作曲家とも一線を画す。彼らもまたラクなのである。音楽を崩壊させてしまえば、魂は解放されるのだ。崩壊させるオリジナルな手法に悩み苦しむだろうが……。旧来の束縛より解放された新時代の定義による緊張感だけは物凄い新音楽を聴きたい人は、ご自由にそちらを聴けばよい。
誰も強制しない。
誰も強要しない。
ペッテションによる「ペッテションの音楽」を、誰も……。
ペッテションのディスコグラフィー
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