ハチャトゥーリアン(1903−1978)


 ショスタコーヴィチプロコーフィエフと共にソ連3大巨匠の1人とも謳われた、20世紀を代表する民族楽派の作曲家、ハチャトゥリアン。表記や読みの関係で、ハチャトゥリヤン、ハチャトゥリャーン、ハチャトゥーリアンとかとも云われる。さらにいうならラテン語表記が Kha で始まっている通り、カとハの中間くらいだそうである。見るからにズンドコドットな、カオの濃いいアルメニア人だが、祖父の代に移住し、グルジア(現ジョージア)の出身である。

 民族と一口に言っても、アルメニアに限らず、グルジアやアゼルバイジャンの民謡も取り入れているという。あすこらへんも民族の坩堝で、みんな入り混じって暮らしてたのを、モスクワ政府が国境線を強引に引いたらしい。

 日本での人気も高い。特にバレー音楽「ガイーヌ」(ガヤネー)は吹奏楽でも高名で、かく言う我輩も吹奏楽でハチャを知った1人。当時、90年代初頭のコンクール会場では、ガイーヌとリードと大栗が特に流行って、とにかく鳴り響いていた。あまりに鳴っていたため、うまい団体で演奏され尽くし、どうしてもそれらと比べられてしまい、いまおいそれと手が出ないものになっているのがやや残念。

 実際に演奏もしたことがあるが、それは市民オーケストラでガイーヌや仮面舞踏会の抜粋であった。メロディーもそうなのだが、私の担当していた打楽器としては、やはりリズムが大事で、単純ながら意外とそれを維持し、かつ「ノリ」を保つのが難しい。舞曲だから、メトロノームみたいに正確に叩きつつも、+アルファでみなを引っ張ってゆくのが厄介だった。速くも無く、遅くも無く、かつ、みなを「ノリ」で引っ張るのである。その「ノリ」は技術的にこうすれ、というものではなく、まさに「ノリ」なのだ。昨今ふうに言うと、グルーヴとでもいうべきか。これがまた、非常にムズカシイ。

 従ってN響なんかでたまにやるのを聴くと、意外と安全運転だったりガチガチの演奏が逆にもたついて、つまんなかったりする。

 それはそうと、ハチャには民族楽派的な交響曲が3曲もある。民族楽派はたいていクラシック界では第3世界の人間で、自分の国の民謡とかをクラシック音楽へ昇華し自己の芸術的表現とするが、そこへ形式の権化・交響曲を持ってくる人は、やはりそうとう自信があるのだろうが、そこは、しかし、ヘタをうつと単にイモくさい田舎交響曲ができるだけで、難しい作業なのには変わりない。民謡あるいは民謡風の、ローカルでトラディショナルな題材を、いかに現代創作に変換するかの仕事が、求められるのである。


第1交響曲(1934)

 これは1934年、ハチャトゥリアンのモスクワ音楽院における卒業作品としての習作で、録音は少ない。

 ハチャトゥリアンは製本屋の息子で、民謡などを自在に歌ったりはできたが、いわゆる専門的な音楽教育を受けたのは遅かった。ふつう、日本では音大を目指すなら小さいときから、あるいは中学、遅くても高校から急ピッチでピアノくらいはやるものなのだろうが、ハチャトゥリアンはその民謡素質を買われてモスクワ大学よりすぐに転校という形で18歳から正式にピアノやチェロを習ったという。しかし、長じてからの基礎教育は時間がかかり、7年ほど学んだ後、グネーシン音楽学校よりモスクワ音楽院へ移ってミャスコフスキーに作曲を習い、さらに研鑽を磨いている。そんなわけで、31歳時の作品である。翌年、かのピアノ協奏曲を書き、名声を博している。

 3楽章制で40分近いという大規模なもので、特に1楽章が充実し20分に迫る。

 アンダンテ・マエストーソ・コンパッショーネではじまる1楽章は、すわ伊福部か? と思えるほどの民族的な和音より、堂々と民族的旋律が主題として登場するが、やや陰鬱でもある。それがだんだん明るく舞曲風に盛り上がってゆく。アレグロに入ってからは、その民謡的主題が展開はするのだが、とりとめも無く新しい主題もどんどんまじってきて、かなり進行は自由である。しかし、自由といえば聞こえはいいが、メチャクチャと云われれば、確かにメチャクチャだろう。

 中間部でピアノの幻想的なパッセージと共に現れるゆったりとした主題も魅力的。後のガイーヌにも通じるリズミックな部分も経て、最後はテンポを落とし、アンダンテへ戻って、静かに消えてゆく。

 ソナタ形式というような形式観は無く、もっと自由で、大規模なラプソディー的なもの。交響曲とは冠されているが、シンフォニック・ラプソディーとかのほうが、しっくり来る造りかもしれない。じっさいハチャトゥリアンは晩年にコンチェルト・ラプソディーという、もっと自由な形式の協奏風作品を書いている。構成感を楽しむより、純粋に素敵な旋律を音楽として聴くものだろう。

 2楽章はアダージョであるが、時間的には1楽章の半分ほどしかない。ハチャトゥリアン的アダージョというと、アダージョの中にも民族楽の強烈なリズムがひそみ、ソロは妖艶なダンスを踊るものだが、その特徴がよくこの初期の音楽にも現れている。またハチャトゥリアンは対位法が得意で、見事にここにも現れている。中間部では、後のガイーヌの主題がおもいきり登場し、リズミックで印象的である。なので、あんまりアダージョという感じがしない。最後にまた第1部へ戻り、幕を閉じる。構成的にも独立した幻想曲か、バレエ音楽組曲のような楽章。

 3楽章のアレグロは10分ほどであり、最も短い。緊張感があり、映画音楽の戦闘シーンを彷彿とさせる作り。コロコロと展開が変わり、主題も入れ代わり立ち代わりで、1楽章よりヒドイもといスゴイ。そのわりに、テンポも一定せず、構成感も薄い。つまり音楽としては悪くないが、全曲を締めくくるには明らかに力量不足な楽章だ。ラストも唐突で、いきなり終結する感がある。

 これは本当に交響曲というより、交響的狂詩曲3部作といったほうがピンと来る。なまじ交響曲として聴いてしまうと、なかなか分かりづらいのではないか。

 ハチャトゥリアンの純粋音楽中ではかなり聴きやすいほうだが、全体的には、とりとめなく長いということ、尻すぼみでラストの満足感をえられないなどを含む構成感に欠けるということで、どうしても佳作としか云いようはない。しかし、これからハチャトゥリアンのオーケストラ音楽の全てがはじまるのだということを認識させてくれるもの。


第2交響曲(1943)

 「鐘」というサブタイトルは、後に音楽評論家のフーボフが、作者諒承の元、名付けたもの。

 1943年、ソ連が対ドイツ戦すなわち「大祖国防衛戦争」の真っ最中に、ショスタコーヴィチらと共にイヴァーノヴォの「創造の家」で、作曲された。従ってこれは純粋な「戦争交響曲」であるといえる。しかし、ショスタコーヴィチの偉大なる8番と共に、単にナチスをやっつけるための反ファシスト交響曲ではない。戦争そのものに対する悲哀や憤り、怒りを強く訴えている。オネゲルの3番にも匹敵する。

 50分にもなる大曲であり、4楽章制で、45年度スターリン賞を受賞し、アメリカでは若きバーンスタインが45年に米初演を担った。ソ連では43年のハイキンの初演の後に改訂版が44年にガウクによって演奏されている。

 この曲は冒頭のまさに「鐘の音のような」モチーフが高名で、それがトルストイの以下の詩を一節を想起させると指摘されていたという。

 平和な夢を夢見る鐘を
  空飛ぶ砲弾が打ち砕く
 轟音と破片は周囲に飛び散る
 鐘は偉大な真鍮の叫びを
  遠くの人々にも届けるのだ
 人々は武器を手に集まる
  義憤を口にして

 (チェクナヴォリャン盤の解説より)

 それで、後世に「鐘」という副題がついたという。従ってこれは鐘交響曲というのは正しくないどころか、鐘のモチーフはあくまで鐘のモチーフであって、鐘の音ではない。鐘という題にこだわって聴くのは、純粋な鑑賞態度ではなく、作品を誤ったイメージで聴くこととなるだろう。あからさまな鐘のモチーフは最初と最後にチラッと出てくるだけだし、循環形式でもなく、統一主題のひとつに過ぎない。むしろ、ハチャらしい民族的旋律のほうが随所に出てくるわけで、鐘にこだわる必要はない。

 とはいいつつ、冒頭の警鐘という意味での鐘のモチーフは確かに印象的だ。

 重々しい和音と共に鐘のモチーフが豪快に鳴り響き、第1動機を示す。すぐさまハチャトゥリアン得意の弦の憂鬱な第2動機へ移る。その第2動機を受け取って、ヴィオラが鬱々とした第1主題を奏ではじめる。しばしその主題が展開される。それが一時、マーチ調になると、ティンパニの終結をもって、ファゴットの民謡調の哀しげな旋律が流れるが、第2主題である。展開部ではややそのふたつの主題により哀調的に進むが時折、激しい部分が噴火する。憤りと、怒りであろう。最後に鐘の動機が遠鳴りのように再現され、静かに終わる。

 続いてスケルツォに相当するアレグロだが、初演の際はアンダンテであったという。マーラーの6番のように、この音楽には第2・3楽章の逆転の問題があったようだが、2楽章がアレグロで落ち着いた。

 舞曲風の3部形式であるが、けして楽しげや勇ましいものではない。おそるべき緊張感を内在し、厳しく進行してゆく。楽想も目まぐるしく変わり、一定ではない。速度は狂ったように上がってゆき、民謡的主題の背後で鳴り続けるトランペットの警鐘が印象的。一転して、モノローグ的な部分となり、冒頭が再現されて終わる。

 3楽章はアンダンテであるが、葬送行進曲でもある。重々しいリズム動機が執拗に繰り返され、ベートーヴェンの英雄交響曲を思わせる。ここは今交響曲の白眉とも云える箇所で、なんとえ云えぬ、延々と続く中央アジアの荒れ地の中で1人佇むような悲哀感極まる主題(アゼルバイジャンの民謡からとられているという)が変奏されてゆくのだが、あくまで戦争犠牲者への哀歌として響く。変奏だが、一種のボレロ形式のようでもあって、民謡主題が最初は細々と切れ切れにオーボエで示されてより、弦楽やいろいろな楽器に受け渡されてどんどん盛り上がって、頂点で打楽器を含めて大爆発する。その迫力は凄い。まさに爆撃のよう。テンポ指定はアンダンテだが、アンダンテとアダージョの中間ぐらいがなんとも雰囲気出る。

 その後、眠るように消えゆく。

 4楽章はファンファーレよりスタートする。どうやら戦争に勝ったらしいが、傷を負った和音が単純な勝利ではない事を示す。すぐにアレグロへ。ファンファーレ主題が金管群により展開される。中間部では弦楽のピチカートが緊張感あふれ、1楽章の要素も入ってくる。この緊張感が、ファンファーレで暗示された単純な勝利宣言ではないことを意味するだろう。その結果はすぐに反映される。激しい爆撃が、怒濤の音響が、戦勝の花火であるとは考えにくい。

 ふと、何かを思い出すような、振り返るような部分に入り、ハープの分散和音がそれを支えるとコーダ。鐘の動機が再現され、全曲を閉じる。

 けっこう重く、ハチャトゥリアンの悪いクセでちょっと構成的に長いうえにクドくて飽きやすい嫌いはある音楽だが、訴えるものは多い。


第3交響曲「シンフォニックポエム」(1947)

 こちらの「交響詩曲」は、これが本来の題名となる。

 本来は交響曲ではなく、1945年より2年をかけて作曲し、1947年の、ロシア10月革命30周年記念の祝典曲だったのだが、内容があまりにイッちゃっていたため、こんなものは正気の沙汰ではないとか、編成が特殊すぎて地方では演奏できないとか、まあいろいろ言われて、社会主義リアリズムに反する形式主義的退廃作品ということでお蔵入りした。

 その後、スターリンや文化相ジダーノフがいなくなった後の「雪解け」で、第3交響曲として復活したという経緯がある。

 元は機会音楽であったが、さすがにシンフォニーを冠するだけあり、内容は破天荒ながら構成的。大きく4つくらいに分けて考える事ができるが、ソナタ形式っぽくもある。擬似ソナタ形式か。短いもので20分から長いもので30分と演奏時間に幅があるが、オルガンのソロのカットや、難技巧によりテンポを遅くとったりと、要因はいろいろある。

 冒頭、別動隊トランペット群による壮大なファンファーレで幕を開け、それがおさまると超絶技巧なオルガンのソロ。そして、ハチャトゥリアン特有のモノローグで第2主題が出る。それから木管や弦楽などで、そのファンファーレ主題とモノローグ主題を展開、または再現する。その部分はやや長い。そして変拍子の部分を経て、次第に盛り上がり、豪快な終結部とコーダで幕を閉じる。

 こう書くと、いかに凄まじいハチャ流の祝典交響楽かと期待してしまうが、それはトンデモナイ間ちがいで、ハッキリ云って滅茶苦茶だ。祝典!? どこが!? 交響楽!? 鋼狂牙苦だろ!?

 まず編成が凄い。ほぼ3管編成のオケに、ハープ、オルガンと別働隊トランペットはなんと15本!

 それがR.シュトラウスばりに豊穣華麗な音楽を繰り広げるのなら、これは「一般的な意味での」名曲中の名曲になったろう。しかし、ハチャトゥリアンにも反骨の魂が炸裂するときがあったのだと思われる。

 ドラのトレモロと弦楽が緊張感のある持続音でファンファーレを導き、堂々とロシア革命30周年記念ファンファーレが鳴り響くが、それがパッと聴いた雰囲気は華やかだが、ヒドイ不協和音が隠れていて、聴いていて気分が滅入る。しかも、容赦なくグサグサと突き刺さる。これがファンファーレ? 冗談だろう? ロシア革命30周年危険警報のサイレンだろう? これを聴かされた共産政府要人の(゜A゜;)顔が目に浮かぶわww

 (しかも下記するが初演はムラヴィーンスキィ) 

 それがおさまるとオルガンのソロであるが、ブルックナーのような荘厳なもの、あるいはサン=サーンスのような典雅なものと思ったら大間違い。なんかよく分からないが、デロレロレロ、デロレロレロ、ベロベロベロベロベロアババババーッと、なんの悪魔くんか、白色彗星か、エンヤ婆か。あまりにパニックじみた超絶技巧なので、実演では短くカットされる場合もあるという。

 しかも御丁寧に、それへ冒頭のファンファーレが殴り込みだァw

 暴走した武装機関車か前を見ていないスターリン戦車がなんとか止まったと思ったら、第2主題ともいえる、雄大かつメランコリックなモノローグが登場する。(エスプレッシーヴォ・コン・マニア)

 ここは、本来ならばハチャトゥリアンの面目躍如とも云える実に渋い箇所なのだが、何度も云うがこれは祝典音楽であったりして……これはなんだ? 革命の犠牲者でも弔っているのか? スパルタカスで、奴隷が引き回されるシーンか? 復調的な複雑な響きと、民族的な単純な旋律との見事な融合。

 それがしばし続いた後、、やおら木管群がオルガンを再現する。ここの舌をかみそうなクラリネットはちょっと聴き物だ。

 さらに、突如としてティパニの主導で、変拍子により妙にガクガクした主題が登場し、盛り上がったり、無窮動的トラペットに受け継がれたりする。ここは舞曲にも思える部分だが、優雅なものではなく、戦闘部族が勝利のズンドコ踊りなのでご用心。

 そして、怒涛の狂気的オルガンソロ再び! オゲーッ! 当曲のオルガンは、何を表現しているのか、まさに傍若無人。革命精神の権化のような存在であり、凶悪な思想が全てを呑みこみ、噛み砕いて、未消化のまま撒き散らすようなもの。さらに、カオティックかつルナティックに鳴りまくる。

 物語はいよいよ佳境へ! 冒頭のファンファーレがさらに緊張感を持って登場、その緊張が頂点に達した瞬間!!

 全員で全力疾走オオォ!!

 ジャカスカで喚き散らしながら、みんな走る! 走る! どこへ? 

 偉大なるスターリン同志の元へ!!

 ウラー! ウラー!!

 ホラもっとお前ら叫べ! 笑え!! 走れ!! 喜べ!!


 この機銃で喝を入れるぞロクデナシのクズども!!


 ギニャー! ボゲー!!

 …………。

 コレは深い、あまりに深い「革命」音楽である……。

 そして、こちらのほうが2番などよりはるかに「暴力」「理不尽」「戦争」を体現している。その意味で芸術的価値は高い。これはハチャ流のモダニズムに相当し、ショスタコやプロコがもうそれぞれの第2交響曲などでとっくに行ったモダンな響きを、ハチャトゥリアンはようやく行っているということである。

 さて、ハチャトゥリアンの交響曲の中では、おそらく代表曲は世間一般には2番だろうかと思われる。しかし、意外に録音はそれほど多くはない。そんな中、3番はなぜか知らないが、こんなマイナー曲かつ特殊編成なのに、2024年改稿現在で、8種類も録音(CD)があったりする。これからも出るかもしれない。

 面白い曲だし、時間も3曲中ではいちばん短いので、せっかくだから、聴き比べをしてみた。

 以下8種類の録音を年代順に記す。(CD情報等は私のハチャトゥリアンのページをご参照下さい) 

ムラヴィンスキー/ソビエト連邦国立交響楽団 1947ライヴ
ストコフスキー/シカゴ交響楽団 1968録音
ストコフスキー/シカゴ交響楽団 1968ライヴ
コンドラーシン/モスクワフィルハーモニー交響楽団 1969録音
チェクナヴォリャン/アルメニアフィルハーモニー管弦楽団 1992録音
グルシチェンコ/BBCフィルハーモニー管弦楽団 1993ライヴ
井上喜惟/ジャパングスタフマーラーオーケストラ 2003ライヴ
ベールマン/ロベルト・シューマン・フィルハーモニー 2023録音

 このような音楽に8種類も録音があることが、ある意味、奇跡だろう。なかには単に「鳴り物」として扱う場合もあるだろうし、珍奇な交響曲として(売れるだろうから)取り上げる場合もあるだろうし、マジメな狂気の音楽として取り上げる人もいるだろう。とにかく、これはハチャトゥリアンの中でも異様な存在感を示しており、人を引き付ける魔力のような魅力を備えているのは間ちがいない。冒頭のオルガンをカットしている場合もある。

 ムラヴィンスキーは当曲の初演者であり、その厳しい味付けは、ハチャトゥリアンののびのびとした魅力をある意味壊しつつも、逆にその新古典的な棒が音楽の奥に潜む厳しい精神を曝け出し、聴く者へ感銘を与えざるを得ない。1947.12.13にレニングラードにて、主兵レニングラードフィルをもって初演し、その後モスクワへ移り同1947.12.25にスヴェトラーノフの鍛えたソビエト連邦国立交響楽団を振っている。そのモスクワ初演の際のライヴ録音らしい。さすがに録音が悪すぎて、なんとも評価のしようが無いが、その幽かな次元の向こうから、当時の空気が伝わってくる。ような気がする。スヴェちゃんが鍛え上げた、凶悪的なまでのソビエト国立響のあまりに鋭い刃物のような金管が特に恐ろしい。

 同曲のアメリカ初演がストコフスキー。すかさず録音をするあたり、さすがに抜け目が無い。しかもオケはシカゴ響。さすがに鳴ってはいるが、これも録音が古く、ステレオではあるがぼやけてるというか、いわゆる音がこもっており、純粋にボケている感じ。打楽器も遠くて凄味がない。オルガンはリアルである。味付けもストコフスキーの割には、イマイチ曲の特徴を捉えていない。というか、いかにもキワモノとして扱いすぎているような気がする。人によっては評価が高いのだが。前半や終結部より、中間部のほうがよい。

 また同コンビのライヴ盤がCD-R盤である。こちらも録音が悪いが、ノリと燃え方がセッション録音とは段違いにすばらしい。金管は荒れ狂い、オルガンは一心不乱。弦楽は歌いきり、打楽器も鋭い。ただ節回しはロシア流ではなく、ドライで妙にエンタメ的なアメリカ節だが、それが逆に不気味に鳴る。最後は燃え燃えで、集中力も抜群の出来。これは評価が高くても納得のすばらしい演奏。冒頭のフレージングがストコフスキー独特で面白い鳴り方をしている。低音の強調も凄い。

 価値が高いのが、ソ連時代バリバリながら、当曲復活後のソ連でのはじめての録音であるコンドラーシン盤。これがまた、なんだか知らないが狂気的な集中度と盛り上がりで、ちょっと尋常ではない音の世界を作っている。やりすぎでグチャグチャになっている面もなきにしもあらずで、凄いのだが最高かと云われると音響重視の人にはつらいかもしれない。ただし私はこの演奏が8種類中、もっとも基地外もとい真摯だと信じている。冒頭のファンファーレでここまで不協和音を強調したものはなく、華やかさの影に隠れた作曲者の批判の部分を暴いている。オルガンのソロ、それへ突き刺さるトランペットの悲鳴の狂気度は恐ろしいまでだ。最強、最狂、最恐、最兇の盤。長く廃盤だったが、刻した。

 コンドラーシンからしばらく録音が無く、CD時代の初の録音がおそらくこのチェクナヴォリャン盤。学生時代に新譜で国内盤を買って狂喜して聴いた記憶がある。ちょっと期待はずれだったが。チェクナヴォリャンは、これをおそらく純粋に交響曲としてアプローチしてみたのだろうが、残念ながら交響曲は交響曲でも「鳴り物」交響曲なわけで……あんまり鳴ってない……いや、かなり鳴ってるのだが、ラッパとかハズシまくりだし、しかもノリが足りないから、イマイチ面白くない。そもそもチェクナヴォリャンは、バレー組曲とか映画音楽組曲とかノリノリで最高なのに、どうもこの交響曲全集は、セカセカしてたり、マジメ過ぎたりしている。交響曲をも、ノリノリでやってこそチェクナなのになア。

 グルシチェンコはかなり鳴っている! ややエコーがかっているが、音響派にとってはこれはいちばん聴ける録音だろう。そのかわり、アッケラカンのパーだ。この曲のもつ狂気、闇の部分をとりあえず置いといて、みたいな演奏で、いや、そのあまりに「ぶわーっと行きますか!」的な鳴り方が逆に辛辣と云えば辛辣だが。私は好きだが、意外と好き嫌いが分かれるかも。満面の笑みで指揮し終わるグルシチェンコが目に浮かぶようだ。しかしこの曲は、実は「ただの鳴り物」では無かったりする。

 さてなんとも評価の難しいのが、なんと日本初演という(ホントかいな)井上盤。しかもオケはアマオケときた。意義を強調すると、ショスタコの4番を日本初演した芥川/新響に匹敵するが、いかんせんヘタすぎ。オケも、あえて云うが指揮も。音楽を統率しきれていない。技術的に難があったためだろうがテンポが全体的に遅くのっぺりしているが、それが悪いほうに出て一本調子になり、迫力も無ければ、面白みも無い。演奏は一杯一杯で、それでもまあ良くやった! という思いと、無理してやんなくても良かったんじゃないかという感がぬぐいきれない思いが交錯する。この絶望的なまでのトホホ感は滅多に味わえない。

 久々(20年ぶり??)の発売。ベールマン指揮ロベルト・シューマン・フィルハーモニーという、指揮者もオケもまったく知らないのだが、これがなかなか良い。非常に丁寧な演奏で、西洋的・純音楽的なアプローチではあるのだが、出すところは出し、最後も大暴れ。難点は、やはりロシアっぽい節回しに欠けるところぐらいか。とはいえ、手探り感もなく、真面目かつ音楽を理解している、スコアを読みこんだ感があって好感。併録のガイーヌ第3組曲もなかなか良い。演奏もうまい。オルガンやクラリネットのパッセージもしっかりしているし、打楽器や金管も迫力がある。






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