横浜市中区 本牧山妙香寺。


 吹奏楽は愉し

 吹奏楽。

 吹奏楽はブラスバンド略して「ブラバン」とよばれ、学校の部活などで日本ではなじみが深い。しかしブラスバンドは本来金管楽器と打楽器のみで構成された合奏形態の事でありブラスとは文字通り真鍮のことで、金管楽器を意味する。

 ヨーロッパでは、この本来の意味での「ブラスバンド」が主流ときく。サクソルン属が多く加わった、全部金管の、つまり金管(ブラス)バンド。

 ところが、日本やアメリカでは、大量の木管楽器とコントラバスを加え、その分金管もオーケストラに近づけた形が一般的だろう。それは厳密にはウィンド・アンサンブルもしくはウィンド・オーケストラ、またはシンフォニックブラスなどと呼ばれる。

 日本では吹奏楽といえばそのウィンド・オケを意味するが、ブラバンといっても、ほとんど同じくウィンド・オケを意味する。学校のブラバン部で、本来的な欧州式の、サックスもクラリネットも無い、金管バンドがあるのを、少なくとも私は知らない。一般バンドには、数が少ないが、あるようである。

 もっとも……部員が少なくて、金管と打楽器しかいないのは、話がちがう。


 前置きが長くなったが、私は小学校の後期と、高校3年間、そして大学の初期において、そのブラバンの世話になった。(中学校にはブラバン部が無かった。)

 そのブラバンでは、ポップスからジャズからラテンから、いろいろなジャンルの音楽を楽しめるのが最大の魅力であるが、クラシック系も、もちろんOK。

 それはクラシックの、普通のオーケストラの曲を吹奏楽用に編曲した、通称「編曲物」とよばれる曲と、はじめから吹奏楽編成のために作曲された「オリジナル物」に大きく分けられる。

 編曲物では、近代作曲家の、管打楽器の活躍するドビュッシー、ラヴェル、ハチャトゥリアン、リムスキー=コルサコフ、オルフ、ストラヴィンスキー、ムソルグスキー、チャイコフスキーショスタコーヴィチ、イベール等が、やはり多い。ワーグナーや、ヴェルディ、バーンスタイン等もある。が、さすがにシューマンやベートーヴェンなどとなると、無くは無いけど、あまり聞かない。古典やロマン派は、どうしても弦楽器が主体なため、吹奏楽にはなりづらい。

 それら、主にバレエ曲や組曲、序曲、交響詩等の編曲作品は、「特に吹奏楽ファンでなければ、わざわざ聴くほどのものではない」 といった地位に甘んじている。吹き易いように調を変えたりしているのが、聴くのには違和感を生じ、不利になっているようだ。編曲者によっては、楽器の置き換えとか移調にぜんぜんセンスの無い編曲もあって、聴いてるとアタマにくる。コンクール名演奏集では演奏時間の関係もあって豪快にカットされている。うーむ。

 私も、現代物を除き、特に愛聴するほどの名編曲には、出会ったためしがない。パッときいて、物珍しくって楽しいが、やはり原曲を愛する人は原曲を聴く。存在意義も本当に、「ただ編曲しただけ」 という域を出ていない物が多い。つまり、好事家向けのアイテムだろう。もしくは、ブラバン愛好者が演奏して楽しむ物であり、何種類も録音がでる余地が無い。

 そもそも、原曲にだって指揮者やオーケストラを変えて、無限に聞き比べる楽しみがあるのだから、それが編曲にまで手が出るとなると、その曲のマニア以外は、やはり……。

 また、わざわざ編曲されるようなメジャー曲は、それだけ原曲がすばらしすぎるのだから、それもしょうがない、とも思う。

 例えば、リヒャルト・シュトラウスの交響詩「ドン・ファン」の吹奏楽版を持ってるが、聴いてて哀しくなってくる。冒頭、あの豊穣な弦の響きの代わりにクラリネットが必死になってカクカク吹いてる。何が悲しゅうてそんな音を聴かにゃならんのか。だって笑うCDじゃないんでしょ? それともこれはトンデモ盤の部類に入るのかな? 演奏が外国のバンドだから、編成も日本と微妙にちがって木管が少ないようで、余計そう聞こえる。

 バーンスタイン「キャンディード序曲」だって、なんじゃこりゃ、という出来上がりで悲しい。

 やっぱりクラリネットのカクカクさが気になって、笑ってしまう。弦楽のアレグロを管が吹くのは根本的に無理がある。原曲がすばらしいから、悪くはないけど、それじゃ原曲を聴いてる方がうんとよいではないか。特に自作自演バーンスタイン・NYフィルのキャンディード序曲と比しては、さしもの佐渡とてまだまだ足元にも及ばぬ。(というより吹奏楽ではあれが限界かと思われる)

 私は思うのだが、つまり、
編曲とは「再創造」に他ならない。

 ラヴェルの例を出すまでもない。ただ吹き易いように、調な音符を直すだけが編曲なのだろうか? 管弦楽のスコアを、寸分漏らさず吹奏楽に落とすのが編曲なのだろうか? たとえ編制の問題で、あるいは機会音楽用に直さざるをえない場合でも、ベートーヴェンの第九・4楽章の歓喜のテーマを金管合奏に編曲したマーラーを見ても分かる通り、そこには新しい創造がなくば、編曲する意味がないではないか。それが 「編曲の面白さ」 だと思う。

 再創造の無い、安易な管弦楽の編曲モノを聴く意味や価値が無いのではないかという問題提起は、そこに由来する。

 いったいどれだけ、いわゆる編曲モノにそのレベルに達する、原曲に匹敵するあるいは凌駕した、再創造作品があるというのだろうか?


 問題は、オリジナル曲。

 これこそ吹奏楽を聴く醍醐味だと思う。

 ところでオリジナル吹奏楽曲の古典的名曲となれば、1にも2にもホルストの「ミリタリーバンドのための組曲・第1番」及び「第2番」だろう。それで、この曲のスゴサを分かっていない人がすごい多いのが、吹奏楽愛好者の歯がゆいところ。確かに、昔の曲だから、技術的には、カンタンな面もあるでしょう。

 「あんなの、中学生がやる曲だよ〜」 と、云う人もいましょう。

 「何回もやってるし……つまんないよ」 と、云う人もいましょう。

 ああ……しかし、ダメだ。ダメです。

 惑星に匹敵する超名曲ですよ!

 2組のイギリス・ハンプシャーの民謡を巧みに処理した作曲技術もすばらしいし、1組のオリジナルな主題そのものの魅力も捨てがたい。なにより楽しい。

 こういう構造の単純な曲を「聴かせる」ことが、いかに難しいか。そこのところが分かれば、演奏しても、楽しいだろう、きっと。

 それはさておき2組の2楽章「無言歌」で、いかにも、「ブラスの響き……」 といった、薄っぺらい和音が耳にとびこんで来るのには、さすがにガックリくるが、考えてみれば、これがそんな響きの元祖であると、言えなくもない。と、なると、大部分の現代の作曲家たちは、いまだにホルストを超えることができないでいる。欧米、そして日本の一部の現代吹奏楽作曲家が作る音楽の、なんと単純でワンパターンで、しかも短くて物足りないことか。コンクール向けというのは本末転倒。もちろん、長けりゃ良いというものでもない。オケ作品にも、数分〜10数分の小品は、いくらでもある。しかし、楽器の構造上、ハーモニーが薄く単調になって飽きやすい吹奏楽の編成で、30分……いや、15分以上の曲を作るには、よほどの技量と才能がいるのも、確かだと云える。また薄いからと云ってただ単に重ねると、たちまち響きが濁るのだから、始末におえない。

 小品だからとて、CD1枚のアルバムにするには何曲も録音する必要があるわけで、30分のを一曲聴くのも、6分のを5曲聴くのも、結局は同じこと。吹奏楽のアルバムやコンサートで「飽き」と戦うのは、容易ではない。それは演奏の善し悪し以前に、響きの、曲の中身の問題だろう。

 私は吹奏楽はオリジナル主義ではあるが、そうはいっても、全部のオリジナル曲が良いかというとこれもまた難しいのが吹奏楽の難しい所ではあるまいか。

 リードなんて、あの膨大な作品群の中で、1回きいたら、もういいや、という作品がどれだけあることか。2流とまではいかないが、飽きることは否めぬ。悪く言えば(ファンの方々には申し訳ないが)分かりやすい、親しみやすいを言い訳に、クズみたいな音楽を大量生産している。「春の猟犬」など演奏が難しい上につまらないという、ある意味究極の作品である。

 しかしリードのすごい所は、クズの中に宝物が確かに混じっている事で、その意味では玉石混淆のお手本みたいな人だろう。

 リードなら無条件で何でも好き、というディープなファンは別にして、人によってその宝物の価値基準は異なるだろうが、私は「エルサレム讃歌」が、内容的にも曲の面白さという点でも、リードの最高傑作の一つだと思っている。変奏も上手だし、構成もうまい。これが本当の分かりやすい、ということだろう。ラストの盛り上がりも充分。荘厳な雰囲気もよく出ており、オーケストレイションも良。冗長にならず、最後まで安心して聴ける。

 「アルメニアンダンス」も悪くは無いけど、第1部は曲の構成がただのメドレーだっつうのが寂しいし、緩徐楽章の第2部はより厳しい。民謡を主題にするなら、ストラヴィンスキー、ハチャトゥリアン、バルトーク、コダーイ、ホルスト、ヴォーン=ウィリアムスぐらいの気合をみせてくれ!

 ※追記:2006年の尾高忠明/札響スペシャルブラスによるアルメニアンダンスパート1の演奏は、しかし、本当にすごかった。格調高く、スリリングで、迫力があり、ノリノリで、各テーマによる1曲1曲がメドレーではなく上質な民謡組曲のように独立して丁寧に扱われ、本当に感動した。これがアルメニアンダンスの真の姿かと思った。やはり演奏に問題ありだったということだろうか。

 また、リードでは他にバンドのための交響曲が重要。特に2番は主題が「音列」で構成され、かなりゲンダイ音楽的。ヴォリュームも満点、構成も良く、音色も申し分無い。これも必聴に思える。難点をあえて言うならば、これ、ホントにリード!? といってしまいそうなほどシリアスなところか。私はむしろこちらの方が好きだが、リードの平易を愛する人は、苦手な部類に入るかもしれない。

 3番も同じような曲風。1楽章には無調的アレグロがとびだし、驚かされる。2楽章はワーグナーの旋律による変奏曲。3楽章のテンポの良さ、展開のうまさ、ラストの圧倒的な盛り上がりも、聴き逃せない。木管のうねりやアレグロでの絶妙なシロフォンが、ああ、これはリードなんだな、と感じさせてくれる。4曲中ではこれがいちばん好きかなあ。

 4番が多少変わって、相当の難曲ながらも2、3楽章などずいぶんと「親しみやすい」面を押し出しており、これがまたすごいリードくさくて良。1993年世界音楽祭コンクール吹奏楽部門最高レベルの必修課題曲。

 5番もあり、ラストナンバー。しかし急に日本情緒満天の「サクラ」という曲。評価は分かれるところだろう。

 もっともリードもバーンズも、アメリカではバンドは中高生の音楽教育的側面が強く、しかも日本のように難しい曲を演奏するというより、もっと平易な音楽が大量に求められているということなので、そのへんの事情は異なる。

 参考 リードバーンズの交響曲の項 


 ところで、リードが出てきたので、整理しておきたい。

 吹奏楽の作曲家といっても、オケ作品や室内楽などの作品を普通に作曲する人が、たまたまジャンルの1つとして吹奏楽曲を作曲したのと、ほぼ専門的に吹奏楽曲を作曲している……もしくは、吹奏楽曲のみが有名な作曲家とでは、話がちがう。

 ホルストはとうぜん前者。他にもホルストには「トロンボーンとミリタリーバンドのための協奏曲」というマニアな曲がある。

 そしてヒンデミット。高名な「ミリタリーバンドのための交響曲」は本当にスゴイ。何が凄いって、いわゆるブラバン編成で、あれだけ多彩な響き、リズム、表現がみられる音楽は、ほんと、そうは無い。ちょっと旋律が分かりづらく、構成も堅いので、ホルストの1組・2組よりは、馴染み薄か。

 ヒンデミットは他にも「吹奏楽のための演奏会用組曲」というのを書いている。こちらはヒンデミットらしく渋い知的な曲風で、あまり一般的に人気が出るとは思えない。この人はオーケストレーションが上手で、自身は弦楽器奏者のくせに、管打楽器の扱いもうまい。高名なオケ曲の「ウェーバーの主題による交響的変容」にはとても見事なトロンボーンやティンパニ、フルートらのソロが登場するし、変ホ調の交響曲も、金管パワーが炸裂するド級の爽快曲。そんな人が書いたブラバン曲が、すごくないわけがないと思う。

 また12音音楽の元祖・シェーンベルクがアメリカで吹奏楽のための「主題と変奏」という曲を書いている。不協和音バリバリで演奏も至難だが、無調や12音技法ではなく、普通の調性音楽である。

 あと、ショスタコーヴィチやハチャトゥリアン、プロコフィエフらは、当局よりの依頼(おそらく半分強制)で、軍や警察のために行進曲を作曲している。これらは毒が効いており、かつ超一級の作曲技術で作られているので、よけいタチが悪い。ショスタコなぞ、ソヴィエト警察のための祝典マーチなのに、ABAの三部形式で、ぜんぶでたったの1分半!!

 なんという厭味か。

 もちろん、そういうのを考えずに、そのまんま単純に聴いても、充分に面白いのが凄い。

 スーザ等のレギュラー吹奏楽マーチを演奏度・鑑賞度ともに4〜6とすると、それらはもう7〜9を行っている。レベルがちがう。それほど違う。シャンドスというイギリスのレーベルに、ロシア・コンサートバンド音楽集としてロジェストヴェンスキー/スコットランドコンサートバンドのCDがある。要チェック!

 話は戻って、地味な作品だがリムスキー=コルサコフには「クラリネットと吹奏楽のための協奏的小品」また「オーボエと吹奏楽のための変奏曲」さらに「吹奏楽とトロンボーンのための協奏曲」なんてのがある。

 ストラヴィンスキーの「ピアノと吹奏楽のための協奏曲」も新古典主義の名曲。

 ミヨーは「フランス組曲」を、ヴォーン=ウィリアムスは「イギリス民謡組曲」を作曲。特に後者はホルストの「1組・2組」に匹敵するすばらしさ。フサの「プラハのための音楽 1968」は、かのセル/クリーブランド管弦楽団の要請でオケに編曲(なお)されている。本来は古い形態のギャルド吹奏楽団のために書かれたため、ビューグルやバリトン等の楽器も加わった編成のシュミットの「デュオニソスの祭」も、古典的名曲。もちろんウィンド・オケ版も良い。

 ちなみに、フサとフローラン・シュミットは、交響曲とか、バレエ音楽とか、マイナーながらオケ曲にも代表曲があり、CDにもなっているので、前者とする。グレインジャーも吹奏楽に止まらない作曲をしているので、マイナーながら前者とする。「リンカンシャーの花束」も、オケ版があるらしくって、ラトルがバーミンガム市響で録音しているようだが(生産中止)これもなかなか良い曲だと思う。

 その他にも、私が知らない曲が、うんとあるに違いない。

 申し訳ないが、これらの作品群と、リードとか、何だとか、それはそれの良さがあるのは認めるが、モノがちがうと言わざるを得ない。

 もっとも……クラやボーン等の管同士の協奏曲作品は、菅で管を伴奏するというのが、どうにも響きを単調で薄っぺら、もしくは厚く濁ったものにしているのは、吹奏楽編成の宿命だろう。

 また他にはストラヴィンスキーが「管楽器のための交響曲」や、サーカスの像たちのための「サーカス・ポルカ」という曲を書き、リヒャルト・シュトラウスは管楽器群のために「セレナード」「管楽器のためのソナチネ第1番」「管楽器のためのソナチネ第2番」などを作曲。同じく「管楽器のためのセレナード」は、たしかドヴォルザークにもあるし、ブリテンは「金管と打楽器のためのロシアの葬送音楽」という曲を作っている。クルト・ヴァイルの、音楽劇「三文オペラ」よりの演奏会用組曲「小さな三文オペラ」は、小編成の管楽オーケストラのために書かれている。

 黛敏郎に絶大なる影響を与えたエドガー・ヴァレーズの管打のための作品(ハイパープリズム、そしてアンテグラル!)も、かなり重要。

 が、これらは、厳密にはウィンド・オケの編成ではなく、ゆえに私は「管楽合奏」と呼んで、吹奏楽と区別している。吹奏楽連盟にアンサンブルコンクールなんてものがある以上、そして「吹奏楽」の意味する所が、すべからく管楽器を演奏して奏でられる……すなわち「吹奏される」音楽という事に帰結するのであれば、小編成の管楽合奏も「吹奏楽」であるというのも認めるが、便宜上、私がここでいう吹奏楽とは、あくまでウィンド・オケか、それに準じた比較的編成の大きなバンドである。

 それで、ヴァイルは、特に管楽器が好きだったようで、ヴァオリン協奏曲など独奏ヴァイオリンと管打楽器群のために書かれている。これがまた、けっこう面白い。

 またファンファーレもこの管楽合奏に含めたい。リヒャルト・シュトラウスのファンファーレ群は、どれもこれも超1級品。「ウィーンフィルハーモニカーのためのファンファーレ」などはメジャーレーベルで録音もあるが、これもシャンドスより、嬉しいシュトラウス・ブラス作品集なるものがでている。収録曲は15分をかける大曲「ウィーン市のための祝典音楽」に始まり、ケーニヒ・イェーガー騎馬連隊と騎兵隊のための2つの「軍隊行進曲」「ウィーンフィルハーモニカーのためのファンファーレ」と続き「ウィーン市役所ためのファンファーレ」「ヨハネ騎士団騎士の荘厳な入場」ときて、極めつきに「オリンピック讃歌」だ。これはかのベルリン・オリンピック開会式のために書かれた祝典音楽よりファンファーレ部を抜粋したものと思われ、ヒトラーの前で吹奏されたであろう、歴史的キワモノ曲。

 これらは流石の職人仕事であり、金管アンサンブルの重厚さとシュトラウスの壮麗さが程よく合体した、聴き物ぞろい。


 では、後者はどうか。

 リードは述べた。

 スパークとか、ヴァンデルローストは?

 曲に底力がない。ぬるい。かるい。ニールセンの亜流? もちろん、悪くはない。スパークの序曲などはとても良い出来だと思う。しかし、あくまでそれも吹奏楽のレベルでいえば、であって、オケの有名作曲家と比べると、どうしてもランクが下がる。

 その2人、最近の大曲としては、標題付の交響曲などに挑戦している。2人とも初の「交響曲」らしい。

 スパークは1999年初演の吹奏楽のための交響曲「大地・水・太陽・風」を作曲。大層なタイトルとは別に、ハナシにならないぐらい陳腐な曲で逆にびっくりした。スパーク、大丈夫か? 素直に安い形式の曲だけ書いてればいいものを、交響曲なんて銘うつから、よけいダメさがめだつ。組曲でも問題ないのに、クラシックファンは「交響曲」にはキビシイのだ!!

 ヴァンデルローストは2000年初演の「シンフォニア・ハンガリカ」(ハンガリー交響曲)を。こちらは力作・佳作の部類にはいるだろうか。

 1楽章 アッティラ、2楽章 アルバード、3楽章 イシュトヴァーン、というハンガリーの歴史上高名な3人の王やその情景を描写したもので、聴きごたえはある。他のヴァンデルローストの曲に比するとたしかに壮大でシンフォニーの名に相応しい出来となっているが、なんだか舞台(テレビ)音楽みたいな観は否めない。

 悪くはないのに、絶対的な感動を与えるかと問われれば、否、と答えざるをえない。そういうのって、「吹奏楽だから仕方がない」 でファンの人はすまされるのか? 


閑話休題

 どうでもいいが、(英語読み)ヴァンデルロースト Van der Roost さんは、デル・ローストでもローストでもなく、正確にはヴァン・デル・ローストとなる。オランダ人の名字には、外してはいけない定冠詞がつく場合がある。だから、デハーンもハーンではない。デメイもメイではない。指揮者のデワールトも、だからワールトではない。

 となると、オランダ系ドイツ人のルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンも、実はつなげてヴァンベートーヴェン。楽譜なんかには作曲者名はちゃんそうなっているが、一般的には、ドイツに代々住んでるうちに外れてしまったのだろう。
ゴッホも本当は、ヴァンゴッホである。


 他、最近の流行りの曲は?

 珍しい楽器を使えばいいってもんじゃない。チェーンとか、グラスハープとか。実験音楽のつもりなのだろうか。聞いてて楽しいのは確かだし、特種楽器を使うのが悪いというのではない。だって、古くはシュトラウスやマーラーも好き放題つかっている。ヴァレーズにはサイレンも飛び出す。タン・ドゥンに到っては、ありとあらゆる鳴り物が動員され、香港返還記念交響曲1997「天・地・人」には、2400年前の遺跡から発掘された65個にも及ぶ青銅製打楽器群「編鐘」(へんしょう)を再現して使っている。ただし、この人は全体的な感覚が、ちょっと、フツーではない。

 しかし、それらに比して現代吹奏楽における「最近の一部の曲」は、パッと聴いため楽しいかもしれないが、曲自体がその楽器に負けてる場合が多々ある。使うのは悪くない。が、結果としてダメになってはいないだろうか。保科洋ではないが、本当、特種楽器を安易に使うのでは、正直、能も芸もない。なんと云っても そのまんま なのだから。ガックリくる。描写音楽が多いけれど、もう少し頭を使って欲しい、といえば尊大だろうか。安直すぎて、1回きけばもういい。例をあげれば、海の男の音楽に錨鎖がジャラジャラって……かんべんしてください。

 吹奏楽にかぎらず、そして欧米にかぎらず、同じ現代の作曲家として、すべからくそういう素朴で単純な人々に、作曲家・吉松隆の次の言葉を送りたい。これは、いつぞやの「題名のない音楽会」で言っていたのだが(司会の人の)現代になって交響曲という古典的な形式の音楽を書くご理由は、という質問に、まず、

 「現代日本の東京に生まれた者が交響曲などというのを書くのは、逆に新鮮である」 と答え、次に、「五線譜と(フツーの)オーケストラのみを使って、30分なり40分なりの交響曲を書くという事は、作曲家として、エベレストに登るような、技術の粋を集めるという意味で、挑戦しがいがある」 の意味の事を言っていた。

 爪の垢でも煎じて呑めええーい!(`Д´)ノ

 しかし、そうは云っても方向性と表現性の問題だから、作曲するなとは云えない。あとは聴く人が、評価するしかないということであろう。 


 話は戻って、スウェアリンジェンは懐かしい。いまとなっては、聞くとワクワクする。素朴なメロディーや単純なABA形式も、古典的で微笑ましい。こういう素朴や単純は、安直とはちがう。

 オリバドゥーティのバラの謝肉祭序曲も名曲。ジェイガーも力作が多い。

 そしてネリベル。この人はオケ作品とかもたくさん書いているらしいが、まあCDが出ることはあり得まい。吹奏楽の作曲家と認識して良いでしょう。「交響的断章」とか「アンティフォナーレ」とか、いい響きしている。20分を越す大作「復活のシンフォニア」も、聴き応えがある。フェネル/東京校正ウィンドオーケストラによる作品集は、一聴の価値あり。

 その作品集にないものでは「フェスティーヴォ」が小気味よい展開、響き、音色、最高だ。さらに最後期のものから「世の終わりの行進」が意義的にもヴォリューム的にもすばらしい。数分の音楽に、これだけ重厚な内容があるのが、評価できる所で、他のアメリカのスクール・バンドのための作品ではこうはいかない。もっとも、初期のバンド作品の教育的意義とか、当時としては斬新なスタイルとかを考えれば、単純に比較はできないのだろうけど……。

 チャンスもむしろ好きな方だが、国内盤で作品全集がなんで無いのだ!? 大阪市音や東京校正は何をしているのだろう!? 「呪文と踊り」みたいなメジャー曲は、いまさらやる価値なし!? いまさら「朝鮮民謡の主題による変奏曲」なんかではCDが売れない!? 売る自信がないんじゃないのか? 早死にしたのも惜しい。「呪文」と「朝鮮民謡」と「バンドのための交響曲第2番」以外、曲を知らない。ところで早死というと、貧困の上での病死とか、不治の病とか、交通事故とか、そういったのを連想させるが、なんとこの人は感電死。……ソーゼツだw

 ※2006/7/1追記 スティール/イリノイ州立大学ウィンドシンフォニーで念願のチャンス作品集がでました! Albany RECORDS TROY755 です。呪文や朝鮮民謡、交響曲第2番の他に、ブルーレイク序曲やエレジーといった秘曲も入って、演奏も良いです。お薦め!

 さらにマクベス。これも作品集がない。幸いにも私は輸入盤で90年代の作品集をもっている。網羅すればかなり質・量ともヴォリュームのある作品集ができるはずで、メーカーの気概の無さをひしひしと感じる。

 東芝EMIには「マスク」と「カディッシュ」の録音がある。後記するがマスクは何と朝比奈隆指揮の大阪市音楽団。


 そして本命。

 吹奏楽オリジナル曲最大最高の傑作の1つとして、私はヨハン・デメイの交響曲第1番「指輪物語」を推す。(いつぞや映画で話題になったアレ)

 全五楽章・演奏時間40分。吹奏楽でここまで聴かせる作品を、私は他に知らない。統一の素材が有機的に使われており、立派に交響曲してる。

 交響曲とするからには、コレぐらいはやってもらわなくては! なあスパーク先生。

 もっとも、私は元来長編ファンタジー小説「指輪物語」のファンであったから、特別な感情を抱いて曲を聴いているのを、否めない。これは純然たる標題音楽である。

 しかし、小説を知っているからこそ、なお、面白い。

 いまでこそ、もとよりの小説のファン、また映画をご覧になった方はよくご存じ方と思うが、この曲が日本に紹介された1991年ころは、まだ指輪物語は一部のマニアックな小説でしかなかったため、日本語のタイトル等でかんちがいがあったように思われる。

 第1楽章のタイトル「ガンダルフ」は、人名。カッコして「ウィザード」とあって、小説や映画を知らない人にも分かる様にしてはいるが、ファンタジーに通じてない人には難しいのか、カタカナでの訳しか見たことない。

 「ウィザード」とは、パソコン用語の方ではなく、ようするに「魔法使い」の事。つまり「魔法使いガンダルフ」というわけ。ちなみに「ウィザード」の女性形が「ウィッチ」で「魔女」となる。映画公開後、ようやく「魔法使いガンダルフ」というCDも出てきて、頼もしい限り。

 ところでそのガンダルフ、ウィザードどころか、「スーパーウィザード」であり、ファンタジー世界では、アーサー王が側近・魔法使いマーリンと並ぶ超大物で、最近はそれにホグワーツ魔法魔術学校長ダンブルドアが加わったが、灰色のローブを身にまとい、銀の髭を地面につくほど垂らしている。知性と勇気の象徴にして、白馬を駆って荒野をかけめぐるという……魔法使いなら魔法で移動しろ、と思わずツッコミたくなるほどのグレートじいさん。曲では、途中でアレグロの部分があるが、それが白馬を駆るガンダルフ。名馬飛蔭だ! 冒頭の重厚なファンファーレも、曲(物語)の開始を告げると同時に、ガンダルフの偉大さも十全に表している。あのジイさんはいったい何を食べていつもあんなに元気なのだろうか? 霞か?

 第2楽章は「ロスロリエン」(エルヴェンウッド)とある。よく「エルヴェンの森」と訳されているが、この「エルヴェン」とはなんだろう?

 これは「エルフの森」となるのが、正解ではあるまいか。「エルフ」は、本来おとぎ話に出てくる妖精の一種であるが、小説では血肉を有する亜人種として書かれている。エルフ族……いや、ヒト属ヒト亜科エルフ目というわけ。森へ住み、狩りが得意で、閉鎖的。人間からは神秘の象徴。王族で何千歳というレベルの、たいへんな長命種でもある。

 ゲームにもよく登場するから、ゲームファンは分かるだろう。エルフ属ではなくヒト属としてみたのは、エルフと人間で混血が生まれるため。そのエルフ、綴りは Elf つまり最後の文字が F なわけで、複数形は Elvs となる。それで件の Elven っていうのが、どうやらエルフの所有形と思われる。同じくファンタジー世界によく登場する異種族・ドワーフも、所有形はドワーヴンである。

 ようするに小説からかんがみるに、この楽章の題は「エルフの森」としか、考えつかないのだ。曲も、月光と闇、深い緑に覆われた神秘の森を、よく表現している。

 「ロスロリエン」とは、そのエルフの国の名前。エルフ語で「花の夢みる国」という意味。これもようやく映画公開後、ちゃんと「エルフの森」となってきた。良いことじゃ。

 最も長大な3楽章は「ゴラム」(スメアゴル)だが、これがまた登場人物(キャラクター)の固有名詞で、知らない人にはチンプンカンプン。「ホビット」という、人間の半分ぐらいの大きさの種族がおり、小説の主人公フロドとサム主従らも、そのホビット族。エルフやドワーフと同じ、異種族。そして、世界を統べるという指輪の呪いにより「ゴラム」という醜いカエルの様な灰色の怪物に変化してしまった元ホビットのスメアゴルというヤツが登場し、主人公らの旅の邪魔をする。

 ソロ・ソプラノサックスがひょうきんで狡猾なゴラムを表し、途中の、素早い部分は、ゴラムの敏捷性を表す。ちなみに小説の邦訳では「ゴクリ」という名前になっている。これはよくつばを飲んで「ゴクリ、ゴクリ」(ゴラム、ゴラム)と喉を鳴らすから、そう呼ばれる様になったとのこと。原作では半魚人みたいなイメージなのに、映画ではゴブリンみたいなやつになっていて、個人的には、どうかと思った。

 最後の最後に、重要な役割をつとめる。

 次がグッと雰囲気を変えて、第4楽章「闇の中の旅 a・モリアの坑道 b・カサド=デュムの橋」だ。ホビットの主人公たちが苦労して進む2つの難所で、旅の仲間のクライマックス。大敵バルログを橋の上でくいとめたガンダルフが、共に奈落の底に落ちるというシーンもあり、曲が上手にその様子を伝えている。

 そして第5楽章「ホビットたち」。再びファンファーレが蘇り、陽気で祭り好きなホビッツの描写。この思わず歌いたくなる様なホビットの主題は、実に爽快。曲の展開も良。ラストも西方世界へ旅立って行くフロドたちを見送る感動で全曲を締めくくり、しかも冒頭の主題が再現され、統一性を出している。おみごと!

 テーマが回帰されたり、楽章のない様や配置的にも、立派な交響曲だが、組曲・指輪物語としても良さそうなこの曲、是非、オーケストラにも編曲していただきたいところだが、しない方が良いだろう。(すでにされてるけど。)

 吹奏楽でも文句無しに面白い。何の問題もない。吹奏楽のオーケストレイションが完璧。吹奏楽でしか、味わえない味がある。しかも、それが特殊な楽器を使うわけでなく、特殊な編成であるわけでもない。ごく平凡なウィンドオケ編成。これって、スゴイ事です。

 ちなみにこのデメイさんという人、もともとは編曲家だということで、だからこんなにオーケストレーションが上手なのか。初期の吹奏楽作品には「水族館」とか、ネッシー騒動の「ネス湖」等があるが、まあ、それなり。交響曲第2番もあり、ニューヨークを表した曲でその名も「ビッグ・アップル」であるが、これがまた、ラッパが、クスリでもヤッてんじゃないかっていうぐらいに、ひたすらクラクションのような短い音形を鳴らし続ける珍曲……いや奇曲。ちなみに2番もオケ版がある。

 注目すべきは2000年の4月に初演されたチェロとウィンド・オーケストラのための「カサノヴァ」だろう。
 
 単純なチェロ協奏曲ではなく、純粋にチェロを全体の中の楽器の一つとして扱い、大きな効果をあげている。珍しくピアノや、特殊打楽器もあるが、小技には溺れていない。フォンテックより大阪市音楽団による日本初演の模様がライヴ録音で出ている。こちらも指輪と同じく標題音楽であり、イタリアに実在した破天荒な人物カサノヴァの生涯を描いている点ではシュトラウスの交響詩「ドン・ファン」に近い。登場人物毎に描かれた主題、物語としての展開、描写のうまさ、縦横無尽のチェロ、吹奏楽の弱点を微塵も感じさせぬオーケストレーションのどれをとってもすばらしく、作曲者の底力を感じるような音楽で、久しぶりに吹奏楽で唸ってしまった。演奏もうまい。

 それ以外の曲は、だいたい編曲物ばかり。寡作家で、気長にこのような大作を待つしかない。しかし、待つだけの価値は確かにある、貴重な作曲家といえる。(2006年にオケ曲で第3交響曲「ブラネットアース」が初演されました。CDにもなったよ!)

参考:私のデメイの交響曲のページ 


 さて、お次は邦人作曲家といこう。日本・アメリカ・EU圏は「世界三大地域」といえるほど吹奏楽が盛んであり、作曲家もたくさんいる。

 日本人作曲家は、外国でも高い評価を受けているようで、嬉しいかぎり。

 東京校正ウィンドオーケストラによる、その名も「邦人作曲家シリーズ」なるものが、私が高校生のころより数えに数えて第9集まで出ており、ブラスファンは必聴。最初のころは民謡メドレー曲や、ただ音が唸るだけのゲンダイオンガク、コンクール常連曲なども入っているが、第6集が現代邦人クラシック作曲家各氏のブラス及び管楽作品集、そして第7集は岩城宏之指揮による黛敏郎作品集となって、9集には吉松隆の唯一の吹奏楽曲「鳥たちへのファンファーレ」や西村朗の伝説曲「巫楽」なんかもあって、大いに聴き応えがある。

 アルバムとしての編集的には、吹奏楽メイン作曲家の作品と、クラシック作曲家の作品の、ゴチャまぜになっており、やはり吹奏楽メイン作曲家の曲が一段も二段も劣る場合があるのは、欧米と同じ。

 このシリーズ以外では、大阪市音楽団が、邦人個展アルバムを出している。ありがたい話である。が、櫛田テツ(漢字が出ないです)之扶と伊藤康秀はファンの方々には申し訳ない、演奏以前に、もう曲が、なんじゃこりゃ(笑)

 櫛田は「飛鳥」以外に聴ける曲はないし、伊藤康英の「ぐるりよざ」も頑張ってはいると思うけれども、そんなに特別スゴイ曲だとは思えないのだが。好みの問題もあるだろうし。

 3作目の保科洋に到って、ようやく少し安心して聴ける。何より、こんな曲は保科以外には聴けないというのが、最大の魅力であり、価値だろう。

 その保科の、どこかもの悲しい独特の響きは、透明感のある不思議なオーケストレイションと和声と主題の進行にある、と勝手に素人の勘繰りをして遊んでいるが、それがまた聴きやすいし、嫌いではない。音楽の構成も良い。無理に難を言えば(課題曲とかだから当然なのだが)時にやたらと、コンクールくさいのが鼻につくところ。

 これは(今さらながらで申し訳もないが)日本の吹奏楽作曲家全般に言えることなのだが、吹奏楽コンクールの呪縛というのは、これはもう絶対にある。べつにコンクールや課題曲が嫌いという意味ではないが、みな似たような響き、似たような構成、結果として似たような曲の羅列。課題曲は時間の制限もあるから作曲も難しいかも知れないが、結果として、これでは、どうしようもない。

 それとも根本的に課題曲を純粋に「作品」として聴こうという時点で、間ちがっているのだろうか? 

 一般応募も、考えものかもしれない。新人の発掘には大いに役立っているし、一種の懸賞と考えればそれも良いが、なにせコンクールの課題曲であるから、課題曲としてそぐわぬ曲は受からない。(あたり前)

 そうなると、毎年同じような曲が当選し、全国の団体によって演奏され、それで有名になると、仕事も増え、作家は助かるだろうが聴く方は結果として同じような曲の大量生産を拝受するハメとなる。

 また、いちど課題曲で有名になってしまうと、みんなその影響から逃れられないのだろうか。

 さて、4作目の兼田敏は、保科の盟友であるとは知らなかった。東芝よりも2枚組の作品集が出ていたが、未聴。理由は値段が高かったから。

 この人のオーケストレイションや主題、音楽内容も、独特でパワーがあるもの。保科の指摘通り、特に金管楽器が面白い音楽をやっている。アルバムでは「吹奏楽のための交響的音頭」が、本当に盆踊りではなく、こんなスリリングな展開もアリなんだな、と特に感じ入った。

 さらに傑作なのは、課題曲の「嗚呼!」が、実は、盟友保科を追悼する時のために用意された「嗚呼! 保科洋君!」だったということ。なるほど、そうなると中間部の響きは、まさしく、「嗚呼ッ……(泣)!」 といった感じ。

 この曲が課題曲として出た1985年当時は中学生で、中学にはブラバンが無く、実際に演奏しなかったし、聴くのもこのアルバムが始めてだったが、学生の頃は知識としてそんな曲があるというのは知っていた。しかし「嗚呼!」をなぜか「ああ!」ではなく「おお!」と間ちがって読んでいて、それが「押守!」と結びついて、応援団みたいな曲なのだな、と勝手に思っていた。

 こういった個性的な課題曲は、聴く方としては大いに楽しい。「深層の祭」といい、そういうのが必ず一曲はあっても、良いのではないか。


 で、私が大いに推すのは、東芝EMIが出している大栗裕作品集。

 大栗は、私が学生だったころ、コンクールで流行りに流行って、会場で石を投げれば大栗かリードかハチャトゥリアンに当たるというぐらいに、神話や大阪俗謡やオセロやハムレットやガイーヌが鳴り響いていた。(2002年本貢初稿執筆現在)10年以上も前、大阪の淀川工業と、札幌の白石高校が、全国大会でこの俗謡でぶつかって、淀工が金、白石が銀で、さすが本場はちがうなあ、と唸った記憶がある。もっとも、今ではそれらのようにうまい団体によって演奏されつくし、おいそれと手が出せぬ曲になってしまっているのが、残念といえば残念。

 その大栗作品、たしかに、イイ。民謡を主題にしているが、ただの引用音楽なってないのがさすが。現代性・音楽性もあり、「東洋のバルトーク」の異名は伊達ではない。ものの本には「浪速のバルトーク」とあった。さもありなん。

 ちなみに、大栗はオケ作品もあり、オペラもある。私は前に大阪フィル創立50周年記念演奏会をテレビ放送した番組で、外山雄三指揮・大栗のヴァイオリン協奏曲を聴いたことがある。ビデオにもとった。いったいどんな曲だ、と興味津々でテレビ画面をみつめていたら、いきなり響き線なしの小太鼓がトコトコ鳴り、ソロ・ヴァイオリンが唸りをあげ、木管が踊り、2管編成ながら響きも重厚。民謡旋律も完全に昇華され、見事なものだった。

 ※注:ナクソスより発売の大栗裕作品集に収録されています。

 その演奏会のメインは朝比奈隆の指揮でシュトラウスの「アルプス交響曲」だったのだが、作品集ではその朝比奈が吹奏楽曲を指揮しているという点でも見逃せない。「吹奏楽のための小狂詩曲」と「大阪俗謡による幻想曲」の二曲がそれ。大栗は大(だい)フィルの元首席ホルン奏者で、朝比奈と面識があった。

 「吹奏楽のための神話」は朝比奈の依頼で「管弦楽のための神話」にもなっているし俗謡は元はオケ曲だった。「管弦楽のための大阪俗謡」は、朝比奈が客演したベルリンフィル等でそれを初演して、たいへん好評だったということだ。曲はベルリンフィルに献呈され、いまでも手書きスコアは彼の地にあるという。

 ※注:1999年にスコアが大阪フィルに贈られ、いわゆる原典版の演奏も行われています。

 話が少々それる朝比奈 隆というと、ブルックナーやベートーヴェンを朗々と響かせて、すばらしいとか、どんくさいとか、わけ分からんとか言われている長老指揮者であったが、とにかく、どの曲もどっしり、ゆったり響かせるので、何の考えも無くただ音が広いだけ、などと揶揄される場合もある。

 が、この大阪俗謡を聴いてごらんなさい。

 冒頭のキビキビとしたテンポは、これが朝比奈か、と驚嘆する。しかも、若い時の演奏ではない。1992年の録音。アンダンテであるが(コンクールや定演なんかでの)たいていの演奏は、ここをさも幻想的な雰囲気って感じで、オドロオドロしくやるのだが、そんなうそくさい音楽は微塵も無い。アレグロに入ると、今度は逆に打楽器もずっしりテンポで、朝比奈節。しかしけして重くない。素人演奏では、ここぞとばかりにチャンチキやって、必要以上にお祭りさわぎなのだが、朝比奈はさすがプロ、しかも御大、音楽性にあふれている。

 そして最後コーダよりのプレスト、フルトヴェングラーも真ッ青の急進は、

 「おいおいおい、朝比奈ァー!!!」

 思わずさけぶ。

 ついでに朝比奈には70年代の録音で大阪市音とマクベスの「マスク」なんかもある。そのスピーディーで緊張感のある演奏には舌を巻くばかりだ。

 朝比奈は特に好きな指揮者ではないが、こういう演奏が出てくるのでは無視できぬ。ブルックナーとベートーヴェンでしか朝比奈を知らない人は、その一端しか知らないということか?

 そんな大栗作品集、なかなかマニアな聴き方もさせてくれる。

 さらに、いまや東芝EMIの企画物セットCDでしか聞く事はできないはずなのだが、東芝には大栗自作自演の「吹奏楽のための小狂詩曲」や、朝比奈指揮の「吹奏楽のための神話」が残っている。両方ともテンポが早く、キビキビとしたライトでストレートな解釈で、特に神話は驚いた。意外と、大栗の音楽はそういう軽い解釈でするのが本筋なのかもしれぬ。そもそも大栗の好きな作曲家は誰かというとモーツァルトとヨハンシュトラウスII世だというのだから、その音楽の本質が観えてくる様な気がする。重厚に演奏するのも悪くはないが、それは新古典主義の音楽を演奏するのには別流なのではないか。

 そう、大栗は実は新古典主義的な作風だった! 「浪花のバルトーク」じゃ、そりゃそうだよなあ!

 朝比奈の神話は、エスクトンレーベルより「朝比奈隆メモリアル」ということで出ているので、ぜひ確認していただきたい。

 さて、また、大阪フィル創立50周年記念の記念CDの方に、件のオーケストラ版「大阪俗謡による幻想曲」が収録されている。もちろん朝比奈隆指揮で大フィル。ヨーロッパ公演時の録音。演奏解釈は吹奏楽版とまったく同じ。プライベート盤?なのが惜しい。

 が、それを聴いて驚いた。

 なんというちがいか。

 吹奏楽版と、である。

 豊かな音色(おんしょく)。管・弦・打が渾然と混じり合った、まさしく幻想の世界。吹奏楽版だって、もちろん悪くない。

 悪くないが、絶対的に不足しているものがある。それはやはり音色なのだ。ステレオと(モノラルとまではいかないが)疑似ステレオほどの差がある。音の広がり、深さ、表現、吹奏楽版に勝ち目はまるで無い。世界は小さいし、響きは狭い。ニュアンスは悪い。ようするにスケールが小さい。

 例えば同じグリッサンドでも弦と管では表現するモノ(方向性)が違う。お互いに代用のしようがない。のに、安易にさせている編曲があるのがハラがたつではないか。さらに言うならば、ピチカートなんかもっと代用のしようがない。弦を指で弾くあの音色を、クラリネットやフルートがスタッカートで吹いたって、何の意味もない。せいぜいシロフォンか何かで似たような「感じ」を出す事か。さしもの作曲者の編曲でも、苦悩のあとがうかがえる。

 大阪俗謡に関しては、CDではナクソスより画期的なものが出たが、こと実演となると、吹奏楽版しか聴いた事が無い人が、ほぼ100%だろう。
 
 じっさいに聴けば分かるが、いかに作曲者自らの編曲とはいえ、そして、大栗がいかに吹奏楽に通じていたとはいえ、吹奏楽版の、なんという素っ気なさ、カクカクさ、表現の狭さか。特に冒頭から中間部にかけてが顕著。後半アレグロよりの盛り上がりは吹奏楽も負けてないが、これはもう個人的に好きか嫌いかで判断するしかない。作品的には、完璧にオケ版が本命。吹奏楽版は、本当の大阪俗謡の「アレンジ物」でしかない。

 ……とは云うものの、そんな事を云ったって、よく考えたら、物理的に楽器の種類が少ないんだから、吹奏楽がオケに音色で負けるのは当たり前なのだな。ただでさえ弦楽器は倍音を含みまくりなのだし、それで豊かな音がでなければインチキである。栄光の(かつての)ギャルド吹奏楽団のように日本では見ない楽器を多く含んだ金管バンドにおいて「オルガン・トーン」と呼ばれるような、往年のファンが、弦にも負けない豊かな音、と呼ぶ形態でもなく、オケから単純に弦だけを抜いたようなウィンド・オケでは、やはり絶対的に不利なのではないか。

 それを分かりやすくひと言でいうと、「吹奏楽は安っちい」 となるのだろう。

 つまり吹奏楽といっても、表現形態を根本から変える以外に、真の表現はあり得ないのではないか。例えばハチャトゥリアンの「剣の舞い」みたいな、ほとんど管打楽器の音で構成されているといっても良い音楽以外は、どう編曲しようが、もはやオケ曲と同じ土俵では勝てない。

 もっとも、例外として、吹奏楽版の方が原曲より有名になってしまった例も、確かにあるだろう。

 しかし、大部分はやはり、オケ版のほうが完璧に勝っている。それは演奏の善し悪しではなく、曲の構成上の問題。

 ハーモニーが汚い、長く聞いていると飽きる、管楽器だけをいくら重ねたって弦を加えた「管弦楽」の響きには勝てない、という理由で(さらに彼にとって吹奏楽とは教育体制の象徴らしい)ウィンド・オケが嫌いだという吉松隆の言葉は、なるほどとうなずける。
 
 つまり、意を返せば、それだけ吹奏楽の作曲は難しい。呑気に作曲してる場合ではないのだ。気合を入れないと、安っちい響きのクズ曲しかできないのだ。曲の表現内容によって自在に編成を変えられる分だけ有利な管楽合奏ではなく、ある種の枠が課せられたノーマルなウィンド・オケで、ノーマルなオケ編成に匹敵する一曲を仕上げるのは、かなりの仕事なのである。保科洋も云っているが、ことオーケストレーションに関しては、吹奏楽の方がずっと作曲が難しい。大栗もそのように云っていたらしい。さすがに分かっている。

 作曲家、北爪道夫の言は示唆に富む。

 「管弦楽における管楽器は、個々の音色的特徴が非常に重んじられ大切にされているのに、吹奏楽においてはどうでしょう。管弦楽ではソロ楽器であったその同じ楽器たちが、個性の強いもの同士のせめぎ合いによって、いつしかモノクロームに変質してしまうことの多い現実の「不思議」と「危機」に吹奏楽は何時も直面していると思います。」(ザ・シンフォニックバンドvol2より)

 曲の中身を言ってるのではない。いや、突き詰めれば中身もそうなのだけど、それ以前に、オケでつまらない曲は、吹奏楽ではもっとつまらない。吹奏楽で面白い曲は、オケではもっと面白い。そういう事。物理的な編成と音響の問題。室内楽には室内楽の良さがあり、オケにはオケの良さがあり、吹奏楽には吹奏楽の良さがある。単純には比べられない。しかし、弦楽四重奏の名曲と、交響曲の名曲が、作品として等しく評価されるよう、吹奏楽の名曲もそうあってほしいではないか。

 純粋に「1曲」として、オケの名曲に匹敵する曲が少ないという現状に、ここはやはりもっと吹奏楽作家を自認する人々には奮起してもらいたいし、関係者には、吹奏楽作家に限らず実力ある作曲家にもっともっと吹奏楽曲を委嘱して作ってもらいたい。

 オケに編曲(なお)しようのない、完璧なまでのウィンド・オケ作品。それこそが、吹奏楽を聴く価値であり、楽しみである。

 
我々は、管打の合奏でしか表現しえない表現をこそ聴きたい。
 
 大栗の小狂詩曲、黛、ネリベルやマクベス等の作品、デメイの指輪物語などは、その意味で究極の逸品といえる。好き好きの問題だから、あまり押しつけはしないけれど、少なくとも、それが私の確信。

 これまでご紹介したような曲が、それを演奏したCDが、もっともっと増えるのを願ってやまない。だって何だかんだ言っても、吹奏楽は好きだから。ロクな曲が無いから、いまでは滅多に聴いてないけど。

 ゲンダイオンガクならぬスイソーガクの、何と多い事よ。


 2002/4/9

 朝比奈隆追悼盤で大栗裕作曲オペラ「赤い陣羽織」も復刻!!!

 ああ……シアワセ。

 聴きましょう。楽しい音楽ですよ。


 2002/7/20

 正直、まったく知られていない事実なのだが、大栗の作品目録におけるマンドリンの占める割合は、驚くべきものがある。総数にしても吹奏楽曲や管弦楽曲の比ではない。マンドリンオケのためのシンフォニエッタのシリーズや、音楽物語という独唱やナレーション、合唱とマンドリンオケのための作品群にいたっては大栗のライフワークの観すらある。そのことを知らずして大栗裕のファンを語るなかれというくらいで、わたしは目からうろこが落ちまくった次第だ。中には「ピカタカムイとオキクルミ」のようにマンドリンオケのための音楽物語から吹奏楽になったものもある。

 これらが正規に音になっていないのはまことに憂慮すべき事態であり、嘆かわしい話だ。マンドリンで出すのがムリなら心ある方が吹奏楽でも管弦楽でも編曲して世にしらしめてほしいものだ。

 もちろん、著作権やご遺族のご心中を充分に配慮するのは当然であるが……。

 とにかくナクソス作品集のブックレートにおいても、片山センセですら、マンドリンのことは一言で片付けられていることから、大栗のマンドリンにおける業績というのは、そうとうに知られていないといってよい。マンドリン界はわたしは不得手であるが、マンドリンの方々は口惜しくはないのだろうか。

 大栗裕は既に吹奏楽界のカリスマ作曲家であり、ナクソスによりオケ界でも新進気鋭のスター作曲家になりつつある。(なってくれ) 加えて、マンドリン界の大巨匠であるのがまったく知られていないのは、もったいない話だと純粋に思う。


 2002/11/28

 ヨハン・デメイの傑作 交響曲第1番 指輪物語 の管弦楽版を入手。

 その編曲は作曲者かとおもいきやちがう人。ヘンク・デフリーヘル(HENK DE VLIEGER)

 なんとエド・デワールトの指揮によるワーグナーのオーケストラ・ファンタジーを編曲した人。地味に有名人。

 デビッド・ワーブル/ロンドン交響楽団。

 まず焦るのがデカイ音とビビッドな録音。ブラスパワー炸裂しすぎ(笑) 金管うるさいよ〜。

 それはさておき、どうでしょうねえ、楽器の数が多いのだから吹奏楽版よりゴージャスな響きがするのはこりゃあたりまえ。

 人によってはオケ版の方がカッコイイという意見があるやもしれません。私も、豪華度としては断然オケ。

 しかし、この曲は吹奏楽でもオーケストレイションが完璧なので、無理にオケにする必要があったかどうかは不明。その意図もよく分からない。

 原作の異世界・中つ国のイメージとしては、吹奏楽のほうじゃないでしょうか。小説としてのね。オケ版はそうしたら、映画のサントラみたいだ。

 このオケ版。吹奏楽版とどっちがキワモノ曲になっているかは、聴く者の判断に任されている。(私はとうぜんオケがキワモノ。でも聴いていて楽しい)


 2006/7/1

 さて、オーケストラに比べたら本当に少しずつだが、相変わらず吹奏楽を聴いている。この吹奏楽の項も時折微妙に推敲し続け、最新の考えにしている。

 思ったが、吹奏楽の弱点はやはりいわゆる緩徐楽章にあると思う。特に編曲ものがヒドイ。吉松隆が云うには、同属の管をいくら重ねても和音が濁るばかりでどうにもならないのだそうだが、和声学(?)でどのような理論でそうなるのかまではさすがに分からないが、実際聴いているとそうだとしか云えない。汚いという表現より、やはり濁ると云った方がよい。音程が合ってたって、透明ではない=濁っているとしか云いようがない。

 速いテンポだと誤魔化せるものが、アダージョやレントだと、露骨に「ブラスの響き」が露呈される。

 そもそも管楽合奏はモーツァルトにだってあるし、ベートーヴェンの第九にだってあるし、下ればマーラー、シュトラウス、ラヴェル、ショスタコーヴィチ、プロコフィエフと、いくらでもあるが、ほぼすべて薄い室内楽に近いオーケストレーションというのがミソ。よしんば、たまにある企画CDで「大家の書いた吹奏楽」とかの場合、ベルリオーズとかだが、基本的に軍楽隊のためで、編成が特殊なものが多い。

 いわゆる木管・金管が均等に混じった現在のウィンドオーケスラでは、単純にオーケストラのスコアをそのまんまウィンドオケに移したのでは、濁って当然というか、そこらへんをただ単に編曲するのではなく、いかに音色を整えるの再創造があってこそ、それが 「編曲」 ってもんじゃねえのかなあ、などと思ってみたり!!

 ページ冒頭の吹奏楽版「ドンファン」も、そう考えると、あの大管弦楽をそのままウィンドオケに移したのではとてもではないが濁って聴けないので、わざと薄くしているのかもしれない。それはそれで室内管楽合奏版「ドンファン」のようで斬新だが、結果としてオモシロ曲になってしまっているのでは、わざわざドンファンを編曲する意味がない様な気もする。

 編曲モノって、本当に難しい。


 2015/3/14

 久々に追記する。

 もちろん、あくまで個人的な聴感だが、ここのところの日本の吹奏楽オリジナル曲の質の低さは、笑ってしまうほどである。

 全てを聴いているわけではないが、逆に、少し聴いただけでもう似たような感じの曲は聴く気が起きない。

 たまには吹奏楽のCDも未だに買うので、某ほぼ吹奏楽専門通販サイトをちょくちょくチェックするのだが、特に(2015年執筆時点で)30代の作曲家がヒドイ。いや、日本人だけではなく、これは世界的な流行というか、趨勢なのだろうが、日本人の曲(日本の吹奏楽界)は特にそうに感じている。

 つまり、コンクールを意識してか、小曲が多い。いや、小曲しかない。8分〜10分の曲がメインで、とても多楽章制の30分、40分、1時間の曲など出る余地は無い。そういう注文が無いから書かないのだろう。

 また編成も、小編成用、中編成用、大編成用などとある。完全に自身の創作から編成を選ぶのではなく、編成に合わせて作曲している。

 これは、日本の吹奏楽界は聴いてもらって稼ぐのではなく、演奏してもらって稼ぐから、それに合わせるしかない。つまり、聴衆が顧客なのではなく、演奏家が顧客であり、その演奏家はアマチュアがメインで、聴衆の入りに関係なく、自由に演奏しているから、聴衆の要望ではなく、演奏サイドの要望で作曲されている。演奏してカッコイ曲、演奏して楽しい曲が優先され、聴いていてかっこいい曲、聴いていて楽しい曲ではない。

 そして、ここが肝心なのだが、中高生(子供ら)の演奏レベル(聴くレベル)に合わせているためか、演奏難易度というよりむしろ、音楽的な意味で、まず分かりやすい標題音楽ばかりである。

 それも、中途半端なプログラムの情景優先、タイトルまでがライトノベルもどきの、陳腐極まりない情緒音楽のオンパレード。

 そういう曲は、ガチなクラシックのレパートリーにも、ちゃんとあるので、悪いわけではない。

 (ほとんど)それしかないのが、問題なのだ。

 無理に誰も演奏してくれない1時間の交響曲を吹奏楽で書いてちょうだいとは云わない。そんなものはクラシックの世界でも、現代ではそうそう書けるものではない。作曲家だって生活がある。
 
 しかし、その生活の合間に、やっぱり一生に1曲くらい、硬派な曲を書いてほしいなあ、などと思う。


 2015/9/4

 ところで、吹奏楽コンクール課題曲には、コンスタンスに、例えば2015年では西村センセや朴賢守のような作品が出るが、人気が無い時点で、こういうのは課題曲ですら敬遠されるんだなあ、などと遠い目となる。技術的に演奏が至難で敬遠されるのは、また話が違うが、例えば作品集を作るような人気の若手吹奏楽作家で、アルバムに1曲くらいそういうのがあっても良い。深層の祭以後、課題曲には大家や新進気鋭の名曲は多い。

 ※ちなみに西村朗は秘儀Iより、その元となった巫楽のほうが土俗的で好き。






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