第3交響曲(1895−1896) −神は本当に死んだのか−
3番は私もマーラーを聴き始めてより、かなり後になってようやくその事の重大性に気づいたのだが、非常にマーラー道を歩むに外せぬ指標がこれでもかとつまっている、初期の超大作であり、初めて本当にマーラー的な交響曲と呼べる音楽だった。しかしその事実へ気づくためには、少なくとも私は全曲を俯瞰的に聴きならべてみなくてはならなかった。そこで初めて、3番の重要性が、いろいろと気づいたのだろうと思う。3番だけを固定して頑張って聴いてみても、なかなかその事実までには到らないかもしれない。
プラウコプフによると、ワルターは、シュタインバッハにおいて作曲したての第3交響曲をピアノで聴かせてもらい、「この音楽によって初めて私は彼(マーラー)という人間を本当に理解したと信じた。」 とすら語っている。
では、その3番の重大性、そして 「マーラー的」 なものとは、具体的にどのようなものなのだろうか。
村井翔の「マーラー」(音楽之友社)にもあるとおり、3番は、マーラーのそれまでの音楽の中で、初めて 「マーラーらしい」 音楽だという厳然たる事実。
しかし、「マーラーらしい」 の何をもって 「マーラーらしい」 というのか、という疑問はとうぜん残る。
そこで生きてくるのが、全曲を聴き倒して見えてくるマーラーの諸交響曲、そして歌曲の一貫した特徴だろうかと思われる。
楽典楽譜に関する専門的に詳しい分析は私の得意とするものではないし、ここでの主眼でも無いので、それらへより興味のある方は諸先生方の書物でも買ってご自分で勉強していただくとして、3番から顕著に現れる……いや、というより、1番と2番にのみ、それらが見られない、マーラー交響曲のマーラーらしい特徴は、なんといってもまずはオーケストレーションの見事さだ。
次が、綿密な構成力。
そして、さまざまな、複雑、あるいは簡素な引用を含めた構想(着眼)の充実、といえるだろうか。
マーラーの第3交響曲は、おそらく8番と並んで、マーラーの中でもっとも 「とっつきにくい」 交響曲ではあるまいか。ある意味、7番よりも、とっつきにくいかもしれない。なぜなら、CD屋で、純粋にCDの量が少ないから。それはただ単に 「長いから」 といった時間的な要因もさることながら、規模的に合唱の必要な3番や8番より、7番の方がやりやすかったのかもしれないし、同じ合唱入りでも2番の 「分かりやすさ」 に比較しても、3番や8番が2番とどれだけ売り上げを競えるか、答はCDの量が教えてくれる。
だが、(繰り返すが)マーラーの3番は、重要だ。3番を、少なくとも感覚的にでも、把握せずして、マーラー全体を鑑賞する事は無理なのではないか。単発でその曲だけを楽しむのならまだしも、マーラーの作品群を全体で、全集とかをまるごと楽しむためには、この曲は好き、この曲は嫌い、だけでは、話にならぬ。そんな状態なら、全集など買う意味がない。好きな曲だけ聴いていれば良い。
そしてそれもひとつの楽しみ方ではあるが、それでは、マーラーのほんの一部を楽しんでいるにすぎないし、残念ながらマーラーの交響曲群はそれ自体でひとつの大きな作品の1章1章に匹敵するように重なり合い、絡み合って、生命樹のように連鎖しているから、たまったものではない。ベートーヴェンとはおのずと異なる。連続しているのと連鎖しているのでは、意味合いが異なるだろう。我々は、少なくとも自分は、「マーラーが好き」 なのだ。
つまり、マーラーの交響曲の連鎖性の中で、より際立ったものが、3番からスタートしている、ということになるだろか。
最後に、6楽章アダージョこそ、マーラーが書いた初めての 「マーラーらしいアダージョ」 であることを考えると、さらに、理解は深まると思われる。
では、3番を聴き進めたい。長いけど、全体を把握しつつも、識者が指摘する通り、各楽章ごとにもけっこう楽想がバラバラで面白い音楽なので、存外、個別に聴いて行っても分かりやすいと思われる。むしろ、2番よりも内容的にも外観(オーケストレーション)的にも充実している分、聴き取るべき部分は多く、中身の濃い楽しみ方ができる。
そして、そういう聴き方は3番以降にも当てはまり、1・2番にはあまり当てはまらないないから、やはり、3番はひとつの決起点として、非常に重要なのだろうと思う。
第1楽章は、第1部でもある。
この「部」という概念は、3番が初めてであるが、この後、5番と8番につながってゆく。また、マーラーが極端に自然を愛するという傾向を如実に示すのも、3番からだろうと思われる。1番の1楽章は確かに夜明けの森の描写だったが、3番においての自然讃歌(1〜3楽章)や、ひいてはそこで生きる人間そのものの人間讃歌・神の愛(神=愛)讃歌(4〜6楽章)に較べると、まるで単純極まりない。
さて、CDにせよ、実演にせよ、まず驚くのがいきなり朗々と鳴り響く仰天ホルンの大吹奏。
このような大胆不敵な冒頭を持つ交響曲は、まず、近代ロマン派以前、いや、もしかしたら以後も無い。1番や2番も、交響曲としてはかなり大胆な冒頭だったが、しかし、ま、弦楽だし(笑) 変ではあっても、奇怪しくはないかな? などと思ってしまうていどだが、この3番はちがう。交響曲の冒頭として、この8本ものホルンによるユニゾンの大旋律というから、恐れ入る。
この旋律が学生歌に似ているとかブラームスの引用だとか、色々と指摘されていることは、有名なエピソードなのでふれない。ご存じない方は、ご自分でお調べをお願いする。私は件の学生歌を知らないので、逆にブラームスを聴くたびに、おお、マーラー!! と思ってニヤニヤしてしまう。もっとも、ブラームスの1番なんか、滅多に聴かないが。
しかしこの強烈な印象を与える素敵な旋律は、はたして、第1主題なのだろうか? それとも、序奏なのだろうか? ちょっと分からない。※フローロスの分析によると、導入部の中の、後の行進曲部分の 「行進曲のテーマ」 の呈示。
この後、旋律はまさに 「変容」 して、ソナタ形式を形成しつつも、ソナタ形式を逸脱してゆく。主題がぜんぶで4つあるという書物もあるし、3つとも、長い2つともいう説もある。また先のフローロスにいたっては、長大な導入部−呈示部−展開部−再現部−コーダ だが、導入部のテーマが展開されたり再現されたりしている。専門家でも意見が分かれているようだ。
ただの聴き手としては、なんでも良いのだが、とにかく、その強烈な主題の数々が第1楽章を長くしている要因であることは間ちがいない。マーラーの交響曲はマーラーがソナタ形式を完全にやめればいいのにやめもせず、とはいえブルックナーのように発展もさせず、むしろ厭味ったらしくジワジワと真綿で首を絞めるように、弱い毒でも飲ませるように、崩壊させたところに混乱がある。だから、無理に把握する必要は無いのかもしれないが、分かれば分かったで、楽しい。マーラーがいなければ、新ヴィーン楽派も生まれなかったろうし、ゲンダイオンガクはまったくちがう形になっていことは、間ちがいない。
嵐のように通りすぎるその主題が過ぎ去ると、次は暗雲たれこむ様子が延々と書かれる。ここはレチタティーヴォであり、葬送行進曲でもある。
天気はまだ晴れない。しかし、ただ曇り空を描いているのではなく、そこはマーラーのこと、心の雲が晴れないのであろう。このあたりの心理描写も含んだ表現は、シュトラウスのアルプス交響曲と鋭く対比する。リアリスト=商業主義者シュトラウスと、超浪漫=理想主義者マーラー。2人は互いの才能を認め合いつつ、互いの性格に辟易し、互いの境遇を妬んだりなんだりしながらも、結果的に仲が良かった。それは互いに無いものへ惹かれ合っていたのだろうと思う。
この金管によって紡ぎだされる悲運の象徴のような主題が、第2主題なのか、ホルンの大吹奏によるものの発展(変容)なのかは、個人的にはどっちでもいいことだが、仮に第2主題としておこう。大太鼓の短い間奏から、こんどは木管が優雅な旋律を奏でる。これが、第3主題としておきたい。(ファンファーレのテーマ)
しかしまたすぐに、冬の逆戻り。トロンボーンが独白するように第2主題の変奏をこれでもかと、唸り続ける。うーん……。情念系指揮者がここぞとばかりにコブシを入れさせる箇所でもある。バーンスタインなんですけど(笑) 時には鬱になってしまいそうなほどの場所。最近のたいていの演奏では、楽譜主義なためか、そのようなことはあまり無い。
ここいら辺は、大管弦楽が全体でおののくような、凄い効果。2番までの単純で底の浅い表層的な効果からおさらばした、後の交響曲に通じる、心理描写をも含んだ、すばらしい奥に深く、縦に厚く、横に広い立体的なオーケストレーション。したがって、3番からこそが、真にマーラーらしいという所以なのだろう。
続いて、第3主題の変奏。
もう、第4主題なのだか、なんなのだか、正直、分からない。音楽は 「戦闘の部分」 として、一気に展開部へと突入する。
だから、マーラーはソナタ形式を踏襲しつつ、無視しているという、恐るべきことをしてのけていると云われる。全てが同時進行的であり、重なっている。いやらしく入り乱れている。起承転結的なソナタ形式では、もう世紀末は乗り切れないのだ!!
音楽はマーチ調となり、いよいよ夏が本格的になって、人々は登山に勤しむ。夏の行進!
ここらの良い気分は、聴いていてもすがすがしい。さわやかな夏!
だが音楽はまたも暗転する。つまり、この30分にも及ぶ、ながーい第1部=第1楽章は、長いとはいえ、ホルンの序奏は別にして、その後の暗いと明るいをただ交互にやっているだけであり、そういう意味では、5番の第1部、6番や9番の(特に9番)複雑を究めた1楽章からすると、はるかに単純だ。だから、3番がマーラー的な最初の音楽といって、1・2番からするとずっと書法が充実しているとはいえ、内容的には、まだまだ初期だとも云える。
もっとも、交互にやっているとはいえ、現れるたびに微細に姿を変え、品を変え、変容しているから、つまり、いわゆる展開しているから、飽きさせない。こういう面白さに気づいてしまうと、なんの発展も無くノリだけでポピュラー旋律が現れては刹那的に消えてゆく音楽などは、よほどの楽曲でないと、まるで心に残らなくなってしまった。マーラーは、なんという罪な音楽なのだろう!
またマーチになって、タンバリンの鈴鳴らし音が、打楽器好きとしては、とても魅力的。交響曲にタンバリン!? マーラーの交響曲が全てを包括するという、偉大なる宣言の実践だ。タンバリンは後に7番でも登場する。
しかしマーラーのマーチは、なんでこんなにカッコイイのだろうか。死の行進でも、こういった明るい行進でも、とにかく、管弦楽マーチだからかっこいいのだろうか。それだけではない。やはりそこは、これも普通のマーチとはちがう、深みがあって、憂いを帯び、表面上は明るく装っていていても、内面で苦悩し、人生の縮図を背負ってしまっているから、そういう姿勢がカッコイイのだろう。2番の5楽章のマーチも、大好き。
マーチは狂ったように荒々しく、自然主義的な嵐の描写となり、小太鼓の、死への誘いもある。ここは複数で叩いても良いことになっているらしいので、時には重厚な重連奏を聴くことができるだろう。マーラーの死後に作曲されるシュトラウスのアルプス交響曲と比較できる場所でもある。
再現部では、テーマが順番に圧縮・再現され、まるでヴェーベルンの圧縮様式を呼び寄せているような手法だが、最後に集結部へドッとなだれ込む。この集結部を 「こんな膨大な音楽を一気にまとめるように書くことができるのは自分だけだ!」 という意味で、マーラーは自慢していたらしいが。確かに先生だけですよ! こんな曲書くのわ!(笑)
この楽章だけで充分にお腹は一杯になるが、マーラー先生は許してくれない。
※マーラーは3番において、この第1楽章を最後に作曲し、結果 「1楽章がとても長くなってしまった」 ため、7楽章をカット。それから6楽章の終結部を 「書き直した」 という。この楽章が3番において最も複雑で、純粋に器楽的なのは、第2部(後半)の歌謡性が先にあってこその、1楽章だと分かる。
2楽章からは第2部ということになっている。2楽章は、メヌエットのテンポで、という指示があるが、メヌエットそのものではない。ここがミソ。
緩徐楽章ではあるが、アダージョやアンダンテのような本格的なものではない。ABABA5部形式の、本当に朗らかな、あまり深い意味のないお花畑の様子か。5部様式といえば……1番・2番に通じる。
しかし、どこか懐古的であるし、もの悲しい雰囲気もあり、なんとも切ない。かすかに聞こえるトランペットが、まるで、ゼッキンゲンのラッパ手ならぬ、旧交響詩の第2楽章「ブルーミネ」をも、思わせて、そうなるとなかなか意味深く聴こえる。
終始夢見心地な、ほんわりとした雰囲気に純粋に酔える場面だろう。
第3楽章が、スケルツォというわりにとてもそうは思えぬボリュームがいやらしいし、長くて、音楽もやたらと平易で、そのくせ分裂気味に騒いだりして、自分は本当に苦手で、3番を聴くときの最大の障害となっていたのだが、我慢して聴いているうちに、まずまず、良くなってきた。なにより、若き日の歌曲集の「夏に小鳥は代わり」 を聴いてからは、よりいっそう理解が深まった。2番の3楽章といっしょで、その歌曲の内容と複雑に連鎖しているためだ。
ここもいわゆる 「自然描写」 的な部分であるが、より深い。
春の鳥カッコウが死んで夏の鳥ナイチンゲールに交代する、という意味の歌曲だが、聖アントニウスと較べると、ブラック度数(皮肉)は確かに少ないが、そのぶん、虚無的な自然の厳しさというか、身も蓋もなさというか、ちがう意味でのブラック度数が増している。すなわち、死は自然界では生に通じる。生き物は死ぬために生きている。人もまたただの生き物で、死は免れない。
冒頭からカッコウとナイチンゲールの鳴き声がエコー。そのリズムで、歌曲の旋律をもって軽やかな、田園的な気分で進んでゆく。
中間部では、ポストホルンによる、彼岸からの呼びかけみたいな、美しくも不気味な旋律が朗々と、そして切れ切れに聴こえてきて、個人的には、なんともやりきれない気持ちになる。これは6番のカウベルへ通じてゆくような気がしている。深遠なる森の中を1人孤独に彷徨う不安を表している。ちなみに、ポストホルンはピストンが無く、マーラーの指定するフレーズを吹くには演奏が至難なので、大抵はトランペットやコルネット、フリューゲルホルンに代用される。
その幻想世界から我々を連れ戻すのが、本当のトランペット(軍楽)のファンファーレで、本当に当時のオーストリア軍隊の帰営ラッパをそのまま引用しているのだそう。
それからまた、歌が流れる。オーケストレーションはどんどん変化して行き、まさに千変万化。じっくり鳴らす演奏あり、ガンガンゆく演奏あり、聴き飽きない。どんどんCDを買ってしまう。おお、恐ろしい。
音楽は盛り上がり、中間部も再現され、一気に集結する。ちなみに、この3楽章は、スケルツォではあるが、構成的にはロンド形式とのことである。(5番と同じ!)
4〜6楽章は連続しているが、特に4と5は、無くても良いように思えて、無いと困ってしまう。3番の持つ大きなテーマが、ここでやっと登場する。
つまり、神は本当に死んだのか。ということである。
4・5楽章は短いからついつい聴き逃してしまいがちだが、4楽章は「ツァラトゥストラはかく語りき」 からの歌で、本交響曲の指標をうたっているから、聴き逃してはならない。3楽章の引用もたくさんあって連鎖性を演出しているし、オーボエの効果もすばらしい。演奏によっては、この音のずり上がるオーボエが雅楽の笙のようで、とても美しい。アルトとバイオリンの二重奏は、まさにマーラー的な美の極致であり、6楽章への序章のようだ。
ニーチェが云うには、神様なんかもう死んじまって、人々は神を必要としていないのだそうだ。
5楽章はこんどは天国の様子が見られるが、歌詞はなかなかシビア。4番の4楽章ほどではないけども。4番がいかに猛毒饅頭交響曲かは、次の項で存分に語りたいと思う。ちなみに、その4番の4楽章は、もともとこの3番の7楽章の予定だったため、共通するモティーフが登場する。ここで十戒を破ったペテロは泣きながら悔い改めるが、「天上の暮らし」 では天国でいそいそと魚を捕っている(笑)
6楽章に備えてバイオリンが休んでいるとのことで、確かに、天国のわりには、どこか暗い印象をうける。それを荘厳ととるか、ブラックととるかで、聴き方も変わってくるだろう。マーラーの音楽で死の暗喩であるドラがガンガン鳴っている時点で、私は後者だが。
さて、6楽章こそ愛の讃歌、愛する動物・人間の讃歌、神を愛し、人を愛し、土を愛すというキリスト教の三愛精神の権化みたいな 「モロに感動的な音楽」 で、当時の人々も、この楽章だけは最高と思ったらしく、生前からマーラーの3番が人気曲だったとのこと。
人間が、ここまで美しい音楽を書けるのかという。本当に理屈ぬきで感動する。
私は、4番の3楽章がマーラーの唯一の明確な変奏曲だと思っていたが、この6楽章も、形式的には変奏曲にあたる。
1楽章冒頭のホルンの大吹奏に関連する第1主題が、本当に美しい。第2主題は、ややテンポが上がってからのものだそうで、緊張感のあるホルンによる第3主題まで数えることができるみたいである。
それらが順番に変奏され、最高に盛り上がる箇所では、絶望と嘆きが、完全に昇華された、すばらしい効果を上げる。
その後の、木管の救いの主題……9番・10番に通じるものがある。ここから、一気に時空間を超えて、我々は、後期の交響曲への位相を体験できるなんて!
ラストの大きな盛り上がりも最高だ。このようにいわゆるハッピーエンドに終わるアダージョは、マーラーには少ないから。
しかし、我々マーラー聴きは、それだけでは満足しない。この楽章は、本当にただ美しく鳴るだけが魅力で、ハッピーエンドで大団円でシャンシャン手打ちが、マーラーの狙っていたものなのだろうか?
それへ関しては、私もまだまだ解釈が足りないのだが、結論から云うと、やはり 「そんなことはない」 となるだろう。
マーラーの音楽は全て連続し、連鎖しているのは既に述べてあるが、6楽章も、とうぜんそうだと思われる。6楽章がなぜ、唯一のハッピーエンド・アダージョなのかは、終楽章から遡って見てゆくと、なんとなく分かる。
6楽章は愛の讃歌であり、しかも、全てを無償に愛するというキリスト教的な「神の愛」を歌っているため、このような毒の無い音楽になるのは、ある意味、まずこれは当たり前。
神を愛すること(5楽章で述べられている)があって初めて、神が創造したもうた偉大な人間を愛し、自然を愛せる。
したがって、3番は、1楽章が第1部で2楽章から第2部という構成だが、内容的には、1〜3楽章で自然を愛したマーラーが、4楽章で人間を、5と6楽章で神を愛するという構図になっているような気がする。
従って、1〜3楽章を第1部、4〜6楽章を第2部とするのが、妥当なのかもしれない。
4楽章では人間(ニーチェ的には超人)を讃えるマーラーだが、5楽章では無条件で神を愛することが求められている。つまりイエスがペテロに語る所の 「常に神だけを愛しなさい!」 がこれにあたる。
そう考えてゆくと、後のマーラー特有の旋律的に複雑な多重構造、対位法、リズム、和声等と比べると、なんとも単純で、底の浅い音楽に思えてしまうこの6楽章が、深い意味を有してくる。
ここでその真なる平易性によって表されているものは、愛。これは述べてある。ではなぜ愛なのか。しかも、この愛とは、神の愛、神=愛、神の作りたもうた全てのものへの愛、自然讃歌であり、人間讃歌であり、神の讃歌。神を讃える歌。宇宙論。神の肯定。
それを、聴感的にただ、マーラーが書いた最高のハッピーエンド、ととるのも、正しい聴き方ではあるだろう。
そして、それの意味する所を考えるのも、また、深い味わい方、楽しみ方だろう。6楽章は、1楽章から5楽章までの問いかけに対する偉大なる答え。
1、2、3楽章 → 大いなる自然の描写、自然の中の人間の営み
4楽章 → ニーチェ流の、人間よ、神は死んだ、人間万歳!
5楽章 → 神はいう、ペテロよ 「常に神だけを愛しなさい!」
6楽章 → 神だけを愛します!
つまり、マーラーはこう云っている。
神は死んでない。
ちなみに、当初この(演出として)神を肯定した6楽章の次に7楽章として来る予定だった4番の4楽章は……神様を信じて来てみたら、天国はこ〜んなところでしたァ(ゲス顔)というのだから、やっぱりマーラーという人は、アタマ(発想)が少しおかしいか、キリスト教そのものを軽んじている(ユダヤ教徒として)のであるまいか。
また、7楽章がカットされた理由が、どうも最後に作曲した第1楽章が当初の想定よりかなり 「長くなってしまった」 ため、という、意外と単純な理由であったらしい、というのが意味深だ。その後、上記のように、6楽章の終結部を音楽全体の終結部としてふさわしいように 「書き直した」 のだという。書き直される以前のものが分からない(それほど違わないのかもしれないし、大幅に書き直されたのかもしれない)ので、なんとも云えないが、1時間以上をかけた壮大な皮肉(キリスト教への厭味)を、さすがにやりすぎたと自ら回避したという意味も当然この内容ならばあると思うのだが、そのきっかけが、単純な時間的・即物的な理由だというのが、実にマーラーらしくて興味深い。
それでも、前島良雄も著書で述べているが、「本当だろうか? たとえ1楽章が想定より長くなったからと言って、たかが10分くらい、カットする必要はあったのか?」 という疑問は残る。マーラーともあろうものが、そんな理由で、自らの創作を妥協するだろうか?
私は、そこは指揮者マーラーの判断ではないかと想像する。ご存じの通り、マーラーはただの作曲家ではなく、まして 「指揮もする作曲家」 でも無く、「作曲もする指揮者」、だった。くわえてこの時代は、完全に仕事としても生活の中心としても 指揮者>作曲家 だった。
指揮者として、長すぎると演奏されないかも、とか、再演されないかも、とか、お客にウケないかも、とか心配するのは当然だ。事実、諸事情により、3番の初演は4番の後である。
マーラーは実績と才能のある指揮者として、アッサリそのへんは 「変更」 したのではないか。そもそも3番全体の演奏時間を冷徹に計算しており、それによると7楽章制で、1楽章の演奏時間は15分から長くて25分ほどを予定していたそうだが、結果として最後に作曲した1楽章は規模が大きくなりすぎて、マーラーは 「45分ほどかかりそうだ」 と思っていたのだという。さすがにそれでは長すぎだ、と思ったのかもしれない。
最後に、前島良雄の指摘する、この3番の標題について述べたい。マーラーは自分の交響曲の中で唯一、この3番にだけ自分で詳細な「根源的標題(内的標題)」を文字として具体的に設定していた。これは様々なマーラーの本やCDの解説に登場するので知っている方もおられようが、他のナンバーの巨人だ復活だ悲劇的だ、というのは、すべて商業的な理由で他人が勝手に付けたものだが、この3番だけは、ちゃんとマーラーが自分で設定していた。友人らに手紙で何度も解説していた標題は以下の通りである。(1896年時点での最終的な標題)
交響曲第III番 《夏の真昼の夢》
第1部
導入部:パン(牧神)が目覚める
第1番:夏が行進してくる(バッカスの行進)
第2部
第2番:野の花々が私に語ること
第3番:森の動物たちが私に語ること
第4番:人間が私に語ること
第5番:天使が私に語ること
第6番:愛が私に語ること
ただし、これらは、出版稿ではすべてカットされた。例によって1番の 「巨人騒動」 で辟易し、よけいな 「文字」 は 「聴衆に誤解を与える」 のを、自ら嫌ったのかもしれないという。しかしこれを把握していると、この長い3番の 「流れ」 を容易に把握できる。
すぐ上記してある各楽章の特徴というのは、とうぜん、このマーラー自身の3番の標題に基づいて聴くだけで、如実に分かる代物であって、むしろ、マーラーが心配したほど聴衆に誤解は与えないように感じる。ウソ八百の巨人復活悲劇的がいつまでも廃止されないのに、この正統な3番の標題がいつまでも定着しないのは、おかしいのではないか、という皮肉も込めた前島の論だが、私が思うに、「夏の真昼の夢」 では、逆にベターすぎて売れないな(笑)
交響曲第3番「夏の真昼の夢」では、(交響曲ではないが)メンデルスゾーンの「真夏の夜の夢」と混同される恐れがあるし、パクリではないにしても、似たような先例があると印象が良くない。「商業的表題」 は、新鮮さやインパクトが大事なので、定着はしないだろう。マーラーは、物書きとしては正直イマイチなのは若いころからリストに嘆きの歌の自作テキストを評価されなかったり、復活の後半部の歌詞が気負いすぎて陳腐だったりで分かるが、けっきょく最後まで変わらなかったと思う。この3番の標題も、音楽の内容をとうぜんよく表しているが、それが商業的な価値があるかどうかというのはまた別な問題だ。