大地の歌(1908−1909)
  〜テノールとアルト(またはバリトン)と大管弦楽のための交響曲〜

 −“生きる”ということ−


 ここまで、個人的にマーラーの交響曲をいかにして聴くことが自分の理解の助けになるのか、どのようにして聴けばより愉しめるのか、というのを自問自答してきたわけだが、1番2番3番4番7番5番 6番同時、10番(クック版)と聴きかつ書き進めてきて、残るは8番、大地、9番となった。この3曲こそが私にとっての「マーラー後期3部作である」というのはクック版の項においてすでに述べてある。

 その後期3部作において、最初にどれから手をつけようかとしばし考えていたが、突如として大地の歌に想うところが出てきたので、真ん中の大地から始めてみたい。

 まず、この項の構成だが、第1部として、大地の歌の構成上の理解解釈、第2部で各楽章の俯瞰と、演奏上の難しい部分の概した洗い出し、そして第3部でそれをもってどのような演奏が望ましいか、というのを考察してみたい。

 なお、いまさら述べるまでもないが、それらはまったく私の「毒断と変見」による(笑)


第1部

 さて、まず断っておきたのだいが、他者(他書、他所)においてとっくに考察されている諸問題は、いまさら私が取り上げても面白くもなんともないので、あえて取り上げない。

 つまり、大地の歌は歌曲なのか交響曲なのか、あるいはバリトンの演奏効果はどうか、そして原詩の確認とベドゲやマーラーの意訳詩との対比。この3つは考察しない。

 しないが個人的な結論のみを述べさせて頂くと、大地の歌の管弦楽版は歌曲的交響曲であり、ピアノ版は交響曲的歌曲と規定できるということ。バリトンは、マーラーが生きていたら真っ先に推敲の対象にあげられるべき代物であるということ。そして原詩は、確認しようがしまいが、大地を聴くのになんら寄与しないということ。つまり、マーラーの詩を把握するのは大切だろうが、李白だの孟浩然だのと対比して、この部分は意訳だとかなんだとか分かって、音楽の理解の助けに少なくとも私はあんまりならないのである。創造の過程は示してくれるだろうが。

 では、大地の歌というマーラーの中でも(もしかしたら8番をも凌駕する)最も特殊な交響曲の、概要から俯瞰してみたい。

 特殊だというのは、何もナンバーが無いという点だけではない。全楽章が独唱による歌曲形式であるということや全6楽章構成ということもさることながら、やはり見るからにアンバランスな楽章配分だろう。60分という、まるでCD1枚に収まるのを予期していたかのような綺麗な全体構成にもかかわらず、1楽章から5楽章までが30分、残りの第6楽章のみで30分という異様な時間配分になっている。

 始めて大地の歌を聴いた学生時代(コロンビアのワルター/NYフィル)時間配分を見ずに、いまちょっと時間が無いから最終楽章だけ聴こうとして、ぜんぜん終わらなくて困ったことがある(笑)

 そこでこの時間配分や楽章構成をいかにして咀嚼するかというと、前例を探してみると、やはり3番につきあたる。

 3番と大地は相対関係にあるというのは、分かりやすい指針だろう。ただし、相似関係にあるとまでは、私は云えないと思う。共通するのは、6という楽章の数字だけで、あとは似ても似つかぬ。内容としても、同じ大地(この世)でも、3番は純粋な自然讃歌であり、自然を享受し利用し謳歌する(西洋的な?)人間の人生讃歌であるが、大地は、人間の生活そのもの、人間が人間として生きる(生きたい)という感情を赤裸々に歌った(東洋的な?)人生讃歌であって、相対はするがけして相似ではない。

 つまり外観が似ているというだけにすぎないということになるだろう。

 3番が、1楽章が第1部、2〜6楽章が第2部となっていることからして、大地も、同じく、1〜5楽章を第1部、6楽章を第2部、とすることができようが、それではあまりにそのまんまで芸が無い。ここで柴田南雄に倣い、大地の中にも、マーラーの奇数楽章制癖の内在を仮定してみたい。

 柴田が云うには、6楽章は間奏の後と前で2つに分けることができるため、4楽章を中心とした7楽章制のシンメトリーとして考えることが可能だという。

 そしてそうすると、4楽章のドンチャンした、大地唯一のフルオーケストラ部分を頂点として、きれいに楽章が対峙する。3楽章と5楽章。2楽章と6楽章前半。1楽章と6楽章後半。

 しかし私は、この考えではあまりピンとこない。共感するのは、3・4・5楽章が連続して7番の2・3・4楽章のように綺麗に対称になっているという点のみ。ただし、7番は 緩−急−緩 だが大地は 急−緩−急 の違いはあるが。

 またフローロスによると、大地は1楽章と6楽章、2楽章と5楽章、3楽章と4楽章が対峙するという。

 そこで私は両方の意見を加味し、6楽章を前半・間奏・後半と素直に3つに分けてみた。するとズバリ、前半・間奏・後半と3部形式になっている1楽章と、楽章そのものがピタリと相関する。

 そうすると、2楽章のみがポカリと浮いてしまうのだが、この目立たない小緩徐楽章のような、セレナーデのような音楽は、1楽章に付随するものとして考えると、1・2楽章で第1部、3・4・5楽章で第2部、6楽章で第3部と仮定できる。

 そうすると、3という奇数で、大地は全て把握できる。全楽章は3の2倍の6楽章。全体は5番のように3部に分けることができ、1楽章と6楽章はそれぞれ3部形式。第2部は3・4・5の3つの楽章でこれも3部形式と規定できる。また、7番ような、1楽章〜2・3・4楽章〜5楽章 という疑似3部形式ともとれる。いや、やはり大地も、疑似3部形式なので後者と類似か。

 そうしたところで、それぞれの楽章(部)を把握してゆきつつ、全体の愉しみ方に続きたい。

 最後に、お気づきとは思うがこの項も3部形式である。


第2部
 
第1楽章 大地の哀愁に寄せる酒の歌

 すさまじいホルンのシグナル的咆哮から始まる(実は)この3拍子の歌は、いきなり厭世観たっぷりの、この世の憂さ晴らしに浴びるほど酒を呑んで酔うというような内容に思える。しかも、ご丁寧に3回も繰り返され、だんだん調子が高くなって行くキメ台詞は高名な 「生は暗く、そして死もまた!」 である。暗いと云っても、Dunkel であってこれは英語で云うところの Dark なのだから、暗鬱な、暗黒の、というほどで、ただ単に暗いというのではなく、よほどの表現になっているのが注目できる。

 つまり、酒を呑んで憂さ晴らしできるほどの厭世観ではない。むしろ、もう、まさにお先真っ暗状態で、死ぬ前の覚悟の酒と云ってもよいと思う。絶望の中の絶望。月光の下、墓の上にうずくまって叫ぶ猿は、地獄の使者、死神の象徴とすら思えてくる。いったい彼(主人公)はどこで誰とどのような状況で呑んでいるのだろうか? 月下、幽鬼と共に呑んでいるのではないか? いきなりこんな調子で始まる大地の歌とはいったい、いかなる音楽なのだろうか? 我々は馴染みの深い中国風の旋律や美しい演奏効果に騙されて、少しこの音楽をお気楽に聴きすぎてはいまいか。

 マーラーがワルターに語ったという 「この曲を聴いたら自殺者が出るのではないか」 という言葉は、もう少し真剣に考えたほうがよいだろう。つまり大地の歌とは、そういう音楽なのである。

 直訳すると哀愁どころか、「この世を悲観するガブ呑み歌」 とでもなる第1楽章。実は6楽章ではなく、1楽章こそ死臭が漂う。自暴自棄となった主人公は、酒で大量のクスリを胃に流し込んでいないと誰が云えようか。猿は幻覚の象徴でもあるのだろうか? 娑婆苦に満ちたこの世(大地)において、生きることは闇のごとし。死ぬこともまた闇也。

 そしてそれは、まぎれもないマーラー自身の心境なのである。何が彼をそこまで追い詰めたのかは、既に深く他所により考察されているのであえて述べないが、初っぱなから、マーラーの並々ならぬ覚悟を聴く想いだ。しかし、ともすれば個人的な感情の吐露に堕しかねぬそういう状況の中にあって、作品として芸術として昇華させるマーラーの技術力と精神力に、私のような凡人は脱帽し驚嘆し忘我する他は無い。

 すると、グロッケンが軽やかに鳴り、意外に陽気な曲調も曲者だろう。あくまで酔いの歌だからととるか。それとも、4番に通じる皮肉ととるか。鬱病とかの人は別にして、正気で全てを捨ててこれから死に行く者は、意外と明るいのだろうか。もう何も無いのだから。覚悟しているのだから。未練があるから暗いのだと考えるとすると。表面は明るく装い、酔って歌ってはいるのだが、その精神の内は暗黒の絶望なのかもしれない。絶望の淵へ沈み込むのが常人の感性だが、ここでマーラーは精神が高揚して行く。

 なお、1楽章は、歌唱−間奏−歌唱 と3部形式になっているとはいえ、6楽章のように完全に 前半歌唱−間奏−後半歌唱 と、内容も分かれているのではなく、いわば仮の3部形式というか、3回ある 「生は暗く、そして死もまた!」 の2回めが終わった節より、簡易的な間奏部がある。

 ちなみに、本当は4連の詩なので、「生は暗く、そして死もまた!」は4回登場するのだが、マーラーは3回めを省略している。

 その短い間奏における、まるで印象的ではない、虚無的なことといったら、6楽章の比ではない。これは6楽章のように歌詞の意が変わる必要が無いためではないかと推察される。つまり6楽章のそれは本当の意味での 「場面転換のための、あるいは場つなぎのための間奏」 なのだが、1楽章は同じ間奏でも、「一息つくための」 短い間奏のように聴こえる。じっさい短いのだけれども……。

 その間奏が終わり、主人公はどんどん狂気を歌い続ける。

 そしていよいよ最後の 「生は暗く、そして死もまた!」 が、もう嘆息交じりに、息も切れ切れに、狂気的に甲高く、やや甘美に歌われた後、トランペットによる猿が悲鳴を上げ、唐突に魂は墜ちる。
 
 死。

 1楽章はこれから少なくとも私は震撼して聴くこととする。

 ちなみにヨーロッパに猿は生息しておらず、当時のヨーロッパ人にとって猿は想像上のレア動物だった。従って、完全にファンタジーの中の代物の猿が、月下、墓の上で啼き喚くなどという情景は、マーラーにとっていかにインスピレーションをかきたてる物だったのかは、それこそ想像に難くない。

第2楽章 秋に寂しき者

 急に雰囲気が変わるのだが、自分で1楽章と2楽章を一対として第1部としてしまったので、このまま進めたい。しかし、一対と云っても、内容的に関連性は無いだろうし、あくまで便宜上の素人の枠づけなので、その辺はご承知おいて下されば幸いである。

 さて、秋といえば、日本人はもはやとても孤独とか寂しいとかいう感情ばかりが優先しないだろう。芸術の秋、スポーツの秋、なんといっても食欲の秋である。マーラーの時代や、はては昔の中国にそんなものがあったのかどうかは知らないが、この楽章は存外つかみづらい、存在感の無い、浮遊感の漂う音楽だと思っている。

 孤独といっても、ここでは春夏の生命の謳歌に対称する黄昏のみが強調され、本来ある筈の収穫の喜びは微塵も無い。主人公はやはり何かに打ちのめされ、精神崩壊もじさぬほどのダメージを与えられた虚無的な状態において、それを美的な感性と情景に隠し、必死に耐えている。やはり、1楽章と非常に精神的につながりが深いのかもしれない。

 ここでも、秋の夕日に覆われた茜色の情景にひそむのはまぎれも無く「死」だろう。やがて訪れる死の世界、冬。豊穣の秋は、ここでは死を迎える前の黄昏の時間のみが、幽(かそ)けく流れている。1・2楽章をまとめて第1部と仮定してみたが、そのキーワードは死と云えるかもしれない!

 ここでは、黄昏の中に完全に時間が止まってしまっている。美しい中国旋律も、それは単に異国情緒なのではなく、マーラーにとって、遙かなる 「異世界」 の象徴ではないのか。

 そう、やはり関連性はあった。1楽章と2楽章のテーマは同じ。死。大地の歌の第1部は、死を歌っていると考えられないだろうか。

 ここをドラマティックに演奏し、かつ歌う莫迦はいないと思うが、1楽章と対とみなすと、1楽章の扱いがやはり遡って変わってくるだろう。

第3楽章 青春について

 3〜5楽章が対になって第2部と仮定できるとしたが、それにはそれなりに理由付ができる。3楽章から雰囲気が一変し、やおら、音楽に動きが出てくる。1楽章は激しいが意外にもあまり動きの無い音楽で、2楽章は既に述べたように旋律もリズムも時が止まっている。3楽章からは情景もさることながら内容も非常に生き生きと動き、大きな転換点の役割を果たしていると思う。ただし、その情景はあくまで幻想的で、想い出の中の淡い記憶の出来事と云えるかもしれない。

 3楽章の、池の中の小島(?)に建つ緑と白の陶器の東屋が、実は中国人の陶某氏の屋の事だったというのは他にもある有名な誤訳だが、ここでは、マーラーの音楽により、情景をわざと陶器の東屋にして進めてみたい。なぜならマーラーはその陶器の東屋と太鼓橋がかかる幻想的な池のほとりに、作曲しているのだから。

 このトライアングルが軽やかに鳴り、あまりにあからさまな中国音階で歌い出される出だしに、マーラー特有の躁状態を観る思いもするが、皮肉は感じない。歌われているのは、本当に世界の裏の中国に思いを馳せる当時の西洋人の単純な思考かもしれない。そしてそれは、具体的な中国の風景なのではなく、あくまで行く事のできない異世界の幻想的風景ではないかというのは、前楽章と同じく指摘する。

 この3分ほどの小スケルツォが、例えばクック版の3楽章のように全体の折り返し起点として働かないことは、よく分かることだろう。その意味で、4楽章こそ、その起点なのだという柴田の意見もうなずける。
 
 3楽章の歌詞にも深い暗喩は無く、微笑ましい若者たちの詩的な集いを描いているだけで、気軽に愉しめる内容になっている。しかし、どこか現実的ではなく、夢想・夢幻の出来事のようにも響いて、前楽章までの重苦しい死の雰囲気を一変させるのが、この楽章の役割なのだろう。それが証拠に、オーケストラはバス部がまるで鳴らず、どこか足が地につかぬ、幻想的な浮遊感を漂わせている。愛らしいはずのトライアングルは、そうなると聴く者を幻覚の世界へ導く鈴(りん)のようで不気味である。

第4楽章 美について

 第2部の中間を成す4楽章は、思いの外、演奏しづらくなっている。いわゆるドンチャンの部分なのだが、練習番号14と15の部分は、若者の乗った馬が乙女たちの前をわざと荒々しく通りすぎ、その気を引こうとする部分であるが、歌手はブレスする所が無く、演奏によっては凄い速度でシュプレッヒシュティンメのようになって、歌っているのだか早口でしゃべっているのだか分からないほど。

 これは完全にマーラーの未推敲による演奏難度高の箇所で、たいていの演奏では、最後から2節め、練習番号16の2小説前 Hei! Wie flattern im Taumel seine Mohnen,の Wie と flattern の間で大きくひと息ついている。(MohnenのoはUmlaut)

 うまい歌手はブレスを分からせないで歌うことができるというが、そういうふうな演奏も無くはない。また前記のように歌っているのだか分からないようなテンポで一気にもってゆく演奏も無くはないが、ほとんどが、そこで 「ハア!」 というほどにブレスしている。大指揮者と共演するような超一流の歌手が、である。マーラーほどの者が、そのような音楽を書く筈がないと思うので、未推敲が原因ゆえと思うのです。もしくは、ブレスを犠牲にしてまで、何を表現しようとしたか、でしょうか。

 この部分の歌詞もまた、3楽章に続くような、幻想的で、しかし1番交響曲や若人の歌のような青臭さの無い、完成された世界の中に、そういう若い時分の想い出をもってくるようにして、郷愁を誘っているように感じられる。美についてという題だが、美というよりかは、恋について、とか、さらに意訳するならトキメキについて、とかのほうがまったくピッタリ来る内容だろう。あるいはそういった情景の全体を差して、耽美という括りで囲ったのだろうか。

 4楽章の耽美的な内容の中にひそむある種の騒々しさ、どんちゃん騒ぎ、不気味な影、というのも、個人的には若者の無謀さの象徴や若者の中の影の部分のようにもとれる。

 実はこのドンチャン騒ぎの部分は4楽章の白眉で、こここそが、マーラーのこの曲における唯一の毒のようにも思える。4番の同じく(偶然だが)4楽章を思い出して頂きたい! ここをどうにも大地の歌にそぐわない、と云う意見は、そういう毒に聴こえない、耽美的情緒を演出した軽い演奏を聴いているからでしょう。
 
 マーラーが書いた全曲中随一のこの描写音楽は、大地の歌で唯一のフルオーケストラ部において(ティンパニは1時間の間、ここにしか出番が無い!!)馬の蹄の音、乙女の驚き、混乱しながらも楽しげな様子、若者たちの拗ねた興奮を見事に描いている。そして、練習番号12から13にかけて、トロンボーン、テューバ、トランペットが、あまりに乱暴な中国音階をむき出しで奏する。ここでガックリくる聴き手もいることでしょう。が、発想を逆にすると、この幻想的な世界の中での、現実離れした悪夢のような不気味さを表現しているということは、明らかだろう。高音域で狂ったようにそれへ答える木管を聴いて頂きたい。

 まるで水面に石を投げ入れて、情景が波紋で醜く歪むようではないか!

 そのような、一時の興奮があるが、全体として非常にたおやかな、明るい調子の、陽光の中の出来事のようにも思える。しかし、ここは、いや、ここも、夢、いや、幻覚の中なのである。7番4楽章からの引用も……それを示唆する……かも。

第5楽章 春に酔える者

 ここで春という具体的な季節感が登場するのは示唆に富む。というのも、2楽章の秋に対応するものということもさることながら、3楽章、4楽章は、春のような情景であって、春ではない、どこか桃源郷のような時間軸だからだ。

 またこれは1楽章に対応する酒のみ歌だということも面白い。音楽も、音形法的に、1楽章と類似している。

 しかし、ここには死の匂いは感じられない。

 が、酔いに酔って、へべれけになって、この世ともあの世とも定かならぬ世界に遊んでいる雰囲気は充分に出ている。前の2つの楽章に比べて、旋律が急に不確定なものになっているのが、それをよく演出していると思う。まるで2楽章のような、勢いはあるが、不思議な、つかみ所の無い、幻想的な旋律になっている。
 
 つまり、春と云うことになってはいるのだが、具体的な春ではなく、あくまで、春のような世界に遊んでいるということになるのではないだろうか。春の日とはなっているが、時間軸がめちゃくちゃで、酔いつぶれて寝こけ、明月と鶯が鋭く対比する。この2つは、普通は同時間軸には登場しない。ナイチンゲール(小夜鳴き鳥)ならまだしも。

 主人公はついに自ら歌いだし、そして酔いつぶれて歌えなくなったら、また眠り込む。いつまでも眠りの中に遊ぶ。

 疑似第2部の最後を飾るこの第5楽章は、幻想的で夢見心地な雰囲気を演出している最後のシメとして、高らかに夢に酔う様を宣言して、意外と呆気なく終わる。音楽的内容は、3楽章ほども無い。しかも時間的にも、長そうに見えて、3楽章と大して変わらない。4楽章の女声をはさんで、うまく対比し、上手にシンメトリーになっているところは、さすがマーラー大先生の熟達した書法を見ることができる。やはりここでは、メインは4楽章だと思われる。

 第2部と仮定した3つの歌は、すべて幻想、想い出、郷愁、夢、などをキーワードとしてとらえることができるのではないか。

第6楽章 告別

 告別と題された疑似第3部は、そもそも2人の詩人の詩をマーラーが連結しているので、明確に2つに分けることできる。前半詩が長く、後半詩の倍近くもあるだろうか。しかも、その2つの間には、長大な間奏部があって、2つというより3つに分けて考えるのが自然だと思う。

 音楽語法的には、暗いというより、しつこい。執拗なオスティナートによって、回旋律を模した♪タリラリラ〜〜 が主にオーボエとフルート、クラリネット群によって繰り返される。

 それは世界観の固定に役立っている。疑似第3部・第1部では、主に以下の内容が切々と歌われる。

 夕暮れどき、「私」は友との最後の別れのため、美しい小川のせせらぎに立っている。この世、大地は美しく、生きる苦しみに疲れた人々は、再び甦るために、静かに夜の眠りへ入って行く。「私」は友を待っているが、友は現れない……。

 ここで、詩は1人称であるが、自分(筆者)はあえてカッコをつけてみた。というのも、私が語っているのだがその視点が高すぎ(悠久的すぎ)て、まるで3人称のように響くからである。従って、私はここは女声が歌うほうが、その3人称的(客観的とも云える)な情景がよく強調されると感じており、バリトンより遙かに効果的で真意をついていると感じている。自分がペシミスティックな雰囲気が好きな事もあるのだが、「これは男が主人公の歌だから、本来はバリトンが歌うほうが合っている」 などという暴論を支持するわけには断じてゆかない。

 音楽書法的にも実に入念に造られてい、まさに6楽章こそ大地の白眉中の白眉である事は疑いようが無い。ここでは、全体にそうなのだが歌唱部もオーケストラの一声部のように扱われているのは明白で、その意味では柴田南雄の 「独唱部をオーケストラの一声部のように扱うのは如何なものか」 という意見には賛同しかねる。大地は本来、そういう音楽だからこそ、交響曲として成り立つのではないだろうか。歌付である以上、オーケストラが伴奏である事は本質なのだろうが、時に伴奏を超えた表現があることも否めない。そういう部分は、素直にそのように演奏すれば良いのではないか。歌唱がオケに埋没しようとも!! 

 (告別の練習番号9に至っては、歌がフルートソロを遮蔽してはならないという指示がある!!)

 長大であるが室内楽的手法ここに極まれりであり、編成の割にはスコアは薄い。しかしこれは究極に絞り上げられた、究極の音楽表現のひとつではないだろうか。テンポも存外つかみづらく、4拍子に3拍が普通に入ってきたり、逆に3拍子に2拍や4拍が突如として割り込んでくる。それは、テンポ感を曖昧にし、西洋的な時間的経過を破壊して、東洋的な無拍の概念、すなわち、マーラーがこの曲で追求するところの、大地の悠久さ、時の偉大さ、転じて人間の小ささを演出していると思うのだが、如何だろうか。それは、もちろん、6楽章に選ばれた詩の内容と一致している。

 「私」はただひたすら待つ事により、娑婆をも、最後の別れを惜しんでいる。ただし、この娑婆は本当に現世ではなく、これまでの自分、とでもいうべきものだろう。

 この疑似第1部のラストに、まるで9番4楽章のような、バスドラのトレモロがあるのはお気づきだろうか。練習番号33から始まり、いったん休んで34の4小節前から再び始まるのだが、ここが面白い。歌詞でいうと、O Schonheit! O ewigen Liebens−  の部分。(SchonheitのoはUmlaut)

 というのも、ここは中間部最大の昂揚として、ほぼ全楽器がクレッシェンドして特に管がピアノからフォルテ、あるいはフォルテシモまで盛り上がるのだが、肝心の大太鼓は、クレッシェンド表記のみで、ピアノからどこまで大きくなれば良いのか指示がない。全体には「急がないで」と2回も入念に指示がある。

 明らかな未推敲の部分なのではないか。

 ここで、ほとんどの演奏は、ピアノから、ピアノのまま、もしくはメゾピアノとピアノの間くらい、あるいは始まりをピアニシモにして、ピアノまで、というように叩かせていると思う。たぶん、9番のように即物的(西洋的)なってしまうのを恐れているのでしょう。確かに、粒のハッキリしない、地鳴りのような大太鼓のトレモロという奏法は、先っちょにフェルトのついたマレットの関係もあるのだが、西洋楽器にしか無い。ここをドドド……! と叩かせると、本当に9番4楽章の、あの盛り上がる部分みたいになる。頂点にシンバルでも鳴れば尚更だろう。

 つまり、大部分の指揮者は、大地の歌の叙情性を重視している。

 ところが! 重視してない演奏が!(笑) クレンペラー大先生!!

 さて、やや長い、第1部が終わると、間奏に入る。

 この間奏部の役割は明白で、次の詩への繋ぎである。そもそも内容が続いていると云っても元は別人の詩をつなぐのだから、そこには時間の経過が無くてはならない。ただし留意しなくてはならないのは、時間の経過は、明確ではない。何分、とか、何時間、とかではなく、そこでは「私」が瞑想しているかのような、模糊とした時間が過ぎなくてはならない。その意味では、目を開けた瞬間には、時間が過ぎていたかのような時の過ぎ方が望ましいだろう。

 16連符が続く例の♪タリラリラ〜〜動機が現れ、それを受け取ったソロがホルン等に現れるのだが、一貫してドラが冥府の鐘のように鳴り渡り、ハープも低弦もそれを模すため、なんとも陰鬱な雰囲気が支配する。しかしそれは死のイメージではなく、深い深い瞑想のためであって、冥府の響きではない。この時間の経過の目的を考えれば、それは分かる。

 「私」はなぜ瞑想しているのか。

 友を待っている。

 友は死に神のような死の象徴なのだろうか? 否。そのようなことは前詩のどこからも読み取れない。

 従って、この間奏部は死をイメージしては断じていない。

 瞑想は曲想によって非常に強く集中し、やがて「私」は目を開ける。眼前には、馬上の「友」がいる。この盛り上がりの集中力の見事さといったら無い!! 音楽が、かくも人間の精神を凝縮させ得るのかという、凄まじいまでの見本だと思う。詩は以下のように続く。

 友である彼は馬より下り「男」に杯を出す。そして「どこへ行くのか、なぜに行くのか」と訪ねる。「男」は聴こえづらい声で答える。「この世に私の幸福は無かった。私は山へ行く」と。「私」が行くところはしかし、遠くではない。そこは故郷であり、そこで「私」はついに安らぎを得るだろう。愛すべき大地、現世には再び春がきて、永遠に緑が青く輝く。永遠に。永遠に……。

 視点が、いったん「私」から「男」に転じているのかお分かりだろうか。そしてまた「私」に変わっている。これも、1人称ながら非常に3人称に近く視点をぼやけさせることで、曖昧な時間経過を印象づけているうえに、ここにきて「私」は去り行く友を待っていたのではなく、実は「私」が去ろうとしているのに気づく。

 ここのオーケストレーションもまさに芸術家としての奇跡でありつつ、国宝級的職人芸で、必要最低限の音しか書かれていない。それでいてヴォリュームはたっぷりとある。まさに神業。

 前半と間奏が、やもすれば淡々と進むに対し、ここの部分は調も明るくなり、「私」が心の平安を得た事が如実に分かる仕上げになっている。音楽は、しかし、西洋的にハッピーエンドに向かって盛り上がる事は無く、いや、盛り上がるのであるが、次いで音がどんどんと無くなって行き、ついに、かの高名な 「永遠に」 のフレーズとなって、死に行くように消える。

 しかしそれは果して本当に決意の旅立ちを表しているのだろうか。

 それは死なのだろうか。「私」は不治の病を経て、精神的に苦悶した後、すべてを受け入れ、死に行くのを待っている……。そんな心境を表しているのだろうか。

 友と最後の別れを得た「私」は、明らかに死をいったん見つめなおした後、生きる希望を得て、新たなる旅立ちに向かって進んでいると思える。その意味では友とは死の象徴なのかもしれないが、むしろ、これまでの自分やその生活、のほうが現実的だろう。

 そう、何人かの識者や、それへ同調する優れたマーラー聴きが指摘するように、大地の歌の本質は、いったん死を見つめたあとの、生きる事への希望、そして憧れ、なのでしょう。「私」はこれまでの自分と完全に別れを告げ、新しい自分へ、美しくマーラー流に鼓舞を送り、新しい世界へと旅立つ。それはアメリカなのか。それとも健康に気遣い、妻と第2の人生を送るべく改心した自分、なのか。その意味では、大地は完全にマーラーの本当の意味での私小説的な、音楽といえるのだろう。

 それが、6楽章において、大地の歌という交響曲の半分を費やしてマーラーが伝えたかった事の、真相のように思えるのである。

 このように大地の歌の各部構成のキーワードを並べると 死−幻想−生きる となる。

 疑似第1部において死を見つめた「私」は第2部において幻覚の中に悩み、遊び、ついには夢想と瞑想を経て、生への憧れと決意に到る……。

 その過程キーワードに基づいて、どのような演奏が大地として面白く聴けるか、検証してみよう。


第3部

 この楽しい交響曲の世界というページは基本的に交響曲そのものの紹介であり演奏には触れないので、演奏方法に触れることは珍しい。なぜならば、いろいろな交響曲があるが、無名の曲は音源が1種類しかないというのも多く、演奏の比較ができないからである。有名曲だけ演奏が云々とやって推薦盤などを挙げるというのは、私の本意ではなかった。しかし大地においては演奏解釈によって本当に出来不出来が変わってくる不思議な、いや難しい音楽なので、そういうのも大事かな、と思った。

 録音自体も他のマーラーのナンバーに比べてそう多くはないが、実演ともなると尚更である。まして指揮の他に歌手まで関係してくるから、検証といっても本当に多岐にわたってしまう。声楽はあんまりよく分からないので、歌い方については、発音がどうのとか、発声がどうのとかは、とりあえず割愛させて頂く。ニュアンス的に、このような歌い方がいいな、程度は触れるかもしれない。

 まず大地の歌という音楽の全体としての表現方法のちがいだが、私が40種類近く聴いた限りでは、感情移入派、音響重視派、純交響曲的表現派、歌曲派、ただのヘタ、勘違い、などに分かれる。

 その判断の仕方も個人的な差配によるのではあるが、これは仕方ない。

 感情移入派というのは強いて云えばワルターとかテンシュテット、バーンスタインがあたるのだろうが、これは効果は大きいが危険な手法。彼ら巨匠クラスが完璧にスコアを読みつくしてこその感情移入であって、並の指揮者が表面だけなぞっても、大地はまるで鳴らないばかりか、ただのおセンチ音楽に成り果ててしまう。そもそもこの難解なスコアを表面だけなぞろうなどというのが間ちがっている。鳴るわけが無い。もちろんオーケストラや歌手の技量も大いに加味される。
 
 音響重視派はカラヤン、そしてベルティーニも入るかもしれない。叙情性をたっぷりと活かして、耽美的に演奏するのも然る事ながら、全体のマーラー的音響を完全に鳴らしきる、凄腕の演奏であるが、軽めの印象は否めない。

 純交響曲表現派は、なんといってもクレンペラーにトドメを刺すが、ケーゲルやジュリーニとかもそうだろうと思う。つまりあくまで客観的に鳴らしきり、余計な感情をまるで廃した、冷たい演奏。それが逆にマーラーの意図するところを暴くのであるが、通好みでもある。鳴らしきる時点で音響派にも片足をつっこむのだが、それは感情移入派も同じ。

 それ意外は大地の演奏手段としては、私は苦手。お薦めできない。歌曲のように歌をがなりたてたりマイクで大きくしたりは論外。ヘタはどうしようもない(笑) 日本のオケがそうなので笑うに笑えないのだが……。アンサンブル、ニュアンス、そもそものテクニック、これらは基礎の問題なので。5番や6番などより遙かに難しい曲だろう。マーラーの推敲が無い分、鳴らそうにもならない部分は指揮者が補わなくてはならない。

 勘違いというのも難しいところで、まあまあ上手なのだろうがすべてにおいてああかん違いというか(笑) 本質を外しているというか。大抵は死をイメージして、クラーい面白くない曲になっている。ような気がする。

 さて、楽章毎にも難しい部分があって、私のページの分け方で云うところの、第1部−死 第2部−幻想 第3部−生きる というカテゴリーになっている演奏というのも、なかなか聞き分けがしづらいところだ。

 それを理想として、このような演奏がいいな、という程度になってしまうのだが、やはり、1楽章・2楽章は、根源として死があるように。1楽章はやはり演奏効果の激しさはあくまで演出であるという事を意識して、虚無的に。2楽章の耽美的な音楽も実は異世界からの呼びかけという意味があるとすると、やはり淡々と侘しげに演奏されていると死というイメージがよく喚起できる。

 3・4・5楽章はあくまで夢幻的に、しかしそれは軽いとか夢遊という意味ではなく、奏法によってはリアルになりつつも、どこかこの世のものではない表現が欲しい。

 そして告別には、何といっても、美の中の希望が無くてはならない。


 マーラーはここで、美しく、厭世的で絶望的で感傷的な音楽の中に、生きる希望を見出すことの大事さをひそませた。中国旋律も、それを彩る演出であり、異世界・異次元の象徴であって、けして異国情緒満点の効果をねらった物ではない。それはクレンペラーが示してくれている。この曲における、情緒的に演奏する魅力と、超越的に演奏する魅力は、甲乙つけがたい。

 この大地の歌は、マーラーが諸々の事件や状況から抜け出すために自ら書いた応援ソング……とまではさすがの私も直接的すぎると思うのだが、意味はそうである。最低でも、最後の3節において、マーラーが見出しているのは、けして彼岸やあの世ではなく、死にゆくような中での、生への希望なのではないだろうか。その希望が未来への希望として結実するのが10番の終楽章なのかもしれないが。

 主人公である「私」が明るい調子の中で静かに満ち足りた気分で旅立ってゆく「故郷」……。果してそれは本当に「あの世」なのだろうか? ただ単に間奏部分が葬送行進曲のようだから、そうなのだとは、マーラーを聴く態度としては単純すぎないだろうか? これまで艱難辛苦に耐えてきて、絶望に打ちのめされ、想い出に浸り、死ぬ時にのみ、安堵の表情で、美しく安らかに往生する……これまで、天国とやらを散々に虚仮にし、皮肉の中に皮肉をひそませてきたマーラーが、晩境に達し、本当にそんな心境に至ったとでも? それはフランダースの犬の見すぎではないか。

 私はそうは思わない。

 マーラーは、静かなる精神ではあるが、彼岸的な美と精神の中に、生きるということ、生きることへの希望そのものを強くひそませたと、聴くことができると思う。

 なぜなら、この音楽は、この世、現世の、そう、大地の歌、なのだから。

 実演で聴いた回数 1回

 これをライヴで上手にやるのは相当の実力がいるでしょう。指揮も、歌手も、オケも!




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