岸田 繁(1976− )


 2016年4月、ロックミュージジャン「くるり」のメンバーである岸田繁が書いた交響曲が京都で初演された。京都市交響楽団の委嘱であった。

 昨今、21世紀も20年ちかくすぎて(2017年執筆)またもやネオロマン主義的なものが少しずつ勃興してきているように感じられる。いつまでも無調12音主義じゃ作曲家や楽壇は満足しても、CDや演奏会のチケットさっぱり売れないのである。室内楽ならば、まだ関係者枠で埋まる場合もあろう。だが、オーケストラではそうはゆかない。

 そんなわけで、このような異業種……いや、異ジャンルのプロの音楽家に「交響曲」を書かせようというある意味意欲的で、ある意味打算的かつ滑稽的な企画も社会実験的に行われてきていると認識した。


第1交響曲(2016)

 岸田がMIDIを使ってシンセ音源で作曲したものを、編曲家の三浦秀秋が「演奏用譜面に書き起こした」とライナーノートにある。これがどこまでの編曲作業を言っているのか、分からない。下書きのような何段かのスコアを3管のオーケストレーションしたのか、それとも主旋律だけのものを完全にオーケストレーションしたのか……。

 とにかく、5楽章制で演奏時間は50分以上もの大曲が出来上がった。

 全体としては自由形式の組曲風交響曲といえる。5つの楽章のうち、中間の3つの楽章が舞曲風となっている。

 1楽章冒頭の序奏部は、なかなか無調的で現代クラシックっぽい造りになっている。そこから弦楽で優美な第1主題。木管などもからんで、夢見心地の世界を演じる。序奏部の展開を「つなぎ」あるいは「小間奏」として、クラリネットによる暗めの音調になる。そこから重厚な舞踊調となり、弦楽による舞楽。やがてティンパニも轟く頂点を迎える。頂点は持続し、ややとりとめない嫌いがあるものの、大きな終結へ向かう。

 2楽章は緊迫した様子から始まるが、すぐに諧謔的スケルツォ風の舞曲となる。風というのは、トリオが無いから。主要主題をずんずん展開して行くが、展開力は良くも悪くもあまり無く、さらりとかわしている様子が軽やかだ。モザイク風味で様々に音色を変えてゆき、なかなか楽しい。その意味で変奏曲風でもある。ラストはチャールダーシュめいた高速で〆られる。

 3楽章も舞曲風だが緩徐楽章でもある。古典的交響曲でいうと、アンダンテに相当するだろう。憂いを帯びつつも勇壮なワルツが奏でられる。それをクラリネットのソロが受けて、憂愁の雨の情景というような雰囲気を醸しつつ、その中にも楽しみがある。ここも、有機的主題展開というよりもっとシンプルな変奏っぽい。中間部のあたりはイギリス音楽っぽい。ここがちょっと長く感じるものの、全体的に雰囲気は良い。終盤部はヴァイオリンソロが始まり、情感たっぷりに旋律を奏でる。ポップス調あるいは映画音楽調ではあるものの、雰囲気は良い。第九なんかのオマージュ聴こえてくる。

 4楽章もまた舞曲調。ここは民俗音楽的音調となる。執拗にモティーフを繰り返すオスティナート方式。それへ打楽器などもリズム協調でからんでくる。中間部での神秘的な情景にカスタネットが邦楽器(締太鼓)的に鳴る様は、面白い雰囲気を出している。

 5楽章は短い動機が重なりながら進んで行く。序奏の代わりのようにして短いモティーフが散発してゆき、やがてホルンの主要主題が提示される。その後はその主題の展開をメインにして、まずゆったりと牧歌的音調で進む。ブルックナーなどのオマージュも交えつつ展開するが、やはり展開力は弱く注意が散漫になる嫌いがある。きれいな音がただ鳴っている物は交響曲というかそもそもクラシック音楽ではなく、イージーリスニングである。それでも、盛り上がって終結へ向かう。1楽章のティンパニ連打も戻って壮大な音調となる。

 全体に悪くないが、どうしても構築性の無さが目立つのは、これは仕方ない。割り切って聴くしかない。そういう技術の無い人が書いているのだから。音調の楽しさで聴くしかない。そうなると、既に陰響孤鳥先生ならぬ吉松 隆という大先輩がいてしまうので……。どうしても比較してしまうわけだ。個性の内ではあると思うが、この手の曲はあまりお上品にやらないで、もう少し取り澄ました感をとっぱらうと、もっと面白くなったかもしれない。

 あと全体的にこの曲はせめて半分……いや、2/3ほどの構成だったらまだ印象が変わり、本格的な組曲ふうな交響曲としてぐっとよくなると思う。特に奇数楽章はちょっと冗長な部分があった。妙な力みというか。


第2交響曲(2018)

 1番が好評だったものか、立て続けに2番ができた。既に1番の作曲中から構想を練っていたという。

 1番と同じく、Digital Audio Workstation を使用して作曲したものを、徳澤青弦により演奏会用スコアが編集された。大規模な1番と比較して、3管編制は2管に近づき、楽章数は5つから4つへ。演奏時間も約50分から約40分へ「縮小」されている。

 だが、どちらかと云うと交響組曲的だった1番よりかなり交響曲然としており、その意味で古典的である。響きとしても、ロマン派から近代にかけての作曲家のスタイルを取り込み、和声などにも凝りを見せている。

 だが、そこから岸田が何を聴かせたかったのか、は、賛否あるだろう。人によってはその意図をとらえるのが難しく、高名作曲家の響きを模しているだけ、に聴こえる嫌いがある。

 第1楽章、アレグロ。古典的で舞曲調(あるいは行進曲調)の第1主題が、いきなり開始される。主題と和声の進行はいかにもベートーヴェンだが、そこから(少し)現代風の展開にも進む。第1主題を執拗に展開してゆき、それがテンポを落として落ちつくと、ゆったりとして穏やかな雰囲気の第2主題が現れる。この第2主題の中にも、第1主題の断片が潜んでくる。やおら盛り上がり、主題は大きなうねりとなって、感情を揺さぶる。そして第1主題が再現され、雄々しく進んでゆき、そのまま終結する。

 第2楽章はアダージェット。緩徐楽章。パストラーレと指示があり、田園調ということになる。木管主体の、指示通りの牧歌的な音調で主題を絡めてゆく。すぐに弦楽器も現れて、低弦が(解説によると)「ハンガリー風」の主題を奏でる。ここの味わいも、いかにもロマン派風のもので、ベートーヴェンかブラームスか、果てはものすごく薄味のマーラーチャイコフスキーか、といったところ。問題は、それらのパロディなのか、単なるパクリなのか、オマージュなのか、それとも、それらの皮をかぶった擬似的な響きによる現代音楽なのか、よく分からないのである。なんにせよ、曲自体は悪くない。美しいし、気分も和らぐだろう。純粋に味わうぶんには、愉しい。後半は調が変わり、ティンパニも荒々しくなって、憂いを帯びてゆく。終結は、調が戻って穏やかで平和裡に終わる。

 第3楽章は、スケルツォではなく、なんとバロック風ジーグ。岸田のバロック趣味が現れている。弦楽を主体とする舞曲。6/8拍子による、独特のスキップ感がうまい。管楽器による味付けも控えめで好感。トリオは一転して暗くなり、深刻さを増す。どこかフランス音楽のような音調にもなりつつ推移し、暗黒の中で佇んだ後に、冒頭へ戻る。

 第4楽章アレグロ。バルトークも使用していたという、フィボナッチ数列(1 1 2 3 5 8 13 21 ...)を使用して拍が進む。らしい。正直、ただ聴いているだけでは訳がわからない。ティンパニの連打より、細かい音形が進み、激しい響きを経てスケルツァンドへ移行する。スケルツァンドと云えばアイロニーを得意とするショスタコーヴィチだが、諧謔的な響きといえばそうかな、といったところ。えらい拍子がガクガクしているが、ここがフィボナッチ数なのか? やがて音調は緩やかで静謐な流れに進み、一瞬、第1楽章の断片のようなものも聴こえる。続いて終結へ向かって舞曲調の音形が盛り上がり、曲調の通り順当に終結する。

 全体に、岸田の好きな曲を集めました感も強いが、集められるだけ凄いとも思う。人によっては1番よりヒドイと感じるだろうし、1番より格段に上手になっているとも感じられるだろう。

 また、第3国クラシックのマイナー交響曲は、たいていこんな感じであるから、うまく書かれているな、とは思うのであった。




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