第2交響曲(1888−1894) −本当にハリボテなのか−
2番の人気は非常に高く、時間的に80分という大がかりなモノであるにも関わらず、世界的に録音も多く、演奏会もけっこう行われているのではないだろうか。しかも、かなり、分かりやすい。同じような時間的規模の6番・7番・8番及び9番などと、聴き比べて、圧倒的に分かりやすいのではないだろうか。
それはなぜか?
答えから云うと、(1番と同じく!)単純なのである。
2番は、まだ書法的にも楽想的にも1番の系譜を色濃く引いており、2−4の角笛交響曲の最初というよりもむしろ、上手に1番から3番への 「橋渡し」 をしている音楽だと思っている。つまり、1番の簡易性に、3番の巨大さ。
それは良くも悪くも折衷的であり、中途半端になる。最初は、カッコイイし、長い曲を聴き通してなんだか凄い音楽を聴けるようになったという満足感もあり、よく聴くのだが、やがて、大規模な割りには中身が伴っていない事に気づく。単純に分量だけを見て、ポケットスコアの5番のほうが厚い。それは楽想というよりも、もっと技術的なオーケストレーションの部分により当てはまる。
また、あまりに高尚な部分と通俗な部分が入り交じっているのに気づく。2番は特に第5楽章で際立っている。そうすると、意味がわからなくなる。なんでこんなに長いのか。この程度の曲なら、もう少し無駄を省くことができたのではないのか? こんなマゼコゼにする必要があったのか?
個人的に云うと、それでもなお、2番はマーラーの中でもすごく好きな音楽だ。単純ならば単純なりに燃える。
マーラー自身も、愛着があったようで、初演後も改定(修正)を進め、死の1年前の1910年にようやく満足のゆく原稿を残している。この2番はマーラーがもっとも難産のうえに世へ送り出したもので、初稿完成に7年を費やしている。28歳で1番を完成させたマーラーは、その前後より1楽章を作曲し、続けて、34歳でいちおうの脱稿をしているが、じっさいは忙しくて1893年まで2楽章以降には手を着けられなかった。これほどの歳月をかけて作曲されたのは、2番だけで、当初は1楽章だけ「別の音楽」として構想したことや、指揮の仕事の移り変わりもあってなかなか作曲に時間をとれなかったこともあるのだろうが、それでも作曲の情熱を失わなかったのは、特筆に値する。諦めないということは、とても大事なことだ。
指揮者ではクレンペラーが、若き日にこの曲のステージ裏のアンサンブル(5楽章)の指揮をまかされたことがマーラーと知り合うきっかけだったということもあり、特に愛着を感じていたようで、8種類も録音が残っている。(2004年現在)
本人の述懐によると、そのときの模様はこう。
本指揮は新進気鋭、マーラー信者でもあったオスカー・フリートだった。クレンペラーは助手を兼ねて、舞台裏の指揮を担当した。憧れのマーラーに向かい、22歳のクレンペラーがこう云った。
「マエストロ、私の指揮はどうでしょうか」
マーラーは答えた。
「ぜんぜんなっていない!」
「えっ……!?」
「うるさい。音が響きすぎます!」
「しかし、楽譜には、よく響くようにと書いてありますが」
「もちろん書いてあります。しかしそれは、遠くから、という意味です。音が近すぎる!」
たしかにステージの裏は狭く、クレンペラーたちはすぐ近くにいた。クレンペラーは工夫して、音量を小さくした。すると、マーラーは満足した。
「とても良かった!」
フリートの指揮も良く、演奏会は成功で、クレンペラーは天にも昇る想いだったという。
2番のなかで、人によって違和感を覚えるのは第1楽章だろう。私は、じつはこの1楽章がとても好きなのだが、人によっては、1楽章は全体の中で浮いていると感ずる人もいるらしい。従って、1楽章が苦手、と。
それもそのはず、1楽章はそれのみで単独で交響詩として発表されたことがあるらしい。発表されたのか、されかけたのか、資料によってちょっとあやふやだが、楽譜が残っていて、録音もある。タイトルを「葬礼」または「葬送」という。草稿には「レクイレム」とあったともいう。(出版は1988年の全集版が初)
だから、1楽章は当初 2番の1楽章 ではなく 1番からプログラム的に続く何らかの音楽 であった。ここでいう葬送の音楽とは、1番で登場した英雄(=マーラー自身か?)がさっそく死んでしまったときの、音楽という意味があったようだが、しかし彼の思い浮かべる英雄はとにかくよく死んでしまう。ともかく、2番交響曲は1楽章とそれ以降(特に直後の2楽章との落差!)に大きな溝があり、まったく別個の音楽の合体作品であるということができる。それゆえの内的矛盾が存在する。
偶然か否か、1番の冒頭と同じく、交響曲の出だしとしてはなかなか異質な動機よりスタートする。弦楽による下降系の鋭いもので、霧が開けてくるような1番の冒頭と鋭く対比する。その後すぐさま、雷が轟くような、戦いが始まったような、戦車が行くような、第1主題。オーボエによる派生系のような緊張感あるものが続く。
葬送というが、音楽は闘争と言って良く、けっこう激しい。行進調で進み、やがて甘美な第2主題が登場する。
あとは、かなり複雑なソナタ形式であり、じつは2番でもっとも複雑なのは1楽章ではないか、と思っている。解説によると呈示部と展開部が同時進行している……ということであり、素人にはわけがわからない。2楽章以降は、とても単純な構造で、特に旋律が分かりやすく、それが効果的で、1楽章のような捉えどころの無さはない。フローロスの解説によるとブルックナー流に第3主題まで認められる。それはリストの「音楽による十字架の象徴」で、同じく「復活」の動機や「怒りの日」の動機と共に5楽章にも登場して、全体の構成を支え、キリスト教的な精神を導いている。
(十字架の動機は74小節めからの金管による主題群がそれに相当するとのこと)
そうはいっても、激しい展開という意味で、なんだかすごい音楽を聴いていると思うのも事実であり、しかも、元は交響詩であったというだけあってプログラム性も強く、非常に感動的だ。そこは、全体として浮いていようが、素直にマーラーの才能を聴くところだろう。1楽章自体をとってみると、凄まじく激しい、自由な形式の交響楽であると分かる。
その中で、特に私が好んでいる表現は練習番号18の部分にある 「指揮者への注意:<区切り>,それから突然進む」 である。
これが非常に面白い効果を生んでいて、今楽章の重要な分岐点になっている。中には、ここを<区切らない>指揮者もいて、ガックリくるが、それはそれで音楽の流れを重視していると思っている。区切る指揮者でも、思い切り音楽の進行が中断するほど区切る人、区切ってもそれとなく流れる人、さまざまで、指揮者の個性が見えて、たいへん面白い。もっとも、「何を区切るのか」 は書いてないので、ただG・Pのように一時停止すればそれは<区切り>なのか? という疑問は残る。
特に展開部が膨大な1楽章だが、オーケストレーションは意外や薄い。
それが、馴れたマーラー聴きへ 「中身が無い」 と感じさせる最大の要因であるが、逆に室内楽的な筆法が活きていると感じることができる。つまり、これは2番の核心をすでに突いてしまっているが、この交響曲を演奏するときに、ただ楽譜の通りに鳴らしたのでは張り子のようになってしまう。歌謡的な旋律を強調し、激しい表現も躊躇なく行う。室内楽的な書法を活かしつつ、膨大で圧倒的な壁画的とも云える威容をも示す。そういう一見して矛盾なことを矛盾として同時存在的に包括してのける指揮は、2番の真価を表していると思う。
一時停止しようともしまいとも、<区切り>,からグッと盛り上がって、再現部となり、静かに神秘的にコーダを迎え、あくまで荘厳に葬礼の音楽は終わりを告げる。
高名なフォンビューローの見解 「これに比べたらトリスタンがハイドンのようだ」 というのは、私が思うに多分に感情的な意見であり、葬礼が 「トリスタンとイゾルデですら、ハイドンのように古典的で簡潔的に聴こえるほどこの葬礼というのは難解だ」 という意味よりも、(それほど難解には聴こえない) 「この『革新的』な音楽に比べたら、トリスタンとイゾルデですらハイドンのように過去の音楽と化した」 という意味なのではないかと思っている。驚きを込めた恐るべき皮肉なのだな。マーラーはどのような顔をしたか、知りたいところだ。喜びはしなかったろう。「これが、交響曲の第1楽章? ハハッ、メチャクチャだね」 と遠回しに云われているのだから。
マーラーはそれでも、葬礼を棄てずに、第2の1楽章とすることに固執し続けた。それは何故なのか、分からないが、マーラーの選択したことには、私のようなマーレリアーナーは、無粋を云わず楽しむだけである。また、クレンペラーの述懐によるとフォンビューローはこのように云ったことになっている。「あなたの音楽に較べれば《トリスタン》なんて朝飯前ですね」 それから若人の歌については 「諧謔小説」 と。
また、他の伝記においては、マーラーが最初の数小節をピアノで弾いただけで、「もうけっこう! けっこう!」 とヒステリックに叫び、耳に両手をあてて塞いだ、とある。
ちなみに交響詩「葬礼」のほうの録音も存在するが、何小節かの挿入があり、オーケストレーションはやや粗削りで、特に打楽器の扱いが単純となっている。具体には、ドラもトライアングルも無く、シンバルばかりがやたらと鳴る。
さて、マーラーは1楽章の演奏後 「少なくとも」 5分間の休憩をとるよう指示している。これは上記したように、とりもなおさず、マーラーの親切であると同時に、不安の現れで、1楽章がいかに浮いているか、1楽章がいかに全体的にアンバランスか、特にすぐ続く2楽章と乖離しているか、を作曲者自らが露呈しているに他ならない。休憩により、気分をあらためて、2楽章以下を聴いて下さいというわけだ。何度も言及するが、1楽章だけ、もともとは別個のモノであるという事実が、このようなところにも現れているのだろう。
現在では、みんな馴れてしまってか、1楽章も2楽章以下もまるごとマーラーを楽しむようになっているのか、この休憩を本当にとっている例は少ないと感じる。
では文章も休憩なしに2楽章へ進もう。
いろいろと2番を聴いているが、今のところ、私は2番の中で、この素朴で、愛らしい、1楽章の激しさを慰めるに充分な、第2楽章がもっとも好きになっている。
アンダンテ・モデラートの2楽章はマーラーの書法が1番から格段に上がっていることを示す最良の事例に思える。1楽章は作曲の時期も近いし、そんなに差はないが、2楽章からは明らかに角笛の世界。つまり、この意味でも2番は1楽章以前と2楽章以降で分断されている。
とはいえ、そのような分断など、なにするものでも無い。なぜならマーラーの音楽はそんな矛盾などあたりまえのように内在しており、それゆえのマーラーであり、それゆえの人間世界の描写であり、それゆえの2番なのだから。
1番でいうところの旧2楽章「ブルーミネ」の進化系のごとき音楽だが、あれよりさらに深く、優雅な旋律の中に人間世界の哀しみをいやというほどにじませている。ゆるやかで素朴な時の流れを、1楽章と鋭く対比することができる。書法的にもいろいろな演奏上の技法が駆使されていて、飽きさせない。
次の3楽章は、芸術的に事実上の2番の白眉と云えるだろう。
マーラーの歌曲 「魚へ説教するパドヴァの聖アントニウス」 という音楽との相互引用であり、彼1流の諧謔性、弑逆性、厭味、アヤシサ、それらが初めて大爆発したのがこの音楽で、そもそも歌曲のほうの歌詞の意味するところが、お偉い聖人さまの説教を誰も聴くことがなく、仕方がないから池のサカナに説教したならば、サカナは感動して聞きほれていたが、しょせんはサカナで、説教が終わるとみなまたすぐ忘れてしまって元の木阿弥……皆さんと同じ。というもの。
魚というのは、もちろん我々のことであり、大衆のことであり、つまり、愚かで感情的でひたすら欲望的な民衆のことなのだ。具合が悪くなるほどの皮肉。それがマーラー。
そんなことを噛みしめながら聴き進むと、3楽章の価値はいや増してくる。
冒頭のティンパニは交響曲の方だけのものであり、歌曲には無い引き締め効果が、すばらしい。トライアングルの音色も軽やかに皮肉を引き立てる。ここのオーケストレーションは2番の中でも群を抜いて過激的であり、ある意味感動的といえる。
4楽章は最も目立たない部分で、長大な5楽章への前奏のような扱いをする人もいるだろうが、マーラーの交響曲において、そのように見える楽章はあれども次の楽章の前奏曲にすぎない楽章は存在しない。したがって、この4楽章も、非常に重要な意味が隠されている。原光という題のテクストが使われて、アルト独唱によりしっとりと3楽章の喧騒が鎮まってゆく。この部分、角笛歌曲集と共通している所以。
ここでの歌詞の大意はこうなっている。 「我々人間は、なんと苦しい世界に生きているというのか。こんなのでは、天国のほうがマシだ。早く天国へ行きたい」
恐ろしいまでに虚無的で厭世的な歌詞だが、それを歌う旋律のなんと美しいことよ。この乖離が、後に大地の歌となって帰結していると思う。ちなみに、この歌いだし 「おお紅い薔薇よ」 と、かの第九の 「おお友よ!」 は強く対比しているとは柴田南雄の解説。マーラーの狙いだという。柴田は2番をあまりお好みではないようであるが、4楽章だけは格別で、3楽章からの音楽的展開のすばらしさ、ブラームスの引用も引き合いにだし、べた褒め。「惜しいくらい短く終わる」 とさえ言っている。
しかし、マーラーはこの崇高的とさえいえる4楽章の後に、まったく世俗的な5楽章を置いている。ここの部分の、これまた乖離が、マーラーらしいというか、2番を嫌う人の理由だろう。5楽章は、私が聴いてもやはり長い。その意味で、ああ、2番は1番の尾をまだまだ引いているなあ、という気がする。1番もそうなのだが、詳しい解説書等で構造が分かれば、全て理にはかなっているのだが、聴いているだけではなかなか分からない恨みがある。
完璧なまでの進行と構成は、次の3番を待たなくてはならない。
だからといって、5楽章の全てが無駄かというとそうでもない。
冒頭の地獄の釜の底が抜けたような衝撃は、1番の4楽章と同じ意味を持っている。どちらも前楽章からアタッカで続く。その後、まったくオーケストレーションの薄い、室内楽とさえいえる書法で書かれた部分に至る。ホルンのシグナルからの部分で、木管と弦3部のみとなる箇所もある。こういうデリケートな部分をおざなりにしない5楽章は、聴きどころがある。ここは、これから始まる管弦楽のみの壮大なストーリーの前振りの部分で、主要なテーマがゆっくりと呈示される。
打楽器の凄まじいまでの導入により、テンポが変わると、展開部であり、天国への行進、地獄の到来、7つの審判が始まる。
ゆっくり、じっくりとテーマが奏でられて盛り上がり、木管のトリル効果がすばらしい。そしていよいよ、マエストーゾの部分より、この交響曲で私がもっとも好きな部分、もっとも燃える部分、王者も乞食も聖も俗もなんでもかんでもが、みな等しくそろって墓場から起き出して歩きだす部分が騒然と奏される。ここのチープな音楽に辟易する人もいるだろう。しかし、これこそがマーラーだと強く思っている。トランペットとホルンの吹奏する奇妙なファンファーレ。不協和音が剣を打ち合うかのようにぶつかる。その皮肉。マーラーの音楽がまだ、そういう皮肉を内部にしまい込まずにストレートにぶつけてくる楽しみ。面白さ。
それから静かになり、いよいよステージ裏のバンダの登場。ここはテンポが2/4、4/4、3/4と頻繁に変わり、クレンペラーではないが、裏指揮者はテンポの変化に細心の注意が必要となる。表が6/4の部分に裏では2/4+4/4のところもある。そこからの管弦楽の凄まじさは、聴いているとちょっとつぶれてしまって分からないほどで、まさに騒乱というに相応しい。
それが納まると、いよいよ合唱の登場。ここからが、長大なる再現部ということである。
その寸前に、トランペットに関するマーラー先生のキワモノ指示があるので、スコアをおもちの方は読んでみると面白い。聖書の記述を元にした、合唱を導く天国の天使のラッパのような演出であるが、曰く、
「ここのトランペットは反対側から響かなければならないので、出番のないトランペット奏者が移動して吹いても良い。移動する時間はたくさんある。その後、アカペラの邪魔をしないように静かに元の席へ戻ること」
ムチャ云うなや!(笑)
さて合唱だが、合唱はふだん聴かないので勉強不足でよく分からないのだが、効果的なのかそうでないのかという問題もあるだろうが、少なくとも、ここの部分の神秘的な死の賛美は、完璧だろう。金管による天国の調べは、マーラーの得意とするところで(究極が8番交響曲)堂々と教会の賛美歌のような音楽が鳴り響いて、とても気持ちが良い。
ところが、この後、アルト独唱からの部分が、ちょいとしつこい。ここはマーラーが歌詞を大幅に創作加筆した部分で、どうも、マーラー先生、この長さでは納得いかなかったようで、延々と復活を賛美し、原詩の朴訥な信仰をまさに復活の呪文のようにしてしまうのだが、アルト独唱に入らずそのままかの壮大なコーダへ突入すれば良かったのに、と思っているが、そんなカットは意味もないし、我慢するしかない。4楽章の完璧さと較べるに、5楽章はあまりに通俗的だと云える。
オルガンとか入って、たしかに、効果的ではある。
ウケをねらい過ぎという意見もある。
そのような賛否両論、この音楽にはある。
しかし、そのような想いの全てを吹き飛ばしてしまう感動が、コーダにはある。この壮大で荘厳で、かつ、平易な音楽もそうはない。それは、評価できるのではないか。上り詰める合唱、鳴り響く鐘、天地を揺るがす管弦楽。たいていの演奏でも、最後は感動する。
また、通俗も何も、マーラーの用意した、ストーリー性に基づくエンターテイメント的要素も、評価の内に入れなくてはならないという視点も出来るだろう。
私は、5楽章の中では、本当に練習番号14からのマエストーゾが最高にバカバカしくって大好きです(笑) ガックリくる人もいるようだが……。
2番が、当初マーラーの唯一の成功作、あるいは再演され、普及作となった理由には、内容的にも、ストーリー的にも、当時の人々の耳にもそれなりに分かりやすく響き、かつ迫力もあって啓蒙的な役割を演じたにちがいない。そしてそれは、現在でも同じ、というわけである。ただし、それと同じほどの敵をこの曲で造ったことも確かだろう。マーラーは2番をもって 「天才気取り」 と揶揄された。現在でも、マーラーは好きだが2番は苦手、という人は、けっこういるのでないか。もしくは、やはり2番が最高にすばらしいという人もいるだろう。キャプランのように狂ってしまう人間が出るほどだから。クレンペラーも2番を異様に愛している。溺愛しているといっていい。彼ほどの指揮者が……というほどに。クレンペラーは、マーラーの少なくとも2番と9番と歌曲は後世に残ってゆくだろうと明言している。彼の趣味が分かって面白い。2番はその明解さゆえに、9番は深遠さゆえにだろうか? それとも2番の贔屓のし倒しか?