第9番交響曲(1909−1910)  −さようなら、我が世界!−


 ついに私のこのマーラー好き勝手論も、初稿であるが2007年冬現在、最後の(いちおう完成した)作品にまで到達した。けっきょく、3年ほど、かかったのかな?

 指揮者でマーラー全集をやる人は何年も、時には10年以上もかけてやるわけだが、実際に録音の予算とか、会社やオケや指揮者自身の都合もあるとはいえ、おいそれと立て続けにできる仕事ではないというのも実感できた。だってただ聴いて好きなことを書くだけで何年もかかってるんだから(笑)

 マーラーの各交響曲は、それほど1曲、1曲に乖離性が認められ、かつ、内実的に密接しているという矛盾が、1曲仕上げるとインターバルを置かざるをえない理由になるのかもしれない。またその規模も物理的な障碍としてあるだろう。

 そして、そういう矛盾が、突き詰めれば突き詰めるほどに面白く、いくら聴いても聴いても飽きない、厭きないどころかますます更なる解釈を聴きたくなるという、まさにマーラー道の入り口に立たせてくれる。作品がほとんど交響曲のみという特化性の中に、1曲1曲がいろいろな世界を包括しているという多様性、やはりその矛盾こそがマーラーの面白さであり、音楽の語法そのものも、矛盾に満ち満ち、調和性を尊ぶ聴き手には未だに受け入れられない理由であって、かつ、人間の存在は矛盾の塊であるという真理を理解する聴き手には、愛してやまない小説世界のように、心に染み入って離れられなくするのではないか。

 えー、御託は良いとして、9番が、マーラーの全交響曲中、最高傑作というよりかはむしろ、最高峰であるという意見に、マーレリアーナー諸氏の10人中ほぼ10人はご賛同いただけると信じる次第である。

 では、なぜ9番は最高峰なのか。これを考えたい。


9番の性格

 9番の精神性の話と、反精神性の話を、先に確認する。これは便宜上精神性と書いてみたが、本来は標題性のことである。マーラーの交響曲の標題性を再確認すると、

 1.いわゆる「タイトル」としての表層的標題(表題といってもいいかもしれない)

 日本人は特にコレが好きということで、マーラーに限っても、1番「巨人」 2番「復活」 4番「大いなる喜びの賛歌」 6番「悲劇的」 7番「夜の歌」 8番「千人の交響曲」 9番「死が私に語ること」

 こうしてみると、ほとんどマーラーの交響曲は「標題交響曲」になってしまうw

 今ではほぼ無くなってはきているが、巨人、復活、悲劇的は、大鵬玉子焼きだかヒデキ感激だか知らないが、まだ商業的に通用するのではないだろうか。

 しかし、標題好きには申し訳ないが、マーラーの交響曲は標題音楽ではない。純粋音楽という云い方が必ずしも正しいとは思えないが、便宜上、それしか云いようがないので、純粋音楽というが、当たり前だが、純粋音楽である。

 だがさらに、マーラーの音楽は奥がある。

 標題は無くとも、標題性は、大いに認められるという。

 2.タイトルではない、例えば作曲イメージとしての標題性

 これを何というか難しいところなのだが、根源的標題性(内的標題)とでも云っておく。マーラーはコレ無くして作曲ができなかったタイプの作曲家で、職人的に音符のみを操作して、では、けして作曲しなかった。それは、スケッチにイヤというほど書き込まれたイメージの文句でも確認できるし、長々書かれた解説文章とか、楽章の仮タイトルとかでも確認できる。マーラーの交響曲には、深い根源的標題性が必ず潜んでいる。

 で、ぶっ飛んで9番だが、9番の標題性を確認するところから、はじめたい。

 識者が既に指摘していることを確認するに留まるが、9番には 死 告別 別れ こういうイメージで語られることが多い。それはまあ、音楽がまったくもってそうであるし、非常に分かりやすいイメージだろう。挙句が外国の何某という評論家が評したという 「死が私に語ること」 この詩的な一文が標題として闊歩した時期もあったようだが、自分が聴きはじめた90年代初頭にはもう無かったと思う。

 それへの反動で、9番の持つ音楽技術的な革新性をことさらに持ち上げて、「これは純粋音楽だから」 「死とか告別とか、ホントはカンケーないから」 「イメージで聴かないで、このすごい意味深な引用や対位法や革新的和声やシツナイガクテキカンゲンガクホーに注目しないと、本当の意図は分からない!」 という潔癖症が出現した。

 正解は、両方とも合っている、ということである。

 そもそも、9番に死のイメージをつきまとわせたのは、ワルター、ベルク、メンゲルベルクあたりが最初ということだが、彼らは全て、単なるイメージや思いつきでそういう事を云っているのではなく、今では我々が眼にすることも容易ではないマーラーの手稿やスケッチをたっぷりと超1流の音楽家の眼で研究した結果、そのように云っているという事実。

 つまり、9番の根源的標題性は、まぎれもなく  なのだ。

 それはマーラーがそのようにして作曲している。わざわざ否定する必要はない!

 かといって、ことさらにそういう観念的イメージにこだわって、詩的なタイトルを勝手につけて悦に入るのも、感心できる鑑賞態度ではない、ということを、既に優れた識者も最新の説で述べており、私も大いに賛同するところである。

 ※そもそもワルターは最初からそういう態度であり、4番について、純粋音楽であると断っておきながら、延々と各楽章やその主題の特徴を 「フロイント・ハインが舞踏の音楽を奏で始める」 「聖ウルスラが笑いながら佇んでいる」 「天上の暮らし」 などと標題づけて、一見矛盾する発言をしている。そこでワルターの云う標題とはつまり、タイトル的表層標題ではなく、根源的標題性のことである。フローロス/マーラー交響曲のすべてP144

 死。

 それは人生の終着点であり、人生の最高の瞬間の次に来る、到達点であるだろう。1番から死の影におびえ、死に憧れ、逆説的に死を通して生への執着を見せていたマーラーが、8番でまったく生の、愛の賛歌を書き上げた後、大地で再び世俗を超越した視点で生きるということを見つめた後、次に純粋に死を見つめるのは当然かもしれない。そして交響曲世界の終わりであり、終わったからこその、新しい世界(クック版)が始まる。

 8番→生の讃歌
 大地→生への執着
 9番→死

 このあと、どのようなテーマが現れるだろうか? 

 10番→(未完成ゆえ、確定はできないが、とにかく)まったく新しい道

 それゆえ、人間性を超越した、忘我の世界、無常観、自分の交響曲世界が終わることへの別離、感傷、諦め、そして安らかなる到達感という意味での安堵、などなどが入り組んで絡み合った、非常に複雑で繊細な精神が根源的標題性となって、引用を多用することにつながり、さらに、独特の最高峰の書法につながっていった。
 
 それらの複合効果として、他に類を見ない、マーラーのみならず、全交響曲中でも屈指の名作である、9番を誕生させた。

 それがマーラー世界の最高峰ではなく、なんなのか。

 最後に、くどいようだが、私のマーラー理解、つまり演奏解釈につながってゆき、鑑賞の基準にもつながってゆくものの根源なので、再確認するが、

 9番では、引用の多様、崩壊寸前のソナタと調性、薄いが実のある管弦楽法、等の独特の書法が結果として死的なイメージを喚起するのではなく、マーラーの中の死、別離、告別、などの明らかにマイナスのイメージが、それを具現化するための書法を導き出した、と考えるのが妥当である。

 正確には、もちろん作曲作業はそれら全てが互いに影響しあった同時進行なのであるが。

 だから、珍しく演奏法にまで言及するが、これは他のナンバーにも通じるが、書法からイメージを導き出そうとする解釈はあまり共感しない。本末転倒だから。もちろん、今はもう逆に少ないだろうが、大衆的なイメージのみの爆発感傷演奏も、上記の理由で、正確ではない。マーラーは自分のイメージを正確に楽譜に書く作曲家だったが、それは、「他の指揮者が自分のイメージをイメージできるはずが無い!」 という単なる疑念の結果であって、書法の一部では無い、それ自体が表現の一部ではないと思うわけだ。だから無視する指揮者もそれはそれで今となっては特に問題ではないが、書法から切り込んでゆく指揮者は、そのマーラーの心配事まで書法の一部として捕らえざるをえない。だから、なんかヘンなのだな(笑) 繰り返すがイメージを具現化するための書法、であり、書法をもってイメージさせるのではない、のではないかと。

 従って、好き好きもあるが、バランスの問題だろう。現在では、書法6のイメージ4くらいが、イイかな(笑) マーラーが指揮者として自分の交響曲に求めていたものは、明快さ(明快に鳴ること)であって、けっしてイメージ優先の感情ゴッタ煮演奏ではないと思うので。

 とはいえ、一口に 死 と云っても、とらえ方は様々だ。後記するが、ここでの死はあくまでメタファーとしての抽象的な死であって、リアルな死ではないように強く感じている。特にマーラーはこの時期、病気(誤診)もなんのそので心身ともに活力にみなぎって指揮に作曲に大忙しで、とても死とか衰弱とかいうマイナスイメージが出てくるものではない。その活力の中から、この曲の内容にある音楽としてのマイナスイメージが出てきているのが作曲という創作活動の面白いところで、曲のマイナスイメージ=マーラーの体調や精神のマイナス ではない。まさにストラヴィンスキーが云う、「音楽は感情を表現しない」 を地でゆくものである。つまり、9番は巷間あるような、 「病気や精神的ダメージで衰弱し、息も絶え絶えの状況でなんとか書いた、死にまみれた9番」 では絶対にない。そんな弱った人が書く規模や内容の曲ではないし、そんな人がこの大曲を「ひと夏で」書けるわけがない。むしろ、活力と生命力の裏返しとして、生の反対として、メタファーとしての死なのではないかと。


最高峰の中の白眉
 
 9番の白眉は1楽章だと思う。これはゆるぎないことで、すなわち、全マーラーの楽章でも格別の味わいを有しているものだと思う。もちろん、無条件になんとなくすごいのではなく、凄いなりの理由があるのだが。

 既にパウル・ベッカーによりこの9番自体が 「前代未聞の」 音楽であることが呈示されているが、その中でも別格なのが第1楽章だろう。

 聴けば誰でも分かることであるが、1楽章はアンダンテである。あからさまにアンダンテが第1楽章の交響曲は、メジャーどころであってもマーラーが最初なのではないか。そもそも交響曲は、鳴り響く形式(ハンスリック)というだけあって、形式感が命だったりする。それをマーラーは生涯をかけてじわじわと破壊していったのだが、滅茶苦茶にしてしまうことはなかった。「これ、交響曲にすることないよ、違う音楽として発表すればよかったのに」 ということは、結果論としても、マーラーにはあり得なかった。人によっては8番とか大地をそう思うかもしれないが、それとて、交響曲ではなくてはならなかった。

 たいてい、第1楽章はアレグロ・ソナタ形式が来る。アレグロの前に、序奏でアダージョがつく場合もある。とにかく、1楽章は「管弦楽の中のソナタ」の中のさらにソナタ形式で、交響曲という音楽形式の中の核心で、作曲家の腕の見せ所で、問題の提起部であってその交響曲全体の主部になる。

 確かに、この1楽章の形式は判別着き難い所まで、調性も含めて、無調無形式寸前の、崩壊の一歩手前のおそるべき緊張感を孕んでいる。それが、凄味というか凄さの根本のひとつでもある。

 識者には変奏形式を見るものと、かなりゆがめられているがいちおうソナタ形式を見るものがある。それはどちらともそのようにとれるし、とれない。まったくマーラーの9番1楽章形式とでも云えるもので、変奏というより変容の域に達している。この1楽章だけでも、永久に残る価値を有しているのは、疑いのないところだろう。死、別離、衰弱という根源的標題より発し、R.シュトラウスの大規模な交響詩、あるいはメタモルフォーゼンのごとき膨大な音楽的感情を有しつつ、冷徹なまでに各動機や声部が綿密な計算の元に組み立てられている。その精緻さは、マーラーの他の音楽(楽章)の比ではない。精緻さというのは、組み立てられる動機の息が短く、細かいことに由来する。ここにはもう、1〜4番のような朗らかな旋律線も、5〜7番の豪快な突進力も、何も、無い。あるのは、8番の「我が音楽世界万歳」奉讃歌と、大地の狂おしいまでの生への執着から導き出された、凍りついたような、死への憧憬と世界への別離の結晶だろう。

 ソナタ形式ととる者は、草稿にあったというリピートの存在がその根拠としてとらえる。つまり、明確に、そこまでが呈示部だという確証になる。本当はリピートが「仮定」されていたので、ソナタ形式に相当する、といったていどだろうが。

 冒頭の弦楽、ホルン、ハープがだんだんとテーマ(モティーフ)を断片から導き出す手法は幽玄に満ち、なんともいえない独特の世界を造り上げ、マーラーの中でも特にレベルの高い管弦楽法を示している。こういう、複雑を究めた人のみがたどり着けるような、見た目に単純なだけではない、中身を伴った究極の簡素こそが、真の芸術家の仕事だろう。それらがすべて、第1主要主題群ともいえる、モティーフの連続的表現として登場する。その中のひとつは、明らかに前作・大地の歌からのエコー。

 しかしここには、似たような響きではあるが、10番の冒頭にあるような、虚無は無く、死といってもかなり死や別離といったものへ対する憧憬が感じられる。ここでは死は現実ではなく、永遠の別れの象徴としての、自己陶酔の対象のように感じられる。

 それが証左に、次いで現れる主要主題の、なんと甘美な事!! この甘美さこそ、9番の特徴であり、10番のようなやけに生々しいリアルな現実(ああ、ああ、ああ、アルマ!!)や、現実としての死(消防隊員の野辺送りのドラム)ではない、どこか夢を見ているような、パロディやユーモアとしての死の特徴なのではなかろうか。しかしその動機も、死神の象徴たるドラの一撃により、死のモティーフに取って代わられる。

 この楽章(音楽)の特徴は、主題といっても、それが様々なモティーフの集合体である、ということだろう。ここには一本調子の単純なメロディーとしての主題はなかなか登場せず、いろいろな、単純なモィーフが複雑に絡み合ってレベルの高い合奏としての全体的な主題を主張している。そんなわけで、調性も確定せず、曖昧が曖昧のまま、どんどんドラマとして大きくなって、膨らんで、宇宙のように膨大な空間的な広がりを見せる。芯が無いということではないのだが、どこか無重力的な浮遊感に支配され、聴くものを惑わしている。 その動機とは、大地のエコー動機をメインに、ハープの鐘のような、死の扉のノックのような動機、そして6連符の動機。この3つの動機が執拗に入り交じって、派生し、重なり合って影響し合って1楽章は構築される。

 そしてじわじわじわじわと、まるで無形式のように盛り上がって、一気に静寂がきて、展開部となる。だいたい、7分くらいか。ティンパニがハープの音形を模倣し、各種の主題群が、それぞれまたかなり自由に変容する。テンポも自在に動き、一定ではない。

 そこらへんが、例えば、あくまで分かりやすい例えだがブルックナーのように、ブロック構造でガツンガツンと積み上ってゆくような構築感ではない、生き物が増えてゆくような、木が成長してゆくような、有機的かつ、無形的有形の姿が、いまいち分からない人には苦手になっているのではないでしょうか。

 展開部ではおよそモティーフの変形がまるで6番や7番のような構造をしており、そういう下地があってこその技術だと認識できる。考えれば、9番は7番以降初めての器楽音楽であるし。

 そして、じわじわと巨大になってゆく1楽章は、展開部の最後で(18、19分ほどの部分)雪崩のように全ての楽想が崩れさってしまう。ここの衝撃は、ベルクをして 甲冑をつけた騎士が死にゆく様 として特に注目している。ここでも、モティーフの喚起するのは死である。しかも英雄の死。

 弦楽が魂の、肉体の墜ちゆく様子を再現し、死の象徴のドラが割れ鐘のように鳴り響き、ティンパニが死の太鼓を叩き、トロンボーンが断末魔の悲鳴を呻く!! このトロンボーンこそ、死のテーマの吹奏であって、これをさらっと風のように爽やかに吹かせる指揮者の気がしれない。

 ティンパニは延々とハープの音形を模倣し、死のリズムを刻みつける。やがてその鐘のテーマは、本当に鐘が鳴りはじめて、死が現実的となる。いよいよ再現部となり、音楽はうねりにうねり、紅潮して、私がこの楽章でもっとも不思議な気持ちになる部分、すなわち、381小節目を迎える。つまり、ホルンとフルートの二重奏。(22、23分ほど)

 うーん、私もそんな、特別いろいろな曲のスコアを読み込んでいるわけではないが、この時代、フルートとホルンの二重奏というのは、かなり変わった響きだと思う。そもそもマーラーにはこういう管楽合奏的な部分がよくあるのだが、ここはもう室内楽のレベルにまで薄くなっている。ホルンとフルートを支えるのは、ほとんど低弦のみ(ちょっとアクセント的にクラリネット)で、これは本当に両者の音の出ない部分を補佐しているのみで、CDだとあまり聴こえない。

 そこは、ふつうは、木管同士で、フルートだとクラリネットかオーボエが二重奏の相手となるだろう。木管合奏にホルンが入るのは、昔からあるのだろうから、そういう意味では、トランペットとかと合奏するよりは、妥当な発想ではある。

 しかし不思議な印象を与える部分だ。この究極のポリフォニーともいえる音形は、前はアルマとマーラーの独白、あるいは夫婦の語らい、からみ、夫婦喧嘩のようにも聴こえたものだが。

 テーマはフルートが先行し、同じ小節の2拍遅れでホルンが追随する。フルートがアルマか。マーラーはホルンか。二者はお互い好き勝手に何かを云い合うようだが、不思議と一致する部分もある。そして、最後は、ピタリと両者は一致し、ホルンが勝つ。

 そこからは、まるで最初に戻るように、次々とモティーフが再び断片へ分解され、空間に散ってしまうように、静寂の中へ消えゆく。フルートとヴァイオリンの独白には、もはや相手はいない。なんという美しさだろうか。なんという儚さだろうか。なんという陶酔。ここには、マーラーの究極の想いがつまっている。

 この楽章は、はたして現実を超越したマーラーの夢なのだろうか。


死のレントラー〜しかしその死は道化としての象徴的な作られた“死”

 そこから、我々が何を聴きとるのか、ということ。

 第2楽章。

 まさに至高の1楽章からの落差。それこそがマーラー。戦慄と緊張と夢見心地の陶酔美のうちに1楽章が終わり、観客が呪縛より解き放たれ……コホンコホン……ざわざわ……ン、ン……ヴァイオリンの簡単なチューニングの後、サッと指揮者が手を上げる……固唾を呑む聴衆……まさに息をするのも憚られる……。

 ♪ドレミファソッソッ

 ズコー、である。

 この落差は、既に聴き込んで知っているからこそ平気だが、当初は (゜д゜) こんな感じだった。 「?」 っていう。7番の5楽章に匹敵する衝撃だった。

 高名評論家のU氏は、当人も認めている通り基本的にマーラー聴きではなく、9番などは1楽章と4楽章のみで良いという。そんなバカナとマーレリアーナ諸氏は思うだろうが、特にマーラー聴きでない人はそんなもんかもしれない。 
 
 しかしマーラーは、スケッチでこれをユーモアと書いている。まったく、どこまでブラックなのだろうか。死と別れをイメージしそれによって作曲した第9に、8番・大地で封印してきたユーモアを、復活させた。そしてご存知の通り、ユーモアはさらに続く!!

 これは一体どういうことなのだろう。

 ここでは副題(標題)は無く、単に「2楽章」となっている。大まかに云うと、ロンド風レントラーという事である。様々な識者が指摘するように、ここでは、初めて聴いた者には混乱と困惑しか印象を与えぬ、はなはだ粗野で、野暮ったい、しかも複雑な進行の3種類の田舎踊りを再現した。1楽章・4楽章は聴けるがどうにも中間楽章は苦手という人は、マーラーのしかけた罠におもいきりハマって、抜け出せずにもがいている。
 
 ここにきても、マーラーの毒はたっぷり仕込まれている! その意味では、9番は4番に近いかも、というマーラーの言葉は、なんとなく分かる。あの毒だらけの4番! 4番の死のレントラー! 死神のスケルツォ! そこでの根源的標題としての毒は、9番で再現されているという!

 さて、マーラーはポリフォニーの作曲家だと思い込んでいる人も多いと思うが、私は逆だと思う。1〜3番や角笛歌曲あたりを聴いてもお分かりの通り、マーラーは基本的にホモフォニーの作曲家だ。それが4番を経て5番を作曲するにあたり、バッハを鬼みたいに勉強して、凄まじいまでのマーラー流ポリフォニック構造を編み出した。そのいわゆる器楽3部作の真の価値は、ホモフォニーとポリフォニーの究極合体なのではないか。その意味で、マーラーはチャイコフスキーの6番「悲愴」を聴いて、なんだこんなもの、あまりにホモフォニーすぎると酷評したのだが、自分は単にホモフォニックな音楽は克服したんだぞ、ヤツはまだこんなもの書いてるのか、という自負でもあったのかもしれない。

 マーラーの後、そのポリフォニーも含めたマーラー流作曲法の直伝後継者は、けっきょくいない。マーラーは生前は指揮者が本業であくまで 「作曲もする指揮者」 だったから無理もないでしょうが。

 とゆーわけで、ですね、この2楽章にいたって、マーラーがこの期に及んで旋律的な音楽を書き、失敗だとか浅いとか、無くてもいいとか、価値がないとか、それは批判の理由にはならんと思うのですよ。

 ここでマーラーが聴き手にしかける「死の罠」。それは、あくまでユーモアであって、死のユーモア、最後の舞踏会、死の舞踏会、つまりトーテンタンツであって、踊っているのはガイコツばかりなのでしょう。2番では5楽章の死の行進で墓から亡者が甦って、好き勝手に歩き回ったが、その延長にある世界なのではないか。だとしたら、まったくもって、マーラー流の、正統なマーラー流の最後のレントラーであり、それは我々マーラー聴きにとって、マーラーを聴く醍醐味のひとつでは無かったか。

 これを聴かずして、なにが9番か! むしろ9番の本質は、中間楽章にあるのではないか。そうとすら思える。

 ここには、三種類のレントラーが使われ、それぞれ、テンポ1、テンポ2、テンポ3となっている。それらをA、B、Cのテーマといってもいい。それらが入りまじって進行し、だんだん速くなる。ロンド形式でもあるが、明確にロンドというわけでも無いらしい。というのも、ロンドというのは形式というだけあって、ある程度法則に従って繰り返し、進行してゆくのだが、ここでは一口にロンドというには繰り返しがあまにりバラバラだというのだ。

 じっさい、マーラーが各種のテーマの部分の楽譜を切り貼りして作曲していたらしく、そのこれまでの形式観から逸脱した意表をついた進行は、いまでも、各部のつながりが悪いといった批判にもなっているだろう。しかし、いちおう完成したとはいえ、自分で演奏のたびに細かく推敲していったマーラーの手が入っていないから、そこらへんは、批判してもどうしようもないような気もする。3楽章もそうだが、テンポ指示とか少ないから、指揮者の裁量に委ねられている。その意味で、指揮者のやりがいのある部分かと。

 テーマの繰り返しはだいたい以下の通り。

 テンポ1 ゆっくりとしたレントラー ドレミファソッソッ からはじまるものと、その派生

 テンポ2 激しい舞曲ふう ワルツ 3/4拍子 騒々しく、粗野なイメージ と、その派生 

 テンポ3 たいへんゆっくりとしたレントラー 牧歌的 と、その派生 

 テンポ1
 テンポ2
 テンポ3
 テンポ2
 テンポ3
 テンポ1(だんだん速くなる)
 テンポ2(速い)
 テンポ1スビト(終了)
 
 うーん、いまいち掴みづらい進行。そしてクドい。その印象は、3楽章においても、続けられる。


暴力のロンド−ブルレスケ

 こっちは正式にロンドと冠されている。が、どうも2楽章のほうがロンドっぽい感じだ。

 ここでは、ロンドということだが、ロンドより大切なのは、この音楽はブルレスケ〜つまり、冗談っぽく、というような意味の、R.シュトラウスにもある(ピアノとオーケストラのためのブルレスケ)、特殊な音楽ということだろう。マーラーの中で、ブルレスケなどとズバリ音楽の指針を書き込まれている楽章は、あまり無いような気がする。

 しかしここでは、2楽章のような朗らかな素朴なユーモアではなく、もっともっと荒々しい、騒々しい、異様な雰囲気が描かれる。そもそもスコアの厚さが異様であり、しかし、時間的には全曲でもっとも短い音楽となっている。厚みのある音楽の塊がものすごいスピードでギュウギュウとひしめき合いながらさらに加速して行って、最後にムリヤリ御破算。その後に待っているのは、遙かに薄いのに、はるかに長い、4楽章。その落差自体が、冗談なのか。

 またロンドといえば、5番及び7番のそれぞれ5楽章を思い浮かべよう。そこにあるのは(あったのは)集結としての正しいロンドだった。しかるに、ここにあるのは、集結どころか、聴くものを憤慨させる悪い冗談である。

 まずは解説書でも頼りに、ロンドの構造を把握しておこう。そうでもしないと、メチャクチャの音響に身を流されて、ぐわわー!という内に終わっている。

 しかし、そうはいっても、2楽章のほうが、明らかにその名の通りテンポも異なるテーマが、テンポ1 テンポ2 テンポ3 として出てきたからまだ良い。ここでは、ただ聴いていると、まるでABA'の3部形式だ。が、そのAの中に、たくさん動機が含まれている。

 まず ブパプー! とあまりに乱暴な動機がホルンで吹き鳴らされ、それを次々にオーケストラの各種楽器が追随する。速度はアレグロである。ようするに、速い! この速さも冗談のうちなのだろう。ポケットスコアでも見ていただくと分かるが、この速さにしては、音楽がおっつかない。8分音譜が16分の速度で演奏されるため、ガンガン先にゆく。

 それからの進行はだいたい以下の通り。

 第1部 アレグロアッサイ(非常に揺るぎなく) 
 フガート1
 第2部 レッジェーロ(トライアングル登場)
 第1部(シンバル)
 フガート2
 第2部(グロッケン登場)
 フガート3
 
 ここまでが、ABA'だとAに相当する。時間的には半分よりやや前くらい。一気だ。一気呵成にここまでくる。そういう勢いが無くては、この音楽はいけない。
 
 次いでBだが、これはテンポがまったく変わって、次の4楽章を彷彿とさせる、回音よるテーマが次々と登場して気分を変える。エスプレッシーヴォ。5分ほどもあり、演奏時間的には半分近くをしめる。

 そして、再び第1部のテーマが戻る。再現部とも云える。そしてテンポプリモスビトで速度がさらにあがり、さらにコーダはプレストだ(笑)

 上の続き

 第1部 アレグロアッサイ(非常に揺るぎなく) 
 フガート1
 第2部 レッジェーロ(トライアングル登場)
 第1部(シンバル)
 フガート2
 第2部(グロッケン登場)
 フガート3
 エスプレッシーヴォ(シンバル〜4楽章を彷彿とさせる回音)
 第1部 テンポプリモスビト ピウストレット(小太鼓ザー!)
 プレスト(コーダ−終了)

 もうメチャクチャ。巨大な音響の塊が、いや、巨大な軍隊が剣や槍を振り回して雄叫びを上げながら怒濤の攻撃をしかけているようだ。この騒々しさは、狂騒ともいえる騒々しさは、まさに音楽による音楽のための、乱暴すぎる冗談なのだろうか。

 各楽器の、特に管楽器の、しかもこの速度での、おそるべき後の音色旋律に匹敵する次から次への断片的なテーマの吹奏は、究極のアンサンブルをオーケストラに課す。ここがズレては、もう(笑) 聴いていられない。ごちゃごちゃになる。
 
 しかし、ちゃんと機能していたとしても、音楽自体は、そういうグチャグチャのイメージを想起させる。そういう演出なのだろう。やっぱり。乱暴に金管がブカブカとテーマを執拗に繰り返す。しつこい。2楽章よりしつこい。その不気味さ。イライラ感。木管はヒーヒーいっている。弦楽は狂ったようにひたすら音形を弾きまくる。それらが総合して、一個の楽器としてオーケストラがフガートを奏する。

 この楽章を聴いているとイライラする、良くない、という人は、なんという素直な聴き手なのだろうか。マーラーの思う壺だ(笑) これまでのマーラーの楽曲を省みて、マーラーがちゃんと 「聴いている人がイライラするように書いている」 のは明白。初めから聴いていてイライラするようにできている。それを初めて聴いたような人や、何回かしか聴いたことが無いような人ならばともかく、9番が大好きと自認するような聴き手が、「9番は好きだが3楽章は聴いていてイライラするから好きではない」 とは何を云っているのか、それこそ悪い冗談ですか、と伺いたくなる。

 そこからさらに一歩、踏み出して、なぜ人をイライラさせるようにわざわざ作曲したか、である。マーラー本人の心理状況や4楽章との対比等も、もちろんあるだろうが、やはりそこは(4番に性格的に一番近い!)あまりにもブラックな毒、ユーモアなのである。

 この音楽による暴力のユーモア。その暴力が向けられる相手は何者なのか。何のためにそういうことをするのか。それが理解できるかどうかがマーラーを作曲家側からも楽しめるかどうかの境界線なのだが……正直、私はよく分からんですな、あの人のそういう豪快に3回転半ひねりを加えた皮肉の感性。

 さらに、響きに関しては、打楽器がそれへ彩りを添える。この打楽器の効果的な用法は、さすがマーラーだと思う。まあ10番クック版のバスドラムのような天才の筆もあるが、ここでの打楽器の活躍は、9番の中でも、良いと思う。1楽章も良いのだが、3楽章の方が、すごい。フガートによる分かりづらい各動機部の中にそれぞれテーマとなる打楽器が登場して、印象づけている。

 上にもあるが、第1部とフガート1は、聴いていると専門家しか分類が分からないだろう。同じといえる。それで、第2部も似たような音形なのだが、トライアングルが出てきて、雰囲気を変える。マーラーといえばトライアングル。けっきょく最初から最後までトライアングル。

 鋭いシンバルの音(ff)より第1部が再現して、フガートもちょっと異なる形で出てくる。すると、グロッケンがキンキンなる部分があり、そこから第2部。もちろん、ティンパニ、シンバル、バスドラム、トライアングルは、鳴り続けている。

 エスプレッシーヴォは fz のシンバルより、一休みなのだが、ティンパニはトレモロを叩いている。

 そして第1部回帰テンポプリモで、たったの1か所だけ、小太鼓があるのにお気づきだろうか!(笑)

 これは、さすがの私も気づかなかった。ずっと気づかなかった。ある時、何とはなしに、ポケットスコアの編成表を眺めていたら、打楽器がつらつらと書いてあって、小太鼓 とあるではないか。小太鼓? 私ははて、と思った。9番に小太鼓? どこで!?

 CDを聴いてみた。分からない。1楽章にも2楽章にも、無い。3楽章も分からなかった。まさか4楽章、だ。スコアを確認した。打楽器の所だけをずっと眺める。いちばん左に、楽器名が出てくるので、聴きながらそれを注意した。

 あったw

 Kl.Tr これがドイツ語で Kleine Trommel クライネトローメルすなわち「小太鼓」である。

 第3楽章、プレストの5小節前、636小節め。

 たった1小節!ww
 
 トレモロで ザアー!!

 吹き出してしまった。そして考えた。どうして? なんで1小節だけ?

 これは、草稿状態だから? 否。いちおう完成している。今後の推敲はもちろんあっても(無かったが)、草稿ではない。

 やはりこれは、初稿いうことで、マーラーはとりあえずその時点では、全楽章でそのたった1小節のみに、スネアドラムをロールで入れたのである。

 これは、6番のハンマーよりも、はるかに重要な問題だ!

 と、思うのだが、この件に関しては、識者の誰も言及していない。ので、よく分からない。自分で勝手に考える。

 これはしかし、いわゆるオーケストレーションの部類の問題で、マーラー流の根源的標題の意味はあまり無いように感じる。従ってこれを、マーラーのざらついた心の(放送時代の砂の嵐を先取りするような)一瞬のオマージュ的表現だ、などと心理表現ぶってみても、正直、関係ないと思われる。

 音楽的に、このスネアのロールが導き出すのはなんだろうか。

 これはやはり、素直に考えて、プレストへの導入のためのアクセントしかないだろう。回音による部分が終わって、テンポプリモ・スビト(急にテンポ1)、それから617小節よりピウストレット(いっそう咳きこんで)音楽は速度……というより、それらの表現の通り、焦燥感を増す。
 
 他の打楽器、特にティンパニが特徴のある変則的な下降音形でその焦燥感を助長するが、それは主に低音金管と効果を同じくする。スネアの前の小節では、高音のヴァイオリンと木管が、グロッケンと同じリズムを刻んで、走り込み、それを受けて、一気にヴァイオリンとヴィオラがスネアといっしょに持続音を刻む。ンッキンキンキンザー! という感じ。それからタカタン、タカタンと駆け上がり、一気におりて、プレスト。

 そう考えると、これを引きずるように重々しく鳴らすのはよくないだろう。前に進むトレモロではなくては。

 全軍総突撃の前の景気づけ。

 「そらいけ!」

 このスネアはしかし、クック版で、4楽章の冒頭につけられたり消されたりしているスネアの、つけられる場合の有力な前例となったと思う。

 しかしまー、疲れる音楽である。(自らの交響曲世界の)最後になってまで、このような音楽を書くマーラーの精神力というのは、常人の域を完全に凌駕している。


世界の完結 

 1、2、3楽章の素晴らしさを認識してしまうと、ついつい 「9番で最も価値のない音楽がこの4楽章かもしれない」 などと斜に構えて思ってしまうが、とんでもないハナシで、この4楽章は、やっぱり凄いと聴くたびに痛感する。この、ポケットスコアにして3楽章の1/4くらいしか無い少ない音から、どうしてこんな圧倒的な音楽が生まれるのだろうか。

 テンポが遅いから、とかいう話ではない。

 こらもう、人類の奇跡のひとつだと思う。

 この圧倒的な音楽感情が大衆へ訴えかける力の凄まじさというのは、9番には1楽章と4楽章だけあれば良いという想いも無視できなくなるほどの強力な暗示にも似た透徹した音楽の力学をまざまざと見せつけられる。

 それは、いくら薄かろうが、ある種のホモフォニー的な、旋律としての音楽の力がみなぎっているからだろうと思う。逆にそれが、4楽章の他の楽章よりワンランク下に聴こえる原因かもしれない。5番の4楽章のような。しかし必ず旋律には寄り添うようにして、ポリフォニー的な構造がついている。ただそれが、同じターン音形による対比になっているだけである。
 
 構造的には意外と単純で、アーチ型をした大規模なアダージョ、あるいは

 第1部(主要主題とその発展)
 第2部(副次主題とその発展〜ブルレスケのエスプレッシーヴォよりの発展含む)
 第3部(クライマックス)
 第4部(主要主題の変容としての再現→解決)
 コーダ(アダージッシモ〜「子どもの死の歌」よりの引用)
 
 という実に分かりやすいものだが、マーラー流に、いったん提示された主題あるいは動機、エピソードは、同じ形で再現されてはならず、必ず変化されて再提示されるものだから、常に微細に蠢きながら美しく変化してゆく。それゆえ、大きな変容にも思える。が、もはやこの曲においてマーラーの形式感は完全に超越され、マーラー形式とも云えるものになっている。

 狂おしいほどの、10番の5楽章の最後にも通じるような、弦の壮大な歌い上げ。まるで咆哮だ。3番の冒頭のような、6番の4楽章のような。真に、魂の叫び。それから静かな、実に静かで美しい、大地の歌とも異なる完全な、悲哀や情緒を超えた、真に美しさだけによる、音楽だけによる美しいアダージョが始まる。

 その主題の切々とした、しかしけして弱々しくない、むしろ限りない意志を秘めた訴える力というのは、比類ない。ここに勇気を与えられる要因があると思う。

 続いて28小節目よりコントラファゴットを伝道師とし、低弦を主体とする副次主題が登場するが、これはさすがにこうべを垂れ、重々しく鳴らざるをえない。しかし弱々しくはない。

 だいたい、日本人はたまにプロの演奏家でも、 p や pp まして ppp となると、死にそうな鈴虫みたいに弱々しくやるが、大間ちがいである。

 イタリア語辞典で piano ピアーノ をひいてみると一目瞭然。


 1.平らな、平面な、水平の
 2.平易な、分かりやすい、明白な

 1.ゆっくりと、慎重に
 2.小声
 3.[音]ピアノ、弱く ←音楽用語として特別な意味
名(男)
 1.面、平面、台、段
 2.床
 3.平野
 以下続く

 つまり音楽用語としての「弱い」という意味ですら「弱々しい」と勘違いして、p がつけばつくほどヘロヘロな音を出す人がいるわけで。絃も管も。残念ながらそれはマチガイであって、ピアノというのはピカピカの大理石の床のように硬質な、そして静寂の中の日本刀の輝きのように緊張感のある、空間の中で完全に分かる細いレーザー光線のような音だ。大ホールのいちばん後ろのC席のさらに後ろの立ってる人にまで完全に寸分の途切れもなく聴こえなくては、ピアノではない。

 従って、たとえCDといえども、4楽章のラストあたりで、何を勘ちがいしたか今にも消えそうな、どこかはるか宇宙の彼方にでも行ってしまうかのような、細々とした切れ切れの弱々しい演奏を聴いていると、

 「貧弱貧弱ゥ!!」 などと叫びたくなる。(ウソ)

 ちょっと話が飛んだ。

 第2部はそのままやや長く、107小節のクライマックスまでドラマを形作る。途中には、73小節めで3楽章の回音テーマも模倣される。ここでは主要主題も副次主題も入りまじって、特にそれまでの弦楽合奏の形態より管楽器が発展し、独特の響きを出す。金管と木管と分かれるようにして交代に出てくるのも音色に変化があって面白い。

 そしてこの楽章最大の聴きどころ、107小節からの怒濤の盛り上がり、そして、バスドラの地鳴りからまず1回目の頂点へ、トロンボーンが嘆きのテーマを吹奏し、ティンパニが地鳴りを受け取る。しかしまだ続く。終わりかけるようにして、弦楽器が上昇する。そして真の頂点は121小節め、シンバルの一打と共に訪れる。残る弦楽。この感情の昂ぶり、タメ、そしてテンポプリモ、集結部への移行……。
 
 これは、たまらんですな(笑)

 たまらんですよ。

 そしてやや開放的な響きに変化し、音楽はゆっくりと、しかし確実に着陸態勢へ入る。もう一度シンバルが鳴って、結尾部の頂点を迎えると、あとは静かに静かに、ゆっくりと地上へ降り立つようにして、音楽は鎮まって行く。そこにあるのは安堵と、安心と、まさに浄土へ行くような心の平安か。

 そしてアダージッシモのコーダを迎える。

 子どもの死の歌よりの引用。162〜170小節の1stVn。ここはしっかりとむしろ逆に、途切れなく、鳴らさないといけない。蚊の鳴くような、かすれるような音では、逆効果だろう。

 本当に死にそうに鳴らすのは、上記したように、よくない。

 感傷的に演出するのは、それはそれで表現として許容範囲だろう。しかし、演奏者までが死にそうに泣きそうになるのは本末転倒。聴衆にそう思わせるためには、奏者はむしろクールにする必要がある。ここはしっかりと、ピアノで、逆に冷徹に寸分のリズムも音程も狂いもゆるさずに、アダージッシモの速度で、演奏しなければならないし、そっちのほうが難しい。奏法としてレベルが高い。

 マーラーが自己主張するのはそこまで。あとはもう、1楽章冒頭へ戻るように、音楽が分解されて、虚空にキラキラと結晶となって消えて行くのみ。

 さようなら。

 永遠に。

 さようなら。


まとめ

 最初のテーマに戻るが、マーラーがこの曲の(単なる)作曲動機的イメージ(根源的標題性)に死や別れを選んだのは事実であろう。そこで大仰に 「9番を書くと死ぬのを恐れた」 とかいう嘘八百エピソードは必要ないし、かといって不当にそのイメージを無視し、「これはあくまで純粋音楽だから、死とか関係ないから」 などという態度で上っ面のみの美音演奏したところで、それはもはやマーラーではなく、マーラーの影であろう。

 この曲で、マーラーは何と別れようとしたのだろうか。死というメタファーを通して、何と決別しようとしたのだろうか。この曲の随所に刻み込まれている斬新な未来的手法と、過去よりの引用。その両方の視点。

 これはマーラーの自身の交響曲世界の完成であり、そしてこれまでの自分の芸術的技法との別離であり、そして10番へ通じる、新たな自分への出発の第一歩である。

 私が、10番を(クック版だとしても!)完全にマーラー世界の新生交響曲ととらえる所以はそこにある。

 奇しくも、マーラーが取りも直さず完成させた最後の交響曲は、最期の交響曲となってしまった。4楽章の終わりの、精神の事象の彼方の中に、マーラー自身のこの世への惜別を感じて涙するのもけっこうだが、それにしては美しすぎはしまいか。マーラーがいくらペシミストだったとしても、あの音楽で自分の最後を飾るのはあんまりだ。それに完全に自らの死を感じて書いたのだったら、10番には着手しまい。

 しかし、自分のこれまでの作品世界の終結と決別を飾るとしたら。それに相応しい、実にマーラーらしい終わり方のような気がする。

 さようなら、我が世界!

 そして来るべき、我が行くべき新世界!

 それがアルマへの狂おしいほどの愛と憎しみ満ちた、極めてパーソナルな内容なのに、手法はさらに進化を遂げたものになりつつあったのは、示唆に富む。

 マーラーの愛と憎しみ、美と汚、聖と俗、混乱と調和、安らぎと焦燥、現実と幻想、大と小、天国と地獄、そして生と死。

 全ての矛盾に満ちた、矛盾が矛盾としてそのまま呈示され、なんら解決することなくこの宇宙に矛盾として存在し続ける、人間社会の構図、あるいは人間が人間として生きてゆくそのものの姿の世界はこれで閉じられる。私の個人的な勝手論も、ほぼ3年を経て2007年に初稿として終わります。後は、まだまだ聴いてない演奏を聴き続けて、変わる部分はどんどん改訂してゆきます(笑)

 とにかく、これだけは云える。 

 マーラー、偉大なり!


 実演で聴いた回数 2回




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