貴志康一(1909−1937)
 

 いまでもかなりマイナーな存在の貴志は、フルトヴェングラーに指揮を学び、作曲をヒンデミットに学んだという才人で、惜しくも28歳で夭折してしまった。1990年前後にビクターの企画録音で復活のきざしが見られたのだが、その後、復活は果たされていない。
 
 ジュネーヴ国際音楽院に学び、バイオリン、作曲、指揮に通じ、ベルリンフィルを指揮して自作を初演。帰国後は新交響楽団(N響の前)で第九を指揮してセンセーショナルデビュー。長生きしていたら、間ちがいなく戦前戦後を代表する音楽家として、歴史に名を刻んだであろう傑物。盲腸炎により急逝したが、まったくその死が惜しまれていないという、とんでもない話。
 
 作品は数々のバイオリン小曲、歌曲に、大管弦楽のための日本組曲、交響組曲「日本スケッチ」、バイオリン協奏曲、そして交響曲「仏陀」。いちおう、それらのレコードは1994年ぐらいに一気にビクターから発売され、だいたいは入手したのだが、それっきりこれっきりという状況で、たぶんいまはナクソスの新録が出るのを待つしかないはずだ。(→2005年初頭、実に10年ぶりにビクターより新譜が発売されました! バレー音楽「天の岩戸」です。これが機会、みなさん聴きましょう。)

 作風は大栗裕の大先輩というか、ハチャトゥリアンの先取りというか。
 
 山田の次の世代として、日本的情緒と西洋音楽技法の合体という課題へ、真剣にとりくんだ最初期の1人。いつまでもドイツの真似事でははじまらん。その音楽は単旋律があくまで美しく響き、和音は全音階が多い。打楽器は日本の響きを模し、日本民俗楽派の重要な先駆者。

 日本組曲とか、伊福部や清瀬などの世代がまったく後年独自に切り開いた世界をものすごい高度な技法で先取りしている。バイオリン協奏曲は日本版ハチャトゥリアン。しかも貴志が先。
 
 さておき、ここでは交響曲「仏陀」を紹介する。日本初演がなんとも1984年という秘曲です。


交響曲「仏陀」(?)

 作曲年代は明らかではないようだが、自作初演が1934年。なんとベルリンフィル。

 メモによるとさいしょは多楽章制で、各章に副題までついたマーラーばりの作品だったようだが、完成したのは、副題なしで、全4楽章の純交響曲。ただタイトルだけが仏陀として残った。
 
 1楽章 モルト・ソステヌート〜アレグロ(印度:父)
 2楽章 アンダンテ(ガンジス川のほとり:母)
 3楽章 ヴィバーチェ(釈尊誕生:人類の歓喜)
 4楽章 アダージョ(摩耶夫人の死)
 
 カッコ内はメモに残されていたという標題を参考まで。
 
 図らずも4楽章がアダージョで終わっているのにお気づきだろうか。当初はこのあとに第7楽章まで続き、さいごは「ワーグナーのタンホイザー序曲の如く力強く」終わる予定だったそうだが、予期せずとも、マーラーやチャイコフスキーと同じく、独特で進歩的な形に習っている。
 
 1楽章冒頭の序奏から、クラリネットが物憂げで東洋風の旋律を吹き、アレグロに入ってからも、終始一貫して、バイオリンや金管のソロで単旋律が優雅に流れる。それはつまり、日本的東洋的な精神というか技法と西洋音楽との出会いの証であり、同世代の橋本にも通じる。メインの主題が1種類しかなく、それが単独で対位法的に展開するという、すでに1元ソナタ形式も試みられている。  
  
 2楽章の、伊福部が書きそうな映画音楽みたいな、なんともいえぬ歌謡旋律であるが、土臭くはなく、むしろ洗練されて幻想的。このメロディーを聴くだけで金を出す価値あり。(いつの日か店頭で見かけたら買ってみてください。)

 3楽章はスケルツォ楽章に相当するであろうが、なんとも怪獣でも出てきそうな雰囲気にはじまり、次にデュカスの魔法使いの弟子の主題によく似た旋律がファゴットで踊る。リズムも同じで楽しい。
 
 ラストのアダージョは、暗いものではない。むしろ葬送のための荘厳で美しい音楽で、最期は安らかな眠りのうちに閉じられる。
 
 40分に至る大曲。

 復興と支持が待たれる作家の1人。

 というか邦人のほとんどがそれ。

 日本人は本当に、こんな素敵な作品を無視して、なにを聴いて有り難がっていやがるんでございましょう。好き嫌いはあとの問題として、自国の音楽として大切に扱ってほしいのですよ。というか聴けるだけの録音をしないメーカーにまず責任ありか……。





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