第4交響曲(1899−1900)
「リヒャルト・シュトラウスは、ベルリンにおけるマーラーの第四交響曲の初演の後で、そのような『アダージョ』を自分は書くことができないだろう、と述べている。」 (クレンペラー 指揮者への本懐 シュテファン・シュトンポア著 野口剛夫訳/春秋社)
第3交響曲より3年のブランクを経て書かれた第4番。一般的なグループ分けでは、2〜4番でいわゆる「角笛交響曲」ということになっている。それは、歌曲集「少年の魔法の角笛」と関連が深いからだ。が、コアなマーラー聴きによれば、そうそう単純でも無いようだ。もっとも、角笛交響曲というカテゴリーは、マーラーに馴染みのない人への便宜的な紹介方法なので、そう、めくじらを立てることも無い。
これまで把握してきたように、カンタータ「嘆きの歌」で、当時としては斬新な複調とか空間的効果とかを使いまくり(原典版)当時最先端の音楽様式であるワーグナー的なドラマツルギーと色彩感で塗り固め、若きマーラー氏の面目躍如たる曲があえなくベートーヴェン賞へ「落選」してしまってより、マーラーは反省して(←!)1番交響曲をわざわざ「単純に」作曲したつもりだった。バカな聴衆も、くだらない演奏家も、ふざけた批評家も、これなら分かりやすいから、ウケて印税が入り、作曲家としてついに専念できる、と。
世の中そうは甘くなかったわけだが(笑)
その後、2番そして3番を経て、独自の交響曲世界を肥大化させてきたマーラーは、帝国歌劇場の指揮の仕事が忙しくなったこと、作曲家小屋の環境が悪かった事もあって、3番の後、しばし筆を休めるが、その間、彼はいろいろと考えるところがあったのだろう、書法を大きく変えて、第4番を世に放つこととなった。
そもそもマーラーの交響曲は1曲ごとに進化しているため、2番が1番と3番の折衷的な特徴を備えているということは、4番とて3番と5番の世界の折衷的な様相を呈することとなる。4番は5番以降のおそるべきポリフォニー性(対位法的な書き方)と、3番までのメルヘン的な歌曲的旋律メインのもの(モノフォニー的なもの)とが、実にマーラー的な包括性でいっしょになった音楽、といえるかもしれない。
また、4番は、4楽章が先にできあがっていた。
つまり、この4楽章はそもそも3番の7楽章の予定だったが、それを止めて、4番へ持ってきた。ここで、2重3重の意味合いを考えなくてはならない。なぜ、この4楽章「天上の生活」は3番の終楽章にならなかったのか? 次に、おそらく4楽章ありきで作曲していたろうから、なぜ、この4楽章に合わせたはずの1〜3楽章が、あまり「合ってない」つまり4楽章と整合性があまりとれていない音楽になったのか? そして、なぜボツったはずの「天上の生活」を復活させ、しかも4つめの交響曲とする必要があったのか? などだ。
1つめから考察してみよう。
3番の6楽章を、あのように「愛」でベタベタにしてしまったマーラー。さすがに、恥ずかしかったのか、照れ隠しか、それともそれがマーラーの本来の意図だったのか、皮肉たっぷりの7楽章「天上の生活」を作曲した。が、だ。が、しかし、マーラー先生は考えた。あの愛のテーマみたいな曲が終楽章のほうが、バカな聴衆にはウケるんじゃないのか!?
それは冗談で、本当は最後に作曲した1楽章の規模が自分の想像を超えて大きくなりすぎ、単に演奏時間の肥大化を懸念してカットしたということなのだが、聴衆の期待を裏切らなかったのは確かで、3番の特に終楽章が当時より評判が良かったのは既に記した。もっとも3番の初演は4番作曲後の1902年で、しかも4番のほうが1901年で先なのだが、1番をお客にウケるように作曲した(ウケなかったが)実績を鑑みて、その可能性は高い。マーラーはここで、妥協したのだ。お客に!
マーラーは3年間の作曲ブランク期間に、いろいろと思いを巡らせたのだろう。この期間、マーラーは何をしていたかというと、ハンブルクから、渇望していたヴィーンの宮廷歌劇場へやってきたのが、3番作曲後の1897年で、同年すぐ音楽監督となり、友人のヴォルフがさっそくコネを頼って自作のオペラを演奏してくれるよう頼んだが、にべもなく断られ、ショックで発狂しちゃったのも同年。翌1898年にはヴィーンフィルハーモニカーの指揮者に専任。それも落ち着いたころより、ボツにした「天上の生活」を引っ張りだしてきて、セッセと「それを終楽章とする」交響曲を書き出す。その間、メモとして、マーラーは4番を、3番と同規模の交響曲として構想していたらしいことが残っている。もちろん「天上の生活」を終楽章とする。
そこで2つめ。
すでに3番を作曲して3年ほどが経過していたマーラーが、その間いろいろと他人の音楽を指揮し、さらには書法の研究もしたであろうから、以前の作品より大きく進化しているのは、想像に難くない。そういう意味合いでは、それまでに例がないわけでも無く、1番では例えば、交響詩のころの2楽章で、中身はもっとむかしに作曲した劇付随音楽「ブルーミネ」と第1番を比べるとニュアンスがちがうし、2番では、1楽章そのものが、同じように前に作曲した交響詩へ後付けで残りの楽章を付け足した。結果、1楽章だけ浮いている。4番はそれを逆さまにやったわけだ。
と、いうことは、4番は4楽章だけ浮いていることになる。これが、4番をして 「終楽章が物足りない」 とか 「交響曲としての態を成していない」 とか批判される所以なのだろう。つまり4楽章が 「物足りない」 のは作曲した結果としての結果論ではなく、マーラーの意図通りなのだろうから、マーラーはわざわざアンバランスな交響曲を作曲したことになり、またも無理解の嵐にさらされ、1人で憤激・憤慨することとなる。マーラーは、3番の終楽章のあとに来る筈だった最高に意地悪で皮肉に満ちた4楽章へ向けて、その前段である小さな皮肉をセコセコと積み上げていったのだった。
そして3つめ。
ではなぜ4番は当初からアンバランスな交響曲として構成されたのか? 4番は、3番のあまりにあからさまなハッピーエンドへの自己批判と自己矛盾として、作られたように思える。だって、当初、そのようにする予定だったのだから。皮肉で締める筈だった3番。その終楽章のはずだった7楽章は、ついにはそれ1曲で3番の世界を締めくくるものにまで肥大化したということか。マーラーにとって、あの3番の6楽章は、どれほどお客にウケようが、あれが答えだろうが、実はその先があった。その次なる答えは、次の交響曲にあるから、みんな、ちゃんと聴いてね、というわけ。
誰も聴かなかったようだが。
よって、アンバランスな部分は弱点ではなく、全体としてのそういう当初よりの意図である、ということになるか。私は何度も聴いているうちに、特にクレンペラーの3楽章にやられてしまってより、急激にこの4番の毒に気づいて、好きになった経緯がある。もちろん、毒を毒として扱っている演奏でなくば、なんとも歯がゆくてダメなのだが。最近は識者の中にもそのように論調している人がいて、たいへん心強い。
さて、作曲の順番がいかようであろうと、当たり前ながら音楽は1楽章から演奏される。
ホールに鳴り響く鈴の音。これは、凄い演出だと思う。
もう、この鈴で、当時のお客は、自分たちがバカにされたと思ったようで、モーツァルト父のおもちゃの交響曲のようなものを、いまさらこのユダヤ人は何を書いているのだ、と。
それこそ、のっけからマーラーの用意した「皮肉」そして「毒」なのだろうが、交響曲に皮肉が存在するのを許容するような先進的なお客ばかりならば、マーラーという「作曲家」は1番から成功している筈で、1番の3楽章を否定する聴き手が、その3楽章の精神で全身がおおわれた4番を認可する筈が無かった。
この鈴を角笛精神に通じるメルヘンとかと感じていては、マーラーの思うつぼであり、それどころか、マーラーのことだから、曲解していると烈火のごとく怒るかもしれぬ。
「おまえはどんな耳をしてわたしの作品を聴いているのだ!!」
そんなことは、お客の自由なのにねえ。
ここにきてマーラーは表層的なタイトルとしての標題を否定して、音楽の理解を妨げる元だと(いくら説明しても誤解されるだけの標題と誤解するお客や批評家にウンザリし)断じている。だから、標題ではないが、固定観念として、4番を角笛的な世界としてカテゴリーに括るのは、4番の真の姿を曲げている。それゆえ、コアなマーラー聴きは、必ずしも角笛交響曲として4番を聴くことに違和感を感じるのだろう。
鈴とフルートの特徴的な導入により、うわずりながらヴァイオリンが第1主題を奏でるが、これが実はウィンナワルツだというのを何かで読んだことがある。ラトルの記述だったかもしれない。そうだとすれば、4拍子にワルツを導入している時点で、マーラーの斬新性が満開、ここにも毒があることになる。1番と2番までを聴いていた聴衆は、ここで、もっと過激な主題を期待していたが、あまりに平凡(古典的)なので、面食らったという。つまり周到に用意され、隠された毒は誰にも気づかれずに聴衆を犯してゆく。毒へ気づいた人は、それはそれで、毒にやられてフリークになってしまう。
4番支持者では、当時としては、指揮者のメンゲルベルクや作曲家のディーペンブロックらがいた。他にも早くからこの曲を取り上げているのは、マーラーのよき理解者でアシスタント経験もあるヴァルターとクレンペラー。ことごとく性格の異なるこの両者が共に取り上げたマーラーの交響曲は2番、4番、大地、9番と、意外と少ない。4番に限れば、ヴァルターよりクレンペラーのほうが、4番の毒を毒として際立たせてくれていて有り難い。その意味でヴァルターは表面上、美しく鳴らしてあり、本当に嫌らしい。どちらもどちらの良さがある。
メンゲルベルクに到っては、作曲者をオランダへ呼び、一晩でまずメンゲルベルクの指揮で4番を演奏し、休憩の後、こんどはマーラー自身の指揮で4番をもう一回演奏するという、当時としては(今でも)本当に革新的な、夢のような演奏会を催している。これにはさしものマーラーも感激し、かつ、称賛したようだ。聴衆の感想は、いかなるものだったのだろう?
さて1楽章は、聴いたかぎりではよく分からないのだが、マジメなソナタ形式を踏襲しており、またこれが外観として4番を古典的だと云わしめる所以となっている。後の6番のような、ある意味「正統的な」ソナタ形式ならまだしも、ここのソナタ形式はイマイチ分かりづらい。というのは、こういうことだ。呈示部と展開部の冒頭、いわゆるソナタ形式の決まり事の初めにいちいち鈴がついているから、初めて聴いたとき、リピートなのかどうなのかも分かりづらいし、しかも、極めつきは呈示部の途中に「再現部ふう」の主要主題展開があることで、マーラーは本当に親切心で分かりやすいように鈴をつけているのか、それとも、
「さあ、みなさんここからですよ、ここからがみなさんお待ちかねの展開部ですよ、分かりやすく最初と同じ鈴をつけてあげましたから、ぜひ聴いてください。え、さっきの鈴? あれは、実はひっかけでしたー。ソナタ形式で、さぞやご満足でしょう? ちなみに本当の再現部には、鈴はありませーん」
と厭味を云っているのか、それも分かりづらい。たぶん、後者なのだろうと云われているが、とにかく、なんのためのソナタ形式なのか、なんのための鈴なのか、かなり判断を迷わす手法を使っている。2度めの鈴はリピートではなく呈示部の中の再現部ふうの展開。たしかに、微妙にちがうけど(笑)
次に本当の展開部。そして再現部といいつつも、鈴はもう登場しない。ちょっとだけ出てきて聴衆をアレッと想わせたときはすでにコーダというイヤらしさ。
しかも御丁寧に、展開部には、次の5番の冒頭にあるトランペットの動機が、すでに現れている。全体で見ると、再現部がすでに展開部のなかに差し込まれているという格子状的、三次元的な構造が、音楽を複雑化しているが、表面上は聴きやすいという矛盾。
やっぱり、その全てが、マーラーの狙いだとしか云いようがない。親切どころか、不親切極まりないと想うのだが……。ちなみにマーラーは、この楽章は第7主題まで聴きとれるだろう、としている。
それこそが4番に施された毒に他ならない。ユーモアというか、ブラックを通り越してしまっている。マーラーは1901年の初演の後、翌年にデュッセルドルフで再演してくれる 「すばらしい指揮者」 ブーツにあてた手紙で 「この手のブラックなユーモアを理解する人は最上の文化人の中にも少ない」 という意味のことを云ったようで、4番を「継子」とすら云っている。
そうなるのが分かっててやっているのが、ショスタコーヴィチにも通じる反骨精神であるし、マーラーの己の芸術性に対する信念であるし、強く感銘を受ける部分だ。マーラーはブーツによって 「教育された」 聴衆が、正しく4番を 「理解すること」 を祈っている。はたして教育の成果はいかなるものだったろうか? 戦後のマーラーブームで、4番が1番と同じような扱いをされたところを見ると、没後100年も過ぎた昨今になって初めて、マーラーフリークが研究や分析を進め、4番の毒に聴衆も気づいてきているといったところか。
1番交響曲の1楽章や4楽章でソナタ形式へあれほどこだわったマーラーがこんどはそれを単なる表現手段として使いこなしている事実。マーラーの手腕がかなり上がった証拠といえるかもしれない。そして、そのような交響曲を書くに到らせた理由というのが、私はヴィーンの聴衆や批評家に対する当てつけだとしか思えないのだが。
厭味なソナタ形式が終わったら、こんどは、けっこう長い2楽章。長いといっても、時間的には、1楽章や3楽章の半分ほどだが。しかしこの2楽章、いったいなんなのか? スケルツォ? それともレントラー?
通常交響曲の形式へ当てはめると、紛れもなくスケルツォに該当するだろう。しかし舞踊音楽としては、うらぶれた、不気味さがつきまとう。また、スケルツォ楽章にしては、3拍子を活かしたリズムではないし、複雑だ。
スケルツォというより、マーラー得意のレントラーであり、なにより独奏が際立つ。つまり、死神ハインの調子の高いヴァイオリン。そして、通の指揮者がよくやるのが、ハインよりもむしろヴァイオリンへ付き添っているホルンの独奏を強調する手法。これは初めて聴いたとき、凄いと思った。
マーラーの「死の舞踏」ことトーテンタンツでは、このハインのヴァイオリンとホルンのきわめて対位法的な(ポリフォニックな)書き方が、一気に4番を5番の世界へ近づけている。そのため、それを強調しているのかもしれない。4番は、けして角笛の世界から抜け出していないのではない。角笛交響曲というのは簡単だが、角笛的な旋律重視の音楽は、むしろ4楽章まで待たなくてはならない。1楽章で人を食った音楽を聴かされた後、この楽章では、マーラーの気持ちの悪い世界をイヤでも堪能させてもらえる。不確かな手応えで、実に幻想的に、夢幻的に、マーラーの魔術が、忍び寄っている。
しかし終楽章において天国の様子を描写し、そこから派生している筈の2楽章が、なんでまた悪魔踊りなのか?
不思議なことだが、天国(すなわち死)と対比しての、死の象徴である死神と不気味な効果をもってきたのだろうか。
さて、死神といっしょにダンスを踊った夢を見たあとは、ひと足先に天上世界へといざなわれる。この3楽章こそ、4番交響曲最大の難関。難題。
以前はそれこそ、この長い、約50分の交響曲のうち、だいたい20分を占める緩徐楽章もまた、なんでこんなに長いのか理解できず、正直苦痛だった。実演ではマジメに寝た(笑)
某高名評論家UNO氏も、4番は良い音楽だが、3楽章が冗長なのが難点だ、などとのたまっていた。ある意味、素朴なご意見でしごくごもっともである。マーラーに云わせればそれこそ、最高の人(?)でもなかなか理解してもらえないという事例の筆頭なのかもしれない。
この3楽章は、一聴して、3番の6楽章を思い起こさせる。すばらしいマーラーの書くアダージョである。しかし、リヒャルト・シュトラウスが 「このようなアダージョは私には書けない」 と云ったというのがまことであるならば、シュトラウスの耳には、マーラーの毒がしっかりと届いていたものと思われる。シュトラウスの手腕をもってすれば、この程度のアダージョなど、いくらでも書けるだろうし、じっさい書いてる。
ではマーラーが云う 「聖ウルスラが微笑んでいる」 3楽章にもしっかりと施されている4番の毒とはどのようなものだろう?
この楽章は、長大な2重変奏曲兼ソナタ形式であり、かなり複雑な音楽であるが、耳に優しい。それがまず第1の毒だろう。聴き手は表面上の美しさに流れがちだが、意外と難しいので、理解に戸惑うことになる。ここにも1楽章に通じる不可思議さという毒がある。
それから、変奏曲というわりには、物凄く大がかりなもので、主題そのものが展開しながら変化してゆく様はまさにソナタを内在する変容というに相応しい。それによる聴衆への幻惑効果たるや、2楽章での不気味な死神踊りでぼんやりした聴衆のアタマへたちまち染み込むのだ。この効果こそ第2の毒といえるか。
そして、最大の毒は、3楽章だけではなく、4楽章に関連してくることだが、この3楽章の感動のあとに来る4楽章が、あまりにも不釣り合いで、フィナーレとしての役割を果たしてないことによる、逆説的な事実。そう、4番は3楽章が実はフィナーレではないのか!? という、仰天の発想。この思惑こそ、もっとも大きな毒かもしれない。
3楽章が終わり、古典的な常識でいうフィナーレである筈の4楽章で、あれえ? あれえ? と首を傾げる聴衆を前に、マーラー先生はステージの裏で高笑いか。
さらに、だ。と、いうことは、である。このような疑似フィナーレのアダージョの次に件の4楽章を持ってきたということは、4番自体が、3番でマーラーが本当にやりたかったことの再現そして実現だと云えはしまいか。4番の3楽章が、3番の6楽章に匹敵するものならば、そうなるではないか? マーラーは、観客へ迎合したと思われる3番の最終楽章を真に締め括るものとして7楽章であったはずの天上の生活を出してきて、4番を作曲した。しかも、その中身で、さらに、理想の3番の具現化を試みたのではないか、と推測できて、とても楽しい。
いやあー、我ながら、マーラーって深いなあ(笑)
ゆえに、私は3楽章こそ4番の最大の聴きどころであると同時に核心であると想うようになった。みなさま、寝ていては損ですぞ。
ちなみに、この長い3楽章を、音楽の展開通りに把握してゆくと、なかか分かりやすいので、ご紹介したい。……って、そんな大層なことではなく、ポケットスコアに書いてある通りなのですが。
第1主題は冒頭からで、これは誰にでも分かる。最後のハープのテーマが、第4変奏に直結するので、聴き逃してはいけない。
練習番号の2からが第2主題。(副主題)
これまで弦楽主体だったのが一転してオーボエによりもの悲しく歌われる。第1主題は明るめで、副主題は暗めというソナタ形式の王道がここにある。
このふたつの呈示のみで、3楽章の3分の1を占めている。
再現部を兼ねた第1変奏は、練習番号の4からで、はじめはゆっくりで変奏が進むに連れて早くなるよう指示がある。第1主題を扱っている。ここもけっこう長い。優雅な舞曲ふう。
そして練習番号の7から、テンポと雰囲気が代わり、副主題の変奏であると分かる。第2変奏の部分で、ここからは展開が早くなる。
練習番号の8から第3変奏で、ここは速い舞曲ふうとなり、テンポがめぐるましく変わる。トライアングルが鳴り渡り、シンバルの一打で静まり、コーダへと続いてゆく。
そしてコーダである第4変奏では最強音により天国の扉が開く様を体験できる。ポケットスコア見開きでいっぱいの部分で、すばらしい演出だ。ハープによる第1主題の最後の部分が主要テーマとして、登場する。
この感動こそ、3楽章が実は真のフィナーレであるという証拠かもしれない。
また、マーラーはこの3楽章こそが、4番でもっとも良くできた音楽と思っていたらしい。それも、4楽章ではなく3楽章こそが4番でもっとも重要な部分であるという示唆かもしれない。それとも、4楽章から造り上げた3つの楽章の中で、という意味かもしれない。
さ、その、噂の4楽章を聴こう。
3楽章が疑似フィナーレとして天上世界を夢見たと思いきや、そこへじっさいに現れた天国の様子は、どのようなものか。また、この天国の風景は、実は3番の6楽章で神を肯定した後の、天国の扉が開いた後の風景であるというのも、重要だと思う。
ここの歌曲の部分は、すでに1892年に作曲されている。それへオーケストレーションを施し、加筆して4番の最終楽章としたのがこの音楽だ。消え入るように閉まったアダージョが、風薫るとでもいうべきか、軽やかなクラリネットにより、天国の様子が描かれる。
しかし、ここに描かれている天国は、云わせてもらうと、正直とんでもない。ここは初演の当時からグロテスクだと批判されたというが、本当にその通り。1番の3楽章に通じるもの(ブラックユーモア)がある。
まず、音楽は4つの部分に別れている。全てに今交響曲最後の毒が散りばめられていて、実に楽しい。歌詞も、その通り4節に別れている。国内盤のCDには、廉価盤でなければブックレートに全訳が乗っているだろうから、聴きながら読むのも良いだろう。
第1の部分は、クラリネットの導きにより、天国の生活が描写される。ここはまだまだ、ふつう。前段。しかしトライアングルが良く鳴る音楽だ。聖ペテロは元漁師さんだそうである。また、初代ローマ皇帝で初期キリスト教を弾圧したのもペテロで、二重の意味がある。
ペテロは3番の5楽章で、「私はイエスという人など知らない」 と3回も偽証したことを悔いる。
圧巻なのは次。1楽章以来、またも鈴がご登場。ここが通俗すぎると柴田南雄はご立腹であったが、柴田先生ともあろう御方がここにきてマーラーの毒にやられてしまった!
ヨハネが小羊を連れ出して、ヘロデが屠殺する。
こりゃ、みなさま、サロメでっせ!
ヨハネ(ヨカナーン)が連れ出す小羊とは、イエスのことであるらしい。それを殺すのは、かのヘロデ王!!
関係ないが、我々の時代の聴き手は、シュトラウスの7つの踊りが脳内エコーしてくるだろう。
天国では酒は飲み放題。天使がパンを好きなだけ焼いてくれる。酒池肉林。
ここの鈴は、楽しい天国・愉快な天国を茶化しているに他ならないのではないか。無くてはならぬ小道具だといえる。ということは、4楽章の鈴が1楽章の再現ではなく、1楽章の鈴が、実はこっちへの導入だった!?
そもそも、スコアを観てもお分かりのとおり、1楽章最初の鈴は、音量指定が、フルートが
p 鈴に到っては pp だ。バイオリンの第1主題が f なのとはずいぶんと対照的。
それなのに、4楽章では f であるばかりか、「1楽章の類似の箇所よりも速いテンポで」 という指定までご丁寧に与えられている。
唯一の救いは、伴奏で現れる金管(2・4番ホルン)の不協和音。最初は木管(オーボエ)でささやかに示されていたが、ここにきて、ついに表面へ出るのだが、オエッ、ゲフッ、と、その世界をギャグとして否定している。
マジメにとってはいかんということでしょうか。ですから、私もマジメにはとりません!
次も鈴が鳴るが、さらにテンポが速い。異様な速さだ。どんどん天国の宴は乱交パーティーと化す! 日本神話のアメノウズメ神の踊りも、手に鈴をもっていた! 鈴の音は、古来よりシャーマニックな神秘の力を備え、キリスト教的というよりもむしろ異教徒的な原始の響きをもたらしてくれる。
良質の野菜がふんだんにとれ、野生の肉は勝手に道を 「オレを食ってくれ!」 と走ってくる。その猟奇的な信仰心は、後のヒトラーに心酔するドイツ民衆をも想起させると云ったら云いすぎか。
元漁師のペテロが、網とエサをもってニコニコ顔で寄ってくる魚をとらえる。
かつて客人の接待に不服を云ったという聖マルタが、こんどは自分で料理をするにちがいない。(この聖書に対する皮肉!!)
最後の節はグロテスクな和音に導かれて、またまた鈴が鳴り渡る。
しかし雰囲気がちがう。
ついに1万1千人の、踊り自慢の処女がご登場!
喜び組か!?
それともスワジランドの処女のおっぱい祭か!?
フン族に虐殺されたケルンの聖女ウルスラが血まみれでその裸踊りをけたたましく笑っている。ついでにサロメも踊ってしまえ!!(これは冗談) しかし、こんな歌詞と相反して、音楽はどんどん安らかに……。
そして眠るように終わってしまう。死んじゃったのか!? もしくは、クスリでもやっていたかのような気分だ。
こんな楽章が、フィナーレである筈が無い。そのこと自体が、第4の最終の毒だ。絶対そう思う。こんな音楽がどうして最終楽章なのか? と疑問を持つ人もおられるようだが、私は、特に疑問に感じない。マーラーの毒を分かってしまえば、なんの不思議も無い。フィナーレは、フィナーレではないのだ!! 簡単なことじゃん! これこそがマーラーのやりたかったことなのだろう! 先生、さすがです。参りました。
しかも、凄いというか生真面目というか、マーラーは、歌手へ向かって 「子どもらしい明るい表情で、まったくパロディなしで」 などという吹き出してしまうような指示を最初に与えている。いや、まあ、ね。たしかにね。
ここはパロディーではなく、ユーモアなのですよ! ということだそうです。が……。
あれだけ肯定して賛美した感動的な神の世界を、ユーモアで締めたかったという、もう本当に笑ってしまう。
素直じゃねえなあ。
そんなヒネクレタ考えのアダージョなんか、さすがのシュトラウスも 「そんなの書けねーよwww」 ということでしょう(笑)
このように、第4交響曲は毒だらけの天国どころか悪魔の毒毒交響曲であり、第5への扉であると同時に、第3の影なのかもしれない。
そういう不思議でディープな存在は、私は大好きです。
実演で聴いた回数 2回
マーラーのページ
交響曲のページ
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