清水大輔(1980−  )


 吹奏楽界でも、若手から順調に中堅作曲家の地位を固めてきている感のある清水。その清水が、40分もの大作の交響曲を発表した。最近の吹奏楽オリジナル作品の傾向では、コンクール向けの短時間の標題音楽(っぽいもの)で、とても分かりやすいサントラ的な響きのもの、という曲が多く、この清水も正直そういう作品をよく書いているが、だいたいそれは委嘱者からの注文でもあるので、そこらへんの純粋な評価のバランスはなかなか難しい。

 しかし、ここでは委嘱者が想うところあったようで、このような大曲が完成した。日本吹奏楽界では、逆にこういうの(何かの機会には、大規模な調性音楽)が、少し流行ってきているのかもしれない。


第1交響曲「生命の表記」(2014)

 生命は「いのち」と読む。「いのちのひょうき」 である。特に標題音楽ではなく、たんなる全体的なテーマを示した副題だろう。

 4楽章制、演奏時間はほぼ40分。天野正道の項でも書いたが、そもそも、同属の楽器が重なって響きが単調になり、飽きのきやすい吹奏楽(ウィンドオーケストラ)の編成で、ショスタコーヴィチプロコーフィエフの5番という神曲に匹敵する40分もの曲などというのは、けっこう狂っている。楽想もさることながら、構成やオーケストレーションで、かなりの工夫が必要だ。

 しかし、この曲も当初は半分の規模の、20分程度の曲だったという。それでも、長い方であるが。

 初演へむけて作曲を進めていたところ、2011年の3月11日に大震災が起きて、演奏会場の予定だったミューザ川崎ホールの天井反響版が落ちて使えなくなり、初演もお流れに。このままお蔵入りかと作曲者は覚悟したが、その後の縁があって、「思うままの規模で、作曲を続けてほしい。期限は設けない」 との委嘱があって、それならばと作曲を続け、この規模の曲となって2014年に完成。2015年の1月に、初演を迎えたという、ドラマティックな経緯がある。

 第1楽章はイントロダクションとテーマ。楽章全体で大きな提示部とみることができる。楽章そのものは、聴くかぎりだと自由な形式で、いくつかのテーマが順に現れては少しずつ展開しながら進むもの。幻想曲形式とか、狂詩曲形式とか、そんな感じに聴こえる。

 ティンパニのトレモロやドラを伴う、重々しいファンファーレ。まさに、英雄的かつ壮大なテーマがまず提示される。これがイントロダクションであろう。すぐに楽想が変わり、木管でアンダンテ気味の主テーマが。それには、執拗なピアノの第2のテーマがからむ。その二つのテーマが交錯しながら、少しずつ変奏は進む。続いて、金管による、デメイにも似た勇壮で悲壮なテーマが示される。次が展開部のような部分で、2つのテーマが激しく絡み合いながら、一本筋の通った楽想を形作ってゆく。冒頭のテーマへ戻って、それがゆったりと最提示され、展開される。展開されるが、テーマそのものは形を変えずに何度も現れるので、小循環形式めいた一種のオスティナートかもしれない。打楽器の激しいアタックが加わるので盛り上がる。

 後半は、レントの部分になって、静謐な世界へ。木管の静かで、のどかなテーマ。吹奏楽では、よくある手法の部分。そこを一時の休息にして、冒頭が再現。ピラミッドでも作るハリウッド映画のオープニングみたいな雰囲気だが、そのまま特にコーダも無く終結する。アメリカの作曲家による現代交響曲に、こういう手法の曲が多い。

 第2楽章はスケルツォ。そして、オマージュ手法による、ジャズ、ロック、ポップ等のコラージュが散りばめられる。吹奏楽には得意の響きがする。これは、オケでやると、どこか取り澄ましたような音調になるが、吹奏楽だとビッグバンドなので、よりリアルだ。したがって、この手法を選んだのは腕前だろう。ドラムスも軽快に、指パッチンからジャズピアノから、サックスのソロ、ビッグバンドと楽しい。まさに、吉松隆の世界。

 トリオで、レント〜アンダンテの部分をはさむので、全体で8分ほどと、規模の大きなスケルツォになっている。楽想としては、息の長い主題をかっこいい和音で鳴らしてゆくもので、とても聴きやすい。もうちょっと緊張感や変化があっても良いかな、と思うが、それは好き好きだろう。また冒頭の部分へ戻る。ジャジーで、ロックな曲調が、大衆ウケするだろう。

 3楽章がすごい。15分もあるアダージョで、今交響曲の白眉だと思う。だいたい、古典派からロマン派にかけての交響曲の伝統的な緩徐楽章は、実はそんなに長くない。数分だ。曲によっては、4つの楽章でもっとも緩徐楽章の演奏時間が短いものもある。緩徐楽章がやおらヴォリュームアップしてくるのは、そうした伝統へ反旗を翻した後期ロマン派から。マーラーブルックナーが得意とした世界。オーケストラですら長いのに、それを吹奏楽でやるとは……。ちょっと信じられなかった。

 だが、手法として、これは吹奏楽というより、管楽合奏の部類に聴こえた。静かなソロが、少しずつ少しずつ、楽器を変えながら、一種の音色旋律で、長い旋律を紡いでゆく。必然、長くなるが、あまり単調にならない。これは、考えたと思った。

 日本的な和音の伸ばしから始まり、ピアノを装飾にして、木管群が楽器を変えながら、すごく長い旋律を、まるでロングトーンでもしているかのごとく進めてゆく。ときおり、気分転換に異なる楽想が挟まる。響きは厚くならず、室内楽的な音響で勝負している。金管も同じだ。ホルンやユーフォニウムなどが、森の向こうの角笛めいて、風に乗って聴こえてくる。

 そこから動きがあり、テーマが変奏される。それがまた、耳触りがよい。ダイナミックな動きはせず、微妙な変化が積み重なって、クライマックスを形成する。そのちょっとした不協和音も混じった響きが、あくまで心地よい。まさに吉松イディオム! 

 そこで終わるのなら、8〜9分なのだが、そこからエピローグ的な部分がある。ここはコラールだ。冒頭のテーマが、今度は金管で静かに追悼される。2008年に亡くなった作曲者の恩人へ捧げられた祈りは、あくまで清浄で美しい。涅槃の響きだ。テーマは次第に厚くなって、いわゆる吹奏楽的な、ちょっともっさりしたアダージョとなるが、こういう響きが15分のうち、数分も無いのがこの楽章の出来の良いところ。最後は、安楽と安寧の中へ消えてゆく。

 4楽章フィナーレは総決算。祝祭の三部形式。1楽章の重々しいテーマが、明るく長調で、軽やかに帰ってくる。そこからアレグロ。歓喜疾走! 沖縄音階が楽しい。他にも、アジア的要素があるというが、私にはよく分からない。打楽器もポコチャカポコチャカ楽しい! 中間部ではテンポが落ちて、熱帯の森の様子。さまざまな鳥の声。そこに祝祭の儀式がところどころ混じって、いよいよクライマックスへむけて、これまでの様々なテーマが戻ってくる。それらがじわじわと折り重なり、壮大なフィナーレへむけて構築されてゆく。

 ちょっとウィンドチャイムが軽やかに鳴るあたりは、M8っぽくて、個人的には苦笑だが、テーマが大いに盛り上がって、そこから追憶の夕日で、しみじみとした詩情に包まれて終わる。

 これはもう、吹奏楽版吉松隆に認定。







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