第5交響曲(1901−1902) −3楽章を軸として両翼に配置される1・2、4・5楽章−

 いかに「部」としてとらえることができるか―――

 
 結論から云うと私がもっとも好きなのは第2楽章であります。

 もっとも苦手なのは……3楽章です。長すぎる。R.シュトラウスが云う様に、長いのは演奏のせいか?

 マーラーが20世紀になって初めて着手した、世紀末の匂い芬々の20世紀音楽たる5番というのは、マーラーの中でもどうしても特別な曲で、演奏回数もそうだろうが、ディスクの数、それに、なんといっても初心者向けあるいは人気曲として堂々と喧伝されているのでも、その特殊性が分かるというもの。この大曲にして難曲が、初心者向け。ああ、そう。マーラーの初心者? それともクラシックの初心者?? 人気曲! そいつはたいしたものだ。どっちにしても、マーラーは難しい、という概念の流布に拍車をかける結果につながっているだけかもしれないような気がするのだが。

 全体や、各楽章の所見は後記するとして、やはり外せないのが4楽章である。某映画との関連と効果は他でもたくさん考察されているので、それはここでは最小限に抑え、純粋に音楽的な聴感的存在性を考えてみると、面白いかもしれないと思った。クレンペラーのように下品として退けるもよし、ヴァルターのように得意とするもよし。それでなくとも、この楽章の存在意義は大きい。5番が人気なのではなく、4楽章が人気なのは、もはや疑いようの無いところだろう。

 かつて、クラシックとしてはもっこり売れたカラヤンのアダージョばっかり集めたCDに、アダージェットのはずのコレが入っていたのを覚えている方もおられようが、そもそもアダージェット(アダージョよりやや速く)ということは、聴いてみると存外速い。速いのだが、アンダンテほど速くはないことも重要だろう。

 また、アダージョ寸前まで、もっと遅いほうが音楽として合ってると考え、テンポを変えてしまうのも表現の一端だろうが、なにせ内容が内容だけに、とたんにお涙頂戴を超えてサロンミュージックと化す恐ろしさ、そして矛盾がこの楽章には確かにあるだろう。もしくはドロドロ愛憎劇のごときコールタール演奏か。

 さてそうなるとアダージェットとは、本当に緩徐楽章の役割を果たしているのかどうかという疑問も生じる。答は7番にある。

 また、5番は標題がない。いや、本来は眼に見えない根源的な標題性(性格)はもちろん存在するのだろうが、タイトルとしての表層的な標題好きな日本人はそれぞれそれっぽい題を与えたり、与えられたりして喜んでいるのだが、5番にはない。4番にすら「大いなるなんとか」というものがあるらしいのに、である。
 
 しかしもはや、5番の標題は「アダージェット」ではないかとすら思えてしまうほど、やはりこの楽章は大衆煽動的に重要な地位をしめていると思うのだが。

 外見的な構成的には、マーラーの得意とする5楽章シンメトリーであるが、内容はたいへんにいびつな5番。各楽章は関連があるようでないようで、とりとめがあるようでないようで。規模的にも非常にアンバランス。その理想をようやく体現したのは7番だが、5番は6番と共に7番への布石だと思って差し支えないと思う。

 6番の項とも関連するが、5番はマーラーの真に理想とする(であろう)楽章形式の5楽章制を、本当に理想の姿で真剣に追い求めた最初だと思う。1番は改定せざるを得なくなり、2番は全体に規模が大きすぎ、特に5楽章がハリキリすぎてバランスを欠いた。3番、4番、と種々の実験を経て、完璧なプロポーションである5番を構想した。はずだった。結果としてはそれは7番まで待たなくてはならない。つまり、5番は理想のプロポーション的には失敗した。

 つまり3楽章の肥大化。マーラー自身も分かっていたのだろう、5楽章制にもかかわらず、とってつけたようにして3部制にした。ここに私は初めて聴いたときからいびつさを感じ、さらには1・2楽章で内容として密接に結びついている1部と、4・5楽章がそんなに関係ない3部にも不統一を感じている。2楽章と5楽章が単に疑似コラールで統一されているって、そういう問題なのか。
 
 その中で、独立した3楽章=2部も、この巨大で錯綜したスケルツォはマーラー全体の中でも突出して妙だと思う。これは、出来が悪いという意味ではない。

 つまり5番は、全体としては、非常に聴きにくい構造なのではないか。そしてその反省としての6番と、反省した成果の7番という構図はどうだろう。

 5番は当初はあまり理解されなかったようだが、当時の聴衆は現代の作為的な我々の耳より、はるかに自分に正直だった事だろう。マーラー自身も、死ぬ寸前まで細かい管弦楽法の改訂をし、声部的に聴き易く苦心していたらしい。いや、そもそも、最初から難産だったようで、オーケストレーションを何度も改訂しているとのことである。

 その奇妙な外観と、それの意味するところ、さらにそれぞれの楽章に求められた価値を洗い出してみるとちがう面白みが出るのではないかと思った。5番の不統一感に惑わされた分かりづらさは、6番の明確なストーリー性につながって行くのではないか。そして、歌唱性はおろか、表面的なストーリー性の助けすら無く、完璧な構成と構造で説得力を会得したのが、7番なのではないだろうか。

 あるいは、ストーリー性というべきかは、統一性、か。5番の不統一感を経ての、6番のあまりにあからさまな、例の悲劇のテーマと4楽章制というあまりに分かりやすい構造による統一感があるのかもしれない。そのへんを比較してみると、5番と6番のつながりが見えてきて、面白いかもしれない。


 5番は1楽章の冒頭から、面白い。ここは、私は本当にすごくて面白いと思う。

 実はここだけでもう、5番の存在価値はあるのだが、それはさておき、ベートーヴェン的な交響曲像を純粋に模したと思われる全体の楽章配置はしかし、闘争である2楽章の前に不安というか葬送の1楽章を置いたことにより、すでに一気にバランスを崩している。戦う前から死んじゃっているなんて(笑)

 この、実は意味するところは2楽章の序奏と他の解説にもある、あからさまに長すぎる序奏的性格の第1楽章は、本当に独立した楽章とするほどの規模が必要だったのだろうか。

 奇抜な冒頭はマーラーの得意だが、運命のパロディーなのか、果てはメンデルスゾーンのパロディなのかは知らないが、やはり効果としてはすばらしい。メンデルスゾーンだとすると、向こうは結婚でこっちは葬式。なんというふざけた皮肉。交響曲に葬送行進曲は英雄の先例だが、冒頭に持ってくるのがアイデアか。もっとも、メンデルスゾーンのピアノ曲「無言歌集」の中に、メンデルスゾーン自身の手による結婚行進曲の葬送行進曲バージョンがあるとのことなので、聴き比べるのも一興だろう。

 4番に満ちあふれている音楽毒(パロディー、あるいはマーラー流の悪いユーモア)を、歌詞という直接的な表現の助け無しにまさに音楽のみで表現するという初の試みである5番は、しかしというか、やはりまだそれを完璧に表現するには難しかったようだ。その意味でも、音楽による音楽の為の音楽パロディー、音楽ユーモアの集大成、7番を待たなくてはならない。6番もそうだが、5番を聴けば聴くほど、いかに7番が完成されているかを思い知る。

 ポケットスコアの解説によると1楽章はロンド形式らしい。いや、ロンドというより、ロンドとソナタの両方の形式を含んだ自由なもの、というていどのものか。

 既にパロディー雰囲気満点の葬送ファンファーレと、しっとりとした嘆きのテーマ(?)が2回ずつ現れたのち、「突然、速く、情熱的な荒々しさで」 というほどの意味の指示がある箇所から、1楽章の聴きどころ。

 ここからが自由な形式ともいえるし、変奏曲の特徴もあるような気もする。第2主題からとられたと思われるテーマが次第に盛り上がって、いよいよ、ついに、「嘆き」と指示された頂点を迎える。ここで小林研一郎は 「どのように指揮して良いか分からなくなるので、もう、ぼくはただ嘆きの表情をするんです」 という意味のことをインタビューで答えていたが、その時のコバケンの顔といったら、嘆きというよりも、汗だくのクシャクシャで打ち震えて何がなんだか分からないものだった(笑)

 なおマーラーは大痔主で、出血多量で死にかけているばかりか、屈辱の手術も経験している。したがって練習番号18の「嘆き」その4小節目からすぐ「控えめに」と指示のある部分では、「ああ、マーラーは自分の痔持ちを嘆いている」 などと思っても口に出してはいけません。

 静かに、楽章は幕を閉じる。


 皮肉の帰結たる5楽章のパロディーコラールこそ5番の最大の聴きどころなのには間ちがいないのだが、私は5番の白眉は2楽章だと思う。内容がまず濃いいまでに濃い! この楽章にこめられている音楽的構造は、3楽章を超えている。ポケットスコアをお持ちの方はチラリと見ていただきたいのだが、4楽章なんか5ページしかない! その量であの美しさというのもまた別の意味で凄い音楽なのだが……。3楽章はスケルツォなので激しく複雑な音楽の繰り返しがあり、音符の数や総譜のページ数だけでいえば、テンポが倍で書かれているとしても、2楽章が最も濃いのである。

 ここで突き詰められているソナタ形式と対位法とパロディーは、5番の白眉というほかは無い。こここそが、5番の真の目的なのだろう。フィナーレとしての5楽章は応用にすぎないように思える。または、ここが呈示で、5楽章が展開か。

 2番の冒頭を思わせる鋭いテーマが聴くものを襲う。ご丁寧に「なるべく激しく」などとテーマを弾くヴァイオリンに指示がある。1番の4楽章とも雰囲気が似通っていなくもないような気もするが、関連性は不勉強ながら分からない。ファンファーレ的なコラール部分とて、同じく1番の4楽章を想起させる。(そして、1番は終結したが5番はしないというその逆発想。)

 第2主題のモノローグ的な部分も、良い。そしていよいよ展開部に相当する部分に入ると、小節をふっとばす勢いで怒濤に音楽が突き進むのだが、すさまじいテンポ変化の嵐で、フルトヴェングラー大先生ですら練習で疲れ果て、振ると面食らって指揮棒を落としたとかなんだとか。ブラブラしすぎて手でもつったんでしょうか(笑)

 それほどの細かい音符の重なりが、速いテンポの中で、入れ代わり立ち代わり、旋律が重なり合って、対位法的にも申し分無く、本当に見事だと思う。ここの管弦楽法はまさにマーラーの渾身の作のひとつで、複雑を究めている。5楽章もそうなのだが、こちらのほうがテンポの変化や展開が複雑な分、難しいかもしれない。そういう、技法的に、これまでの1〜4番では見られなかった複雑な 「バッハ的な」(マーラー) 作曲法が始まったのが5番で、結果として究極の姿が、7番だと思う。

 そして5楽章に再登場するコラール主題の、呈示があるのだが、引っ張って引っ張ってキターー!!と思いきや、あっと云う間にデクレッシェンド。ここを素直に聴く人は、「なんでだよう!」 などと不満のひとつも云いたくなるが、マーラーは自分の盛り上がりは必ず完結すること無くしぼんで行くと自嘲まじりに述懐しているので、性格上の問題ではあるが、確信でもある。ここは、そう、輝かしい終結部のパロディーとなる。従ってコラールを古くさいと批評したアルマ女史は、実は自分がまだ認識が甘いことをダンナに偉そうに暴露していることとなるそうです。「ブルックナーだってやってるじゃないか」 といったマーラーは、以前は怒って云ったイメージだったが、そうなると、やれやれって感じで、苦笑しながら云ったのかもしれない。
 
 あとはもう、マーラーはやりたい事はやったと云わんばかりに、興味が無くなったように、ボツンボツンと音楽が切れて、しまいには、ボン、とティンパニの一打で、素っ気なく終わる。ここは、ヴェーベルンらを先取りする音色旋律だそうです。


 さて、3楽章そして第2部が来る。ここは問題が多いと思う。しかしマーラーがここから作曲を始めたらしいことが証言として残っているらしい。また純粋に技術的には、おそらく5番の中で、最高の出来だと思う。

 4番は終楽章から遡っていったが、5番は、真ん中の山から両脇に降りて行ったと云えるだろうか。まず、1・2楽章から。そしてアルマと出会い、4・5楽章。

 あるいは、3楽章を軸として、それを中心に音楽が回転しているか。

 ここはマーラー最大規模のスケルツォ楽章で、トリオを2種類持ち、ソナタ形式をも内在し、あまつさえヴィンナーヴァルツですらあるという、おそらくもっとも複雑に進行するマーラー音楽のひとつだろう。

 正直、聴いていて訳がわからなくなる。構成的には、スケルツォ−第1トリオ(呈示部)−スケルツォ−第2トリオ(展開部)−スケルツォ−再現トリオ(再現部)−コーダ という、しごくまっとうな物のはずなのに。ポケットスコアでも眺めながら聴くと、まだ分かりやすい。

 この原因を探ってみて、自分なりの理解の助けにしようと思った。

 ソナタ形式がどのように内在しているのかは不勉強で詳しくは分からないのだが、大体において上記の通りらしい。微妙に変化しながら同じ音形が何度も何度も登場する為の幻惑効果だと思う。つまりそれは、7番において正式に交響曲の特性として我々の前にあらわになる手法の実験だとも云える。

 冒頭のホルンのシグナルは力強くも、単純で、実に効果的なテーマであるのだが、それが絶妙に形を変えて組み合わされることによるパズル的面白さは、7番にも通じる面白さだが、このヴォリュームではなかなか分かりづらくもあると思う。

 しかもそれが、楽器を変えて、常に対位法的に重なり合っている。分かりやすい対位法は、上が白音符でテンポが伸びていたら下は細かくリズミックにと、対抗する旋律なのだが、このように似たような旋律群で、上は上昇形、下は下降形、あるいは逆などとやられると、複雑に重なり合い、わけが分からなくなる。さて、マーラーは初演の為のリハーサルで既に、オーケストラの 「マーラーさん、こんなの演奏できませーん!」 にさらされたらしく、怒り心頭で新妻にグチをぶちまけている。

 そこで注目したいのは 「スケルツォは呪われている!」 はまだ良いとして、「指揮者たちは50年にわたってテンポを速くとりすぎ、台無しにしてしまうだろう!」 という発言で、示唆に富んでいる。

 マーラーは、本来のスケルツォのスピードを、このスケルツォでは望んでいない。

 ベートーヴェンの偉大すぎる英雄において、スケルツォは登場したのだが、メヌエットでは成し得ない緊張感とスピード感とそれによる迫力をベートーヴェンは求めたのだと思っているが、マーラーの複雑化し、肥大化し、アイロニーに満ち満ちてしまったスケルツォでは、それよりやや遅めのテンポでなくば、全容が把握できなくなってしまっている。

 しかし「速すぎず」が指示であって、「速くなく」ではない。

 途中でワルツやレントラー風の主題もチラチラと顔を出すことだし、ワルターやメータあたりのスピード違反は論外だが、あんまり重々しいのも、ただでさえヴォリューム過多だが、具合が悪くなってくるだろう。なんと難しい音楽だろうか。

 どうせなら潔くシェルヘンのようにカットするか!?

 複雑を究めてはいるが、7番のように複雑怪奇にはなっていない。かといって、形式的にまっとうなソナタ形式でも無い。とはいえ、まっとうなスケルツォでも無い。なんとなくぎこちない、重々しい居心地の悪さと、中途半端なこだわり。再現部がやたらと長いのも、やや分かりづらい。

 そこが、3楽章のとっつきにくさの最大の原因だろうか。7番ほど対位法的に完成されてない。ユーモアも甘い。6番ほど形式的に順当ではない。4番ほど歌謡的でも無い。

 では、どうすれば聴き易くなるのか?

 4番の3楽章ではないが、やはり、表面上の進行に惑わされないで、構造を理解するしかないのだろうか。

 と、いろいろ考えてはいたのがが、ノリントンのピリオド奏法による演奏で、少し、理解しかけている。つまり、ノンヴィブラートで最もスッキリと際立ってスマートな音響になったのはもちろん4楽章なのだが、3楽章も例外ではない。複雑に絡み合い、交錯し合う音響は、現代奏法ではゴチャゴチャしすぎるのではないか。スマートに聴こえて始めて、意外とまっすぐで素直な音楽だと分かった。その奏法において(つまり当時の音において)は、5番の3楽章は得体の知れない巨大な謎でもなんでもなく、スケルツォとワルツをソナタ形式で料理してロンドで味付けした、巨大ではあるが骨太の存在感のある頼りがいのある音楽だった。

 マーラーは、3楽章を建物の心柱のように、音楽全体の中心に据え、その両脇に1・2楽章と4・5楽章を 「置いた」 のだった。

 また、3楽章を軸として、その周囲を巡る様に、1・2、3・4楽所を配置した。
 
 3楽章は5番の中心で、頂点だった。

 3楽章から、5番はスタートしているとしたら、1・2楽章は階段の登り口で、4・5楽章は降り口なのではないか。そう考えると、5番の統一感(と、いうより構成感)は、立体構造として見えて来るような気がする。
 
 加えて、そこに感情の流れが存在する。

 1部 焦り、焦燥感、絶望、渇望 ↑
 2部 混沌の世界、焦燥と安心の並列 →
 3部 安らぎと希望の顕現 ↓

 1・2楽章でわれわれはマーラーの持っていた負の感情を聴く。そこから巨大なスケルツォで、負と正の入り混じった不可思議な迷路を歩く。そこから出ると、そこには希望としての安心と、前向きな答えが4・5楽章として待っているのだ。

 やはり5番は、楽章ではなく部として考えなくては、把握できない。 


 3番、4番と徐々にそのモノフォニックや幻想ロマン的な性格をポリフォニックで端正な古典的なものへと進化させていったが、5番はその記念すべき集大成の第1段階、あるいは大いなる発展への序章だろうが、その中で、一種異様に前代までの内省幻想的性格を色濃く残しているのが4楽章なのではないか。つまり結果としてここだけ個人的な告白と云えるかもしれないが、これまでの諸作からの脱皮の挑戦である5番の中での浮遊感、5番全体の違和感、それらの元凶が、4楽章にはあると云わざるを得ない。4楽章だけ、精神的に遅れており、4番までの世界を引きずっている。

 だからといって、悪い音楽かというと、わりとそうでもないのだからマーラーも罪だろう。

 ハープと絃楽合奏のみという編成も、意味深なのだが。

 アダージェットという速度指示も、なかなか意味深げであり、映画のお陰で既に名前だけが一人歩きして、5番の副題のようになってしまっているとすら思える。単純極まりない3部形式で、やや中間部が長い。書法としてはよく考えられた面白い重なり合いがあり、対位法も前楽章らとはうってかわって情緒的に効果的で、特にハープがそれを彩って面白い。テンポ変化の指示も頻繁で、なかなか動きがある音楽だと思う。

 しかし、こんなじわじわと精神を浸食されるような愛の告白など、私なら絶対御免被る(笑) ←上記したノリントンのピリオド奏法によると、すばらしくスッキリとした素直でスマートな音楽なので驚きますのでご一聴を。それが当時の奏法だというのだから、マーラーはそういう音楽を考えていたのでしょう。それなら、ラヴレターも理解できます。それほどちがいます。
 
 さて、この4楽章が5番全体のバランスを崩しているのではないかという考察は、大事だと思う。アダージェットばかりが有名になってしまったが、それはそれでこの音楽が良いものにはちがいないから、別に悪い気はしないのだが、5番そのものの価値を歪めているとしたら、話は別だろう。

 アダージェットは速度記号だが、曲そのものは非常に薄い。それをアダージョよりやや速く、そしてアンダンテよりは遅くやって、10分しかない。これでは、5番という大仰な音楽の緩徐楽章としては、どう考えても役不足なのではないか。特に、あの巨大スケルツォを受け止めるだけの力は、この音楽には無い。5番の中で、確実に異次元の響きを奏でている。

 ここでは私的なこだわりが優先され、音楽の構成が犠牲されている。いまや4楽章あっての5番と云えるかもしれないが、4楽章ゆえに、5番は構成的にいびつになり、失敗している。緩徐楽章と云うよりかは、間奏曲のようなものだと思う。

 従って4楽章は残念ながら緩徐楽章としては量的にも内容的にもその役割を果たしておらず、しかし方向性としては悪くなかったのだろうか、7番でマーラーは中規模のアンダンテ楽章を2つ、まさに間奏曲のように配したのだった。

 ただでさえ独立した音楽の集合体である5番の中にあっても、この4楽章の突出した存在感は、罪ですらある。バーバーのアダージョのように、独立した音楽としても充分に楽しめてしまうことが、5番全体としては、罪だろう。マーラーはなぜ、こんな音楽を書いたのだろうか? アルマへの告白というお話に真実味を与えるのならば、マーラーは、私的な事情にこだわって、交響曲の全体のフォルムを犠牲にした。あるいは告白とやらにかこつけて、わざと形式を崩した。何らかの効果をねらって。何らかとは……もう分かると思われる。

 そして、そのきまりの悪さをとりつくろうように、ポーン、と、ホルンのシグナルが夢見心地の聴衆を現実へ引き戻す。あ、これは、交響曲だった。と、思い出させる効果が採用されていることからも、マーラーも、実は分かっててやっていたのではないかと思う。


 その5楽章は、ロンド・フィナーレとある。

 ロンド形式もまた、7番へつながってゆくのだから、非常に興味深い。しかしロンドはタダでさえ何度も旋律(テーマ)が繰り返し現れて、少しずつ変化して行くから、これもただ聴いただけでは構成の分かりづらい音楽だ。しかもマーラーはフーガを取り込み、さらに聴感を複雑にしている。しかもそのテーマが 「カッコー、見事なコラール」 なのだから恐れ入る(笑)

 「我輩の高遠なる知性にピッタリ!」 な単純コラールで絃楽フーガに管楽フーガがかぶさって、複雑極まる多重フーガとはこれ如何に! そんなの解説文でもなけりゃ、誰も分かりませんがな、マーラー先生!(笑)

 聴衆の全員が、自分と同じ耳を持っていると思ったら大間ちがい。マーラーの誤算はまたも大当たりというべきか。1番のようにわざと単純にしても受けず、かといって皮肉に皮肉をこめても理解されず、困ったものである。

 「5番は誰も理解しない!」

 挙げ句には、拍子もピッタリな素晴らしいコラールがついにその完全なる姿を表し……たかと思ったら、やっぱりそのまましぼんで、あとは一気に終わってしまう。引っ張るだけ引っ張った割には、やはり唐突であり、聴衆というよりむしろ耳の大きさが自慢の批評家連にむけての皮肉がもちろん入っているのだが、そんなヤケにならなくたって良いような気もする。

 「1番はコラールからちゃんと終結してやったのに誰も楽しまねえで、じゃあ盛り上がっても終結なんかさせねーよ、これで文句は無いのだろう!?」

 個人的には、7番の終楽章よりはるかにつかみ所の無いフィナーレが待っている。凡人であるから、純粋に燃えるが。 


 5番は、複雑さが災いして、面白い音楽なのに、いまいちスッキリしない雑な印象を受け、損をしている。やはりこの煩雑さと歪さの反省として6番があり、7番へ結実したのだと思ってしまう。

 5番は各楽章ごとにいろいろな意味で超絶技巧が入り乱れた、凄い音楽なのだが、如何せん、構成的に各楽章が独立しすぎている。細かい面では楽章間に素材や技法が共通で、統一感を出すよう努力しているのだろうが、残念ながら素人の客にはよく分からない。我々はプロの批評家でもなければ、研究家でも無い。ただの聴衆であり、少しだけ、このように楽しく講釈をたれて、議論し、より楽しんで聴こうとしているにすぎない。楽章感の統一とは、モロに素材が再現されるような豪快なものでなくば、特に録音の無い昔は、分からなかったと思う。奏者ですら分かってない場合も多い。

 つまり、構成に難のある5番は、ショスタコの7番のような組曲的要素がかなり強い音楽のようにも感じる。もっともいずれの楽章にも、マーラーのマニアックなまでの陶酔感がつめこまれ、名曲に仕上がっている事には間ちがいない。これらを楽章で考えると、1楽章は余計だし、3楽章は長すぎるし、4楽章は物足りない。

 5番は、部の音楽なのである。

 そう考えると、全体的な有機的な統一感というより、大きな箱をボコボコと並べた、ブロック構造の音楽ではないかと思えてくる。

 そう認識してしまうと、それはそれで非常に楽しめる音楽だと思う。

 また、この曲を真の名曲として聴かせる演奏は、そういう意味で芯の一本通った、確固たる構造の認識を持った演奏でしょう。

 ただし、ベルティーニの1983年ライヴのように、2楽章をやや遅めにやって、3楽章を逆に速めにするという方法だと、あの3楽章がふつうのスケルツォに聴こえる。5番が7番にぐっと近づいて、5楽章制の普通の曲に聴こえる。彼は構造云々より、5番全体を 「ウィーン風の音楽」 として強力に纏め上げているから、あまり部にこだわっていないのかもしれない。

 そうかと思うとPMF2009のMTTのように、1・2楽章と4・5楽章をアタッカにしてしまって、3楽章もやや遅めにし、完全に3つのブロックにしてしまって、部というものを意識して成功するパターンもある。しかし共通するのは、3楽章の怪奇的なワルツや1、2楽章の中の小洒落た部分に見える、分離派ヴィーンの装飾的気質でありましょう。


 ところで、マーラーはヴィーン音楽院において、それまでの作曲の成果により、特別に対位法の授業を免除されていた。そのため、正規に対位法を学ばなかった。そしてその事を後年、大いに悔いている。

 ナターリエ・バウアー=レヒナーの伝えるところによると、彼はそのことを後になって悔やんだということだ───「僕はかつてないほど珍しくポリフォニックにしか考えられなかった。でもここには今日でも対位法が欠けているようだ。対位法を練習した学生ならだれでも遊びながらやってのけるような純粋な作法がね。」(マーラー 音楽歓相学 アドルノ/龍村あや子訳 法政大学出版局 P145)

 すなわらマーラーは4番まで基本的にポリフォニーに由来する作曲家であり、彼はそれを故郷の自然の中で学んだ。さらに彼にとって、自然の中に様々に鳴り響いている音楽や自然の物音そのものが、ポリフォニーだった。この考えはアメリカでアイヴズも実践し、マーラーはそれへ共感した。彼にとって秩序だった対位法(特にフーガ)は、滑稽なものでしかなかった。

 そうとはいえ、彼は独自にバッハを研究し、マーラー流の複雑を極めた超対位法を編み出して行く。その魁がこの5番である。


 実演で聴いた回数 3回




マーラーのページ

交響曲のページ

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