林 光(1931−2012 )


 「りんこう」さんではなく、「はやし ひかる」さん。

 岩城宏之のエッセイに山本直純と共に出てくる。2012/1/5逝去。

 少年時代から尾高尚忠の徒弟のような弟子となり、戦前の若い時分よりその才能を存分に発揮していたが、藝大に入ってよりは「学外発表」を期に中退してしまう。作風は種種の分野、そして方向性をもち、オペラから管弦楽から、器用に書いている。しかし、あるときそれが(わりと早い時期に)「作品間のスタイルの不統一」ということで、「問題」とされたようだ。「作品間のスタイルの不統一」などというものが、いったいなんの「問題」があるのかまったく想像もできないが、形式的な価値観を大事にする向きによるものと思われる。

 交響曲は2曲、そして交響曲と銘うたれていないが、作曲者自身が「第3交響曲」と呼んでいる作品がある。それは厳密にはこの項では交響曲として取り上げないのだが、作曲者がそう云っているので、特別に取り上げることとしたい。


交響曲 ト調(1953)

 これは芥川也寸志の交響曲第1番と同じく、作家も述べているように、非常に当時の斬新な交響曲形態である旧ソ連系のものを参考にし、影響され、上手に取り込んでいる。非常にシンプルな形の、新古典的な、まるで12音とかとは無関係な、とても聴きやすいジャパニズム・シンプル シンフォニーとなっている。だいたい、この年代の日本の交響曲は、こういうものが多い。

 作者が藝大を2年で中退して後すぐの、22歳ころの作曲であるというから、その才能と才気には脱帽する。4楽章制で、25分ほど。
 
 1楽章モルト・モデラートのみ主題の変遷がフーガのようになっているため、時間的にも長く、楽想も暗いのだが、なかなか充実した内容を持っている。ちょっとブラームスっぽいが。若気の至りというところだろう。もともと、1楽章が重苦しいのは、帝政ロシアからソ連にかけての、ロシア産交響曲の、特徴ということでそれを踏襲しているスタイルとなっている。

 弦楽のテーマがしっとりと鳴り出し、それがフーガ技法で展開されて行く。それから管楽器が入ってくると、やや明るくなる。が、どこか薄暗い明るさ。ほの暗い弦楽のテーマが再現され、展開して行く。展開部の頂点では、弦楽の悲痛な叫びと、それにからむティンパニや管楽器がいかにもショスタコーヴィチで、興味深い。再現部で、三度目に弦楽のテーマが少し聴かれ、そっと第1楽章を終わる。

 2楽章の短いスケルツォ:アレグロは、いかにも民謡風に新古典的であり、ドヴォルザークのような雰囲気。中間部には作者自作の民謡がモティーフとして使われている。軽やかだが、どこか素朴なスケルツォ主題。常套的な三部形式による展開。中間部の朴訥さ。日本的なのものと西洋的なるものが入り交じった、幻想的な世界。

 3楽章では本当に青森の民謡が使われており、間奏曲となっている。アンダンテ・モルト・エスプレッシーヴォ。冒頭より流れる、もの悲しい十三地方の民謡。それがヴァイオリンからチェロに引き継がれ、歌い継がれる。第2主題は一転して西洋ふうな、爽やかな穏やかさ。最後に、民謡主題とこの第2の主題が、対旋律めいて、重なって演奏される。緩徐楽章というより、確かに間奏曲らしい佇まいが愛らしい。

 終曲はロンドで、疑似古典形式も快活なアレグロ。さすがに、あまりにプロコフイエフめいた造りには、現代では苦笑するかも。作者によると、形式としてのロンドというより、ロンドの明るさが欲しかったとのこと。曲中唯一長調の楽章で、能天気がA主題がひょこひょこと歩き回り、いかにも楽しそう。B主題はやや穏やかに、輪になって踊ろう的な優雅さがある。それからAA'A''となって、経過部的なCをへてB'AA''〜AとBの主題のまじったコーダとなる。(ただし聴いた感じ)


第2交響曲「さまざまな歌」(1983)

 30年ぶりに書かれたこのシンフォニーはいっぷう変わっていて、全楽章の全主題が自作や他の作曲家(シューマンなど)の歌曲、オペラの主題や沖縄童謡の変奏や引用で出来ている。それが副題にもつながっているのだが、楽式としてはやはり疑似古典ふうの、新古典主義ともいえるもの。主題の発展という概念よりかは、やはり全楽章が変奏曲形式となっていて、交響曲というよりどちらかというとやはり組曲と云っていいと思う。

 作者自身も、ここでの交響曲というのは、従来通りの概念ではなく、「組み合わされた複数の<楽章>」のこととしている。

 つなぎめのない、大きな1楽章形式だが内容は4つに別れていて、4楽章ともいえる。ソロのピアノパートが用意されており、協奏曲ふうでもある。20分ほどの曲。

 第1の部分は導入部のような、やや現代的な音形のもの。クラリネットのソロが主題を奏でる。ロルカの詩による、林自作の歌曲の変奏とのこと。クラリネットソロはしばらく続き、やがてピアノとの対話となる。ピアノと対話するのはクラリネットソロから木管全体にひろがってゆき、室内楽ふうなオーケストラに発展するも、あっさりと終わる。終わりの方に、ショスタコーヴィチのピアノ協奏曲の断片があるという。

 第2の部分は沖縄童謡「がらさ」(カラスのこと)の変形。音形を歪めた変奏。ここも、管楽器のソロが際立ち、薄いオーケストラが妙な民謡を訥々と歌って行くのがなんとも不気味。「かごめかごめ」変奏ではないが、和趣のある怪奇的幻想さ。後半はピアノが変奏を受け持ち、ピアノ協奏曲ふうになる。どこかラヴェル的な雰囲気もある。ピアノによる和音の連打とオーケストラの返答を経て、次へ。ここらへんはペトリューシュカも彷彿。

 第3の部分はややレスピーギふうな、オーケストラとピアノのカデンツァによる。シューマンの歌曲「昔の悪い人」を引用した変奏曲。こちらは、いかにもシューマンチックなピアノが面白いというか、うまい。ピアノのカデンツァがしばらく続き、やおら日本的なモードの間奏部分。雅楽っぽいモードは、林の中の「昔の悪い歌」なのだそう。ピアノのカデンツァが戻ってきて、西洋音楽に引き戻される。

 アタッカの第4の部分は悲壮的なアレグロから始まる。ここでは、林自作のオペラより旋律がとられているとのこと。どこかバラバラな感じ、諧謔的なソロがおもいきり(あい変わらず)ショスタコーヴィチを想起させる。ピアノも活躍し、テーマを変奏する。第3の部分にある自分の歌への「カウンターソング」なのだというから、林の中の日本的なるものへの対抗という意味だろうか? 後半はオーケストラとピアノにより、軽快な調子で展開されて行く。が、あまり盛り上がらずに、サッと終結。

 これも1番に続き軽いタイプのシンフォニーとなっている。1番の作曲から30年をへているのにも関わらず。つまり、それが林という作曲家の本質なのだろう。形式感に薄いため、ますます交響曲っぽくないが、林自身は、交響曲第2番としているのも面白い。


八月の正午に太陽は………(1990)

 これは交響曲と銘打たれていないため、本来であれば本項ではとりあげないものであるが、作曲者自身が「私の三つ目の交響曲ともいえます。」と言っているので、特別にとりあげてみたい。
 
 3楽章制であり、30分を超える。第3楽章には中国の詩人、北島(ペイ・タオ)による「回答」という詩からの一節がとられ、ソプラノにより歌われている。ちなみにタイトルは、同詩人の「8月の夢遊病者」よりとられている。 
 
 1・2番交響曲とはまるで印象を異にする作風であり、面白い。乾いた作風は変わらないが、とにかくシリアスだ。いままでのライトな交響曲からは、けっこう想像できないもの。
 
 1楽章は変拍子が特徴的で、アレグロに相当する速い音楽。弦楽により発展性の無い乾いた主題がオスティナートで繰り返され、管楽器を伴奏にしつつ盛り上がり、なんとも不気味なものに仕上がっている。無窮動的な展開で、ティンパニソロの合いの手より、展開部のようになる。管楽器と打楽器の激しい動機が弦楽と相まって、明るいが不気味な調子をとってゆく。一瞬のGPより冒頭が回帰され、そのまま突き進んで動きが遅くなり、アタッカめいたGPで第2楽章へ。

 2楽章は緩徐楽章に相当し、こちらもけっこう無調様式のような、緊迫した曲調になっている。うねるオーケストラから、悲劇的な音調のテーマが鳴らされる。続いて、室内楽ふうに、フルートとヴァイオリンの陰鬱な二重主題。弦楽に引き継がれ、じわりじわりと盛り上がって、その頂点でティンパニと総奏による悲劇体験の追慕となる。ここは、相も変わらずショスタコーヴィチ流。それから弦楽の悲歌におちついて、フルートソロがまたも登場。こういう、オーケストラの中のソロの偏愛的な扱いもショスタコーヴィチ流。最後は、突然の諧謔で終わる。これまた、ショスタ(略)

 3楽章でも悲しい曲調は変わらない。全体でもっとも長く、半分近くを占める。ここでも、暗い調子の長い序奏があり、弦楽が歌う悲歌はいかにもショ(略) どんだけタコ好きなんだというレベル。林は、筋金入りのタコマニアである。そこから、「回答」の日本語訳が歌われる。無調歌唱で、シュプレッヒシュティンメほどではないが、うねうねと続く旋律は不気味。しかし伴奏は、調性感がある。オーケストラによる間奏も充実し、歌唱は後半へ。歌とオーケストラが一体となって、迫力があってよい部分。後半戦は、歌唱の盛り上がりに反してオーケストラはどんどん静まってゆき、最後は弱音のオーケストラが鳴って、死ぬようにして終わる。




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